志摩・鳥羽城の戦い(1576)
天正四年、九鬼嘉隆は織田信長の命で志摩を平定。大鉄砲を搭載した水軍で鳥羽の砦を攻略し、橘宗忠を降伏させた。伊勢湾の制海権を確立し、信長の対本願寺・毛利戦略の要となった。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
天正四年 志摩平定戦 - 海賊大名・九鬼嘉隆、鳥羽攻略の真相
序章: 「鳥羽城の戦い」の歴史的再定義
本報告書は、天正4年(1576年)に志摩国で繰り広げられた、後に「鳥羽城の戦い」として知られる武力衝突について、その歴史的文脈と実相を多角的に分析し、詳述するものである。利用者より提示された「志摩・鳥羽城の戦い(1576)」という事象は、単一の合戦として捉えるよりも、九鬼嘉隆(くきよしたか)が織田信長の後ろ盾を得て行った「志摩平定戦」の最終かつ象徴的な局面として理解することが、その本質をより正確に把握する上で不可欠である。まず明確にすべきは、本件の舞台となった橘(たちばな)氏の「鳥羽の砦」と、後年、文禄3年(1594年)に九鬼嘉隆自身が築城した近世城郭としての「鳥羽城」は、時代も規模も全く異なる存在であるという点である 1 。この区別は、当時の状況を理解する上で極めて重要となる。
天正4年という年は、織田信長にとって天下布武の道程における重大な岐路であった。元亀元年(1570年)より続く石山本願寺との11年におよぶ戦争(石山合戦)は泥沼化しており、その戦局を左右するのが海上補給路の支配、すなわち制海権の確保であった 4 。しかし同年7月、織田水軍は毛利輝元が派遣した村上水軍を主力とする大船団に対し、「第一次木津川口の戦い」で焙烙火矢(ほうろくひや)による火計の前に壊滅的な敗北を喫した 5 。この敗戦は、織田家が強力な水軍を保有していないという弱点を白日の下に晒し、制海権の奪取が信長の最優先戦略課題であることを改めて浮き彫りにした。このマクロな視点、すなわち織田政権の対本願寺・毛利戦略という大局観なくして、志摩国という一地方で起きた武力衝突の真の歴史的意義を解明することはできない。
以上の問題意識に基づき、本報告書はまず「第一部:合戦前夜」として志摩国の地政学的状況と主要人物たちの動向を整理し、次に「第二部:海鷹の帰還」において、合戦の推移を可能な限り時系列に沿って再現する。そして「第三部:合戦の分析と歴史的意義」で勝敗の要因と此度の戦いが歴史に与えた影響を深く考察する。最後に「終章」として、九鬼嘉隆と鳥羽の地のその後の運命を追うことで、この歴史的事件の全体像を立体的に描き出すことを目的とする。
第一部: 合戦前夜 - 群雄割拠の志摩と織田信長の影
第一章: 海賊衆が支配する国、志摩
志摩国は、複雑に入り組んだリアス式海岸が特徴であり、耕作に適した平野部が極端に少ないという地理的条件を有していた 7 。このため、古来より人々は生業を海に求めざるを得ず、その過程で高度な操船技術と海上での戦闘能力を持つ集団、すなわち海賊衆(水軍)が必然的に形成されていった 7 。彼らは、海上交通の要衝を抑え、交易船の警固や通行料の徴収、時には「寄船慣習」と呼ばれる難破船の積荷を収奪する行為などを通じて、独自の海上秩序を築き上げていたのである 7 。
戦国時代、この狭小な志摩国には「志摩十三地頭」と呼ばれる中小の在地領主たちが、各々の浦々を拠点に群雄割拠していた 7 。越賀(こしか)氏、和具(わぐ)の青山氏、浜島氏といった勢力がひしめき合い、互いに合従連衡を繰り返す不安定な情勢が続いていた 10 。
その地頭連合の中で、盟主的な存在と目されていたのが、此度の合戦の当事者となる鳥羽の橘宗忠(たちばなむねただ)であった 11 。橘氏は平安時代末期から鳥羽の地に館を構えていたとされ、永正年間(1504年-1521年)には砦を築いていた記録も残る 13 。彼らが本拠とした鳥羽湾は、伊勢湾の門戸に位置し、熊野灘へと通じる海上交通の結節点である。この地政学的に極めて重要な拠点を支配することは、志摩一円の制海権を掌握する上で決定的な意味を持っていた 3 。橘氏の砦は、まさにこの戦略的要地に築かれていたのである。
第二章: 九鬼嘉隆の雌伏と再起
九鬼氏の出自は紀伊国九木浦(現在の三重県尾鷲市)とされ、熊野水軍の一派であったと考えられている 7 。その後、志摩国の波切(なきり)へ進出し、在地勢力との対立と融和を繰り返しながら、志摩における有力な海賊衆の一角を占めるに至った 9 。
しかし、九鬼嘉隆の青年期は苦難の連続であった。永禄3年(1560年)、当時志摩に大きな影響力を持っていた伊勢国司・北畠具教(きたばたけとものり)の支援を受けた他の志摩地頭衆(史料によっては十二人衆と記される)が連合し、九鬼氏の本拠である田城(たしろ)城を攻撃した 9 。この戦いで嘉隆は兄であり当主の九鬼浄隆(きよたか)を失い、その子でまだ幼い甥の澄隆(すみだか)を連れて、命からがら朝熊山(あさまやま)へと逃亡するという屈辱を味わうこととなる 15 。この敗北は、嘉隆に志摩国内の旧来の勢力均衡に依存することの限界を痛感させ、より強力な外部の権威を後ろ盾として再起を図るという、新たな戦略的思考を抱かせる決定的な契機となった。
流浪の末、嘉隆が活路を見出したのが、当時、尾張から急速に勢力を拡大していた織田信長であった。信長の重臣・滝川一益(たきがわかずます)の仲介を経て、嘉隆は信長に臣従する 9 。これは単なる主君替え以上の意味を持っていた。志摩の一海賊衆という地域勢力から、天下人の直属水軍という、全く新しい存在へと脱皮する、嘉隆の生涯における最大の転機であった 21 。一方の信長にとっても、伊勢・志摩の地理と海戦を熟知した嘉隆の存在は、長年の懸案であった伊勢国司・北畠氏の攻略を進める上で、まさに渡りに船であった 20 。
この一連の経緯は、嘉隆の志摩平定戦が単なる領土拡大を目的としたものではなく、かつて自らを故郷から追放した北畠氏とそれに与した地頭衆に対する「復讐戦」という側面を色濃く帯びていたことを示唆している。嘉隆にとって、北畠氏を攻略対象とする信長への臣従は、その復讐を果たすための最も合理的かつ強力な手段であった。敵の敵は味方という論理に基づき、個人的な怨恨の解消と、中央の新たな権力構造への参画という二重の動機が、彼の行動を強く突き動かしていたのである。対する橘宗忠が、後に嘉隆からの降伏勧告を一度は拒絶した背景にも、単なる意地だけではなく、これまで志摩の秩序を維持してきた地頭連合の盟主としての立場と、旧主である北畠氏への義理立てがあったと考えられる。織田という新興勢力に与した「裏切り者」である嘉隆に、やすやすと膝を屈することは、旧来の志摩の秩序と北畠氏への忠誠を自ら否定することを意味した。ゆえに、たとえ勝ち目が薄いと分かっていても、一度は抵抗の姿勢を見せる必要があったのであろう。
第二部: 海鷹の帰還 - 九鬼嘉隆による鳥羽砦攻略のリアルタイム詳解
第一章: 織田の威光と新兵器
九鬼嘉隆が信長から志摩平定の正式な許可を得る直接の契機は、永禄12年(1569年)の信長による伊勢侵攻作戦における目覚ましい戦功であった。この作戦において嘉隆は、再編した九鬼水軍を率い、北畠方の海上補給の要であった大淀城を海上から猛攻し、陥落させるという大功を立てた 9 。この戦果を通じて、信長は嘉隆の水軍指揮官としての卓越した能力と、海からの拠点攻撃が持つ戦略的有効性を高く評価した。
これを受け、信長は嘉隆に対し「志摩一国切り取り次第」を認める朱印状を与えたとみられる 22 。これは、嘉隆の働きに対する恩賞であると同時に、織田家直属の強力な水軍を育成するという信長の戦略的投資でもあった。この「公認」により、嘉隆の志摩平定戦は単なる私闘ではなく、天下人の事業の一環という大義名分を得ることになり、他の地頭衆に対して圧倒的な政治的優位性を確保した。
さらに、嘉隆の艦隊には、当時の最新兵器であった「大鉄砲(おおづつ)」が相当数配備されていた 12 。これは、個人が携行する火縄銃とは比較にならない大口径と威力を誇る火器であり、木造の砦や船体に対して絶大な破壊力を持っていた 24 。この圧倒的な技術的優位性こそが、志摩平定の最終局面である鳥羽砦攻略戦の帰趨を、戦闘開始以前から事実上決定づけていたのである。
第二章: 鳥羽砦攻略戦 - その一日
此度の合戦における両軍の戦力は、以下の表に示す通り、著しく不均衡であった。この圧倒的な戦力差こそが、戦闘が短期決戦となり、殲滅戦ではなく降伏勧告という形で終結した根本的な要因である。
表1:鳥羽砦攻略戦における両軍の戦力比較
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項目 |
九鬼(織田)軍 |
橘(鳥羽)軍 |
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総大将 |
九鬼嘉隆 |
橘宗忠(鳥羽監物) |
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推定兵力 |
九鬼水軍 全船団(数百名規模) |
砦守備兵 70名未満 12 |
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主要兵装 |
安宅船・関船、大鉄砲 約30挺 12 、火縄銃、弓矢 |
砦の防御施設、火縄銃、弓矢、刀槍 |
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戦略目標 |
志摩統一の完遂、最重要拠点・鳥羽の確保 |
領地の防衛、地頭連合の盟主としての威信維持 |
【刻一】払暁、最後通牒
天正4年某日の夜が明けきらぬ鳥羽の浦。九鬼嘉隆は、泊浦に築かれた橘氏の砦に対し、使者を派遣して最後の降伏勧告を行った 12 。その内容は、織田信長公の威光を背景に、抵抗の無意味さを説き、降伏すれば生命と家名は保証するが、もし抵抗するならば一族郎党ことごとく殲滅するという、戦国時代における典型的な恫喝と懐柔を織り交ぜたものであったと推察される。しかし、志摩地頭の盟主としての矜持から、橘宗忠はこの勧告を拒絶。砦の城門は固く閉ざされ、物見櫓には弓や鉄砲で武装した兵が配置され、静かな緊張感の中で臨戦態勢が整えられた。
【刻二】辰の刻(午前8時頃)、艦隊布陣
勧告拒絶の報を受けた嘉隆は、麾下の全船団に総攻撃の準備を命令する。大小数十隻の安宅船(あたけぶね)や関船(せきぶね)が、朝靄の立ち込める鳥羽湾内にその威容を現した。船々には九鬼家の家紋である左三つ巴紋(あるいは七曜紋)の旗指物がはためき、兵士たちの鬨(とき)の声が静かな湾内に響き渡った 14 。艦隊は砦の弓矢や鉄砲の射程外で、砦を半円状に取り囲む包囲陣形を迅速に形成し、海上からの脱出路を完全に遮断した。中でも、切り札である大鉄砲を搭載した大型の安宅船数隻が、砦の正面へとゆっくりと進み出た。
【刻三】巳の刻(午前10時頃)、艦砲射撃開始
嘉隆の采配一下、安宅船に据えられた約30挺の大鉄砲が一斉に火を噴いた 12 。凄まじい轟音とともに、鉛の弾丸が砦めがけて撃ち込まれる。木造の櫓や塀は衝撃でたやすく砕け散り、土塁は大きくえぐり取られた。砦の中は、それまで経験したことのない圧倒的な破壊力と轟音により、瞬く間に混乱状態に陥った。城兵は壁の狭間から矢や鉄砲で必死に応戦を試みるが、海上に浮かぶ巨大な軍船までは有効な打撃を与えられず、一方的な攻撃に晒されるばかりであった。嘉隆の砲手たちは、次弾の装填と射撃を冷静に繰り返し、砦の防御施設を methodical に、そして確実に破壊していった。
【刻四】午の刻(正午頃)、戦意の崩壊
数時間にわたる一方的な砲撃の結果、鳥羽の砦は半壊状態に陥り、死傷者が続出した。守備兵の士気は完全に打ち砕かれ、組織的な抵抗はもはや不可能な状態となった 12 。橘宗忠は、これ以上の籠城が無意味であること、そしてこのままでは一族が根絶やしにされることを痛切に悟った。この機を捉え、九鬼嘉隆は攻撃の手を一時的に緩め、再び使者を送り、和議の用意があることを伝えた。これは、相手の戦意を物理的・心理的に完全に破壊した上で、慈悲と威圧を同時に示す、計算され尽くした戦術的判断であった。
【刻五】未の刻(午後2時頃)、白旗と政略結婚
万策尽きた橘宗忠は、嘉隆の和議の申し出を受諾し、砦に白旗を掲げた。固く閉ざされていた城門が開き、宗忠自らが降伏の意を表した。嘉隆はこれを受け入れ、鳥羽の地を接収する。しかし嘉隆は、橘氏を滅ぼすという選択は取らなかった。むしろ、その勢力を吸収し、志摩支配の安定化を図る道を選んだ。和睦の証として、橘宗忠の娘(一説には妹)を自らの正室として迎え入れたのである 11 。この政略結婚により、九鬼氏は鳥羽の地の支配者としての正当性を獲得すると同時に、旧来の在地勢力との融和を図ることに成功した。志摩平定事業は、この鳥羽の無血開城をもって、事実上の完了を見たのであった。
第三部: 合戦の分析と歴史的意義
第一章: 勝敗を分けた要因
鳥羽砦の攻略戦における九鬼嘉隆の勝利は、複数の要因が複合的に作用した結果であった。第一に、戦術面での優位性が挙げられる。嘉隆は、兵士を上陸させての力攻めという、損害の大きい白兵戦を意図的に回避した。代わりに、海上からの砲撃という非対称な戦力を行使し、敵の物理的防御力と心理を一方的に破壊することで、自軍の損害を最小限に抑えつつ戦略目標を達成した 12 。これは、孫子の兵法に言う「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり」を実践したものであり、嘉隆の合理的かつ先進的な戦術思想を如実に示している。
第二に、技術的優位性である。この合戦で主役となった大鉄砲(大筒)は、本来、城壁や船体を破壊するための「攻城兵器」としての性格が強い 24 。嘉隆の革新性は、この大鉄砲を多数、軍船に搭載し、洋上の「移動砲台」として運用した点にある 12 。この戦術は、後の海戦のあり方を大きく変える可能性を秘めていた。事実、この鳥羽での経験は、2年後の天正6年(1578年)に行われた「第二次木津川口の戦い」において、より大型で装甲化された鉄甲船に大砲を3門搭載するという、さらに発展した思想へと直結していく 27 。日本の海戦史において、鳥羽での砲撃戦は、火砲が海戦の主役となる時代の到来を告げる重要な一歩であったと言える。
第三に、戦略的背景、すなわち織田信長という「見えざる軍団」の存在である。橘宗忠が最終的に降伏を決断した最大の理由は、目の前にいる九鬼水軍の圧倒的な武力だけでなく、その背後に控える天下人・織田信長の巨大な政治力と軍事力にあったことは疑いようがない。この時期の信長に逆らうことは、志摩一国はおろか、西日本全域を敵に回すに等しい行為であった。嘉隆は、信長から与えられた大義名分を最大限に活用し、純粋な軍事力と政治的威圧を巧みに組み合わせることで、勝利を確実なものとしたのである。
第二章: 志摩統一がもたらしたもの
この鳥羽での勝利により、九鬼嘉隆は名実ともに志摩一国を支配する大名へと飛躍した 9 。これにより、九鬼水軍は単なる一在地勢力の海賊衆から、大名の動員力と経済力を背景に持つ、組織化された正規の「織田水軍」へとその性格を大きく変貌させた。後世、「海賊大名」と称される嘉隆の地位は、この時に確立されたのである 18 。
織田信長にとって、志摩の統一は伊勢湾の制海権を完全に掌握したことを意味した。これにより、本拠地である尾張・美濃から、石山本願寺を包囲する摂津方面への海上補給路は盤石なものとなり、兵站上の大きな安定を得ることができた。
そして最も重要な意義は、これが対本願寺・毛利戦略における決定的な布石となった点である。志摩を平定し、後顧の憂いを絶った嘉隆は、織田水軍の総力を挙げて石山合戦に参戦できる体制を整えた。天正4年7月の第一次木津川口の戦いでは手痛い敗北を喫したものの、この敗北から得た教訓と、志摩という安定した基地があったからこそ、信長の特命による画期的な新兵器「鉄甲船」の建造が可能となった 6 。つまり、鳥羽攻略は、2年後の第二次木津川口の戦いにおける雪辱と、本願寺の海上封鎖を完成させるための、不可欠な準備段階であったと言える。この合戦は、戦国時代の戦争のあり方が、従来の兵力の動員数を競うものから、技術力の優劣が勝敗を左右する新しい段階へと移行する、過渡期の象徴的な事例と位置づけることができる。陸戦における長篠の戦い(1575年)が鉄砲の集団運用によって騎馬隊という伝統的戦術を打ち破ったように、この鳥羽攻略戦は、大鉄砲という新技術が海からの攻撃によって砦という伝統的な防御施設を無力化しうることを証明した、「海戦版・長篠」とも評価できよう。
終章: その後の九鬼嘉隆と鳥羽の地
志摩統一を成し遂げた九鬼嘉隆は、その後、織田・豊臣両政権下で水軍の総帥としてその名を馳せることになる。第二次木津川口の戦いでの勝利を皮切りに、九州平定、小田原征伐、そして朝鮮出兵(文禄の役)と、数々の重要な戦役において、その水軍を率いて活躍した 9 。特に文禄の役では、豊臣秀吉が「日本丸」と命名した巨大安宅船を旗艦として、日本の水軍の中核を担った 19 。
天下統一が進み、世情が安定に向かう文禄3年(1594年)、嘉隆はかつて攻略した橘氏の砦があったまさにその場所に、近世城郭としての本格的な「鳥羽城」を築城した 1 。この城は、大手門を海側に向け、船が直接城内に入れる水門を備えるなど、まさに「海賊大名」の拠点にふさわしい、全国でも稀有な「海城」であった 3 。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、九鬼家は悲劇的な分裂に見舞われる。豊臣家への旧恩を重んじ西軍に与した父・嘉隆と、徳川家康の将来性を見据え東軍に与した子・守隆とが、敵味方に分かれて戦うことになったのである 21 。関ヶ原での西軍敗北の報が伝わると、嘉隆は鳥羽城を明け渡し、答志島(とうしじま)へと逃れた。守隆は東軍での戦功を以て家康に父の助命を必死に嘆願し、許しを得ることに成功する。しかし、その吉報を伝える使者が島に到着する直前、嘉隆は家臣からの誤報と九鬼家の将来を慮り、自刃して59年の生涯を閉じた 11 。
その後、九鬼家を継いだ守隆の死後、家督を巡る御家騒動が勃発する。幕府の裁定により、九鬼家は志摩の地を没収され、摂津三田と丹波綾部という海とは無縁の内陸の地へ分割転封されることとなった 4 。これにより、戦国の海を縦横無尽に駆け巡った九鬼水軍は、事実上その歴史に幕を下ろした。しかし、海賊大名・九鬼嘉隆が築いた海の城と、彼が実践した革新的な海戦術は、日本の軍事史に消えることのない確かな足跡を残したのである。
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- 鳥羽城の戦い ~九鬼嘉隆の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/toba.html
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