最終更新日 2025-09-01

門司城の戦い(1561~62)

関門海峡の要衝、門司城を巡り毛利元就と大友宗麟が激突。毛利の水軍戦略が優位に立ち、将軍の調停で和睦。九州三国時代への序曲となった。
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西国の覇権を賭して―門司城攻防戦(1558-1564)全史

序章:関門の風雲―二人の巨星、宿命の対峙

戦国時代の日本列島が群雄割拠の様相を呈する中、西日本においては二人の巨星がその覇権を巡り、宿命的な対決の時を迎えようとしていた。一人は、安芸の小領主から身を起こし、謀略と戦略を駆使して中国地方十カ国を掌中に収めつつあった「謀神」毛利元就。もう一人は、豊後国を本拠とし、九州六カ国の守護職を兼ね、南蛮貿易による富と先進技術を背景に九州に君臨する「王」大友左衛門督義鎮(後の宗麟)である。この両雄の衝突は、単なる領土紛争に留まらず、西日本全体の政治・経済の秩序を再編する一大画期となるものであった。そして、その雌雄を決する舞台となったのが、九州の玄関口、関門海峡に屹立する門司城であった。

大内氏の落日と権力の空白

この対立の直接的な原因は、長らく西国に覇を唱えた周防の大内氏の滅亡に遡る。天文20年(1551年)、大内義隆が重臣・陶晴賢の謀反によって横死(大寧寺の変)。晴賢は、大友義鎮の異母弟・大友晴英を大内氏の新たな当主として迎え入れ、大内義長と名乗らせた 1 。しかし、この傀儡政権は長くは続かない。弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就に討たれると、大内氏の勢力は急速に瓦解。そして弘治3年(1557年)、元就は山口に侵攻し、大内義長を自刃に追い込み、名門大内氏を完全に滅亡させた 2

この大内氏の滅亡は、西国に巨大な権力の空白を生み出した。毛利元就は周防・長門をはじめとする旧大内領の大部分を併合し、中国地方の覇者としての地位を不動のものとする 2 。一方、大友義鎮は、弟・義長を見殺しにする形となったものの、毛利との暗黙の了解のもと、大内氏が支配していた豊前・筑前両国の継承権を主張した 1 。これにより、豊前国を境として、西進する毛利と北上する大友の領国が直接境を接することとなり、両者の衝突はもはや時間の問題となったのである。

西進する「謀神」毛利元就と、九州に君臨する「王」大友義鎮

毛利元就にとって、九州への進出は単なる領土拡大欲に留まらない、多層的な戦略目標を含んでいた。彼の最大の宿敵は、依然として山陰に強大な勢力を保持する出雲の尼子氏であった 3 。尼子氏は大友氏としばしば連携しており、元就から見れば、大友氏は尼子氏を背後から支援する潜在的な脅威であった。したがって、九州に橋頭堡を築き、大友氏を牽制下に置くことは、尼子氏を孤立させ、中国地方統一を完遂するための不可欠な布石だったのである 5

対する大友義鎮は、将軍・足利義輝から豊前・筑前の守護職に正式に任じられ 1 、名実ともに九州北部の支配者であった。九州六カ国の守護を兼ねる大大名として 7 、毛利という外部勢力の九州への介入は、自らの権威と支配体制に対する明白な挑戦であり、断じて座視できるものではなかった。彼の強大な軍事力の源泉は、府内や博多を拠点とした南蛮貿易にあった。ポルトガルからもたらされる鉄砲や大砲といった最新兵器と、それによってもたらされる莫大な富は、大友軍を西国屈指の精鋭部隊へと変貌させていた 8

門司城―海峡を制する者のための戦略的要衝

両雄がその支配権を巡って熾烈な争奪戦を繰り広げることになる門司城は、関門海峡、その中でも最も狭い早鞆ノ瀬戸に面した古城山(標高175メートル)に築かれた天然の要害であった 2 。この城の戦略的価値は、その地理的条件によって決定づけられていた。

関門海峡は、瀬戸内海と日本海・東シナ海とを結ぶ海上交通の大動脈である 12 。古来、大陸との交易や国内の物流において、この海峡を通過する船舶は絶えることがなく、ここを支配することは、西日本の経済と物流の首根っこを押さえるに等しい意味を持っていた 13 。かつて大内氏が西国随一の富を誇ったのも、この海峡の支配権を掌握し、日明貿易や日朝貿易を独占したからに他ならない 13

この地政学的な重要性は、毛利・大友両家にとって、互いに譲ることのできない死活問題であった。毛利氏にとって、その勢力基盤である安芸・周防から西へ向かう瀬戸内海の水運は、文字通り生命線であった 15 。九州へ兵力を投射するにも、西国全体の制海権を確保するにも、瀬戸内海の西の出口である関門海峡の支配は絶対不可欠の条件であった。一方、博多を拠点とする対外貿易を重視する大友氏にとって、毛利に海峡を封鎖されることは、経済的にも軍事的にも致命的な打撃を意味する 1

したがって、門司城は単なる国境の一城塞ではなかった。それは、両家の経済的・軍事的生命線が交錯する戦略的チョークポイントであり、その支配権を巡る争いは、どちらかが覇権を諦めない限り避けられない、構造的な対立から生まれた必然の帰結だったのである。


表1:門司城攻防戦 主要経過年表(1558年~1564年)

年月 (西暦)

主な出来事

大友方

毛利方

典拠

弘治3 (1557)

大内氏滅亡。大友氏、門司城を確保。

怒留湯直方を城将に置く

仁保隆慰が撤退

1

永禄元 (1558).6

毛利軍、水軍の奇襲により門司城を攻略。

怒留湯直方、敗走

小早川隆景、仁保隆慰

1

永禄元 (1558).10

第一次柳ヶ浦の戦い 。大友軍、門司城を奪還。

戸次鑑連、田原親宏ら

吉川元春、小早川隆景

1

永禄2 (1559).9

毛利軍、水軍を駆使し門司城を再奪取。

田原親宏、佐田隆居ら

毛利隆元、小早川隆景、乃美宗勝

1

永禄3 (1560).12

毛利軍、奇襲により門司城を再度確保。仁保隆慰が城督となる。

怒留湯直方、敗走

仁保隆慰

1

永禄4 (1561).8

大友義鎮、1万5千の大軍で門司城を包囲。ポルトガル船が砲撃。

大友義鎮、戸次鑑連、臼杵鑑速ら

仁保隆慰(籠城)

2

永禄4 (1561).10

柳ヶ浦周辺での激戦 。乃美宗勝の一騎討ち。大友軍の総攻撃失敗。

戸次鑑連、田原親賢ら

小早川隆景、乃美宗勝

1

永禄4 (1561).11

大友軍、撤退。毛利軍の追撃により大損害。

吉弘統清ら多数戦死

吉見正頼、杉隆哉ら

1

永禄5 (1562).7

第二次柳ヶ浦の戦い 。大友軍、再度門司城へ進軍するも攻略失敗。

戸次鑑連、由布惟信

小原隆言ら

1

永禄5 (1562).10

第三次柳ヶ浦の戦い 。大友軍、毛利の城将三名を討ち取るも城は落ちず。

戸次鑑連、安東常治ら

冷泉元豊、赤川元徳、桂元親

1

永禄5 (1562).11

将軍・足利義輝、聖護院道増を派遣し和睦を斡旋。

1

永禄7 (1564).7

大友・毛利の和睦成立。毛利は門司城を除く豊前の城を放棄。

大友宗麟

毛利元就

1


第一部:雌雄を決する前哨―城は誰がために(永禄元年~三年 / 1558~1560年)

永禄四年(1561年)に繰り広げられる大規模な攻防戦は、突如として始まったわけではない。それに先立つ三年間、門司城の支配権は両家の間で目まぐるしく移り変わり、一進一退の激しい前哨戦が展開されていた。この時期の戦いは、両軍の戦術思想の根本的な違いを浮き彫りにすると同時に、この戦略的要衝の支配がいかに不安定なものであったかを物語っている。

永禄元年(1558年):毛利、水軍による奇襲で門司城を奪取

大内氏滅亡後、門司城を接収した大友義鎮は、城将として怒留湯直方を配置していた 1 。しかし、その支配は盤石ではなかった。永禄元年(1558年)6月、毛利元就は主力を率いて石見国の小笠原長雄を攻撃中であったにもかかわらず、別動隊に九州への電撃作戦を命じる 1 。元就の三男・小早川隆景が率いる水軍が関門海峡を密かに渡り、門司城に奇襲をかけたのである 1 。大友方はこの迅速な動きに対応できず、城はあっけなく毛利の手に落ちた。

この毛利の動きは、単に城を一つ奪った以上の効果をもたらした。元就の調略はかねてより豊前・筑前の国人衆に及んでおり、門司城の陥落を合図とするかのように、筑前の宗像氏や豊前の長野氏といった有力国人が次々と大友氏に反旗を翻したのである 1 。これにより、大友氏は北九州における支配体制を内部から揺さぶられることになった。

第一次柳ヶ浦の戦い:戸次鑑連の奮戦と大友の意地

失地回復と威信回復を期す大友義鎮は、同年10月、1万5千の大軍を豊前に派遣する 1 。この軍の中核を担ったのが、後に「鬼道雪」としてその名を天下に轟かせることになる猛将・戸次鑑連(後の立花道雪)であった。

大友軍は豊前規矩郡大里津の柳ヶ浦に布陣。これに対し、毛利方も吉川元春・小早川隆景の「両川」が精鋭を率いて迎え撃った 1 。当初、毛利軍の連携攻撃の前に大友軍は苦戦を強いられる。しかし、この劣勢を覆したのが戸次鑑連の非凡な戦術であった。彼は自軍の中から弓の名手800人を選抜し、一斉に矢を射かけさせた。雨のように降り注ぐ矢の前に毛利兵は恐怖に駆られ、陣形は混乱。この機を逃さず、鑑連と斎藤鎮実の部隊が毛利軍に挟撃を加え、ついにこれを総崩れに追い込んだ 1 。元春・隆景ら毛利勢は門司城への退却を余儀なくされ、さらに10月15日には城を放棄して本国へ撤退。大友軍の臼杵鎮続による追撃も受け、この第一次柳ヶ浦の戦いは大友方の勝利に終わった。大友氏は再び門司城を奪還し、怒留湯直方を城将として復帰させたのである 1

この一連の戦いは、両軍の戦術思想の違いを鮮明に示している。毛利が主力が別方面に展開中であっても、水軍という機動部隊を駆使して敵の意表を突く奇襲戦法を好むのに対し、大友は1万5千という大軍を動員して陸路を進む、いわば正攻法を基本戦術としていた。その中で戸次鑑連の弓隊による戦術は際立っていたが、これは組織的なドクトリンというよりは、一人の天才的指揮官の才覚に依存する側面が強かった 20 。この戦術思想の差異は、後の永禄四年の決戦において、より決定的な形で現れることになる。

永禄二年~三年(1559~1560年):一進一退の攻防と毛利による再掌握

門司城を巡る争いはこれで終わらなかった。永禄二年(1559年)9月、大友方の田原親宏、佐田隆居らが再び門司城を攻撃。隆居が本丸一番乗りの功名を挙げるなど、大友軍は一時的に城を占拠する勢いを見せた 1 。しかし、毛利方の反撃は迅速かつ巧みであった。後詰として駆けつけた小早川隆景は、乃美宗勝(浦宗勝)率いる部隊を門司と小倉の間に上陸させ、大友軍の背後を脅かした 5 。同時に、児玉就方に命じて海上を封鎖し、大友軍の退路を断つ動きを見せたため、大友方は撤退を余儀なくされた 1 。毛利方は即日、あるいは数日のうちに城を奪い返し、その支配を回復したのである。

そして永禄三年(1560年)12月、元就はダメ押しとばかりに、重臣の仁保隆慰を再び渡海させ、大友方の城番・怒留湯直方を奇襲して門司城を完全に掌握した 1 。元就は隆慰を門司城督に任命し、規矩郡一帯の代官職を与えるなど、この地を恒久的な支配下に置く体制を固め始めた 1 。大内氏の旧臣であった仁保隆慰の存在は、豊前・筑前の旧大内系国人衆を毛利方になびかせる上でも大きな意味を持った。この時点で、門司城は毛利氏による九州侵攻の、揺るぎない橋頭堡となったのである。大友義鎮にとって、この状況は断じて看過できるものではなく、彼は雪辱を期して、かつてない規模での大動員を決意することになる。

第二部:永禄四年の激闘―陸と海、血戦の四ヶ月(1561年)

永禄四年(1561年)、門司城を巡る大友・毛利両家の対立は、ついにその頂点を迎える。この年の夏から冬にかけて繰り広げられた四ヶ月にわたる攻防戦は、陸と海が一体となった、戦国時代でも屈指の激戦であった。それは、両家の総力を挙げた決戦であり、数多の武将たちの知略と武勇が火花を散らす壮大な歴史絵巻であった。


表2:永禄四年の役 主要参戦武将一覧

役職

武将名

兵力(推定)

主な役割・動向

典拠

大友軍

総大将

大友義鎮(宗麟)

(全軍) 15,000余

松山城にて全軍を指揮。ポルトガル船の動員を要請。

2

軍奉行 (家老)

臼杵鑑速、吉岡長増

義鎮を補佐し、軍の中核を担う。鉄砲隊を指揮。

1

部隊長

戸次鑑連(立花道雪)

豊前各地で転戦。弓隊を率いて毛利軍に大損害を与える。

1

部隊長

田原親宏、田原親賢

先鋒として小倉に進駐。門司城への攻撃を主導。

1

部隊長

吉弘鎮信、斎藤鎮実ら

六カ国衆として参陣。主力部隊の一翼を担う。

1

毛利軍

総帥

毛利元就

(全軍) 18,000余

安芸から全軍の戦略を指示。隆元・隆景を派遣。

1

総大将

毛利隆元

長府に本陣を置き、後詰軍の総指揮を執る。

1

現場総指揮官

小早川隆景

10,000~12,000

渡海し、水軍を駆使した海陸連携作戦で大友軍を翻弄。

2

門司城督

仁保隆慰

3,000

大友軍の猛攻に対し、門司城を固守。

1

水軍の将

乃美宗勝(浦宗勝)

大友軍の背後を攪乱。伊美弾正左衛門との一騎討ちに勝利。

1

水軍の将

児玉就方、村上元吉

村上水軍らを率い、海上からの攻撃を担当。

1


開戦:七月~八月―大友、雪辱を期す―一万五千の豊前侵攻と松山城本陣

永禄四年夏、大友義鎮は満を持して行動を開始した。これまでの度重なる敗北は、彼に力押しだけでは門司城を奪還できないことを教えていた。今回の出兵は、過去の失敗を教訓とした、周到な戦略に基づいていた。

まず7月、先遣隊として田原親宏が小倉に進軍し、門司城攻撃のための前線基地を確保 1 。時を同じくして、戸次鑑連、田北鑑生らの部隊が、毛利方に与する原田義種が籠る香春岳城を攻撃。激戦の末、7月15日にこれを陥落させ、原田義種を自刃に追い込んだ 1 。これは、門司城を孤立させ、豊前の毛利方国人衆との連携を断ち切るための重要な布石であった。

そして8月、義鎮はついに本隊を動かす。家老の吉岡長増、臼杵鑑速を筆頭に、戸次鑑連、田原親宏、吉弘鎮信ら、豊後、筑後、肥後など六カ国の兵力を結集した総勢1万5千余の大軍であった 1 。義鎮自らも豊後を出陣し、豊前南部の苅田にある松山城に本陣を構えた 2 。彼が最前線に近いこの地にまで進出したことは、この戦いに賭ける並々ならぬ決意の表れであると同時に、後方からの兵站維持と前線の指揮を円滑に行うための、極めて合理的な判断であった。かくして、陸路から門司城を完全に包囲する態勢が整ったのである。

海からの砲声―府内の南蛮船、門司城を撃つ―日本戦史における大砲の早期実戦投入

陸からの大軍による包囲に加え、義鎮はもう一つの切り札を用意していた。かねてよりキリスト教を保護し、ポルトガルとの南蛮貿易を積極的に推進していた彼は、その関係を軍事的に活用しようと試みたのである 8 。義鎮は、府内(一説には博多)の港に停泊していたポルトガル船に協力を要請。その巨大な船体から放たれる大砲(カルバリン砲など)による海上からの艦砲射撃で、門司城に籠る毛利兵の士気を打ち砕こうと計画した 2

果たして、海上に姿を現した南蛮船から放たれた砲弾は、轟音とともに門司城に着弾し、籠城兵を大いに驚かせたという 18 。これは、日本の合戦史において、大砲が本格的な攻城兵器として使用された最初期の事例の一つであり、義鎮の先進性を示すエピソードである。

しかし、この画期的な試みは、予期せぬ障害によってその効果を限定的なものとされた。関門海峡の潮流である。最大で10ノット(時速約18キロメートル)にも達する世界有数の激流は 24 、潮の扱いに不慣れなポルトガル人船員たちを翻弄した。大型の帆船である彼らの船は、この複雑で速い流れの中で安定した射撃位置を確保することが極めて困難であり、思うように操船ができなかった 2 。結局、数発の砲撃を行っただけで、ポルトガル船は戦線を離脱せざるを得なかった。先進技術も、それを運用する現地の地理的・海流的条件を克服できなければ、その真価を発揮できない。この事実は、後に毛利水軍が小回りの利く和船を駆使して海峡を自在に活動することと好対照をなし、「地の利」を活かした在来戦術の有効性を逆説的に証明する結果となった。

毛利の応手:九月―小早川隆景、出陣―関門海峡を渡る救援軍

大友軍の猛攻に対し、安芸の毛利元就も迅速に対応した。8月21日、彼は嫡男・毛利隆元と三男・小早川隆景に、1万8千余の後詰軍を率いて九州へ向かうよう命じた 1 。総大将の隆元は対岸の長門府中(長府)に本陣を置いて全軍の指揮を執り、実際の渡海と戦闘指揮は、知勇兼備の名将・小早川隆景に委ねられた 1

9月13日、対岸に到着した隆景が目にしたのは、田の浦一帯を埋め尽くす、雲霞のごとき大友軍の陣営であった 5 。兵力で劣る毛利方にとって、陸上での正面決戦は得策ではない。隆景はまず、落ち込みがちな城兵の士気を回復させることから着手した。彼は堀立直正や豊前守護代・杉氏の一族ら800名を決死隊として編成し、関門海峡を渡らせた。この部隊は大友軍の包囲網を果敢に突破して門司城への入城に成功し、落城寸前であった城内に一縷の望みをもたらした 1

さらに隆景は、大友軍の弱点を巧みに突く。9月28日、彼は麾下の水軍の将、児玉就方や村上水軍の村上元吉らに命じ、船団を率いて大友軍の背後にあたる蓑島方面を襲撃させた 1 。これは、大友軍の長大な兵站線を攪乱し、注意を門司城から逸らさせるための陽動であった。

智将の策―隆景の海陸連携作戦―水軍による兵站線への揺さぶりと陽動

ここから、小早川隆景の真骨頂ともいえる、水軍を駆使した海陸連携の機動作戦が展開される。彼は、大友の大軍と陸上で決戦することを徹底して避け、自軍が絶対的な優位を持つ「海」を主戦場とした 2

隆景にとって、関門海峡は両軍を隔てる「障害」ではなく、自軍の兵力を自在に投射するための「高速機動路」であった。彼は、自身が率いる小早川水軍と、厳島の戦い以来、強固な同盟関係にある村上水軍の機動力を最大限に活用 15 。神出鬼没に兵を豊前沿岸の各所に上陸させ、大友軍を常に背後からの脅威に晒し続けた。これにより、1万5千という大軍を擁する大友軍は、門司城への攻撃に兵力を集中することができず、兵站線の防衛のために貴重な戦力を割かざるを得なくなった。

この戦術が意味するところは大きい。大友軍は門司城を「包囲する側」でありながら、その実、広大な海岸線に沿って展開する毛利水軍によって、戦略的には「逆包囲」されているというジレンマに陥ったのである。城攻めに集中すれば背後を突かれ、背後の防備を固めれば城への圧力が弱まる。この状況を現出した時点で、隆景は戦いの主導権を完全に掌握していた。兵力差という不利を、制海権という非対称的な優位性で覆した、見事な戦略であった。

決戦:十月

戦線が膠着する中、十月に入ると、戦況は一気に動く。

十月十日:偽りの狼煙―大友軍を誘引した隆景の罠

大友方は、門司城内の恒見・三角両城を守る杉氏の家臣、稲田弾正らに調略を仕掛け、内応の約束を取り付けていた 1 。しかし、この密約は事前に毛利方に露見する。隆景はこの絶好の機会を逃さなかった。彼はこの情報を逆用し、稲田らに予定通り内応の狼煙を上げさせたのである。

これを信じた大友軍の主力が城へと殺到した。その瞬間を狙い、隆景は自らも海を渡って門司城に入り、全軍の指揮を執った。そして、城外に出て防戦の指揮を執るとともに、別動隊の乃美宗勝と児玉就方の水軍に、大友軍の側面を強襲させた 1 。不意を突かれた大友軍は混乱に陥り、明神尾から大里にかけての戦いで大敗を喫した。この戦闘で、大友軍の有力武将の一人、田北鑑生が重傷を負うなど、その損害は甚大であった 1

明神尾の激突と、衆人環視の一騎討ち(乃美宗勝 対 伊美弾正左衛門)

この十月十日の激戦の最中、戦場の趨勢を決定づける象徴的な出来事が起こる。毛利水軍の中核を担う猛将・乃美宗勝(浦宗勝)と、大友方の勇将・伊美弾正左衛門(鑑昌)との一騎討ちである 5

『吉田物語』などの軍記物によれば、両軍の兵士が固唾をのんで見守る中、二人の武者は馬を駆って激しく打ち合った。戦いの序盤、宗勝は伊美の槍を受けて鼻のあたりを突かれ、鮮血が流れた。しかし、彼はその傷に全く怯むことなく、槍を繰り出して応戦し、ついに相手を馬から突き落とし、その首級を挙げたのである 1

合戦は勢いである。敵味方が見守る中での大将同士の一騎討ちにおける勝利は、何物にも代えがたい効果をもたらした。この壮絶な勝利は毛利軍の士気を爆発的に高め、兵たちは勇気百倍して大友軍に襲いかかり、この日の勝利を決定的なものとした 5

十月二十六日:大友軍、最後の総攻撃―戸次鑑連の弓隊と鉄砲隊の猛攻、そして挫折

度重なる敗北にもかかわらず、大友軍はまだ戦意を失ってはいなかった。十月二十六日、彼らは最後の望みを託し、全軍を挙げての総攻撃を敢行した。攻撃の主目標は、和布刈神社の裏手から門司山の麓にかけての一帯であった 1

この攻撃は凄まじかった。臼杵鑑速や田原親賢が率いる数百丁の鉄砲隊が火を噴き、さらに「鬼道雪」こと戸次鑑連が率いる精鋭の弓隊800人が、雨霰と矢を射かける 1 。鉄砲と弓矢の連携による猛烈な射撃は、城を守る小早川勢に甚大な損害を与えたと伝えられる。しかし、仁保隆慰らが守る城兵の抵抗はあまりに頑強であった。加えて、海上からの毛利水軍による絶え間ない圧力が、大友軍の攻勢の足を鈍らせた。

日没まで続いた死闘の末、大友軍はついに城の一角をも崩すことができず、多大な犠牲者を出したまま、大里の陣まで引き上げざるを得なかった 1 。この総攻撃の失敗により、大友方の門司城攻略の望みは、事実上、絶たれたのである。

敗走:十一月―闇夜の撤退―追撃と伏兵、国東への苦難の道程

十一月五日の夜、大友軍はついに門司城の攻略を断念。全軍に撤退命令が下された 1 。しかし、彼らを待ち受けていたのは、勝利の安堵ではなく、さらなる悪夢であった。

大友軍の撤退を察知した毛利方は、即座に追撃を開始した。吉見正頼らの部隊が退却する大友軍の殿(しんがり)に襲いかかり、混乱に陥れた。さらに、隆景は敵の退路を完璧に読んでいた。貫山を越え、国東半島方面へと向かう大友軍の別動隊の経路上、黒田原から蓑島にかけての要所に、杉因幡守隆哉、乃美宗勝、そして能島・因島の村上水軍といった精鋭部隊を伏兵として配置していたのである 1

闇夜の中、疲労困憊して行軍する大友の将兵は、この周到に準備された罠にまんまと嵌った。伏兵の一斉攻撃を受け、軍勢は大混乱に陥った。この戦闘で、吉弘鑑理の子息である吉弘統清、一万田氏の勇将・一万田源介、宗像氏の一族・宗像重正など、大友家中の名だたる武将が次々と討ち死にし、数知れぬ兵士が命を落とした 1 。豊後への帰還を果たした将兵は、もはや出陣時の勢いを完全に失っていた。

この永禄四年の戦いにおける惨敗は、九州に覇を唱えてきた大友義鎮にとって、生涯でも最大級の屈辱であった。この敗戦を一つの契機として、彼は出家し、「宗麟」と号するようになったと伝えられている 1 。それは、彼の治世における一つの大きな転換点を示す出来事であった。

第三部:戦火は止まず―和平への遠き道のり(永禄五年~七年 / 1562~1564年)

永禄四年の大敗は、大友宗麟に深刻な打撃を与えた。しかし、九州の覇者としての彼の誇りは、門司城の奪還を諦めることを許さなかった。戦いの火はなおも燻り続け、戦線は膠着状態に陥っていく。最終的にこの泥沼化した争いを終結させたのは、武力ではなく、京の都から差し伸べられた「権威」という名の政治力であった。

永禄五年(1562年):戸次鑑連、再び柳ヶ浦へ―執念の再侵攻

永禄五年、大友宗麟は、毛利元就が主力を出雲の尼子氏攻略に向けた隙を突き、再び豊前への出兵を命じた 1 。この再侵攻の背景には、尼子義久からの救援要請もあったとされる。軍の指揮を執ったのは、またしても戸次鑑連、吉弘鑑理の二将であった。

七月、大友軍は再び香春岳城を攻め落とし、門司城へと進軍した。七月十三日、柳ヶ浦において両軍は再び激突する(第二次柳ヶ浦の戦い)。この戦いでは、戸次鑑連の家臣・由布惟信が一番槍の功名を挙げるなど、大友軍は奮戦したが、毛利方の小原隆言らの堅い守りを崩せず、門司城を攻略するには至らなかった 1

戦いの焦点は、その後、毛利方の手に落ちていた松山城の争奪戦に移る。九月から十一月にかけて、戸次鑑連らは七度にもわたって松山城に攻撃を仕掛けたが、決着はつかなかった 1 。その間、鑑連らは再び門司城下まで転戦し、十月十三日には大里において三度目の柳ヶ浦の戦いが勃発する(第三次柳ヶ浦の戦い)。この戦いで、鑑連の家臣・安東常治らの活躍により、門司城を守る毛利方の城将、冷泉元豊・赤川元徳・桂元親の三名を討ち取るという目覚ましい戦果を挙げた。宗麟はこの功を大いに賞賛したが、それでもなお、要害堅固な門司城を陥落させることはできなかった 1

翌永禄六年(1563年)正月には、毛利隆元と小早川隆景が率いる大軍が再び九州に渡り、両軍は互いに大軍を擁したまま、にらみ合いの状態に陥った。戦いは完全に膠着し、互いに決定的な一撃を加えられないまま、膨大な戦費と兵力を消耗する泥沼の様相を呈し始めていた。

京からの使者―将軍・足利義輝による調停

この膠着状態を打開するきっかけは、戦場ではなく、京の都からもたらされた。永禄五年正月、大友宗麟は室町幕府第十三代将軍・足利義輝に対し、毛利元就の「悪逆非道」を訴え、幕府による裁定を求める使者を派遣していた 1

当時、幕府の権威は失墜し、将軍は「在京勢力」の一つに過ぎないと見なされがちであった。しかし、「剣豪将軍」と称された足利義輝は、諸国の大名間の紛争調停に積極的に乗り出すことで、将軍の権威を再確立しようと試みていた 27 。彼にとって、西国の二大勢力である大友と毛利の争いは、その権威を示す絶好の機会であった。

宗麟の訴えを受けた義輝は、同年十一月頃、聖護院門跡の道増を勅使として九州へ派遣し、大友・毛利両家の和睦を斡旋させることを決定した 1 。この将軍の介入は、泥沼の消耗戦に疲弊していた両者にとって、まさに渡りに船であった。自力での決着が困難な状況下において、将軍による調停は、互いに決定的な敗北を認めることなく、名誉を保ったまま戦いを収拾するための、格好の「口実」となったのである 28 。宗麟は将軍に訴えることで自らの行動の正当性を内外に示し、元就はこれを受け入れることで、より重要な戦略目標に集中するための環境を整えることができた。これは、戦国時代において、将軍の権威が軍事的な強制力としてではなく、大名たちが自らの戦略的利益のために活用する「政治的リソース」として、依然として有効に機能していたことを示す好例である。

毛利の戦略的決断―対尼子戦線への注力と不利な講和の受諾

和睦交渉において、より柔軟な姿勢を見せたのは毛利元就であった。彼の最大の戦略目標は、あくまで長年の宿敵である出雲の尼子氏を滅ぼし、中国地方を完全に統一することにあった 3 。大友氏との二正面作戦は、彼の壮大な戦略構想における大きな障害であり、早期にこれを解消する必要があった。

永禄七年(1564年)七月、ついに両家の間で和睦が成立する。その条件は驚くべきものであった。毛利氏は、門司城の領有こそ認められたものの、それ以外の豊前・筑前における全ての城(松山城、香春岳城など)を放棄し、宗像氏や麻生氏の所領も大友方に引き渡すという、毛利にとって著しく不利な内容だったのである 1 。この条件に対し、毛利家臣団からは不満の声も上がったという。

しかし、元就の判断は揺るがなかった。彼は、目先の領土よりも、背後の脅威である大友氏との戦線を安定させ、全戦力を尼子氏との最終決戦に投入するという、より大きな戦略的利益を優先したのである 1 。これは、短期的な戦術的勝利に固執せず、長期的な戦略目標を見据えて行動する、彼の冷徹な現実主義と深謀遠慮を示す象徴的な決断であった。かくして、六年以上にわたって繰り広げられた門司城を巡る血で血を洗う抗争は、ひとまずの終結を見たのである。

終章:戦いの遺したもの

門司城を巡る一連の攻防戦は、単に一つの城の支配権が争われた局地戦ではなかった。それは、西日本の覇権の行方を左右し、その後の九州の勢力図を大きく塗り替えることになる、極めて重要な歴史的転換点であった。この戦いが遺したものは、両家の戦略思想、勢力バランス、そして戦国時代の戦争のあり方そのものに、深く永続的な影響を与えた。

戦略分析:毛利の「海を制する」思想と、大友の陸軍主義の限界

この戦いの勝敗を分けた最大の要因は、両軍の軍事思想、特に「海」の価値に対する認識の差にあった。毛利方の勝利は、小早川隆景に代表される、水軍を単なる兵員・物資の輸送手段としてではなく、陸軍と有機的に連携する戦略的機動部隊として活用する、先進的な思想の勝利であったと言える 2 。彼らは関門海峡の制海権を完全に掌握し、それを高速の機動路として利用することで、兵力的な劣勢を覆し、常に戦いの主導権を握り続けた。

対照的に、九州最大級の陸上兵力を擁した大友氏は、その強大な力を十分に発揮することができなかった 30 。その根底には、伝統的な陸軍中心の軍事思想があった。制海権の欠如は、彼らの長大な兵站線を常に危険に晒し、敵に背後を突かれる脆弱性を生み出した。ポルトガル船の大砲を活用しようという試みは画期的であったが、それはあくまで一時的な傭兵に頼った付け焼き刃であり、組織的な海軍力の欠如という構造的な弱点を補うには至らなかった。この戦いは、海峡という特殊な地理的条件下において、制海権がいかに決定的な意味を持つかを戦国大名たちに痛感させたのである。

両雄のその後:九州における毛利の橋頭堡と、大友宗麟の苦悩

和睦によって、毛利氏は門司城という九州への確固たる足がかりを確保することに成功した。この橋頭堡は、以後、毛利氏が九州の政治状況に介入し続けるための重要な拠点となった。門司城を介して、彼らは筑前の宗像氏や秋月氏といった国人衆への影響力を保持し、大友氏の背後を脅かし続けることになる 1

一方、大友宗麟にとって、この戦いは大きな転機となった。北への勢力拡大は毛利という強大な壁によって阻まれ、彼の関心は次第に内政、そしてキリスト教への傾倒へと向かっていく 1 。また、この戦いを通じて、豊前・筑前の国人衆の結束がいかに脆いものであるかが露呈した。この支配体制の脆弱性は、後に肥前の龍造寺氏や薩摩の島津氏が台頭した際に、大友氏が苦戦を強いられる遠因ともなったのである 31

門司城の戦いが戦国史に刻んだ意味―九州三国時代への序曲

門司城の戦いは、毛利氏の西国における覇権を決定づけるとともに、それまで破竹の勢いで拡大を続けてきた大友氏の勢いに、初めて明確な「壁」を築いた。この戦いがもたらした最も大きな歴史的意義は、九州のパワーバランスに決定的な変化をもたらした点にある。

大友氏が北の毛利氏との泥沼の抗争に足を取られ、その国力を消耗している間に、九州の他の地域では新たな勢力が台頭する時間的猶予が生まれた。肥前では龍造寺隆信が勢力を拡大し、薩摩では島津貴久・義久親子が三州統一を成し遂げつつあった 31 。もし大友氏が門司城を早期に攻略し、毛利氏を九州から完全に駆逐していたならば、その後の九州の歴史は、大友氏による統一という、全く異なる様相を呈していたかもしれない。

その意味で、門司城の戦いは、九州が大友一強の時代から、大友・龍造寺・島津の三国が鼎立し、互いに覇を競う「九州三国時代」へと移行する、壮大な歴史の転換点を告げる序曲であったと言える。関門海峡の潮騒の中に響いた鬨の声と砲声は、一つの時代の終わりと、新たな動乱の時代の幕開けを告げていたのである。

引用文献

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  2. 門司城攻防戦 http://www.oct-net.ne.jp/moriichi/battle15.html
  3. 尼子方の月山富田城を降伏させた毛利元就の謀略とは? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/19490
  4. 「毛利元就」三本の矢のエピソードで有名な中国地方の覇者! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/582
  5. 毛利元就33「大友・毛利氏の攻防②」 - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page112.html
  6. 関連略年表 - 九州の動き https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/s_39/zu01.pdf
  7. (大友宗麟と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/20/
  8. 大友宗麟 - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o204/bunkasports/rekishi/documents/sorinhukudokuhon.pdf
  9. 戦国日本を動かした大砲のルーツを探る - テレメール https://telemail.jp/shingaku/academics-research/lecture/g006342
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  11. 門司城 - - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-729.html
  12. 日本遺産 歴史を紡ぐ関門"ノスタルジック"海峡 | お知らせ | ニュース | 自由民主党 https://www.jimin.jp/news/information/209392.html
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  14. 日本遺産を訪ねる西への旅 関門“ノスタルジック”海峡 ~時の停車場 - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/19_vol_183/issue/01.html
  15. 【特集】毛利元就の「三矢の訓」と三原の礎を築いた知将・小早川隆景 | 三原観光navi | 広島県三原市 観光情報サイト 海・山・空 夢ひらくまち https://www.mihara-kankou.com/fp-sp-sengoku
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  25. 厳島の戦い~じつは徹底的な頭脳戦!小早川隆景、冴えわたる智謀 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5840
  26. 門司城の戦いとは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E9%96%80%E5%8F%B8%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  27. 室町13代将軍・足利義輝の外交政策…戦国大名は幕府再興の要。一方で朝廷は軽視? https://sengoku-his.com/353
  28. 足利義輝の壮絶すぎる30年を約15000字で徹底解説。将軍としての使命とは。 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/69688/
  29. 第37話 「三本の矢」で知られる毛利元就と小倉城との関係 https://kokuracastle-story.com/2021/03/story37/
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  33. 九州三国志 ~九州の戦国時代~ https://kamurai.itspy.com/nobunaga/9syu3gokusi.htm