最終更新日 2025-08-30

出石城の戦い(1569)

永禄十二年、木下藤吉郎は但馬へ侵攻し、山名祐豊の此隅山城を十三日で陥落させた。この戦いは山名氏衰退と織田氏台頭を象徴し、但馬を織田・毛利の代理戦争の舞台へと変えた。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

永禄十二年 但馬侵攻の真相 ―「此隅山城の戦い」をめぐる軍事・政治・外交の徹底分析

序章: 天下布武の奔流と山陰の動乱

永禄12年(1569年)、織田信長が「天下布武」の印を掲げ、足利義昭を奉じて上洛を果たした翌年、その覇業は新たな段階へと移行しつつあった。この年、信長の関心は畿内およびその周辺の平定に注がれていた。正月には三好三人衆らが京の足利義昭仮御所を襲撃した「本圀寺の変」に対応し、8月からは信長自ら大軍を率いて伊勢国へと侵攻、北畠氏の籠る大河内城を包囲するなど、その軍事行動は主として東と南に向けられていた 1

このような状況下で、西方の但馬国(現在の兵庫県北部)において、後に豊臣秀吉となる木下藤吉郎が主導する大規模な軍事作戦が展開された。これが本報告書で詳述する「但馬侵攻」、通称「出石城の戦い」である。信長本体が別方面で作戦行動中にもかかわらず、一介の部将に過ぎなかった藤吉郎が独立した方面軍ともいえる兵力を率いて遂行したこの戦役は、織田軍団がすでに複数の戦線を同時に展開しうる高度な組織力を有していたことを示唆しており、信長の方面軍構想の萌芽を看取することができる。

しかし、この戦役を単に「出石城の戦い」として捉えることは、歴史的実像を正確に反映しているとは言い難い。永禄12年当時、但馬守護・山名祐豊の居城は、出石の地に聳える此隅山城(このすみやまじょう)であった 2 。後年、祐豊が築く有子山城や、江戸時代にその麓に築かれる近世城郭としての出石城とは明確に区別されるべきである。したがって、本報告書では、この軍事侵攻の主戦場を「此隅山城の戦い」と再定義し、その背景、詳細な戦闘経過、そして戦後の政治的帰結に至るまでを、多角的な視点から徹底的に分析・解明することを目的とする。

かつて室町幕府において全国66ヶ国のうち11ヶ国の守護を兼ね、「六分一殿」と称された名門山名氏も、戦国乱世の荒波の中でその勢力を大きく減じ、但馬一国を辛うじて維持する地方勢力となっていた 4 。この旧勢力と、天下統一の奔流を生み出しつつあった織田信長の勢力との衝突は、単なる一地方の合戦に留まらず、戦国時代末期の日本の権力構造が大きく変動する過程を象徴する出来事であった。本報告書は、この歴史的転換点の実相に迫るものである。

第一部: 開戦への序曲 ― なぜ但馬は狙われたのか

永禄12年の但馬侵攻は、決して突発的に発生したものではない。その根底には、中国地方の覇権をめぐる毛利氏と、滅亡した尼子氏の再興を悲願とする勢力との根深い対立が存在した。そして、この山陰の動乱に、織田信長が自身の戦略的・経済的野心をもって介入した結果、但馬国は戦火に見舞われることとなったのである。

第1章: 尼子再興の夢と山名祐豊の決断

但馬侵攻の直接的な引き金の一つは、尼子氏再興を目指す山中幸盛(鹿介)らの軍事行動であった。永禄9年(1566年)に毛利元就によって居城・月山富田城を落とされ、大名としての尼子氏は滅亡したが、幸盛ら旧臣は主家の再興を諦めていなかった。彼らは、京に亡命していた尼子氏一族の尼子勝久を擁立し、再起の機会を窺っていたのである 7

その好機は、永禄12年(1569年)に訪れた。この年、西国の雄・毛利氏は九州の大友宗麟との戦いに主力を投入しており、その背後である山陰地方の守りは手薄となっていた 7 。これを千載一遇の機会と捉えた幸盛らは、同年6月、勝久を奉じて京を発ち、出雲奪還を目指して兵を挙げた。そして、この尼子再興軍が出雲への進入口として選んだのが、但馬国であった 9

ここで決定的に重要な役割を果たしたのが、但馬守護・山名祐豊である。祐豊は、この尼子再興軍に協力し、自領の通過を許可しただけでなく、重臣の垣屋光成らを通じて後援を行った 9 。尼子再興軍は、祐豊の支援と、奈佐日本之介ら丹州水軍の協力を得て、但馬から日本海を渡り、島根半島への上陸を果たすのである 10

祐豊のこの決断は、一見すると不可解にも映る。しかし、当時の山名氏が置かれた苦境を鑑みれば、それは失地回復と権威復興を賭けた、極めてハイリスクな選択であったことが理解できる。かつて山名氏は因幡・伯耆など山陰の広域に影響力を持っていたが、毛利氏の勢力拡大によってそれらの領国を次々と侵食されていた 10 。実質的な支配地が出石郡周辺にまで縮小していた祐豊にとって 4 、西から圧迫を続ける強大な毛利氏は最大の脅威であった。

そこに現れたのが、毛利氏の背後を突く尼子再興軍である。祐豊は、これに連携することで毛利氏を東西から挟撃し、かつての栄光を取り戻すという夢を描いたのであろう。しかし、この選択は、結果的に毛利氏のみならず、当時毛利氏と協調関係にあった織田信長という、さらに強大な勢力を敵に回すことを意味した。この政治的判断の誤りが、名門山名氏の命運を決定づけることになるのである。

第2章: 織田信長の深謀遠慮

山名祐豊の反毛利・尼子支援の動きは、即座に毛利元就の知るところとなった。九州方面に主力を割いていた元就は、この背後からの脅威に対し、自軍のみで迅速に対応することが困難と判断。そこで、当時同盟関係にあった織田信長に対し、山名氏を討伐するための援軍を要請した 1 。これが、織田軍による但馬侵攻の公式な名目となった。

しかし、信長の真の狙いは、単なる同盟者への義理立てに留まるものではなかった。むしろ、信長はこの毛利からの要請を、自身の戦略的目標を達成するための絶好の機会として捉えていた。その最大の目的は、但馬国が擁する日本有数の鉱物資源、すなわち 生野銀山 の支配権掌握にあった 12 。戦国時代において、銀は軍資金の調達、鉄砲や弾薬の購入、そして朝廷への献金などを通じて権威を確立するための極めて重要な戦略物資であった。信長は、この経済的価値を正確に見抜き、但馬侵攻の第一目標に据えたのである。

さらに、地政学的な観点からも但馬国は重要な位置を占めていた。但馬は、京へと繋がる山陰道の要衝であり、西の因幡、南の播磨、東の丹波・丹後と接する交通の結節点であった 16 。将来的に中国地方へ本格的に進出する際、この地を支配下に置くことは、兵站線の確保と敵対勢力への牽制という二重の意味で、計り知れない戦略的価値を持っていた。

信長の戦略は、まさに「一石二鳥」を狙うものであった。毛利氏の要請に応えるという大義名分を掲げ、最小限の軍事投資で出兵する。そして、その実、最大の目的である生野銀山という経済的利益を確保し、同時に将来の西国攻略に向けた戦略的布石を打つ。この侵攻は、信長が同盟関係を巧みに利用し、自らの覇業を着実に推進していく卓越した政治・戦略眼を示す典型的な事例といえる。毛利氏にしてみれば、目先の脅威であった尼子・山名氏を叩くことには成功したが、その代償として、自らの隣国に織田という新たな、そしてより強大な勢力の進出を許し、かつ重要な資金源であった生eno銀山を奪われるという、皮肉な結果を招くことになったのである。

第二部: 但馬電撃戦 ― 秀吉、神速の13日間(リアルタイム・クロニクル)

永禄12年8月、木下藤吉郎率いる織田軍は、怒涛の勢いで但馬国を席巻した。『益田家什書』などの史料によれば、その期間はわずか13日間。この驚異的な速度で展開された電撃戦の実態を、残された記録を基に時系列で再構築する。

第1章: 侵攻開始(永禄12年8月1日~)

永禄12年8月1日、織田軍の但馬侵攻作戦は開始された 15 。総大将に任じられたのは、当時まだ羽柴姓を名乗る前の木下藤吉郎秀吉。そして、副将格として美濃出身の武将・坂井政尚が名を連ねていた 15 。動員された兵力は、諸記録によれば約2万という大軍であったと伝えられる 14 。これは、当時の但馬一国の総兵力を遥かに凌駕する規模であり、作戦当初から圧倒的な戦力差をもって臨んだことが窺える。

侵攻軍の進発地点は、隣国の播磨であったと考えられる。そこから軍勢は、まず但馬南部の生野へと向かった。彼らの最初の目標は、山名氏の城郭ではなく、信長が最も重視していた生野銀山そのものであった 15 。守備兵力の薄い銀山は、大軍の前にほとんど抵抗らしい抵抗もできず、瞬く間に織田軍の手に落ちた。

戦略的価値の最も高い目標を確保した秀吉軍は、休むことなく但馬守護・山名祐豊の本拠地である出石・此隅山城を目指し、出石街道を北上した 17 。この進軍ルート上に点在する但馬国人衆の城砦は、織田軍の次の標的となった。

第2章: 諸城の陥落(8月上旬)

『益田家什書』には、「生野銀山から此隅山城までの18城を10日間で攻略した」という驚くべき記録が残されている 12 。この記述の信憑性については議論の余地があるものの、織田軍が破竹の勢いで但馬国内を制圧していったことは間違いない。

この電撃的な攻略を可能にした要因は複数考えられる。第一に、前述の通り2万という圧倒的な兵力差である。但馬の国人衆は、個々の城で籠城しても勝ち目がないことを悟り、早々に降伏か逃亡を選んだ者が多かったと推測される。第二に、織田軍が当時最新兵器であった鉄砲を相当数装備していた可能性である。『豊岡市史』は、この電撃戦の背景に鉄砲隊の威力を指摘している 19 。旧来の戦術に固執する山城の守備兵にとって、鉄砲の一斉射撃による火力は、戦意を喪失させるのに十分な脅威であっただろう。そして第三に、但馬国人衆の内部事情である。名目上の主君である山名氏の権威はすでに失墜しており、国人衆の中には織田方に内通する者や、日和見を決め込む者も少なくなかったと考えられる。

落城したとされる18城の具体的な城名は、残念ながら史料に明記されていない。しかし、進軍ルートや当時の但馬国の勢力配置から、いくつかの主要な城郭がその中に含まれていたと推定することは可能である。


表1:羽柴秀吉の但馬侵攻(1569年)における攻略対象と推定される城郭一覧

城名

所在地(現在)

城主(推定)

備考

此隅山城

豊岡市出石町

山名祐豊

但馬守護所。侵攻の最終目標。

竹田城

朝来市和田山町

太田垣氏

山名四天王。生野銀山を管轄する要衝 17

八木城

養父市八鹿町

八木氏

山名四天王。但馬南部の有力国人 23

垣屋城(轟城)

豊岡市日高町

垣屋氏

山名四天王。此隅山城の南方を守る支城 15

楽々前城

豊岡市日高町

垣屋氏

山名四天王。垣屋氏の本城。

三開山城

豊岡市

不明

円山川流域の要衝 24

気比城

豊岡市気比

不明

円山川下流、日本海への出口を抑える城 24

その他

但馬国各所

各国人衆

進軍ルート上の諸城砦。


この表が示すように、秀吉の侵攻は単に山名氏の本拠を叩くだけでなく、山名四天王をはじめとする但馬国内の主要な軍事拠点を無力化し、但馬国全体の支配体制を根底から覆すことを目的とした、周到に計画された作戦であったことがわかる。

第3章: 決戦、此隅山城(8月中旬~8月13日以前)

但馬国内の支城を次々と制圧した秀吉軍は、いよいよ最終目標である山名祐豊の居城・此隅山城へと迫った。此隅山城は、出石神社の北に位置する標高約140メートルの山に築かれた、典型的な中世山城である 5 。山頂の主郭を中心に、四方に伸びる尾根上へ段々状に曲輪(くるわ)を配置した「放射状連郭式」の縄張りを持ち、尾根を断ち切る堀切や、斜面を人工的に削って急角度にした切岸など、堅固な防御施設を備えていた 26 。応仁の乱の際には、西軍総大将であった山名宗全がこの城から2万6千の軍勢を率いて出陣したと伝えられる、山名氏の栄光を象徴する城でもあった 25

しかし、戦国末期の新たな戦術の前には、この中世の要塞もその限界を露呈することになる。秀吉は2万の大軍で此隅山を完全に包囲。まず山麓にあったとされる守護館や城下町を焼き払い、制圧した 3 。そして、山上への総攻撃を開始したとみられる。具体的な戦闘の様子を伝える詳細な記録は乏しいが、城跡に残る岩がちな急斜面や険しい登城路は、甲冑をまとった兵士たちが攻め上るには極めて困難な地形であり、激しい攻防戦が繰り広げられたであろうことは想像に難くない 26

この激戦の様子を物語る、極めて重要な物証が考古学的調査によって発見されている。此隅山城の城下町跡とみられる宮内堀脇遺跡の発掘調査において、広範囲にわたる 焼土層と炭化物 が確認されたのである 11 。これは、織田軍の攻撃によって城下町が大規模な火災に見舞われたことを示す動かぬ証拠である。

さらに、この焼土層の中から一枚の 木簡 が出土した 11 。荷札として使われたとみられるこの木簡の裏面には、「

永禄拾弐年八月廿四日 」という墨書がはっきりと残されていた。この日付が持つ意味は計り知れない。織田軍が但馬から完全に撤退したのは8月13日とされている 15 。つまり、この木簡は、城が落ち、侵略軍が去ったわずか11日後に、焼き払われた城下の焼け跡で書かれたことになる。

この一枚の木簡は、我々に歴史の「リアルタイム」な断片を突きつける。それは、大軍が蹂躙した直後の生々しい混乱の中で、それでもなお物流を再開させ、生活を立て直そうとする人々の必死の営みが存在したことの証左である。武将たちの動向を追うマクロな歴史叙述の陰で、名もなき人々が経験した戦乱の現実を、この木簡は静かに、しかし雄弁に物語っている。

幾日かの激しい攻防の末、ついに此隅山城は陥落。城主・山名祐豊は燃え盛る居城を後にし、少数の供回りと共に和泉国堺へと落ち延びていった 2 。8月13日、秀吉は但馬国内の平定を完了させ、京へと帰還した。わずか13日間の電撃戦であった。

第三部: 戦後の新秩序 ― 束の間の和平と次なる動乱

此隅山城の陥落と秀吉軍の撤退は、但馬国における戦いの終わりを意味するものではなかった。むしろそれは、新たな、そしてより深刻な動乱の時代の幕開けであった。敗走した山名祐豊の復活劇と、その裏で進行する織田・毛利の対立激化は、但馬国を二大勢力の代理戦争の舞台へと変貌させていく。

第1章: 堺での亡命と復活

居城を失い、堺へと逃れた山名祐豊は、当初、現地の商人・渡辺宗陽を頼ったとされる 31 。絶望的な状況にあった祐豊に、復活の道筋をつけたのは、当代随一の豪商であり、織田信長とも深い繋がりを持つ茶人・

今井宗久 であった。

『今井宗久日記』によれば、宗久は堺に逃れてきた祐豊と接触し、信長への和睦の仲介役を買って出た 31 。宗久がこの厄介事に介入した背景には、彼の商人としての鋭い嗅覚があった。彼は、山名氏がかつて支配していた生野銀山や、但馬で産出される山鉄といった鉱物資源に強い関心を持っていたのである 31 。山名氏を自身のコントロール下に置くことで、これらの資源交易における主導権を握ろうとした宗久の計算がそこにはあった。

宗久は、播磨の別所重棟らにも働きかけ、巧みな交渉の末、信長の許しを取り付けることに成功する 31 。信長がこの和睦を受け入れたのにも、明確な戦略的理由があった。但馬国を完全に敵に回し、毛利方の勢力圏としてしまうよりも、山名氏を限定的であれ復帰させ、織田方に従属する勢力として存続させる方が、西の毛利氏に対する有効な牽制になると判断したのである。

この一連の動きは、戦国時代における大名(武士)と大商人との間の、単なる経済的関係を超えた密接な政治的連携を象徴している。商人が持つ経済力と情報網が、大名の運命をも左右する政治的影響力となり得た時代であった。信長は宗久の提案を受け入れることで、彼との戦略的パートナーシップを強化し、その強大な経済力を自らの天下布武事業にさらに深く組み込んでいった。永禄12年(1569年)の冬、山名祐豊は今井宗久らの尽力により、奇跡的ともいえる但馬への復帰を果たした 31

第2章: 但馬の新拠点・有子山城

但馬への帰還を許された祐豊であったが、その立場は以前とは大きく異なっていた。彼の支配権は旧領の全てではなく、出石郡周辺に限定されたものであった 4 。かつての居城・此隅山城は、織田軍の猛攻によって防御機能の限界を露呈し、もはや本拠として相応しい場所ではなかった。

そこで祐豊は、天正2年(1574年)、此隅山城を放棄し、その南に位置する、より険峻な有子山(標高321m)の山頂に新たな城の築城を開始した 4 。これが有子山城である。此隅山城が「子盗み」に通じ、落城という不吉な記憶と結びつくことを嫌った祐豊が、新たな山に「有り子」と名付けたという伝承も残っている 33 。この築城は、失われた権威を再建し、新たな支配体制を内外に示すための象徴的な事業であった。有子山城は、此隅山城以上に防御を重視した、戦国末期の緊迫した情勢を反映した山城であった 3

しかし、この祐豊の再起に向けた努力も、但馬国を覆う大きな時代のうねりには抗うことができなかった。

第3章: 歴史的意義と遺産

永禄12年の但馬侵攻は、この戦いに関わった主要な登場人物、そして但馬国そのものの運命に、決定的かつ長期的な影響を及ぼした。

木下藤吉郎(秀吉)にとって 、この電撃戦の成功は、彼の軍事指揮官としての能力を信長に改めて証明する絶好の機会となった。信長本体が不在の間に、独立した作戦を迅速かつ完璧に遂行したこの功績は、織田家臣団内での彼の地位を飛躍的に向上させ、後の中国方面軍総司令官への道を拓く重要な布石となったのである。

山名氏にとって 、この戦いは決定的な衰退の始まりであった。一度は奇跡的な復帰を果たしたものの、但馬国内における求心力は完全に失墜した。但馬の国人衆は、西の毛利方につく者と、東の織田方につく者に分裂し、但馬国は両大勢力の草刈り場と化した 4 。特に、垣屋豊続らは毛利方の中核として織田方と激しく対立し、但馬国内は泥沼の代理戦争の様相を呈していく 34 。このような不安定な状況の中、山名祐豊は両勢力の間で明確な態度を示せないまま、最終的に天正8年(1580年)、羽柴秀吉・秀長兄弟による再度の但馬侵攻を招く。有子山城は抵抗むなしく落城し、ここに200年以上にわたり但馬を支配した守護大名・山名氏の嫡流は、事実上滅亡するのである 4

但馬国にとって 、この戦いは中世的な守護領国制の終焉を告げる画期であった。山名氏による統治が終わりを告げ、織田・豊臣政権による中央集権的な支配体制へと組み込まれていく大きな転換点となった 4 。但馬は、織田と毛利という二大勢力が直接対峙する最前線となり、さらなる戦乱の時代へと突入していったのである。

終章: 一つの戦いが変えた山陰の運命

永禄12年(1569年)の羽柴秀吉による但馬侵攻と、その中核をなした此隅山城の戦いは、単なる一地方の城の攻防戦ではなかった。それは、室町時代から続く旧来の権威の象徴であった守護大名・山名氏が、天下布武を掲げる織田信長の合理的かつ圧倒的な軍事力の前に屈した、時代の転換を象徴する出来事であった。

此隅山城の戦いは、中世的な山城の防御思想と、鉄砲という新兵器を駆使し、兵站を重視する織田軍の近代的ともいえる戦術との衝突であった。わずか13日間という短期間で但馬一国が席巻された事実は、もはや旧来の権力構造や軍事思想では、新たな時代の奔流に対抗できないことを残酷なまでに示した。

この戦いを契機として、但馬国は名門山名氏の安寧の地から、織田と毛利という二大勢力が覇を競う最前線へとその姿を変えた。国人衆は分裂し、領民は絶え間ない戦乱に苦しむこととなる。山名祐豊が落城した此隅山城を捨て、再起をかけて築いた有子山城も、結局は時代の波に飲み込まれていった。歴史の中に埋もれた此隅山城と、その後に但馬の中心となり、やがて近世城下町・出石の礎となった有子山城。二つの城の運命は、中世の終焉と近世の到来という、この国が経験した大きな歴史の転換を、今に伝えている。

【特別考察】史料の批判的検討 ― なぜ『信長公記』は但馬侵攻を黙殺したのか

本報告書で分析した永禄12年の但馬侵攻は、その後の山陰地方の勢力図を大きく塗り替える重要な軍事行動であった。しかし、この出来事を考察する上で、一つの大きな謎が存在する。それは、織田信長の一代記として最も信頼性が高い第一級史料とされる太田牛一著**『信長公記』**が、この但馬侵攻について一切言及していないという事実である 19

一方で、この侵攻の詳細を伝えているのは、毛利方の家臣であった益田氏の記録である**『益田家什書』 や、 『細川両家記』**といった史料である 15 。なぜ、これほど重要な出来事が、信長の公式記録ともいえる史料から抜け落ちているのだろうか。この史料間の「ねじれ」は、歴史を再構築する上で極めて重要な視点を提供する。

『信長公記』がこの件を黙殺した理由として、いくつかの可能性が考えられる。

第一に、著者・太田牛一の編集方針である。『信長公記』は、あくまで信長自身の動向を中心に記述されており、信長が直接指揮していない、一武将に任された軍事行動については、その重要度に関わらず記述が省略される傾向がある。当時、信長本体は伊勢攻めに集中しており、牛一の関心もそちらにあった可能性が高い。

第二に、この侵攻の政治的性格である。但馬侵攻は、信長の直接的な命令というよりも、同盟者である毛利氏からの「援軍要請」に応えるという形式を取っていた。そのため、織田政権の公式な戦功として記録するには、その性格が曖昧であったのかもしれない。信長にとっては、あくまで非公式、あるいは副次的な作戦という認識であった可能性も否定できない。

逆に、毛利方の史料である『益田家什書』がこの出来事を詳細に記録しているのは、彼らにとってこれが自国の安全保障を揺るがす重大事件であったからに他ならない。隣国に織田の強大な軍事力が直接的に及んだ最初の事例として、その脅威を明確に認識していた証左といえる。

このように、ある歴史的事実が史料に記録されるか否か、またどのように記録されるかは、その記録者の立場や視点、そして政治的意図によって大きく左右される。したがって、『信長公記』の沈黙は、単なる記述漏れとして片付けるべきではない。それは、織田政権側から見たこの戦役の位置づけを示す、一つの「語られざる情報」なのである。この事例は、信長中心の史観のみで歴史を解釈することの危険性を示唆しており、複数の、時には対立する勢力の史料を比較検討することによってのみ、歴史の多層的な実像に迫ることができるという、歴史研究の基本原則を我々に改めて教えてくれる。

引用文献

  1. 1568年 – 69年 信長が上洛、今川家が滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1568/
  2. 出石城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E7%9F%B3%E5%9F%8E
  3. 山名氏城館(兵庫県豊岡市)の詳細情報・口コミ | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/6041
  4. 第60号(2021/03) 豊岡と戦国大名 - 豊岡市 https://www3.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/news/news60.pdf
  5. 山名氏城跡 此隅山城跡 有子山城跡 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210750
  6. 山名氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E6%B0%8F
  7. 津和野城跡[つわのじょうあと] - 島根県 http://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/saninshisekigaidobook.data/guidebook01new.pdf
  8. 尼子家の「御一家再興」戦争と山中幸盛 - 島根県 https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/plusonline/online2.data/1kou.pdf
  9. 山名祐豐Yamana Suketoyo - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/sanin/yamana-suketoyo
  10. 尼子再興軍の雲州侵攻 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E5%86%8D%E8%88%88%E8%BB%8D%E3%81%AE%E9%9B%B2%E5%B7%9E%E4%BE%B5%E6%94%BB
  11. Untitled - 豊岡市 https://www3.city.toyooka.lg.jp/kokubunjikan/kanpou/kanpou2021.pdf
  12. 中世の但馬 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典 https://the-tajima.com/spot/cyusei/
  13. 但馬国(タジマノクニ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E5%9B%BD-93259
  14. 藤堂高虎 - 大屋山遊会 https://tota8.net/toudoutakatora.html
  15. 古城の歴史 竹田城 https://takayama.tonosama.jp/html/takeda.html
  16. 県域の歴史 - 兵庫県 https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk32/pa13_000000011.html
  17. 竹田城 - 城 なめ歩き - FC2 http://japanesecastles.web.fc2.com/Tazima_Takeda.html
  18. 竹田城の歴史 - 竹田城跡公式ホームページ - 朝来市 https://www.city.asago.hyogo.jp/site/takeda/3092.html
  19. Untitled https://lib.city.toyooka.lg.jp/kyoudo/komonjo/bcf2393043314c6696ba071f10efd4eb81369cd9.pdf
  20. 此隅山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A4%E9%9A%85%E5%B1%B1%E5%9F%8E
  21. 山名氏城跡 | 但馬再発見 https://the-tajima.com/spot/29/
  22. 但馬国 出石街道 | 但馬の情報発信ポータルサイト「但馬情報特急」 https://www.tajima.or.jp/furusato/living/121138/
  23. 但馬国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E9%A6%AC%E5%9B%BD
  24. 香美町の城郭集成 https://www.town.mikata-kami.lg.jp/www/contents/1615449907763/files/kamicyou_jyoukakusyusei.pdf
  25. 此隅山城跡:近畿エリア - おでかけガイド https://guide.jr-odekake.net/spot/14526
  26. 此隅山城 [後編] 主郭西側は木々が伐採され周囲の支城が見渡せる。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2015/03/08/konosumi-p2/
  27. 此隅山城 [前編] 比高130mの山上に残る但馬最大規模の山城跡。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2015/03/08/konosumi/
  28. 室町時代に権勢をふるった山名宗全の居城から出石を見下ろす ~此隅山城 出石 http://tajimalibe.blog73.fc2.com/blog-entry-3708.html
  29. 此隅山城の見所と写真・100人城主の評価(兵庫県豊岡市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/290/
  30. 此隅山城 - harimaya.com http://www.harimaya.com/home/konosumi.html
  31. 山名祐豊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%90%8D%E7%A5%90%E8%B1%8A
  32. 出石城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.izushi.htm
  33. 国指定史跡 有子山城跡 -「獅子の山城」の魅力に迫る - 豊岡市 https://www.city.toyooka.lg.jp/shisei/1027491/1027495/1029005.html
  34. 秀吉の但馬・因幡進攻と垣屋氏/とりネット/鳥取県公式サイト https://www.pref.tottori.lg.jp/item/847110.htm
  35. もうひとつの天下分け目の戦 - 山陰海岸ジオパーク|San'in Kaigan UNESCO Global Geopark https://sanin-geo.jp/routes-05/
  36. 出石町概要 - 但馬國出石観光協会公式サイト https://www.izushi.co.jp/history/
  37. 信長公記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98
  38. 永禄13年(元亀元年・1570)織田信長が上洛を求めた諸大名勢力について https://monsterspace.hateblo.jp/entry/jouraku1570