最終更新日 2025-09-10

清川口の戦い(1600)

北の関ヶ原—慶長出羽合戦 全貌解明:最上義光と直江兼続、奥羽の覇権を賭けた三十日の死闘

第一部:緒言 — 「清川口の戦い」から「慶長出羽合戦」へ

目的と学術的整理

本報告書は、慶長5年(1600年)に発生したとされる「清川口の戦い」について、戦国時代の出羽国(奥羽)を舞台とした最上氏と上杉氏の局地戦という視点から、その詳細を徹底的に解明することを目的とする。

調査を開始するにあたり、まず学術的な整理を行う必要がある。史料を精査した結果、「清川口の戦い」という名称で知られる合戦は、慶長5年(1600年)ではなく、その約270年後の慶応4年(1868年)に、戊辰戦争の一環として庄内藩と新政府軍との間で戦われた戦闘を指すのが歴史学上の通説である 1 。この戦いは「腹巻岩の戦い」とも呼ばれ、東北における戊辰戦争の端緒となった重要な戦闘であった 1

一方で、依頼者が提示した「1600年」「出羽国」「最上・上杉の局地戦」という三つの重要な要素は、まさしく「 慶長出羽合戦 」として知られる一連の戦役に完全に合致する。この合戦は、天下分け目の関ヶ原の戦いと時を同じくして、徳川家康率いる東軍に与した最上義光と、石田三成らの西軍に与した上杉景勝との間で繰り広げられた、奥羽地方の覇権を決定づける極めて大規模かつ重要な戦役であった。

以上の分析に基づき、本報告書では依頼者の真の探求対象がこの「慶長出羽合戦」であると判断し、焦点を定める。清川という地名も、この広範な戦役の舞台となった出羽国庄内地方に含まれることから、地理的な関連性も認められる。本報告は、この歴史的解釈に立ち、慶長出羽合戦の全貌を、依頼者の要望である「合戦中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」で、あたかも戦場で事態が進行していくかのような臨場感をもって詳細に解説するものである。

歴史的重要性

慶長出羽合戦は、単なる地方の勢力争いに留まるものではない。徳川家康と石田三成が美濃国関ヶ原で対峙したのと全く同じ時期に、奥羽の地で繰り広げられたこの戦いは、まさしく「 北の関ヶ原 」と呼ぶにふさわしい重要性を持っていた 4

この戦いの帰趨は、徳川家康の天下統一戦略に直結していた。もし最上氏が早期に敗北していれば、上杉景勝率いる強大な軍団は後顧の憂いなく関東へ進撃し、家康の背後を脅かす可能性があった。そうなれば、関ヶ原の戦いの結果すら覆っていたかもしれない。逆に、最上氏が上杉軍をこの地に釘付けにしたからこそ、家康は西での決戦に集中できたのである 6

このように、慶長出羽合戦は中央の政局と密接に連動し、その結果は戦後の奥羽地方の勢力図を完全に塗り替え、江戸時代の新たな支配体制を確立する上で決定的な役割を果たした。本報告書では、この全国的な大局観と、出羽の地で繰り広げられた壮絶な局地戦の両面から、その歴史的意義を明らかにしていく。

第二部:合戦前夜 — 最上と上杉、宿怨の系譜

慶長出羽合戦の勃発は、関ヶ原の戦いという直接的な引き金があったものの、その根底には最上氏と上杉氏の間に長年にわたって横たわる、深く根差した対立の歴史が存在した。その核心にあったのが、経済的・戦略的要衝である「庄内地方」の領有権を巡る争いであった。

庄内地方を巡る確執

庄内平野は、出羽国における最大の穀倉地帯であると同時に、日本海交通の拠点である酒田港を擁していた。そして、この地域を貫流する最上川は、内陸の米沢盆地や山形盆地で生産される米や、特産品である紅花といった換金作物を酒田港へと運び出し、西廻り航路を通じて京・大坂の市場へ送るための経済の大動脈であった 7 。この舟運と港を支配することは、すなわち領国の経済的繁栄を掌握することを意味した。

この豊穣な地を巡る両家の確執が決定的となったのが、天正16年(1588年)の「十五里ヶ原の戦い」である。庄内地方へ進出した最上義光に対し、上杉景勝の重臣・本庄繁長が侵攻。最上軍は不意を突かれて大敗を喫し、庄内地方は上杉氏の支配下に置かれることとなった 4 。この敗北は、羽州探題家の再興を目指す義光にとって、雪辱を期すべき最大の屈辱としてその胸に刻まれた。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による奥州仕置によって庄内の上杉領有が公的に認められ、義光の不満はさらに鬱積することになる 4

地政学的緊張の激化

両家の対立を不可避なものとしたのが、慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の命令による上杉景勝の会津120万石への移封であった 9 。これは、関東の徳川家康を牽制するという秀吉の深謀遠慮から出たものであったが、意図せずして奥羽地方に極めて危険な火種をばら撒く結果となった。

この国替えにより、上杉家は従来の庄内地方の支配権を維持したまま、最上領の南に位置する置賜地方(米沢)をも領有することになった。その結果、最上領は南の置賜と西の庄内という二つの上杉領によって挟撃される、いわゆる「サンドイッチ」状態に陥ったのである 4 。これは最上家にとって、常に南北から挟撃される危険をはらむ、存亡に関わる地政学的危機であった。

一方で、上杉家にとってもこの配置は大きな問題を抱えていた。本拠地である会津・米沢と、経済的生命線である庄内地方が、敵対する最上領によって完全に分断されていたからである 10 。この二つの領地を結ぶ連絡路の確保は、軍事・経済の両面から上杉家にとっての死活問題であった。この課題を解決すべく、直江兼続は米沢と庄内を結ぶ軍道「朝日軍道」の建設を秘密裏に進め、約1年で完成させている 4 。これは、上杉側が来るべき最上氏との衝突を予期し、周到な準備を進めていたことの何よりの証左である。

中央の政争が生み出したこの歪な領地配置は、地方に長年燻っていた対立を一気に激化させ、両者の衝突を時間の問題としたのである。

人物像と戦略

この緊張状態の中で、両家の舵取りを担ったのが、最上義光と直江兼続という、対照的な二人の武将であった。

最上義光 は、「出羽の驍将」「羽州の狐」などと称される、謀略と武勇に長けた戦国大名であった。彼は、豊臣秀次事件に連座して愛娘・駒姫を惨殺された悲劇を経験している 11 。この際、義光の助命嘆願に同情し、共に奔走したのが徳川家康であったとされ、これが両者の間に個人的な信頼関係を築く一因となった 11 。義光にとって、来るべき戦いは、家康への義理を果たすと同時に、十五里ヶ原の雪辱を果たし、庄内という失地を回復するための宿願を懸けた戦いであった。

対する上杉家を実質的に率いていたのが、上杉景勝の家宰・ 直江兼続 である。彼は豊臣秀吉への恩義を重んじ、上杉家が代々掲げる「義」の精神を体現する武将であった 11 。秀吉の死後、天下の覇権を狙う家康の動きを「不義」とみなし、石田三成らと連携してこれに対抗する道を選ぶ。家康からの上洛要求に対し、挑発的ともとれる返書を送った、世に名高い「直江状」は、上杉家の家康に対する断固たる対決姿勢を天下に示したものであった 9 。兼続にとって、最上氏との戦いは、家康という最大の敵と対峙する前に、背後の憂いを断つための戦略的必然であった。

第三部:天下分け目の波動 — 関ヶ原と奥羽情勢の連動

慶長5年(1600年)夏、徳川家康は「直江状」を口実に上杉家の謀反を断じ、諸大名を率いて会津征伐へと向かった 11 。最上義光もこれに従い、家康から奥羽諸将の主将として、米沢口から会津へ侵攻するよう指示を受けていた 4 。しかし、この壮大な軍事行動は、奥羽の地で火蓋が切られる前に、劇的な方向転換を遂げる。

家康の戦略転換

7月24日、家康が下野国小山(現在の栃木県小山市)に布陣していたところへ、石田三成らが大坂で挙兵したとの報が届く 12 。これを受けて家康は、いわゆる「小山評定」を開き、会津征伐を中止し、全軍を西へ反転させて石田三成を討つことを決定した 4

この家康の決断は、天下の形勢を決定づける上で極めて迅速かつ的確なものであったが、奥羽の東軍諸大名、とりわけ最上義光を絶望的な状況に追い込むものであった。家康という巨大な後ろ盾が突如として西へ去ったことで、彼らは強大な上杉軍の前に、いわば「取り残される」形となったのである 4

最上義光の孤立と苦悩

家康の西上を知ると、奥羽の諸大名の足並みは急速に乱れ始めた。最上氏の長年の宿敵であり、義光の甥でもある伊達政宗は、上杉方と和睦を結んで白石城の返還を約し、積極的な軍事行動を控える姿勢を見せた 4 。山形に集結していた他の奥羽諸将も、主君である家康が不在となった以上、戦う大義名分はないとして、次々と自領へと引き上げていった 4

これにより、最上義光は上杉と対決する姿勢を崩さない唯一の勢力として、完全に孤立無援の状態に陥った。南と西を2万5千ともいわれる上杉の大軍に囲まれ、頼みとする伊達の援軍も期待できない。この絶体絶命の状況下で、義光は上杉方に対し、嫡男・義康を人質として差し出すという屈辱的な条件を提示してでも、山形への出兵を回避してもらおうと和平交渉を試みたという記録が残っている 4 。これは、義光がいかに追い詰められていたかを物語る逸話である。

上杉の侵攻決断

上杉方にとって、家康の不在は、北の憂いを一掃する絶好の機会であった。最上氏を滅ぼすか、あるいは味方に引き入れることができれば、心置きなく家康との決戦に全力を注ぐことができる。

当初は義光からの和睦交渉に応じる姿勢も見せていた上杉方であったが、事態を最終的に開戦へと向かわせたのは、義光の二枚舌外交であった。義光は、和平交渉を進める裏で、東軍に与していた秋田実季と連携し、上杉領である庄内を挟み撃ちにしようとする動きを見せていた 4 。この背信行為を察知した上杉方は激怒し、最上氏への不信感を決定的なものとした。

慶長5年9月3日、米沢城で開かれた軍議において、直江兼続は最上領への全面侵攻を最終決定した 12 。もはや交渉の余地はない。上杉軍は、関ヶ原の決戦に先立ち、まず北の敵・最上義光を完全に無力化すべく、その牙を剥いたのである。

第四部:開戦 — 上杉軍、最上領への侵攻(慶長5年9月8日〜)

慶長5年9月8日、上杉軍はついに最上領への侵攻を開始した 12 。その戦略は、米沢と庄内の二方面から同時に進撃し、挟撃によって最上軍を分断・殲滅するという、典型的な分進合撃作戦であった 4

二方面侵攻作戦

南の米沢口からは、総大将・直江兼続が率いる2万5千(一説には2万)の主力軍が出陣した 4 。この大軍はさらに複数の部隊に分かれ、狐越街道(萩野中山口)や小滝口、大瀬口といった複数のルートから、山形盆地を目指して怒涛の如く進撃した 14

一方、西の庄内口からは、尾浦城主・下吉忠(当時は上杉方)らが率いる別働隊が出撃した。彼らは六十里越街道や、最上川を舟で遡上するルートを取り、最上領の西部に位置する寒河江・谷地方面へと侵攻した 6 。この二方面からの同時侵攻は、最上軍に防衛線の分散を強いる、極めて効果的な戦術であった。

最上軍の防衛体制

これに対する最上軍の総兵力は、わずか7千余りであった 16 。しかも、北の小野寺義道(上杉方に呼応)への備えとして一部の兵力を割いていたため、実際に上杉軍を迎え撃つ兵力は3千から4千程度に過ぎなかったともいわれる 4

この圧倒的な兵力差を前に、義光は野戦を避け、兵力を主要な拠点に集中させる籠城策を選択した。本城である山形城を最終防衛ラインとし、その前面に位置する上山城、そして山形城防衛の最重要拠点である長谷堂城に兵を重点的に配置し、上杉軍の進撃を食い止める戦略をとったのである 9 。領内に点在する中小の城砦の多くは、抵抗を諦めて放棄、あるいは降伏せざるを得なかった 6

畑谷城の悲劇(9月12日〜13日)

直江兼続率いる主力軍が、山形盆地へ至る経路上で最初の目標としたのが、白鷹丘陵に位置する孤城・畑谷城であった。この城は、最上軍の白鷹方面における最前線基地であり、城主・江口五兵衛光清以下、わずか500名ほどの兵が守りを固めていた 4

9月12日、上杉軍は畑谷城を完全に包囲し、攻撃を開始した 12 。圧倒的な兵力差を前に、義光は江口光清に対し、城を放棄して山形城へ撤退するよう命令を下した。しかし、光清はこの命令を「城を棄てるは武士の名折れ」として敢然と拒否し、玉砕を覚悟で城兵と共に徹底抗戦の道を選んだ 18

『最上義光物語』には、その壮絶な戦いの様子が「東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ」と記されている 4 。江口光清父子をはじめとする城兵は、文字通り死力を尽くして戦ったが、衆寡敵せず、翌9月13日、畑谷城はついに落城。城主・江口光清以下、500余名の将兵は一人残らず討死し、城は上杉軍によって撫で斬りにされたと伝えられる 14

畑谷城の悲劇は、慶長出羽合戦の幕開けを飾る凄惨な戦いとなると同時に、最上武士の意地と誇りを天下に示すものでもあった。そして、勢いに乗った上杉軍は、次なる目標である山形城の喉元、長谷堂城へと駒を進めるのであった。

第五部:長谷堂城の死闘 — 時系列で見る攻防の全貌(9月15日〜30日)

畑谷城を攻略した直江兼続は、山形城攻略の最大の障壁となる長谷堂城の制圧へと向かった。ここから、慶長出羽合戦における最も激しく、そして最も重要な攻防戦の火蓋が切られることとなる。この半月にわたる死闘は、単なる一城の争奪戦に留まらず、上杉軍主力をこの地に釘付けにし、関ヶ原の戦いの趨勢が決するまでの貴重な時間を稼ぎ出すという、東軍全体にとって極めて重要な戦略的意味を持つことになった 6

長谷堂城の戦略的価値

長谷堂城は、山形城の南西約8キロメートルに位置する、標高約227メートルの独立丘陵に築かれた堅城である 4 。山形盆地の西南端にあり、本城である山形城を敵の攻撃から守る最後の砦であった 19 。この城が陥落すれば、山形城は敵の攻撃に直接晒されることになり、最上氏の命運は風前の灯となる。義光がこの城の防衛に全力を挙げたのは、当然のことであった。

両軍の布陣

9月14日、直江兼続は長谷堂城を眼下に見下ろす菅沢山に本陣を構え、城を完全に包囲する陣形を敷いた 6 。西部山麓一帯は上杉軍の陣地で埋め尽くされ、その兵力は2万を超えていた。

対する長谷堂城の守備兵は、わずか1,000名。しかし、その指揮官は最上家が誇る二人の名将であった。城将は「最上の智将」と謳われた 志村伊豆守光安 、副将には「剛勇」で知られた 鮭延越前守秀綱 が就き、鉄壁の守りを固めた 6

リアルタイム戦闘経過

以下に、長谷堂城を巡る攻防の推移を時系列で詳述する。

日付 (慶長5年)

最上軍の動向

上杉軍の動向

全国・周辺の情勢と特記事項

9月14日

志村光清、鮭延秀綱ら長谷堂城に入城。義光、須川を越えて出陣し後詰めの陣を敷く 17

直江兼続、菅沢山に本陣を設置。長谷堂城を完全に包囲 6

徳川家康、関ヶ原に着陣。石田三成、大垣城を出て関ヶ原へ移動 17

9月15日

寡兵ながらも上杉軍の猛攻を撃退。上杉方の武将十数騎を討ち取るも、最上方も200〜300の死者を出す 17 。義光、嫡男・義康を伊達政宗のもとへ派遣し、援軍を正式に要請 14

兼続、第一次総攻撃を敢行。大軍をもって城に猛攻を仕掛ける 17

関ヶ原の戦い 。この一日で東軍の勝利が決する。

9月16日

志村光安の指揮の下、200名の決死隊が夜陰に乗じて上杉方の春日元忠の陣に夜襲を敢行。首150余を挙げる 14

夜襲を受け、陣中は大混乱に陥る。同士討ちも発生したと伝わる 14

伊達政宗、叔父・留守政景を将とする援軍の派遣を決定 15

9月17日

防戦を継続。

長谷堂城への攻撃を続ける。

近江佐和山城が落城。石田三成の父・正継らが自害 17

9月18日

志村光安、挑発には乗らず籠城を徹底。「笑止」と返礼し、兵の士気を維持する 15

雑兵に城下の田の稲を刈らせる「刈田狼藉」を行い、城兵を挑発 14

戦況は膠着状態に入る。

9月21日

義光・義康親子、連名で弥勒菩薩に戦勝を祈願 12

包囲を継続。

石田三成が捕縛される 17 。政宗、援軍の笹谷峠越えを許可 17

9月22日

伊達の援軍到着の報に、城兵の士気が上がる。

伊達軍の動きを警戒。

留守政景率いる伊達の援軍3,000が、笹谷峠を越えて山形城東方の小白川に着陣 12

9月24日

伊達軍と呼応し、上杉軍を牽制。

第二次攻撃を敢行するも、伊達軍の存在が圧力となり、決定的打撃を与えられず 17

伊達軍、須川の対岸、沼木に布陣し上杉軍本陣を窺う 15

9月25日

義光、山形城を出て稲荷塚に布陣し、伊達軍と連携して上杉軍に圧力をかける 15

最上・伊達連合軍の動きを警戒し、戦況は再び膠着。

二本松の上杉軍が増援として最上方面へ向かうとの情報が流れる 12

9月29日

志村光安、城から打って出て反撃。上杉方の勇将・ 上泉泰綱 (主水)を討ち取るという大戦果を挙げる 6

兼続、第三次総攻撃を命令。全軍で城に最後の猛攻を仕掛ける 14

この日、 関ヶ原における西軍大敗の報 が、直江兼続のもとに届く 14

9月30日

攻守逆転を確信。追撃の準備を開始。

兼続、全軍に撤退準備を命令。

最上義光のもとにも関ヶ原の戦勝報告が届く 17

この半月に及ぶ攻防戦は、数で劣る最上軍が、地の利と将兵の士気の高さ、そして巧みな戦術によって、大軍を擁する上杉軍の猛攻を凌ぎ切った、日本戦史における籠城戦の白眉と評されるものである。

第六部:もう一つの戦線 — 庄内口と諸城の動向

長谷堂城で激しい攻防が繰り広げられている間、他の戦線でも最上・上杉両軍の死闘が続いていた。特に、庄内口から侵攻した上杉軍別働隊と、上山城を守る最上軍の戦いは、全体の戦況に大きな影響を与えた。

庄内別働隊の進撃

西の庄内からは、当時上杉方の武将であった尾浦城主・下吉忠、および志駄修理亮らが率いる別働隊が最上領へ侵攻した 20 。彼らは六十里越街道などの山道を進み、最上領の西部に位置する白岩城、寒河江城、谷地城といった諸城を次々と攻略、あるいは降伏させた 17 。この西からの圧力は、最上義光に長谷堂方面への兵力集中を躊躇させ、防衛計画をより困難なものにした。

上山城の攻防:「物見山の戦い」

一方、山形盆地の南の入り口に位置する上山城では、長谷堂城とは対照的に、最上軍が目覚ましい勝利を収めていた。9月17日、上杉軍の別働隊約4,000が上山城に迫った。これに対し、城を守る里見民部らは、わずか500余りの兵で城から打って出たのである 22

里見民部は、山中の物見山に伏兵を配置し、上杉軍の隊列が長く伸びきったところを奇襲した 18 。不意を突かれた上杉軍は混乱に陥り、大将の本村親盛が討ち取られるなど大敗を喫し、米沢へと敗走した 9 。この「物見山の戦い」における勝利は、いくつかの重要な意味を持っていた。第一に、上杉軍の南からの侵攻ルートを頓挫させ、山形城への直接的な脅威を一つ取り除いたこと。第二に、この勝利の報が、長谷堂で苦戦する最上軍全体の士気を大いに高めたことである。もし上山城が早期に陥落していれば、上杉軍は長谷堂城を南北から挟撃することが可能となり、戦況は最上にとってさらに絶望的なものになっていただろう。里見民部の果敢な決断と勝利は、最上氏が慶長出羽合戦を戦い抜く上で、極めて大きな貢献を果たしたのである。

第七部:転機と退却 — 関ヶ原の報と直江兼続の決断(9月29日〜10月4日)

慶長5年9月29日、長谷堂城に最後の総攻撃を仕掛けていた直江兼続のもとに、飛脚がもたらした一通の書状が、戦場の空気を一変させた。それは、9月15日の関ヶ原の戦いにおける石田三成ら西軍の大敗を告げるものであった 14

撤退の決断

西軍本隊の壊滅により、上杉軍が最上領で戦い続ける大義名分は完全に失われた。もはやこの戦いは、豊臣家のためでも、家康の不義を正すためでもなく、単なる上杉家の私戦となってしまった。このまま戦闘を継続しても戦略的利益はなく、むしろ家康の矛先が再び会津に向けられた際に、無駄に兵力を消耗するだけである。直江兼続は、即座に全軍の撤退という、極めて困難かつ屈辱的な決断を下さざるを得なかった 6

「直江の退き口」

10月1日、上杉軍は長谷堂城の包囲を解き、米沢への撤退を開始した 17 。しかし、それは無秩序な敗走ではなかった。兼続は、水原親憲や前田利益(慶次)といった猛将たちに殿(しんがり)を命じ、追撃してくる最上軍を食い止めるための周到な計画を実行した 14

鉄砲隊を巧みに配置し、追撃の足が速い最上軍に対して一斉射撃を浴びせては後退する、という戦術を繰り返した。この見事な統率と殿部隊の奮戦により、上杉軍は大きな損害を出しながらも、軍としての建制を保ち、致命的な打撃を避けることに成功した。この撤退戦は後に「 直江の退き口 」として語り継がれ、敵将である最上義光をして「さすが直江、見事。謙信公以来の武勇の伝統が今も残っている」と賞賛せしめたと伝えられている 6

最上軍の猛追

一方、関ヶ原の勝利の報を受け、攻守逆転した最上義光は、これまでの鬱憤を晴らすかのように全軍に猛追を命じた。義光自ら陣頭に立ち、鉄の指揮棒を振るって兵を鼓舞したという 24

山形城西方の富神山周辺や、狐越街道の長岡楯付近では、退却する上杉軍と追撃する最上軍との間で熾烈な戦闘が繰り広げられた 6 。この追撃戦の最中、義光の兜に敵の銃弾が命中するという危うい場面もあった 6 。側近の家臣が身を挺して義光を守り、銃弾に倒れたとされ、戦闘の激しさを物語っている。

この過酷な撤退戦における両軍の損害は甚大であった。諸記録によれば、上杉方の戦死者は1,580人、対する最上方も623人の犠牲者を出したとされる 6 。10月4日、直江兼続は多大な犠牲を払いながらも、ついに米沢城への帰還を果たした 14 。こうして、慶長出羽合戦の主戦場であった長谷堂を巡る戦いは、幕を閉じたのである。

第八部:攻守逆転 — 最上軍による庄内奪還戦(10月15日〜翌年4月)

直江兼続率いる上杉軍本隊が米沢へ撤退したことで、出羽国内の力関係は劇的に変化した。最上義光は内陸部の脅威が去ると、間髪入れずに長年の悲願であった庄内地方の奪還へと乗り出した。ここから、慶長出羽合戦の第二幕が始まる。

下吉忠の降伏と起用

上杉軍本隊の撤退は、最上領深くまで侵攻していた庄内別働隊を悲惨な状況に追い込んだ。指揮官であった下吉忠は、本隊からの連絡が届かないまま退路を断たれ、占領していた谷地城に完全に孤立してしまった 21 。最上軍に包囲された吉忠は、もはや抵抗は不可能と判断し、降伏を決断。最上義光に仕えることとなった 10

ここからの最上義光の采配は、彼の非凡な戦略眼と人間洞察を示すものであった。義光は、降伏したばかりの敵将・下吉忠を、即座に庄内侵攻軍の先鋒として起用したのである 4 。これは、いくつかの高度な計算に基づいていた。第一に、庄内の地理や城の内部事情、そして人脈を知り尽くした吉忠を案内役とすることで、攻略を迅速かつ容易に進めることができる。第二に、昨日までの味方が敵の先頭に立って攻めてくるという事実は、庄内に残る上杉方将兵の士気を著しく低下させ、心理的な動揺を誘う。そして第三に、吉忠自身に「裏切り者」として上杉方と戦わせることで、彼の退路を完全に断ち、最上家への忠誠を誓わせるという効果があった。この一石三鳥ともいえる妙手により、庄内平定は大きく加速することになる。

庄内への反攻

慶長5年10月15日、最上義光は嫡男・義康を総大将とし、降将・下吉忠を先導役として、庄内への反攻作戦を開始した 12

吉忠がかつて城主を務めていた尾浦城は、彼の説得もあってか、比較的容易に最上軍の手に落ちた 4 。元城主であった吉忠は、今度は最上軍の将として、再び尾浦城に戻るという皮肉な運命を辿ったのである。

東禅寺城(酒田)の攻防

しかし、庄内における上杉方の最後の拠点、酒田港に面する東禅寺城(後の亀ヶ崎城)は、容易には屈しなかった。城代の志駄修理亮義秀と川村兵蔵らは、城に籠って徹底抗戦の構えを見せた 10

最上軍は尾浦城を攻略した後、東禅寺城を包囲したが、冬の到来もあって攻めあぐね、戦いは年を越すこととなった。そして翌慶長6年(1601年)4月、雪解けを待った最上軍は、義康を総大将に、清水義親らの部隊も加えて総勢1万近い大軍で総攻撃を開始した 12 。最上川を渡河して城に迫る最上軍と、城から応戦する上杉軍との間で激しい攻防戦が繰り広げられた 12

数日間にわたる激戦の末、最終的に再び交渉役として立った下吉忠の説得が功を奏した。これ以上の抵抗は無益と悟った志駄義秀は、城兵の助命を条件に東禅寺城を開城 10 。4月24日、ついに城は最上軍の手に渡り、ここに十五里ヶ原の戦い以来、13年ぶりに庄内全域が最上氏の支配下に帰したのである 4

第九部:戦後処理と影響 — 「北の関ヶ原」がもたらしたもの

慶長出羽合戦の終結は、関ヶ原の戦いと連動して、奥羽地方の勢力図を根本から塗り替える結果をもたらした。徳川家康による戦後処理は、勝者と敗者の明暗をくっきりと分けた。

論功行賞

最上義光 は、この合戦における最大の功労者の一人と評価された。絶体絶命の危機的状況から逆転勝利を収め、上杉軍の主力を出羽に釘付けにした功績は、家康から高く評価された。その結果、義光は悲願であった庄内三郡と由利郡を加増され、石高は24万石から一挙に57万石へと躍進した 6 。これにより最上氏は、置賜地方を除く現在の山形県のほぼ全域と秋田県南部の一部を領有する大大名となり、その生涯における絶頂期を迎えた。

対照的に、敗れた 上杉景勝 は、家康への敵対行動の責を問われ、会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封された 4 。庄内、会津といった豊穣な土地を失い、その勢力は大きく削がれることとなった。

一方、最上氏の援軍として参陣した 伊達政宗 は、複雑な立場に置かれた。彼は合戦の最中、上杉領の白石城を攻略する一方で、家康の留守に乗じて自身の領土拡大を画策し、南部領で一揆を扇動していたことが露見した 4 。これが家康の不興を買い、戦前に約束されていたとされる「百万石のお墨付き」は反故にされ、自力で獲得した刈田郡2万石の追認という、わずかな加増に留まった 4

新たな統治体制

戦後、最上義光は新たに獲得した広大な領地の経営に着手した。

長谷堂城で鉄壁の防衛戦を指揮した功労者・ 志村伊豆守光安 は、庄内の中心地である酒田(東禅寺城)3万石の城主に栄転した 6 。彼は戦火で荒廃した港町の復興と城下町の整備に尽力し、今日の酒田市の基礎を築いた 10

また、降将でありながら庄内攻略の先鋒を務めた 下吉忠 も、その功績を認められ尾浦城主として1万2千石を与えられるなど、破格の厚遇を受けた 21

長期的影響

慶長出羽合戦は、出羽国における戦国時代に事実上の終止符を打ち、徳川幕府の下での新たな支配体制、すなわち幕藩体制を確立する画期となった。最上氏が57万石の大封を得て迎えた時代は「山形の黄金時代」とも称され、城下町の整備や産業の振興が大きく進んだ 6 。特に、最上氏による庄内統治は、酒田港のさらなる発展や、後に北楯大学助利長によって実現される北楯大堰のような大規模な灌漑事業の基礎を築き、日本有数の穀倉地帯である庄内平野の後の繁栄へと繋がっていくのである 2

第十部:総括

慶長5年(1600年)に勃発した慶長出羽合戦は、関ヶ原の戦いという全国規模の動乱の影に隠れ、しばしば「北の関ヶ原」として一括りに語られる。しかし、本報告書で詳述した通り、この戦いは単なる中央の戦いの余波ではなく、庄内地方の領有権を巡る最上氏と上杉氏の長年の宿怨、そして徳川家康の天下統一戦略が複雑に絡み合って発生した、奥羽地方の歴史における極めて重要な転換点であった。

合戦の序盤、家康の西上によって孤立無援となった最上義光が、圧倒的な兵力を誇る上杉軍の前に滅亡寸前まで追い詰められた状況は、戦国の世の非情さを象徴している。しかし、そこから智将・志村光安と猛将・鮭延秀綱が守る長谷堂城が、半月にわたって上杉軍主力を釘付けにし、関ヶ原の趨勢が決するまでの時間を稼ぎ出したことは、東軍全体の勝利に計り知れない貢献を果たした。

関ヶ原の報を受けた後の攻守逆転の様相は、まさに劇的であった。直江兼続が見せた、敵将・義光さえも賞賛した見事な撤退戦は、上杉武士の誇りと実力を示した。一方で、義光が降将・下吉忠を即座に先鋒に起用し、長年の悲願であった庄内を奪還していく様は、彼の老獪な戦略家としての一面を如実に示している。

最終的に、この戦いは最上義光に57万石という栄光をもたらし、最上家の頂点を築いた。一方で、上杉景勝は30万石への大減封という苦杯を嘗めた。この結果は、出羽国における戦国時代の遺風を完全に清算し、徳川幕府の下での新たな秩序、すなわち近世という時代の到来を奥羽の地に告げるものであった。最上義光の不屈の執念、志村光安の鉄壁の防衛、そして直江兼続の義に生きた戦い。慶長出羽合戦は、戦国末期を生きた武将たちの壮絶なドラマが凝縮された、後世に語り継がれるべき戦役であると結論付けることができる。

引用文献

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  2. 日本史好き必見!徒歩で行く“歴史の里”きよかわ観光ガイドツアー https://mokkedano.net/feature/kiyokawa_guide/top
  3. 平成30年度企画展「戊辰の役清川口の戦い」開催中 - 回天の魁士 清河八郎blog! http://hachiro55.blog.shinobi.jp/%E2%98%85%E6%B8%85%E6%B2%B3%E5%85%AB%E9%83%8E%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E5%B9%B3%E6%88%90%EF%BC%93%EF%BC%90%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E4%BC%81%E7%94%BB%E5%B1%95%E3%80%8C%E6%88%8A%E8%BE%B0%E3%81%AE%E5%BD%B9%E6%B8%85%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%80%8D%E9%96%8B%E5%82%AC%E4%B8%AD
  4. 慶長出羽合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E5%87%BA%E7%BE%BD%E5%90%88%E6%88%A6
  5. 風流 慶長出羽合戦 長谷堂の戦い - 新庄まつり https://shinjo-matsuri.jp/db/2016_11
  6. あらすじ - 「直江兼続VS最上義光」~決戦!出羽の関ヶ原・慶長出羽合戦 http://dewa.mogamiyoshiaki.jp/?p=special
  7. 最上川舟運の発展 https://www.thr.mlit.go.jp/yamagata/river/enc/genre/02-reki/reki0101_002.html
  8. 小鵜飼船に乗せられた青苧と木綿 ―最上川から見た商品経済進展のダイナミズム― http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/190220-geppo667,668/smr667,668-ikemoto.pdf
  9. 伊達と上杉の宿敵「最上義光」...梟雄と語られてきた戦国大名の知られざる素顔 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10839
  10. 「武士の時代 中世庄内のつわものたち」 - 酒田市 https://www.city.sakata.lg.jp/bunka/bunkazai/bunkazaishisetsu/siryoukan/kikakuten201-.files/0203.pdf
  11. 慶長出羽合戦~回想~ - やまがた愛の武将隊【公式Webサイト】 https://ainobushoutai.jp/free/recollection
  12. 慶長出羽合戦の経過 http://dewa.mogamiyoshiaki.jp/m/?p=log&l=106417&c=&t=
  13. 北の関ヶ原合戦と 上杉家の思惑 - JR東日本 https://www.jreast.co.jp/tohokurekishi/tohoku-pdf/tohoku_2019-05.pdf
  14. 北の関ヶ原、長谷堂合戦 家康に天下を取らせた戦い | My favorite things about Yamagata https://my-favorite-things-about-yamagata.com/togo/%E5%8C%97%E3%81%AE%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%80%80%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%A0%82%E5%90%88%E6%88%A6/
  15. どうする秀秋4政宗の野望|島風ひゅーが - note https://note.com/cute_ixia381/n/nd8aa50ffd11b
  16. 最上義光 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89
  17. 慶長出羽合戦の経過:ヤマガタンver9|山形の人脈データベース https://yamagatan.com/?p=log&l=106417&a=441&c=350810
  18. 最上家の武将たち:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=149233
  19. <長谷堂城> "出羽の関ヶ原(慶長出羽合戦)"と言われた堅城をこの目で確認しました! | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12865485808.html
  20. 最上家臣余録 【志村光安 (4)】:戦国観光やまがた情報局|山形 ... https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=189727
  21. 下吉忠(しも・よしただ) ?~1614 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/ShimoYoshitada.html
  22. 13話-霞城最上義光と慶長出羽合戦|saintex - note https://note.com/saintex/n/nedd6cd2d5ee1
  23. 直江兼続の足跡を辿る http://www3.omn.ne.jp/~nishiki/naoe2.htm
  24. 最上義光歴史館 第一展示室 最上家の歴史と慶長出羽合戦などの資料を展示しています。 https://my-favorite-things-about-yamagata.com/togo/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E5%85%89%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E9%A4%A8%E3%80%80%E7%AC%AC%E4%B8%80%E5%B1%95%E7%A4%BA%E5%AE%A4/
  25. 出羽の虎将 最上義光 長 谷 堂 合 戦 http://www.yamagata-community.jp/~motosawa/image/yukari.pdf
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  27. 最上義光歴史館/最上家をめぐる人々 19 【志村伊豆守光安/しむらいずのかみあきやす】 https://mogamiyoshiaki.jp/?p=log&l=151097