最終更新日 2025-08-29

小田原城包囲(1561)

永禄四年、上杉謙信は十万の大軍で小田原城を包囲。北条氏康は籠城で応戦し、兵站の限界や武田信玄の牽制により謙信は撤退。この戦いは謙信に関東管領の権威をもたらしたが、同時に川中島の戦いを激化させた。

小田原城包囲(1561):関東の覇権を巡る軍神の挑戦と相模の獅子の応戦

序章:龍、関東へ ― なぜ越後の長尾景虎は小田原を目指したのか

永禄4年(1561年)、越後の「龍」長尾景虎(後の上杉謙信)が率いる十万余の大軍が、相模の「獅子」北条氏康の居城・小田原城を包囲した。この出来事は、戦国時代の関東における最大の軍事衝突の一つであり、単なる一地方の攻城戦には留まらない、時代の大きな転換点を象徴する事件であった。それは、室町幕府が築き上げた旧来の秩序と権威を守護せんとする者と、実力によって新たな支配を確立した新興勢力との、避けられぬ宿命の対決であった。

この戦役の核心を理解するためには、両雄の行動原理に横たわる思想的対立をまず見据えねばならない。一方の長尾景虎は、自らの利害や領土的野心よりも、信義や秩序を重んじる「義」の精神に突き動かされていた 1 。彼が関東の地を踏んだ直接の動機は、北条氏に追われ、越後に亡命してきた関東管領・上杉憲政を救済し、関東の公的秩序を回復するという大義名分にあった 1 。これは、将軍を頂点とする室町幕府の権威を背景とした、伝統的価値観に基づく行動であった。

対する北条氏康は、まさに戦国乱世が生んだ新時代の体現者であった。初代・北条早雲以来、実力をもって旧権威を凌駕し、関東に巨大な版図を築き上げた後北条氏の三代目として、彼は父祖の路線をさらに推し進めた 6 。検地や税制改革を通じて領国の安定と富国強兵を成し遂げ、その実効支配の強固さこそが、統治の正統性の源泉であると考えていた 8

かくして、1561年の小田原城包囲は、単なる軍事衝突ではなく、「権威」と「実力」のイデオロギー闘争としての側面を色濃く帯びることとなる。景虎は、失墜したとはいえ未だに関東武士の心に影響力を持つ「関東管領」という権威を旗印に関東諸将を糾合した。対する氏康は、領民の支持と精強な家臣団、そして難攻不落の小田原城という、目に見える「実力」をもってこれに応戦した。この戦いの帰趨は、戦国時代における統治の正統性が、血筋や役職といった伝統的権威から、民政と軍事力に裏打ちされた実効支配へといかに移行しつつあったかを示す、重要な試金石となるのであった。そしてこの対決は、後の第四次川中島の戦い、さらには豊臣秀吉による小田原征伐へと連なる、戦国史の巨大な連鎖の序章でもあった。

第一章:関東の落日 ― 後北条の勃興と旧秩序の崩壊

永禄4年(1561年)の小田原城包囲という頂上決戦は、突如として発生したわけではない。その背景には、約20年にわたる関東の地殻変動、すなわち新興勢力・後北条氏の圧倒的な台頭と、それを支えてきた旧秩序の象徴たる関東管領上杉氏の劇的な没落という、不可逆的な歴史の流れが存在した。

第一節:相模の獅子、咆哮す ― 北条氏の関東経略

後北条氏の関東進出は、初代・北条早雲(伊勢宗瑞)が相模国小田原城を奪取したことに始まる 11 。二代・氏綱の時代には武蔵国へと勢力を伸ばし、三代目・氏康の代に関東の覇権を決定的なものとした 7 。その最大の転換点となったのが、天文15年(1546年)の「河越夜戦」である。

この戦いで、氏康は関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定、そして古河公方・足利晴氏らが率いる8万ともいわれる大連合軍を、わずか8千の兵で奇襲し、壊滅させるという軍事史上の奇跡を成し遂げた。この一戦により、扇谷上杉氏は当主・朝定が討死し滅亡。山内上杉氏も関東における支配権を根底から揺るがされる致命的な打撃を被った 7 。この勝利により、後北条氏は単なる相模の一大名から、関東全域に覇を唱える存在へと飛躍したのである。

第二節:管領、越後へ ― 上杉憲政の凋落と亡命

河越夜戦以降、関東のパワーバランスは完全に北条氏へと傾いた。氏康は攻勢を強め、山内上杉氏の領国であった上野国へと侵攻。関東管領・上杉憲政は、北条の圧倒的な軍事力の前に次々と拠点を失い、追い詰められていった 14

そして天文21年(1552年)、憲政はついに本拠地である上野国平井城を維持できなくなり、再起を期して越後の守護代・長尾景虎のもとへと亡命する 3 。これは単なる一個人の逃亡ではなかった。室町幕府が任命し、関東統治の要であったはずの「関東管領」が、その本拠地を追われ、本来は家臣筋である守護代に庇護を求めるという異常事態は、関東における旧秩序が完全に崩壊したことを天下に示す象徴的な事件であった 14 。景虎がこの亡命者を受け入れた瞬間、越後の龍と相模の獅子の対決は、もはや避けられない運命として定められたのである 1

第三節:義戦への序曲 ― 景虎、上洛と大義名分の獲得

長尾景虎は、単なる同情や成り行きで憲政を保護したわけではなかった。彼はこの「権威の空白」という状況を、極めて戦略的に捉えていた。永禄2年(1559年)、景虎は上洛を果たし、第13代将軍・足利義輝に拝謁。ここで正式に、関東管領である上杉憲政を補佐し、関東の秩序を乱す北条氏を討伐する「御内書(ごないしょ)」、すなわち公的な出兵許可を得た 3 。さらに関白・近衛前久とも連携し、朝廷からもその正当性を認めさせるという周到な布石を打っていた 4

この上洛は、景虎の関東出兵(越山)の性格を決定づける上で極めて重要な意味を持った。これにより、彼の戦いは単なる隣国への軍事介入や、個人的な救援戦ではなく、将軍の命を受けた「公戦」へと昇華された。彼は侵略者ではなく「旧秩序の回復者」という、関東諸将が最も靡きやすい大義名分を手に入れたのである。この幕府公認の「義」の旗こそが、後に十万もの大軍を小田原城下に集結させる原動力となった。

第二章:越山 ― 関東静謐の大義を掲げて(永禄3年8月~永禄4年2月)

将軍・足利義輝からの大義名分を得た長尾景虎は、ついに積年の宿敵・北条氏康を討つべく、越後の大軍を率いて関東へと進発する。永禄3年(1560年)8月から翌年2月にかけての約半年間、その進軍はまさに関東の勢力図を瞬く間に塗り替える、怒涛の快進撃であった。

第一節:進軍 ― 怒涛の北関東制圧(永禄3年8月~12月)

永禄3年(1560年)8月26日 、安房国の里見義堯からの救援要請を直接の契機とし、景虎は精鋭8,000を率いて本拠・春日山城を出陣した 5

9月から10月 にかけて、軍勢は三国峠を越え、上野国へと雪崩れ込んだ 17 。ここはかつての関東管領・上杉憲政の旧領であり、景虎にとっては関東解放の第一歩を記す象徴的な地であった。北条方が押さえていた沼田城を攻略し、城主・沼田康元を追放。続いて岩下城、そして上野国の中心拠点である厩橋城を次々と陥落させた 7 。景虎はこの厩橋城を接収し、以降の関東経営における最重要拠点と定めた 5

11月から12月 、景虎軍はさらに武蔵国へと南下し、羽生城などを攻略 17 。この電光石火の快進撃は、長年北条氏の圧迫に苦しんできた関東の諸大名・国人衆を奮い立たせた。常陸国の佐竹義昭、下総国の小田氏、下野国の宇都宮氏や那須氏、そして安房国の里見義堯といった反北条勢力が、景虎の「義」の旗の下に続々と馳せ参じた 7 。連合軍の兵力は数万の規模へと膨れ上がっていった。

この危機的状況に対し、北条氏康は冷静であった。当時、里見氏の久留里城を包囲していたが、景虎の侵攻を知るや、即座に包囲を解き、決戦を巧みに回避 7 。景虎軍の圧倒的な勢いを正面から受け止める愚を避け、河越城を経由して本拠・小田原城へと兵力を集中させ、徹底した籠城戦の準備を開始した。氏康は、景虎の目的が関東諸将の糾合にあることを見抜き、短期決戦には応じず、長期戦に持ち込むことで連合軍の弱点を突く戦略を選択したのである。

第二節:布石 ― 包囲網の完成へ(永禄4年1月~2月)

永禄4年(1561年)1月 、景虎は関東経営の拠点とした厩橋城で新年を迎えた。この間、越後に残留していた重臣・直江実綱らが率いる後続部隊も関東に召集され、軍勢はさらに増強された 17

2月 、景虎は再び行動を開始する。目標は、関東の政治的中心地であった下総国の古河御所であった。これを制圧し、北条氏が擁立していた古河公方・足利義氏を追放 17 。これは、北条氏による関東支配の正統性を根底から覆す、極めて重要な政治的・軍事的行動であった。

そして 2月27日 、景虎軍は相模国鎌倉に入る。源頼朝以来の関東武士の精神的支柱であり、旧秩序の象徴でもある鶴岡八幡宮に参拝し、戦勝を祈願する願文を奉納した 17 。この一連の行動は、単なる軍事作戦の連続ではない。上野国(旧管領の地)、古河御所(公方の地)、そして鎌倉(武家の都)という、関東の旧権威を象徴する拠点を次々と掌握することで、景虎は自らが単なる侵略者ではなく、関東の正統な秩序を回復する者であることを、参加した諸将、そして敵である北条氏に強くアピールしたのである。この周到な政治的パフォーマンスを経て、景虎はついに海沿いの道を進撃し、最終目標である小田原城へとその刃を向けた 17


【表1】永禄3-4年 関東出兵 主要行動年表

年月日

場所

上杉軍(長尾景虎)の行動

北条軍(北条氏康)の対応

備考

永禄3年8月26日

越後・春日山城

里見義堯の救援要請を機に、8,000の兵を率いて関東へ出陣。

里見氏の久留里城を包囲中。

これが謙信による大規模関東出兵の始まりとなる。

永禄3年9月-10月

上野国

三国峠を越え侵攻。沼田城、岩下城、厩橋城を次々と攻略。

景虎の侵攻を知り、久留里城の包囲を解き、小田原城へ撤退。

厩橋城を関東経営の拠点とする。

永禄3年11月-12月

武蔵国

南下し羽生城などを攻略。

小田原城での籠城戦準備を本格化。各地の兵力を集結させる。

佐竹氏、宇都宮氏など関東諸将が続々と参陣。

永禄4年1月

上野・厩橋城

越年。越後から直江実綱ら後続部隊を召集し、戦力を増強。

籠城体制を固め、同盟国の武田・今川に支援を要請。

連合軍の兵力は数万規模に膨れ上がる。

永禄4年2月

下総・古河御所

古河御所を制圧。北条方の古河公方・足利義氏を追放。

支城の防備を固め、本城での決戦に備える。

関東の政治的中心地を掌握。

永禄4年2月27日

相模・鎌倉

鶴岡八幡宮に戦勝を祈願。

小田原城への接近を警戒。

旧秩序の回復者としての正統性をアピール。

永禄4年3月上旬

相模・小田原

小田原城を十万余の大軍で包囲。酒匂川沿いに本陣を置く。

徹底した籠城策で応戦。

小田原城攻防戦が開始される。


第三章:相模の堅城、沈黙す ― 小田原城攻防のリアルタイム再現(永禄4年3月)

永禄4年(1561年)3月、長尾景虎率いる上杉連合軍は、ついに北条氏の本拠・小田原城下に到達した。関東の空を覆いつくすかのような大軍勢と、沈黙を守り抜く巨大な要塞との、約1か月にわたる息詰まる対峙が始まった。

第一節:包囲網 ― 十万の軍勢、城を囲む

3月上旬 、景虎は当麻(現在の神奈川県相模原市)に布陣した後、小田原へと進軍し、城の西を流れる酒匂川の畔に本陣を構えた 20 。これに呼応し、参陣が遅れていた北関東の諸将も続々と集結。その総兵力は、『関八州古戦録』によれば11万3千、その他の史料でも9万から11万と記されており、まさに関東の全勢力が結集したといえる空前の大軍であった 17

この頃、景虎の幕下に馳せ参じた関東諸将255名の名前と、彼らが用いる陣幕の紋を記したリストである『関東幕注文』が完成したとされる 17 。これは、この遠征が景虎の個人的な戦いではなく、関東の諸勢力を公的に動員した戦役であったことを示す一級の史料である。


【表2】上杉連合軍 主要参陣武将一覧(『関東幕注文』準拠)

国名

所属(衆)

主要武将名

備考

上野国

箕輪衆

長野業正

上野国西部の重鎮。対武田戦線の要。

上野国

惣社衆

長野賢忠

厩橋城主。景虎に関東の拠点を提供。

上野国

新田衆

横瀬成繁(由良成繁)

上野国東部の有力国衆。後に北条方へ。

下野国

(宇都宮氏)

宇都宮広綱

下野国の名門。反北条の中核。

下野国

(小山氏)

小山秀綱

下野国の有力大名。後に離反。

武蔵国

(岩付衆)

太田資正

「三楽斎」。反北条の急先鋒で、知勇兼備の将。

武蔵国

(忍城衆)

成田長泰

武蔵北部の有力国衆。後の離反説の当事者。

常陸国

(佐竹氏)

佐竹義昭

「鬼義重」の父。関東の反北条勢力の筆頭。

下総国

(関宿衆)

簗田晴助

古河公方家臣。北条氏と国府台で激突。

上総国

(真里谷氏)

真里谷信政

上総武田氏の一族。里見氏と共に北条と対立。

安房国

(里見氏)

里見義堯・義弘

房総半島の雄。北条氏とは宿敵関係。


注:『関東幕注文』は当時の関東の勢力図を示す貴重な史料であるが、欠落部分も存在し、全ての参加武将を網羅しているわけではない 24

第二節:難攻不落の城郭 ― 1561年時点の小田原城

景虎が対峙した小田原城は、後の天正18年(1590年)に豊臣秀吉の来攻に備えて構築された、城下町全体を囲む総延長9kmの「総構え」はまだ存在しなかった 26 。しかし、この時点においても、後北条氏三代にわたる改修の末、当代随一の堅城であったことは間違いない。

城は八幡山丘陵の先端に位置する平山城で、本丸を中心に二の丸、三の丸といった曲輪が梯郭式に配置されていた 29 。防御の要は、石垣ではなく、高く突き固められた土塁と、深く掘られた堀であった 30 。特に堀は、ただ掘るだけでなく、堀底に仕切りを設けて敵兵の自由な移動を妨げる「堀障子」や、二重の堀と土塁で防御力を強化するなど、後北条氏独自の築城術の粋が凝らされていた 32 。それは、石垣を多用する近世城郭とは思想を異にする、戦国期における土の城の集大成ともいえる、まさに難攻不落の要塞であった。

第三節:攻防の記録 ― 蓮池の攻防と城下の火

十万余の大軍による包囲にもかかわらず、小田原城を巡る攻防は、大規模な力攻めには発展しなかった。記録に残る具体的な戦闘は、上杉軍が城の南東に位置する蓮池(現在の城址公園内)付近で攻勢をかけ、城下に放火したというものが中心である 32 。これは、城本体への直接的な攻撃というよりは、城兵を挑発し、士気を削ぐための示威行動であった可能性が高い。

氏康の戦術は、徹底した籠城策に尽きた。無謀な野戦を挑むことなく、城の堅固な守りを信頼し、兵力を温存した。その一方で、城外に小規模な遊撃隊を放ち、広範囲に展開する上杉連合軍の長大な兵站線を襲撃させ、補給を断つことで敵を内側から疲弊させるという、極めて合理的な戦術を採用していた 36

この膠着した戦況を象徴する逸話が残されている。攻防の最中、景虎は小田原城の眼前、蓮池のほとりに馬を止めさせると、悠々と持参の弁当を広げて昼食を始めたという。これを見た城内の北条兵が鉄砲で狙撃するも、弾は鎧の袖をかすめるのみで、景虎は顔色一つ変えず、悠然と茶を三杯飲み干したと伝えられる(『名将言行録』など) 1 。この逸話は、景虎の比類なき豪胆さを示すものとして語り継がれているが、同時に、両軍が互いに決定的な一撃を加えられないまま睨み合っていた、攻城戦の実態を物語るものでもある。

この戦いは、当時の攻城技術の限界を浮き彫りにした。鉄砲は普及していたものの、それはあくまで対人兵器であり、堅固な土塁や城門を破壊するほどの威力を持つ「大筒」のような攻城兵器は、まだ一般的ではなかった 37 。景虎も、大軍をもってしてもこの城を力攻めにすることは多大な犠牲を伴い、得策ではないと熟知していたであろう。彼の狙いは、物理的な破壊による陥落ではなく、圧倒的な武威を示すことによる政治的降伏、あるいは長期戦による城内の内部分裂を誘う、高度な心理戦であった。しかし、その持久戦において、地の利と周到な準備で勝る北条氏康が、次第に優位に立っていくことになる。

第四章:軍神の誤算 ― 連合軍、崩壊の内実

十万を超える空前の大軍を率いながら、なぜ長尾景虎はわずか1か月ほどで小田原城からの撤退を余儀なくされたのか。その理由は単一ではない。「兵站の限界」「内部対立」「外部圧力」という三つの要因が複雑に絡み合い、巨大な連合軍を内側から蝕んでいったのである。景虎の「義」は諸将を一時的に集める力はあったが、戦争という過酷な現実を支え続けることはできなかった。

第一節:要因1 ― 兵站の限界

大軍の長期遠征において、最も重要な生命線は兵站、すなわち食糧や武具の補給である。上杉連合軍はこの点で、構造的な弱点を抱えていた。

  • 補給線の脆弱性: 本国・越後から遠く離れた相模国まで、長大な補給路を維持することは極めて困難であった。さらに、北条氏康が放った遊撃隊による執拗な兵站線への攻撃が、補給状況をさらに悪化させた 36
  • 現地の凶作と疫病: 不運なことに、包囲戦が行われた永禄4年前後の関東地方は凶作に見舞われており、現地での食糧調達(現地徴発)もままならなかった 20 。兵糧の欠乏は、兵士の士気を直接的に削ぐ。加えて、関東では疫病も流行しており、兵士たちの心身を蝕んでいた 4

武器はあっても食糧がなければ戦は続けられない。この単純かつ根源的な問題が、連合軍の足元を静かに、しかし確実に揺るがしていた。

第二節:要因2 ― 烏合の衆の内実

「打倒北条」という一点のみで結集した関東諸将の連合軍は、その実態として、一枚岩とは程遠い「烏合の衆」であった。元々、彼らは互いに領地を接し、利害が複雑に対立するライバル同士でもあった 17 。戦いが長期化し、目に見える戦果が上がらない中、その結束は急速に脆くなっていった。

この連合軍の内部対立を象徴するのが、武蔵国の武将・成田長泰にまつわる逸話である(『関八州古戦録』)。小田原からの撤退後、鎌倉の鶴岡八幡宮で行われた関東管領就任の儀式の際、他の諸将が下馬して礼をとる中、名門意識の強い長泰は馬上から礼を行った。これを無礼と見た景虎が、扇で長泰の顔を打ち据えたため、激怒した長泰は兵を率いて自領に引き上げてしまったという 17 。この逸話の史実性については、今日では多くの研究者が疑問視しているが 17 、寄せ集めである連合軍内での序列や指揮系統を巡る軋轢が絶えなかったことを示唆している。一部の記録では、長泰が景虎の暗殺まで企てたとさえ伝えられている 4

さらに、儀式の席次を巡る千葉氏と小山氏の争いや、恩賞への不満などから、諸将の離反が相次いだとされる 17 。一つの離反が次の離反を呼び、連合軍は内部から崩壊の危機に瀕していた。

第三節:要因3 ― 甲斐の影、忍び寄る

連合軍に最後の、そして決定的な一撃を与えたのは、城内からの反撃ではなく、背後からの脅威であった。北条氏康と甲相駿三国同盟を結ぶ、甲斐国の武田信玄の存在である。

信玄は、宿敵・景虎が関東に釘付けになっているこの好機を見逃さなかった。景虎の本国・越後が手薄になっている隙を突き、北信濃の川中島地域へ侵攻を開始したのである 5 。この情報は、小田原で対陣する景虎のもとにもたらされた。これは、単なる一地方での紛争ではない。このまま小田原に固執すれば、本拠地である越後そのものが信玄によって脅かされるという、国家存亡の危機を意味していた 41

もはや統制が効かなくなりつつある大軍を率いて、攻略の目処が立たない堅城にこれ以上時間を費やすことはできない。景虎にとって、撤退以外の選択肢は残されていなかった。信玄の動きは、内部崩壊寸前であった連合軍の解体を決定づける、最後の引き金となったのである。


【表3】1561年 小田原攻防における両軍の戦力比較分析

比較項目

上杉連合軍

北条軍

総兵力

9万~11万 17

数万(推定)

指揮系統

景虎を頂点とするが、実質は諸将の連合体であり、統制は脆弱。

氏康を頂点とする一元的で強固な指揮系統。

兵の質

兵農未分離の農民兵が主体。農繁期が近づくと士気が低下しやすい 42

「小田原衆」など、比較的専業化された兵を中核とし、籠城戦に強い 43

兵站能力

越後からの長距離補給に依存し、極めて困難かつ脆弱 20

領内からの補給であり、安定かつ容易。

地の利

完全な敵地での作戦行動。

絶対的な地の利を持つ本拠地での防衛戦。

同盟関係

利害が対立する関東諸将の寄り合い所帯で、結束は不安定 17

甲相駿三国同盟(武田・今川)による強固な後方支援が期待できる 5


この比較から明らかなように、上杉連合軍は兵力という「量」において北条軍を圧倒していたものの、指揮系統、兵の質、兵站といった戦争遂行能力の「質」の多くの面で劣っていた。北条氏康の籠城策は、単なる消極的な防衛ではなく、自軍の長所を最大限に活かし、敵軍の弱点を的確に突く、極めて高度な戦略であったことが理解できる。

第五章:鎌倉での戴冠と遺された火種

小田原城の攻略は果たせなかったものの、長尾景虎の関東出兵はここで終わったわけではない。軍事的には不完全燃焼に終わったこの遠征は、彼にとって最大の政治的目標を達成する舞台となり、同時に関東、そして信濃の地に新たな、そしてより激しい戦いの火種を遺すことになった。

第一節:鶴岡八幡宮の儀式 ― 長尾景虎から上杉政虎へ

小田原城の包囲を解いた景虎は、全軍を鎌倉へと後退させた 17 。そして

永禄4年(1561年)3月下旬 (閏3月)、関東武士の聖地である鶴岡八幡宮の社前において、歴史的な儀式が執り行われた。

亡命していた前関東管領・上杉憲政から、山内上杉家の家督と、室町幕府における関東統治の最高職である「関東管領職」を正式に譲り受けたのである 19 。この継承に伴い、景虎は上杉の姓を名乗り、憲政の主君であった将軍・足利義輝の「輝」の字ではなく、憲政の父・上杉憲房の偏諱(へんき)とされる「政」の字を貰い受け、「上杉政虎(うえすぎ まさとら)」と改名した(後に将軍義輝から一字を拝領し輝虎と改名) 5

これは、単なる名前の変更ではない。越後の一守護代であった長尾景虎が、名実ともに関東の公的な支配者「関東管領・上杉政虎」として生まれ変わった瞬間であった。小田原城を武力で落とすことはできなかったが、関東全域にその武威を示し、旧秩序の象徴である鎌倉でその最高位に就くという、最大の政治的目標はこの瞬間に達成されたのである。

第二節:戦後の関東情勢

しかし、上杉政虎が越後へ帰国すると、関東の情勢は再び流動化した。政虎という圧倒的な軍事力の後ろ盾を失った関東の諸将は、息を吹き返した北条氏康の猛烈な反攻に晒されることになった 17

氏康は、この機を逃さず迅速に失地回復に乗り出した。上杉方についた諸城を次々と攻撃し、特に関東の要衝である武蔵松山城を巡っては、永禄6年(1563年)に武田信玄と連合してこれを奪還するなど、激しい争奪戦が繰り広げられた 46 。結局、政虎が手にした関東管領の権威は、彼自身が関東にいる間しか有効に機能せず、関東の騒乱は鎮まるどころか、この後十数年にわたり、彼の生涯をかけた戦いとして続くことになった 1

第三節:川中島への道 ― 必然の激突

小田原からの撤退を決定づけた武田信玄の北信濃侵攻は、両雄の対立をいよいよ抜き差しならない段階へと押し上げた 41 。信玄の行動は、同盟者である北条氏を救うという側面もあったが、それ以上に、宿敵・上杉政虎の不在を突いて信濃支配を盤石にするという、極めて戦略的なものであった。

関東での大事業を妨害され、さらに信濃における勢力圏を脅かされた政虎の怒りは頂点に達した。関東から帰国した彼は、その足で軍を再編し、信玄への報復と北信濃の失地回復のため、同年 8月 、川中島へと出陣する。これが、両軍合わせて数千人の死者を出し、信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助らが討死した、戦国史上最も凄惨な激戦として知られる「第四次川中島の戦い(八幡原の戦い)」である 20

このように、1561年の小田原城包囲と第四次川中島の戦いは、一連の連動した出来事であった。関東での対陣が、信濃での死闘の直接的な前奏曲となったのである。関東の覇権を巡る上杉と北条の争いは、信濃の覇権を巡る上杉と武田の争いを激化させ、三国の大名が複雑に絡み合う、まさに関東・甲信越を舞台とした大戦国時代の幕開けを告げることになった。

終章:落ちなかった城、墜ちなかった権威 ― 1561年小田原包囲が戦国史に残したもの

永禄4年(1561年)の小田原城包囲は、直接的な勝敗が決することなく幕を閉じた。しかし、この戦いが上杉氏、北条氏、そして戦国時代そのものに残した影響は、計り知れないほど大きい。それは、落ちなかった城と、墜ちなかった権威の物語として、後世に多くの教訓を刻み込むことになった。

第一節:北条氏への影響 ― 揺るぎなき覇権と過信

「軍神」とまで畏れられた上杉謙信(政虎)が率いる十万余の大軍を、一人の寝返りも出さずに籠城のみで退けたという事実は、北条氏康の威信を絶対的なものにした。そして、本拠・小田原城は「難攻不落」の名城としての評価を不動のものとし、関東の諸将に恐怖と畏敬を植え付けた 17

この輝かしい成功体験は、後北条氏の基本戦略を「小田原城への籠城」に絶対的な信頼を置く方向へと決定づけた。この戦略は、永禄12年(1569年)に武田信玄が来攻した際にも再び成功を収め、その有効性を証明した 7 。しかし、この成功体験は、同時に一種の「過信」を生み出したともいえる。29年後の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際、北条首脳部が野戦や早期の外交交渉といった柔軟な選択肢を退け、籠城策に固執する一因となった可能性は否定できない 17 。1561年の栄光が、1590年の滅亡の遠因となったとすれば、それは歴史の皮肉と言わざるを得ないだろう。

第二節:上杉氏への影響 ― 関東という「泥沼」

一方、上杉謙信にとって、この戦役は輝かしい「関東管領」の権威を手に入れる絶好の機会となった。しかし、その権威は、彼にとって生涯にわたる重荷ともなった。関東の秩序維持という大義名分を得た謙信は、その後も関東の平定を目指し、生涯で十数回にも及ぶ関東出兵(越山)を繰り返すことになる 1

だが、越後から関東への遠征という地理的・時間的制約、利害によって離合集散を繰り返す関東諸将の気まぐれ、そして何より強固な抵抗を続ける北条氏の存在が、彼の前にはだかり続けた。結局、謙信は生涯をかけても関東を完全に平定することは叶わなかった。関東管領という「権威」は、彼の「義」の戦いの源泉であると同時に、彼を関東という終わりのない「泥沼」に引き込み続ける、呪縛ともなったのである。

第三節:戦史における意義 ― 城郭と戦略の変遷

戦国時代の軍事史という観点から見ても、1561年の小田原城包囲は重要な事例である。それは、兵農未分離の農民兵を主体とする大連合軍が、兵站と統制の限界によっていかに容易く機能不全に陥るかを示す、典型的な教訓となった。

そして、この戦いを29年後の豊臣秀吉による小田原征伐と比較するとき、このわずか三十年弱の間に日本の戦争がいかに劇的に進化したかが見て取れる。秀吉は、謙信をはるかに凌ぐ圧倒的な兵力と、それを支える鉄壁の兵站体制を構築。小田原城を包囲しつつ、関東各地に点在する北条方の支城を別動隊によって同時に、かつ並行して攻略するという、謙信には到底不可能だった立体的な戦略を遂行した 53

1561年の戦いが、小田原城という「点」を巡る攻防であったのに対し、1590年の戦いは、関東全域という「面」を制圧する戦いであった。この鮮やかな対比は、群雄が割拠した戦国時代の終焉と、強力な中央集権体制を背景とする統一政権の時代の到来を、何よりも雄弁に物語っている。1561年に落ちなかった城は、時代の変化という、より大きな力の前に、1590年にその門を開くことになったのである。

引用文献

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  12. さとみ物語・完全版 3章-3文 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_3shou/k3shou_3/k3shou_3min.html
  13. 河越夜戦(よいくさ)後北条氏対扇谷上杉氏 | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E6%B2%B3%E8%B6%8A%E5%A4%9C%E6%88%A6%EF%BC%88%E3%82%88%E3%81%84%E3%81%8F%E3%81%95%EF%BC%89%E5%BE%8C%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F%E5%AF%BE%E6%89%87%E8%B0%B7%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B0%8F/
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  52. 歴女必見!戦国武将ゆかりの箱根・小田原スポット巡り https://www.hakonenavi.jp/feature/8163
  53. 北条氏政・氏直と小田原征伐:後北条氏100年の滅亡、その理由と歴史的背景を徹底解説 https://sengokubanashi.net/history/hojoujimasa-2/