丸森城は、現在の宮城県伊具郡丸森町渕ノ上、旧陸奥国伊具郡に位置した戦国時代の城郭である 1 。その立地は、阿武隈川の南岸にそびえる独立した小高い丘の上であり、標高約65メートル、周囲との比高差約60メートルという、防御と監視に優れた地形を巧みに利用して築かれていた 3 。
この城は、現地の案内板などでは「丸山城」という名称で紹介されることが多いが、仙台藩の公式な編纂史書である『性山公治家記録』には一貫して「丸森城」と記されている 1 。本報告書では、この公式記録に基づき「丸森城」を正式名称として採用し、論を進める。その他、丸山館、丸森館といった別名でも知られていた 4 。
丸森城の歴史的価値を理解する上で最も重要なのは、その地政学的な位置づけである。城が所在する伊具郡は、戦国時代を通じて、南奥州に覇を唱えた伊達氏と、浜通りに強固な地盤を築いた相馬氏という、二大勢力の勢力圏が直接的に接触する境界地帯であった 5 。
このため、丸森城の領有権を巡る歴史は、両氏の力関係の変遷を映し出す鏡のような役割を果たしている。それは単なる一地方の城郭の歴史に留まらず、南奥州全体の政治・軍事史の動向を象徴する存在であったと言える 7 。伊達稙宗の「隠居領」としてその歴史が始まりながら、彼の死後、即座に相馬氏による実効支配下に入り、その後、伊達氏による熾烈な奪還戦の舞台となるという目まぐるしい変遷は、この地が常に緊張状態に置かれた最前線であったことを物語っている。
この地の帰属は、どちらかの勢力が一方的に支配を確立するには至らず、両者の力が拮抗する中で常に揺れ動く「緩衝地帯」としての性格を帯びていた。本拠地である伊達氏の米沢や相馬氏の小高・中村からは一定の距離がある辺境でありながら、相手の領地へ侵攻するための足掛かり、あるいは自領を防衛するための前線基地として、双方にとって極めて重要な戦略的価値を有していた。したがって、丸森城の運命は、より大きな政治情勢の波に翻弄される宿命を背負っていたのである。
本報告書は、丸森城を単体の城郭遺構として静的に分析するのではなく、伊達・相馬両氏の興亡史、戦国時代の城郭技術、そして地域の力学を動的に解き明かすための重要な「窓」として捉える。その構造、歴史、そして関わった人物たちの動向を多角的に検証することで、戦国時代という激動の時代における国境の城が果たした役割とその実像に迫ることを目的とする。
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
1542年 |
天文11年 |
伊達稙宗と嫡男・晴宗が対立し、伊達氏の内乱「天文の乱」が勃発。 |
1548年 |
天文17年 |
天文の乱が終結。稙宗は晴宗に家督を譲り、隠居城として丸森城を築城し入城 8 。 |
1565年 |
永禄8年 |
伊達稙宗が丸森城にて死去 4 。これを機に、相馬盛胤が稙宗の隠居領を掌握。 |
1570年 |
元亀元年 |
相馬氏が丸森城を完全に支配下に置き、家臣の門間大和を城主とする 10 。 |
1576年 |
天正4年 |
伊達輝宗が旧領奪還のため、伊具郡への軍事侵攻を本格化させる 12 。 |
1581年 |
天正9年 |
伊達政宗が伊具郡矢ノ目での対相馬戦にて初陣を飾る 2 。 |
1583年 |
天正11年 |
田村清顕の仲介により伊達・相馬間で和睦が成立。同年5月、丸森城が伊達氏に返還される 4 。 |
1584年 |
天正12年 |
和睦条件に基づき金山城も伊達氏に返還。伊達輝宗は黒木宗俊を丸森城の城主とする 4 。 |
1593年 |
天正17年 |
城主が黒木宗俊から高野親兼に交代 11 。 |
1598年 |
慶長3年 |
高野親兼が病没し、大條実頼が城主となる 1 。 |
1601年 |
慶長6年 |
大條実頼が新たに鳥屋館を築いて移転。これに伴い、丸森城は廃城となる 4 。 |
丸森城は、阿武隈川とその支流である五福谷川が西側を回り込むように流れる、天然の要害に築かれている 1 。高さ約50メートルの独立した丘陵を利用しており、川を自然の水堀と見立て、周囲を一望できるその立地は、敵の動きを早期に察知し、防御態勢を整える上で絶大な利点を持っていた 3 。現在、城跡に残る展望所からは、眼下に流れる阿武隈川とそこに架かる丸森大橋を望むことができ、往時の城がこの地域の交通路を扼する戦略的要衝であったことが直感的に理解できる 15 。
丸森城の縄張り、すなわち城郭全体の設計は、戦国中期の山城として、極めて実践的かつ合理的な特徴を示している。
城の中心部は、山頂の平坦地を大きく二つに分ける形で構成され、本丸と見られる郭や二の丸、その他複数の小規模な郭(曲輪)が連なる、いわゆる連郭式の配置を取っている 3 。主郭とされる最も高い位置にある曲輪には、現在、愛宕神社が建立されている 3 。また、山の麓に近い二の丸跡の手前までは車道が通じており、駐車場が整備されていることから、城の主要な登城口がこの辺りにあったと推察される 4 。
丸森城の防御思想を最も色濃く反映しているのが、その防御施設である。特に、尾根筋を断ち切るように掘られた大規模な「堀切」は、この城の最大の見どころであり、軍事的性格を雄弁に物語っている。
この「大規模な堀切」と「顕著な土塁の欠如」という組み合わせは、丸森城が担った役割を考える上で極めて示唆に富む。すなわち、この城は平時における政務や居住を主目的とした拠点城郭ではなく、伊達・相馬間の軍事的緊張を背景に、純粋な戦闘拠点として設計された可能性が高い。山城において、急峻な自然地形そのものが天然の城壁として機能するため、防御兵の足場や盾となる土塁の必要性は、平城に比べて相対的に低い。それに対し、唯一の弱点となりうる尾根筋からの攻撃を確実に阻止するため、防御能力のリソースを巨大な堀切の造成に集中させたと考えられる。この縄張りは、特定の脅威に対して最適化された、無駄のない機能主義的な設計思想の表れと言えよう。
以上の特徴から、丸森城は分類上「山城」に属し、その築城年代である1548年頃の戦国時代中期における山城の典型的な姿を示している 15 。すなわち、人工的な改変を最小限に留めつつ、自然地形の利を最大限に活用し、堀切や曲輪の巧みな配置によって防御力を極限まで高めるという、当時の城郭技術の到達点の一つを見ることができる。
ただし、城の構造や歴史に関する考古学的な裏付けは、現時点では限定的である。丸森町教育委員会による文化財調査報告書は存在するものの、城域全体を対象とした大規模な発掘調査は行われておらず、その全貌解明には今後の調査が待たれる状況にある 16 。
丸森城が歴史の表舞台に登場する直接的な契機は、伊達家第14代当主・伊達稙宗とその嫡男・晴宗との間で繰り広げられた、奥州の歴史上最大規模の内乱「天文の乱」(1542年~1548年)である 9 。稙宗が推し進めた拡大政策、特に三男・実元を越後守護・上杉定実の養子に入れようとした問題が引き金となり、父子の対立は伊達家中のみならず、周辺の諸大名を巻き込む大乱へと発展した 9 。
6年以上に及ぶ争乱の末、13代将軍・足利義輝の仲介もあり、稙宗方が敗北 9 。乱に敗れた稙宗は権威を失い、一時は晴宗によって本拠地であった桑折西山城に幽閉されるという屈辱的な境遇に置かれた 2 。
この絶体絶命の窮地にあった稙宗に救いの手を差し伸べたのが、隣国の相馬氏であった。稙宗は、自身の長女である屋形御前を相馬家第14代当主・相馬顕胤に嫁がせており、両家は極めて強固な姻戚関係で結ばれていた 20 。この関係に基づき、相馬氏は天文の乱において一貫して岳父である稙宗を支持し続けた 10 。
そして、乱の終結後、桑折西山城に幽閉されていた稙宗は、この娘婿である相馬氏の手によって救出され、その庇護下に入ることになったのである 2 。
天文17年(1548年)、晴宗との和睦が正式に成立すると、稙宗は家督を晴宗に譲ることを受諾した。その代償として、隠居後の生活を送るための城と所領が与えられることになった。こうして築かれたのが、丸森城である 8 。稙宗は、この城で永禄8年(1565年)に78歳でその波乱の生涯を閉じるまで、約17年間の晩年を過ごした 2 。
この時、稙宗に与えられた隠居領は、丸森を中心に金山、小斎、新地、駒ヶ嶺の五ヶ村であった 2 。注目すべきは、これらの土地がすべて、相馬氏の領地と国境を接する地域であったという点である。
この配置には、単なる隠居所の提供という以上の、晴宗による高度な政治的計算が働いていたと見るべきであろう。表向きは、乱の最中に父を支援し続けた相馬氏への配慮を示す形となる。しかし、その実質は、未だに隠然たる影響力を保持する父・稙宗を、自身の新たな本拠地である米沢から物理的に遠ざけると共に、いわば「監視役」とも言える相馬氏の目と鼻の先に置くことで、その政治的活動を封じ込めようとする意図があったのではないか。さらに言えば、この隠居領が将来的に伊達・相馬間の新たな火種となりうることを、晴宗は予見していた可能性すらある。丸森城という立地は、天文の乱後の伊達家における複雑な権力構造と、勝利者である晴宗の冷徹な政治判断が色濃く反映された結果だったのである。
永禄8年(1565年)、伊達稙宗が丸森城でその生涯を閉じると、伊具郡の情勢は新たな局面を迎える。稙宗の庇護者であった相馬家当主・相馬盛胤(相馬顕胤の子)は、この機を逃さなかった。盛胤は「稙宗公の遺言により、この地の相続を許された」と主張し、丸森・金山を含む稙宗の隠居領全域を、事実上、自らの領地として編入したのである 10 。
そして元亀元年(1570年)には、もはや伊達氏への遠慮を完全に捨て、丸森城を武力で攻略。ここに家臣の門間大和を城主として配置し、伊具郡南部における相馬氏の支配体制を盤石なものとした 4 。これにより、天文の乱後の曖昧な状態にあった国境線は、相馬氏優位の形で確定されることとなった。
父・晴宗から家督を継いだ伊達輝宗にとって、祖父の隠居領が宿敵・相馬氏に奪われたことは、伊達家の威信に関わる看過できない事態であった。輝宗は失地回復を決意し、天正4年(1576年)頃から、伊具郡への本格的な軍事侵攻を開始する 5 。
この伊具郡を巡る攻防において、伊達軍が前線基地として本陣を置いたのが、小斎の「矢ノ目館」であった 12 。対する相馬軍は、金山城を後方拠点とし、小斎城を最前線として伊達軍と対峙した 12 。この地域一帯は、両軍の小競り合いが絶えない激戦地と化したのである。
この伊具郡での戦いは、後の奥州の覇者、伊達政宗の歴史においても重要な意味を持つ。天正9年(1581年)、当時15歳であった政宗は、父・輝宗と共にこの対相馬戦線に出陣し、初陣を飾った 2 。史料『奥相茶話記』には、輝宗・政宗父子が矢ノ目に布陣し、相馬軍と対峙した様子が記録されており、この戦いが政宗にとって最初の実戦経験となった 27 。丸森城を巡る争いは、若き日の政宗が戦国の世の厳しさを肌で感じた原点の地でもあった。
数年間にわたる一進一退の攻防の末、両者の争いは膠着状態に陥った。この状況を打開するきっかけとなったのが、外交交渉であった。天正11年(1583年)の初め、伊達政宗の正室・愛姫の実父である三春城主・田村清顕らの仲介により、伊達・相馬間で和睦交渉が持たれた 7 。
田村清顕がこの困難な仲介役を果たし得た背景には、戦国大名特有の複雑な婚姻関係があった。田村氏は、娘・愛姫を政宗に嫁がせたことで伊達氏と姻戚関係にあっただけでなく、相馬盛胤の妹も田村清顕に嫁いでおり、相馬氏ともまた姻戚であった 22 。すなわち、田村氏は伊達・相馬双方に対して中立的かつ影響力を行使できる稀有な立場にあったのである。この事例は、戦国時代の紛争解決において、武力による決着だけでなく、婚姻ネットワークを基盤とした高度な外交がいかに重要な役割を果たしたかを示す典型例と言える。
この交渉の結果、和睦が成立。その条件として、同年5月には丸森城が、そして翌天正12年(1584年)には金山城が、相馬氏から伊達氏へと返還された 7 。こうして、伊達稙宗の死から約20年近くにわたった相馬氏による伊具郡南部の支配は、終わりを告げたのである。
天正11年(1583年)に伊達氏の手に戻った丸森城は、再び対相馬防衛の最前線拠点として重要視され、伊達家中の信頼篤い武将たちが城主として配置された。その変遷は、当時の伊達家の情勢と、この城に求められた役割の変化を反映している。
時代区分 |
城主名 |
在任期間(推定) |
所属 |
備考 |
相馬氏統治期 |
門間 大和 |
元亀元年(1570)~天正11年(1583) |
相馬氏家臣 |
相馬氏による実効支配期における城代 4 。 |
伊達氏統治期 |
黒木 宗俊 (宗元) |
天正12年(1584)~天正17年(1593) |
伊達氏家臣 |
元は伊達家臣だが、天文の乱後に相馬氏へ属し、後に伊達氏に帰参した経歴を持つ 4 。 |
伊達氏統治期 |
高野 親兼 |
天正17年(1593)~慶長3年(1598) |
伊達氏家臣 |
伊達家譜代の家臣。輝宗・政宗に従い数々の武功を挙げた猛将 32 。 |
伊達氏統治期 |
大條 実頼 |
慶長3年(1598)~慶長6年(1601) |
伊達氏家臣 |
高野親兼の死後、城主となる。丸森城最後の城主 1 。 |
慶長6年(1601年)、城主であった大條実頼は、山の上にある丸森城を離れ、阿武隈川沿いのより平坦な土地に新たに「鳥屋館」を築いて、そこを居城とした 1 。これに伴い、丸森城はその歴史的役割を終え、廃城となったのである 4 。
この移転と廃城の背景には、時代の大きな転換があった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、徳川家康による全国支配体制が確立し、大名間の私的な合戦が禁じられる「元和偃武」の時代が到来した。これにより、戦国時代は事実上終焉を迎えた。伊達氏と相馬氏の数十年にわたる国境紛争も終わりを告げ、丸森城のような、純粋な軍事防衛を目的とした山城はその存在意義を失ったのである。
これからの時代に領主の拠点として求められるのは、険しい山上の要塞ではなく、領地の経営や年貢の徴収、交通の管理といった行政機能を効率的に行うための、平易な場所にある政務拠点(役所)であった。大條実頼による鳥屋館への移転は、単なる一個人の居城の変更ではなく、「戦」の時代から「治」の時代へと社会全体が構造的に変化していく様を象徴する出来事であった。丸森城の廃城は、その歴史的使命が完全に完了したことを意味していた。
丸森城の歴史的特質をより鮮明にするため、伊達氏と相馬氏がそれぞれ本拠地とした拠点城郭と比較分析を行う。
伊達政宗が生まれ、天正19年(1591年)に岩出山へ移るまで伊達氏の本拠地であった米沢城(山形県米沢市)は、広大な平地に築かれた輪郭式の平城であった 35 。その縄張りは本丸、二の丸、三の丸が同心円状に広がり、城内には藩主の住居や藩の政庁、上級家臣の屋敷などが計画的に配置されていた 35 。石垣は少なく土塁を多用するという特徴はあったものの、その規模と機能は、まさに伊達氏の領国経営における政治・経済・文化の中心地そのものであった 35 。
一方、相馬氏が約260年間にわたり居城とした小高城(福島県南相馬市)は、丘陵を利用した平山城である 38 。伊達氏との抗争が激化すると、その最前線としてより北に位置する中村城の重要性が増し、最終的に慶長16年(1611年)には本拠地を中村城へと移転した 38 。小高城は長らく相馬氏の中心であったが、本拠地としてはやや小規模であり、その地理的・構造的な限界も移転の一因となったと考えられている 38 。
米沢城や小高城のような拠点城郭が、領国統治のための多様な機能を持つ、いわば「城郭都市」であったのに対し、丸森城の姿は全く異なる。その小規模な縄張り、居住性よりも防御に特化した構造(特に大規模な堀切)、そして特定の軍事的緊張期にのみその重要性が高まるという歴史的経緯は、丸森城が「軍事」に特化した「支城」であったことを明確に示している。
戦国大名は、本拠地となる大規模な拠点城郭を中核としながら、国境や街道沿いの要衝に、丸森城、金山城、小斎城といった専門的な機能を持つ多数の支城をネットワーク状に配置していた。これにより、広大な領国を効率的に防衛し、統治するシステムを構築していたのである。丸森城の存在は、単独で評価されるべきではなく、この戦国大名の巧みな城郭ネットワーク戦略を理解する上で、不可欠な構成要素(ピース)として捉えるべきである。
丸森城の歴史は、伊達稙宗という一人の武将の個人的な運命から始まった。しかし、その立地ゆえに、城は個人の手を離れ、伊達・相馬という二大戦国大名の数十年にわたる相克の象徴的な舞台となった。そして最後は、戦国時代そのものの終焉と共に、静かにその役目を終えた。築城から廃城までのわずか半世紀余りの歴史は、まさに南奥州における戦国時代のダイナミズムを凝縮した縮図であると言えよう。
往時の城は失われたが、その跡地は現在「丸山城址」として整備され、訪れる人々にその歴史を伝えている 2 。城の中心であった本丸跡には愛宕神社が鎮座し、その傍らには、この城で晩年を過ごした伊達稙宗の墓碑が建立されている 3 。
遺構としては、曲輪の削平地や、城の最大の特徴である大規模な堀切が良好な状態で残存しており、戦国時代の山城の峻厳な雰囲気を今に伝えている 15 。2019年の台風19号による被害で、登城路の一部に崩落箇所が生じたとの報告もあるが、見学は可能である 15 。
城跡へのアクセスは、阿武隈急行線の丸森駅から徒歩、あるいは駅で貸し出されているレンタサイクルを利用する方法がある 4 。また、車での訪問も可能で、二の丸跡手前に数台分の駐車スペースが確保されている 4 。
丸森城に関しては、丸森町教育委員会による文化財調査報告書が存在するものの、城郭の構造や変遷を明らかにするための大規模な発掘調査の記録は乏しい 16 。今後の考古学的な調査が進展すれば、これまで文献史料や地表観察だけでは知り得なかった、新たな城の姿が明らかになる可能性を秘めている。
また、丸森城を単体で研究するだけでなく、近隣に点在する金山城、小斎城、そして伊達政宗初陣の地である矢ノ目館跡などと一体の「伊達・相馬国境防衛システム」として捉え、広域的な視点からその連携や役割分担を研究していくことが、この地域の戦国史をより深く、立体的に理解する上で不可欠な鍵となるであろう。