厳島口前哨戦(1554~55)
厳島の戦い前哨戦。毛利元就は陶晴賢の主君殺しを機に独立。安芸を制圧し、折敷畑で陶軍を撃破。宮尾城築城、離間の計、村上水軍の調略で晴賢を厳島へ誘い込み、本戦勝利の布石を完璧に整えた。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
厳島の戦いへの序曲:毛利元就の謀略と陶晴賢の誤算 ― 厳島口前哨戦(1554-55年)全詳解
序章:崩れゆく西国の大厦 ― 全ての始まり
日本の戦国史において、天文24年(1555年)の厳島の戦いは、毛利元就を一躍中国地方の覇者へと押し上げた、日本三大奇襲の一つとして名高い。しかし、この劇的な勝利は、決して一朝一夕の幸運や奇策のみによってもたらされたものではない。その背景には、合戦に至る一年余にわたる周到な準備、すなわち「厳島口前哨戦」と呼ばれる一連の軍事、外交、そして謀略の応酬が存在した。この前哨戦こそが、厳島本戦の勝敗を事実上決定づけていたのである。その全ての始まりは、西国に巨大な権勢を誇った大内氏の内部崩壊にあった。
大内義隆の治世と文治主義への傾倒
周防、長門、安芸など6ヶ国の守護を兼ね、日明貿易を掌握して栄華を極めた大内氏第16代当主・大内義隆 1 。その治世前半は、尼子氏の勢力拡大に対抗し、安芸の国人であった毛利元就を救援するなど、武威を以て領国を拡大した 1 。しかし、天文11年(1542年)の出雲遠征(第一次月山富田城の戦い)における大敗と、その過程で嫡男・晴持を失った悲劇は、義隆の心に深い影を落とした 3 。これを境に義隆は軍事への情熱を急速に失い、政治の中心から遠ざかり始める。
義隆の関心は、和歌や連歌、学問といった文化的活動へと傾斜していく。かつて武断派の筆頭として重用された周防守護代・陶隆房(後の晴賢)らは疎んじられ、代わって相良武任ら文治派の側近が権勢を振るうようになった 3 。応仁の乱で荒廃した京都から多くの公家や文化人が義隆を頼って山口に下向し、街は「西の京」と称されるほどの爛熟した文化を花開かせた 3 。しかし、その華やかな宮廷文化を支えるための出費は増大し、領国の財政を圧迫。その負担は、各地の守護代を通じて領民に重くのしかかった 3 。武功によってこそ家の安泰が図られると信じる武断派の重臣たちにとって、主君の変節と文治派の台頭は、大内家の将来を危うくする由々しき事態と映ったのである。
大寧寺の変(天文20年/1551年)の勃発
募りゆく不満と危機感は、ついに臨界点に達する。天文20年(1551年)8月、陶隆房は杉重矩ら武断派の重臣たちと結託し、ついに主君・義隆に対して謀反の兵を挙げた 3 。隆房の軍勢が山口に迫ると、義隆に抗戦の力は残されていなかった。近臣たちに守られながら長門国深川(現・長門市)の大寧寺へと逃れるが、そこで追撃を受け、自害に追い込まれた。享年45。重臣の冷泉隆豊をはじめ、多くの近習が殉死し、西国に君臨した大内義隆の時代は、悲劇的な終焉を迎えた 7 。
この政変において、安芸の毛利元就は極めて重要な役割を演じた。元就はかねてより陶隆房と連携しており、謀反に呼応して安芸国内に残る義隆派の国人、平賀隆保らを攻撃 7 。陶方の「功労者」として、新体制の確立に大きく貢献したのである 12 。この行動は、元就が大内氏という巨大な権威の内部崩壊を、自らの勢力拡大のための千載一遇の好機と捉えていたことを示している。陶隆房は元就を便利な協力者と見なしていたかもしれないが、元就にとって隆房のクーデターは、自らが忠誠の軛から解き放たれ、独立した戦国大名へと飛躍するための絶好の踏み台であった。両者の認識のズレは、やがて来る対立の避けられない伏線となる。
陶晴賢の新体制と潜在的脆弱性
主君を討った陶隆房は、大内氏の血統的正当性を保つため、豊後の大友宗麟の弟である晴英(後の大内義長)を新たな当主として周防に迎え入れた 4 。自らは名を晴賢と改め、将軍・足利義輝から偏諱を受けることで権威を補強し、事実上の最高権力者として大内領国の実権を掌握した 16 。晴賢は義隆の文治主義を完全に否定し、軍事力による支配体制の再構築を目指した 17 。
しかし、この新体制は、その成立過程そのものに深刻な脆弱性を内包していた。第一に、「主君殺し」という大義なき行為は、晴賢の権力基盤を根本的に揺るがした。彼は常に家臣の離反を警戒し、猜疑心に苛まれることとなる。この心理的な弱点が、後に元就が仕掛ける離間の計に彼が容易に陥る土壌を形成した 18 。第二に、傀儡である大内義長は、大友氏からの養子という立場上、大内譜代の家臣団からの求心力に乏しく、晴賢の権力を補強するどころか、むしろその正統性のなさを際立たせる存在でしかなかった 15 。この歪な権力構造こそが、毛利元就や吉見正頼といった勢力が、反旗を翻す隙を与えることになるのである。陶晴賢が築いた新たな大内体制は、盤石に見えながら、その礎には自己破壊の種が蒔かれていた。
第一章:決別の刻来る ― 防芸引分(天文23年/1554年春)
大寧寺の変以降、毛利元就は陶晴賢の最も信頼できる同盟者として振る舞い、安芸・備後方面で着実に勢力を拡大していた。しかし、両者の蜜月関係は長くは続かなかった。石見国(現在の島根県西部)で上がった一つの狼煙が、やがて中国地方全土を巻き込む大戦の導火線となる。
火種、石見に燃え上がる
石見国津和野の三本松城を本拠とする国人領主・吉見正頼は、大内義隆から篤い恩顧を受けていた人物であった。正頼は義隆の姉婿でもあり、主君であり義兄でもあった義隆を死に追いやった陶晴賢に対して、深い憎悪を抱いていた 11 。晴賢の新体制が発足して以来、正頼は雌伏の時を過ごしていたが、天文22年(1553年)10月、ついに「亡き君の仇を討つ」という大義名分を掲げ、晴賢打倒の兵を挙げたのである 17 。
この吉見氏の挙兵は、毛利元就にとって運命の岐路を意味した。晴賢は直ちに吉見討伐を決意し、翌天文23年(1554年)の正月、かねての盟約通り元就にも出陣するよう、強い要請を送ってきた 19 。安芸の一国人として、西国の覇者である陶晴賢の命令に従うのか、それともこれを機に反旗を翻すのか。毛利家の存亡を賭けた決断が迫られた。
吉田郡山城での激論
毛利氏の本拠、吉田郡山城では、当主・元就、嫡男・隆元、そして重臣たちによる長期にわたる評定が重ねられた 19 。意外にも、元就自身は当初、陶方への参陣も視野に入れていたとされる。晴賢の強大な軍事力を考えれば、ここで敵対することは毛利家の滅亡に直結しかねないという、現実的な判断であった 19 。
しかし、この現実論に敢然と異を唱えたのが、嫡男の毛利隆元であった。「陶晴賢は主君を弑逆した大逆人である。そのような不義の者に味方すれば、いずれ天罰を受け、毛利家も共倒れになるであろう」 19 。隆元は、目先の利害よりも武士としての大義を重んじ、晴賢との決別を強く主張した。この隆元の「大義名分論」は、元就の冷徹な「戦略論」と対立するかに見えたが、結果として、この父子の異なる視点が毛利家を最善の道へと導くことになる。元就の戦略は極めてハイリスクな賭けであり、家臣団の動揺は必至であった。ここで、人格者として信望の厚い隆元が「正義の戦い」という倫理的な旗印を掲げたことは、家中の結束を固め、元就の決断を後押しする上で決定的に重要な役割を果たしたのである。
独立への最終決断
数ヶ月に及ぶ激論の末、毛利家は隆元の主張を受け入れ、陶氏との完全なる決別を決断した 19 。この決断の背後には、陶晴賢の主力が吉見正頼の籠る三本松城に釘付けにされ、身動きが取れないという絶好の機会を見抜いた元就の計算があった 20 。
天文23年(1554年)5月11日、元就と隆元は連名で安芸国の国人領主たちに書状を送付。その中で、陶晴賢との手切れを公式に宣言した 22 。周防国(防)を本拠とする大内(陶)氏と、安芸国(芸)を本拠とする毛利氏の決別を意味するこの出来事は、後に「防芸引分(ぼうげいひきわけ)」と呼ばれる。それは単なる外交的決裂の宣言ではなかった。それは、毛利元就による周到に計画された、中国地方の覇権を賭けた戦略的攻勢の開始を告げる号砲だったのである。
第二章:電光石火の安芸制圧(天文23年/1554年5月)
「防芸引分」の宣言は、言葉だけの威嚇ではなかった。それは、即座に実行される軍事行動と完全に連動していた。毛利元就は、陶晴賢の主力が石見に釘付けになっている「力の空白」を突き、安芸国内における大内(陶)方の拠点を一掃するための電撃作戦を開始した。
5月12日、作戦開始
断交を宣言したまさに翌日の5月12日、元就は次男の吉川元春、三男の小早川隆景を含む約3,000の精鋭を率いて、本拠・吉田郡山城から出陣した 22 。その動きは驚くほど迅速であった。毛利軍は怒涛の勢いで広島湾岸へと進軍し、その日のうちに佐東銀山城、己斐城、そして草津城といった大内方の城を次々と攻略した 22 。これらの城は、いずれも広島湾岸を抑え、瀬戸内海の海上交通を扼する上で極めて重要な戦略拠点であった。
この初動の狙いは、単なる領土の拡大ではなかった。それは、来るべき陶軍の反攻が、水軍を伴って海上から行われることを正確に予測した元就による、「制海権の確保」と「決戦場の設定」という明確な戦略目標に基づいていた。湾岸拠点を先んじて押さえることで、自軍の水軍(小早川水軍)の活動基地を確保し、同時に敵の上陸可能地点を限定させる。これは、後の厳島の戦いへと繋がる、壮大な布石の第一手であった。
桜尾城の掌握と厳島への布石
毛利軍の進撃は止まらない。湾岸の諸城を制圧した勢いのまま、厳島の対岸に位置する要衝・桜尾城(現在の広島県廿日市市)へと迫った。当時、桜尾城には陶方の重臣である江良賢宣らが守備していたが、毛利軍の電撃的な進軍の前に有効な抵抗はできず、開城を余儀なくされた 11 。元就はこの桜尾城を、対陶戦線の最前線基地と定めた 22 。
さらに元就は、この動きと並行して、安芸国一宮・厳島神社が鎮座する厳島そのものを占拠した 11 。厳島は古来より瀬戸内海の海上交通の要衝であり、その支配は経済的にも軍事的にも絶大な意味を持っていた。桜尾城と厳島という、海を隔てて対峙する二つの拠点を掌握したことで、元就は自らが望む戦場を創り出すための舞台装置を、早くも手中に収めたのである。
この電光石火の安芸制圧は、周防にいる陶晴賢にとって衝撃的な報せとなった。わずか一日で湾岸の主要拠点がすべて陥落したという事実は、毛利の軍事能力を過小評価していたこと、そして安芸国内における自らの支配が砂上の楼閣であったことを白日の下に晒した 20 。この緒戦の鮮やかな勝利は、安芸国内で日和見を決め込んでいた他の国人領主たちに対し、毛利の力を見せつける強烈なデモンストレーションとなり、元就は軍事的な主導権のみならず、心理的な優位性をも確立することに成功したのである。
第三章:最初の激突、折敷畑(天文23年/1554年6月)
毛利元就の電撃的な安芸制圧に対し、陶晴賢は即座に反応した。主力が依然として石見の吉見正頼攻めに投入されている中、彼は手元に残る兵力をかき集め、毛利討伐の先鋒軍を派遣する。両軍の最初の本格的な激突となった「折敷畑の戦い」は、来るべき厳島決戦の行方を占う重要な前哨戦であった。
表1:折敷畑の戦い 両軍戦闘序列(推定)
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勢力 |
総大将 |
主要武将 |
推定兵力 |
備考 |
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毛利軍 |
毛利元就 |
毛利隆元、吉川元春、小早川隆景、宍戸隆家、福原貞俊 |
約3,000 |
安芸の精鋭で構成。毛利両川体制が機能 23 。 |
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陶軍(宮川勢) |
宮川房長 |
不明 |
6,000~7,000 |
陶氏の先遣隊3,000に、周防・安芸の国人一揆勢が加わった混成部隊 22 。 |
陶方の反撃
毛利の裏切りに激怒した晴賢は、重臣の宮川房長を総大将に任じ、先遣隊を安芸へと差し向けた 20 。房長に与えられた兵力は当初3,000であったが、進軍の途上で周防の山代一揆衆などを吸収し、安芸に侵攻する頃にはその数は6,000から7,000にまで膨れ上がっていた 22 。数において毛利軍を圧倒する大軍であった。
宮川房長は、毛利軍が本拠とする桜尾城を眼下に見下ろすことができる戦略的要地、折敷畑山(標高365メートル)に陣を構えた 20 。山上から一気に攻め下れば、地の利は完全に自軍にある。房長は、数と地の利を活かした正攻法で毛利軍を粉砕する作戦を描いていた。
6月5日、合戦の経過
桜尾城の毛利方では、大軍の接近を前に籠城を主張する声も上がった。しかし元就は、桜尾城が長期の籠城に耐えうる堅城ではないこと、そして外部からの援軍(後詰)が全く期待できない状況を冷静に分析し、城外での野戦による迎撃を決断した 22 。
天文23年6月5日、折敷畑山麓の明石口にて両軍は激突した 21 。元就の戦術は巧妙であった。彼は自軍を複数に分割し、自らが率いる本隊を敵の正面に配置する一方、吉川元春、小早川隆景らが率いる別働隊を左右の山中に潜ませ、敵を包囲殲滅する布陣を敷いた 18 。
戦端が開かれると、まず毛利軍の先鋒が宮川軍に攻撃を仕掛け、しばらく戦った後に意図的に後退を始めた。これは敵を誘い込むための偽装退却であった 22 。毛利軍が崩れ始めたと見た宮川軍は、好機とばかりに追撃を開始し、元就の本陣へと殺到した。敵が完全に懐深く入り込んだその瞬間、元就は合図を発した。左右の山中に潜んでいた吉川・小早川の伏兵が一斉に鬨の声を上げ、宮川軍の側面に襲いかかった。
完全に意表を突かれ、三方から攻撃を受けた宮川軍は、たちまち大混乱に陥った。寄せ集めの大軍であったため指揮系統も乱れ、組織的な抵抗は不可能であった 23 。総崩れとなった兵たちは我先にと逃走を始め、総大将の宮川房長もその渦中で討死、あるいは一説には乗っていた馬が暴れて崖から転落死したと伝えられている 22 。この戦いで毛利軍が挙げた首級は750余りにのぼり、戦いは毛利方の一方的な圧勝に終わった 22 。
この折敷畑の戦いは、厳島の戦いの「戦術的リハーサル」であったと言える。兵力で劣る状況下、地形を巧みに利用して敵の大軍を狭隘な場所へ誘い込み、伏兵と奇襲によって兵力差を無力化し、包囲殲滅するという戦術は、一年後の厳島で、より大規模かつ劇的な形で再現されることになる。この勝利は、元就の戦術思想が対陶軍においても完全に通用することを証明し、彼に厳島での決戦を構想する確固たる自信を与えたのである。
第四章:盤上の攻防 ― 元就の謀略(天文23年後半~弘治元年)
折敷畑での軍事的勝利に続き、毛利元就は水面下でより巧妙かつ熾烈な戦いを開始した。それは、敵将・陶晴賢の心理を巧みに操り、自らが望む決戦の舞台へと誘い込む、壮大な謀略戦であった。物理的な戦場で戈を交える前に、敵の頭脳という「見えない戦場」で勝利を収めるべく、幾重にも張り巡らされた罠が仕掛けられていく。
第一の布石「宮尾城」
元就は、安芸制圧の際に占拠した厳島に、宮尾城を新たに築城、あるいは既存の施設を大規模に修築した 18 。この城は、厳島北西の要害山に位置し、三方を海に囲まれた天然の要害であった 27 。水軍との連携が容易なこの海城は、軍事拠点としてだけでなく、元就の謀略において中心的な役割を担うことになる。
元就は、この宮尾城の城将として、己斐豊後守(こいぶんごのかみ)や新里宮内少輔(にいざとくないしょうゆう)といった、元は大内家臣でありながら毛利に寝返った武将を意図的に配置した 33 。これは、主君を裏切った者たちをあえて最前線に置くことで、晴賢の怒りと侮りを誘う挑発行為であった。さらに元就は、「厳島に城を築いたのは最大の失策であった。もし陶の大軍に攻められれば、毛利の命運も尽きるだろう」といった弱気な噂を、自らの陣営から意図的に流出させた 18 。これにより、晴賢に「宮尾城は脆弱であり、今攻めれば容易に落とせる」と誤認させ、厳島への出兵を促そうとしたのである。宮尾城は、軍事拠点として以上に、晴賢という巨大な鉄を引き寄せる「戦略的磁石」としての機能が期待されていた。
第二の謀略「離間の計」
元就が次に狙いを定めたのは、陶軍の内部崩壊であった。彼が特に警戒していたのは、陶晴賢の重臣であり、水軍の指揮官としても有能であった江良房栄(えらふさひで)の存在だった 18 。厳島での決戦を想定する以上、敵の水軍能力を削いでおくことは不可欠であった。
元就はまず、房栄に対して内応を持ちかける工作を行ったが、これは忠義心の厚い房栄に拒絶され失敗に終わる 18 。しかし、謀神・元就は決して諦めない。彼はこの失敗すら逆手に取り、「江良房栄が毛利に内通している」という偽の情報を、晴賢の周辺に執拗に流布させ始めた 18 。仕上げとして、房栄の筆跡を完璧に模倣した偽の密書を作成し、それが偶然を装って晴賢の手に渡るよう工作した 37 。
自らも主君を裏切った過去を持つ晴賢は、元来猜疑心の強い人物であった。側近からの讒言と、動かぬ証拠(と信じ込まされた偽の密書)を前に、ついに房栄への疑念を抑えきれなくなる。晴賢は事実確認を怠ったまま、この智勇兼備の重臣を誅殺してしまう 18 。元就は、一滴の血も流すことなく、敵の最も有能な将の一人を葬り去ることに成功したのである。
第三の罠「偽の内応」
最後のダメ押しとして、元就は最も信頼する腹心の一人、桂元澄(かつらもとずみ)に、晴賢への偽の密書を送らせるという、大胆不敵な策を講じた 18 。
その密書には、およそ次のような意味のことが書かれていた。「もし晴賢殿が全軍を率いて厳島へご出陣なされば、元就も必ずや宮尾城の救援に向かうことでしょう。その機を捉え、私が元就の留守を突いて本拠・吉田郡山城を乗っ取り、晴賢殿に味方いたします」 18 。これは、毛利家中からの内応を約束する、晴賢にとっては抗いがたい魅力を持つ提案であった。
宮尾城という「餌」、江良房栄誅殺による敵戦力の低下、そして桂元澄からの「内応の約束」。これら幾重にも仕掛けられた罠によって、厳島への大軍派遣という本来極めてハイリスクな作戦が、晴賢の目には「短期決戦で確実に勝利できる作戦」として映るようになっていった。元就の謀略は、陶晴賢の認知を歪め、その意思決定プロセスそのものを乗っ取ることに成功したのである。
第五章:海の覇者の選択 ― 村上水軍の動向(弘治元年/1555年)
厳島での決戦を構想する毛利元就にとって、陸上での勝利や謀略の成功だけでは十分ではなかった。四方を海に囲まれた島での戦いは、制海権の確保が絶対条件であり、そのためには瀬戸内海に覇を唱える村上水軍の協力が不可欠であった。彼らの動向こそが、厳島の戦いの帰趨を決定づける最大の鍵だったのである。
瀬戸内海の支配者「三島村上氏」
村上水軍は、芸予諸島に本拠を置く因島、能島、来島の三家からなる、独立した海上勢力の総称である 41 。彼らは特定の戦国大名に完全に臣従することなく、瀬戸内海を航行する船から通行料(駄別料)を徴収し、その見返りとして航海の安全を保障するという、独自の支配体制を築いていた 7 。その武力と航海術は、陸の武士たちからも一目置かれる存在であった。
厳島の戦いが迫る中、毛利、陶の両陣営から、この村上水軍に対して味方になるよう、熱心な勧誘が行われた 44 。特に、毛利方にとっては、陶氏が擁する500艘ともいわれる大船団に対抗するため、村上水軍の加勢がなければ作戦そのものが成り立たなかった。
陶晴賢の失策と小早川隆景の説得工作
ここで、陶晴賢が犯した一つの失策が、戦局に大きな影響を与える。大寧寺の変の後、晴賢は厳島の支配権を大内氏の直轄とし、これまで村上水軍が伝統的に有していた駄別料の徴収権を一方的に剥奪してしまったのである 7 。この経済的権益の侵害は、独立を重んじる村上水軍、特に来島村上氏らの強い反発を招いた 7 。彼らにとって、晴賢の行為は自らのビジネスモデルを根本から脅かすものであった。
この機を元就は見逃さなかった。彼は三男であり、自らも沼田水軍を率いる小早川隆景に、村上水軍との交渉を一任した 45 。隆景は、家臣で村上一族とも縁戚関係にあった乃美宗勝らを交渉役として派遣 33 。当初、村上水軍は毛利と陶のいずれにつくか日和見の態度を崩さなかったが、隆景は粘り強く説得を続けた。
交渉の決め手となったのは、極めて現実的な提案であった。毛利に味方すれば、勝利の暁には晴賢に奪われた厳島の権益を回復させることを約束したのである 33 。さらに、「一日だけでよいから船を貸してほしい」という元就の謙虚な言葉も、彼らの心を動かしたとされる 33 。失われた利益の回復という、彼らにとって最も魅力的なインセンティブを提示された村上水軍は、ついに兵力で劣る毛利方への加勢を決断。来島通康らが率いる200から300艘の船団が毛利軍に合流することになった 24 。この瞬間、瀬戸内海の制海権は完全に毛利方の手に落ち、厳島決戦の勝利への道が大きく開かれたのである。この成功は、陸の吉川元春、海の小早川隆景という「毛利両川体制」が見事に機能した証であり、元就の卓越した組織運営能力を示すものであった。
終章:賽は投げられた ― 厳島渡海前夜
弘治元年(1555年)秋、一年以上にわたって繰り広げられた厳島口前哨戦は、ついに最終局面を迎えた。毛利元就が仕掛けた全ての布石は整い、陶晴賢は計算通りにその盤上へと駒を進めようとしていた。
石見では、陶晴賢が吉見正頼との戦いを和睦という形で性急に終わらせ、全軍を毛利討伐へと振り向けた 21 。弘中隆包ら一部の慎重な家臣からは、兵力の逐次投入や厳島という不慣れな地形での決戦を危ぶむ声も上がったが、晴賢はそれらを退けた 48 。自らが擁する圧倒的な水軍力への過信 49 、そして毛利方からの内応の約束が、彼の判断を大胆にさせた。
弘治元年9月21日、陶晴賢は2万ともいわれる大軍を500艘余りの船に乗せ、周防岩国から出港。厳島へと上陸を果たした 18 。そして、元就の挑発の象徴であった宮尾城を見下ろす塔ノ岡に本陣を構えた 18 。
その報は、直ちに元就のもとへ届いた。陸では折敷畑で勝利し安芸を平定、謀略によって敵の有能な将を排除し、敵将の判断を誤らせ、海では村上水軍を味方に引き入れて制海権を掌握。そして、宮尾城には兵を籠めて敵を待ち受ける。全ての準備は完了していた 50 。
この一年余にわたる「厳島口前哨戦」は、単なる小競り合いの連続ではなかった。それは、毛利元就が物理的、心理的、外交的、地理的という、戦争を構成するあらゆる要素において、勝利の条件を一つひとつ丹念に整えていくための、壮大なプロセスであった。孫子の兵法に言う「算多きは勝ち、算少なきは勝たず」。元就は、実際の戦闘が始まる前に、見えない戦場での計算によって、すでに勝利を確定させていた。
陶晴賢の敗北は、10月1日の厳島の戦場で決まったのではない。彼が元就の仕掛けた巨大な罠である厳島へと、大軍を率いて渡ったその瞬間に、既に決定づけられていたのである。賽は投げられた。あとは、歴史がその必然の結果を記録するだけであった。
巻末資料
表2:厳島口前哨戦 関連年表(1551年~1555年9月)
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年月 |
出来事 |
関連資料 |
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天文20年(1551) 9月 |
大寧寺の変。大内義隆自害。陶隆房(晴賢)が大内家の実権を掌握。 |
3 |
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天文22年(1553) 10月 |
石見の吉見正頼が陶晴賢に対し挙兵(三本松城の戦い)。 |
19 |
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天文23年(1554) 3月 |
陶晴賢、大内義長を奉じ吉見正頼討伐に出陣。 |
21 |
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天文23年(1554) 5月11日 |
毛利元就・隆元、陶晴賢との断交を宣言(防芸引分)。 |
22 |
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天文23年(1554) 5月12日 |
毛利軍、安芸国内の大内方諸城(桜尾城、己斐城など)を電撃的に制圧。 |
22 |
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天文23年(1554) 6月5日 |
折敷畑の戦い(明石口の戦い)。毛利軍が宮川房長率いる陶軍先鋒を撃破。 |
21 |
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天文23年(1554) 9月 |
陶晴賢、吉見正頼と和睦し、主力を毛利に向け始める。 |
21 |
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天文23年(1554)~ |
元就、厳島に宮尾城を修築し、陶軍への謀略(江良房栄、桂元澄)を仕掛ける。 |
18 |
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弘治元年(1555) |
小早川隆景の交渉により、村上水軍が毛利方への加勢を決定。 |
24 |
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弘治元年(1555) 9月21日 |
陶晴賢、2万の大軍を率いて厳島に上陸。塔ノ岡に本陣を敷く。 |
18 |
引用文献
- 大内義隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86
- 激戦!! 戦国の中国地方を争った熾烈なライバル関係<毛利元就vs陶晴賢 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28275
- 「大寧寺の変(1551年)」陶隆房による主君・大内義隆へのクーデターの顛末とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/86
- 天分20年(1551)9月1日は陶晴賢(隆房)が謀反の兵を挙げ大寧寺の変にて大内義隆が自害した日。義隆が重用した文治派の家臣と武断派の晴賢らとの対立が招いた結果。晴賢は - note https://note.com/ryobeokada/n/n7dbd15193032
- 大内義隆の遷都計画 - Thomas Conlan https://tconlan.scholar.princeton.edu/document/63
- 本当に逆臣?! 陶晴賢の虚像。そして今 - ふくの国 山口 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202109/yamaguchigaku/index.html
- 大寧寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%A7%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
- 大内から毛利へ ① - 鳳陽会東京支部 https://houyoukai-tokyo.exp.jp/2482/
- 大内義隆自害をめぐる「雑説」 - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/archivesexhibition/AW14%20jouhoutokiroku/05.pdf
- 【山口観光】長門湯本温泉とともに600年。歴史が息づく大寧寺で歴史上の人物に思いを馳せてみませんか? | 大谷山荘だより【ブログ】 https://otanisanso.co.jp/otanisansojournal/todoinnagatoyumoto-taineiji-winter/
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