最終更新日 2025-09-03

鳶ヶ巣山砦の戦い(1575)

天正三年、長篠城を包囲する武田軍に対し、酒井忠次率いる織田・徳川連合軍は鳶ヶ巣山砦を奇襲。闇夜の強行軍で砦を陥落させ、武田軍の退路を断ち、設楽原の戦いの勝利を決定づけた歴史的奇襲であった。
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天正三年 鳶ヶ巣山砦奇襲戦 ― 長篠・設楽原の勝敗を決した一夜の攻防

序章: 設楽原の膠着 ― 決戦前夜の静寂

天正三年五月、長篠城の危急

天正三年(1575年)五月、甲斐の武田勝頼は一万五千と号する大軍を率いて三河国に侵攻し、徳川方の奥平信昌が守る長篠城を包囲した 1 。城兵はわずか五百、兵糧も枯渇寸前という絶望的な状況にあり、落城はもはや時間の問題と見られていた 2 。この圧倒的な兵力差は、織田・徳川連合軍にとって、一刻も早い救援を絶対的なものとしていた。長篠城が陥落すれば、武田軍は三河侵攻の拠点を確保し、徳川家康の本拠地である岡崎城への道が開かれることになる。事態はまさに徳川家の存亡に関わる危機であった。

鳥居強右衛門の奔走と狼煙

この窮地において、長篠城兵の士気を繋ぎとめたのが、奥平家の足軽・鳥居強右衛門の決死の行動であった。五月十四日夜、強右衛門は城を密かに脱出し、武田軍の厳重な警戒網と川中に張られた鳴子網を突破して豊川を下り、岡崎の徳川家康、そして援軍として到着していた織田信長のもとへたどり着いた 3 。援軍の到来を確約された彼は、城兵に吉報を伝えるべく、危険を顧みず帰路につく。五月十六日、長篠城を望む雁峰山から「援軍来る」との合図である三筋の狼煙を上げた 5 。この狼煙は、極限状態にあった籠城兵の士気を奮い立たせたが、直後に強右衛門は武田方に捕縛され、城兵への降伏勧告を拒絶したため磔刑に処された。彼の犠牲は、連合軍に残された時間が極めて少ないことを浮き彫りにした。

設楽原への着陣と対峙

鳥居強右衛門の報告を受け、織田信長率いる三万、徳川家康の八千(諸説あり)からなる連合軍は迅速に行動し、長篠城からほど近い設楽原に布陣した。これに対し、武田軍も主力を長篠城の包囲から設楽原へと転進させ、総勢五万を超える両軍が、連吾川を挟んで対峙するに至った 7 。しかし、武田軍は連合軍の鉄砲隊の射程外に巧みに陣を構え、堅固な馬防柵を築いた連合軍も能動的な攻撃を仕掛けられない状況にあった 7 。これにより、戦況は完全な膠着状態に陥ったのである。

この一見すると均衡した状況は、実は武田勝頼にとって戦略的な誤謬であった。勝頼の当初の目的は長篠城の攻略であり、連合軍との決戦ではなかった。主力を設楽原に移動させたことで、彼の軍事目標は分散し、リソースも二分される結果となった。一方、この膠着状態は、兵力で優越する織田・徳川連合軍に時間的猶予を与えた。兵を休ませ、馬防柵をはじめとする防御陣地をさらに強化する時間、そして何よりも、この deadlock を打破する策を練る時間である。敵地で兵站線が伸びきっている武田軍にとって、時間は敵であった。焦りは勝頼にのみ募り、決戦を急がねばならないという心理的圧迫が、彼を奇襲という側面攻撃に対して脆弱な状態へと追い込んでいった。信長と家康の「待つ」という姿勢そのものが、静かなる攻撃であり、巧妙に仕掛けられた罠であった。

第一章: 武田軍の喉元 ― 鳶ヶ巣山砦の戦略的価値

長篠城を見下ろす「監視の要所」

鳶ヶ巣山は、宇連川を挟んで長篠城の南岸に位置する標高約140メートルの山である。この地からは、長篠城の本丸や二の丸を含む城内の様子が手に取るように見渡せ、まさに「監視の要所」であった 2 。武田軍がこの地を制圧したことは、長篠城のあらゆる動きを封じ込めることを意味し、城の最大の弱点を突かれたに等しかった 7 。籠城側にとって、常に敵の視線に晒されるという心理的圧迫は計り知れないものがあった。

五砦による包囲網の形成

武田軍は、この鳶ヶ巣山の戦略的重要性を深く認識しており、単独の砦としてではなく、一個の要塞群として機能させていた。中心となる鳶ヶ巣山砦に加え、その東西に君ヶ臥床(きみがふしどこ)砦、姥ヶ懐(うばがふところ)砦、中山砦、久間山(くまやま)砦を築き、計五つの砦で長篠城の南側を完全に封鎖したのである 2 。これらの砦は相互に連携し、長篠城からのいかなる脱出や反撃も許さない、鉄壁の包囲網を形成していた。

兵站と退路の生命線

この砦群の役割は、単なる監視拠点に留まらなかった。設楽原に展開する武田軍本隊と、後方の信濃国を結ぶ兵站基地としての機能も担っていた 11 。さらに致命的に重要だったのは、この砦群が武田軍本隊の唯一の退路を確保する戦略的要衝であったという点である。万が一、設楽原での決戦に敗れた場合、武田軍は鳶ヶ巣山砦群を経由して信濃へ撤退する計画であった。したがって、この砦群を失うことは、武田軍が背後を完全に遮断され、設楽原で「袋の鼠」になることを意味していた 12

しかし、この砦群の重要性そのものが、武田方の油断を生む土壌となった。砦群の総兵力は約千名 2 、総大将には勝頼の叔父であり信頼の厚い一門衆の河窪信実を配置した 11 。武田首脳部からすれば、この布陣は万全に思えたであろう。眼前の長篠城兵はわずか五百で、飢えと疲労で反撃の余力はない 2 。そして、連合軍の主力は数キロ離れた設楽原で対峙しており、そこから数千もの大部隊を割いて、夜間の険しい山越えを伴う危険な迂回攻撃を仕掛けてくる可能性は、常識的に考えて極めて低いと判断された。この「論理的」だが不完全な状況評価が、武田方の心理的な死角を生み出した。守備兵の意識は完全に前方の長篠城にのみ向けられ、安全と思われた背後への警戒は、致命的なまでに希薄だったのである。

第二章: 奇策の献策 ― 設楽原軍議の攻防

酒井忠次の進言

天正三年五月二十日、設楽原の連合軍本陣で開かれた軍議において、膠着した戦況を打開するための一手が投じられた。徳川家の重臣・酒井忠次が、鳶ヶ巣山砦への奇襲攻撃を進言したのである 7 。これは、目の前の敵主力を叩くのではなく、その戦略的基盤である後方拠点を破壊することで、敵全体を機能不全に陥らせるという、大胆かつ本質を突いた作戦であった。

信長の叱責と真意 ― 情報戦の妙

しかし、織田信長は諸将の面前で、この忠次の進言を「田舎侍の考えそうな小細工よ」と一笑に付し、取り合わなかった 1 。この叱責に、徳川方の将は色を失ったとされる。ところが、軍議が終わると、信長は密かに家康と忠次を呼び寄せた。そして、「先ほどの軍議では、敵の間者に作戦が漏れるのを防ぐために、わざとそなたの策を却下した。あの作戦は面白い。すぐに実行せよ」と命じたのである 1 。これは、敵の間諜の存在を常に念頭に置く信長の高度な情報管理能力と、作戦の真価を瞬時に見抜く卓越した戦略眼の現れであった。公開の場で却下することで、万一情報が漏れても「連合軍に奇襲の意図なし」と武田方を油断させる効果を狙ったのである。

別働隊の編成

信長の承認を得て、直ちに酒井忠次を総大将とする奇襲別働隊の編成が開始された。その兵力は、『信長公記』によれば、徳川勢から選抜された弓・鉄砲の名手ら二千余の兵に加え、信長が援軍として付けた旗本鉄砲衆五百挺を含む織田勢二千、総勢四千余に達したとされる 16 。信長はさらに、作戦の確実な遂行を期すため、監軍(軍監)として金森長近、佐藤秀方らを派遣した 10 。これは、作戦の重要性を示すと同時に、同盟者である徳川軍の動きを監督する「信長の目」としての役割も担っており 10 、信長の周到さを示している。

役職

主要人物

兵力・構成

典拠

総大将

酒井忠次

-

16

監軍

金森長近、佐藤秀方、青山新七、加藤市左衛門

織田家からの派遣

10

徳川勢

松平伊忠、本多広孝、西郷吉員 等

約2,000余名

16

織田勢

-

約2,000名(旗本鉄炮衆500挺を含む)

16

総兵力

-

約4,000名

9

第三章: 闇夜の進軍 ― 松山峠越え

出陣の刻 ― 五月二十日戌の刻

五月二十日の戌の刻(午後八時頃)、酒井忠次率いる四千の別働隊は、設楽原の陣地を音もなく出発した 16 。『信長公記』に記されたこの時刻は、天文学的データと照合すると、当日の月の入り(午後七時四十八分頃)の直後であり、部隊が月明かりすらない漆黒の闇に紛れて行動を開始したことを科学的に裏付けている 16 。武田方に察知される危険を最小限に抑えるための、計算され尽くした出陣であった。

隠密渡河と案内人

部隊はまず豊川を静かに渡り、武田軍の警戒網を大きく南へ迂回するルートを取った 7 。この前人未到ともいえる夜間強行軍を成功に導いたのは、現地の地理に精通した協力者の存在であった。長篠城主・奥平氏の縁者である奥平定能や菅沼定盈が道案内となり、さらに吉川村の豊田藤助秀吉、近藤石見守といった地元の案内人が、部隊を武田方の全く予期しない険しい山道へと導いたのである 16

松山峠の踏破 ― 想像を絶する困難

部隊が踏破した松山峠は、昼間ですら険しい獣道であり、これを重い甲冑を身に着け、鉄砲や弾薬を携えた四千もの大軍が、月明かりもない真夜中に越えたのである 10 。その困難さは想像を絶する。落ち葉が積もって滑りやすい急斜面を、一兵も落伍することなく進む必要があった 18 。後続の兵が道に迷わぬよう、先導者が大木に縄を張り巡らせて道標としたという逸話は、この行軍がいかに過酷で、かつ周到な計画と厳格な軍律のもとに行われたかを物語っている 16

この作戦の成否は、戦略の妙や兵力の多寡以前に、兵士一人ひとりの肉体的・精神的な強靭さに懸かっていた。暗闇の中、疲労と戦いながら、武器を落とす音一つ立てずに何時間も沈黙を守り続ける。これは、単なる命令で達成できることではない。郷土である三河を防衛するという高い士気、そして指揮官への絶対的な信頼があって初めて可能となる。この夜、真の決戦兵器は鉄砲ではなく、闇の中を黙々と踏破した兵士たちの不屈の精神力そのものであった。この困難な行軍の成功こそが、奇襲全体の成否を分ける最大の鍵となったのである。

第四章: 合戦のリアルタイム再現 ― 天正三年五月二十一日、払暁の奇襲

夜明け前:布陣完了と攻撃部署

夜を徹した過酷な行軍の末、酒井忠次の別働隊は五月二十一日未明、目標である鳶ヶ巣山の背後、「牛蒡椎(ボボウジ)」と呼ばれる地点に到達した 16 。兵士たちは疲労困憊であったが、夜が明ける前に部隊の展開を完了させた。忠次はここで軍を複数に分け、鳶ヶ巣山砦本体と、それを取り巻く中山砦、久間山砦など、五つの砦を同時に攻撃する態勢を整えた 16 。さらに、設楽越中守らの部隊を豊川沿いの樋口・井原といった要所に配置し、砦から敗走してくる武田兵を殲滅するための伏兵とした 16 。作戦は、敵を単に砦から追い出すのではなく、完全に包囲殲滅することを目指していた。

払暁:奇襲開始

五月二十一日、東の空が白み始める払暁。静寂は突如として破られた。酒井隊は、一斉の鉄砲射撃を合図に、鬨の声を上げて各砦に雪崩れ込んだ 17 。完全に意表を突かれた武田軍は、大混乱に陥った 17 。まさか背後の、しかも険しい山側から大軍が出現するとは夢想だにしていなかったため、組織的な抵抗は大きく遅れた。寝込みを襲われた兵も多く、武具を手に取る間もなく討ち取られていった。

午前:各砦の攻防と陥落

奇襲の混乱の中でも、武田方の将兵は果敢に抵抗した。

  • 鳶ヶ巣山砦(主戦場): 総大将・河窪信実の指揮のもと、武田兵は激しく防戦した。特に砦の主郭では、三度にわたる壮絶な争奪戦が繰り広げられたと伝わる 17 。しかし、兵力差は圧倒的であり、衆寡敵せず、総大将の河窪信実をはじめ、副将の三枝昌貞、飯尾助友といった名だたる将がことごとく討死し、砦はついに陥落した 15
  • 中山砦・久間山砦ほか: 他の砦でも同様の激戦が展開された。各砦の守将たちは、奇襲の勢いの前に次々と突破されていった。陥落させた砦には次々と火が放たれ、もうもうと立ち上る黒煙は、数キロ離れた設楽原の武田本陣からもはっきりと確認できたはずである 19

砦名

主要守将

結果

典拠

鳶ヶ巣山砦

河窪信実、三枝昌貞

激戦の末、守将討死し陥落

2

中山砦

名和宗安、五味高重

奇襲を受け陥落

2

久間山砦

浪合民部

奇襲を受け陥落

2

姥ヶ懐砦

三枝勘解由兄弟

奇襲を受け陥落

2

君ヶ臥床砦

和田業繁

奇襲を受け陥落

2

午前中:掃討戦と長篠城の呼応

砦を失った武田兵は、生き残るために山を下り、設楽原の本隊を目指して敗走を開始した。しかし、その退路には酒井忠次が周到に配置した伏兵が待ち構えていた 19 。敗走兵はここでことごとく討ち取られ、あるいは捕縛された。

時を同じくして、鳶ヶ巣山砦からの煙と鬨の声を確認した長篠城の奥平信昌は、これを千載一遇の好機と判断。残る城兵を率いて城門を開き、打って出た 1。これにより、砦から逃れてきた武田の敗残兵は、背後から追撃する酒井隊と、正面から突撃してくる奥平隊による挟撃を受ける形となり、壊滅的な打撃を受けた。午前中のうちに、長篠城を包囲していた武田軍は完全に駆逐されたのである。

第五章: 奇襲成功の衝撃 ― 設楽原への連鎖

武田本陣の動揺

鳶ヶ巣山砦群から立ち上る黒煙と、辛うじて逃げ延びてきた敗残兵からもたらされる報告は、設楽原の武田勝頼の本陣に計り知れない衝撃を与えた。後方の戦略拠点、兵站基地、そして唯一の退路が、一夜にして敵の手に落ちたという事実は、武田軍全体を心理的に根底から揺さぶった 12 。背後を完全に遮断されたという現実は、最強を誇った武田軍団の将兵に、これまで経験したことのない孤立感と焦燥感をもたらした。

決戦の強要

この奇襲成功の報は、武田勝頼から戦略的な選択肢をほぼ全て奪い去った。『甲陽軍鑑』によれば、山県昌景ら宿老は、連合軍の堅固な陣立てを見て既に撤退を進言していたとされるが、勝頼はこれを受け入れなかったという 12 。しかし、鳶ヶ巣山砦の陥落により、その撤退すら不可能となった。持久戦に持ち込もうにも後方基地は壊滅している。この時点で、勝頼に残された道はただ一つ、目の前の設楽原で、織田・徳川連合軍が万全の準備を整えた馬防柵と鉄砲隊の陣地に、正面から突撃するという、極めて無謀な決戦を挑むことだけであった 12

この状況は、勝頼の心理状態に決定的な影響を与えたと考えられる。もともと父・信玄以来の宿老たちの慎重論を抑えて決戦に傾いていた勝頼であったが、鳶ヶ巣山の凶報は、その判断を冷静な戦略的思考から、絶望的な状況を打開するための賭けへと変質させた。退路を断たれたという危機感が、彼の誇りと焦りを煽り、破滅的な正面攻撃へと駆り立てる心理的な触媒として機能したのである。酒井忠次の奇襲は、武田軍の物理的な退路を断つと同時に、勝頼の精神的な退路をも断ち切り、信長が望む殲滅戦の舞台へと彼を強制的に引きずり出したのであった。

長篠城の解放と戦局の転換

鳶ヶ巣山砦の陥落は、十日以上にわたった長篠城の包囲が事実上解かれたことを意味した 1 。これにより、籠城していた奥平信昌の軍勢が解放され、連合軍の一翼として戦闘に参加することが可能となった。戦力バランスはさらに連合軍優位に傾き、武田軍は完全に守勢に立たされた。鳶ヶ巣山砦奇襲の成功は、設楽原における決戦が開始される前に、その勝敗をほぼ決定づけていたと言っても過言ではない。設楽原での武田軍の壊滅は、この奇襲によって引き起こされた必然的な帰結であった。

終章: 日本戦史における鳶ヶ巣山砦の戦いの意義

作戦成功の要因分析

鳶ヶ巣山砦への奇襲作戦が、歴史上稀に見る完璧な成功を収めた要因は、複合的な要素の産物であった。

第一に、信長による徹底した情報管理が挙げられる。軍議で一度作戦を却下し、間諜を欺いたことは、武田方の警戒を解く上で決定的な役割を果たした。

第二に、現地の協力者を得て、敵の全く意表を突く進軍路を選択した地形の利用の巧みさがある。これは、情報戦と地理的知識の融合であった。

第三に、困難な夜間行軍を寸分の乱れもなくやり遂げた兵士たちの高い能力である。その強靭な肉体と精神力、そして高い士気なくして、この作戦は画餅に終わっていたであろう。

そして最後に、これら全ての要因が効果を発揮する前提となった、武田方の油断である。自軍の強さへの過信と、背後からの攻撃を想定していなかった戦略的視野の欠如が、この奇襲を可能にした最大の脆弱性であった。

長篠・設楽原の戦いにおける位置づけ

長篠・設楽原の戦いは、しばしば織田・徳川連合軍の鉄砲三段撃ちが武田の騎馬隊を破った、戦術の転換点として語られる 23 。しかし、その戦術的勝利を準備し、確定させたのは、まさしく鳶ヶ巣山砦への奇襲という戦略的勝利であった。この奇襲がなければ、武田軍は退路を確保したまま、より有利な条件で決戦に臨むか、あるいは撤退を選択することも可能であった。鳶ヶ巣山砦の陥落が武田軍を決戦へと強要し、その選択肢を奪ったのである。鉄砲隊が戦いの「剣」であったとすれば、鳶ヶ巣山奇襲は勝敗の天秤そのものを動かした「一手」であった。

歴史的評価

鳶ヶ巣山砦の戦いは、織田信長の桶狭間の戦いと並び、日本戦史における奇襲作戦の最も輝かしい成功例の一つとして高く評価される。それは単に一つの砦を落としたという局地的な戦闘ではなく、大会戦全体の帰趨を決した決定的な作戦であった。この敗北は、武田信玄以来、最強と謳われた武田家の軍事的権威を大きく失墜させ、その後の急速な衰亡へと繋がる重大な転換点となった。この一夜の攻防は、戦国時代の勢力図を塗り替える、まさに歴史的な一撃だったのである。

引用文献

  1. 設楽原の戦い~信長に鳶ヶ巣山砦の奇襲を進言した酒井忠次~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/nagasino-tadatugu.html
  2. 長篠城を包囲していた五砦の中心だった武田信実の鳶ヶ巣山砦 https://sengokushiseki.com/?p=9544
  3. 長篠合戦のゆくえを変えた?人間味あふれる鳥居強右衛門・命がけの決断とは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/107138/
  4. 愛知の城 設楽原古戦場 https://shiro200303.sakura.ne.jp/Shitaragahara-Kosenjo.html
  5. 長篠城② ~長篠合戦の舞台~ | 城館探訪記 - FC2 http://kdshiro.blog.fc2.com/blog-entry-3576.html
  6. 【1575年】長篠の戦い - 管理システムなら静岡県浜松市のNANAシステム開発株式会社 https://www.7sys.jp/staff-blog/%E3%80%901575%E5%B9%B4%E3%80%91%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84/
  7. 其の八 酒井忠次の大作戦「鳶ヶ巣山(とびがすやま)」 - 新城市ホームページ https://www.city.shinshiro.lg.jp/kanko/taiga/shinshiro/tobigasuyama.html
  8. 連合軍鳶ヶ巣山砦奇襲攻撃コース ―織田信長・徳川家康 - IKOMAI東三河 武将トリップ https://www.higashimikawa.jp/busyo/course5.html
  9. 鳶ヶ巣山砦 - IKOMAI東三河 武将トリップ https://www.higashimikawa.jp/busyo/spot57.html
  10. 鳶ケ巣山砦奇襲戦 - 金森戦記 金森長近 https://kanamorisennki.sakura.ne.jp/senjou-new/tobigasuyama/tobigasuyama.html
  11. 古城の歴史 鳶ケ巣山砦 https://takayama.tonosama.jp/html/tobigasu.html
  12. 長篠・設楽原の戦い…信長の三段撃も、武田騎馬隊の馬防冊への吶喊攻撃も教科書とはちょっと違うようで…… - 北条高時.com https://hojo-shikken.com/entry/2015/01/08/003000
  13. 鳶ヶ巣山砦 - 城郭図鑑 http://jyokakuzukan.la.coocan.jp/022aichi/029tobigasuyama/tobigasuyama.html
  14. 設楽原で武田軍を殲滅した信長の恐るべき戦略眼 最強の騎馬を無効化し最新兵器で戦を変えた異才 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/677639?display=b
  15. 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu3.php.html
  16. 鳶ケ巣山砦の奇襲 - 武田勝頼公と北条夫人の部屋 http://rashimban3.blog.fc2.com/blog-entry-220.html
  17. 鳶ヶ巣山砦〈長篠の戦い⑻〉(徳川家康ゆかりの地24) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/32840310/
  18. 鳶ヶ巣砦奇襲失敗 〜松山越に挑戦するも断念 - note https://note.com/furumiyajou/n/nc1349d361ef2
  19. 鳶ヶ巣山砦 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/mikawa/shiseki/higashi/tobigasuyama.sj/tobigasuyama.sj.html
  20. 酒井忠次が奇襲した【鳶ヶ巣山砦】から【長篠城】を見下ろしてみた|愛知県新城市 https://delight-net.biz/archives/6829
  21. 長篠合戦|織田軍勝利の真相 - 日本の城研究記 https://takato.stars.ne.jp/kiji/s-takeda.html
  22. 長篠設楽原合戦の史跡 ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/nagasinositara/nagasinositara.html
  23. 長篠の戦|国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2376
  24. 長篠・設楽原決戦場跡/鳶ヶ巣山砦跡(愛知県) | 酒井家ゆかりの地 - 鶴岡市 https://www.city.tsuruoka.lg.jp/static/sakai400th/yukarinochi/nagashino.html