最終更新日 2025-09-03

穴水城の戦い(1577)

天正五年、上杉謙信は能登畠山氏の内紛に乗じ穴水城を攻略。謙信一時帰国中に長綱連が穴水城を包囲するも、謙信再来で壊滅。七尾城は遊佐続光の裏切りで陥落し、能登畠山氏は滅亡した。
Perplexity」で合戦の概要や画像を参照

天正五年、能登動乱ー「穴水城の戦い」の真層と軍神・上杉謙信の戦略

序章:能登の風雲、軍神東進す

天正5年(1577年)に能登国で繰り広げられた「穴水城の戦い」は、単なる一地方城郭の攻防戦ではない。それは、斜陽の名門・能登畠山氏の内部崩壊と、天下統一を目指す織田信長、そして北陸に覇を唱える上杉謙信という二大勢力の角逐が交錯した、時代の転換点を象徴する一連の軍事行動であった。この戦いの本質を理解するためには、まずその背景にある能登の深刻な政治的病巣と、北陸全土を巻き込む巨大な戦略的構図を俯瞰する必要がある。

斜陽の能登畠山氏:守護家の権威失墜と内部抗争

能登国守護・畠山氏は、室町幕府の管領家を輩出した名門であったが、戦国乱世の波の中でその権威は著しく失墜していた 1 。度重なる家督争いや内紛により、当主は次々と家臣団によって傀儡化され、国政の実権は「畠山七人衆」と称される重臣たちの合議に移っていた 2 。特に永禄9年(1566年)に当主・畠山義綱が重臣らによって追放される「永禄九年の政変」以降、その傾向は決定的となる 2 。義綱の子・義慶、その弟・義隆、そして天正4年(1576年)には幼児である畠山春王丸が当主として擁立されるに至り、守護家の統治機能は完全に麻痺状態にあった 3

長氏と遊佐氏:織田に通じる者、上杉に望みを託す者

機能不全に陥った畠山家中は、二つの巨大な派閥に分裂し、抜き差しならない対立を深めていた。その一方が、筆頭重臣である長続連(ちょう つぐつら)と、その嫡男・綱連(つなつら)を中心とする「親織田派」である 5 。穴水城を本拠とする長氏は、能登国において強大な勢力を誇る一族であり 6 、中央で破竹の勢いを見せる織田信長との連携によって、能登における自らの主導権を確立し、ひいては国の安泰を図ろうと画策していた 2

これに対し、同じく七人衆の一角を占める遊佐続光(ゆさ つぐみつ)や温井景隆(ぬくい かげたか)らは、長氏の専横に強く反発し、越後の「軍神」上杉謙信に接近する「親上杉派」を形成していた 5 。特に遊佐続光は、過去に越後に滞在した経験があり、謙信との間に何らかの個人的な繋がりがあった可能性も指摘されている 8

この対立は、単なる家中の権力闘争に留まるものではなかった。それは、織田信長という中央の新興勢力と結びつくことで新たな秩序の中に活路を見出そうとする「革新」路線と、地理的に近く旧来からの地域大国である上杉氏との協調によって現状を維持しようとする「保守」路線という、能登という国家の存亡を賭けた二つの異なる生存戦略の衝突であった。この根深い内部対立こそが、後に能登へ侵攻する上杉謙信にとって、軍事力以上に強力な武器となるのである。

上杉謙信の戦略目標:対織田信長包囲網と北陸道制圧

天正4年(1576年)、上杉謙信はそれまでの同盟関係にあった織田信長と完全に手切れとなり、断交する 11 。足利義昭を奉じて上洛するという大義名分を掲げ、謙信は対織田戦線の構築と、そのための戦略的要衝である北陸道の制圧へと乗り出した 11 。能登の平定は、加賀の一向一揆勢力との連携を盤石にし、織田領である越前・近江方面への圧力を強める上で不可欠な軍事目標であった。謙信は、かつて能登から追放されていた畠山一族の上条政繁を名目上の当主として擁立し、「能登の治安回復」を大義名分として、その軍事介入を正当化した 3 。能登の深刻な内紛は、謙信にとってまさに渡りに船の状況だったのである。


表1:上杉謙信の能登侵攻 関連年表

年月日 (西暦/和暦)

出来事

主要関連人物

備考

1576年 (天正4年) 6月

上杉謙信、織田信長と断交。北陸への侵攻を開始。

上杉謙信, 織田信長

両者の対立が顕在化 11

1576年 (天正4年) 9-11月

謙信、越中を平定し、能登へ侵攻。第一次七尾城の戦いが始まる。

上杉謙信, 長続連

七尾城の支城群が次々と攻略される 3

1577年 (天正5年) 初頭

上杉軍、能登半島北部の諸城を攻略。 穴水城が陥落 し、長沢光国が城将となる。

上杉謙信, 長沢光国

七尾城は完全に孤立 3

1577年 (天正5年) 3月

謙信、関東情勢の緊迫化を受け、一時越後へ帰国。

上杉謙信, 北条氏政

能登の攻略拠点には城将を配置 3

1577年 (天正5年) 3月-閏7月

謙信不在を突き、長綱連が反攻。熊木城などを奪還し、 穴水城を包囲 する。

長綱連, 長沢光国

畠山方の最後の組織的反撃 11

1577年 (天正5年) 閏7月

謙信、再び能登へ出陣。綱連は穴水城の包囲を解き、追撃を受けながら七尾城へ敗走。

上杉謙信, 長綱連

畠山方の野戦能力が壊滅 11

1577年 (天正5年) 9月15日

遊佐続光の内応により、七尾城が陥落。長続連・綱連親子ら長一族が謀殺される。

遊佐続光, 長続連

能登畠山氏の事実上の滅亡 9

1577年 (天正5年) 9月23日

手取川の戦い。上杉軍が織田軍に圧勝する。

上杉謙信, 柴田勝家

能登平定がこの勝利の直接的な布石となる 13

1578年 (天正6年) 3月

上杉謙信、急死。上杉家中で御館の乱が勃発。

上杉謙信

能登における上杉の支配体制が動揺 15

1578年 (天正6年)

長連龍、織田信長の支援を受け、 穴水城を奪還 (菱脇の戦い)。

長連龍, 長沢光国

長氏再興の第一歩。長沢光国は後に討死 15


表2:「七尾城の戦い」主要人物関係図

能登畠山氏 (当主: 畠山春王丸 - 傀儡)

|


| |

親織田派 (抗戦派) 親上杉派 (内応派)

| |

長続連 (筆頭重臣) ←--- (対立) ---→ 遊佐続光 (重臣)

| (親子) | (同調)

長綱連 (続連の嫡男) 温井景隆 (重臣)

| (兄弟)

長連龍 (続連の三男)

| | |

| (連携模索) | (内応)

↓ ↑

織田信長 上杉謙信

(中央の覇者) (越後の龍)

| (主従) | (主従)

↓ ↑

柴田勝家 (援軍総大将) 長沢光国 (穴水城将)


第一章:第一次能登侵攻と穴水城の陥落(天正四年~五年初頭)

天正4年(1576年)秋、越中を完全に平定した上杉謙信は、2万と号する大軍を率いて能登国へと雪崩れ込んだ 3 。これに対し、能登畠山家中では親織田派の長続連が主導権を握り、能登随一の堅城である七尾城での籠城策を決定する 3 。しかし、緒戦から両者の戦略眼の差は明らかであった。長続連の子・綱連は、上杉軍の背後を撹乱すべく領民に一揆を蜂起させるが、かつて一向一揆に苦しめられた経験から優れた情報網を持つ謙信はこれを事前に察知し、ことごとく鎮圧。畠山方の最初の試みは、空振りに終わった 3

支城網の切り崩し:七尾城孤立化作戦

謙信は、春日山城にも匹敵すると評された難攻不落の七尾城への性急な力攻めを避けた 3 。その巨城が巨城として機能するためには、周囲に配置された支城群との連携が不可欠であることを見抜いていたのである。謙信の採った戦術は、まずその支城網を一つずつ、確実に切り崩していくことであった。これは、七尾城への兵糧や兵員の補給路を断ち、城兵の士気を削ぎ、心理的に追い詰めていくという、極めて合理的かつ冷徹な兵法であった 3

上杉軍の矛先は、七尾城を取り巻く能登各地の拠点に向けられた。熊木城、黒滝城、富来城といった支城が、軍神の圧倒的な軍事力の前に次々と陥落していく 3 。これにより、七尾城はあたかも大海に浮かぶ孤島のように、敵中に取り残されていった。

天正五年(1577年)初頭:穴水城、上杉の手に

この支城網切り崩し作戦の総仕上げとも言えるのが、天正5年(1577年)初頭に行われた 穴水城の攻略 であった 11 。穴水城は、単なる支城の一つではない。能登畠山氏の重臣筆頭であり、親織田派の首魁である長氏が、祖先・長谷部信連の代から三百数十年にわたって本拠としてきた城である 6 。この城を落とすことは、七尾城の物理的な孤立化を完成させるだけでなく、敵対派閥の中核である長氏の権威と威信を根底から揺るがすという、高度な政治的意味合いを持っていた。

謙信はこの戦略的要衝を攻略すると、城将として越中の国人であり、自身に臣従していた 長沢光国 (ながさわ みつくに)と白小田善兵衛を配置した 3 。これは単なる占領ではなく、能登における上杉方の恒久的な拠点として穴水城を位置づけるという明確な意志の表れであった。長氏にとって、本拠地を奪われた上に、そこが敵の最前線基地へと変貌させられたことは、計り知れない屈辱であり、戦略的な痛手であったに違いない。この時点で、謙信は七尾城内の親上杉派を精神的に力づけ、長氏への不満を増幅させるという、後の内部崩壊に繋がる布石を着実に打っていたのである。

天正五年三月:謙信、一時帰国

七尾城を完全に孤立させ、包囲下に置いた謙信であったが、天正5年3月、関東の同盟者である北条氏政が不穏な動きを見せているとの報が届く 11 。謙信は本国・越後の安寧を優先し、また長期化する七尾城攻めに一区切りをつけるため、一時的に軍を率いて帰国の途についた 3 。しかし、これは決して能登の放棄を意味するものではなかった。謙信は、攻略した熊木城、黒滝城、そして穴水城をはじめとする主要な城郭には、信頼の置ける城将を厳選して配置し、能登支配の楔を深く打ち込んだままであった 3 。この一時的な権力の空白が、畠山方に最後の反撃の機会を与えることとなる。

第二章:束の間の反攻ー長綱連による穴水城包囲戦(天正五年三月~閏七月)

軍神の不在は、七尾城に籠る畠山方にとって、まさに千載一遇の好機であった。絶望的な状況から一転、失地回復への道が開かれたのである。この反攻作戦の指揮を執ったのは、長続連の嫡男・長綱連であった。彼の行動は迅速であり、その矛先はまず、上杉方に奪われた諸城に向けられた。

【時系列:三月~】好機到来、畠山方の反撃開始

謙信が能登を去るや否や、長綱連は七尾城から打って出た 11 。その軍勢は、上杉方が守備兵を置いていた熊木城、富木城を急襲し、これを奪還することに成功する 11 。相次ぐ勝利は、籠城戦で低下していた畠山方の士気を大いに高揚させた。

【時系列:春~夏】目標は本拠・穴水城

勢いに乗る長綱連が、次なる主目標として定めたのが、父祖伝来の本拠地・ 穴水城 であった 11 。この選択には、軍事的な合理性を超えた、強い意志が込められていた。穴水城は、能登における上杉方の重要拠点であると同時に、長氏の権威の象徴そのものであった。この城を奪還することは、単なる失地回復に留まらず、上杉軍の侵攻によって失墜した長氏の威信を取り戻し、親織田派の結束を固め直すための、極めて象徴的な意味を持つ戦いであった。

【時系列:数ヶ月にわたる攻防】穴水城包囲

長綱連率いる畠山軍の主力は、穴水城へと進軍し、城を幾重にも包囲した。ここから数ヶ月にわたる、熾烈な攻防戦の幕が切って落とされる。

  • 籠城側(上杉軍)の対応:
    城を守るのは、謙信によって城将に任じられた越中国人の長沢光国であった 3。彼は、畠山方の主力を前にしても全く臆することなく、寡兵ながらも堅固な城に籠り、徹底抗戦の構えを見せた。穴水城は、小又川の河口に突き出した標高約60メートルの丘陵に築かれ、眼下に穴水港と市街地を望む天然の要害であった 22。越中の国人領主であった長沢光国は、能登・越中国境の防衛を任されるなど、防衛戦には手慣れた武将であり、その粘り強い指揮が畠山軍を手こずらせることになる 17。
  • 包囲側(畠山軍)の攻撃:
    長綱連は、城を完全に包囲し、外部との連絡を遮断した上で、様々な攻撃を試みたと推測される。具体的な戦闘の記録は乏しいものの、矢戦や小規模な突撃、あるいは兵糧攻めといった攻城戦の常套手段が、数ヶ月にわたって執拗に繰り返されたであろう 11。

しかし、この長綱連の決断は、大局的な戦略眼から見れば、致命的な過ちであったと言わざるを得ない。彼は、父祖伝来の地という象徴的な価値に固執するあまり、より重要な戦略資源である「時間」を浪費してしまったのである。謙信が能登を留守にする時間は有限である。その限られた時間の中で、攻略に手間取る一つの堅城に主力を貼り付けてしまうことは、軍神の帰還という最大のリスクを度外視した、極めて危険な賭けであった。長沢光国の巧みな防衛戦術は、まさに謙信のために貴重な時間を稼ぎ出すことに成功した。結果として長綱連は、主力を城攻めで消耗させた最悪の状態で、最も恐れていた事態を迎えることになる。この判断ミスこそが、畠山方の反撃の芽を摘み、破滅へと導く直接的な引き金となったのである。

第三章:軍神再来ー穴水城包囲の瓦解と死の退却戦(天正五年閏七月)

天正5年(1577年)閏7月、関東方面の情勢を安定させた上杉謙信は、満を持して再び能登へと大軍を差し向けた 11 。その報は、あたかも死の宣告のように、穴水城を包囲する長綱連の陣中に駆け巡った。数ヶ月にわたる攻城戦の均衡は、この一報によって劇的かつ無残に崩れ去る。

【時系列:閏七月】包囲の解除と撤退開始

軍神再来の報に、畠山軍は震撼した。謙信率いる本隊と野戦で正面から激突することの無謀さを悟った長綱連は、即座に穴水城の包囲を解き、全軍を七尾城へ撤退させるという苦渋の決断を下した 11 。数ヶ月に及んだ攻城戦の徒労感と、謙信の帰還という圧倒的な脅威が、畠山軍の士気を根底から打ち砕いたことは想像に難くない。統率の取れていたはずの軍勢は、にわかに浮足立ち始めた。

【時系列:閏七月】上杉軍の猛追と壊滅的打撃

この好機を、籠城していた長沢光国が見逃すはずはなかった。彼は城門を開いて打って出ると同時に、謙信本隊の先鋒部隊も撤退を開始した畠山軍の背後に襲いかかった。謙信本隊の接近と、籠城部隊の出撃という、二つの戦力が絶妙な連携を見せ、逃げる畠山軍を挟撃する形勢を作り出したのである。これは、上杉軍の高度な指揮統制能力を示すものであった。

退却戦は、瞬く間に凄惨な殲滅戦へと変貌した。組織的な撤退行動は完全に崩壊し、畠山方の兵士たちは我先にと七尾城を目指して逃げ惑った。上杉軍の追撃は熾烈を極め、畠山方は「敵将の激しい追撃に遭い、多大な犠牲を払」うことになった 11 。総大将である長綱連自身も、辛うじて身一つで逃げ延びるのがやっとという「命からがら」の惨状であった 11 。一部の史料には、綱連はこの撤退戦の最中、津向(つむぎ)の地で討死したという説も記されているが 25 、多くの記録では七尾城に帰還したとされており、いずれにせよ彼が率いた軍勢が壊滅的な打撃を受けたことは間違いない。

【時系列:閏七月下旬~】七尾城への合流

穴水城の攻略に向かった畠山軍の主力は、その大半を失い、生き残った者も心身ともに疲弊しきった状態で、七尾城へと逃げ込んだ。反攻の好機は完全に失われた。それどころか、決戦を前にして野戦能力を持つ主力を喪失し、士気も地に落ちた状態で、畠山方は再び絶望的な籠城戦へと追い込まれることになったのである。この穴水城からの退却戦の敗北は、単なる一戦闘の敗北ではない。それは、能登国内における軍事バランスの決定的な崩壊を意味し、七尾城の運命、ひいては能登畠山氏の滅亡を事実上決定づけた瞬間であった。

第四章:落日の七尾城と能登の終焉(天正五年八月~九月)

穴水城での軍事的失敗は、七尾城の運命に決定的な暗い影を落とした。それは物理的な戦力低下に留まらず、城内の人々の心に、抗戦への疑念と絶望という名の毒を撒き散らした。この心理的な土壌こそが、上杉謙信の最後の、そして最も恐るべき一手である「調略」を成功させる温床となったのである。

第二次七尾城攻城戦:絶望的な籠城

再び謙信の大軍に包囲された七尾城内は、惨憺たる状況を呈していた。穴水城からの敗残兵が合流したことで城兵の数こそ維持されていたが、彼らが持ち帰ったのは敗北の記憶と絶望だけであった。さらに悪いことに、衛生環境の悪化から城内には深刻な 疫病が蔓延 し、兵士たちは戦う前に次々と病に倒れていった 9 。そして閏7月23日には、傀儡の当主であった畠山春王丸までもが、わずか5歳で病没してしまう 27 。指導者の象徴を失い、指揮系統は混乱し、城は内側から崩壊し始めていた。

織田の援軍、間に合わず

この絶望的な状況下で、長続連が最後の望みを託していたのが、織田信長からの援軍であった。彼は息子の長連龍(つらたつ)を使者として安土城へ派遣し、救援を懇願していたのである 4 。信長もこの要請に応え、柴田勝家を総大将とする4万の大軍を北陸へ派遣した。しかし、加賀の一向一揆が上杉方として立ちはだかり、その進軍は遅々として進まなかった 13 。七尾城の将兵が首を長くして待つ援軍は、運命の日までに到着することはなかった。

謙信の最後の一手:調略

城内の惨状を正確に把握していた謙信は、もはや力攻めの必要なしと判断した。彼は、城内の親上杉派、特に長氏と長年対立してきた重臣・ 遊佐続光 に狙いを定める。そして、内応を促す密書を送り込んだ。その条件は、「もし味方するならば、能登一国と長一族の旧領を与える」という、遊佐の野心を最大限に刺激する破格のものであった 27

天正五年九月十五日:裏切りと惨劇

この甘言は、絶望的な籠城戦に疲弊しきっていた遊佐続光の心を捉えた。穴水城攻めに失敗し、権威が地に落ちた長氏に従い続けても、待つのは疫病による死か、援軍の来ない無益な玉砕のみ。この状況は、彼にとって長年の政敵である長一族を排除し、自らが能登の新たな支配者となるまたとない好機に映った。

遊佐続光は、同じく親上杉派の温井景隆らと共謀。天正5年9月15日、軍議を開くと偽って長続連・綱連親子をはじめとする長一族の主立った者たちを自らの屋敷に誘い出し、これをことごとく謀殺するというクーデターを断行した 9

抗戦派の指導者を一挙に失った七尾城は、もはや抵抗する術を持たなかった。遊佐続光は城門を開け放ち、上杉軍を城内へと手引きした。難攻不落を誇った日本三大山城の一つ、七尾城は、一度の総攻撃も受けることなく、内部からの裏切りによって、わずか一日で陥落したのである 3 。この日をもって、169年にわたり能登を支配した名門・畠山氏は、事実上滅亡の時を迎えた。鉄壁の城を内側から崩した謙信の調略は見事であったが、その調略が成功する下地は、長綱連が穴水城下での軍事的失敗によって自ら作り出してしまっていたと言えるだろう。

終章:戦いの遺産ー穴水城を巡る攻防が残したもの

穴水城を巡る一連の攻防と、それに続く七尾城の陥落は、能登一国の運命を決定づけただけでなく、北陸全体の戦国史に大きな影響を及ぼした。この戦いが残した遺産は、関係者たちのその後の運命に色濃く反映されている。

手取川の戦いへ:能登平定の軍事的帰結

能登を完全に平定した上杉謙信は、その勢いを駆って加賀へと南下した。時を同じくして、七尾城救援のために進軍してきた柴田勝家率いる織田軍は、七尾城が既に陥落したことを知らずに手取川を渡ろうとしていた。謙信はこの好機を逃さず、織田軍に奇襲をかけ、これを撃破する(手取川の戦い) 12 。能登平定という戦略目標を迅速に達成したことが、この歴史的な大勝利の直接的な布石となったのである。

謙信の死と権力の空白

北陸の覇権をほぼ手中に収め、次なる目標である上洛への道筋をつけたかに見えた謙信であったが、その絶頂期は長くは続かなかった。能登平定の翌年、天正6年(1578年)3月、謙信は春日山城で急死する 15 。絶対的な指導者を失った上杉家は、二人の養子、景勝と景虎による壮絶な後継者争い「御館の乱」に突入し、国力を大きく消耗させる 3 。これにより、能登における上杉の支配体制は急速に揺らぎ、権力の空白が生まれた。

長連龍の執念:穴水城奪還(菱脇の戦い)

この好機を逃さなかったのが、長続連の三男・長連龍であった。父と兄、そして一族を謀殺された時、彼は援軍要請の使者として城外にいたため、唯一難を逃れていた 4 。一族の仇を討ち、長家を再興するという執念に燃える連龍は、織田信長の支援を取り付け、能登へと侵攻する 16 。そして天正6年、上杉家の混乱に乗じ、父祖伝来の地である

穴水城を奪還 することに成功した(菱脇の戦い) 15 。これは、滅亡の淵にあった長家が、不死鳥の如く蘇る第一歩となった。

歴史に名を刻んだ者たちの運命

戦いの主要人物たちは、それぞれ数奇な運命を辿った。

  • 長沢光国: 謙信の命で穴水城を守り、長綱連の猛攻を耐え抜いた名将であったが、謙信の死後、能登で離反した畠山旧臣の温井景隆らと戦い、石動山で討死を遂げた 17
  • 遊佐続光: 謙信に内応し、主君と長年対立してきた政敵を葬り去り、一時的に能登の支配者となった。しかし、後に能登を制圧した織田信長によって、長一族謀殺の罪を問われ、処刑されたと伝わる 9 。彼の栄華は、あまりにも短いものであった。
  • 長連龍: 復讐を遂げ、穴水城を奪還した後は、能登に入部した前田利家の家臣となった。彼はその才覚を発揮し、加賀藩の重臣として3万石を超える大禄を得て、長家を大名に匹敵する家格へと引き上げ、明治維新まで続く家系の礎を築いた 4

穴水城の戦いの歴史的意義

結論として、「穴水城の戦い」は、単独で語られるべき合戦ではない。それは、上杉謙信による能登平定戦役という大きな流れの中で、戦局の趨勢を決した 決定的な転換点 であった。謙信不在の隙を突いた畠山方の最後の組織的反攻を頓挫させ、その野戦能力を壊滅させたこと。そして、その軍事的失敗が七尾城内の士気を崩壊させ、最終的に遊佐続光の裏切りという内部崩壊を誘発したこと。この二点において、穴水城を巡る一連の攻防は、能登畠山氏の滅亡を決定づけた、極めて重要な戦いであったと結論付けられる。それはまた、一城の象徴的価値に固執した指揮官の戦略的過誤が、いかに組織全体を破滅に導くかを示す、戦国史における一つの教訓とも言えるだろう。

引用文献

  1. (1)築城時期 七尾城は能登畠山氏の居城で https://www.city.nanao.lg.jp/sportsbunka/documents/sironojyoukyou.pdf
  2. 長続連 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/person/cyo_tsugutura.html
  3. 七尾城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%BE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  4. 長綱連 | 戦国時代人物名鑑 - Merkmark Timelines https://www.merkmark.com/sengoku/meikan/32chi/cho_tsunatsura.html
  5. 上杉謙信が苦戦した「七尾城の戦い」が物語る能登七尾城 https://sengoku-story.com/2021/10/12/noto-trip-0002/
  6. ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%B6%9A%E9%80%A3#:~:text=%E9%95%B7%20%E7%B6%9A%E9%80%A3%EF%BC%88%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%20%E3%81%A4%E3%81%90,%E7%B6%9A%E9%80%A3%E3%81%A8%E5%90%8D%E4%B9%97%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  7. 長続連 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%B6%9A%E9%80%A3
  8. マイナー武将列伝・遊佐続光 - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/bu_0002.htm
  9. 畠山家と七尾城の包囲 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653745.pdf
  10. (能登畠山家家臣)長氏一族 https://geo.d51498.com/CollegeLife-Labo/6989/TheChous.htm
  11. 能登・七尾城 ~"軍神"上杉謙信をうならせた難攻不落の堅城 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8240
  12. 北陸を制し勢いに乗る上杉謙信、逃げる織田軍は川に飛び込み溺死…謙信最強伝説を生んだ「手取川の戦い」 | PRESIDENT WOMAN Online(プレジデント ウーマン オンライン) | “女性リーダーをつくる” https://president.jp/articles/-/83473
  13. 手取川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  14. 手取川の戦い古戦場:石川県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/tedorigawa/
  15. 穴水城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E6%B0%B4%E5%9F%8E
  16. 長連龍と前田家 https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/tyoutsuratatsutomaedake.pdf
  17. 長沢光国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B2%A2%E5%85%89%E5%9B%BD
  18. 【日本100名城・七尾城編】上杉謙信も落城に苦戦した能登の日本五大山城! - 城びと https://shirobito.jp/article/442
  19. 穴水城趾|スポット|【公式】石川県の観光/旅行サイト「ほっと石川旅ねっと」 https://www.hot-ishikawa.jp/spot/detail_4507.html
  20. 北陸を制し勢いに乗る上杉謙信、逃げる織田軍は川に飛び込み溺死…謙信最強伝説を生んだ「手取川の戦い」 上杉謙信が天下の堅城「七尾城」を落としたのは死の前年だった (5ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/83195?page=5
  21. 七尾城の戦い(七尾城をめぐる戦い) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/54/memo/3475.html
  22. 穴水城跡 - 能登の里山里海デジタルアーカイブ http://noto-satoyamasatoumi.jp/detail.php?tp_no=138
  23. 穴水城 甲山城 丸山城 余湖 http://yogoazusa.my.coocan.jp/isikawa/anamizumati01.htm
  24. 長沢光国 Nagasawa Mitsukuni - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/nagasawa-mitsukuni
  25. 能登畠山家武将総覧2 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/souran/souran2.html
  26. 逸話・伝説 - 能登畠山氏七尾の歴史 https://nanao.sakura.ne.jp/special/densetu.html
  27. 能登・七尾城 ~"軍神"上杉謙信をうならせた難攻不落の堅城 | WEB ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8240?p=1
  28. 穴水城 : 能登有数の国士 長氏一族の居城だった中世山城跡。 - 城めぐりチャンネル https://akiou.wordpress.com/2016/11/26/anamizu/
  29. 武家家伝_温井氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nukui_k.html
  30. 【今日は何の日?】8月14日 長連龍が穴水城を奪回する - いいじ金沢 https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=9341