最終更新日 2025-08-26

根白坂の戦い(1591)

天下統一最後の戦役:九戸政実の乱と九戸城攻防戦の全貌

序章:歴史的座標の確定 ―「根白坂の戦い」と「九戸政実の乱」

主題の明確化

本報告書は、天正19年(1591年)に陸奥国で繰り広げられた「九戸政実の乱」、特にその最終局面である「九戸城攻防戦」について、詳細かつ時系列に沿った形で解明するものである。

まず、利用者の照会内容にある「根白坂の戦い(1591年)」という指定について、専門的見地から歴史的座標を明確にする必要がある。史実における「根白坂の戦い」(ねじろざかのたたかい)は、照会された年号より4年前の天正15年(1587年)に、日向国根白坂(現在の宮崎県木城町)で行われた、豊臣秀吉の九州平定における島津義久軍との決戦である 1 。この戦いは、九州の雄・島津氏の組織的抵抗を終結させ、豊臣政権による九州統一を決定づけた重要な合戦であった 2

一方で、利用者が提示された「陸奥国」「九戸政実の乱の最終局面」「奥州仕置の一環」といったキーワードは、明確に天正19年(1591年)の「九戸政実の乱」を指し示している 4 。これは、豊臣秀吉による天下統一事業の総仕上げとして、奥州(東北地方)の秩序再編(奥州仕置)に反旗を翻した南部一族の雄・九戸政実が、豊臣の大軍を相手に繰り広げた最後の組織的抵抗であった 6

したがって、本報告書は、利用者の真の探求対象であると判断される「九戸政実の乱」およびそのクライマックスである「九戸城攻防戦」を主題とし、その全貌を徹底的に詳述する。この歴史的誤認の訂正は、単なる手続きに留まらない。九州の根白坂と奥州の九戸、この二つの戦いは、場所と時間は異なれど、共に豊臣秀吉という中央集権的権力が、長らく独自の秩序を保ってきた日本の「周縁部」を完全にその支配下に組み込む過程で発生した、必然的な衝突であった。島津氏と九戸氏は、それぞれが「辺境の強者」としての矜持を持ち、中央の新たな支配体系に組み込まれることに抵抗した。両者の平定は、秀吉が構想する統一国家の完成に不可欠な、論理的帰結だったのである。この視座を持つことで、「九戸政実の乱」は単なる地方の反乱ではなく、戦国という時代の終焉を告げる画期的な出来事として、その歴史的意義がより鮮明に浮かび上がってくる。

第一部:乱の萌芽 ― 奥州の矜持と中央の奔流

第一章:独立王国・陸奥と南部一族の構造

戦国末期の陸奥国、特に北奥と呼ばれる地域は、京都の中央政権から地理的にも心理的にも遠く、独自の政治文化と武家社会が深く根付いていた 4 。鎌倉以来の名門である南部氏は、この広大な地を治めていたが、その統治形態は一枚岩ではなかった。南部氏は、三戸城に本拠を置く宗家を盟主としながらも、八戸氏や九戸氏といった有力な庶流一族が、それぞれ広大な領地と強大な軍事力を有し、半独立的な地位を保つ連合体として成り立っていたのである 5

この庶流一族の中でも、九戸政実(くのへ まさざね)が率いる九戸氏は、群を抜く勢力を誇っていた 8 。天文5年(1536年)に生まれたとされる政実は、武将としての器量に優れ、その代に九戸氏の勢力を飛躍的に拡大させた 10 。南部宗家からの要請に応じ、安東氏との鹿角郡を巡る戦いで武功を挙げるなど、その武勇は南部一族の防衛と勢力拡大に不可欠なものであった 10 。その実力から、九戸氏は宗家と対等であるとの強い自負を抱いていた可能性も指摘されている 12 。彼らは単なる家臣ではなく、南部一族という連合国家を構成する、独立したパートナーであるという意識が強かったのである。

第二章:亀裂の序曲 ― 南部宗家家督継承問題

この微妙なバランスの上に成り立っていた南部一族の結束は、天正10年(1582年)、一族に最盛期をもたらした24代当主・南部晴政の死によって、大きく揺らぐことになる。晴政には長く男子がおらず、田子(石川)信直を養子に迎えていた。しかし、後に実子・晴継が誕生すると、晴政と信直の関係は険悪化する 9

晴政の死後、家督を継いだ晴継がわずか13歳で急死(病死とも、暗殺とも伝わる)すると、南部一族は深刻な後継者問題に直面する 6 。ここで、南部宗家の家督を巡り、田子信直と、晴政の娘婿であった九戸政実の弟・実親を擁立する九戸派が激しく対立した 8 。重臣たちによる評定の結果、北信愛らの後押しを受けた信直が、半ば強引な形で26代当主の座に就いた 10

この決定は、九戸政実にとって到底承服できるものではなかった。実力、そして晴政との血縁においても正統性を主張し得た弟を退けて、一度は宗家と対立した信直が家督を継いだこと、さらに晴継の死に信直が関与したのではないかという疑念も相まって、政実の信直に対する不信感と敵意は決定的なものとなった 7 。この家督継承問題こそが、のちに南部領全土を戦火に巻き込む巨大な亀裂の始まりであった。

第三章:「奥州仕置」という激震

南部一族の内部対立が燻る中、日本の政治情勢は大きな転換点を迎えていた。天正18年(1590年)、小田原の北条氏を滅ぼし、事実上の天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その総仕上げとして、奥州の諸大名に対する大規模な領土再編、すなわち「奥州仕置」に着手した 4

家中での権力基盤が脆弱であった南部信直にとって、この中央からの圧力は、むしろ好機であった。彼は、家中最大の対抗勢力である九戸政実を抑え、自身の当主としての正統性を絶対的なものにするため、外部の最高権威である秀吉にいち早く接近した。小田原征伐に参陣し、秀吉に臣従の意を示すことで、信直は「南部内7郡」の支配を認める朱印状を獲得し、豊臣政権公認の近世大名として、その地位を確立したのである 4

しかし、信直のこの行動は、九戸政実の視点からは全く異なって映った。政実にとって、奥州仕置は「奥州とは無縁の人物に領土の口出しをされる」ことであり、奥州の武士の誇りを踏みにじる暴挙であった 4 。その中央権力に信直が媚びへつらい、一族の伝統的な秩序を売り渡す行為は、許しがたい裏切りと映ったのである。

ここに、九戸の乱が不可避となる構造が完成した。この乱は、単に「南部家の内紛」と「秀吉への反乱」が偶然重なったものではない。むしろ、信直が自身の脆弱な権力基盤を補強するために外部権力(秀吉)を積極的に引き入れた結果、政実の信直への反発が、必然的に秀吉への反旗へと転化・昇華したのである。信直を打倒しようとすれば、それは自動的に信直の後ろ盾である秀吉への挑戦となる。これは、戦国時代を通じて維持されてきた地方分権的な秩序が、近世の中央集権的な秩序へと移行する際に生じた、典型的かつ最も激しい摩擦の現れであった。

第二部:最後の抗戦 ― 天下人への狼煙

第一章:九戸政実の蜂起

天正19年(1591年)正月、九戸政実は南部宗家の本拠・三戸城への新年参賀を拒否し、信直との決別を公然たるものとした 17 。そして同年3月、政実はついに約5,000の兵を率いて蜂起する 11

政実の決起は、単独の行動ではなかった。秀吉の奥州仕置によって所領を没収されたり、その支配体制に不満を抱いたりしていた周辺の国人領主たち、とりわけ櫛引清長や七戸家国といった実力者が政実に呼応し、反乱は瞬く間に北奥の一大勢力へと発展した 9

九戸軍は緒戦において、その精強さを遺憾なく発揮した。三戸南部方の諸城を次々と攻略し、南部信直を窮地に追い込んでいく 5 。領内の一揆も頻発し、独力での鎮圧が不可能であることを悟った信直は、同年6月9日、上洛して秀吉に謁見し、正式な援軍を要請した 5 。政実の剣は、もはや信直だけでなく、天下人・豊臣秀吉その人に向けられることとなった。

第二章:奥州再仕置軍の編成 ― 計算された「威圧」

九戸政実の蜂起は、豊臣秀吉にとって、単なる地方の騒乱ではなく、天下統一を成し遂げたばかりの豊臣政権の権威に対する重大な挑戦であった。秀吉は即座に、これを根絶やしにするための大規模な討伐軍の編成を命じる。それは「奥州再仕置軍」と名付けられ、その陣容は、九戸という一地方勢力を制圧するには明らかに過剰とも言える、圧倒的なものであった。

総大将には、秀吉の甥であり、関白の地位にあった豊臣秀次が就任 7 。軍監には政権の実務を担う浅野長政、そして実質的な現場指揮官として、織田信長からもその武勇を高く評価された歴戦の将・蒲生氏郷が起用された 5 。さらに、徳川家康の重臣・井伊直政、五奉行の一人である石田三成、堀尾吉晴といった、豊臣政権の中核をなす武将たちが軒並み動員された 6

その総兵力は6万とも10万とも言われ、伊達政宗、上杉景勝、佐竹義重といった関東・東北の諸大名もその指揮下に組み込まれた 5 。これは、九戸軍の兵力5,000に対し、実に10倍以上の兵力差であった。この編成は、軍事的な勝利を確実にするだけでなく、奥州の全ての勢力に対し、豊臣政権の絶大な軍事動員力と、逆らう者にはいかなる結末が待っているかを見せつける、計算され尽くした政治的・軍事的「威圧」に他ならなかった。

【表1:奥州再仕置軍 主要編成と進軍経路】

役職

武将

総大将

豊臣秀次

軍監

浅野長政

白河口方面軍

豊臣秀次、徳川家康

仙北口方面軍

上杉景勝、大谷吉継

相馬口方面軍

石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱

津軽方面軍

前田利家、前田利長

現場主力部隊

蒲生氏郷、堀尾吉晴、井伊直政

動員された東北諸大名

伊達政宗、最上義光、小野寺義道、秋田実季、津軽為信など

推定総兵力

約60,000 - 100,000

この表が示すように、再仕置軍は複数の経路から奥州へ進軍した 6 。これは、九戸政実をピンポイントで攻撃するのではなく、葛西・大崎一揆の残党も含め、奥州に存在する全ての反抗勢力を面で制圧するための、周到な戦略であった。徳川家康や前田利家といった政権最高幹部が動員されている事実は、この戦役が秀吉にとって、諸大名に対する軍役義務を再確認させ、豊臣政権の指揮命令系統を天下に示すための重要な政治的デモンストレーションであったことを物語っている。

第三章:前哨戦の激闘

天正19年8月、奥州各地の一揆を鎮圧しながら北上した再仕置軍は、ついに南部領へと進撃した。天下人の大軍を前に、九戸方の抵抗は熾烈を極めた。

8月23日 美濃木沢の奇襲

再仕置軍の先鋒が南部領に差し掛かった8月23日、九戸方の将・小鳥谷摂津守(こずやせっつのかみ)が、わずか50名の兵を率いて美濃木沢で奇襲を敢行した。地の利を活かした巧みな戦術で、豊臣軍に480人もの損害を与えたと伝わる 6。この緒戦は、九戸軍の兵たちの士気の高さと、決して侮れない戦闘能力を天下の軍勢に示すものとなった。

9月1日 姉帯城・根反城の攻防

しかし、圧倒的な兵力差はいかんともしがたかった。9月1日、蒲生氏郷、井伊直政らが率いる主力部隊は、九戸城の南方を守る前衛拠点、姉帯城(あねたいじょう)と根反城(ねそりじょう)に猛攻を仕掛けた 21。

特に姉帯城では、壮絶な戦いが繰り広げられた。城主・姉帯兼興(かねおき)と弟の兼信は、二百余の兵で2万以上の大軍を迎え撃ったとされる 24 。城が破られると、兄弟は城から打って出て大軍の中に突入。弟・兼信は敵と刺し違えて討ち死にし、兄・兼興も無数の傷を負い、もはやこれまでと馬上で腹を切り、自害して果てた 14 。後世に編纂された『九戸軍談記』などの軍記物では、この姉帯兄弟の最期は、九戸方の武勇と悲壮な覚悟を象徴する場面として、繰り返し語られている 14

この激しい抵抗にもかかわらず、姉帯・根反の両城はわずか一日で陥落した。豊臣軍の圧倒的な物量作戦の前に、九戸方の前線は崩壊。戦いの舞台は、いよいよ政実が籠る本拠・九戸城へと移ることになる。

第三部:九戸城攻防戦 ― リアルタイム・クロニクル

第一章:城の守り ― 難攻不落の要害

再仕置軍の前に立ちはだかった九戸城は、天然の地形を最大限に活かした堅城であった。西を馬淵川、北を白鳥川、東を猫渕川という三方を川に囲まれた断崖絶壁の台地に築かれ、唯一陸続きである南側も、深く巨大な空堀によって守られていた 6

この城の特筆すべき防御機能は、その土壌にあった。九戸一帯は、十和田火山の噴出物である粘着質の火山灰土で覆われており、これを垂直に削り出すことで、まるで切り立った崖のような「切岸(きりぎし)」を容易に造成できた 21 。この高く険しい切岸と深い空堀の組み合わせは、大軍の接近を阻み、城に難攻不落の防御力を与えていたのである 21

この堅城に、九戸政実以下、一族郎党、そして周辺から馳せ参じた兵たち約5,000が籠城した 27 。兵力では10倍以上の差があったが、彼らは城の堅固さと、自らの郷土と誇りを守るという高い士気に支えられ、徹底抗戦の覚悟を決めていた。城内には3ヶ月分の兵糧が備蓄されていたとも伝わる 4 。天下統一の最終章は、この北の要害を舞台に、血で血を洗う攻防戦で幕を開けた。

第二章:攻防の記録(天正19年9月2日~3日)

9月2日 包囲網の完成と総攻撃

前哨戦を終えた奥州再仕置軍は、9月2日、ついに九戸城を完全に包囲した。総勢6万の軍勢は、城の四方を隙間なく固めた。

  • 南(大手口) :総大将・豊臣秀次が本陣を構え、蒲生氏郷、堀尾吉晴といった主力が布陣。
  • 東(猫渕川対岸) :軍監・浅野長政、徳川軍の井伊直政が布陣。
  • 北(白鳥川対岸) :九戸氏年来の宿敵である南部信直、そして蝦夷地から参陣した松前慶広が布陣。
  • 西(馬淵川対岸) :津軽為信、秋田実季、小野寺義道ら、出羽・津軽の諸将が布陣した 6

包囲網が完成するや否や、蒲生氏郷を主将とする攻撃軍は、城への総攻撃を開始した。しかし、九戸城の守りは固かった。九戸軍は、城の土塁や地形を巧みに利用し、鉄砲や弓矢による正確な射撃で応戦。攻め寄せる豊臣軍に次々と損害を与えた 14 。特に蒲生勢は大きな被害を受け、業を煮やした氏郷がさらなる猛攻を命じるも、城を落とすには至らなかったと記録されている 14

この攻防戦に関する唯一の一次史料とされる、9月14日付の浅野長政の書状には、「二日より九戸の城を攻囲し、塀際まで攻め寄せたところ、九戸が髪を剃って降参してきた」と、あっさりと降伏したかのように記されている 21 。しかし、これは戦いの詳細を意図的に省略した、勝者側による公式報告と見るべきである。後世の軍記物や現地の伝承が伝える九戸方の奮戦ぶり、そして豊臣軍が最終的に謀略を用いたという事実を鑑みれば、この2日間の攻防が、豊臣軍にとって決して容易なものではなかったことは明らかである。

第三章:謀略と降伏(9月4日)

9月4日 偽りの和睦交渉

力攻めではいたずらに損害が増えるばかりだと判断した豊臣軍首脳部、特に蒲生氏郷と浅野長政は、戦術を武力から謀略へと切り替えた 7。彼らが白羽の矢を立てたのは、九戸氏代々の菩提寺である長興寺の住職、薩天和尚であった 7。

薩天和尚は、豊臣軍からの使者として九戸城内へ送られた。彼が政実に示した降伏勧告の内容は、政実の武勇を最大限に称賛した上で、「これ以上の戦いは無益である。もし開城降伏するならば、城内にいる者、特に女子供の命は保証する」というものであった 11

この勧告を受け、政実は苦渋の決断を迫られた。城兵はよく戦ったが、兵力の消耗は激しく、外部からの援軍も期待できない。このまま抵抗を続ければ、城内の全ての者が玉砕する未来は避けられなかった。「敵の二万を殺すより、手前に尽くしてくれた五千を生かすことの方が大事」—政実は、自らの命と引き換えに、城兵と家族の助命を確約させることを選び、降伏を決意した 4

同日、9月4日。九戸政実は、弟の実親、そして櫛引清長、七戸家国ら、蜂起の中心となった武将たちと共に、武士の武装を解き、髪を剃り、白装束の出家姿となって、静かに城門を出た 6 。それは、戦国武将としての死ではなく、一族の未来を信じての投降であった。

第四章:約束の反故 ― 二の丸の惨劇

しかし、政実の願いは、戦国時代の終焉を告げる非情な現実の前に踏みにじられた。政実ら主だった武将たちが城外へ出て、豊臣軍に身柄を拘束された直後、和睦の約束は反故にされたのである。

浅野長政らの指揮の下、豊臣軍の兵士たちは一斉に城内へなだれ込んだ。そして、城内に残っていた政実の弟・九戸実親以下の将兵、その家族、さらには女子供に至るまで、全てを二の丸に押し込め、一人残らず斬り殺した 6 。この一方的な殺戮は「撫で斬り」と呼ばれ、九戸城の悲劇として後世に語り継がれることになる。

惨劇はそれで終わらなかった。殺戮の後、豊臣軍は二の丸に火を放った。その炎は三日三晩燃え盛り、夜空を赤く焦がしたと伝えられている 6

この凄惨な物語は、単なる伝承や軍記物の誇張ではない。平成7年(1995年)以降に行われた九戸城跡の発掘調査では、二の丸跡から、首のない人骨や、無数の刀傷を負った女性や子供を含む複数の人骨が発見された 21 。これらの考古学的証拠は、「撫で斬り」が紛れもない歴史的事実であったことを、生々しく我々に突きつけている。

この惨劇は、戦場の激情による偶発的なものではない。それは、豊臣政権による計算され尽くした「見せしめ」であり、恐怖による支配を確立するための政治的テロリズムであった。秀吉は、紀州征伐や肥後国人一揆など、他の反乱においても、抵抗の核となった勢力を徹底的に殲滅する方針を採ってきた 34 。九戸城での撫で斬りは、この一貫した方針の適用であり、「豊臣政権に組織的に歯向かう者は、女子供に至るまで根絶やしにされる」という強烈なメッセージを、奥州全土に、そして全国のまだ服従しきらぬ勢力に発信する目的があった。助命を約束してからの騙し討ちという手法は、軍事的な損害を最小限に抑えつつ、この政治的目標を最大限に達成するための、冷徹極まりない戦術であった。それは、戦国時代に存在した「武士の情け」といった価値観が、近世的な「絶対権力への完全服従」という新たな秩序によって、容赦なく駆逐されていく過渡期の非情さを象徴する出来事であった。

第四部:終焉と新秩序 ― 戦国時代の黄昏

第一章:首謀者たちの最期

九戸城での惨劇の後、投降した政実ら首謀者たちの運命もまた、定まっていた。彼らは総大将・豊臣秀次の本陣が置かれていた栗原郡三迫(現在の宮城県栗原市)まで連行された 6

天正19年9月20日、九戸政実、櫛引清長、七戸家国ら、乱の中心人物たちは、一切の弁明の機会も与えられないまま、斬首の刑に処された 11 。伝承によれば、櫛引清長は最期まで宿敵・南部信直を罵り続けたが、政実は全ての覚悟を決め、従容として死を受け入れたという 10 。享年56歳であったと伝えられる 39

政実の首は、その後京都に送られて晒されたとも、あるいは忠実な家臣が密かに故郷の九戸村へ持ち帰り、手厚く葬ったとも言われている 5 。現在も岩手県九戸村には、この伝承に基づき、「政実公の首塚」が静かに祀られている 5 。また、処刑の仲介役となってしまった長興寺の薩天和尚は、自らの役割を深く悔い、政実の四十九日にあたる日に、三戸城の大手門前で舌を噛み切り自害したと伝えられている 30

第二章:戦後処理と南部氏の再編

九戸政実の乱の鎮圧は、南部領の政治地図を完全に塗り替えた。乱の後、秀吉の命により、蒲生氏郷が九戸城を改修し、南部信直に引き渡した 6 。信直は、長年の本拠であった三戸城からこの地へ居城を移し、九戸氏の記憶を抹消するかのように、地名を「福岡」と改めた 6

さらに、蒲生氏郷や浅野長政は、信直に対し、領国の中心をより南方の要衝地へ移すことを強く勧めた。これが、後の盛岡城築城計画へと繋がり、近世における盛岡藩の成立と発展の礎となった 4

南部信直にとって、この戦いは最大の政敵を排除する絶好の機会であった。九戸氏という、宗家を脅かすほどの最大勢力が消滅したことにより、信直は名実ともに南部領の唯一の支配者となり、戦国的な一族連合体から、藩主を中心とする集権的な近世大名へと、その支配体制を大きく転換させていくのである 4

第三章:九戸一族のその後

九戸政実の嫡流は、この乱によって完全に途絶えた。政実の子・亀千代も捕らえられ処刑され、九戸宗家は滅亡した 10

しかし、九戸の血脈が全て絶たれたわけではなかった。政実の弟でありながら、唯一、乱の当初から豊臣方に味方した中野康実の一族は、その恭順の姿勢を評価され、存続を許された 10 。康実の子孫は中野氏を名乗り、乱後の南部家(盛岡藩)において、八戸氏、北氏と並ぶ最高の家格である家老職「御三家」の一つとして重用され、幕末までその家名を保った 12

この戦後処理は、豊臣政権と、その代理人となった南部信直による、巧妙な「飴と鞭」の使い分けであった。政実ら首謀者と城兵への撫で斬りという徹底的な「鞭」は、抵抗者への絶対的な不寛容を示した。一方で、協力者である中野康実を厚遇するという「飴」は、抵抗勢力内部の分裂を誘い、新体制への協力者には恩賞があることを示す実例となった。この硬軟両様の使い分けは、恐怖による支配と利益による懐柔を組み合わせた高度な統治技術であり、戦国的な武力闘争の時代から、近世的な政治支配の時代へと移行する、時代の特徴を色濃く反映している。

第四章:「最後の戦国合戦」としての歴史的意義

九戸政実の乱の鎮圧は、日本の歴史において画期的な意味を持つ。この戦いをもって、豊臣政権に対する日本国内での組織的かつ大規模な武力抵抗は、完全に終焉を迎えた 4 。それは、応仁の乱以来100年以上にわたって続いた、群雄割拠の「戦国時代の事実上の終わり」を告げる、最後の戦役であった 47

国内の憂いを完全に取り除いた天下人・豊臣秀吉は、この直後から、その膨大なエネルギーを国外へと向ける。九戸政実が処刑された翌年の文禄元年(1592年)には、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)が開始されるのである 7

歴史は勝者によって記される。長くの間、九戸政実は中央の秩序に逆らった「反乱の首魁」として語られてきた。しかし近年では、この出来事を勝者である豊臣・南部側の視点から「乱」と呼ぶだけでなく、敗者である九戸側の視点に立ち、中央の画一的な支配に対する地方の矜持をかけた抵抗として、「九戸一揆」あるいは「九戸合戦」と捉え直す研究が進んでいる 5 。これは、多様な視点から歴史を再構築しようとする現代的な動きの表れと言えよう。

結論:九戸政実の戦いが後世に遺したもの

九戸政実が起こした戦いは、戦国時代を通じて各地で育まれた地方の独立性と武士の矜持が、豊臣秀吉によって推進された強力な中央集権化という、抗いがたい時代の奔流に飲み込まれていく過程を象徴する、壮絶な悲劇であった。それは、古い秩序が新しい秩序に取って代わられる際に必然的に生じる、最後の、そして最も激しい陣痛であった。

その結末は、助命を約束してからの騙し討ちと、女子供まで容赦しない撫で斬りという、天下人の名に似つかわしくない非情な手段によってもたらされた。これは、新たな統一国家の秩序を構築するためには、旧来の武士の価値観や人情が、いかに冷徹に切り捨てられるかという、近世黎明期の厳しさを物語っている。

九戸政実は、歴史上「天下への反逆者」としてその名を刻まれた。しかし、自らが生まれ育った郷土と、一族の名誉のために、当時世界最大級とも言える軍事力を誇った豊臣政権に敢然と立ち向かったその姿は、現代において、中央の論理に抗った「最後の戦国武将」として、新たな光を当てられつつある。彼の戦いは、勝者によって記された公式の歴史の裏には、無数の敗者の物語、そして彼らが守ろうとした矜持が存在することを、我々に強く教えてくれるのである。

引用文献

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  3. 豊臣VS島津の最終決戦!『根白坂の戦い』は島津の野望が潰えた瞬間だった - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=yeAcq_SP6j0
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  7. 九戸政実の乱古戦場:岩手県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kunohemasazane/
  8. 九戸政実とは 秀吉の奥州征伐に挑む反骨の武将 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/kunohemasazane.html
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  24. 第92回:姉帯城(最前線の姉帯氏,豊臣軍の前に散る) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-96.html
  25. 九戸氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E6%88%B8%E6%B0%8F
  26. 【城めぐり】九戸政実の居城 九戸城 岩手県【攻略ルート】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=qBtlT0FNBAc
  27. 九戸城跡 - 二戸市教育委員会 http://www.edu.city.ninohe.iwate.jp/~maibun/pamphlet_kunohejyo.pdf
  28. 近世こもんじょ館-【れぽーと館】 https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/report/report_view.cgi?mode=details&code_no=56
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  30. 九戸城跡〜高橋克彦さんの『天を衝く』の舞台に行ってきたので感想と備忘録を少々 https://hojo-shikken.com/entry/2017/07/01/104257
  31. 九戸村ってどんな村? https://www.vill.kunohe.iwate.jp/ijyu/about.html
  32. 岩手県二戸市九戸城跡 https://www.city.ninohe.lg.jp/info/2324
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  34. No.043 「 肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき) 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/043.html
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  36. 信長と秀吉を悩ませた鉄砲集団の雑賀衆とは?|雑賀衆の成立・衰退について解説【戦国ことば解説】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1144169/2
  37. 政實公の首塚 - 九戸村 http://www.vill.kunohe.iwate.jp/docs/235.html
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  40. Masazane Kunohe – 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 https://jpcastles200.com/tag/masazane-kunohe/
  41. 盛岡城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/eastern-japan-castle/moriokajo/
  42. Ⅱ.史跡の概要 - 盛岡市 https://www.city.morioka.iwate.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/019/517/2syou.pdf
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