最終更新日 2025-09-03

多聞山城の戦い(1577)

天正五年、松永久秀は信長に二度目の謀反。信忠率いる織田軍に信貴山城を包囲され、筒井順慶の調略で落城。久秀は平蜘蛛釜と共に爆死したと伝わる壮絶な最期を遂げた。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

天正五年、梟雄の最期 ― 松永久秀討伐戦(信貴山城の戦い)の時系列的徹底分析

序章:多聞山城から信貴山城へ ― 運命の舞台の特定

天正5年(1577年)に松永久秀が織田信長に反旗を翻し、その生涯を閉じた合戦は、一般に「多聞山城の戦い」として認識されることがある。しかし、史料を精査すると、この最終決戦の舞台となったのは、大和と河内の国境に聳える堅城、**信貴山城(しぎさんじょう)**であったことが明らかとなる 1

本報告書は、この歴史的経緯を明確にした上で、利用者様が真に求めているであろう「天正5年の松永久秀討伐戦」、すなわち信貴山城の戦いの全貌を、合戦中のリアルタイムな状況が時系列で把握できるよう徹底的に分析・解説するものである。

二つの城、二つの運命 ― 多聞山城と信貴山城の役割

松永久秀の栄枯盛衰を理解する上で、彼が拠点とした二つの城、多聞山城と信貴山城の性格を対比することは極めて重要である。これらは単なる居城ではなく、彼の権力、思想、そして運命そのものを象徴する存在であった。

多聞山城:権勢と革新の象徴

永禄2年(1559年)から久秀が築城を開始した多聞山城は、戦国時代の城郭建築に革命をもたらした金字塔であった 4。それまでの城が主に防御を目的とした仮設的な砦の様相を呈していたのに対し、多聞山城は恒久的な支配拠点として設計されていた。曲輪全体に礎石と石垣を用い、屋根は火矢に強い瓦葺き、壁は鉄砲弾を防ぐ漆喰塗りの分厚い土壁で固められていた 4。これは、寺社建築が盛んであった奈良の高度な技術力を応用したものであり、防御性に優れた近世城郭の先駆けと言える 5。

城内には豪華な御殿が建ち並び、狩野派の絵師による障壁画や金工の太阿弥が手掛けた引手で飾られ、庭園や茶室も備えられていた 4 。永禄8年(1565年)にこの城を訪れたイエズス会の医師ルイス・デ・アルメイダは、その壮麗さに驚嘆し、「宮殿は悉く杉にて造り其匂は中に入る者を喜ばせ」「世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべし」と絶賛の言葉を残している 6 。塁上に築かれた長屋形状の櫓は、後に多くの城で採用される「多聞櫓」の語源となったとされ、その革新性を示している 4 。このように、多聞山城は久秀が三好家の家臣から下剋上を果たし、大和一国を支配するに至った「上昇期」の権勢と文化的先進性を体現する象徴であった。

信貴山城:最後の砦

一方、信貴山城は、大和と河内を結ぶ標高437メートルの要衝に位置する、より実践的な巨大山城である 9。元は木沢長政が築いた城を、久秀が大規模に改修・強化し、多聞山城と並ぶ重要拠点としていた 2。曲輪、堀切、切岸といった山城特有の防御施設が複雑に配置され、その防御力は極めて高かった 11。

多聞山城が、権威を見せつける「見せる城」としての性格が強かったのに対し、信貴山城は純粋に軍事拠点としての「籠る城」であった。天正元年(1573年)の最初の謀反の際、久秀は降伏の証として多聞山城を信長に明け渡した 14 。これにより、彼の権勢は信長の支配下に組み込まれることとなる。そして天正5年(1577年)、再度の謀反に際して彼が最後の拠点として選んだのが、この信貴山城であった 2 。華美な平山城から険阻な山城への移行は、久秀の政治的立場の変化と、彼の決死の覚悟を物語っている。

以下の年表は、この決戦に至るまでの数十年にわたる複雑な経緯を概観するものである。

【表1】信貴山城の戦い 主要関連年表

年代

主要な出来事

永禄2年 (1559)

松永久秀、大和国へ侵攻。多聞山城の築城を開始 4

永禄8年 (1565)

久秀、筒井順慶(当時は藤勝)から筒井城を奪取 17

永禄9年 (1566)

筒井順慶、三好三人衆と結び、久秀の不在を突いて筒井城を奪還 17

永禄11年 (1568)

織田信長が足利義昭を奉じて上洛。久秀は信長に恭順し、大和一国の支配を安堵される 4 。順慶は再び筒井城を追われる 18

元亀2年 (1571)

辰市城の戦い。筒井順慶が松永久秀・三好義継連合軍に大勝。これを機に順慶は明智光秀を介して信長に接近 18

天正元年 (1573)

久秀、足利義昭・武田信玄らに呼応し、信長に対し最初の謀反を起こす。しかし信玄の病死により降伏。多聞山城を明け渡すことで赦免される 14

天正3年 (1575)

信長、東大寺正倉院の蘭奢待を切り取る。この際の宿所は多聞山城であった 8

天正4年 (1576)

信長、筒井順慶を大和国守護に任じる。久秀の立場が大きく揺らぐ 14 。多聞山城の破却が命じられる 5

天正5年 (1577)

8月: 久秀、石山本願寺攻めの陣から離脱し、二度目の謀反。信貴山城に籠城 24

10月: 織田信忠を総大将とする討伐軍が信貴山城を攻撃。10月10日に落城し、久秀は自害 1


第一部:決戦前夜 ― 謀反に至る道

松永久秀が天正5年(1577年)に起こした二度目の謀反は、単なる衝動的な行動ではない。そこには、彼の複雑な人物像、織田信長との関係性の変化、そして大和国における長年の宿敵との因縁が深く関わっていた。

第一章:大和の支配者、松永久秀

「梟雄」の実像と虚像

松永久秀は、後世において「戦国時代きっての梟雄(きょうゆう)」として、その悪名を轟かせている。その根拠として挙げられるのが、主君・三好長慶の一族を次々と死に追いやり実権を奪ったとされる「主家乗っ取り」、第13代将軍・足利義輝を暗殺した「将軍弑逆」、そして奈良の象徴である東大寺大仏殿を焼き払った「大仏焼き討ち」の三つの大罪である 26 。織田信長が徳川家康に久秀を紹介した際、この三つの悪行を挙げ、「常人では一つとして為せないことを三つもしておる」と語った逸話は、彼の悪人像を決定づけた 26

しかし、これらの悪評は、信長の権力誇示のための政治的プロパガンダや、主君への忠誠を絶対視する江戸時代の価値観によって増幅された側面が強い。近年の研究では、将軍暗殺に久秀は直接関与していなかったとする説や 28 、大仏殿の焼き討ちも、三好三人衆との市街戦の最中に起きた失火であった可能性が有力視されている 29 。彼の行動は、善悪の二元論で断罪されるべきものではなく、「強い者が生き残る」という戦国乱世のリアリズムに根差した、極めて合理的なものであったと再評価されつつある 30

一流の文化人としての一面

梟雄という評価とは裏腹に、久秀は当代一流の文化人でもあった。特に茶の湯への造詣は深く、自らの居城・多聞山城に複数の茶室を設け、そこは畿内屈指の文化サロンとなっていた 5 。あの千利休もこのサロンを訪れたとされ、久秀の文化人としての地位の高さがうかがえる 33

彼が所有した「九十九髪茄子(つくもなす)」や「平蜘蛛釜(ひらぐもがま)」といった名物茶器は、単なる美術品や趣味の道具ではなかった 27 。戦国時代、特に織田信長の時代において、名物茶器は一城に匹敵するほどの価値を持ち、それを所有することは武将のステータスであり、政治的な影響力に直結した 35 。久秀は、武力だけでなく、こうした文化的な権威をも駆使して、大和国に君臨していたのである 34

第二章:一度目の屈服

天正元年(1573年)、松永久秀は信長に対して最初の反旗を翻す。当時、将軍・足利義昭は、武田信玄、浅井・朝倉氏、石山本願寺などと連携し、巨大な反信長連合、いわゆる「信長包囲網」を形成していた 27 。久秀は、信玄が三方ヶ原で織田・徳川連合軍を破ったという報に接し、信長の命運は尽きたと判断、この包囲網に加わった 27 。これは、より強大な勢力に付くという、当時の武将としてごく自然な戦略的判断であった 31

しかし、頼みの綱であった武田信玄が遠征の途上で病死し、武田軍が甲斐へ撤退すると、包囲網は一気に瓦解する 22 。足利義昭も信長によって京から追放され、室町幕府は事実上滅亡した 14 。梯子を外された久秀は、速やかに信長に降伏。その際、自らの権勢の象徴であった多聞山城を明け渡すことで、死罪を免れた 14

信長が「裏切り者には苛烈」というイメージとは裏腹に、この時の久秀を許したのは、単なる温情からではなかった。1573年当時、信長は浅井・朝倉を滅ぼしたばかりで、依然として石山本願寺や長島一向一揆といった敵対勢力を畿内に抱えていた。大和国で隠然たる影響力を持つ久秀をこの時点で粛清すれば、国内に新たな混乱を招き、敵を利する恐れがあった。そのため、多聞山城という「牙」を抜き、自身の支配下に置くことで、彼の軍事力と統治能力を当面は利用する方が得策である、という極めて合理的な戦略的判断が働いていたのである 14

第三章:最後の反旗

一度は許された久秀であったが、それからわずか4年後の天正5年(1577年)8月、再び信長に反旗を翻す。この謀反は、彼の立場を根本から揺るがす、ある決定的な出来事が引き金となっていた。

謀反の引き金

天正4年(1576年)5月、信長は、久秀が数十年にわたり大和の覇権を争ってきた宿敵・筒井順慶を、大和国守護に任命したのである 14 。これは、信長が大和国の公式な支配者を、久秀から順慶へと切り替えたことを意味した。かつては自身が大和一国を安堵されていたにもかかわらず、今や宿敵の下に置かれるという屈辱は、60歳を過ぎた梟雄のプライドを著しく傷つけた 39 。自身の政治的生命が尽きたと悟った久秀は、再起を賭けた最後の博打に出ることを決意する。

その背景には、当時の緊迫した国際情勢があった。北陸では「軍神」上杉謙信が織田軍を破って能登を平定し、破竹の勢いで南下する気配を見せていた。中国地方では毛利氏が、そして畿内では石山本願寺が、依然として信長への抵抗を続けていた 24 。久秀は、この第二次信長包囲網とも言うべき反信長勢力の連携に勝機を見出し、これに呼応する形で決起したのである 40

戦線離脱と籠城

天正5年8月17日、久秀は信長の命令で参加していた石山本願寺攻めの拠点、天王寺砦を焼き払い、自軍を引き連れて戦線を離脱 25 。そして、最後の拠点と定めた大和の信貴山城へと立て籠もった 2 。この行動は、自暴自棄によるものではなく、情勢を読んだ上での最後の戦略的賭けであった。当時、織田家にとって最大の脅威は南下する上杉謙信であり、信長は柴田勝家率いる主力を北陸に派遣していた 14 。久秀は、信長が畿内に大規模な討伐軍を即座に派遣する余力はないと踏んだ可能性が高い。謙信が勝利すれば織田政権は瓦解し、自身は生き残れる。それは、時勢を読み、最も可能性のある強者に賭けるという、彼なりの合理的な判断に基づく行動であった。しかし、その情勢判断は、結果的に致命的な誤りとなるのであった。


第二部:信貴山城の攻防 ― 合戦のリアルタイム詳報

松永久秀の謀反に対し、織田信長の反応は迅速かつ苛烈であった。彼はこの反乱を鎮圧するため、嫡男・織田信忠を総大将に任命し、畿内周辺の主だった武将を動員。梟雄の最後の砦、信貴山城へと軍勢を差し向けた。

【表2】信貴山城攻城軍と籠城軍の兵力・主要武将比較

項目

織田軍(攻城側)

松永軍(籠城側)

総兵力

約40,000 1

不明(支城と合わせ数千規模と推定) 14

総大将

織田信忠 14

松永久秀

主要武将

明智光秀、細川藤孝、筒井順慶、佐久間信盛、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀など 14

松永久通、飯田基次、森好久、海老名友清、森正友など 1

この圧倒的な兵力差は、信長がこの謀反をいかに重大事と捉え、絶対に許さないという強い意志を持っていたかを示している。また、信忠に方面軍司令官クラスの宿老たちを付けて大軍を指揮させることは、彼を後継者として内外に披露するという政治的意図も含まれていた。

【表3】信貴山城攻防 時系列詳細

日付

織田軍の動き

松永軍の動き

特記事項

10月1日

先鋒部隊(明智、細川、筒井ら)が片岡城を攻撃、即日陥落させる 14 。総大将・信忠が安土を出陣 14

片岡城で海老名氏らが籠城するも、激戦の末に討死 14

前哨戦で織田軍が圧勝し、信貴山城は完全に孤立。

10月2日

10月3日

信忠本隊が先鋒と合流。信貴山城下に到達し、城下町を焼き払う 14

信貴山城に籠城し、防備を固める。

10月4日

信貴山城を4万の大軍で完全に包囲 1

10月5日

第一次総攻撃を開始するも、松永方の激しい抵抗に遭い、多大な損害を出して頓挫 1

飯田基次らが城外へ討って出て奮戦。織田軍に数百人の死傷者を与える 1

信長、京で人質の孫二人(12歳、13歳)を六条河原で処刑 25

10月6日

攻城戦は膠着状態に。武力攻めから調略へと戦術を転換。

籠城を続ける。

10月7日

10月8日

筒井順慶の調略により、松永方の密使が投降 14

援軍要請の密使を城外へ送る。

内応者が偽の援軍(筒井勢200名)を率いて城内に帰還 14

10月9日

翌日の総攻撃に向けて準備。

偽の援軍到着により、城内の士気が一時的に上がるも、油断が生じる。

10月10日

未明より第二次総攻撃を開始。内応者の放火と呼応し、城内へ突入 14

内応者の放火により城内は大混乱。防衛線が崩壊。松永久秀・久通親子は天守に火を放ち自害 1

信貴山城落城。松永氏滅亡。

第一章:織田軍の進発と前哨戦(10月1日~4日)

10月1日 、松永久秀討伐の火蓋は、信貴山城の南に位置する支城・片岡城で切られた 45 。織田軍の先鋒を務めるのは、明智光秀、細川藤孝、そして久秀の宿敵・筒井順慶らであった 14 。彼らは約5,000の兵で片岡城に殺到した 44 。城を守る松永方の海老名友清、森正友らは約1,000の兵で籠城し、激しく抵抗したものの、織田軍の圧倒的な物量の前に抗う術はなかった 14 。激戦の末、片岡城はその日のうちに陥落。海老名、森をはじめ150名以上が討死した 14

この片岡城の電撃的な攻略は、単なる前哨戦以上の意味を持っていた。これは、信貴山城を完全に孤立させると同時に、織田軍の圧倒的な戦力と攻撃意志を久秀に見せつけ、その士気を砕くための心理戦であった。久秀が抱いていたであろう「信長はすぐには大軍を派遣できない」という淡い期待は、戦いの初日にして無残に打ち砕かれたのである。

同日、総大将の織田信忠が安土城を出陣 14

10月3日 には先鋒隊と合流し、信貴山城下へ到達。抵抗する者もいない城下町をことごとく焼き払い、城兵の眼前でその威力を誇示した 14

10月4日 までには、約4万の大軍が信貴山城を幾重にも取り囲み、蟻一匹這い出る隙もない完全な包囲網が完成した。

第二章:攻城戦の開始と膠着(10月5日~9日)

10月5日 、織田軍による第一次総攻撃が開始された 1 。4万の軍勢が鬨の声をあげ、信貴山の麓から一斉に攻め上った。しかし、信貴山城の守りは堅く、松永軍は決死の覚悟でこれを迎え撃った。特に、久秀の家臣・飯田基次が率いる200余りの兵が城から討って出て、織田軍の陣に斬り込み、数百人の死傷者を出すという目覚ましい奮戦を見せた 1 。織田軍は思わぬ損害を被り、攻めあぐねる。戦いは持久戦の様相を呈し始めた 1

同日、京都にいた信長は、この戦況に業を煮やしたか、非情な決断を下す。人質として預かっていた久秀の孫、すなわち嫡男・久通の子である12歳と13歳の兄弟を、六条河原に引き出し、斬首に処したのである 25 。これは、久秀に降伏という選択肢がもはや存在しないことを内外に示す、冷徹な意思表示であった。

力攻めが困難と見た織田軍は、戦術を調略へと切り替える。ここで中心的な役割を果たしたのが、大和国の地理と人間関係を知り尽くした筒井順慶であった。 10月8日 の夜、事態は大きく動く。援軍を求める密使として信貴山城を出た松永方の武将が、順慶の陣に駆け込み投降したのである。この武将は、もともと筒井家の家臣であった 14 。順慶はこの好機を逃さず、寝返った武将に自らの精鋭200名を授け、「石山本願寺からの援軍が到着した」と偽って、再び城内に送り込むことに成功した 14

この作戦は、単なる内部工作に留まらない、高度な心理戦であった。物理的な攻撃では揺るがなかった信貴山城の守りは、長年の因縁を知る者の手によって、内部から静かに崩されようとしていた。この戦局の転換は、織田軍の圧倒的な「ハードパワー(軍事力)」だけでは城を落とせず、筒井順慶の持つ「ソフトパワー(人脈・情報網)」が決定的な役割を果たしたことを示している。

第三章:落城、そして伝説の終焉(10月10日)

運命の 10月10日 、未明。織田軍は第二次総攻撃を開始した。夜明け前の闇を切り裂くように、四方から鬨の声が上がり、4万の兵が再び山上を目指した 14

これと呼応するように、城内では前日から潜入していた筒井勢が各所で一斉に火を放った。偽の援軍に油断し、また夜襲に備えて疲弊していた城内は、内部からの放火によって瞬く間に大混乱に陥った 14 。防衛線は崩壊し、織田軍の兵が次々と城内へとなだれ込んだ。

もはやこれまでと覚悟を決めた松永久秀と嫡男・久通は、城の中心にそびえる四層の天守櫓に駆け上り、自ら火を放った 1 。燃え盛る炎の中、親子は自害して果てた。松永久秀、享年68。久通、享年35であった 1 。『多聞院日記』には、「信貴城猛火天ニ耀テ見了(信貴山城が猛火に包まれ、天に輝いて見えた)」と、その壮絶な最期が記されている 22

名物「平蜘蛛釜」の行方

久秀の最期を語る上で欠かせないのが、彼が最後まで手放さなかったとされる名物茶器「平蜘蛛釜」の逸話である。信長はこの茶釜に強い執着を示し、降伏の条件としてその献上を求めたと伝えられる。しかし、久秀は「平蜘蛛の釜とわが首を同時に信長に差し出すことはせぬ」とこれを拒絶したという 27

通説では、久秀は平蜘蛛釜を木槌で粉々に打ち砕き、火薬を詰めてそれに点火し、名器もろとも爆死したとされている 1 。しかし、この劇的な逸話は、同時代の信頼できる史料には見られないことから、後世の創作である可能性が高い 1 。『多聞院日記』や『兼見卿記』といった一次史料は、親子が切腹し、自ら火を放って焼死したと記録している 1

それでもなお、この逸話が語り継がれるのは、それが単なる茶器の話ではなく、信長の「価値観による支配」に対する久秀の「文化的アイデンティティによる最後の抵抗」を象徴しているからに他ならない。信長は、茶器を恩賞として与えることで家臣団を統制する新たな価値体系(御茶湯御政道)を築いた 37 。久秀にとって平蜘蛛釜は、自らの審美眼の象徴であり、文化人としての誇りそのものであった。それを信長に渡すことは、自らの価値観が信長のそれに完全に屈服することを意味した。釜を破壊したとされる行為は、物理的な敗北は認めても、精神的な領域における最後の砦は明け渡さないという、壮絶な意志表示として解釈できるのである。

歴史の偶然

信貴山城が炎に包まれた10月10日は、奇しくも10年前の永禄10年(1567年)10月10日に、東大寺大仏殿が戦火で焼失した日と全く同じであった。『信長公記』や『多聞院日記』は、当時の兵たちがこれを「春日明神の神罰」「仏罰」と噂したことを記している 24 。梟雄の最期は、このような因縁めいた形で幕を閉じたのであった。


第三部:戦後の大和と松永久秀という記憶

信貴山城の落城は、単に一人の武将が滅んだというだけでは終わらなかった。それは大和国の勢力図を完全に塗り替え、織田政権の支配体制をより強固なものとし、そして「松永久秀」という強烈な記憶を後世に残すことになった。

第一章:大和国の新秩序

この戦いによって、約20年にわたり大和国に一大勢力を築いた松永氏は、完全に歴史から姿を消した。戦後、信長は改めて筒井順慶を大和一国の支配者として公認した 14 。長年の宿敵を自らの手で討ち果たした順慶は、名実ともに大和の国主となり、新たな本拠として郡山城を築き、戦乱で疲弊した国内の安定化に努めた 4

この一連の出来事は、織田政権による地方秩序の再編プロセスを象徴している。信貴山城の戦いは、大和国における松永久秀(新興・外部勢力)と筒井順慶(土着・伝統勢力)の長期にわたる覇権争いの最終幕であった 18 。信長はこの地方紛争に介入し、自らに従順な筒井順慶を勝者とすることで、大和国を自身の支配体制下に効果的に組み込んだのである。これは、各地の在地勢力を織田家のヒエラルキーに組み込みながら天下統一を進めるという、信長の基本的な統治戦略のモデルケースとなった。

また、信長にとってこの戦いは、畿内における有力な反抗勢力を一つ排除し、支配を盤石にしただけでなく、嫡男・信忠の披露の場としても大きな意味を持った。4万という大軍を率いて難敵を滅ぼしたという実績は、信忠を織田家の後継者として内外に強く印象付けたのである 43

第二章:語り継がれる梟雄

松永久秀は、その死後も人々の記憶から消えることはなかった。特に、平蜘蛛釜と共に爆死したという伝説は、彼の型破りで常識にとらわれない生き様と結びつき、講談や物語を通じて広く流布していった 1

江戸時代を通じて、主君への忠義を重んじる儒教的価値観から「大悪人」としてのイメージが定着した。しかし近年では、一次史料の再検討が進み、彼の革新性(多聞山城の築城など)、文化人としての優れた素養、そして戦国乱世を生き抜いた武将としての合理的な行動が再評価されている 29

松永久秀の伝説が、数多の戦国武将の中でもひときわ強い輝きを放ち続けるのは、彼の生涯が戦国時代の「混沌」と「創造」という二面性を鮮やかに体現しているからであろう。下剋上、革新的な城の築城、将軍暗殺や大仏焼き討ちといった(真偽はともかく)大事件への関与、二度の裏切り、そして茶器と共に散るという劇的な最期。彼の存在は、旧来の権威を破壊する「混沌」の象徴であると同時に、多聞山城のような新しい文化や価値を生み出す「創造」の象徴でもある。この善悪では割り切れない複雑さとダイナミズムこそが、彼を魅力的な歴史上の人物たらしめ、後世の人々の想像力を掻き立て続けているのである。


結論:信貴山城の戦いが戦国史に刻んだもの

天正5年(1577年)10月に繰り広げられた信貴山城の戦いは、織田信忠が率いる圧倒的な軍事力と、筒井順慶の地の利を活かした巧みな調略が融合し、戦国時代を代表する梟雄・松永久秀をその長い歴史の終焉へと導いた決定的な合戦であった。

この戦いは、単なる一武将の討伐という枠を超え、複数の重要な歴史的意義を持つ。第一に、織田信長による畿内支配を最終的に確立させ、天下統一事業を大きく前進させた点。第二に、大和国における数十年にわたる内乱に終止符を打ち、筒井順慶を中心とする新たな統治秩序を誕生させた点。そして第三に、織田信忠を次代の天下人として内外に披露し、織田政権の後継者体制を盤石なものとした点である。

そして何よりも、松永久秀という人物の劇的な最期は、彼の複雑で多面的な人物像と共に、旧来の価値観が崩壊し、個人の才覚と野心が全てを決定した戦国乱世の激しさと、その時代の終焉を象徴する出来事として、後世に長く記憶されることとなった。多聞山城に体現された彼の革新性と文化的野心、そして信貴山城の炎と共に消えた壮絶な生涯は、今なお我々に戦国という時代の本質を問いかけている。

引用文献

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  6. 私の好きな奈良:多聞城 信長が愛した先進美麗な城 松永久秀の三悪は冤罪 - note https://note.com/rapid_puma645/n/n58345a1416f5
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  19. 奈良の市街戦(松永×筒井、三好三人衆) http://rekishi-nara.cool.coocan.jp/tokushu/yamasen/yamasen16.htm
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  21. 筒井順慶は何をした人?「洞ヶ峠を決め込んで光秀と秀吉の天王山を日和見した」ハナシ https://busho.fun/person/junkei-tsutsui
  22. 光秀が若武者だった頃からの盟友・松永久秀の幻の天空城・信貴山城を行く【「麒麟がくる」光秀の足跡を辿る】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1011605
  23. 筒井順慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
  24. 松永久秀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
  25. 太田牛一『信長公記』に見る松永征伐 - note https://note.com/senmi/n/n7653e62c9da8
  26. 松永久秀は何をした人?「信長を二度も裏切った極悪人で平蜘蛛を抱えて爆死した」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/hisahide-matsunaga
  27. 日本史上最悪の男?~松永久秀 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/matsunagahisahide/
  28. 爆死も足利義輝殺害もしていない?戦国武将・松永久秀3つの悪行の実像に迫る - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/90076/
  29. 武将・松永久秀は本当に大仏を焼いたのか?彼が日本史上屈指の極悪人とされた本当の理由 https://mag.japaaan.com/archives/199339
  30. 日本初の爆死!? 信長を裏切って許された男の最期【松永久秀】/『残念な死に方事典』① https://ddnavi.com/article/d610882/a/
  31. 松永久秀はなぜ、織田信長に裏切りの罪を許されたのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7738?p=1
  32. 逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 第16回【松永久秀】派手な逸話に彩られた戦国きっての悪人の素顔 - 城びと https://shirobito.jp/article/1604
  33. 大和の戦国時代 | 深掘り!歴史文化資源 - 奈良県 https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/fukabori/detail05/
  34. 松永久秀(まつなが ひさひで) 拙者の履歴書 Vol.63~謀略の果てに、策を尽くす - note https://note.com/digitaljokers/n/nb8d4928b9a32
  35. teaenergy.co.jp https://teaenergy.co.jp/2024/09/20/samurai-and-green-tea-tea-culture-in-the-sengoku-period/#:~:text=%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84%E3%81%A6%E3%80%81%E8%8C%B6%E4%BC%9A%E3%81%AF,%E5%BA%83%E3%81%8F%E8%AA%8D%E7%9F%A5%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  36. その価値、一国相当なり!戦国時代の器がハンパない件。 | 大人も子供も楽しめるイベント https://tyanbara.org/sengoku-history/2018010125032/
  37. なぜ戦国時代のエリートらは茶道に熱狂したのか 政治に利用、武士としての評価にもつながった https://toyokeizai.net/articles/-/622632?display=b
  38. Battle of SHIGISANJO - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=M7E2EYgoYSw
  39. 松永久秀との激闘(2) - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon0105b.html
  40. 織田信長を裏切った「松永久秀」と「荒木村重」。〈信長の人事の失敗〉と本能寺の変との共通点【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1014856/2
  41. 本願寺と一向宗(浄土真宗)の拡大 https://id.sankei.jp/wave/resume/%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E3%81%A8%E4%B8%80%E5%90%91%E5%AE%97%EF%BC%88%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%EF%BC%89%E3%81%AE%E6%8B%A1%E5%A4%A7.pdf
  42. 乱世を焦がした戦国のダークヒーロー松永久秀 信長を何度も裏切った武将 - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=ku6zup9Uh_0&pp=ygUNI-WuieWuheWGrOW6tw%3D%3D
  43. 織田信長の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84754/
  44. 【合戦解説】松永久秀から見た“信貴山城の戦い” - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=1Syj9nQjNAc
  45. 片岡城跡/上牧町ホームページ https://www.town.kanmaki.nara.jp/soshiki/shakai_kyoiku/gyomu/kanko_joho/meisho/774.html
  46. 松永久秀亂世立志傳: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/13334187/
  47. 今、蘇る。 戦国時代の片岡城 - 上牧町 https://www.town.kanmaki.nara.jp/material/files/group/3/kataokajyo.pdf
  48. 片岡城 - 城びと https://shirobito.jp/castle/2141
  49. 松永久秀の歴史的役割について|山村純也 - note https://note.com/rakutabi2005/n/n8bb70a722f2e
  50. 多聞院日記 奈良・信貴山 http://www.mejirodai.net/PDF/shisho_03.pdf
  51. 御茶湯御政道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E8%8C%B6%E6%B9%AF%E5%BE%A1%E6%94%BF%E9%81%93
  52. 『織田信忠―天下人の嫡男』/和田裕弘インタビュー https://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/114249.html
  53. 「敵は本能寺にあり」を全力で回避せよ - 小説家になろう https://ncode.syosetu.com/n4681fa/87/
  54. 武将ブログ 「松永久秀」の最期 - 刀剣ワールド https://www.touken-hiroba.jp/blog/8723475-2/