最終更新日 2025-08-27

新府城の戦い(1582)

新府城の戦い(1582年):炎上する夢と武田家終焉の刻 ― 時系列で辿る甲州征伐の真相

序章:崩壊への序曲 ― 甲州征伐の勃発

天正10年(1582年)、戦国大名・甲斐武田氏の命運は、風前の灯火であった。かつて武田信玄のもとで天下にその名を轟かせた精強な軍団の威光は、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおける織田・徳川連合軍に対する壊滅的な敗北以降、翳りを見せ始めていた。当主・武田勝頼は、失われた威信を取り戻すべく懸命に領国経営と軍事力の再建に努めたが、時代の潮流はあまりにも無情であった。天正6年(1578年)に越後で勃発した「御館の乱」への介入は、長年の同盟国であった相模の北条氏との関係を破綻させ、東方に新たな敵を生む結果を招いた 1 。さらに天正9年(1581年)、徳川家康の猛攻の前に遠江の要衝・高天神城が陥落。勝頼が後詰を送れなかったことは、武田家の権威を致命的に失墜させ、家臣や国衆の人心離反を決定的にした 1

この武田家の弱体化を、天下布武を着々と進める織田信長が見逃すはずはなかった。信長は、武田家を完全に滅ぼす好機と捉え、周到な殲滅作戦を計画する。それは単なる軍事侵攻に留まらなかった。信長は朝廷に働きかけ、勝頼を「朝敵」とする勅命を得ることで、征伐の正当性を確保した 1 。これにより、武田家への攻撃は大義名分を得て、それに与する者への恩賞が約束される一方、武田方に留まることは朝廷への反逆を意味することになった。この政治的策略は、武田領内の動揺を一層煽り、内部からの切り崩しを容易にした。甲州征伐は、戦端が開かれる以前から、高度な情報戦と調略によってその勝敗の大部分が既に決していたのである。

天正10年(1582年)2月:運命の月

甲州征伐の直接的な引き金は、天正10年2月1日、信玄の娘婿であり、信濃木曽谷を支配する重臣・木曽義昌の謀反であった 1 。義昌は、勝頼が進める新府城築城の過大な賦役負担などに不満を募らせ、織田信長の嫡男・信忠に内通したのである 1 。勝頼は激怒し、人質として甲府にいた義昌の生母、側室、そして幼い子供を磔刑に処すという過酷な処置をとったが、この非情な対応はかえって他の家臣たちの恐怖と不信を煽り、離反の連鎖を加速させる結果となった。

義昌の離反を口実に、信長はかねてより準備していた多方面同時侵攻作戦を発動する。

  • 伊那方面軍(総大将:織田信忠) :2月3日、先鋒の森長可、団忠正らが岐阜城を出陣 1 。信忠率いる5万と号する本隊は2月12日に進発し、木曽口から信濃へ雪崩れ込んだ 3 。これに対し、信濃の国衆は抵抗するどころか、積極的に織田軍を迎え入れた。下条氏長や松尾城主・小笠原信嶺らが次々と寝返り、武田方の防衛線は内部から崩壊していった 1
  • 駿河方面軍(総大将:徳川家康) :2月18日、家康もまた浜松城を出陣し、武田方の駿河支配の拠点である田中城を攻撃した 1
  • 飛騨方面軍(大将:金森長近) :飛騨からも別動隊が侵攻を開始し、武田領は完全に包囲網の中に置かれた 1
  • 関東方面(北条氏政) :信長との同盟関係にあった北条氏政もこの機を逃さず、駿河東部や上野方面から武田領へ侵攻を開始した 1

まさに四面楚歌であった。武田軍は組織的な抵抗をほとんど行えず、信玄の弟である武田信廉が守る大島城や、飯田城なども戦わずして放棄された 1 。この急速な崩壊の最中、2月14日には浅間山が大規模な噴火を起こすという天変地異が発生した 1 。当時の人々にとって、天変地異は為政者の不徳や凶兆の証と見なされることが多かった。相次ぐ味方の裏切りと敗走に意気消沈していた武田の兵士たちにとって、この噴火は「天も武田家を見放した」という決定的な心理的打撃となり、彼らの戦意を根底から打ち砕いたのである。物理的な戦力差に加え、この「天の時」までもが、武田家の滅亡を後押ししているかのようであった。

表1:甲州征伐と新府城放棄に至る詳細年表(天正10年2月1日~3月11日)

日付(天正10年)

織田・徳川・北条軍の動向

武田方の動向・離反者

主要な出来事と特記事項

2月1日

木曽義昌、織田信忠に通じ離反。

甲州征伐の直接的な引き金となる。

2月3日

森長可・団忠正ら先鋒隊が岐阜を出陣。

勝頼、木曽討伐軍を派遣。

織田軍、信濃侵攻を開始。

2月14日

織田信忠、岩村城に着陣。

松尾城主・小笠原信嶺が離反。

浅間山が噴火。武田方の士気低下。

2月16日

鳥居峠にて武田軍が木曽軍に敗北。

信濃における武田方の組織的抵抗が終焉。

2月27日

穴山梅雪(信君)が徳川家康に通じ離反。

勝頼、諏訪上原城から新府城へ本陣を移す。

3月2日

織田信忠軍、高遠城を総攻撃。

仁科盛信、玉砕。高遠城が落城。

勝頼、新府城での籠城を断念。最後の軍議。

3月3日

勝頼、新府城に放火し岩殿城へ向け脱出。

在城68日にして新府城が廃城となる。

3月7日頃

小山田信茂、笹子峠で勝頼を裏切る。

勝頼一行、天目山を目指す。

3月11日

滝川一益の部隊が田野で勝頼一行を捕捉。

勝頼・信勝父子、北条夫人が自害。

甲斐武田氏嫡流、滅亡。

第一章:最後の牙城、新府城 ― 武田勝頼の夢と現実

織田・徳川連合軍の侵攻が現実のものとなる中、武田勝頼が最後の希望を託したのが、甲斐国韮崎に築かれた新府城であった。この城は、単なる防衛拠点ではなく、武田家再興という勝頼の壮大な夢の結晶そのものであった。

武田家再興の拠点・新府城

長篠での大敗後、勝頼は失墜した権威を再確立し、動揺する家臣団を再編する必要に迫られていた 4 。父・信玄以来の本拠地であった躑躅ヶ崎館は、平地に位置する館であり、大規模な軍勢による包囲攻撃に対する防御力には限界があった 5 。そこで勝頼は、甲斐、信濃、駿河、上野にまたがる広大な武田領国の地理的中心に位置する韮崎の地に、新たな政治・軍事の中核となる首都を建設することを決意する 4 。これは、守勢に回るための消極的な選択ではなく、領国経営のあり方を根本から刷新し、権力を自らのもとに集中させるという攻めの戦略であった 4

普請奉行には、後に知将として名を馳せる真田昌幸が任命された 5 。新府城には、武田家が長年培ってきた甲州流築城術の粋が集められた。西側は釜無川が侵食してできた天然の断崖「七里岩」が鉄壁の守りをなし、敵の接近を一切許さない 4 。東と北には巨大な乾堀が穿たれ、南の大手口には、武田流築城術の象徴ともいえる「丸馬出」と「三日月堀」が複雑に配置され、防御力を一点に集中させていた 4 。さらに、鉄砲による十字砲火を想定したとされる特殊な防御施設「出構(でがまえ)」など、当時の最新技術が惜しみなく投入されていた 4

しかし、この壮大な城の建設は、武田家の命運を縮める「諸刃の剣」でもあった。天正9年(1581年)から始まった築城は、疲弊した領国の民に過大な経済的負担と労役を強いるものであり、人心の離反を招く一因となった 1 。結果として、城が未完のうちに織田軍の侵攻を招き、その築城負担が木曽義昌らの裏切りを誘発するという、極めて皮肉な事態を生み出したのである。勝頼は天正9年12月24日、父祖の地である躑躅ヶ崎館を庭の松一本に至るまで徹底的に破却し、不退転の決意で未完の新府城へと移る 9 。新府城は、武田家再興の「希望の象徴」であると同時に、その性急な建設が滅亡を早めた「絶望の象徴」でもあった。

新府城に届く凶報

新府城に入った勝頼のもとに、事態の急変を告げる凶報が立て続けにもたらされる。当初、諏訪上原城に本陣を置いて信濃方面の防衛を指揮していた勝頼であったが、天正10年2月27日、彼の心を打ち砕く決定的な裏切りを知る 1 。武田一門衆の筆頭格であり、信玄の娘婿でもある重鎮・穴山梅雪(信君)が、徳川家康に内通したというのである 1

梅雪の裏切りは、他の国衆の離反とは全く質の異なるものであった。それは、武田家の中枢が内部から腐食し、崩壊していることを内外に証明するに等しい出来事であった。駿河方面の守りが完全に無力化され、甲府盆地が直接脅かされる事態となり、勝頼は防衛計画の全面的な見直しを迫られる。彼はやむなく上原城を放棄し、本陣を新府城へと撤退させた 3 。この時点で、勝頼が率いる本隊の兵力は、相次ぐ脱走によって1万人からわずか1,000人程度にまで激減していたと伝えられる 1 。軍事的な危機であると同時に、勝頼にとって、もはや誰も信じることができないという絶望的な孤独感を植え付けたこの裏切りは、彼のその後の意思決定に暗い影を落とすことになる。

第二章:運命の軍議 ― 新府城放棄に至る決断の刻

新府城に撤退した勝頼を待ち受けていたのは、さらなる絶望的な報せであった。天正10年3月2日、信濃における最後の抵抗拠点であった高遠城が、織田信忠率いる大軍の猛攻の前に、わずか一日で陥落したのである 3 。城主は勝頼の異母弟、仁科五郎盛信。彼は信忠からの降伏勧告を、使者の耳鼻を削いで送り返すという壮絶な形で拒絶し、3,000の兵と共に玉砕した 1 。この徹底抗戦は武田武士の意地を天下に示したが、同時に、織田軍の容赦ない殲滅意思と、新府城での籠城がもはや不可能であることを勝頼に悟らせるには十分であった。

ここに、武田家の命運を左右する最後の軍議が開かれる。残された道は、新府城を放棄し、再起を図るべく別の拠点へ落ち延びることのみ。この極限状況下で、二つの脱出案が提示された。

真田昌幸の「上野・岩櫃城」案

一つは、智謀で知られる真田昌幸が提示した、上野国にある自身の本拠・岩櫃城への退避案であった 3 。岩櫃城は、四方を険しい岩壁に囲まれた天然の要害として知られ、容易に落ちる城ではなかった 10 。昌幸は、勝頼一行を迎え入れるための館「潜龍院」まで密かに用意しており、そこで戦力を再編し、北の上杉、東の北条の動向を見極めながら反撃の機を窺うという、長期的視野に立った極めて現実的な戦略を進言した 11 。織田軍の主力が迫る甲斐を一時的に離れ、時間を稼ぐことが最善であるという、軍略家としての冷静な判断であった。

小山田信茂の「郡内・岩殿城」案

これに対し、全く異なる案を提示したのが、武田家譜代の重臣・小山田信茂であった 3 。彼は、自らの本拠地である甲斐東部の郡内地方に位置する岩殿城への退避を強く主張した 10 。岩殿城もまた、険しい岩山に築かれた難攻不落の城として知られていた 13 。信茂は、信玄の代から仕える譜代の家臣である自らが、命に代えても勝頼を守り抜くと誓ったとされる 14 。これは、本国甲斐に留まり、地の利を活かして最後まで抵抗を続けるという選択肢であった。

勝頼の決断

二つの案を前に、勝頼は苦悩の末、小山田信茂の岩殿城案を採用する。この致命的な決断の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。

第一に、相次ぐ裏切りの中で精神的に追い詰められていた勝頼が、合理的な戦略よりも、情緒的な結束と信頼にすがりたいと願ったことが挙げられる。外様の家臣である真田昌幸よりも、父祖の代から仕える譜代の重臣である小山田信茂の言葉を信じたいという心理が働いたのである 14 。「譜代の小山田が裏切るはずがない」という、過去の実績に基づいた信頼、あるいはそうであってほしいという願望が、客観的な状況判断を曇らせた。武田家の強みであったはずの「家臣団との固い絆」が、末期には正常な判断を妨げる「呪縛」へと変質してしまっていた。

第二に、勝頼側近たちの影響である。『甲陽軍鑑』などの後代の軍記物によれば、勝頼の側近であった長坂光堅や跡部勝資らは、信玄からその能力を疑問視されていたにもかかわらず、勝頼の寵愛を受けて権勢を振るっていたとされる 15 。彼らは、御館の乱における上杉方との交渉で小山田信茂と共に取次を務めるなど、信茂と政治的に近い関係にあった 16 。軍議の場で、彼らが軍略家である真田昌幸の意見を退け、盟友である小山田信茂の案を強力に推した可能性は極めて高い。

さらに、『理慶尼記』は、勝頼が北条夫人を彼女の実家である相模の北条家に近い岩殿城へ連れて行くことで、万が一の際に夫人を故郷へ逃がすことができるかもしれない、という一縷の望みを抱いていた可能性を示唆している 18

これらの要因が複合的に作用し、勝頼は最も合理的と思われた選択肢を自ら捨て、破滅への道を選んでしまったのである。

第三章:炎上する夢 ― 新府城自焼と脱出のリアルタイムドキュメント

天正10年3月3日、夜。武田勝頼は、自らの手で、再起の夢を託した新府城に火を放った。それは、城を織田軍に利用させないための焦土作戦であると同時に、武田家の栄光の終焉を天下に告げる、悲壮な儀式でもあった 3 。天正9年12月24日の入城から、わずか68日。勝頼の夢は、一度も本格的な戦を経ることなく、紅蓮の炎の中に灰燼と帰した 4

武田氏一門の尼僧・理慶が残したとされる記録『理慶尼記』は、この時の勝頼の痛切な心情を、一首の和歌と共に生々しく伝えている。

「うつゝには思ほえがたき此の所 あだにさめぬる春の夜の夢」

(現実とは思えぬほどであったこの場所も、なんと儚く覚めてしまったことか。まるで春の夜の夢のようだ)18

城から立ち上る巨大な火柱と黒煙は、夜空を焦がし、甲府盆地の隅々から見ることができたという 19 。それを見上げた領民たちは、守護として長年君臨してきた武田家の終焉を、疑いようのない事実として悟ったであろう。

脱出行の始まり

勝頼は、嫡男の信勝、正室の北条夫人、そして最後まで忠誠を誓った家臣たち、総勢500から600名(一説には200名)を率いて、小山田信茂が待つ岩殿城を目指し、東へと落ち延びていった 1 。『理慶尼記』によれば、勝頼は豪華な輿にも乗らず、乗り慣れない馬に跨り、燃え盛る我が城を何度も名残惜しそうに振り返ったという 18

一行の士気は低く、絶望が支配していた。その中で、気丈に振る舞ったのが北条夫人であった。彼女は遅れがちな供の者たちに対し、「形こそ女人なれども、心は男子に劣るものか(姿形は女であっても、その心まで男に劣ることはないでしょう)」と一行を鼓舞したと伝えられる 18 。この極限状況下にあってさえ、武家の女性としての矜持を失わないその姿は、滅びゆく一行の中で一筋の光芒を放っていた。

柏尾・大善寺にて

一行は、甲斐と郡内地方の境に位置する柏尾(現在の甲州市勝沼町)にたどり着いた。北条夫人は、この地にある古刹・大善寺に安置されている薬師如来に、一夜の祈りを捧げたいと申し出た。彼女は静かに手を合わせ、来世での安寧を祈ったという 18

「西をいで東へ行きてのちの世の 宿かしわをと頼む御ほとけ」

(西の甲府を出て東へ向かう今、後の世の宿りをこの柏尾の仏に頼みます)18

しかし、その夜、一行にさらなる試練が襲いかかる。敵襲の噂がどこからともなく広まると、最後まで付き従ってきたはずの者たちの心も折れた。彼らは自らの妻子を案じ、闇に紛れて一人、また一人と姿を消していった。夜が明け、勝頼が「誰かある」と声をかけても、すぐに返事をする者はほとんどいなかった。忠臣・土屋昌恒らが傍らに控えていたものの、かつての大軍団の主の周りには、もはやごくわずかな者しか残されていなかったのである 18 。この出来事は、武田家の崩壊が、もはや誰にも止められない運命であることを残酷に示していた。

第四章:裏切りと終焉 ― 天目山に消えた武田嫡流

最後の希望を託した小山田信茂のもとへ、満身創痍でたどり着いた勝頼一行。しかし、彼らを待ち受けていたのは、救いの手ではなく、戦国史上最も無慈悲と評される裏切りであった。

3月7日頃:笹子峠の裏切り

岩殿城へ至るには、険しい山道である笹子峠を越えなければならなかった 20 。勝頼は、信茂に先行して迎えの準備を整えるよう命じ、峠の麓で待った。だが、いくら待っても迎えは来ない。それどころか、峠の上から一行に向けて放たれたのは、無数の鉄砲の一斉射撃であった 21 。『理慶尼記』や『甲陽軍鑑』は、信茂が郡内への道を完全に封鎖し、主君である勝頼一行に銃口を向けたと記している 1

この信茂の裏切りは、単なる個人の保身から出た行動と片付けることはできない。小山田氏は、武田家の譜代家臣であると同時に、郡内地方を半独立的に支配する国衆でもあった。彼にとっての最優先事項は、滅びゆく武田家への忠誠よりも、自らの領地と一族の存続であった。織田信長という新たな天下人が目前に迫る中、旧主に殉じるよりも、新支配者に恭順することで家名を保とうとするのは、戦国時代の国衆としては、ある意味で合理的な判断であった。勝頼の決断がいかに甘い期待に基づいていたかを、銃声が冷酷に物語っていた。勝頼は天を仰ぎ、「彼の者に誑られし事の口惜しさよ(あの者に騙されたことが、なんと悔しいことか)」と、地に身を打ち付けて慟哭したと伝えられる 18

死出の旅路 ― 天目山へ

全ての退路を断たれた勝頼一行に残された道は、もはや一つしかなかった。彼らは、武田家発祥の地ともゆかりの深い霊山・天目山を目指した 1 。それは再起を期すための逃避行ではなく、一族が自害するにふさわしい、死に場所を求める最後の旅路であった。この時、勝頼に従う者は、わずか数十名にまで減っていた 21

3月11日:田野における最期

天目山の麓、田野(現在の甲州市大和町)の地で、一行はついに織田軍の先鋒・滝川一益の部隊に捕捉された 1 。もはやこれまでと覚悟を決めた勝頼父子が自害の時間を稼ぐため、残された家臣たちは最後の奮戦を試みた。特に、土屋惣三昌恒の戦いぶりは鬼神の如く、後世「片手千人斬り」と語り継がれるほどの壮絶なものであったと伝えられる 18

そして、武田家最後の儀式が始まった。それは、単なる自決ではなく、武家の名誉を死守するための最後の「戦い」であった。

  • 北条夫人 :彼女は、勝頼の手を煩わせることを潔しとせず、自ら守り刀を抜き、喉を突いて自害した。享年わずか19歳であった 18
  • 嫡男・信勝 :16歳の若武者は、その場で元服を済ませると、父に先立って敵陣に切り込み、奮戦の末に自害した 1
  • 武田勝頼:全ての終わりを見届けた勝頼は、静かに辞世の句を詠んだ。
    「朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端」
    (朧月が雲にかすむように、私の人生の悩みも晴れて、今、心安らかに西方の極楽浄土へ向かう)1

    そして、腹を十文字に切り裂き、その生涯を閉じた。享年37歳 1。

ここに、清和源氏新羅三郎義光を祖とし、甲斐国に二百数十年君臨した名門・武田氏の嫡流は、完全に途絶えた。彼らは戦いには敗れたが、生け捕りの恥辱を避け、武士としての作法に則って自らの意思で死ぬことで、名誉という最後の砦を守り抜いたのである。

終章:灰燼の中から ― 新府城の戦いが残したもの

武田家の滅亡は、一個の戦国大名の終焉に留まらず、日本の歴史に大きな転換をもたらした。新府城の灰燼の中から、新たな時代の胎動が始まろうとしていた。

勝者の処断と凱旋

武田勝頼・信勝父子の首は、安土の織田信長のもとへ届けられ、長良川の河原で晒された 1 。信長の長年の宿敵は、こうして完全に滅び去った。一方、主君を裏切って延命を図った小山田信茂の末路は悲惨であった。彼は織田信忠の陣に投降したが、信忠は「主君を裏切るとは、古今未曾有の不忠者である」としてこれを許さず、3月24日、母や妻子もろとも甲斐善光寺にて処刑した 1 。裏切りが必ずしも生き残る道とはならない、戦国の非情さを示す結末であった。

全ての抵抗勢力を排除した信長は、4月3日に新府城の焼け跡を検分し、しばし甲府に滞在した 25 。その後、同盟者である徳川家康から駿河国で手厚い歓待を受けながら、4月21日に安土城へと凱旋する 1 。この時が、信長の権勢が頂点に達した瞬間であった。しかし、そのわずか一ヶ月半後の6月2日、彼が本能寺の炎に倒れることを、まだ誰も知らなかった。

生き延びた者たちのその後

  • 真田昌幸 :主家滅亡後、上野の岩櫃城に戻った昌幸は、一度は織田家の重臣・滝川一益に属した 3 。しかし、本能寺の変によって武田遺領が政治的空白地帯となると(天正壬午の乱)、彼はその類稀なる知略と胆力で、織田、北条、上杉、徳川という巨大勢力の間を巧みに渡り歩き、自らの領地を確保・拡大していく。主家を失った一国衆から、戦国屈指の知将へと駆け上がっていくのである 26
  • 徳川家康 :甲州征伐の功により駿河一国を与えられた家康は 25 、さらに天正壬午の乱を制して甲斐・信濃の大部分をその手中に収める 28 。これにより、彼の領国は飛躍的に拡大し、後の天下取りへの強固な基盤が築かれた。武田家の滅亡は、結果として徳川家康を最大の受益者としたのである。

「新府城の戦い」が歴史に与えた影響

「新府城の戦い」は、物理的な戦闘が行われなかった「戦いのない戦い」であった。しかし、この一連の出来事は、戦国時代のあり方を大きく変える転換点であったと言える。

この事件が示した最も重要な教訓は、いかに物理的に堅固な城塞を築こうとも、その主の「権威」が失墜し、家臣団の「忠誠」という社会的な基盤が崩壊してしまえば、城は全く無力であるということであった 6 。信長は、単なる武力による制圧ではなく、情報戦、調略、そして「天下人」としての圧倒的な権威によって敵の内部を崩壊させるという、新たな戦争の形を完成させた。

新府城の炎上は、古い時代の終わりと、新たな秩序の到来を告げる狼煙であった。これ以降、戦国時代の争乱は、単なる領地や城の奪い合いから、誰が天下の秩序を再構築するのかという、より高度な政治闘争へとその質を大きく変えていくことになる。そして、武田家滅亡後にその遺臣団の多くを召し抱えた徳川家康は、武田流の軍学や統治手法を自らの組織に組み込み、後の江戸幕府の体制へと昇華させていったのである 1 。新府城と共に消えた勝頼の夢は、形を変え、新たな時代の中で生き続けることになった。

引用文献

  1. 甲州征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E5%BE%81%E4%BC%90
  2. 『武田勝頼の最期』度重なる裏切り、凛々しく天目山での自害 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/takeda-katsuyori-saigo/
  3. 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
  4. 【山梨県】新府城の歴史 武田勝頼が築いた悲運の城 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1906
  5. 新府城跡~武田勝頼が築いた新府城:韮崎市~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/kai/sinpujyo.html
  6. 国指定史跡 新府城跡を探る - 山梨県 https://www.pref.yamanashi.jp/documents/34469/68936213006.pdf
  7. お城の現場より〜発掘・復元最前線 第26回【新府城】わずか68日で灰燼に帰した悲劇の城 https://shirobito.jp/article/681
  8. 新府城 - DTI http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/shinpujo.htm
  9. 武田城下町関連年表 - 山梨県 https://www.pref.yamanashi.jp/documents/99115/takedajoukamachi2.pdf
  10. 【Step19】楽しい鎖場と甲斐武田氏の伝承の山を巡って【岩殿山】|おぐてら - note https://note.com/oguterra/n/n300462f31360
  11. 岩櫃城と潜龍院跡(武田勝頼公関連史跡) - h-kikuchi.net https://www.h-kikuchi.net/entry/2024/09/28/104126
  12. 勝頼公をお迎えせよ - 岩櫃城忍びの乱 https://www.shinobinoran.com/katuyorikouwoomukaeseyo
  13. 岩殿城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/iwadono.j/iwadono.j.html
  14. 鉄道唱歌にも悪しざまに唄われる小山田信茂の岩殿城 https://yamasan-aruku.com/aruku-319/
  15. 長坂光堅はどんな人?甲陽軍鑑で散々ディスられた勝頼重臣の生涯 - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/nagasaka-torahusa/
  16. 小山田信茂Oyamada Nobushige - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/koshin/oyamada-nobushige
  17. 小山田信茂 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82
  18. 理慶尼の記 - Wikisource https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%90%86%E6%85%B6%E5%B0%BC%E3%81%AE%E8%A8%98
  19. 悲曲・武田氏の末路 http://ktymtskz.my.coocan.jp/A2/Kosyu1.htm
  20. 武田勝頼は笹子峠を本当に目指したのか|夢酔藤山 - note https://note.com/gifted_macaw324/n/nfcfe0b1ed741
  21. 甲州征伐・天目山の戦い~武田勝頼の滅亡~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/koshu-seibatu.html
  22. 武田勝頼 終焉の地を歩く~山梨観光 歴史と文学の旅 https://sirdaizine.com/travel/KatsuyoriSyuen.html
  23. 小山田信茂とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%8C%82
  24. 新府城 http://shirabe.sunnyday.jp/castle/011.html
  25. 本能寺の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
  26. どうする家康解説!生き残りの天才『真田昌幸』家康を翻弄する"表裏比興の者" - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/sanadamasayuki-survival/
  27. 家康を苦しめた戦国屈指の食わせ者・真田昌幸 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12008/
  28. 1582年(後半) 東国 天正壬午の乱 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-4/