最終更新日 2025-09-02

甲賀郡諸城掃討(1570~85)

甲賀郡は織田信長と豊臣秀吉による掃討と再編を経験した。独立自治「惣」は解体され、甲賀衆は中央集権体制に組み込まれた。徳川家康との縁で武士の道を見出し、甲賀組として新たな時代を生き抜いた。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

甲賀郡諸城掃討(1570-1585):独立自治「惣」の終焉と中央集権化への道程

序章:掃討の序曲 - 「惣」として生きた独立の地、甲賀

戦国時代の日本において、近江国甲賀郡は極めて特異な社会構造と政治的地位を保持していた地域であった。1570年から1585年にかけて、この地を席巻した「甲賀郡諸城掃討」と呼ばれる一連の事象は、単なる局地的な合戦の記録に留まらない。それは、織田信長、そして豊臣秀吉という中央集権化を推し進める巨大な権力と、中世以来の独立自治の伝統を守り抜こうとした地域共同体との間に生じた、構造的な衝突の記録である。この15年間の動乱を理解するためには、まず、戦火が及ぶ以前の甲賀郡が、いかに稀有な存在であったかを解き明かす必要がある。

戦国期における甲賀郡の特異性:「甲賀郡中惣」の実態

甲賀郡は、特定の強力な戦国大名による一元的な支配を受けることなく、「甲賀郡中惣(こうかぐんちゅうそう)」と称される地侍たちの自治連合体によって運営されていた 1 。これは、郡内に突出した権力者が存在せず、「甲賀五十三家」に代表されるほぼ同格の地侍たちが、「一味同心」の誓いのもと、「諸事談合」と呼ばれる合議制、時には多数決を用いて郡全体の意思決定を行う、当時としては他に類を見ない「共和制」に近い統治形態であった 1 。この体制は、隣接する伊賀国の「伊賀惣国一揆」とも連携し、国境で「野寄合」と呼ばれる合同会議を開くなど、広域的な防衛体制を構築していた 4

この独自の統治形態は、甲賀の地理的景観にも色濃く反映されていた。郡内には、支配者の権威を象徴するような巨大な城郭は一つも存在せず、代わりに各々の地侍がほぼ同規模の城館を構え、それらが網の目のように連携することで地域全体を防衛するという、分散型の防衛システムが形成されていたのである 2

この甲賀の統治構造そのものが、後に天下統一を目指す織田・豊臣政権との間に、避けられない対立を生む根本原因となった。信長や秀吉が目指した「天下布武」「天下統一」とは、大名を頂点とするピラミッド型の支配構造を日本全国に適用することに他ならなかった。これに対し、甲賀の水平的な連合体という社会構造は、彼らの目指す新しい秩序とは相容れない異質な存在であった。したがって、後に起こる「掃討」は、単に敵対勢力を排除するという戦術的な目的だけでなく、旧来の統治システムそのものを解体・再編するという、より本質的な意味合いを持っていたのである。

守護・六角氏との共存関係:自治と軍事協力の均衡

甲賀衆は、近江守護であった六角氏の完全な支配下にあったわけではない。彼らは六角氏に甲賀の自治を公認してもらう見返りとして、有事の際には軍事協力を行うという、一種の軍事同盟に近い、緩やかな主従関係を結んでいた 1

この特異な関係が確立されたのは、長享元年(1487年)に室町幕府9代将軍・足利義尚が六角高頼の討伐に乗り出した「鈎(まがり)の陣」での出来事に遡る 9 。この時、窮地に陥った高頼を匿い、ゲリラ戦を展開して幕府軍を翻弄し、最終的に義尚を陣没に至らしめたのが、甲賀五十三家を中心とする甲賀の地侍たちであった 8 。この戦い以降、六角氏にとって甲賀は、本拠地である観音寺城が脅かされた際に逃げ込む最後の砦、すなわち「奥城」としての極めて重要な戦略的価値を持つ地となった 12

天下布武の足音:織田信長の上洛と甲賀に走る亀裂

永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて京へ上洛を開始すると、甲賀の政治的立ち位置は一気に複雑化する。信長が選択した上洛ルートは近江を通過するため、甲賀衆の動向が天下の趨勢を左右する重要な要素となったのである 14

この歴史的な転換点において、甲賀衆は一枚岩ではなかった。かつて三好三人衆に追われた足利義昭を匿ったのが、甲賀出身の有力地侍である和田惟政であった 15 。この縁が、信長と甲賀衆の一部を結びつける契機となる。信長は上洛に際し、和田氏や多喜(滝)氏といった甲賀衆の協力を得ており、彼らの功績を賞賛する朱印状や花押を発給している 16 。これらの文書は、甲賀衆の一部が、旧主・六角氏を見限り、新たな時代の潮流である「足利幕府+信長」の側に立っていたことを明確に示している 16

一方で、長年にわたり甲賀衆の盟主であった六角義賢・義治父子は、信長からの上洛協力要請を断固として拒絶 17 。観音寺城の戦いで信長に敗れると、父祖伝来の習いに従い、甲賀へと逃亡して抵抗を続ける道を選んだ 10 。この結果、甲賀郡内部は、旧主・六角氏への忠義を貫こうとする勢力(三雲氏、青木氏など)と、新たな天下人である信長に未来を見出そうとする勢力との間で、深刻な路線対立に陥ることになった。

この内部対立こそが、織田軍による甲賀制圧を容易にした決定的な要因であった。信長にとって甲賀郡への介入は、単なる外部からの軍事侵攻ではなかった。それは、親信長派の甲賀衆を手引きとし、彼らの協力を得ながら、抵抗勢力を切り崩していくという、内部の対立を利用した巧みな政治工作の側面を色濃く持っていたのである。したがって、「甲賀郡諸城掃討」は、その開始時点から「織田軍 vs 甲賀衆」という単純な二項対立ではなく、「織田軍+親信長派甲賀衆 vs 六角軍+親六角派甲賀衆」という、複雑な内戦の様相を呈していたのであった。

表1:甲賀郡諸城掃討 関連年表(1568年~1585年)

年(西暦/和暦)

甲賀郡及び周辺地域の動向

織田・豊臣方の動向

主要な合戦・事件

関連する甲賀氏族

1568年/永禄11年

4月, 6月

六角義賢・義治、観音寺城より甲賀へ逃亡。

織田信長、足利義昭を奉じ上洛。

観音寺城の戦い

和田氏、多喜氏などが信長に協力。三雲氏などは六角氏を支援。

1570年/元亀元年

6月

六角・甲賀連合軍、野洲川で織田軍と交戦し敗北。

柴田勝家、佐久間信盛らが六角軍を攻撃。

野洲川の戦い

甲賀衆の多くが六角方として参戦。

(同年)

三雲城が籠城の末、開城。

佐久間信盛が三雲城を攻略。

三雲城の戦い

三雲成持が籠城後、降伏。

1571年/元亀2年

9月

-

信長、比叡山延暦寺を焼き討ち。

比叡山焼き討ち

-

1572年/元亀3年

-

六角氏、金森一揆と結託するも、甲賀衆の組織的参加は見られず。

-

近江各地で一揆蜂起

甲賀の主要勢力は不参加。

1573年/元亀4年

2月

山岡氏ら一部が足利義昭に味方するも、即座に降伏。

信長、足利義昭を追放。室町幕府滅亡。

二条御所の戦い

山岡氏、池田氏などが義昭方に参陣。

9月

六角承禎、石部城にて籠城を開始。

佐久間信盛、石部城の包囲を開始。

石部城籠城戦

山中長俊などが六角方として奮戦。

1574年/天正2年

4月

六角承禎、石部城を脱出し信楽へ逃亡。近江での組織的抵抗が終焉。

佐久間信盛、石部城を陥落させる。

石部城開城

-

1582年/天正10年

6月

甲賀衆、堺から三河へ帰還する徳川家康を護衛。

織田信長、本能寺の変で自刃。

本能寺の変、神君伊賀越え

多数の甲賀衆が家康を護衛。

1585年/天正13年

3月

-

豊臣秀吉、紀州征伐を開始。

紀州征伐

-

(同年)

秀吉、軍役での不手際を口実に甲賀衆の所領を没収(改易)。

中村一氏に水口岡山城の築城を命じる。

甲賀郡中惣の解体

甲賀五十三家の多くが武士身分を喪失。


第一章:元亀の烽火 - 織田軍、甲賀口へ(1570年)

織田信長の上洛から2年後の元亀元年(1570年)、信長は越前の朝倉義景討伐を開始するも、妹婿である浅井長政の離反に遭い、窮地に陥る(金ヶ崎の退き口)。これを機に、浅井・朝倉、三好三人衆、石山本願寺などが一斉に蜂起し、世に言う「信長包囲網」が形成される。この天下動乱の中、甲賀の地で潜伏を続けていた六角義賢・義治父子も再起を図り、甲賀郡は本格的な戦火の渦へと巻き込まれていくことになった。

野洲川の戦い:六角・甲賀連合軍の敗北

元亀元年6月、六角義賢・義治父子は、旧臣や甲賀衆を含む数千の兵力を結集し、反撃の狼煙を上げた 19 。彼らが目指したのは、野洲川北岸の乙窪(現・野洲市)に布陣する織田方の拠点であった。これに対し、織田軍は猛将・柴田勝家と重臣・佐久間信盛を大将とする部隊を派遣し、両軍は野洲川を挟んで激突した 19

しかし、かつて近江に覇を唱えた六角氏の面影はそこにはなかった。戦いは織田軍の圧倒的な勝利に終わり、六角・甲賀連合軍は算を乱して南の甲賀方面へと敗走した 10 。この「野洲川の戦い」での惨敗は、六角氏が野戦において織田軍に組織的に対抗する能力を完全に失ったことを天下に示すものであった。そして、この敗北を境に、信長と六角氏の戦いの主舞台は、甲賀郡内に点在する城砦をめぐる攻防戦へと移行していくのである。

観音寺城の奥城、三雲城の攻防:佐久間信盛の猛攻と落城の刻

野洲川で六角軍を打ち破った織田軍が、次なる標的として狙いを定めたのが三雲城であった。三雲城は、甲賀五十三家の中でも大身であり、六角氏の軍代を務めた三雲氏の居城である 12 。麓を野洲川が流れる要害に築かれたこの山城は、六角氏が本拠・観音寺城を追われるたびに亡命先として利用されてきた、まさに「観音寺城の奥城」と呼ぶべき最重要拠点であった 12 。六角氏の抵抗の根源を断つためには、この城の攻略が不可欠であった。

元亀元年、佐久間信盛率いる織田軍は、この三雲城に猛攻を仕掛けた 13 。城主・三雲成持らは籠城して頑強に抵抗したものの、織田軍の圧倒的な兵力の前に抗しきれず、ついに降伏・開城を余儀なくされた 13

三雲城の落城は、六角氏にとって甲賀における最大の支柱を失ったことを意味し、戦略的に計り知れない打撃となった。これにより、六角氏の抵抗活動は、より山深く、散発的なゲリラ戦へとその様相を変えざるを得なくなったのである。

「甲賀焼き討ち」の虚実:考古学的知見と文献から探る実態

後世の伝承では、この時期に信長が甲賀郡を徹底的に焼き払った、いわゆる「甲賀焼き討ち」が行われたとされることが多い。しかし、近年の研究、特に考古学的な知見と詳細な文献分析からは、この通説に疑問が投げかけられている 16

第一に、甲賀郡内にある夏見城遺跡、植城遺跡、竜法師城遺跡といった複数の城館跡の発掘調査において、城全体が焼失したことを示す痕跡や、大規模な戦闘が行われたことを裏付ける遺物がほとんど確認されていない 16 。もし郡全域にわたる焦土作戦が実行されたのであれば、これらの城跡から相応の痕跡が発見されるはずであるが、現状はそのようになっていない。

第二に、文献史料を精査すると、信長の軍事行動が極めて選択的であったことが浮かび上がる。前述の通り、信長は和田氏や多喜氏といった甲賀衆の一部とは、上洛以前から良好な協力関係を築いていた 16 。彼らの所領まで無差別に焼き払うことは、戦略的に見て非合理的である。実際に、焼き討ちの伝承が残る寺社の数を郡全体の総数と比較すると、その割合は決して高くなく、特に城郭が密集する荘内、南山、北山といった地域ではむしろ少ないというデータもある 16 。これは、信長の攻撃が六角氏との繋がりの深い湖南地域(三雲氏や石部の青木氏など)に集中していたことを示唆している。

これらの事実を総合的に勘案すると、「甲賀焼き討ち」の実態は、郡全域を対象とした無差別な焦土作戦ではなく、六角氏に与する特定の城や集落を標的とした、限定的かつ選択的な掃討作戦であったと結論付けられる。信長の軍事行動は、敵味方を明確に峻別して行われた、高度に政治的なものであった。我々が抱く「焼き討ち」という言葉のイメージは、後世に形成されたか、あるいは敗者となった六角方からの視点が誇張されて伝わったものである可能性が高い。

表2:織田信長への帰順・抵抗に見る甲賀主要氏族の動向

氏族名

地域惣

信長上洛時(1568年頃)の立場

元亀年間(1570-73年)の動向

近江平定後(1574年以降)の動向

和田氏

-

協力

幕府方として活動。和田惟政は摂津守護に任じられる 15

信長配下として存続。

多喜(滝)氏

南山六家

協力

信長より功績を賞賛される 16

信長配下として存続。

山岡氏

-

抵抗→協力

当初六角方。後に信長に降り、瀬田橋の普請奉行などを務める 23

信長配下として存続。本能寺の変後、家康に接近。

三雲氏

-

抵抗

六角氏を支援し、三雲城に籠城するも降伏 13

浪人となるが、後に織田信雄、蒲生氏郷に仕える 12

青木氏

-

抵抗

六角氏を支援し、石部城を拠点とする 24

石部城落城後、信長に降伏。

山中氏

柏木三家

抵抗

六角氏を支援し、石部城籠城戦で奮戦 25

信長に降伏。

望月氏

-

抵抗

六角義治を介して甲賀武士を動員 26

不明(信長に降伏したと推測される)。

池田氏

南山六家

抵抗→協力

当初六角方。元亀4年、足利義昭に味方するも降伏 16

信長配下として存続。


第二章:抵抗の終焉 - 石部城、最後の籠城(1571年~1574年)

三雲城という甲賀における最大の拠点を失った後も、六角氏とそれに付き従う一部の甲賀衆は、なおも信長への抵抗を諦めてはいなかった。その最後の意地と、旧時代の戦術の限界が露呈する舞台となったのが、甲賀郡の西の玄関口に位置する石部城であった。

信長包囲網と近江の情勢:散発する一揆と甲賀衆の動向

元亀2年(1571年)から天正元年(1573年)にかけて、信長は浅井・朝倉、比叡山延暦寺、石山本願寺といった反信長勢力との死闘に明け暮れていた(志賀の陣など) 27 。この信長の苦境に乗じ、六角義賢は近江国内の一向一揆(金森一揆など)と結託し、各地で反信長の蜂起を画策した 16

しかし、注目すべきは、この一連の反信長一揆の参加者リストの中に、甲賀郡の地侍の名がほとんど見られないことである 16 。これは、元亀元年の敗戦を経て、甲賀の主だった勢力の多くが、すでに信長に恭順するか、少なくとも積極的な敵対行動は控えるという日和見の姿勢に転じていたことを示している。甲賀郡中惣という連合体は、もはや六角氏のために一致団結して戦う力を失っていた。

元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭が信長に対して公然と反旗を翻した際には、山岡光浄院らが「伊賀・甲賀衆」を率いて義昭方に馳せ参じたが、信長の迅速な軍事行動の前にわずか数日で降伏している 16 。甲賀衆の抵抗は、もはや散発的かつ限定的なものに過ぎなくなっていた。

天正二年の攻防:佐久間信盛による石部城包囲網

天正元年(1573年)8月に浅井・朝倉を滅ぼし、背後の脅威を取り除いた信長は、ついに近江平定の総仕上げに着手する。その最後の標的が、六角承禎(義賢)が新たな活動拠点としていた石部城であった 29 。石部城は、甲賀五十三家の一角である青木氏(石部氏)の居城であり、京と甲賀を結ぶ「甲賀口」に位置する戦略上の要衝であった 24

信長は、部将・佐久間信盛とその子・信栄に大軍を授け、石部城の完全攻略を命じた 24 。籠城戦は、天正元年9月1日から翌天正2年(1574年)4月13日に至るまで、実に半年以上にわたって続いた 25 。佐久間軍は、まず前線基地である菩提寺城を攻略して六角軍の連携を断ち 25 、その後、石部城の周囲に11箇所もの付け城(包囲用の砦)を築いて厳重な包囲網を完成させた 25 。これは、兵糧攻めと力攻めを並行して行い、城内の兵を完全に孤立させ、殲滅しようという徹底した戦術であった。

ゲリラ戦と脱出:六角承禎の敗走と近江平定の完了

絶望的な状況下で石部城に籠城した六角軍の中には、山中長俊をはじめとする、歴戦の甲賀武士たちが数多く含まれていた 25 。彼らは、その真骨頂であるゲリラ戦術を駆使して、最後まで抵抗を試みた。夜陰に乗じて城から打って出ては、織田軍の包囲の柵を幾度となく破り、敵陣に損害を与えては城内に引き返すという奇襲攻撃を、記録されているだけでも4度にわたって敢行している 25

しかし、個々の戦闘における戦術的な成功も、大局を覆すには至らなかった。織田軍の圧倒的な物量と、半年以上もの長期包囲を維持できる兵站能力の前には、甲賀衆の特殊技能も限界があった。城内の兵糧は尽き、兵の士気も低下していく中、ついに籠城を断念。天正2年4月13日の雨の夜に紛れて、六角承禎・義治父子は城を密かに脱出し、甲賀のさらに奥深く、信楽方面へと落ち延びていった 16

この石部城の落城と六角父子の敗走をもって、近江国における六角氏の組織的な抵抗は完全に終焉を迎えた 16 。戦後、信長は降伏してきた甲賀の地侍たちに対し、逃亡した六角父子の追討を命じている 16 。これは、甲賀衆が名実ともに織田政権の指揮命令系統下に組み込まれたことを示す象徴的な出来事であった。

石部城をめぐる一連の攻防は、戦国時代の戦争の質的変化を物語っている。甲賀衆が得意とした奇襲や夜襲といったゲリラ戦術は、確かに織田軍を苦しめた。しかし、それはあくまで戦術レベルでの成功に過ぎなかった。最終的な勝敗を決したのは、大名を中核とする組織的な動員力、経済力、そして長期戦を可能にする兵站維持能力であった。石部城の戦いは、地侍の個人的な武勇や地域限定の特殊戦術に依存した旧時代の戦い方が、近世的な軍事機構の圧倒的な物量の前に限界を迎えたことを象徴する戦いであったと言えるだろう。


第三章:天下人の支配 - 自治の解体(1575年~1585年)

石部城の攻防が終結し、六角氏という抵抗の核を失った甲賀郡は、織田政権、そしてその後を継いだ豊臣政権の下で、その統治構造を根本から変えられていく。軍事力による「掃討」の時代は終わり、より巧妙な政治・社会的な「解体」のフェーズへと移行したのである。

信長政権下での甲賀:束の間の安定とその実態

近江平定後、甲賀郡は信長の支配下に入った。しかし、信長は甲賀郡中惣という既存の統治構造を直ちに完全破壊するようなことはせず、一定の自治を認めつつ、軍事動員などの形で服属を求めるという、比較的穏健な支配を行ったと考えられている。この時期、甲賀は表面的には平穏な状態を取り戻していた。

本能寺の変と権力の移行

この束の間の安定を揺るがしたのが、天正10年(1582年)6月の本能寺の変であった。信長の突然の死は、甲賀衆にとっても大きな転機となる。当時、堺に滞在していた徳川家康は、信長を討った明智光秀軍の追撃から逃れるため、最短ルートで本国三河へ帰還する必要に迫られた。その際に選択されたのが、伊賀・甲賀の険しい山道を踏破するルートであった。世に言う「神君伊賀越え」である。この決死の逃避行において、甲賀衆は伊賀衆とともに家康一行を護衛し、無事の帰還に多大な貢献を果たした 2 。この時に結ばれた恩義と信頼関係が、後に徳川幕府と甲賀衆の深い繋がりを築く重要な伏線となる。

天正十三年の激震:豊臣秀吉による甲賀衆改易の真相

信長の後継者として天下統一事業を推し進める豊臣秀吉は、天正13年(1585年)、紀州の雑賀衆・根来衆を制圧するなど(紀州征伐)、各地に残る独立性の強い勢力の平定を精力的に進めていた 32 。秀吉の目指す中央集権体制の確立にとって、独自の自治連合体を維持し続ける甲賀郡中惣は、もはや見過ごすことのできない障害と見なされていた。

同年、秀吉は甲賀衆に対し、決定的な措置を断行する。その口実とされたのは、とある合戦(具体的な戦役は諸説あるが、敵城を水攻めにする際の堤防構築に不手際があったとされる)における軍役上の失敗であった 34 。秀吉はこの失敗の責任を問い、甲賀郡全体の地侍たちの所領を一方的に没収(改易)するという、極めて厳しい処分を下したのである。

しかし、この一連の動きを詳細に分析すると、その真の目的が単なる懲罰ではなかったことが明らかになる。一つの軍役上の失敗を理由に、郡全体の地侍の身分と生活の基盤を根こそぎ奪うというのは、処罰としてあまりに過剰であり、不自然である。この措置の直後、秀吉が家臣の中村一氏を甲賀の新たな支配者として送り込み、郡全体を威圧する巨大な城(水口岡山城)の築城を命じている事実 34 を考え合わせれば、その意図は明白である。秀吉にとって、水攻めの不手際は、長年続いてきた甲賀の自治共同体を合法的に解体し、豊臣政権による直接支配体制を敷くための、絶好の政治的口実に過ぎなかった。秀吉が問題視したのは、甲賀の地侍たちが土地と強く結びついた武装勢力であるという点そのものであった。彼らから土地を切り離すことによってその力を無力化し、中央集権体制へと組み込むことこそが、この「甲賀衆改易」の真の狙いであった。

支配の楔:水口岡山城の築城と甲賀郡中惣の終焉

秀吉の命を受けた中村一氏は、甲賀郡の中心地である水口の独立丘陵「古城山」に、新たな支配の拠点となる「水口岡山城」の築城を開始した 35

この城は、それまで甲賀に点在していた地侍たちの小規模な城館とは、その規模も性格も全く異なっていた。それは、地域防衛のための連携拠点ではなく、郡全体を上から威圧し、支配するための政治的・軍事的拠点であった。水口岡山城の威容が水口の地に現れたことは、地侍たちの水平的な連合体であった「甲賀郡中惣」が名実ともに終わりを告げ、豊臣大名による垂直的な支配が始まったことを、誰の目にも明らかにする象徴的な出来事であった 34 。ここに、元亀元年から始まった15年間にわたる「甲賀郡諸城掃討」と、それに続く政治的再編は、甲賀の自治の完全な終焉という形で幕を閉じたのである。


終章:新たなる道 - 忍びから武士へ

所領を没収され、拠り所であった自治共同体を解体された甲賀の地侍たちは、新たな生きる道を模索せざるを得なくなった。それは、土地に根差した独立領主から、巨大な権力機構にその特殊技能をもって仕える専門職能集団へと、その存在意義を根本から変えていく道程であった。

所領を失った者たちの行方:「甲賀古士」の苦悩

秀吉による改易処分により、甲賀五十三家に代表される地侍たちの多くは武士の身分を失い、農民となるか、あるいは浪人として各地を流浪するかの選択を迫られた。武士としての誇りを失わず、帰農した者たちは、自らを「甲賀古士(こうかこし)」、すなわち「かつては武士であった者」と称し、武士身分への復帰を悲願とするようになった 38 。江戸時代に入ると、彼らは幕府に対し、先祖の功績を訴えて武士への復帰を嘆願する活動を続けるが、その多くは実を結ばなかった 38

徳川家康との結びつきと「甲賀組」の誕生

一方で、すべての甲賀衆がその道を閉ざされたわけではなかった。「神君伊賀越え」の際に結ばれた徳川家康との縁が、彼らに新たな道を開いた。家康は甲賀衆の忠義と能力を高く評価しており、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城籠城戦において、鳥居元忠らと共に城を枕に討死した甲賀衆の功績を決して忘れなかった 39

天下を掌握し、江戸に幕府を開いた家康は、伏見城で戦死した者たちの子孫を中心に甲賀衆を召し出し、与力20騎・同心100人からなる鉄砲隊「甲賀組(甲賀百人組)」を編成した 39 。彼らは幕府直属の武士として、江戸城本丸大手三門の警備という、将軍の身辺を固める極めて重要な任務を与えられた 40 。さらに、大坂の陣では高性能な大砲を鋳造して戦功を挙げるなど、その卓越した技術力も幕府のために発揮した 40

結論:「掃討」から「再編」へ

「甲賀郡諸城掃討」とは、単に1570年から1585年までの軍事行動を指す言葉ではない。それは、織田信長による軍事力を用いた抵抗勢力の制圧という第一段階と、それに続く豊臣秀吉による統治機構そのものの解体・再編という第二段階を経て完成した、戦国時代から近世へと移行する時代の大きなうねりを象徴する事象であった。

この15年間は、甲賀衆が「惣」という中世的な自治共同体の構成員から、織田・豊臣政権下の被支配者へと転落し、そして最終的には、徳川幕府という近世的な官僚機構に組み込まれた専門職能集団(武士)へと、そのアイデンティティを劇的に変化させていく過程そのものであった。彼らは独立という誇りを失った代わりに、新たな秩序の中でその特殊な技能を活かし、武士として生きる道を見出したのである。甲賀の地に響いた鬨の声と城の落ちる音は、一つの時代の終わりと、新しい時代の始まりを告げる鐘の音でもあった。

引用文献

  1. 地名に残る 甲賀忍者の里 https://old.shoai.ne.jp/shiga/chiiki/120102/chiiki120102.html
  2. 地域の平和を守った忍者たち - 日本遺産 忍びの里 伊賀・甲賀 https://shinobinosato.com/heritage/story2/
  3. これを読めばわかる!忍者【伊賀流と甲賀流】の違い - THE GATE https://thegate12.com/jp/article/154
  4. 忍びの里 甲賀 日本遺産の文化財群 甲賀衆結束の鎮守の杜 | 一般社団法人・東京滋賀県人会 https://imashiga.jp/blog/%E5%BF%8D%E3%81%B3%E3%81%AE%E9%87%8C%E3%80%80%E7%94%B2%E8%B3%80%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%81%BA%E7%94%A3%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E7%BE%A4%E3%80%80%E7%94%B2%E8%B3%80%E8%A1%86%E7%B5%90/
  5. 忍びの里 伊賀・甲賀-リアル忍者を求めて- 『萬 川集 海 』 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/datas/files/2022/09/01/dc8f16c59342f6bee8eaff1c56d22b6fe2b4ae35.pdf
  6. 甲賀郡中惣 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E8%B3%80%E9%83%A1%E4%B8%AD%E6%83%A3
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