新高山城の戦い(1575)
天正三年、小早川隆景は常山城を包囲。上野隆徳と鶴姫は奮戦するも落城し、一族は玉砕した。備中兵乱の終結を告げ、毛利氏の備中支配を確立するも、宇喜多氏台頭の契機となった。
「Perplexity」で合戦の概要や画像を参照
「新高山城の戦い」の真実:天正三年、備中常山城に散った悲劇の物語
序章: 「新高山城の戦い」という伝承の謎 ― 真の舞台「常山城」へ
天正三年(1575年)、備後国において小早川隆景が新高山城を押さえたとされる「新高山城の戦い」。この合戦について、詳細な調査を求める声に応えるにあたり、まず一つの重要な歴史的事実を提示する必要がある。それは、史料上、この名称と内容に合致する合戦は確認されていないという点である。
その理由は明白である。備後国に聳える新高山城は、天文二十一年(1552年)以降、毛利元就の三男であり、毛利両川の一翼を担う智将・小早川隆景自身の本拠地であった 1 。標高約197メートルの山全体を要塞化したこの城は、沼田川と瀬戸内海の水運を抑える戦略的要衝であり、隆景の中国地方経略の拠点として機能していた 3 。したがって、隆景が自らの居城である新高山城を攻撃するという構図は、論理的に成り立たない。この「新高山城の戦い」という名称は、後世の伝承の中で、隆景が関わった別の重要な合戦と混同された結果生まれたものと推察される。
では、ユーザーが真に探求している戦いは何であろうか。提示された要素―「天正三年(1575年)」という年、「小早川隆景」という主将、「中国地方」という地域、そして「城を落とす」という事象―を歴史の羅針盤にかけると、ただ一つの戦いが鮮明に浮かび上がってくる。それが、備中・備前の国境に位置する**常山城(つねやまじょう)**を舞台に繰り広げられた、壮絶な攻防戦である。
この戦いは、備中一帯を揺るがした大乱「備中兵乱」の最終局面を飾るものであり、小早川隆景が総大将として指揮を執った、まさしく彼の戦歴における重要な一ページであった。本報告書は、この「新高山城の戦い」という問いの背後に隠された真実の戦い、すなわち「常山城の戦い」に焦点を当て、その背景から凄惨な戦闘の経過、そして歴史的意義に至るまでを、時系列に沿って徹底的に解明するものである。
第一部: 乱世の中国 ― 「備中兵乱」に至る道程
第一章: 毛利・三村・宇喜多、三国鼎立の力学
常山城の悲劇を理解するためには、まず、その引き金となった「備中兵乱」がなぜ勃発したのか、その複雑な人間関係と政治力学の深淵を覗き込まねばならない。
背景設定:緊密だった毛利・三村関係
かつて、備中(現在の岡山県西部)の有力国人領主であった三村氏は、毛利氏にとって最も信頼すべき同盟者の一つであった。三村家親の代、毛利元就がまだ安芸の一国人に過ぎなかった頃から、三村氏は毛利氏に属し、その中国地方制覇の戦いにおいて数々の武功を挙げてきた 6 。特に、尼子氏との熾烈な争いの中で、三村氏は毛利方の先鋒として働き、その忠誠心と武勇は高く評価されていた。この功績により、三村氏は毛利氏の後ろ盾を得て備中松山城を本拠とし、備中一国に覇を唱える大名へと成長を遂げたのである。
亀裂の発生:父の暗殺と拭えぬ遺恨
この蜜月関係に、暗い影を落とす事件が起こる。永禄九年(1566年)、三村家親が、備前(現在の岡山県東部)の戦国大名・宇喜多直家の放った刺客により、鉄砲で暗殺されたのである 6 。「備前の梟雄」と恐れられた直家は、目的のためには謀略・暗殺も厭わない冷徹な男であった。父を非業の死で失った跡継ぎの三村元親にとって、宇喜多直家は不倶戴天の仇敵となった。この個人的な怨恨は、元親の生涯を貫く行動原理となり、やがて中国地方全体の勢力図を塗り替える巨大な渦の中心となっていく。
決定的な破綻:毛利・宇喜多の同盟
元親が復讐の機会を窺う中、彼の主家である毛利氏が、信じがたい決断を下す。元亀三年(1572年)頃、毛利氏は東方戦線の安定化を目的として、なんと元親の仇敵である宇喜多直家と和睦し、同盟を締結したのである 6 。
この決断の背景には、巨大組織ならではの戦略的合理性が存在した。当時、毛利氏は九州の大友氏、そして中央で急速に勢力を拡大する織田信長という、西と東からの脅威に直面していた。特に、織田信長と結びつきを強める浦上氏や、その背後で不穏な動きを見せる宇喜多氏を東方に抱える状況は、毛利氏にとって大きな懸念材料であった。偉大な当主・元就が没し、輝元へと代替わりした直後の毛利家にとって、国内の結束を固め、両面作戦を避けることは最優先課題であった。その観点から見れば、宇喜多氏と手を結び、東の脅威を一時的にでも無力化することは、極めて合理的な外交戦略であった。
しかし、この大局的な戦略的合理性は、一人の忠実な家臣の個人的な感情を無慈悲に踏みにじるものであった。父を殺した相手と主家が手を結ぶという現実は、三村元親にとって到底受け入れられるものではなかった。主家からの裏切りと感じた元親の心中に、毛利氏への不信と憎悪の念が深く刻まれた瞬間であった。巨大組織が掲げる戦略的目標と、それを構成する個人の忠誠心や動機との間に生じたこの致命的な乖離こそ、備中兵乱を不可避なものとした根本的なトリガーだったのである。毛利氏のこの一手は、短期的な安定と引き換えに、長年にわたって築き上げてきた忠誠の基盤を揺るがす、極めて危険な賭けであったと言えよう。
第二章: 織田信長の影 ― 反毛利同盟の形成
主家・毛利に絶望した三村元親が次なる活路を求めた先は、東方で天下布武を掲げる織田信長であった。
三村元親の決断:主家への反旗
天正二年(1574年)、三村元親はついに毛利氏からの離反を決意する 7 。彼は毛利氏の敵対勢力であった豊後の大友氏や瀬戸内海の村上水軍の一部と連携し、公然と反旗を翻した 6 。そして、当時すでに毛利氏と緊張関係にあった織田信長に接近し、その支援を取り付けようと画策したのである。
信長の介入:中国地方への布石
この動きを、信長が見逃すはずはなかった。『中国兵乱記』などの軍記物によれば、信長は元親に密使を送り、「毛利を討ち果たした暁には、備中・備前の二カ国を与える」という内容の誓紙を与え、その反乱を煽ったとされる 6 。天正三年(1575年)当時、信長の主敵は東の武田勝頼(同年五月に長篠の戦いで激突 8 )であり、畿内では石山本願寺との泥沼の戦いを続けていた 10 。彼の戦略的リソースは、これら東方および畿内の敵に集中していた。
このような状況下で、三村元親の離反は、信長にとって最小限のコストで西の強敵・毛利氏の足元を揺るがす絶好の機会であった。直接大軍を派遣せずとも、毛利氏の内部に混乱を生じさせ、その勢力を削ぐことができる。元親は信長にとって便利な「駒」であり、毛利にとっては放置できない「癌」であった。備中兵乱は、単なる一地方の国人領主の反乱ではなく、西の雄・毛利と東の覇者・織田という、天下の趨勢を決する二大勢力の「代理戦争」の様相を呈していたのである。
将軍・足利義昭の動向
この複雑な情勢に、さらに影響を与えたのが、信長によって京を追放された室町幕府第十五代将軍・足利義昭の存在であった。義昭は毛利氏を頼り、その庇護の下で反信長勢力を結集させ、幕府再興の機会を窺っていた 6 。毛利氏が「天下の公儀」である将軍を保護することは、信長に対する明確な敵対行為であり、両者の全面対決を不可避にする選択であった。備中兵乱は、毛利氏がこの重大な決断を下す直前に発生した内乱であり、その帰趨が、毛利氏が信長との全面戦争に踏み切るか否かの判断材料の一つとなったことは想像に難くない。
【表1】「備中兵乱」主要人物関係図
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人物名 |
所属・立場 |
主要な関係性 |
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毛利 輝元 |
安芸・毛利氏当主 |
備中兵乱における三村氏討伐の最高決定者。 |
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小早川 隆景 |
毛利両川・新高山城主 |
三村氏討伐軍の総大将。乃美宗勝の上官。 |
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吉川 元春 |
毛利両川 |
毛利家の軍事の中核を担う猛将。 |
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三村 元親 |
備中・備中松山城主 |
父・家親を宇喜多直家に暗殺され、毛利を離反。上野隆徳の義兄。 |
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上野 隆徳 |
備前・常山城主 |
三村元親の妹・鶴姫を妻とし、義兄に殉じる道を選ぶ。 |
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鶴姫 |
上野隆徳の妻 |
三村元親の妹。常山城の悲劇のヒロイン。 |
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宇喜多 直家 |
備前・岡山城主 |
三村家親を暗殺。毛利氏と同盟し、三村氏を挟撃する。 |
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織田 信長 |
尾張・天下人 |
三村元親の離反を煽り、毛利氏の弱体化を図る。 |
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乃美 宗勝 |
小早川隆景の家臣 |
毛利水軍の将。常山城攻撃の実行部隊長の一人。 |
第二部: 悲劇の攻防 ― 常山城の五日間
第一章: 備中最後の砦
毛利氏の総力を挙げた攻撃の前に、三村方の抵抗は脆くも崩れ去っていった。
戦局の推移:備中松山城の陥落
天正二年(1574年)に始まった備中兵乱は、翌天正三年に入ると毛利方の圧倒的優勢で推移した。小早川隆景を総大将とし、毛利輝元本隊、吉川元春らを加えた数万(一説に八万とも 12 )の毛利軍は、備中各地に点在する三村方の城砦を次々と攻略。そして同年五月、ついに三村氏の本拠地であり、日本三大山城の一つに数えられる難攻不落の備中松山城を包囲した。兵糧攻めと内部からの裏切りにより、城は同年五月二十二日に陥落。城主・三村元親は、同年六月二日に自刃して果てた 7 。
常山城の戦略的位置と籠城する人々
元親の死によって、三村氏の組織的抵抗は事実上終焉した。しかし、毛利氏の追撃は、元親に与した親族・与党に向けられた。その最後の標的となったのが、備中と備前の国境、児島半島に聳える常山城であった。
この城を守るは、上野肥前守隆徳。彼は元親の妹・鶴姫を妻に迎えた義弟であり、三村一族の連枝であった 16 。足利将軍家の一門を祖に持つとも伝わる名門・上野氏の当主として、また義兄・元親の無念を晴らすため、隆徳は毛利への徹底抗戦を決意する 16 。彼の決断は、一族の誇りと武士の意地を懸けた、絶望的な戦いの始まりを意味した。
絶望的な兵力差
常山城に籠もる兵は、わずか二百余名に過ぎなかった 15 。対する毛利軍は、備中平定の勢いに乗る数千の軍勢であった。一説には、その数6,300に及んだともいう 19 。この圧倒的な戦力差は、この戦いが始まる前から、その結末を悲劇的なものとして運命づけていた。
【表2】常山城攻防戦タイムライン(天正三年六月)
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日付 |
時間帯(推定) |
城外(毛利軍)の動き |
城内(上野軍)の動き |
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6月2日 |
終日 |
小早川隆景軍、常山城に到着。包囲網を完成させる。 |
籠城戦の準備。徹底抗戦の意思を固める。 |
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6月3日~6日 |
終日 |
降伏勧告と散発的な攻撃。包囲を固め、兵糧・水の枯渇を待つ。 |
降伏勧告を拒絶。小競り合いに応じつつ、士気の維持に努める。 |
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6月7日 |
未明~早朝 |
総攻撃の準備。 |
落城を覚悟。一族による最後の酒宴。叔母、嫡男らが自害。 |
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6月7日 |
午前 |
乃美宗勝隊を先鋒に、総攻撃を開始。城内各所で激しい白兵戦。 |
城兵、奮戦するも次々と討ち死に。 |
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6月7日 |
昼 |
― |
城主夫人・鶴姫、侍女三十四名と共に城外へ出撃。 |
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6月7日 |
昼過ぎ |
乃美宗勝、鶴姫の一騎討ちの申し出を拒否。 |
鶴姫、宗勝に太刀を託し城内へ帰還。 |
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6月7日 |
午後 |
城内を制圧。 |
鶴姫、夫・隆徳の目前で自害。隆徳も後を追い自刃。常山城落城。 |
第二章: 攻防の時系列詳解(天正三年六月二日~七日)
【六月二日~六日】 死の包囲網
備中松山城を落とした毛利軍の先鋒隊は、休む間もなく常山城へと殺到した。六月二日、小早川隆景が率いる本隊が到着し、瞬く間に城は幾重にも取り囲まれ、蟻の這い出る隙間もない完全な包囲下に置かれた 14 。毛利方から降伏勧告の使者が送られるが、上野隆徳はこれを一蹴。城兵の士気は高く、徹底抗戦の構えを崩さなかった。
しかし、時間の経過は籠城側に残酷な現実を突きつける。数日にわたり、毛利軍は力攻めを避け、散発的な攻撃を繰り返しながら城内の疲弊を待った。城の水の手は断たれ、備蓄された兵糧は日ごとに減っていく。城外から響く敵兵の鬨の声と、城内に広がる静かな絶望。死の包囲網の中で、上野一族と城兵たちの覚悟は、ゆっくりと、しかし確実に固まっていった。
【六月七日 未明~早朝】 最後の宴と決別
六月七日、夜明け前。もはや落城が時間の問題であることを悟った上野隆徳は、本丸に一族郎党と主だった家臣を集め、最後の酒宴を開いた 15 。それは、死地へ赴く者たちの訣別の儀式であった。
宴が終わると、壮絶な自決が始まった。まず、隆徳の叔母(五十七歳)が、「女が先に逝く手本を示さん」と辞世の句を残し、見事な作法で喉を突いて果てた。続いて、元服したばかりの嫡男・高秀(十五歳)が父に別れを告げ、後を追った。まだ幼い次男(八歳)は、父・隆徳が自らの手で介錯し、十六歳の妹もまた、叔母を貫いた刀で自らの胸を突き、兄の腕の中で息絶えた 15 。一族が次々と血の海に倒れていく地獄絵図を、城主夫人・鶴姫は静かに、しかし燃えるような瞳で見つめていた。
【六月七日 午前】 毛利軍総攻撃
夜が白々と明け始めると同時に、毛利軍の総攻撃が開始された。鬨の声を上げ、法螺貝を吹き鳴らし、数千の兵が怒涛のごとく城へと押し寄せる。その先鋒を務めたのは、小早川水軍を率いる歴戦の将・乃美宗勝(浦宗勝とも呼ばれる)であった 19 。彼の率いる精鋭部隊は大手門を突破し、城内はたちまち凄惨な白兵戦の場と化した。数で圧倒的に劣る上野方の兵たちは、死を覚悟で奮戦するも、一人、また一人と討ち取られていった。
【六月七日 昼】 鶴姫、出陣す
城内の男たちがことごとく討ち死にし、本丸にまで敵兵が迫る中、誰もが予想しなかった光景が繰り広げられる。城主夫人・鶴姫が、紅の鎧を身にまとい、長刀を手に、本丸の広間へと姿を現したのである 15 。
「女が戦に出ても成仏はできませぬ。なにとぞ、静かにご自害を」と諫める老臣に対し、鶴姫は凛として言い放ったと伝えられる。「この修羅の巷こそ、我らが西方浄土。武家の女として、ただ死を待つことなどできようか」。その言葉に奮い立った三十四人の侍女たちも、思い思いの武具を手に鶴姫の後に続いた。彼女たちの行動は、単なる自暴自棄な玉砕ではなかった。それは、滅びゆく「家」の名誉をその身に刻みつけ、後世に「上野氏は臆病に死んだのではなく、女子供に至るまで勇猛に戦い、誇り高く滅んだ」と語り継がせるための、象徴的な「戦い」だったのである。
【六月七日 昼過ぎ】 鶴姫と乃美宗勝の対峙
開け放たれた城門から、鶴姫を先頭とする女軍が鬨の声を上げて打って出た。その常軌を逸した光景と鬼気迫る勢いに、攻め手の毛利軍は度肝を抜かれ、一時混乱に陥った 16 。女軍は敵兵を薙ぎ倒しながら進み、鶴姫は敵の総大将とおぼしき鎧武者、乃美宗勝の前に立ちはだかった。
「我こそは城主・上野隆徳が妻、鶴にござる! 御身の首、この手で討ち取り、夫への手土産といたさん! いざ、尋常に勝負!」
長刀を構え、一騎討ちを挑む鶴姫。しかし、歴戦の将である宗勝は、静かに首を横に振った。「武士の誉れとして、女子と刃を交えることはできぬ」。彼はそう言うと、部下に命じて鶴姫を傷つけぬよう取り囲ませた 20 。宗勝のこの対応は、単なる侮りや憐れみからではなかった。当時の武士の倫理観において、女性、特に高貴な身分の女性を一方的に斬り捨てることは武功とはならず、むしろ不名誉とさえ見なされる価値観が存在した。殺伐とした戦場の只中に現出したこの一瞬の対峙は、敵味方を超えて存在する、武人としての矜持と複雑な文化的規範を浮き彫りにしている。
勝負を諦めた鶴姫は、一族に伝わる家宝の太刀「国平」を宗勝に差し出し、「この太刀の威徳、武運の守りとされよ」と告げると、静かに踵を返し、侍女たちと共に燃え盛る城内へと引き返していった 20 。
【六月七日 午後】 落城、そして玉砕
本丸に戻った鶴姫は、血と煙の中で静かに待つ夫・隆徳の前に進み出た。そして、夫が見守る中、懐から取り出した短刀を口にくわえ、うつ伏せに倒れて自らの命を絶った 15 。武家の女としての最期の作法であった。
その壮絶な最期を見届けた上野隆徳もまた、静かに腹を切り、妻の後を追った 15 。城主夫妻の死をもって、常山城は完全に陥落。上野一族は、その誇りを守り抜き、歴史の舞台から姿を消した。
第三部: 戦後の中国と歴史的意義
第一章: 備中平定と勢力図の再編
常山城の陥落は、備中兵乱の終結を告げる鐘の音であった。
毛利氏の勝利と代償
この勝利により、毛利氏は反乱勢力であった三村氏とその一派を完全に滅ぼし、備中一国を完全にその支配下に置いた 7 。毛利輝元の治世における最初の大きな内乱を鎮圧し、その権威を内外に示したのである。しかし、この勝利は決して安価なものではなかった。長年にわたり毛利氏を支えてきた有力な国人領主である三村氏を、自らの手で滅ぼしてしまったことは、毛利氏の支配体制にとって小さくない損失であった。それは、毛利氏の支配構造が、元就時代のような国人領主との連合体的な性格から、より中央集権的な体制へと移行していく過程で生じた、必然的な痛みであったのかもしれない。
漁夫の利を得た宇喜多直家
この一連の戦乱において、最大の利益を得たのは、間違いなく備前の宇喜多直家であった 6 。彼は毛利氏に協力するという形で軍事行動を起こし、長年の仇敵であった三村氏を滅ぼすことに成功した。その結果、三村氏の旧領の一部を手中に収め、備前から美作(現在の岡山県北部)にまたがる広大な領国を築き上げ、中国地方東部に確固たる地盤を築いた。
この結果は、毛利氏にとって極めて皮肉なものであった。彼らは、比較的御しやすかったであろう長年の家臣・三村氏を失い、その代わりに、より狡猾で野心的な宇喜多氏という強大な勢力を、自らの手で育て上げてしまったのである。三村氏という、毛利と宇喜多の間の「緩衝地帯」が消滅したことで、毛利氏の領国は、宇喜多氏を介して、東から迫る織田氏の勢力圏と直接国境を接することになった。毛利氏の備中兵乱における完勝は、短期的には支配権を確立したが、長期的には自らをより困難な戦略的隘路へと追い込む結果を招いたのである。
常山城のその後
戦後、悲劇の舞台となった常山城は、一時的に毛利氏の城番が置かれた後、宇喜多直家に与えられた 18 。直家は重臣の戸川秀安を城主とし、対毛利の拠点として、あるいは南方の備えとして活用した。
第二章: 次なる戦乱への序曲
毛利・織田の全面対決へ
備中兵乱という内憂を完全に鎮圧した毛利氏は、いよいよその全力を、中央の覇者・織田信長との対決に傾ける体制を整えた。常山城が陥落した翌年の天正四年(1576年)、毛利輝元は、かねてより庇護を求めていた将軍・足利義昭を、本拠地である備後国の港町・鞆の浦に正式に迎え入れた 6 。これは、信長に対する明確な宣戦布告に他ならなかった。
そして同年七月、毛利氏は石山本願寺への兵糧搬入を阻止しようとする織田水軍を、木津川口において壊滅させる(第一次木津川口の戦い) 10 。ここに、西国と中央の二大勢力による、天下の覇権を賭けた総力戦の火蓋が切って落とされたのである。
歴史の連続性
この文脈において、常山城の戦いは、単独の攻城戦として完結するものではない。それは、毛利氏の歴史が「中国地方の国内平定の時代」から、「織田氏との天下を賭けた総力戦の時代」へと移行する、大きな歴史的転換点に位置づけられる戦いであった。備中兵乱という内部の膿を出し切ったからこそ、毛利氏は織田信長という未曾有の敵と対峙する覚悟を固めることができたのである。常山城に散った上野一族の血は、結果として、毛利氏を次なる大きな戦乱へと向かわせるための、悲壮な礎となったのであった。
結論: 常山城の戦いが戦国史に刻んだもの
当初の「新高山城の戦い(1575年)」という問いから始まった本報告書の探求は、その背後に存在する真実の戦い、すなわち「常山城の戦い」へと辿り着いた。この戦いは、以下の三つの側面から、戦国史において重要な意味を持つと結論づけられる。
第一に、この戦いは毛利氏の中国地方支配の完成を象徴する戦いであった。長年の同盟者であった三村氏を滅ぼすという痛みを伴いながらも、備中一国を完全に平定したことで、毛利氏は名実ともに中国地方の覇者としての地位を確立した。
第二に、それは同時に、毛利氏が織田信長との全面対決へと踏み出す出発点でもあった。国内の反乱分子を一掃し、後顧の憂いを断った毛利氏は、将軍・足利義昭を奉じて反信長勢力の中核となる道を選択する。常山城の戦いの勝利がなければ、その後の毛利氏の対織田戦略は大きく異なっていたであろう。
そして第三に、この戦いは、戦国乱世の非情さと、その中で生きた人々の誇り高い生き様を、今に伝える悲劇の物語として記憶されている。特に、城主夫人・鶴姫が三十四人の侍女たちを率いて敵陣に突撃したという逸話は、武家の女性が「家」の名誉のために示した究極の覚悟の表れとして、後世の人々に強い感銘を与え続けている。それは、単なる戦いの記録を超え、時代に翻弄されながらも最後まで自らの尊厳を失わなかった人々の魂の記録なのである。
常山城の戦いは、決して大規模な会戦ではなかったかもしれない。しかし、それは戦国時代の政治力学、武士の倫理観、そして人間の情念が凝縮された、極めて示唆に富む一幕であった。その詳細を紐解くことは、戦国という時代の複雑な様相を、より深く、そしてより人間的に理解するための一助となるであろう。
引用文献
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- 続日本100名城めぐり…【新高山城】 - おやじの暇つぶし - FC2 https://kazu1207.blog.fc2.com/blog-entry-408.html
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- 乃美宗勝Nomi Munekatsu - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/sanyo/nomi-munekatsu
- 常山城跡 - 岡山県ホームページ https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/628714.html