宮津城の戦い(1580)
丹後国を巡る「宮津城の戦い」は、織田・細川連合軍による一色氏平定、宮津城築城、そして本能寺の変後の細川忠興による一色義定謀殺を経て、細川氏が丹後を完全に掌握する権力移行の過程であった。
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「宮津城の戦い(1580)」の歴史的実像:丹後国支配をめぐる織田・細川連合軍の戦略と権力移行の全貌
序章:問い直される「宮津城の戦い(1580)」
天正8年(1580年)、丹後国宮津において織田系の諸将が海城を制圧し、日本海側の軍港・流通拠点を確保したとされる「宮津城の戦い」。この簡潔な記述の背後には、単一の合戦に収斂されない、数年にわたる壮大かつ複雑な権力移行のドラマが隠されている。史料を丹念に読み解くと、天正8年という年は大規模な攻城戦が行われた年ではなく、織田信長の天下統一事業の一環として、細川藤孝(幽斎)が丹後支配の新たな拠点となる「宮津城の築城を開始した」画期的な年であったことが明らかになる 1 。
したがって、ユーザーの真の関心事である「合戦中のリアルタイムな状態」を解明するためには、視点を大きく広げ、一連の歴史的プロセスを包括的に捉え直す必要がある。本報告書では、「宮津城の戦い」を、以下の三つの連続したフェーズから構成される、丹後国の支配権をめぐる一大叙事詩として再定義し、その全貌を時系列に沿って徹底的に解説する。
- 丹後平定戦(天正7年 / 1579年) : 明智光秀と細川藤孝率いる織田軍が、丹後守護・一色氏の拠点を次々と攻略し、その支配体制を軍事的に解体した段階。
- 宮津城築城と新体制の確立(天正8年 / 1580年) : 細川藤孝が丹後統治の拠点として宮津城の建設に着手し、中世的な支配構造から近世的な領国経営へと転換を図った段階。
- 一色氏残党の掃討と丹後完全平定(天正10年 / 1582年) : 本能寺の変後の政治的混乱の中、細川氏が宮津城を舞台に一色氏の最後の当主を謀殺し、丹後一国の完全な掌握を成し遂げた最終段階。
この三つのフェーズを貫く物語こそが、「宮津城の戦い」の歴史的実像である。以下の年表は、この激動の時代における丹後、そして周辺地域の動向を俯瞰するための道標となるだろう。
表1:丹後平定と宮津城創建に関わる時系列年表(天正3年~天正10年)
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年 |
月 |
中央(織田政権)の動向 |
丹波の動向(明智光秀) |
丹後の動向(一色氏・細川氏) |
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天正3年 (1575) |
10月 |
信長、光秀に丹波攻略を命じる 3 。 |
第一次黒井城の戦い開始 4 。 |
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天正4年 (1576) |
1月 |
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波多野秀治の裏切りにより敗走 4 。 |
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天正5年 (1577) |
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信長、光秀に再度丹波攻略を命じる 3 。 |
亀山城(亀岡市)を築城し、丹波攻略の拠点とする 6 。 |
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天正7年 (1579) |
1月 |
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一色義道、居城の建部山城(八田城)を落とされ自害 8 。 |
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6月 |
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八上城を開城させ、波多野秀治らを処刑 4 。 |
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8月 |
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第二次黒井城の戦いで勝利し、丹波をほぼ平定 4 。 |
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10月 |
光秀、安土城で信長に丹波平定を報告 4 。 |
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丹後平定戦が本格化。一色義定は弓木城に籠城 11 。 |
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天正8年 (1580) |
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和睦成立。細川藤孝の娘が一色義定に嫁ぐ 13 。 |
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8月 |
信長、藤孝に丹後一国を与え、光秀に丹波一国を与える 2 。 |
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細川藤孝・忠興親子、宮津に入り 宮津城の築城を開始 2 。 |
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天正9年 (1581) |
4月 |
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光秀親子、宮津を訪れ、細川父子と共に天橋立を見物 1 。 |
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天正10年 (1582) |
6月 |
本能寺の変 。織田信長自害。山崎の戦いで明智光秀敗死。 |
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細川父子は光秀の誘いを拒絶。一色義定は光秀に味方する 15 。 |
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9月 |
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細川忠興、 宮津城 にて一色義定を謀殺。弓木城も落城し、一色氏滅亡 15 。 |
第一章:戦乱前夜の丹後国 ― 守護大名一色氏の落日
織田信長の軍勢が丹後国にその矛先を向ける以前、この地は長きにわたる内部の矛盾と衰退の過程にあった。名門守護大名・一色氏の権威は失墜し、その統治基盤は著しく脆弱化していた。この内部崩壊こそが、外部からの軍事介入を招き、丹後の運命を大きく変える土壌となったのである。
第一節:名門一色氏の権威と実態
一色氏は、清和源氏足利氏の支流であり、室町幕府においては将軍家に次ぐ家格を誇る四職(ししき)の筆頭に数えられる名門であった 18 。丹後国の守護職を世襲し、二百数十年以上にわたりこの地を治めてきたその権威は、本来であれば揺るぎないものであったはずである。
しかし、戦国乱世の荒波は、この名門の足元をも容赦なく侵食していた。一色氏の統治は盤石とはほど遠く、守護代の延永(のぶなが)氏や各地の国人衆との間で絶えず内紛が繰り返されていた 20 。特に、守護代の延永春信と有力被官の石川直経との対立は深刻で、丹後国内は「国錯乱」と称されるほどの激しい戦乱状態に陥っていた 18 。このような状況下では、守護としての統制力は名ばかりとなり、一色氏は丹後一国を完全に掌握できていなかった 19 。
織田軍侵攻時の当主であった一色義道に至っては、領内に悪政を敷いたため人望に乏しく、国人たちの離反を加速させる要因を作っていたとされる 9 。織田軍の侵攻は、単なる外部からの軍事征服という側面だけでなく、一色氏の統治体制が内包していた構造的欠陥を巧みに突き、内部から崩壊を促した戦略的介入であったと分析できる。細川藤孝のような旧幕臣は、丹後のこうした内情に精通していた可能性が高く、軍事行動と並行して行われた国人衆への調略が、戦いの趨勢を決定づけた重要な要素であったと考えられる。
第二節:丹後国の地政学的価値
一色氏の統治が揺らぐ一方で、丹後国が持つ戦略的・経済的重要性は、天下統一を目指す織田信長にとって決して見過ごせるものではなかった。
その中核をなすのが、古代より丹後の中心地であった宮津である 22 。宮津は、天然の良港である「宮津湊」を擁し、古くから日本海海運の要衝として栄えていた。この港は、若狭や但馬、さらには大陸や国内各地を結ぶ交易の一大拠点であり、物資と富が集積する経済の中心地であった 23 。丹後水軍を率いる一色氏は、この海上交通路を掌握することで一定の勢力を保っていた 27 。
信長の視点から見れば、丹後は畿内に隣接し、天下統一事業を西国へ拡大するための極めて重要な戦略的要地であった。特に、当時最大の敵対勢力であった中国地方の毛利輝元を攻略するにあたり、山陽道を進む羽柴秀吉の軍団と連携し、日本海側から毛利領を脅かす第二戦線を構築する必要があった。そのための水軍基地、兵站拠点として、宮津湊を擁する丹後国の確保は、西国攻略の成否を左右するほどの戦略的価値を持っていたのである 1 。
第二章:織田信長の西国攻略と丹後侵攻の開始
天正7年(1579年)、丹後国に織田信長の大軍が侵攻する。この軍事行動は、信長の壮大な天下統一戦略の中に明確に位置づけられており、その実行には周到な準備と、最適な人材の配置がなされていた。
第一節:丹波平定という布石
丹後侵攻は、決して突発的な作戦ではなかった。それは、天正3年(1575年)から明智光秀が指揮を執っていた丹波攻略戦の、いわば最終段階であった。丹波国は、京都と丹後を結ぶ回廊地帯であり、この地を平定しない限り、丹後への安定した進軍路と後方支援体制は確保できない。
光秀は、この丹波で「丹波の赤鬼」と恐れられた猛将・赤井(荻野)直正や、八上城の波多野秀治といった国人領主たちの激しい抵抗に直面した 3 。一度は波多野氏の裏切りによって壊滅的な敗北を喫するなど、攻略は困難を極めたが、光秀は亀山城(現・亀岡市)を築いて拠点を固め、粘り強い包囲戦と調略を駆使して、約5年の歳月をかけて反抗勢力を一つずつ鎮圧していった 6 。天正7年(1579年)8月、最後の拠点であった黒井城を陥落させ、丹波平定を完了したことで、ようやく丹後侵攻への道が開かれたのである 4 。丹波平定は、丹後攻略のための絶対的な前提条件であり、織田軍の周到な戦略の一端を物語っている。
第二節:侵攻軍の編成 ― 明智光秀と細川藤孝
丹後侵攻作戦の総司令官には、丹波方面軍団長としてこの地域を知り尽くした明智光秀が就任した。そして、その与力として軍事作戦の中核を担ったのが、細川藤孝(幽斎)であった 22 。
細川藤孝は、単なる一武将ではない。彼は足利将軍家に仕えた旧幕臣でありながら、時代の潮流を鋭敏に読み解き、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という5人の天下人に仕え抜いた稀代の政治家であった 31 。その処世術は、和歌や茶道、有職故実に通じた当代随一の文化人としての素養に裏打ちされていた 32 。一方で、剣術を塚原卜伝に学び、弓術にも長けた一流の武人でもあった 34 。この文武両道に秀でた冷静な判断力と、光秀との盟友関係が、彼を丹後攻略の主将という大役に抜擢させたのである。丹後という歴史と文化の深い土地を統治する上で、藤孝の持つ教養と政治力は、単なる武力以上に不可欠な要素であった。
第三章:丹後平定戦(1579年)― 時系列で追う一色氏の滅亡
天正7年(1579年)、丹波を完全に掌握した織田・細川連合軍は、間髪入れずに丹後国へと雪崩れ込んだ。それは、内部分裂を抱える地方の旧守護勢力と、中央集権化された先進的な軍事・政治システムを持つ織田政権との、構造的な非対称性が露呈した戦いであった。
表2:丹後平定戦における両軍の主要構成比較
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項目 |
織田・細川連合軍 |
一色軍 |
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総大将 |
明智光秀 |
一色義道 |
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主力武将 |
細川藤孝、細川忠興 |
一色義定、一色義清 |
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推定兵力 |
10,000以上 4 |
2,000~3,000程度 |
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主要拠点 |
亀山城、福知山城(後方支援) |
建部山城(八田城)、弓木城 |
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戦略目標 |
丹後一国の完全支配、日本海制海権の確保 |
領国維持、織田勢力の撃退 |
第一節:侵攻開始と国人衆の離反(天正7年初頭~)
連合軍の侵攻は、純粋な軍事行動と並行して、巧みな調略戦が展開された。細川藤孝は、丹後の国人衆が長年にわたり一色氏の統治に不満を抱いていたことを見抜き、その切り崩しを積極的に図った。
その典型的な例が、婚姻政策による味方の獲得である。日置城主(現・宮津市)であった松井康之に対し、藤孝は自身の娘を嫁がせ女婿とすることで、彼を味方に引き入れた 36 。同様の策は各地で用いられ、一色氏の悪政に嫌気がさしていた国人たちは、次々と織田方へと寝返っていった。これにより、一色軍は組織的な抵抗を行う前に、内部から瓦解していくことになったのである。
第二節:建部山城の攻防と一色義道の最期(天正7年)
国人衆の支持を失い、孤立した一色義道は、居城である建部山城(八田城)に籠城して最後の抵抗を試みた 5 。しかし、圧倒的な兵力差と、もはや味方のいない状況では、城を守り切ることは不可能であった。
天正7年(1579年)1月、建部山城は陥落。追い詰められた義道は、隣国但馬の山名氏を頼って落ち延びようとした。しかし、その道中で身を寄せた中山城主・沼田幸兵衛の裏切りに遭い、行き場を失って自害したと伝えられている 9 。ここに、丹後守護としての一色宗家は事実上滅亡し、組織的抵抗は終焉を迎えた。
第三節:弓木城籠城戦 ― 一色義定の抵抗と和睦(天正7年後半~天正8年)
父・義道の死後も、その子である一色義定(史料によっては満信、義俊とも記される 38 )は、残存兵力を結集し、与謝郡の堅城・弓木城に立てこもって徹底抗戦の構えを見せた 11 。
弓木城は天然の要害であり、加えて城内には鉄砲の名手として知られた稲富氏の一族が守りを固めていたため、織田軍は力攻めを試みるも、容易には陥落させることができなかった 11 。これ以上の損害を避けたい光秀と藤孝は、軍事力による制圧から政治的解決へと戦略を転換する。
明智光秀の仲介のもとで和睦交渉が進められ、最終的に細川藤孝の娘・伊也(通称、菊の方)を義定に嫁がせるという政略結婚によって講和が成立した 13 。この和睦の条件として、丹後国は細川氏が南半国の加佐郡・与謝郡を、一色氏が北半国の中郡・竹野郡・熊野郡をそれぞれ領有するという、分割統治の形が取られることになった 2 。これは一見、一色氏の存続を認めたかのように見えるが、実質的には丹後の中心地と経済の動脈を細川氏が掌握したことを意味しており、一色氏の勢力は大きく削がれる結果となった。
第四章:新時代の象徴、宮津城の誕生(1580年)
丹後平定戦の終結と和睦の成立は、丹後国における新たな時代の幕開けを告げるものであった。天正8年(1580年)、織田信長は丹後一国を細川藤孝に与えることを正式に裁定 2 。これを受け、藤孝は丹後支配の拠点として、そして信長の天下統一戦略の一翼を担う基地として、宮津の地に壮大な城を築き始める。宮津城の誕生は、単なる居城の移転ではなく、中世から近世への大きなパラダイムシフトを象徴する出来事であった。
第一節:丹後統治の拠点選定
丹後の新たな領主となった藤孝が最初に入ったのは、八幡山城であったとされる 16 。しかし、これはあくまで一時的な拠点に過ぎなかった。藤孝は間もなく、本格的な領国経営と広域軍事戦略の拠点として、宮津の地を選定する。
この選択は、極めて象徴的である。一色氏をはじめとする中世の守護大名は、防御を主眼とした山城を本拠とすることが多かった。しかし藤孝は、平地であり、かつ日本海に面した宮津を選んだ。これは、守旧的な防衛思想から脱却し、経済(海運)と広域的な軍事展開を最優先する、織田政権の先進的な統治思想を体現するものであった。
第二節:日本海を睨む海城の縄張り
天正8年(1580年)8月、細川藤孝・忠興親子は宮津に入り、急ピッチで新城の建設と城下町の整備に着手した 2 。この宮津城は、その構造において明確な戦略的意図を持っていた。
宮津城は、宮津湾に直接面して築かれ、本丸から直接船を出すことが可能な構造を持つ、本格的な「海城(うみじろ)」であった 1 。これは、単に丹後を治めるための城ではない。織田政権の次なる戦略目標である中国地方の毛利氏、特にその日本海側の拠点である鳥取城などへの攻撃を視野に入れた、水軍の前進基地としての機能が最優先されていたのである 28 。宮津城の築城は、信長の天下統一戦略における「日本海方面軍」の兵站基地建設という、より広域な構想の一環であったと解釈できる。羽柴秀吉が山陽道から毛利を攻める一方で、細川藤孝は宮津城を拠点として日本海ルートを確保し、毛利を挟撃するための重要な役割を担っていたのである。
城の縄張りは、西を流れる大手川を天然の外堀とし、その内側に本丸、二の丸、三の丸を配する構造であったと推定される 41 。当時の絵図からは、城内に直接船を引き入れるための「舟入」が存在した可能性も指摘されており、その軍事拠点としての性格を色濃く示している 43 。
第三節:城下町の建設と丹後再編
築城と並行して、城下町の建設も精力的に進められた。これにより、丹後の政治・経済・軍事の中心は、旧来の拠点から急速に宮津へと集約されていった。これは、細川氏による新たな支配体制が、物理的な都市計画という形で丹後の地に根を下ろし、中世的な荘園構造を解体して近世的な城下町中心の領国経済へと再編していく過程であった 2 。天正9年(1581年)4月には、明智光秀親子が宮津を訪れ、完成しつつある城と城下町を視察し、細川父子と共に天橋立で舟遊びを楽しんだ記録も残っている 1 。
第五章:最終局面 ― 宮津城での謀殺と一色氏の終焉(1582年)
丹後国に一時的な平穏が訪れたかに見えたが、その均衡は中央の政変によって脆くも崩れ去る。天正10年(1582年)の本能寺の変は、丹後の運命を再び激動の渦に巻き込み、細川氏と一色氏の間に最後の、そして最も凄惨な対決をもたらした。その舞台となったのが、築城からわずか2年の宮津城であった。
第一節:本能寺の変と丹後の動揺(天正10年6月)
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が主君・織田信長を討つという衝撃的な事件が発生する。光秀にとって、丹後の情勢は自らの命運を左右する重要な要素であった。彼は直ちに、娘の玉子(ガラシャ)が嫁いでいる細川忠興、そしてその父・藤孝に味方になるよう要請した。
しかし、細川父子の選択は、光秀の期待を裏切るものであった。藤孝は即座に剃髪して「幽斎」と号し、家督を忠興に譲って隠居することで、信長への弔意を示すと共に、光秀への加担を明確に拒絶した 16 。これは、光秀の政権が短命に終わることを見抜いた、藤孝の冷徹な政治判断であった。
一方で、丹後北半国を治める一色義定は、直接の上司にあたる光秀に味方するという、細川氏とは正反対の道を選んだ 15 。この決断が、両家の間にあった見せかけの和睦関係を完全に破壊し、義定自身の命運を尽きさせる直接の原因となった。
第二節:宮津城、血の祝宴(天正10年9月8日)
山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れ、討死すると、丹後国内の政治情勢は一変する。秀吉が新たな天下人として台頭する中、光秀の与党であった一色義定の存在は、細川家にとって極めて危険な政治的リスクとなった。秀吉への忠誠を明確に示し、丹後一国の支配権を盤石なものにするため、忠興は義定の抹殺を決意する 11 。
この謀殺は、単なる裏切りや憎悪によるものではなく、本能寺の変によって生じた権力再編の激流の中で、細川家が近世大名として生き残るために行った、冷徹な政治的清算であった。
忠興は、父・幽斎の名前を使い、「舅と婿として、親しく対面したい」という名目で、義定を完成間もない宮津城へと招待した 17 。天正10年9月8日、わずかな供回りを連れて宮津城に到着した義定は、城内の書院で忠興と対面する。和やかな祝宴が始まったかに見えたその瞬間、悲劇は起こった。義定が盃を口にしようとした刹那、忠興は抜き打ちに太刀を振るい、義定の肩先から脇腹にかけて深く斬りつけた。不意を突かれた義定はなすすべもなく縁側に崩れ落ち、息絶えた。同時に、城内に待ち伏せていた細川家の家臣たちが義定の従者たちに襲いかかり、ことごとく討ち取った 15 。宮津城は、その誕生からわずか2年にして、血塗られた謀略の舞台となったのである。
第三節:弓木城の落城と丹後完全平定(天正10年9月)
宮津城での義定謀殺と時を同じくして、細川軍の別動隊が弓木城へと進軍していた。城内では鉄砲の名手・稲富伊賀守らが抵抗を続けたが、主君をだまし討ちにされ、外部からの援軍も望めない状況では、士気の維持は困難であった 17 。
義定の叔父にあたる一色義清が残党を率いて最後の抵抗を試み、宮津の細川本陣に決死の突撃を敢行するも、衆寡敵せず討死 17 。これにより、建武年間から240年以上にわたり丹後を支配した名門・一色氏は、歴史の舞台から完全に姿を消した 14 。
この一連の行動により、細川氏は名実ともに丹後一国の支配者としての地位を確立し、新たな天下人である豊臣秀吉からもその支配権を正式に追認された。宮津城での謀殺という非情な手段は、結果として細川家を戦国の激動から救い、近世大名への道を切り拓くことになったのである。
結論:宮津城が物語る丹後の権力移行
当初の問いであった「宮津城の戦い(1580)」は、単一の戦闘ではなく、天正7年(1579年)の軍事侵攻、天正8年(1580年)の新拠点建設、そして天正10年(1582年)の政治的謀殺という、三つの段階を経て完遂された、丹後国の支配権をめぐる壮大な権力移行のプロセスであった。この過程を通じて、丹後は中世的な守護大名体制から、織豊政権下に組み込まれた近世的な領国支配体制へと大きく変貌を遂げた。
その中心に位置するのが、宮津城の存在である。この城の創建は、単なる居城の移転に留まらない。それは、
- 戦略思想の転換 : 防御主体の山城から、経済と広域軍事を重視する海城への移行を象徴していた。
- 天下統一事業への参画 : 織田信長の西国攻略戦略における、日本海方面の兵站基地という明確な役割を担っていた。
- 新支配体制の核 : 城と城下町の建設を通じて、丹後の政治・経済構造を再編し、細川氏による新たな支配を物理的に確立する拠点となった。
- 権力闘争の舞台 : 最終的には、旧勢力である一色氏を抹殺し、新時代の支配者としての地位を確定させるための謀略の舞台となった。
宮津城は、まさに丹後における権力移行の象徴そのものであった。この地で確立された支配基盤と、本能寺の変という国難を乗り越えた政治的手腕は、その後の関ヶ原の戦いを経て、細川家が豊前小倉39万石、さらには肥後熊本54万石の大大名へと飛躍するための、極めて重要な礎となったのである 28 。宮津城の歴史は、戦国乱世を生き抜き、新たな時代を築き上げた者たちの、冷徹な戦略と非情な決断の物語を、今に伝えている。
引用文献
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- 宮津へようこそ、細川家とのつながり https://www.3780session.com/blank-19
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- 【麒麟がくる】丹波・丹後 《戦の舞台からスイーツまで!》明智光秀ゆかりの地 7選 - スカイチケット https://skyticket.jp/guide/454060/
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- 弓木城の見所と写真・100人城主の評価(京都府与謝野町) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/1258/
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- 「最後の一色」の舞台を見に行く ①弓木城 - note https://note.com/furumiyajou/n/n2235b12ddccb
- 細川忠興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88
- 細川氏(ほそかわうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%B0%8F-133254