小牧山城は、信長が革新的な石垣と城下町を築き、家康が堅固な土塁で改修した。二人の天下人の思想が刻まれ、日本城郭史の転換点を示す城である。
愛知県小牧市にその姿を残す小牧山城は、長らく日本の戦国史において、限定的な役割を担った城として認識されてきた。すなわち、織田信長が美濃攻略の足掛かりとして永禄6年(1563年)に築城し、わずか4年後の永禄10年(1567年)には岐阜城へと拠点を移したことから、「一時的な砦」あるいは「仮の宿」という評価が一般的であった 1 。この短期間の在城という事実が、小牧山城の歴史的価値を過小評価させる一因となっていたことは否めない。
しかし、20世紀末から継続的に行われてきた発掘調査は、この定説を根底から覆す驚くべき事実を次々と明らかにしている 4 。地中から現れたのは、土塁と堀を主とした中世城郭の姿ではなく、壮大な石垣が山を巡り、計画的な都市が麓に広がる、全く新しい城の姿であった。これにより、小牧山城は単なる軍事拠点に留まらず、信長の天下統一事業を支える革新的な思想と技術が初めて具現化された場所であり、後の安土城へと直結する「織豊系城郭の嚆矢」であった可能性が極めて濃厚となったのである 7 。
本報告書は、最新の発掘調査成果と関連する文献史料を統合的に分析し、小牧山城が持つ二つの顔、すなわち織田信長による「革新の城」としての側面と、後の小牧・長久手の戦いにおいて徳川家康が施した「堅守の城」としての側面を徹底的に解明する。これにより、日本城郭史、ひいては戦国時代の社会変革における小牧山城の真の価値を再定義することを目的とする。
小牧山城の築城は、織田信長の戦略構想における明確な転換点を示すものであった。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元を討ち果たし、続く三河の松平元康(後の徳川家康)との清洲同盟によって東方の安全を確保した信長は、その視線を北、すなわち宿敵・斎藤氏が治める美濃国へと本格的に向けた 9 。
この戦略的目標を達成するため、信長は永禄6年(1563年)、尾張国の中心地であった清須城から、美濃国境にほど近い小牧山へと本拠を移すという一大決断を下す 1 。これは『信長公記』にも記されている通り、繁栄した「富貴の地」である清須を捨てる覚悟を伴うものであり、長年膠着していた対美濃戦略を根本から打開しようとする強い意志の表れであった 12 。
この遷府が画期的であったのは、単に前線基地を設けたという地理的な意味合いに留まらない。それは、攻略ルートそのものを転換させる戦略的な一手であった。従来、美濃攻略は尾張の西側から大垣方面へと侵攻する「西美濃ルート」が主であったが、小牧山を拠点とすることで、犬山方面から木曽川を渡り、斎藤氏の本拠・稲葉山城の背後を突く「東美濃ルート」を新たに確立したのである 12 。
この戦略転換は、美濃の国人衆に深刻な動揺をもたらした。これまで後方支援地域であった東美濃が、突如として織田軍と対峙する最前線へと変貌させられたからである。この急激な状況変化は、東美濃の勢力図を塗り替え、織田方への寝返りや内部対立を誘発する格好の材料となった。事実、信長の伝記である『信長公記』には、小牧山城からほど近い小口城の勢力が、建設途中の小牧山城の威容を目の当たりにし、「拘え難し(持ちこたえられない)」と判断して戦わずして城を明け渡し、退却したという逸話が記されている 12 。これは、信長が物理的な戦闘を介さず、城を「築く」という行為そのものを一つの軍事行動として活用し、敵の戦意を削ぐという高度な心理戦を展開していたことを示している。小牧山城の築城は、単なる戦争準備ではなく、それ自体が敵対勢力を切り崩すための戦略的・心理的な兵器として機能したのである。
近年の発掘調査がもたらした最大の衝撃は、小牧山城が日本城郭史の通説を覆す「石の城」であったという発見である。従来、天正4年(1576年)築城の安土城が、天守と高石垣を備えた本格的な近世城郭の始まりとされてきた 7 。しかし、小牧山城の発掘調査は、それを13年も遡るこの地で、既に大規模な石垣が導入されていたことを明らかにしたのである 4 。文献記録には一切残されていなかったこの事実は、小牧山城の評価を一変させた。
発掘調査によって確認された主郭部は、山頂を囲むように築かれた三重の石垣によって堅固に守られていた 6 。その工法は、自然石を加工せずに積み上げる「野面積み」を基本としながらも、部分的には横のラインを意識した「布積み」の技法も用いられている 7 。推定される石垣の高さは2メートルから3.8メートルに及び、特に北西の櫓台と推定される部分では3.8メートルに達していた 7 。これは、当時の野面積みの技術的限界とされた3メートルを大幅に超えるものであり、信長が当代随一の築城技術を駆使していたことを物語る。
さらに驚くべきは、その先進的な技術である。石垣の背後には、構造を安定させ、排水を促すための「裏込め石」と呼ばれる栗石が大量に詰められていた 14 。また、石垣前面の雨水を集めて地中に浸透させる「石枡状遺構」と呼ばれる排水設備も確認されており、石垣の崩落を防ぐための工夫が随所に凝らされていた 14 。信長はまた、山の自然地形を利用するに留まらず、山頂部を大規模に削平し、最大で2メートルにも及ぶ盛土を行うことで、城郭として最も機能的な形状へと地形そのものを大胆に改変していた 7 。
使用された石材のほとんどは、小牧山で産出するチャートと呼ばれる硬い岩石であったが、一部には岩崎山産とみられる花崗岩も含まれていた 7 。そして、信長時代の石垣であることを決定づける物証として、「佐久間」と墨書された石材が発見されている 4 。これは、信長の重臣である佐久間氏が普請に関わったことを示す動かぬ証拠であり、この城が信長の直轄事業として国家的な規模で建設されたことを示唆している。
これらの事実は、小牧山城が信長にとっての「城郭技術の実験場」であったことを強く示唆する。隅角部の処理に後年の「算木積み」のような洗練さは見られないものの 7 、石垣の高さ、排水システム、大規模造成といった革新的な技術要素は、ここで試行錯誤され、その有効性が実証されたと考えられる。安土城の縄張りと小牧山城のそれに多くの共通点が見られることからも 7 、信長は小牧山での4年間で得た技術的知見と設計思想を基盤とし、それをさらに発展・完成させた形で安土城を築いたと推察される。小牧山城なくして、後の安土城の壮麗な姿はあり得なかったと言っても過言ではないだろう。
小牧山城の構造において、信長の革新性を最も象徴するのが、山麓から主郭部へと向かう「大手道」の設計である。通常、城道は敵の侵攻を遅らせるために複雑に折れ曲がるのが常識であるが、小牧山城の大手道は、防御上の不利を意に介さず、幅広く、そして直線的に山頂へと伸びていた 8 。この特異な構造は、後に信長が築く安土城と共通する特徴であり、信長独自の城郭思想の明確な表れである 19 。
この直線的な大手道と、麓から見上げた際に幾重にも連なって威圧感を与える壮大な石垣は、城を単なる防御施設としてではなく、自らの絶対的な権威と圧倒的な力を誇示し、見る者を畏怖させるための「見せる」装置として機能させるという、明確な意図があったことを物語っている 8 。それは、敵対する者に戦う前から心理的な敗北を認めさせるための、視覚的な兵器であった。前述した小口城の勢力が戦わずして退却した逸話は、この「見せる城」という概念が、机上の空論ではなく、現実の戦場において絶大な効果を発揮したことを証明している 12 。
また、主郭部からは天目茶碗などの高級な陶磁器が出土しており、礎石の配置状況から茶室のような儀礼的な施設の存在も推定されている 14 。これは、小牧山城が単なる軍事司令部ではなく、信長が政治的・文化的な権威を示すための舞台でもあったことを示唆している。信長は、武力だけでなく、先進的な技術力と文化の力をも見せつけることで、新たな時代の支配者としての地位を確立しようとしていたのである。
信長の革新性は、城郭本体の構築に留まらなかった。小牧山の南麓には、南北約1.3キロメートル、東西約1キロメートルに及ぶ、当時としては類を見ない広大な城下町が、極めて計画的に建設されていたのである 9 。
この城下町は、機能に基づいた明確なゾーニングが施されていた。西側には、東西・南北に整然と区画された街路に沿って、間口が狭く奥行きの深い短冊形の敷地が密集する商工業者の居住区が配置された。発掘調査や地名から、ここには紺屋町、鍛冶屋町、油屋町といった職能ごとの町が形成されていたと推定される 9 。一方、東側には比較的大きな区画が設けられ、有力家臣団の武家屋敷や寺社が配置されていた 9 。
このような、武士と町人の居住区を明確に分離し、商業地区を計画的に配置する都市計画は、それまでの中世的な都市とは一線を画すものであった。これは、後の安土城下町や豊臣秀吉の大坂、そして江戸時代の城下町へと繋がる、日本における計画的城下町の初源的形態であり、信長が全国に先駆けて実現した画期的な都市政策であったと評価されている 9 。
この城下町の建設は、単なる都市計画以上の意味を持っていた。それは、信長の国家構想を支える社会システムの実験場でもあった。武士を城下に集住させることは、彼らを土地から切り離し、領主への依存度を高め、職業軍人化を促進する「兵農分離」の思想の萌芽と見ることができる 20 。また、商工業者を城下に集め、自由な経済活動の場を提供することは、座などの特権的な組合を廃止して経済を活性化させる「楽市楽座」政策の精神と軌を一にする 21 。信長は小牧山において、強力な軍事力(城)と、それを支える経済力(城下町)、そしてそれらを効率的に運用する社会システムを一体化した、全く新しい統治モデルを創造しようとしていたのである。
永禄10年(1567年)、信長が美濃を平定し、本拠を岐阜城へと移すと、小牧山城はその歴史的役割を一旦終え、廃城となった 1 。その後は、地元の庄屋であった江崎氏が「小牧山守」として管理にあたっていたと伝えられる 24 。山上の建物群は失われた可能性が高いものの、信長が築いた堅固な曲輪や石垣といった基本構造は、17年の歳月を経てなお健在であった 26 。
そして天正12年(1584年)、この城は再び日本の歴史の表舞台に劇的な形で再登場する。本能寺の変で信長が斃れた後、その後継者の地位を巡って、羽柴秀吉と、信長の次男・織田信雄および徳川家康の連合軍が対峙した「小牧・長久手の戦い」である 27 。秀吉軍が尾張北部の犬山城を拠点としたのに対し、家康はいち早く小牧山の戦略的価値を見抜き、これを占拠して全軍の本陣とした 11 。かつて信長が天下統一への飛躍を遂げたこの地は、奇しくもその遺産を巡る二人の後継者による、天下分け目の攻防の舞台となったのである。
家康が小牧山城に求めた機能は、信長が意図した「見せる」こととは全く異なっていた。10万とも言われる秀吉の大軍を迎え撃つために必要とされたのは、華美な権威の象徴ではなく、ただひたすらに堅牢な防御機能であった。かくして、信長の「魅せる城」は、家康の手によって徹底した実戦本位の「守る城」へと、大規模な改修が加えられることになった 29 。
改修の指揮を執ったのは、徳川四天王の一人、榊原康政であったと伝えられる 29 。その改修内容は、信長の思想とは対極的とも言えるものであった。
第一に、山麓を囲むように、広大かつ長大な土塁と空堀が二重に構築された 26。特に南麓に復元されている土塁は、高さが最大で8メートルにも達する日本最大級のものであり、当時の緊迫した状況を今に伝えている 31。
第二に、城の出入口である虎口は、敵兵の突入を困難にするため、複雑な構造を持つ「枡形虎口」に改められた 33。これは、敵を四角い空間に誘い込み、三方から攻撃を加えるための防御施設であり、信長が築いた直線的な動線とは全く異なる、防御を最優先した設計思想の産物である。
驚くべきことに、これらの大規模な土木工事は、わずか5日間という驚異的な速さで完了したとされている 29。これは、徳川軍が高度な土木技術と統率力を有していたことの証左である。実際に、土塁の断面を調査すると、堀を掘削した土をそのまま内側に盛り上げて構築しているため地層が上下逆転しており、短期間のうちに突貫工事で築かれたことが考古学的にも裏付けられている 33。
この家康による改修は、単なる防御施設の追加に留まるものではなかった。それは、信長の城郭思想に対する意図的な「上書き」であったと解釈できる。信長の城の象徴であった直線的な大手道は、家康の改修によって屈曲させられ、その威容を誇った山麓は巨大な土塁によって覆い隠された 29 。これは、信長の「見せる」という権威主義的な思想を、家康の「守る」という現実主義的な思想で機能的にも思想的にも無効化する行為であった。家康は、信長が残した遺構を巧みに再利用しつつも、その核心的な思想は自らのものに置き換えることで、新たな時代の到来を暗示したのである。この姿勢は、後に豊臣氏が築いた大坂城の石垣を全て地中に埋め、その上に全く新しい徳川の城を築いた家康の徹底した思想にも通じるものがある 8 。
現在の小牧山を訪れると、我々は極めて興味深い歴史の痕跡を目の当たりにすることができる。すなわち、山頂部には信長が築いた永禄期の「石垣」遺構が残り、一方で山麓部には家康が改修した天正期の「土塁」遺構が明瞭に残存しているのである 34 。一つの城跡に、これほど明確な形で二つの異なる時代の、そして二人の異なる天下人の思想が刻まれ、共存している例は他に類を見ない。
この「石」と「土」の鮮やかな対比は、信長と家康の城郭観、ひいては彼らの統治思想や性格の違いを象徴しているかのようである。
信長の「石」は、革新性、永続性、そして絶対的な権威の誇示を象徴する。それは、旧来の価値観を打ち破り、新たな時代を創造しようとする強い意志の表れであり、未来を見据えた先行投資でもあった。
対照的に、家康の「土」は、現実主義、機能性、そして即応性を象徴する。それは、目前の危機に際して、利用可能な資源を最大限に活用し、最も合理的かつ効果的な手段を選択するという、実務的な判断の産物である。
小牧山城は、戦国時代末期から近世へと移行する城郭思想の転換点を、その身をもって体現する生きた博物館なのである。
比較項目 |
織田信長時代(永禄期) |
徳川家康時代(天正期) |
目的 |
美濃攻略の拠点、天下布武の起点 |
対羽柴秀吉軍の本陣、鉄壁の防御拠点 |
主要防御要素 |
石垣 (三段構成、野面積み)、切岸 |
土塁 (二重、最大高8m)、空堀 |
大手道の構造 |
直線的 (権威の誇示) |
屈曲 (防御機能の重視) |
虎口の形態 |
直線的な動線を持つ虎口 |
枡形虎口 (複雑な動線で敵を阻む) |
城郭思想 |
「見せる城」 (革新性、権威、心理的抑止力) |
「守る城」 (現実主義、機能性、即応性) |
一連の発掘調査の成果は、小牧山城の歴史的評価を根本的に見直すことを我々に迫る。すなわち、小牧山城は、天正4年(1576年)に築かれた安土城に先駆けて、高石垣、計画的な城下町、そして権威の象徴としての城郭という、「織豊系城郭」の主要な要素をほぼ全て備えていたことが明らかになったのである 7 。
特に、防御の概念を超えて権威を「見せる」ための直線的な大手道という設計思想は、安土城と完全に共通しており、信長が小牧山城で培ったノウハウや設計思想を、安土城築城の際に「焼きなおして使用した」可能性は極めて高い 7 。このことから、小牧山城はもはや単なる前身の城ではなく、安土城の、ひいては日本の近世城郭全体の直接的なプロトタイプとして位置づけるべきである。
これは、日本城郭史を書き換えるほどの重要な意義を持つ。これまで安土城から始まったとされてきた日本の城郭革命が、実際にはその13年も前から、この小牧の地で静かに始まっていたことを意味するからである。小牧山城こそ、中世から近世へと移行する日本の城の歴史における、失われた環(ミッシングリンク)を埋める存在なのである。
小牧山城が持つもう一つの特異な価値は、織田信長の革新的な「創造」と、徳川家康の現実的な「再利用と改変」という、二人の天下人の全く異なるアプローチが、一つの史跡の上に重層的に刻まれている点にある。
信長の城づくりは、既存の概念を破壊し、無から有を生み出す「0から1を生み出す」イノベーターとしての側面を色濃く反映している。一方で家康の城づくりは、既存の資源や状況を的確に分析し、それを自らの目的に合わせて最大限に活用し、最適化する卓越したマネージャーとしての側面を示している。小牧山城の遺構は、二人のリーダーシップのスタイルの違いを、雄弁に物語っている。
そして、この城が舞台となった小牧・長久手の戦いは、軍事的には大きな決着がつかなかったものの、政治的には家康の存在感を天下に示し、秀吉に次ぐ実力者であることを天下に認めさせた「もう一つの天下分け目」であったとも言われる 8 。その意味で、小牧山城は日本の歴史が大きく動いた転換点に、常に中心として存在し続けた場所なのである。
小牧山城の遺構が今日まで良好な状態で残されている背景には、歴史的な経緯がある。江戸時代を通じて、この地は徳川家康が勝利を収めた縁起の良い場所、「御勝利御開運之御陣跡」として尾張徳川家によって神聖視され、手厚く保護された。一般人の立ち入りが厳しく禁じられたことで、城の遺構は人為的な破壊を免れ、奇跡的にその姿を保つことができたのである 1 。
昭和2年(1927年)に国の史跡に指定されて以降、特に平成期に入ってからは、その歴史的価値を解明し、後世に伝えるための積極的な発掘調査と史跡整備が進められてきた 18 。その集大成とも言えるのが、令和6年(2024年)4月に完了した主郭部の史跡整備事業である。この事業により、信長時代の壮大な三段石垣などが復元・公開され、来訪者は往時の姿をより具体的に体感できるようになった 18 。特筆すべきは、復元にあたって、発掘された信長時代の石材を可能な限り元の位置で再利用し、やむを得ず新たに追加した石材には黄色い印をつけるなどの工夫が凝らされている点である 14 。これにより、来訪者は460年の時を超えて、歴史の痕跡に直接触れることができる。
史跡整備と並行して、小牧山城の歴史的価値を広く伝えるための拠点施設も充実している。山麓には、平成31年(2019年)に開館した「れきしるこまき(小牧山城史跡情報館)」があり、映像や模型を多用して、発掘調査の最新成果を分かりやすく紹介している 18 。また、山頂には模擬天守を利用した「小牧山歴史館」が立ち、小牧・長久手の戦いなどをテーマにした展示を行っている 18 。これらの施設は、小牧山城が持つ多角的な歴史的価値を、訪れる人々に深く理解させるための重要な役割を担っている。
結論として、小牧山城はもはや単なる過去の遺物ではない。それは、発掘調査という現代の科学技術によってその真の姿を現し、織田信長と徳川家康という二人の巨人の思想、そして日本の歴史の大きな転換点を今に伝える、生きた歴史の証人である。その研究と保存、そして継承は、我々が自らの歴史の画期を理解し、それを未来へと繋いでいく上で、極めて重要な意義を持ち続けていると言えよう。