最終更新日 2025-09-03

紀州攻め(1577)

天正五年、信長は石山合戦の兵站を断つべく紀州雑賀衆を攻めた。雑賀衆は鉄砲と地の利を活かし織田軍を苦しめ、信長は和睦撤兵。この戦いは雑賀衆の内部対立を深め、後の自壊を招いた。
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天正五年 第一次紀州攻め - 信長を退けた鉄砲集団、その戦いの全貌

序章:天下布武の前に立ちはだかった傭兵国家

天正五年(1577年)、織田信長が断行した第一次紀州攻めは、単なる一地方勢力の征伐という範疇を大きく超える、彼の「天下布武」事業の根幹に関わる戦略的行動であった。この時期、信長は四方に敵を抱える困難な状況にあった。北陸では上杉謙信が能登・加賀を平定して南進の気配を見せ 1 、西では中国地方の雄・毛利輝元との対立が本格化していた 2 。この信長包囲網の中核を成し、彼の覇業を最も苛立たせていたのが、10年にも及ぶ泥沼の戦いとなっていた石山本願寺との抗争、すなわち石山合戦であった。

この長期戦において、石山本願寺の継戦能力を物理的・軍事的に支え続けた最大の供給源こそ、紀伊国の雑賀衆に他ならなかった 3 。彼らは卓越した鉄砲運用技術と強力な水軍を擁し、本願寺へ兵員と物資を送り込み続けた 5 。信長にとって、本願寺を兵糧攻めにし、その抵抗の意志を砕くためには、兵站線の大動脈である雑賀を制圧し、無力化することが絶対不可欠の前提条件となっていたのである。

しかし、この戦役の根源は、単なる軍事戦略上の要請に留まらない。紀伊国は、信長が目指す中央集権的な統治体制とは根本的に相容れない、旧来の価値観が色濃く残る土地であった。そこは、根来寺に代表される強力な寺社勢力や、「惣国一揆」と呼ばれる地縁共同体による自治の伝統が深く根付いた、いわば中世的秩序の牙城であった 6 。特に雑賀衆は、特定の主君を持たず、地域の有力者による合議制によって運営される独立自治体であり、その存在そのものが、信長の志向するピラミッド型の支配構造に対するアンチテーゼであった 4

したがって、第一次紀州攻めの本質は、織田信長が推進する「近世的」な中央集権体制と、雑賀衆が体現する「中世的」な自治共同体との、体制選択を巡るイデオロギーの衝突であったと解釈できる。雑賀衆が本願寺を支援した根源的な動機は、単なる浄土真宗の門徒としての宗教的情熱のみならず、信長の支配が彼らが享受してきた「自由で平等な雑賀の終わり」を意味するという、共同体存続への強い危機感に突き動かされたものであった 4 。この戦いは、日本の歴史が中世から近世へと移行する過程で生じた、二つの異なる社会システムの存亡を賭けた象徴的な闘争だったのである。

第一部:合戦前夜 - 紀州に燻る独立の気風

第一章:石山合戦と雑賀衆

織田信長が紀州への大軍派遣を決意するに至った直接的な原因は、石山合戦における雑賀衆の驚異的な戦闘能力と、それが織田軍に与えた甚大な被害にあった。雑賀衆は、単なる一向一揆の支援部隊ではなく、戦局そのものを左右する決定的な戦略兵力として機能していた。

その力の源泉は、数千丁ともいわれる鉄砲を集団で運用する先進的な戦術にあった 5 。棟梁である鈴木孫一(重秀)の指揮の下、彼らは個々の狙撃能力だけでなく、一斉射撃による面制圧を戦術の核としていた。この戦術は、元亀元年(1570年)の本願寺挙兵直後に行われた淀川堤の戦いで遺憾なく発揮され、織田軍を大いに翻弄した 5 。さらに天正四年(1576年)五月の天王寺の戦いでは、本願寺の補給路を断つべく攻め寄せた織田軍に対し、雑賀衆は事前にその動きを察知。的確な距離からの数度にわたる一斉射撃によって、織田軍の部隊長であった塙(原田)直政を討ち取るという大戦果を挙げた 5 。方面軍司令官クラスの将が雑賀衆の鉄砲の前に斃れたという事実は、信長に計り知れない衝撃を与えた。

雑賀衆の脅威は、集団戦術に留まらなかった。鈴木孫一自身が優れた狙撃手であり、同年の天王寺合戦において、自ら鉄砲を構え、信長本陣に迫った逸話が伝えられている。孫一が放った弾丸は、偶然信長の前に立った小姓の体を貫き、さらに信長の足を掠めて負傷させたとされる 5 。天下人たる信長自身が、その銃口の射程圏内に入り、生命の危機に晒されたこの事件は、雑賀衆が単なる傭兵集団ではなく、大将首を狙う戦略的思考と技術を兼ね備えた恐るべき敵であることを明確に示した 9

陸戦のみならず、海上においても雑賀衆は織田軍の前に立ちはだかった。彼らは紀ノ川河口を本拠地とする海の民でもあり、強力な水軍を組織していた 10 。天正四年七月の第一次木津川口の戦いでは、本願寺への兵糧搬入を試みる毛利水軍と連携。焙烙火矢などの特殊兵器を駆使し、織田方の九鬼水軍を壊滅的な敗北に追い込んだ 4 。これにより、石山本願寺の生命線である海上補給路は維持され、信長の兵糧攻め作戦は完全に頓挫した。

これらの戦功により、本願寺宗主・顕如は雑賀衆を「本願寺 左右の将」と讃え、その軍事力に全面的に依存するようになった 5 。雑賀衆の存在なくして、10年にわたる本願寺の籠城は到底不可能であった。信長にとって、雑賀衆はもはや看過できない「癌」であり、本願寺攻略のためには、まずその根源である紀州雑賀の地を叩く以外に選択肢は残されていなかったのである 12

第二章:独立自治の共同体「雑賀衆」の実像

信長の前に立ちはだかった「雑賀衆」は、鈴木孫一というカリスマ的な指導者に率いられた一枚岩の軍事組織ではなかった。その実態は、内部に複雑な利害関係を抱える地縁共同体の連合体であり、この内部構造の脆弱性こそが、信長の調略を呼び込む要因となった。

雑賀衆の基本的な社会構造は、「雑賀五緘(ごからみ)」と呼ばれる五つの「惣」(地域共同体)の連合によって成り立っていた。具体的には、雑賀荘、十ヶ郷、宮郷(社家郷)、中郷(中川郷)、南郷(三上郷)の五つであり、それぞれに指導者が存在し、重要な意思決定は合議によって行われていた 8 。この自治システムが、彼らの独立性を支える基盤であったが、同時に各郷の利害が対立した際には、全体の結束を揺るがす原因ともなった。

この内部対立の根源は、単なる宗教的信条の違い以上に、各郷が置かれた地理的条件と、それに伴う経済基盤の差異に求めることができる。

まず、本願寺との連携を主導したのが、紀ノ川河口の沿岸部に本拠を置く雑賀荘と十ヶ郷であった。彼らは古くから漁業や海運業、さらには薩摩などとの遠隔地交易を生業としており、「海賊門徒」とも呼ばれる強力な水軍力を有していた 8 。経済活動の舞台が海である彼らにとって、瀬戸内海の制海権を巡り織田氏と対立する毛利氏や、大坂湾に拠点を置く石山本願寺との連携は、自らの交易ルートを維持・拡大する上で死活問題であった。また、この地域は早くから浄土真宗の教えが浸透し、鷺森御坊を中核とする強固な門徒組織が形成されており、宗教的にも本願寺との結びつきが極めて強かった 8 。鈴木孫一は、この海洋勢力を代表する棟梁であった。

一方、これらとは一線を画していたのが、やや内陸部に位置する宮郷、中郷、南郷の「三緘衆」であった。彼らの主な経済基盤は、肥沃な土地での農業生産であり、雑賀荘・十ヶ郷のような強力な水軍力は持たなかった 8 。地理的に根来寺に近いことから、浄土真宗ではなく新義真言宗の影響が強く、本願寺に対する宗教的情熱も希薄であった 8 。彼らにとっては、本願寺との連携よりも、畿内を制圧し、土地の安堵を保証しうる織田信長との協力の方が、現実的な利益に繋がる可能性があった。実際に、雑賀荘・十ヶ郷と三緘衆は、かねてより地域内の利権を巡って対立関係にあったとされ、この亀裂が信長の介入を容易にした 14

このように、雑賀衆の内部対立は、表面的には「一向宗 vs 反一向宗」という宗教的側面を見せつつも、その深層には、海に生きる「海洋勢力」と土地に根差す「農耕勢力」との、地経学的(ジオエコノミクス)な利害の対立が存在していた。信長は、この構造的な亀裂を的確に見抜き、紀州侵攻に先立って巧みな調略を展開していくのである。

第三章:信長の調略と紀州の諸勢力

織田信長は、雑賀衆が内包する構造的対立を巧みに利用し、軍事行動に先立って周到な事前工作を進めていた。彼の戦略は、敵を外部から攻撃するだけでなく、内部から切り崩し、孤立させることに主眼が置かれていた。

その調略の最大の成果が、根来衆(ねごろしゅう)を味方に引き入れたことであった。根来寺は、紀伊国北部に広大な寺領を持つ新義真言宗の総本山であり、その僧兵集団である根来衆は、雑賀衆と並ぶ、あるいはそれを凌駕するとも言われる強力な鉄砲部隊を擁していた 15 。彼らは雑賀衆と同じ紀伊の武装勢力でありながら、宗派の違いから石山本願寺とは敵対関係にあり、地域の覇権を巡って雑賀衆としばしば利害が衝突していた 17 。信長はこの関係性に目をつけ、根来衆に協力を要請。これに応じた根来衆は、信長方として参陣することを約束した 18 。紀州最大の武装勢力の一つを味方につけたことは、雑賀衆にとって背後を突かれるに等しい深刻な脅威であり、信長の戦略的優位を決定づけるものであった。

さらに信長は、雑賀衆の内部、すなわち「三緘衆」の切り崩しにも成功する。前章で述べた通り、内陸の農業地帯を基盤とする宮郷、中郷、南郷は、沿岸部の雑賀荘・十ヶ郷と対立関係にあった。信長はこの亀裂を利用し、三緘衆に協力を持ちかけた。自らの郷土の安堵と、ライバルである雑賀荘・十ヶ郷の勢力削減という実利を提示された三緘衆は、これに応じ、織田方につくことを決断した 14

これらの調略が、合戦の直前に行われたものではなく、計画的に進められていたことは、『信長公記』の記述からも明らかである。紀州攻めの前年である天正四年(1576年)の段階で、すでに根来寺の杉之坊や三緘衆から、雑賀討伐に協力する旨の申し出が信長のもとに届いていた 14 。これは、信長の紀州攻めが、単なる軍事力の行使ではなく、一年以上をかけた周到な情報戦と外交交渉に裏打ちされた、練り上げられた作戦であったことを物語っている。

こうして信長は、紀州に侵攻するにあたり、現地の地理に明るい案内役と、雑賀衆を内側から攻撃するための兵力を確保した。雑賀衆は、織田の大軍と対峙する以前から、すでに政治的・戦略的に分断され、包囲されていたのである。

第二部:戦いの軌跡 - リアルタイムで追う紀州攻防

第一章:織田軍、出陣(天正五年二月十三日〜二月二十一日)

天正五年(1577年)二月、織田信長は満を持して紀州雑賀討伐の軍を発した。その動員規模は、彼の生涯においても最大級のものであり、この戦いにかける並々ならぬ決意を天下に示すものであった。総兵力は6万から10万と諸説あるが 3 、いずれにせよ雑賀衆の兵力(1万に満たないと推定される)を圧倒的に凌駕する大軍であった 4

この遠征軍には、織田家の中核を成す武将がほぼ総動員された。総大将には嫡男の織田信忠が任じられ、次男・信雄、三男・信孝ら一門衆が脇を固めた。さらに、羽柴秀吉、明智光秀、佐久間信盛、荒木村重、細川藤孝、筒井順慶といった、方面軍司令官クラスの宿将たちが軒並み参陣しており、織田軍のオールスターとも言うべき陣容であった 3 。これは、単に雑賀衆を殲滅するだけでなく、その武威を以て他の反信長勢力を牽制する狙いがあったと考えられる。

織田軍の進軍日程は、以下の通りである。

  • 二月十三日: 信長は京都の妙覚寺を出立。まずは男山(岩清水)八幡宮に立ち寄り、戦勝を祈願した 14 。これは、源氏の氏神に武運を祈るという、武家の棟梁としての儀礼的行為であった。
  • 二月十六日: 軍勢は和泉国へと入り、香庄(現在の大阪府泉南市)に到着した 14
  • 二月十七日: 信長は、本願寺の末寺であり、南泉州における一向宗の拠点であった貝塚御坊を包囲した 14 。これは、雑賀衆への直接攻撃に先立ち、後方の脅威を無力化し、一向宗勢力の連携を断ち切るための牽制行動であった。
  • 二月二十二日: 全軍はさらに南下し、紀伊との国境に近い和泉国信達(しんだち、現在の泉南市信達)に到着。信長はここに本陣を構え、紀州侵攻の最終的な作戦指示を下した 14

この周到な進軍は、信長が敵地深くまで一気に兵を進めるのではなく、段階的に圧力を加え、周辺の敵対勢力を確実に無力化しながら前進する、極めて慎重かつ合理的な戦略を取っていたことを示している。

第二章:二正面作戦の開始(二月二十二日)

和泉国信達に本陣を置いた信長は、集結した大軍を二手に分け、雑賀荘を東西から挟撃する大規模な二正面作戦を開始した 20 。この作戦は、雑賀衆に防衛線を一点に集中させず、戦力を分散させることを目的としたものであり、圧倒的な兵力差を最大限に活かすための合理的な選択であった。

分割された部隊の編成と進軍経路は以下の通りである。

  • 浜手勢(孝子峠越えルート): 兵力約3万 4 。総大将・織田信忠が率いる主力部隊の一つで、信雄、信孝もこれに属した。その名の通り、和泉国の海岸線(紀州街道)を南下し、孝子峠を越えて紀伊国に侵入するルートを取った 21 。この部隊の当面の目標は、雑賀衆の玄関口にあたる中野城であった。
  • 山手勢(雄山峠・風吹峠越えルート): 兵力約3万 4 。佐久間信盛、羽柴秀吉、荒木村重、堀秀政といった歴戦の将が率いた 3 。この部隊には、事前の調略で味方につけた根来衆の杉之坊や、雑賀三緘衆(宮郷・中郷・南郷)が案内役として同行した 20 。彼らは和泉国の内陸部を進み、雄山峠や風吹峠を越えて、雑賀荘の東部および北部から回り込む形で侵攻した。

信長自身は、信達の本陣に留まり、両軍の戦況報告を受けつつ、全軍の総指揮を執った。この二正面からの同時侵攻は、雑賀衆にとって東西から挟み撃ちにされる悪夢のような状況であり、戦いの主導権は完全に織田軍が握っているかのように見えた。

【表1】織田軍進軍部隊編成表

部隊

総兵力(推定)

進軍経路

主要指揮官

案内役・協力勢力

浜手勢

約30,000

和泉国海岸線 → 孝子峠

織田信忠、織田信雄、織田信孝

(特になし)

山手勢

約30,000

和泉国内陸部 → 雄山峠・風吹峠

佐久間信盛、羽柴秀吉、荒木村重、堀秀政

根来衆(杉之坊)、雑賀三緘衆(宮郷・中郷・南郷)

信長本隊

-

信達 → 波太大社

織田信長

-

この編成表は、織田軍の壮大な作戦計画を視覚的に示している。特に「案内役・協力勢力」の存在は、この戦いが単なる外部からの侵略ではなく、紀州内部の勢力間対立を利用した内戦の側面を色濃く持っていたことを明確に物語っている。信長の「敵の敵は味方」とする、極めて現実的かつ冷徹な戦略思考がここに表れている。

第三章:緒戦の攻防(二月下旬)

作戦開始と同時に、織田軍の二つの部隊は怒涛の勢いで紀伊国へ侵入した。緒戦は、圧倒的な兵力差を背景にした織田軍の電撃的な進撃によって特徴づけられる。

孝子峠を越えた信忠率いる浜手勢は、雑賀衆の最前線基地であった中野城に殺到した 4 。中野城は平地に築かれた城であり、3万の大軍による包囲攻撃の前には為す術もなかった。城兵の奮戦も虚しく、中野城はわずか一日で陥落した 4 。織田軍はこの城を接収し、雑賀攻略の最前線拠点、新たな本陣として活用した 22

中野城を電光石火で攻略した浜手勢は、勢いそのままに鈴木孫一の居城とされる平井城へと進軍し、これを包囲した 4 。しかし、雑賀衆の中核拠点であるこの城では、孫一率いる精鋭たちの頑強な抵抗に遭遇する。織田軍は力攻めを試みるも、巧みな鉄砲防御の前に損害を重ね、即座の攻略は困難であった。

その頃、東方から侵攻した山手勢は、根来衆と三緘衆の先導により、雑賀衆の防衛網の薄い地域から深く侵入していた。彼らは進路上にある村々を次々と焼き払い、雑賀衆に心理的な圧迫を加えながら、その本拠地へと迫っていった 20

緒戦の段階では、織田軍の作戦は順調に進んでいるように見えた。最前線の拠点を早々に奪取し、敵の棟梁の居城を包囲下に置いたことで、短期決戦の可能性も視野に入っていた。しかし、雑賀衆の真の恐ろしさは、この後の防衛戦において明らかとなる。

第四章:小雑賀川の激闘(三月初頭)

緒戦の勢いに乗る織田軍の進撃を食い止め、戦局の転換点となったのが、小雑賀川(現在の和歌川)を巡る攻防であった。この戦いは、雑賀衆が単なるゲリラ戦を得意とするだけでなく、地形と最新兵器を組み合わせた高度な戦術思想を持つ軍事組織であったことを証明している。

山手勢の先鋒を務めていた堀秀政の部隊は、雑賀衆の本陣が置かれた弥勒寺山城(現在の秋葉山)を攻略すべく、その手前を流れる小雑賀川の渡河を開始した 20 。しかし、そこには雑賀衆による周到に準備された罠が待ち構えていた。

雑賀衆の防衛戦術は、多層的かつ極めて巧妙であった。第一に、彼らは防衛線として、川の対岸が切り立った崖のようになっており、馬が容易に登れない地点を意図的に選んでいた 20 。これにより、織田軍の騎馬隊の突進力を無力化し、兵士が川から這い上がる際に大きな隙が生まれるように仕組まれていた。

第二に、川底には甕や壺、桶といった障害物が大量に沈められていた 10 。これは、水中の見えない罠であり、渡河してくる織田軍の兵士や馬の足元を掬い、隊列を混乱させることを目的としたものであった。この罠にはまった織田軍は、川の中で動きが鈍り、身動きが取れないまま渋滞を引き起こした。

第三に、そして最も致命的だったのが、この混乱状態に陥った織田軍に対する集中砲火であった。川の対岸には、あらかじめ柵や土塁といった野戦陣地が築かれており、そこに配置された多数の鉄砲兵が、川の中で立ち往生する織田軍を格好の標的として一斉射撃を浴びせかけた 10 。川の水はたちまち血で赤く染まり、織田の将兵は次々と水中に倒れていったという 10

この完璧な迎撃戦術の前に、精鋭として知られた堀秀政の部隊もなすすべなく、多数の有能な武者を討たれるという甚大な被害を出して撤退を余儀なくされた 20 。この小雑賀川での敗北は、織田軍の進撃の勢いを完全に殺ぐ結果となった。それは、大軍の物量をもってしても、地の利を活かし、周到に準備された戦術の前には敗れ去ることを示した象徴的な戦いであった。この戦いは、最前線(中野城)で敵の攻撃を受け流し、意図的に後方の決戦場(小雑賀川)へ誘引し、地形と人工障害物で敵の機動力を削ぎ、最大火力(鉄砲)でこれを殲滅するという、近代の「縦深防御」にも通じる高度な防衛思想の萌芽であったと評価できる。

第五章:膠着する戦線(三月上旬)

小雑賀川での手痛い敗北により、織田軍の当初の作戦計画は大きく狂い始めた。戦いは短期決戦から、互いに決定打を欠く消耗戦、すなわち膠着状態へと移行していく。

三月二日、信長は戦況が思わしくないことを受け、後方の信達からさらに前線に近い波太大社(はたじんじゃ、現在の大阪府阪南市)へと本陣を前進させた 14 。これは、自らが前線に赴くことで将兵の士気を鼓舞し、戦況を直接見極めようとする意図の表れであった。

この頃、平井城の攻略に手こずっていた信忠の浜手勢も、力攻めを断念。包囲を解いて後退し、小雑賀川の左岸(東岸)に布陣する山手勢と合流した 4 。これにより、織田の全軍が川を挟んで、弥勒寺山城に立てこもる雑賀衆と対峙する構図が完成した 4

しかし、雑賀衆は大規模な野戦に応じることなく、彼らが最も得意とする戦術に移行した。それは、地の利を最大限に活かしたゲリラ戦であった 4 。彼らは周辺の地理を隅々まで知り尽くしており、少人数の部隊で神出鬼没に織田軍の陣地に接近し、的確な射撃で損害を与えては姿を消すという戦法を繰り返した。特に、敵の指揮官クラスを狙い撃ちにすることで、織田軍の指揮系統を混乱させ、組織的な行動を阻害した 10

圧倒的な兵力を持ちながらも、決戦の機会を見出せず、日夜続く散発的な攻撃によってじわじわと兵力を削られていく状況は、織田軍の士気を著しく低下させた 10 。戦いは完全に泥沼化し、信長の当初の目論見であった短期制圧は、もはや絶望的となっていた。

【表2】第一次紀州攻め 主要日程表

年月日(天正五年)

織田軍の動向

雑賀衆・その他勢力の動向

2月13日

京都を出陣。岩清水八幡宮で戦勝祈願。

-

2月17日

和泉国貝塚御坊を包囲。

-

2月22日

和泉国信達に本陣設置。軍を浜手・山手に分割。

-

2月下旬

【浜手勢】孝子峠を越え、中野城を一日で攻略。平井城を包囲。

中野城守備隊、玉砕。平井城にて鈴木孫一らが籠城戦。

2月下旬〜3月初頭

【山手勢】根来衆・三緘衆の案内で侵攻。各地を焼き討ち。

-

3月初頭

【山手勢】堀秀政隊、小雑賀川で渡河を試みるも大敗し撤退。

地形と鉄砲を駆使し、織田軍先鋒を撃退。

3月2日

信長、本陣を波太大社へ移動。

-

3月3日

-

矢宮神社にて、孫一が戦勝を祝し「雑賀踊り」を踊ったとの伝承あり 22

3月上旬

全軍が小雑賀川左岸に集結。戦線が膠着状態に陥る。

ゲリラ戦術で織田軍を消耗させる。

3月中旬

-

雑賀衆の七人の代表が降伏を申し入れ、誓詞を提出。

3月21日

信長、和睦を受け入れ、全軍に撤兵を命令。京都へ帰還。

-

この時系列表は、約一ヶ月にわたる戦役の流れを俯瞰するものである。織田軍の当初の計画が、雑賀衆の巧みな抵抗によっていかに頓挫し、戦線が膠着していったかのプロセスが明確に見て取れる。特に、雑賀側の伝承(雑賀踊り)は、彼らが防衛戦の成功に自信を深めていたことを示唆しており、戦場のリアルな雰囲気を伝えている。

第三部:束の間の終焉と次代への遺産

第一章:和睦交渉と撤兵(三月中旬〜二十一日)

軍事的な打開策を見出せないまま戦線が膠着する中、戦いの終結は政治的な交渉によってもたらされた。圧倒的な兵力を持ちながら、信長が和睦という形で撤兵を選択した背景には、双方の複雑な事情があった。

信長にとって、これ以上の長期戦は戦略的に極めて危険であった。10万近い大軍を紀州という一地域に長期間釘付けにすることは、他の敵対勢力に絶好の機会を与えることに他ならなかった。北陸の上杉謙信や西国の毛利氏が、この隙を突いて行動を起こす可能性は十分に考えられた 1 。天下統一という大局的な戦略から見れば、雑賀衆との不毛な消耗戦に固執することは、大きなリスクを伴うものであった 10

一方、徹底抗戦を続けていた雑賀衆側も、決して安泰ではなかった。戦いが一ヶ月に及び、自らの郷土が主戦場となったことで、田畑は荒廃し、経済活動は停滞した。これ以上の戦闘の継続は、たとえ織田軍を退けることができたとしても、自らの生活基盤を根底から破壊しかねない諸刃の剣であった 10

このような状況下で、双方の利害は期せずして一致した。雑賀衆側から、七人の有力者(七頭目)を代表として降伏の申し入れが行われ、信長に誓詞を提出する形で和睦交渉が始まった 19 。信長はこれを受け入れ、和睦が成立した。その条件は、「今後は石山本願寺に味方しない」という一点を主とする、極めて寛大なものであったと伝えられている 10 。これは、織田軍が軍事的に勝利を収められなかったことの裏返しであり、信長が最低限の体面を保ちつつ、この泥沼から抜け出すための名目であった。実質的には、雑賀衆が織田の大軍を退けた、戦略的な勝利であったと言える 6

天正五年三月二十一日、信長は和睦の成立を全軍に布告し、約一ヶ月にわたる紀州攻めを終えて、京都への帰還を開始した 23 。雑賀の地に、束の間の平和が訪れた。

第二章:残された火種

第一次紀州攻めは、織田軍の撤退という形で幕を閉じた。しかし、この戦いは雑賀衆の内部に存在した亀裂を修復するどころか、むしろより深刻な対立の火種を残す結果となった。外部の強大な敵を退けた「勝利」は、皮肉にも彼らの共同体を内側から崩壊させる序曲となったのである。

織田軍が撤退してからわずか数ヶ月後の同年七月、和睦の誓いも空しく、雑賀衆の内部抗争が再燃した。石山本願寺との連携を続ける雑賀荘・十ヶ郷が、紀州攻めの際に織田方に味方した宮郷などの三緘衆を攻撃したのである 11 。これにより、信長は再び佐久間信盛に大軍を率いさせて派遣するが、これも撃退されている 11 。この一連の戦いは、雑賀衆の内部対立がもはや修復不可能なレベルに達していることを示していた。

この内紛の軸となったのが、鈴木孫一派と土橋守重派の対立であった。和睦交渉を経て、信長との関係を維持することで雑賀の安寧を図ろうとする現実主義的な鈴木孫一に対し、土橋守重を中心とする勢力はあくまで反信長の姿勢を貫こうとした。信長という共通の敵が一時的に去ったことで、これまで水面下にあった両者の路線対立は先鋭化し、雑賀衆の主導権を巡る激しい権力闘争へと発展していった。この対立は、数年後の天正十年(1582年)、鈴木孫一による土橋守重暗殺という悲劇的な結末を迎える 24 。この事件は雑賀衆の結束を決定的に破壊し、彼らが一つの共同体として統一した行動を取る力を永久に失わせた。

信長は、軍事的には雑賀衆を屈服させられなかった。しかし、政治的には極めて巧妙な一手を打ったと見ることができる。寛大な条件で和睦を受け入れ、鈴木孫一を交渉の窓口とすることで、彼に「親織田派」のレッテルを貼り付け、反発する土橋派との対立構造を意図的に固定化させたのである。信長の撤退は、雑賀衆という共同体の内部に、自己崩壊を促す「時限爆弾」を埋め込む行為であった。彼は直接手を下すことなく、敵が内部抗争によって自滅していく道筋をつけた。この意味において、信長の軍事的な敗北は、長期的には敵の自己崩壊を誘発する、高度な政治的勝利へと転換されたと評価することも可能であろう。

結論:第一次紀州攻めの歴史的意義

天正五年(1577年)の第一次紀州攻めは、織田信長という戦国時代の巨人が、その圧倒的な軍事力を以てしても、在地に深く根差した独立性の高い勢力を完全には屈服させられなかった稀有な事例として、日本の戦史に特筆されるべき戦いである。

第一に、この戦いは戦術史において重要な意義を持つ。雑賀衆が見せた戦い方は、鉄砲という新兵器が、地の利を活かした巧妙な戦術と組み合わさることで、旧来の兵力差の概念を覆しうることを天下に証明した。特に小雑賀川で見せた、地形、障害物、火力を連携させた多層的な防御戦術は、単なるゲリラ戦の域を超えており、鉄砲の集団運用が合戦の様相を根本から変えうる可能性を示した。この戦いの結果は、後の戦国大名たちの軍備や戦術思想に大きな影響を与え、鉄砲の価値を飛躍的に高める一因となったことは間違いない。

第二に、この戦いは、信長の天下統一事業が決して順風満帆なものではなく、日本各地に存在した中世以来の自治の伝統を持つ在地勢力が、自らの存続を賭けていかに激しく抵抗したかを物語る貴重な証言である。雑賀衆の抵抗は、中央集権化という大きな歴史の流れに対する、地域共同体の最後の、そして最も輝かしい抵抗の一つであった。

しかし、その輝きは長くは続かなかった。外部の強大な敵を退けたという栄光の「勝利」が、皮肉にも彼らの内部結束を破壊し、最終的な滅亡への道を開いたからである。信長との和睦は、雑賀衆の内部対立を決定的にし、共同体を自壊へと導いた。この悲劇は、戦国乱世において、在地勢力が外部の巨大権力と渡り合いながら、その独立と内部の結束を維持することの極限的な困難さを象徴している。

結論として、第一次紀州攻めは、雑賀衆にとってその名を天下に轟かせた栄光の頂点であったと同時に、彼らの共同体が崩壊へと向かう避けられぬ序曲でもあった。それは、中世的な自治共同体が、近世的な統一国家の前に姿を消していく時代の転換点を象徴する、光と影の交錯する戦いであったと言えるだろう。

引用文献

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