最終更新日 2025-09-06

竹生島・琵琶湖水上戦(1573)

天正元年、織田信長は琵琶湖の制水権掌握へ巨大船を建造。竹生島周辺を制圧し、朝倉軍の連携を断ち小谷城を孤立させた。水陸連携作戦で浅井氏は滅亡、信長の覇業の礎を築いた。
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天正元年の琵琶湖制圧:織田信長の巨大安宅船がもたらした戦略的転回と浅井氏の滅亡

序章:湖が雌雄を決した日

天正元年(1573年)、織田信長による浅井長政の居城・小谷城の攻略は、戦国史における一つの大きな転換点として知られている。しかし、この戦いの帰趨が、単なる陸上での攻城戦によってのみ決せられたと考えるのは、事象の一面に過ぎない。その勝敗を決定づけた隠れた主役は、北近江の眼前に広がる日本最大の湖、琵琶湖そのものであった。

本報告書は、利用者様によって提示された「竹生島・琵琶湖水上戦」という呼称を、特定の日に発生した単一の海戦としてではなく、浅井氏滅亡の最終局面において織田方が展開した「琵琶湖の制水権掌握を目的とした一連の軍事作戦」と再定義し、その全貌を時系列に沿って解明するものである。陸上における圧倒的な兵力差に加え、なぜ信長は湖上での絶対的優位の確立に固執したのか。それは、琵琶湖が単なる地理的特徴ではなく、経済、兵站、そして心理的な側面において、北近江の支配権を左右する極めて重要な戦略的要衝であったからに他ならない。

この一連の作戦の中核をなし、浅井氏の運命に終止符を打つきっかけとなったのが、同年に建造されたばかりの一隻の巨大軍船であった。湖上に浮かぶ巨城とも言うべきその威容は、戦いの様相を一変させ、陸と湖の戦況を一つの交響曲のように連動させていく。本稿では、この湖上の攻防が、いかにして浅井氏を完全な孤立へと追い込み、信長の覇業の礎を築くに至ったかを徹底的に検証する。

第一部:水脈を巡る攻防 ― 戦略的背景

第1章:断たれた絆、燃え上がる近江

天正元年に至る織田信長と浅井長政の対立は、かつての強固な同盟関係が憎悪へと変貌した、戦国時代を象徴する悲劇の一つであった。信長は、上洛の経路を確保するという戦略的意図から、北近江の気鋭の若き大名であった長政に注目した 1 。そして、自身の妹であり、戦国一の美女と謳われたお市の方を長政に嫁がせることで、両家は固い姻戚関係で結ばれた 1 。この同盟は当初、信長の上洛作戦を成功に導くなど、極めて良好に機能していた 1

しかし、その蜜月は元亀元年(1570年)4月、突如として終わりを告げる。信長が長年の盟約を破り、越前の朝倉義景を攻撃したことが引き金となった 3 。浅井家と朝倉家は、長政の祖父の代から続く長年の同盟関係にあり、長政はこの旧来の信義を重んじ、信長を裏切るという苦渋の決断を下したのである 3 。織田軍の背後を突いた浅井軍の行動により、信長は絶体絶命の危機に陥り、後の豊臣秀吉らの奮戦によって辛くも撤退に成功した(金ヶ崎の退き口)。

この裏切りは、両者の関係を修復不可能なものにした。同年6月には姉川で両軍が激突(姉川の戦い)、織田・徳川連合軍が辛勝したものの、浅井・朝倉軍に決定的な打撃を与えるには至らなかった 3 。その後も、浅井・朝倉軍は比叡山延暦寺などを拠点に抵抗を続け、信長包囲網の一翼を担い、志賀の陣などで織田軍を苦しめ続けた 1 。こうして両者の対立は、約3年にも及ぶ泥沼の消耗戦へと突入した。この長期にわたる戦いこそが、信長に、単に小谷城を攻略するだけでなく、浅井氏の力の源泉である兵站と連絡路を完全に遮断する、すなわち琵琶湖の完全な制圧を決意させる強力な動機となったのである。

この長政の離反の背景には、単なる信義の問題だけではなく、より現実的な経済的要因が深く関わっていた。浅井氏の領国経営の基盤は、琵琶湖の水運によってもたらされる権益に大きく依存していた 4 。特に、日本海側からの物資が琵琶湖を経由して京へと運ばれる物流ルートにおいて、その「川上」にあたる越前の朝倉氏との連携は、浅井氏にとって死活問題であった 4 。信長の支配が近江一帯に及ぶことは、この伝統的な権益構造の破壊を意味した。したがって、長政の決断は、旧来の同盟を守るという義理に加え、自らの領国の経済的生命線を守るための、極めて合理的な選択であったと解釈することができる。

第2章:経済と軍事の生命線、琵琶湖

戦国時代において、琵琶湖は単なる巨大な水たまりではなかった。それは畿内と北国を結ぶ経済と軍事の大動脈であり、この湖を制する者が近江、ひいては天下の趨勢を左右すると言っても過言ではなかった 6

経済面において、琵琶湖は比類なき物流ハイウェイであった。日本海側の敦賀で陸揚げされた米、海産物、特産品などの「下り荷」は、陸路で湖北の塩津港や海津港へ運ばれ、そこから丸子船と呼ばれる琵琶湖特有の輸送船に積み替えられた 7 。これらの物資は湖上を南下し、大津や堅田といった港で再び陸揚げされ、京や大坂の巨大消費地へと届けられた。逆に、畿内からは織物や酒、醤油などの「上り荷」が北国へと運ばれた 7 。鉄道もトラックもない時代、大量の物資を最も効率的かつ迅速に輸送する手段は舟運であり、琵琶湖はその中核を担う、まさに日本の経済を支える生命線だったのである 9

軍事的な側面においても、その重要性は計り知れない。広大な湖は、数万の兵員や大量の兵糧を、陸路とは比較にならない速度で輸送することを可能にした 10 。特に、美濃・尾張を本拠地とする信長にとって、京都へ軍隊を迅速に展開する上で、琵琶湖の水運活用は不可欠の戦略であった 6 。信長は早くからこの重要性に着目しており、上洛を果たすとすぐに、湖南の主要港である大津や、東海道と中山道が合流する草津を直轄下に置き、物流ルートの掌握を着々と進めていた 10

信長の琵琶湖に対する戦略は、単に既存の港や水運ルートを支配下に置くという従来の発想を遥かに超えるものであった。彼は、湖そのものを一つの広大な「城」と見立て、湖畔の戦略的要衝に直臣の城を計画的に配置することで、湖全体を完全に織田家の「内海」として機能させるという、壮大な支配構想を抱いていた 10 。明智光秀の坂本城、羽柴秀吉の長浜城、織田信澄の大溝城、そして最終的には自身の居城となる安土城。これら湖畔の城郭群を船で結ぶネットワークを構築し、琵琶湖を「点」ではなく「面」で支配しようとしたのである 10 。天正元年(1573年)に展開された一連の水上作戦は、この壮大な構想を実現する上で物理的な障害となっていた浅井氏の水軍力を排除し、琵琶湖の完全掌握を成し遂げるための、決定的な一歩であった。

第3章:湖上の支配者たち

琵琶湖の広大な水面は、決して無主の空間ではなかった。そこには、古くから湖上の交通を担い、時には武装して水軍として活動する在地勢力が存在した。浅井長政は、本拠地である湖北地域において、これらの湖上勢力を巧みに支配下に置き、自らの軍事力の一部として組み込んでいた。

特に、菅浦や大浦といった湖北の港湾集落は、浅井氏の強力な影響下にあった 12 。これらの集落は、優れた舟運能力を持つ人々を擁しており、浅井氏の命令一下、軍船や兵員を提供した。残された古文書には、浅井氏によって軍役のための船や資金を徴収され、村の生活が困窮したという記録も残されており、浅井氏が湖上の民を強力に統制していた実態が窺える 13 。これらの勢力は、平時には物流を担う経済集団であったが、戦時には小回りの利く小早船などを駆使して湖上を縦横に動き回り、敵の補給路を妨害し、湖岸の拠点に奇襲をかける、恐るべき水軍へと変貌した。

織田軍にとって、浅井配下の湖上勢力は看過できない脅威であった。彼らは小谷城への兵糧や物資の搬入を担うだけでなく、琵琶湖を介して越前の朝倉氏との連絡を維持する上でも重要な役割を果たしていた。小谷城を陸から完全に包囲したとしても、湖からのルートが開かれている限り、浅井氏を完全に孤立させることはできない。

琵琶湖の支配を巡る争いは、信長と長政という大名同士の直接対決であると同時に、堅田衆や菅浦といった湖上の在地勢力をどちらが味方につけるかという、一種の代理戦争の様相も呈していた。信長は、早くから湖南の有力な水運集団であった堅田衆を味方につけることに成功し、湖上支配の足がかりを築いていた 14 。浅井氏を滅亡させるためには、この最後の抵抗勢力である湖北の水軍を完全に無力化し、琵琶湖の制水権を完全に掌握する必要があったのである。

第二部:湖上の巨城 ― 織田水軍の胎動

第1章:「三十間の大船」、その威容

天正元年(1573年)、浅井氏に最後のとどめを刺すべく動き出した信長は、陸上での軍事行動と並行して、琵琶湖の支配権を確固たるものにするための一手を打った。それは、当時の常識を覆すほどの巨大な軍船の建造であった。

この前代未聞の計画の総奉行に任命されたのは、織田家の宿老・丹羽長秀であった 15 。長秀の指揮の下、近江の要衝・佐和山城の麓で、国中の船大工や鍛冶が動員され、大船の建造が急ピッチで進められた 6 。この事業の様子は、信長の側近であった太田牛一が記した『信長公記』に克明に記録されている。それによれば、完成した船は「長さ三十間(約55メートル)、櫓百挺立て」という、まさに破格の規模を誇った 6 。これは、当時の一般的な大型軍船であった安宅船(あたけぶね)と比較しても群を抜く大きさであり、湖上に浮かぶ移動要塞、すなわち「湖上の巨城」と呼ぶにふさわしい威容であった。

その構造は、船体の上部全体が「総矢倉」と呼ばれる堅固な板で覆われ、内部に多くの兵員や射手を収容できる設計だったと推測される 18 。船首部分には、指揮や偵察のための矢倉(やぐら)が高くそびえ立ち、敵を威圧したであろう 6 。武装に関しても、多数の鉄砲を斉射するための狭間(さま)が設けられていたことは確実であり、当時の最新兵器であった大筒(大砲)が据え付けられていた可能性も極めて高い 19

この大船は、単なる兵員輸送船として建造されたのではなかった。その圧倒的な規模と重武装は、浅井方の小舟によるゲリラ的な攻撃を全く寄せ付けず、存在そのもので敵を圧倒し、広大な琵琶湖の「制水権」を確立するための戦略兵器として考案されたものである。信長は、浅井配下の無数の小舟と個別に戦うという非効率な消耗戦を避け、技術的優位性によって戦局そのものを支配するという、革新的な発想に至った。この巨大船は、数で対抗するのではなく、質で圧倒するという信長の合理的な軍事思想の象徴であり、後の石山合戦で毛利水軍を打ち破った鉄甲船の原型とも言える存在であった。

第2章:信長の制海権構想

佐和山で完成した巨大船は、信長の琵琶湖支配戦略において、まさに中核をなす存在として位置づけられていた。この船は、単に戦闘に勝利するための道具ではなく、琵琶湖という広大な空間を完全に掌握し、自軍の意のままに活用するための多目的プラットフォームであった。

建造後、この大船は早速その能力を誇示するかのように、琵琶湖東岸の佐和山から、対岸の西岸に位置する明智光秀の居城・坂本城へと回航された 20 。これは、湖の東西を結ぶ主要な交通路を織田軍が完全に掌握したことを、敵味方に対して明確に示す示威行動であった。そして、その戦略的価値はすぐに証明される。同年、将軍・足利義昭が信長に反旗を翻した際、信長はこの大船を用いて軍勢を坂本から京都方面へと迅速に輸送し、義昭が籠城する槇島城を攻略、室町幕府を事実上滅亡へと追い込んだのである 6

そして、浅井氏攻略の最終局面において、この大船は本来の目的であった湖上封鎖作戦の旗艦として、その真価を発揮することになる。他の関船や小早といった小型の軍船を率いて湖北の湖上に出撃し、浅井方の水軍を一掃し、小谷城を湖上から完全に孤立させる任務を担った。

さらに、この大船は単なる旗艦に留まらず、湖上における移動司令部としての機能も担っていた可能性が高い。信長自身、あるいは丹羽長秀のような作戦指揮官が乗船し、刻々と変化する陸上の戦況(小谷城の包囲状況)を把握しながら、湖上部隊にリアルタイムで的確な指示を与えていたと考えられる。これにより、陸上部隊と湖上部隊の行動が密接に連携する、極めて高度な水陸両用作戦の展開が可能となった。この巨大船の存在は、信長の戦いを、従来の偶発的な遭遇戦から、計算され尽くした近代的な統合戦闘へと昇華させる上で、決定的な役割を果たしたのである。

第三部:天正元年の激動 ― 湖上と陸上のシンフォニー

天正元年8月、織田信長による浅井氏滅亡への最終作戦は、陸と湖の双方で、まるで一つの脚本に沿うかのように緻密に展開された。以下に、その一ヶ月間の激動を時系列で再構築し、湖上での動きが陸上の戦況にいかに決定的な影響を与えたかを詳述する。


表:天正元年(1573年)8月 浅井氏滅亡に至る時系列表

日付 (天正元年)

陸上での主な出来事 (織田軍)

陸上での主な出来事 (浅井・朝倉軍)

湖上での主な動き (織田水軍) とその戦略的意味

8月8日

信長、3万の大軍を率いて北近江へ侵攻。虎御前山に着陣。

浅井家臣・阿閉貞征が織田方に寝返る。小谷城は一層孤立。

丹羽長秀率いる大船艦隊が坂本城を出港。湖北へ向けて進軍を開始。 【作戦目的:小谷城への湖上からの補給・連絡路の遮断】

8月10日頃

小谷城の包囲網を強化。

浅井長政、朝倉義景に援軍を要請。

巨大船を中核とする艦隊が、竹生島周辺の湖上を制圧。哨戒活動を開始し、浅井方の舟の動きを完全に封じ込める。 【心理的効果:浅井氏の聖域への示威行動】

8月12日

朝倉義景、2万の軍勢を率いて小谷城北方に来援。

湖上封鎖を継続。朝倉軍が湖上経由で小谷城と連携するルートを完全に遮断。これにより朝倉軍は陸路での限定的な支援しか行えなくなる。

8月13日

織田軍、朝倉軍の砦を攻撃し、撃破。

朝倉軍、戦意を喪失し撤退を開始。

湖上からの監視により、朝倉軍の撤退行動を捕捉。陸上部隊へ情報を伝達した可能性。

8月14日-20日

信長、撤退する朝倉軍を刀根坂で追撃し、壊滅させる。一乗谷を攻め、朝倉義景は自刃。朝倉氏滅亡。

朝倉軍壊滅。

湖上封鎖を維持し、小谷城の完全な孤立を確定させる。 【戦略的勝利の確定】

8月26日

信長、越前平定を終え、再び小谷城包囲に戻る。

小谷城、外部からの援軍の望みを完全に絶たれる。

艦隊は包囲網の一翼を担い、湖上からの脱出ルートを警戒。

8月27日

木下秀吉の部隊が京極丸を攻略。浅井父子を分断。

父・久政が小丸で自害。

9月1日

織田軍、本丸へ総攻撃。

浅井長政、お市と三姉妹を城外へ逃がした後、自刃。小谷城落城。浅井氏滅亡。

作戦完了。琵琶湖の制水権は完全に織田方のものとなる。


第1章:包囲網の崩壊(1573年8月上旬)

8月8日、浅井氏の重臣・阿閉貞征の寝返りを契機に、織田信長は満を持して3万と号する大軍を率いて北近江へと侵攻、小谷城を見下ろす虎御前山に本陣を構えた 21 。陸上部隊の進軍と呼応し、琵琶湖上でも決定的な作戦が開始された。丹羽長秀に率いられた織田水軍の中核、あの巨大船を旗艦とする艦隊が、坂本城を出港し、一路湖北を目指して進んだのである。彼らの最初の任務は、小谷城への湖上からの補給路、そして越前の朝倉氏との連絡路を完全に遮断することにあった。

第2章:湖上封鎖と朝倉軍の瓦解(8月中旬)

本報告書が「竹生島・琵琶湖水上戦」と定義する作戦の核心は、この時期に展開された。織田艦隊の主目標は、小谷城の喉元に位置し、古来より浅井氏が氏神を祀る聖地として崇敬してきた竹生島周辺水域の完全な掌握であった 22 。巨大船がこの象徴的な場所に威容を現し、湖上を悠々と哨戒する姿は、小谷城に籠もる浅井方の将兵に計り知れない心理的圧迫を与えたに違いない。それは、もはや聖域すらも織田の支配下にあるという、紛れもない事実を突きつけるものであった 24

8月12日、浅井長政の要請に応じ、朝倉義景率いる2万の援軍が小谷城の北方に到着した 21 。しかし、彼らが目にしたのは、湖上を完全に封鎖され、連携の術を失った友軍の姿であった。織田水軍は、小谷城と朝倉軍の間にある水域を物理的に支配することで、両軍が湖上交通を用いて連携する可能性を完全に断ち切った 25 。湖からの補給や兵員の移動を封じられた朝倉軍は、陸路での限定的な対峙しかできず、事実上、戦場で身動きが取れない「遊兵」と化した。

この作戦の本質は、派手な砲撃戦や船同士の接舷戦闘ではなかった。それは、圧倒的な海軍力(湖軍力)の「存在」そのものによって敵の戦略的選択肢を奪い、戦意を削ぎ、自軍が望む戦場へと誘い込む、極めて高度な戦略であった。事実、戦意を喪失した朝倉軍は、間もなく撤退を開始する 21 。これこそが信長の狙いであった。湖上に張り巡らされた監視網は、この撤退の動きを即座に捉え、陸上の追撃部隊へと伝達したであろう。結果、朝倉軍は退却路の刀根坂で織田軍の猛追を受け、壊滅的な敗北を喫し、当主・義景も自刃。名門朝倉氏はここに滅亡した。湖上での「戦わずして勝つ」という無血の勝利が、陸上での決定的な勝利を直接的にもたらしたのである。

第3章:孤城、落つ(8月下旬~9月1日)

最大の頼みであった朝倉軍が壊滅したことで、小谷城は完全な孤立無援に陥った。8月26日、越前平定を終えた信長が虎御前山の本陣に帰還すると、小谷城への最後の総攻撃が開始された 21 。湖上では織田艦隊が封鎖を継続し、城からの脱出ルートを完全に塞いでいた。

8月27日、木下秀吉の部隊が城内の重要拠点である京極丸を奇襲によって攻略し、長政が守る本丸と、父・久政が守る小丸との連絡を分断することに成功した 21 。これにより勝敗は決した。追い詰められた久政は自刃。本丸で抵抗を続けていた長政も、もはやこれまでと覚悟を決め、妻のお市の方と三人の娘たちを城外の織田陣営へと送り届けた 21 。そして9月1日、長政は重臣らと共に自刃し、難攻不落を誇った名城・小谷城はついに落城。ここに、北近江に三代続いた戦国大名・浅井氏は滅亡したのである 21

終章:覇権の礎

「竹生島・琵琶湖水上戦」と呼ぶべき天正元年の一連の作戦は、織田信長が初めて大規模な水軍力を陸上作戦と完全に統合させ、戦略目標を達成した画期的な成功事例であった。それは、巨大船という技術的優位性、聖地を占拠するという心理的圧力、そして補給路と連絡線を断つという兵站の遮断を巧みに組み合わせた、信長の合理的かつ革新的な戦争観の集大成であったと言える。

この琵琶湖での成功体験は、信長に水軍の戦略的重要性を改めて強く認識させた。この勝利からわずか数年後、石山本願寺との戦い(第二次木津川口の戦い)において、毛利水軍の焙烙火矢をものともしない「鉄甲船」を建造するという、さらに大胆な発想へと繋がっていくのである 17

また、浅井氏滅亡後、信長が羽柴秀吉に与えた新たな本拠地は、山城である小谷城ではなく、琵琶湖岸の今浜(後の長浜)であった 10 。これは、今後の近江支配が、湖の支配と不可分であることを明確に示す人事であり、戦略的方針であった。

そして最終的に、信長自身が琵琶湖の東岸、安土の地に天下布武の拠点となる壮大な城を築いたことは、この1573年の勝利によって琵琶湖が完全に「信長の内海」となったことの象徴に他ならない 6 。この湖上支配の確立こそが、信長の覇業を支える経済的・軍事的基盤の一つとなり、天下統一への道を大きく切り拓いたのである。1573年の湖上の戦いは、単に浅井氏を滅ぼしただけでなく、織田信長の覇権の礎を築いた、決定的な一戦であった。

引用文献

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  2. 浅井長政は何をした人?「妻・お市の兄である信長のパートナーだったが裏切った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nagamasa-azai
  3. 姉川の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11094/
  4. 織田信長の執念が浮かぶ、浅井長政を追い詰めた「小谷城攻め」の城跡巡り https://diamond.jp/articles/-/316089
  5. 小谷城の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11097/
  6. 【しがライターReport】琵琶湖の水運と織田信長「安土城考古博物館で見つけた織田信長の天下静謐(せいひつ)」 | 海と日本PROJECT in 滋賀県 https://shiga.uminohi.jp/information/nobunaga/
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  24. #57 歴史と非日常に触れる船旅 神を斎く島「竹生島」 - 巡る滋賀 https://www.hanakaido.co.jp/megurushiga/activity/2720/
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