備中松山城の戦い(1575)
天正三年、毛利氏は宇喜多直家と同盟し、三村元親の備中松山城を攻めた。元親は織田信長に通じるも、支城は次々陥落。兵糧攻めと内応で松山城は開城し、元親は自刃。常山城では鶴姫が奮戦し、三村氏は滅亡した。
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天正三年 備中松山城の戦い - 義と謀略の狭間で消えた名門・三村氏の軌跡
序章:戦乱前夜の中国地方
天正三年(1575年)に備中国(現在の岡山県西部)で繰り広げられた「備中松山城の戦い」は、戦国大名・三村氏の滅亡を決定づけた局地的な合戦として知られる。しかし、その歴史的意義は単に一地方勢力の終焉に留まるものではない。この戦いは、西国の雄・毛利氏が、東方から迫り来る織田信長の脅威に対抗すべく、その支配体制を再編・強化しようとする過程で引き起こされた、必然的な悲劇であった。それは、巨大勢力の戦略的合理性が、長年の功績を誇る同盟者の「義」や「情」を切り捨てた時、いかなる結末を迎えるかを示す、戦国時代の縮図とも言える事件なのである。
1570年代初頭、中国地方の情勢は大きな転換期を迎えていた。一代で中国十カ国を支配下に収めた毛利元就が世を去り、その広大な遺領は孫の毛利輝元が継承した。若き当主を、元就の子である吉川元春と小早川隆景、すなわち「毛利両川」が補佐する集団指導体制が敷かれていたが、その前途は決して平坦ではなかった 1 。東方では、将軍・足利義昭を擁して京に覇を唱えた織田信長が「天下布武」の印を掲げ、破竹の勢いでその勢力圏を西へと拡大していた 2 。信長の存在は、毛利氏にとってこれまで経験したことのない、体制そのものを揺るがしかねない巨大な脅威として認識され始めていた。
この毛利と織田という二大勢力の狭間にあって、不気味な存在感を放っていたのが、備前・美作を拠点とする宇喜多直家であった。主家であった浦上氏を凌駕し、謀略を駆使して独立勢力となった直家は、毛利と織田の間を巧みに渡り歩き、自家の勢力拡大を虎視眈々と狙っていた 4 。
そして、この物語の主役となるのが、備中松山城を本拠とする三村氏である。三村氏は古くから備中の国人領主であったが、毛利氏の麾下に入ることで勢力を伸張させ、輝元の祖父・元就の代から忠実な同盟者として各地を転戦し、その地位を確立していた 5 。しかし、その地理的条件はあまりにも脆弱であった。西に宗主である毛利氏、東に宿敵である宇喜多氏という二つの大勢力に挟まれ、常に緊張を強いられる地政学的な危うさを内包していたのである 6 。
備中国は、毛利の勢力圏の東端であり、宇喜多、ひいては織田の勢力と直接対峙する最前線であった。この地をいかに安定させ、東方からの脅威に対する防波堤とするか。それは毛利輝元政権にとって最優先で解決すべき戦略的課題であった。この課題を解決する過程で、毛利首脳部が下した一つの決断が、長年忠誠を尽くしてきた三村氏の運命を大きく狂わせ、備中の地を血で染める「備中兵乱」の引き金を引くことになるのである。この戦いの本質は、巨大勢力が外部の脅威に対抗するため、内部の同盟関係を整理・再編しようとした際に生じた構造的な歪みにこそ求められる。東方国境線の安定化という大局的な戦略目標は、結果として最も信頼すべき同盟者を敵に回し、大規模な内乱を誘発するという皮肉な結末を迎えることになった。
第一章:亀裂 - 毛利・三村同盟の崩壊
毛利氏と三村氏の間に横たわる強固な同盟関係が崩壊に至るまでには、約10年にわたる複雑な経緯と、決して消えることのない深い遺恨が存在した。その全ての始まりは、一発の凶弾であった。
発端:拭い去れぬ遺恨(永禄9年 / 1566年)
永禄9年(1566年)2月、三村元親の父であり、三村家の当主であった三村家親は、美作国興禅寺に滞在中、備前沼城主・宇喜多直家の放った刺客によって鉄砲で狙撃され、非業の死を遂げた 5 。当時としてはまだ珍しい鉄砲による暗殺という卑劣な手段は、家督を継いだ若き元親の心に、宇喜多直家に対する生涯消えることのない復讐心を深く刻み込んだ。
弔い合戦の惨敗:明善寺合戦(永禄10年 / 1567年)
翌永禄10年(1567年)夏、父の弔い合戦に燃える三村元親は、2万と号する大軍を率いて備前へと侵攻した。これに対し、宇喜多直家はわずか5千の兵でこれを迎え撃つ。世に言う「明善寺合戦」である。兵力では圧倒的に優位に立つ三村軍であったが、直家の巧みな誘引戦術と地の利を活かした奇襲の前に大混乱に陥り、総崩れとなって惨敗を喫した 4 。この手痛い敗北は、三村氏の威信を大きく揺るがし、備中国内の国人領主たちの間に動揺を広げる結果となった。旧備中松山城主であった庄高資らはこの機に乗じて宇喜多方へと寝返り、元親は一時的に本拠地である松山城を失うという屈辱を味わうことになった 2 。
毛利の介入と一時的な安定(永禄11年~元亀2年 / 1568年~1571年)
三村氏の危機、そして宇喜多氏の備中への勢力拡大を座視できない毛利氏は、当主元就の四男・毛利元清(穂井田元清)を将とする援軍を派遣した。毛利軍は宇喜多勢が占拠していた猿掛城を奪還し、さらに備中松山城を攻撃して庄氏を追放する 9 。元亀2年(1571年)、元親は毛利氏の強力な支援のもと、ついに本拠地・備中松山城を奪還し、備中中・北部の支配権を回復した 7 。この時点において、毛利氏と三村氏の関係は、後援者と被後援者として極めて良好であり、両者の同盟は再び強固なものとなった。元親はこの機を捉え、臥牛山一帯に「砦二十一丸」と呼ばれる防御施設群を構築し、備中松山城を未曾有の一大要塞へと大改修したのである 2 。
運命の転換点:毛利・宇喜多同盟の成立(天正2年 / 1574年)
しかし、この安定は長くは続かなかった。天正2年(1574年)、毛利輝元は、叔父である小早川隆景の主導のもと、驚くべき外交的決断を下す。長年にわたり敵対し、三村氏にとっては不倶戴天の仇である宇喜多直家と和睦し、事実上の同盟関係を締結したのである 2 。この決定は、毛利家内部ですら激しい反発を招いた。特に、武勇と義を重んじる吉川元春は、「宇喜多のような表裏比興の者を信用することはできない」「代々忠功に励んできた三村家を蔑ろにするのは、武家の義に反する行いである」と強く反対したと伝えられている 9 。この内部対立は、毛利家が「対織田」という大局的な戦略的合理性(隆景)と、旧来の同盟者との関係を重んじる伝統的な「義」(元春)との間で、深刻なジレンマを抱えていたことを示している。
元親の決別と織田信長への内通
主家が父の仇と手を結んだ―この事実は、三村元親にとって到底受け入れられるものではなかった。長年の忠誠が踏みにじられ、復讐の道が断たれただけでなく、今後は宇喜多氏と「同僚」として毛利家中で並び立たねばならない。この屈辱と、いずれ宇喜多の謀略によって自領が脅かされるであろうという危機感が、元親を毛利からの離反へと駆り立てた 2 。
元親の叔父であり、一族の重鎮であった三村親成は、毛利との同盟関係を維持するよう必死に諌めたが、元親の決意は固かった。説得が不可能と悟った親成は、三村家の将来を憂い、一族を見限って毛利方へと出奔する 3 。この親成の出奔が、元親離反の動かぬ証拠として毛利方に伝わり、討伐軍派遣の直接的な引き金となった。
毛利・宇喜多という二大勢力に挟撃される形となった元親に残された道は、一つしかなかった。当時、畿内から西へ向かって怒涛の勢いで進撃し、毛利氏と対立していた織田信長と結ぶことである。元親は信長に密かに使者を送り、毛利への反旗を翻す意思を伝えた 2 。この選択は、単なる感情的な反発から出たものではなく、滅亡の危機に瀕した中小領主が、生き残りをかけて行った絶望的な、しかし唯一残された合理的な外交的賭けであった。これにより、備中の一地方内乱は、毛利対織田の代理戦争という、より大きな構図の中に組み込まれることになったのである。
表1:備中兵乱に至る主要関連年表(1566年~1574年)
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西暦 |
和暦 |
主要な出来事 |
各勢力の動向 |
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1566年 |
永禄9年 |
三村家親、宇喜多直家の刺客により暗殺される 7 。 |
三村: 元親が家督継承。対宇喜多の遺恨が生まれる。 宇喜多: 備前における影響力を拡大。 |
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1567年 |
永禄10年 |
明善寺合戦: 元親、父の弔い合戦を挑むも宇喜多軍に大敗 8 。庄高資が宇喜多の支援で松山城を一時奪回 7 。 |
三村: 勢力が大きく後退し、備中が動揺。 宇喜多: 備中への介入を本格化。 |
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1568年 |
永禄11年 |
毛利元就、宇喜多の備中侵攻に対抗し、毛利元清を派遣。猿掛城などを奪還 9 。 |
毛利: 三村氏の後援者として備中に直接介入。 宇喜多: 毛利の介入により一時後退。 |
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1571年 |
元亀2年 |
元親、毛利氏の加勢を得て備中松山城を奪回。庄高資を討ち、備中での支配権を回復 7 。 |
三村: 毛利との同盟下で勢力を回復。松山城を要塞化。 毛利: 備中における三村氏を通じた間接支配を確立。 |
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1574年 |
天正2年 |
毛利・宇喜多同盟成立: 小早川隆景の主導で両者が和睦 9 。 |
三村: 主家と仇敵の同盟に激怒し、毛利から離反を決意。織田信長と内通 7 。 |
毛利: 対織田戦線を考慮し宇喜多と結ぶが、三村の離反を招く。 |
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1574年 |
天正2年11月 |
三村親成、元親を諌めるも聞き入れられず、毛利方へ出奔 3 。 |
三村: 一族内部の分裂が顕在化。 毛利: 元親討伐を決意。 |
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1574年 |
天正2年12月 |
毛利軍、備中へ侵攻開始。「備中兵乱」が勃発する。 |
毛利: 小早川隆景を総大将に大軍を派遣。 三村: 備中松山城とその支城網で迎え撃つ。 |
第二章:備中兵乱の勃発 - 毛利軍の侵攻と支城の陥落
三村元親離反の報は、毛利輝元政権を揺るがした。長年の功臣を討つことへの躊躇はあったものの、織田信長と通じたという事実は、毛利の東方防衛線に致命的な亀裂を生じさせることを意味した。決断は下された。天正2年(1574年)末、毛利氏はその総力を挙げて備中へと侵攻を開始する。世に言う「備中兵乱」の幕開けである。
毛利の決断と大軍の派遣
三村親成からの報告を受け、元親の翻意が絶望的であることを悟った毛利輝元は、三村氏討伐を最終的に決定した 3 。総大将には、知略と政治力に長けた叔父・小早川隆景が任命された。周防、長門、安芸、備後といった毛利領国の核心部から兵力が動員され、その数は8万と号された 10 。この数字は軍記物特有の誇張が含まれるとしても、三村氏の総兵力約8千 14 と比較すれば、その差は歴然としていた。これに呼応し、宇喜多直家も一部の兵を派遣したが、この戦いの主導権は終始毛利氏が握っており、実質的には毛利対三村の戦いであった 9 。
表2:備中兵乱における両軍の兵力と主要武将
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勢力 |
総大将 |
総兵力(推定) |
主要武将 |
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毛利・宇喜多連合軍 |
小早川隆景 |
30,000 - 80,000(諸説あり) |
吉川元春、宍戸元秀、三村親成、宇喜多氏の将 |
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三村軍 |
三村元親 |
約8,000 |
三村元範、三村実親、三村政親、上野隆徳 |
隆景の戦略:外堀から埋める電撃戦
総大将・小早川隆景は、元親が長年をかけて要塞化した備中松山城を正面から攻めることの困難さを熟知していた。そこで彼が採用したのは、まず松山城を支える周囲の支城群を一つずつ確実に制圧し、本城を完全に孤立無援の状態に追い込むという、極めて合理的かつ冷徹な「外堀を埋める」戦略であった 2 。この戦略は、圧倒的な兵力を背景に、三村方に与する備中の国人たちに対し、抵抗が無意味であることを知らしめる心理戦としての側面も色濃く持っていた。
【時系列解説①】 備中南部の制圧(天正2年12月)
毛利軍の侵攻は電光石火の如く進められた。
- 12月23日: 隆景は笠岡に本陣を置くと、まず宍戸元秀らを先鋒として猿掛城へ差し向けた。城を守る三村兵部は、山野を埋め尽くす毛利の大軍を目の当たりにして戦意を喪失。ほとんど抵抗することなく城を放棄し、本城である松山城へと逃げ込んだ。毛利軍は一矢も放たずに重要拠点を手に入れた 17 。
- 同日: 次に、毛利方に寝返った三村親成を道案内兼先手として、松山城の北方にある斎田城を攻撃。城主の三村左京もまた、2万を超える大軍に包囲されると戦わずして城を捨て、松山城へと退却した 17 。
- 12月29日~31日: 続いて宍戸勢は、松山城の南西に位置する国吉城を包囲。城主の三村左馬允は弓や鉄砲で応戦したものの、衆寡敵せず、やがて夜陰に乗じて城を脱出し敗走した 11 。
わずか1週間余りで、備中南西部の主要な支城が次々と陥落。備中松山城は南からの連絡線と防御網を完全に断たれ、毛利軍の圧力は日に日に増していった。
【時系列解説②】 備中北部の激戦(天正3年1月)
南備中を制圧した毛利軍は、矛先を北へと転じた。
- まず、元親の弟・三村元範が守る哲多郡の楪城が攻略された 3 。
- 1月23日: 毛利本隊は、元親のもう一人の弟・三村実親が城主・上田阿西の養子として守る鬼実城(鬼身城)を包囲した。上田阿西と実親は、毛利の大軍を相手に5日間にわたって激しく抵抗した。しかし、援軍の望みはなく、これ以上の籠城は無益な犠牲を増やすだけであると判断した上田阿西は、ついに降伏を決意する。その条件は、養子である実親一人の自害と引き換えに、城兵全員の命を助けるというものであった。
- 1月29日: 実親はこの条件を受け入れ、城兵の命を救うために自刃して果てた。鬼実城は開城した 3 。この悲劇は、三村一族の結束の固さを示すと同時に、毛利方の情け容赦ない攻勢を象徴する出来事となった。
【時系列解説③】 最後の砦・鶴首城の陥落
ほぼ全ての支城が陥落する中、最後まで抵抗を続けたのが、元親の叔父であり、歴戦の勇将として知られた三村政親が守る鶴首城であった。政親はわずか300余の兵で、山野を埋め尽くす宍戸勢を相手に奮戦した。しかし、圧倒的な兵力差の前には為す術もなく、激戦の末に鶴首城も陥落。政親は城を脱出した 17 。
包囲網の完成
年が明けてわずか1ヶ月ほどの間に、備中松山城を取り巻く衛星のごとき支城群は、ことごとく毛利軍の手に落ちた。これにより、三村元親が籠る備中松山城と、その妹婿・上野隆徳が守る南方の常山城のみが、広大な敵勢力の中に浮かぶ孤島のように取り残されることになった 3 。小早川隆景の描いた、物理的な包囲網と心理的な圧迫を同時に進める戦略は、完璧に成功したのである。松山城の城兵たちは、外部からの救援が完全に絶望的であることを、物理的にも精神的にも思い知らされることになった。
第三章:臥牛山の攻防 - 備中松山城 籠城戦のリアルタイム詳解
全ての支城を失い、完全に孤立無援となった三村元親に残された最後の希望は、自らが長年をかけて築き上げた難攻不落の要塞、備中松山城のみであった。天正3年(1575年)3月、毛利軍の主力はついに松山城下に進出し、日本三大山城の一つに数えられるこの堅城を舞台に、備中兵乱の雌雄を決する攻防戦の火蓋が切られた。
天然の要害・備中松山城
備中松山城は、標高430メートルの臥牛山全体を城郭とした、日本でも屈指の規模を誇る山城である。大松山、小松山、天神の丸、太鼓丸といった複数の峰や尾根に築かれた曲輪群が、複雑な地形を巧みに利用して連動し、一大防御ネットワークを形成していた 3 。敵が攻め寄せれば、高所からの攻撃と、入り組んだ縄張りによる迎撃が可能であり、力攻めでの攻略は至難の業とされた。元親はこの天然の要害に、さらなる改修を加えており、その守りには絶対の自信を持っていた。
【時系列解説④】 攻防開始と初期の抵抗(天正3年3月~4月)
3月半ば、小早川隆景率いる毛利本隊が松山城の包囲を完了させ、本格的な攻撃を開始した 3 。籠城戦の初期段階において、三村軍の士気は依然として高かった。城内の兵糧や塩は翌年の春までは持つと豪語する者もおり、絶望的な状況下でも義を尽くさんとする気概に満ちていた 18 。元親は自ら陣頭指揮を執り、城兵を巧みに動かして毛利軍の攻撃を何度も撃退。時には城から打って出て迎撃部隊を繰り出すなど、積極的な防戦を展開した 2 。
【時系列解説⑤】 隆景の戦術転換:兵糧攻めと心理戦
数度にわたる攻撃を跳ね返され、力攻めの困難さを改めて認識した小早川隆景は、戦術を大きく転換する。城の周囲に攻城用の仮城(向城)を複数築いて包囲網を固め、力攻めを完全に停止。補給路を完全に遮断し、城内の兵糧が尽きるのを待つ長期の兵糧攻めに移行したのである 2 。これは単なる持久戦ではなかった。隆景の真の狙いは、物理的な飢餓と同時に、城兵たちの精神を徐々に蝕んでいくことにあった。
時間が経過するにつれて、隆景の狙いは着実に効果を現し始めた。織田信長からの援軍が来るという希望は、日を追うごとに薄れていった。城内に備蓄された兵糧は、終わりが見えない籠城生活の中で確実に消費されていく。外部との連絡が完全に途絶した閉鎖空間の中で、兵士たちの間には絶望感と焦燥感が蔓延し、士気は著しく低下していった。やがて、未来を悲観した兵士たちが、夜陰に乗じて城を脱走する事態が相次ぐようになった 3 。
【時系列解説⑥】 内部からの崩壊:内応と天神の丸の陥落(天正3年5月)
城兵の心が揺らぎ始めたこの機を、隆景は見逃さなかった。彼は水面下で城内の将兵に対する調略を活発化させ、「降伏すれば命は助け、相応の待遇を約束する」という甘言を囁き続けた。肉体的にも精神的にも限界に達していた城兵たちにとって、この誘いは抗いがたい魅力を持っていた。
そして包囲開始から約1ヶ月が経過した5月、ついに城内で裏切り者が出始める。隆景の調略が実を結び、城の重要拠点の一つである「天神の丸」を守る部隊が毛利方に内応。天神の丸は、内部から門を開けられ、一挙に陥落した 2 。この事件は、松山城の防御システムに致命的な穴を開けただけでなく、籠城する三村軍の将兵たちに決定的な心理的打撃を与えた。味方の中に裏切り者がいるという事実は、城内に深刻な疑心暗鬼を生み、兵士たちの結束を内部から崩壊させた。天神の丸の陥落を皮切りに、内応者は続出し、もはや組織的な抵抗は不可能な状態に陥った 9 。
【時系列解説⑦】 最後の抵抗と開城(天正3年6月1日~2日)
城の各所で味方の裏切りが相次ぎ、毛利軍が城内深くまで侵入するに及んで、三村元親はついに万策尽きたことを悟った。これ以上の抵抗は、いたずらに城兵の命を失わせるだけである。元親は、自らの首と引き換えに、最後まで忠義を尽くしてくれた城兵たちの助命を嘆願することを決意。小早川隆景に使者を送り、降伏の意を伝えた 9 。
天正3年6月2日、備中松山城の城門は開かれた。三村元親は、毛利の兵に囲まれながら、静かに城を後にした。自刃の地として定められた、麓の松連寺へと向かうために。難攻不落を誇った名城は、武力によってではなく、人間の心の弱さという見えざる門を破られることによって、ついに陥落したのである。
第四章:落日の賦 - 三村元親の最期と常山城の悲劇
備中松山城の開城は、戦国大名・三村氏の事実上の終焉を意味した。しかし、物語はまだ終わらない。当主・三村元親の壮絶な最期と、その一族を襲ったさらなる悲劇は、「備中兵乱」という戦乱がもたらした無情さを、後世に強く印象付けることになった。
松連寺での自刃
天正3年(1575年)6月2日、城を明け渡した三村元親は、毛利の兵に護送され、自刃の地と定められた松連寺(当時の所在地は現在の高梁市奥万田町)に入った。伝承によれば、元親は「城中で果てるべきであった」と、最後まで戦い抜かなかったことを悔やみながら、静かに死の座についたという 7 。そして、介錯を前にして、毛利の検使役に対し、こう言い残したと伝えられる。「我、決して毛利殿を裏切りたるにあらず。今般の戦、ひとえに父の仇・宇喜多を恨んでのことなり」と 14 。この最後の言葉は、彼の行動原理が、政治的打算や野心ではなく、あくまで父の仇を討つという、武士としての「義」と個人的な「遺恨」にあったことを物語っている。
教養人・元親の辞世の句
三村元親は、勇猛な武将であると同時に、和歌を嗜み、当代随一の文化人であった細川幽斎(藤孝)とも親交があったとされる、優れた教養人でもあった 20 。彼の最期は、その人物像を象徴するように、いくつかの優れた辞世の句によって彩られている。
ひとたびは 都の月と思ひしに われ先づ夏の 雲にかくるる 21
(意訳:一度は京の月を見るほどの栄華を夢見たが、それも叶わぬまま、私は誰よりも先に夏の雲に隠れるように消えていくのだ)
人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に 14
(意訳:人間という仮の名を借りてこの世に現れた私は、結局のところ儚い末葉の露のようなもの。やがて消えて、本来の姿である一滴の雫に還るだけなのだ)
これらの句には、天下への夢破れた無念と、同時に全てを達観したかのような深い無常観が漂う。武人としての激情を、教養人としての洗練された死生観で昇華させようとした元親の、複雑な内面が窺える。
一族の終焉:常山城の悲劇(天正3年6月7日)
元親の自刃によっても、毛利の追討が終わることはなかった。毛利軍は、備中に残る三村氏最後の拠点、常山城へと殺到した 3 。城主は元親の妹婿である上野隆徳、そしてその妻は元親の妹・鶴姫であった 11 。松山城が陥落し、援軍の望みが完全に絶たれた常山城に、数千の毛利軍が押し寄せる。落城はもはや時間の問題であった。
6月7日、城主・上野隆徳は一族を集め、最後の酒宴を開くと、自決を決意した。まず隆徳の継母が刀の柄を柱に固定し、その刃に自らの身を投じて殉じた。続いて嫡子・高秀が腹を切り、16歳の妹もまた、血に濡れた刀で自らの胸を突いて果てたという 24 。
「常山女軍」の奮戦
一族が次々と命を絶っていく凄惨な光景を目の当たりにした鶴姫は、静かに死を待つことを良しとしなかった。彼女は兄・元親の無念、そして親の仇である宇喜多と手を結んだ毛利への怒りを胸に、驚くべき行動に出る。武家の女としての誇りを懸けた、最後の戦いを挑んだのである。
鶴姫は、紅の薄衣の上に鎧をまとい、白柄の長刀を手に取ると、城内の侍女たちに檄を飛ばした。「この戦場こそが西方浄土。修羅の苦しみも極楽の営みと思えば、何一つ苦しいことはない」と 25 。その凛とした姿に心を打たれた34名の侍女たちも、次々と武器を手に取り、鶴姫の後に続いた。
城門が開かれると、鶴姫率いる「常山女軍」は、眼前の毛利軍へと突撃を敢行した 11 。予期せぬ女武者たちの一団に、毛利軍の先鋒は混乱に陥った。鶴姫は敵兵を次々となぎ倒し、敵将である乃美宗勝の姿を見つけると、一騎討ちを申し入れた。しかし、宗勝は「相手が女性とあっては、武士の誉れに関わる」としてこれを拒否 24 。鶴姫はなおも食い下がるが、多勢に無勢、奮戦の末に自らも傷を負い、やむなく城内へと引き返した。
城に戻った鶴姫は、夫・隆徳のもとへ赴くと、静かに太刀を口にくわえ、うつ伏せになって自らの命を絶った 24 。妻の壮絶な最期を見届けた隆徳もまた、後を追って切腹。常山城は、三村一族の血で染まり、陥落した。この鶴姫と侍女たちの悲壮な戦いは「常山女軍の戦い」として語り継がれ、今も城跡には、城主夫妻と34名の女軍の墓が静かに眠っている 24 。
終章:兵乱が残したもの - 戦後の備中と各勢力の行方
三村元親の自刃と常山城の陥落をもって、約半年にわたって備中の地を揺るがした「備中兵乱」は終結した。この戦いは、備中一円に勢力を誇った名門・三村氏を歴史の舞台から完全に消し去り、中国地方の勢力図を大きく塗り替える結果となった。しかし、この戦いがもたらした影響は、それだけに留まらなかった。
毛利氏による備中支配体制の確立
備中兵乱の勝利により、毛利氏は備中国のほぼ全域をその直接支配下に置くことに成功した。戦後処理において、備中の大半は毛利氏の領土となり、南部の児島半島周辺の一部が、同盟者である宇喜多氏に与えられた 9 。三村元親の叔父でありながら毛利方に与した三村親成は、所領を減らされながらも成羽鶴首城主としての地位を安堵された 9 。
乱の中心地となった備中松山城は、毛利輝元自身の直轄となり、対織田・対宇喜多戦略における最重要拠点と位置づけられた。輝元は自ら城の修築を命じるなど、その防備を一層強化し、東方への睨みを利かせるための前線基地として、その戦略的価値をさらに高めていった 13 。
皮肉なる運命:宇喜多直家の離反
毛利氏にとって、この勝利は大きな代償を伴うものであった。そして、その代償の大きさを思い知らされるのに、さほどの時間はかからなかった。天正7年(1579年)、三村氏を滅ぼすために毛利氏が手を結んだその相手、宇喜多直家が、今度は毛利氏を裏切り、織田信長に臣従したのである 2 。
これは、かつて吉川元春が「宇喜多は信用ならぬ」と警告した通りの展開であった 9 。毛利氏は、長年忠誠を尽くしてきた三村氏を犠牲にしてまで手に入れたはずの東方戦線の安定を、わずか4年で失った。それどころか、三村氏よりもはるかに狡猾で強力な宇喜多氏を、織田方についた最悪の敵として正面から受け止めねばならないという、皮肉極まりない状況に陥ったのである。これにより、毛利氏の東方進出の拠点であったはずの備中松山城は、かつての同盟者・宇喜多氏の侵攻に備えるための、最前線防御拠点へとその役割を変貌させた 2 。
織田信長の中国侵攻本格化への序章
備中兵乱は、毛利氏にとって短期的な勝利(備中平定)であったが、長期的には宇喜多の離反を招き、対織田戦線を決定的に悪化させた戦略的失敗であったと評価できる。この一連の出来事は、織田信長にとっても中国地方への本格的な介入の好機となった。
宇喜多氏が織田方についたことで、織田軍と毛利軍の最前線は、播磨から備前・備中へと一気に西進した。これを契機に、羽柴秀吉を総大将とする織田の中国方面軍は、その侵攻を本格化させる。そして天正10年(1582年)、歴史は再び備中の地を舞台とする。秀吉が毛利方の清水宗治が守る備中高松城を包囲し、世に名高い「水攻め」を行った「備中高松城の戦い」である 31 。備中松山城の戦いは、このより大きな、天下の趨勢を決する戦いの前哨戦であったと言えるだろう。
本能寺の変の後、秀吉と毛利氏が和睦を結んだ際、両者の領国の境界線は高梁川と定められた。備中松山城は高梁川の東岸に位置するため、本来であれば秀吉(織田)方の領土となるはずであった。しかし、毛利氏はこの城の戦略的重要性を決して手放そうとはせず、交渉の末、例外的に毛利領として残された 2 。この事実こそ、備中松山城という城が、そしてこの地で繰り広げられた「備中兵乱」という戦いが、毛利氏にとってどれほど重い意味を持っていたかを、何よりも雄弁に物語っている。義と謀略の狭間で消えた三村氏の血は、その後の歴史の大きなうねりの中に、深く静かに流れ込んでいったのである。
引用文献
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