小田原城は、後北条氏が百年をかけ築き上げた難攻不落の巨城。秀吉の前に戦わずして開城した悲劇は、時代の変化と戦略の限界を映す、戦国史の象徴なり。
相模国西部に聳える巨城、小田原城。後北条氏の本城として関東に君臨し、城下町を丸ごと取り込んだ総構によって日本最大級の規模を誇った城郭都市。その名は、上杉謙信、武田信玄という当代きっての猛将の猛攻を退けた「難攻不落」の代名詞として、戦国史に深く刻まれている。しかし、その栄光は天正18年(1590年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉の圧倒的な軍勢の前に、一度も本格的な力攻めを受けることなく開城するという形で終焉を迎えた 1 。
この一見矛盾した結末は、小田原城を巡る歴史の核心的な問いを我々に投げかける。「難攻不落」と謳われたその強さの源泉は、具体的にどのような構造と戦略に裏打ちされていたのか。そして、なぜその鉄壁の守りを誇った城が、戦わずして膝を屈したのか。本報告書は、この逆説的な問いを解き明かすことを通じて、小田原城が単なる巨大な建造物ではなく、後北条氏約百年にわたる興亡の軌跡、その統治思想と軍事戦略、そして時代の変化に対応しきれなかった栄光と悲劇そのものを体現する、類稀なる歴史的遺産であることを論証するものである。
小田原城の歴史は、15世紀中頃にまで遡る。当時、西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の神奈川県立小田原高等学校が位置する八幡山の高台に山城を築いたのがその始まりとされる 1 。この段階では、城の具体的な規模や構造は明らかではないが、関東に数多存在する城郭の一つであり、まだ後のような巨大城郭としての姿は有していなかった 2 。
この地方の城に過ぎなかった小田原城が歴史の表舞台に躍り出るのは、明応4年(1495年)のことである。伊豆国を平定し、戦国大名としての地歩を固めていた伊勢盛時、後の北条早雲が、大森藤頼の治める小田原城を奪取したのである 3 。
この奪取劇については、牛の角に松明を括り付けて大軍に見せかけたという、いわゆる「火牛の計」を用いたとする逸話が広く知られている 4 。しかし、この劇的な逸話は後世の軍記物による創作である可能性が高く、より史実性の高い記録からは、早雲の周到な策略が見て取れる。
その策略とは、まず長年にわたり大森藤頼に贈り物を重ねて友好関係を築き、相手を完全に油断させることから始まった 6 。そして機が熟したと見るや、早雲は藤頼に一通の書状を送る。「伊豆で鹿狩りをしていたところ、鹿の群れが貴殿の領地である箱根の山中に逃げ込んでしまった。ついては、鹿を伊豆へ追い返すため、勢子(獲物を追い出す役)を城の裏山に入れる許可を願いたい」という内容であった 6 。藤頼はこれを謀略と見抜けず、二つ返事で承諾してしまう。これを好機とした早雲は、勢子に扮した精兵を小田原城の背後に忍び込ませ、奇襲を敢行。不意を突かれた藤頼はなすすべもなく城を追われ、小田原城は早雲の手に落ちたのである 6 。
この小田原城奪取の経緯は、単なる軍事行動の成功例に留まらない。それは、後北条氏が約百年にわたり関東を支配する上で貫いた、現実主義的かつ合理的な統治思想の萌芽を象徴する出来事であった。圧倒的な軍事力による正面からの激突を極力避け、周到な情報収集、外交的駆け引き、そして敵の油断や弱点を的確に突く謀略を駆使する。この力だけに頼らない戦略性は、初代早雲から続く北条家の家風の礎となり、後の領国経営や、上杉・武田という強敵に対する防衛戦略にも通底していくことになるのである。
早雲による奪取は、小田原城が関東の覇権を巡る争いの中心地となる序章に過ぎなかった。以後、後北条氏五代、約百年にわたる治世の中で、小田原城は度重なる拡張と改修を経て、戦国期最大級の城郭へと変貌を遂げていく。その発展の軌跡は、後北条氏の勢力拡大と、彼らが直面した軍事的脅威の変遷と密接に連動していた。
初代早雲は小田原城を手中に収めたものの、彼自身は生涯を通じて伊豆の韮山城を本拠とし続けた 7 。この時期の小田原城は、あくまで相模国経営のための前線拠点という位置づけであった。
小田原城が名実ともに関東支配の中心となったのは、二代・氏綱の代からである 3 。早雲の死後、氏綱は本拠を韮山から小田原へ正式に移転。同時に、それまでの「伊勢」姓を、鎌倉幕府の執権として権威のあった「北条」へと改姓し、家臣への命令書には虎の印判を用いた「虎朱印状」を導入するなど、関東における独立した戦国大名としての体制を確立した 3 。これに伴い、小田原城も本城にふさわしい規模へと本格的な拡張工事が開始されたのである 2 。
三代・氏康の時代、後北条氏はその最盛期を迎える。氏康は大規模な検地を領内に実施し、その結果を基に家臣一人ひとりの所領高と、それに応じて課される軍役を詳細に記した画期的な台帳『小田原衆所領役帳』を永禄2年(1559年)に完成させた 9 。これにより、感覚的ではなく、客観的なデータに基づいた合理的で安定的な領国支配体制を築き上げ、それが小田原城と城下町のさらなる発展を支える強固な基盤となった。
軍事面では、越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄という、戦国時代を代表する二人の強敵との対立が激化。この未曾有の脅威に対抗するため、氏康は小田原城の防御能力を飛躍的に向上させる大改修に着手した 11 。この時代に、後の総構の原型となる三の丸外郭などが整備され、難攻不落の城としての名声を確立していく 12 。
四代・氏政、五代・氏直の時代には、武田氏の滅亡や本能寺の変といった中央の政変を好機と捉え、上野国(群馬県)や下野国(栃木県)方面へと進出。後北条氏の支配領域は、石高にして250万石ともいわれる最大版図に達した 3 。
しかし、その一方で、織田信長の後を継いで天下統一事業を推し進める豊臣秀吉との対立は、もはや避けられない情勢となっていた。来るべき最終決戦に備え、氏政・氏直は小田原城の防御力を極限まで高める空前の大普請に着手する。それが、城下町全体を防御線に取り込む、総延長9kmにも及ぶ壮大な「総構」の構築であった 1 。この総構の完成により、小田原城はその規模を最大化させ、戦国時代における城郭建築の一つの到達点に至ったのである 2 。
小田原城の百年間にわたる拡張の歴史は、単なる規模の拡大として捉えるべきではない。それは、外部からの軍事的脅威の質と規模の変化に的確に対応し、防御思想を段階的に進化させていった「適応進化の歴史」そのものであった。氏綱による「拠点化」、氏康による「防御力強化」、そして氏政・氏直による「城塞都市化」という流れは、関東の地域紛争から天下統一規模の大戦争へと、戦いのスケールが劇的に拡大していく戦国時代後期の時代性を、城郭の構造変化という形で色濃く反映しているのである。
後北条氏が百年をかけて築き上げた小田原城は、単に巨大であるだけでなく、当時の最先端の築城技術と、後北条氏独自の防衛思想が凝縮された、まさに戦国期城郭の到達点と呼ぶにふさわしい存在であった。その強靭さの秘密は、城下町を丸ごと要塞化した「総構」、地域の特性を最大限に活かした「北条流築城術」、そして広域に展開された「支城ネットワーク」という三つの要素に分解することができる。
小田原城の最大の特徴は、何といってもその壮大な「総構」にある 11 。これは、本丸や二の丸といった城の中枢部だけでなく、家臣団の屋敷、商人や職人が住む町人地、さらには籠城中の食料生産を可能にするための田畑までをも含んだ城下町全体を、長大な土塁と空堀で完全に囲い込むという、他に類を見ない防衛施設であった 15 。
その規模は驚異的で、総延長は約9kmに及び、後に豊臣秀吉が築いた大坂城の総構をも上回る、当時日本最大級のものであった 1 。この総構は、箱根から続く丘陵や早川などの河川、そして相模湾の海岸線といった自然地形を巧みに取り込んで設計されており、防御効果を最大限に高める工夫がなされていた 20 。特に丘陵部では、尾根筋を断ち切るように設けられた「小峯御鐘ノ台大堀切」に代表される巨大な堀切が敵の進軍を阻み、低地部では湿地帯や渋取川などを天然の堀として活用していた 21 。堀の規模も桁外れで、場所によっては幅20mから30m、深さは土塁の上から10mから15m、斜面の角度は50度から60度にも達する急勾配であり、物理的に侵入をほぼ不可能にしていた 17 。
この総構の背後には、単なる防衛思想に留まらない、後北条氏独自の統治思想が存在した。それは、武士だけでなく領民全体で城を守り、国を護るという「領国一体」の思想である 23 。総構の内側に生活空間と生産拠点を確保することで、たとえ大軍に包囲されても自給自足による長期籠城を可能とし、敵の疲弊を待つという戦略を成り立たせたのである 15 。
総構というマクロな視点に加え、ミクロな視点で見ても、小田原城には後北条氏が培った独自の築城技術の粋が集められていた。
第一に、地域の地質的特性を最大限に活用している点が挙げられる。小田原周辺の地表を覆う関東ローム層は、粘土質で非常に滑りやすい赤土である 24 。この土層に掘られた急角度の空堀は、雨が降ればさらに滑りを増し、一度足を踏み入れた敵兵が這い上がることを極めて困難にした 17 。これは、自然の特性を人工の防御施設に取り込んだ、優れた設計思想の表れである。
第二に、「障子堀」や「畝堀」といった特徴的な堀の構造が挙げられる。これは、堀の底に意図的に畝状の土塁(堀障子)を幾筋も掘り残すことで、堀底に侵入した敵兵の自由な移動を妨害し、動きを著しく制限する仕掛けである 21 。この構造は、後北条氏の支城である山中城跡で特に見事に復元されており、後北条氏の築城術を象徴する技術として知られている 26 。発掘調査によって、小田原城の総構にもこの障子堀が存在したことが確認されている 21 。
第三に、巧妙な攻撃設備が随所に施されていた。堀の形状を直線ではなく屈曲させることで、側面から矢や鉄砲を射かける「横矢掛かり」を可能にし、死角をなくしていた 23 。また、馬出門に代表される城の出入り口(虎口)は、侵入した敵を四角い空間に閉じ込めて三方向から集中攻撃を加えることができる「枡形」構造となっており、たとえ第一の門を突破されても、その先の第二、第三の防御線で敵の勢いを削ぎ、殲滅することを可能にしていた 29 。
小田原城の難攻不落性は、城単体の防御力のみによって支えられていたわけではない。その背後には、関東一円に張り巡らされた、緻密な支城ネットワークの存在があった。
後北条氏は、本城である小田原城を中心に、武蔵国の八王子城(城主:北条氏照)や鉢形城(城主:北条氏邦)、伊豆国の韮山城(城主:北条氏規)、そして箱根の要衝である山中城など、各方面の戦略的拠点に一族や譜代の重臣を配し、堅固な支城を築いていた 19 。これらの支城は、単なる出城や監視拠点ではなく、それぞれが独立した防衛能力を持つ強力な要塞であった。その役割は、各方面から侵攻してくる敵軍をまず支城で食い止め、その足止めをしている間に本城である小田原城が迎撃準備を整える、という多層的な防衛戦略にあった 30 。各支城は相互に連携し、救援しあう体制も整えられており、関東全体が一つの巨大な防衛システムとして機能していたのである 19 。
これらの要素を統合すると、小田原城とその支城網は、後北条氏が掲げた「徹底した専守防衛」という軍事思想が物理的に結晶化したものと理解できる。特に総構の思想は、「敵を領国に入れない、本城に近づけない」という従来の防衛思想からさらに一歩踏み込み、「たとえ本城が数十万の大軍に包囲されたとしても、城塞都市内部で独立して経済活動を維持し、敵の兵站が尽きるのを待つ」という、静的防御の思想を極致まで推し進めたものであった。これは、機動的な野戦を主体とした織田信長や武田信玄といった他の多くの戦国大名とは一線を画す、後北条氏ならではのユニークかつ合理的な戦略思想の表れであったと言えよう。
その難攻不落の名声が揺るぎないものとなったのは、戦国最強と謳われた二人の武将、上杉謙信と武田信玄による大規模な侵攻を、二度にわたって退けたことによる。この輝かしい成功体験は、後北条氏に絶対的な自信をもたらしたが、同時に、後の破滅を招く致命的な「勝利の方程式」を深く刻み込むことにもなった。
永禄3年(1560年)から翌年にかけて、関東管領の地位を継承した「越後の龍」上杉謙信(当時は長尾景虎)は、関東の反北条勢力を糾合し、10万とも11万ともいわれる未曾有の大軍を率いて小田原城に迫った 32 。
この圧倒的な兵力差を前に、三代当主・北条氏康は、全ての兵力を小田原城とその支城に集中させ、徹底した籠城策を選択した 34 。謙信率いる大連合軍は、約1ヶ月にわたり小田原城を包囲し攻撃を仕掛けたが、堅固な城の守りを前に決定的な打撃を与えることはできなかった 33 。長期化する包囲戦の中で、寄せ集めであった連合軍の結束は次第に乱れ、兵站の維持も困難になっていった 33 。さらに、同盟関係にあった武田信玄が北信濃で軍事行動を起こし、謙信の背後を脅かす動きを見せたことも、撤退の大きな要因となった 33 。かくして謙信は、小田原城を落とすことなく、越後への帰還を余儀なくされたのである。
謙信の撃退から8年後、今度は「甲斐の虎」武田信玄が小田原城に牙を剥いた。長年続いた甲相駿三国同盟が、信玄の駿河侵攻によって破綻したことが直接の原因であった 35 。
永禄12年(1569年)9月、信玄は2万の兵を率いて碓氷峠を越え、北条氏邦が守る鉢形城や氏照が守る滝山城といった支城を攻撃したが、いずれも堅固な守りの前に攻略を断念 37 。進軍を続け、10月1日には小田原城下に到達した。信玄は城下の町に火を放つなどして氏康を挑発し、野戦に引きずり出そうと試みたが、氏康はこれを完全に無視し、籠城に徹した 19 。小田原城の堅さを再認識した信玄は、わずか4日間の包囲で兵をまとめ、早々に甲斐へと撤退した 36 。この一連の軍事行動は、小田原城の攻略そのものが主目的ではなく、北条軍の主力を駿河から引き離すための大規模な陽動作戦であったとする見方が有力である 39 。
謙信、信玄という当代きっての名将を、二度までも小田原城から退けたという輝かしい成功体験は、後北条氏首脳部に「小田原城に籠城し、耐え忍びさえすれば、いかなる大軍もいずれは兵站が尽き、撤退していく」という絶対的な自信と、一種の「勝利の方程式」を深く植え付けた 34 。
しかし、彼らはこの勝利の本質を見誤っていた。謙信の撤退は、城の堅固さもさることながら、寄せ集めの大連合軍の結束の脆さと兵站の限界、そして武田の牽制という外的要因が大きく作用した結果であった。また、信玄の撤退は、元々の作戦目的が陽動であり、長期包囲を意図していなかったためである。つまり、いずれの勝利も、敵側の限定的な目的と戦略的制約の上に成り立っていたのである。
この本質を省みることなく、「籠城すれば勝てる」という単純化された成功体験に固執したことが、後に全く性質の異なる豊臣秀吉の「天下統一戦争」に直面した際、戦略の柔軟性を著しく欠き、破滅を招く最大の要因となった。過去の勝利が、未来の敗北の種を蒔いたのである。この構造的な違いは、以下の比較表によってより明確に理解することができる。
項目 |
上杉謙信の来攻 (1561年) |
武田信玄の来攻 (1569年) |
豊臣秀吉の来攻 (1590年) |
兵力 |
約10万~11万 33 |
約2万 37 |
約22万 41 |
包囲期間 |
約1ヶ月 33 |
約4日間 36 |
約3ヶ月 29 |
攻撃側の目的 |
関東管領としての権威回復、反北条勢力の結集 33 |
駿河方面からの北条軍の牽制(陽動作戦) 39 |
北条氏の完全征服と天下統一の完成 42 |
攻撃側の戦略 |
短期決戦による城の攻略 |
挑発による野戦への誘導、短期での撤退 19 |
長期包囲、兵站の確立、支城の各個撃破、心理戦 40 |
兵站 |
不安定(連合軍のため統制が困難) 33 |
短期決戦のため問題とならず |
20万石の兵糧米を準備するなど、周到かつ万全 40 |
結果 |
北条方の籠城成功、謙信軍の撤退 33 |
北条方の籠城成功、信玄軍の計画的撤退 36 |
北条方の開城・降伏、後北条氏滅亡 8 |
二度の国難を乗り越え、難攻不落の城として関東に君臨した小田原城であったが、その栄光は、戦国という時代の大きなうねりの前にはかなくも消え去る運命にあった。織田信長の後を継ぎ、破竹の勢いで天下統一事業を推し進める豊臣秀吉との対決は、もはや避けられない宿命となっていた。
天下人となった秀吉は、全国の大名に上洛と臣従を命じる「惣無事令」を発布し、北条氏にもその遵守を求めた 44 。当初、北条氏と姻戚関係にあった徳川家康の仲介もあり、四代当主・氏政の弟である氏規が上洛するなど、融和的な雰囲気がなかったわけではない 44 。しかし、関東の独立王国としての自負が強い氏政は、秀吉への完全な臣従を意味する自身の上洛を先延ばしにし続けた 42 。
この膠着状態を決定的に破壊したのが、天正17年(1589年)10月に発生した「名胡桃城事件」である 47 。秀吉は、北条氏と真田氏が長年争ってきた上野国の沼田領問題に対し、沼田城を含む領地の3分の2を北条へ、名胡桃城を含む3分の1を真田へ与えるという裁定を下していた 48 。しかし、沼田城代であった北条方の将・猪俣邦憲がこの裁定を無視し、独断で真田方の名胡桃城を武力で奪取してしまう 47 。この行為は、大名間の私的な戦闘を禁じた「惣無事令」への明確な違反であり、秀吉に北条討伐の絶好の口実を与える結果となった 41 。
秀吉による討伐軍の編成という報を受け、小田原城では後北条氏一門と重臣が一堂に会し、軍議が開かれた。この会議こそが、後に「長引くだけで結論の出ない議論」の代名詞となる「小田原評定」である 49 。
しかし、この言葉が持つ否定的なイメージとは裏腹に、本来の「評定」は、当主の独裁ではなく、重臣たちとの合議によって重要事項を決定するという、後北条氏が築き上げた先進的な統治システムであった 9 。問題はシステムそのものではなく、直面した脅威が、過去の経験則では判断できない未知のものであった点にある。
評定では、徹底抗戦を主張する主戦派と、秀吉との和睦を模索する穏健派との間で意見が真っ向から対立した。主戦派の中心は、隠居の身ながら実権を握っていた氏政と、弟の氏照・氏邦らであった 53 。彼らは、かつて上杉謙信・武田信玄を退けた小田原城の防御力と、完成したばかりの総構に絶対の自信を持ち、籠城すれば秀吉の大軍もいずれ兵站が尽きて撤退するだろうと楽観視していた 34 。一方、穏健派の中心であった弟の氏規は、自ら上洛して秀吉の圧倒的な国力と石高を目の当たりにしており、勝ち目がないことを理解していた 53 。
議論は紛糾したが、最終的には過去の成功体験にすがる主戦派の意見が通り、天下の堅城・小田原城に籠城して豊臣軍を迎え撃つという方針が採択された 40 。
天正18年(1590年)春、秀吉は22万ともいわれる、後北条氏の総兵力(約5万6千)を遥かに凌駕する大軍を動員 34 。陸路からは徳川家康、前田利家、上杉景勝といった名だたる武将が率いる軍勢が進軍し、海上からは九鬼嘉隆らの水軍が伊豆半島を制圧。小田原城は、文字通り陸と海から完全に包囲された 29 。
秀吉の戦略は、単なる力押しではなかった。彼は長期戦を想定し、事前に20万石もの兵糧米を準備させるなど、鉄壁の兵站体制を構築 40 。これにより、籠城側が期待する「敵の兵糧切れ」という望みを完全に断ち切った。
さらに秀吉は、北条方の戦意を根底から打ち砕くための、恐るべき心理戦を仕掛ける。小田原城を一望できる笠懸山に、本陣として新たな城の築城を開始したのである 56 。驚くべきことに、この城は東国の武士たちが見たこともない総石垣造りの本格的な近世城郭であった 43 。秀吉は、約80日間かけて築城を進め、完成と同時に城を覆い隠していた周囲の木々を一斉に伐採 58 。これにより、小田原城の眼前に、あたかも一夜にして巨大な石垣の城が出現したかのように見せかけた。これが「石垣山一夜城」である 8 。この光景は、後北条氏の将兵に、豊臣政権の圧倒的な財力、動員力、そして先進的な技術力を見せつけ、抵抗することの無意味さを悟らせるのに十分すぎるほどの衝撃を与えた 8 。
時を同じくして、秀吉は別動隊を関東各地に派遣し、後北条氏の支城ネットワークを計画的に解体していく。西の防衛線の中核であった山中城は、豊臣秀次率いる大軍の猛攻の前にわずか半日で陥落 5 。北の拠点であった鉢形城や八王子城も、前田利家・上杉景勝らの北国勢によって次々と攻略された 54 。特に、城主・氏照が精鋭を率いて小田原城に詰めていた八王子城の戦いは凄惨を極め、城に残った婦女子らが自刃し滝に身を投げたという悲報は、小田原城内の将兵の士気に壊滅的な打撃を与えた 63 。かつて後北条氏の強さの源泉であった支城ネットワークは完全に崩壊し、小田原城は巨大な孤島と化したのである。
約3ヶ月に及ぶ籠城戦の間、小田原城の総構が物理的に破られることは一度もなかった 21 。城内の兵糧にもまだ余裕があったとされる 46 。しかし、鉄壁の包囲網、石垣山城の出現、そして支城の相次ぐ落城という絶望的な報により、城内の士気は日に日に低下していった 29 。降伏か、玉砕か。城内では再び意見が対立し、重臣の松田憲秀が秀吉に内通しているとの疑いも生じるなど、組織としての統制は限界に達していた 34 。
もはや勝ち目がないことを悟った五代当主・氏直は、義父である徳川家康らの降伏勧告を受け入れ、天正18年7月5日、ついに小田原城は無血開城した 8 。秀吉は、開戦の主導者として氏政と氏照に切腹を命じ、大道寺政繁、松田憲秀ら重臣もそれに続いた。当主・氏直は一命を助けられ高野山へ追放されたが、その翌年に病没 3 。ここに、初代早雲から五代、約百年にわたり関東に一大王国を築き上げた戦国大名・後北条氏は、歴史の舞台から姿を消したのである。
小田原城の開城は、単なる一つの合戦の勝敗を決した出来事ではない。それは、後北条氏が絶対の自信を持って拠り所とした「一国一城を堅固に守り、敵の疲弊を待つ」という戦国中期の「国盗り合戦」の戦略思想が、秀吉が提示した「国力、兵站、外交、心理戦を総動員して、敵対勢力の存在基盤そのものを抹消する」という近世的な「天下統一戦争」という新たな戦略概念の前に、完全に無力化された歴史的瞬間であった。小田原城は、その石垣や土塁といった物理的な城壁が破られる前に、その存在意義を支えていた広域防衛ネットワークと、将兵の士気という「見えざる城」が、先に崩壊したのである。
豊臣秀吉による小田原征伐と後北条氏の滅亡は、戦国時代の事実上の終焉を告げる画期的な出来事であった。その中心にあった小田原城は、敗者の城として歴史に名を刻むことになったが、その存在が後の世に残した遺産は決して小さくない。
第一に、築城技術における遺産が挙げられる。城下町全体を防衛線とする「総構」の思想と、それを実現した高度な土木技術は、その防御効果の高さを敵将であった秀吉自身にも深く印象付けた。秀吉が後に関東の諸大名に命じて築かせた京都の「御土居」は、小田原城の総構から着想を得たものと考えられており、その後の城郭普請にも大きな影響を与えた 13 。また、関東ローム層の特性を活かした堀の設計や、敵の動きを阻害する「障子堀」といった北条流の築城術は、土塁と空堀を主体とする中世城郭技術の一つの到達点として、日本の城郭史において高く評価されている。
第二に、統治システムにおける遺産である。後北条氏は、武力だけでなく、検地の実施と『小田原衆所領役帳』の作成に代表されるような、データに基づいた合理的かつ先進的な領国経営を行っていた 10 。年貢の徴収システムを簡素化し、領民が直接納税する仕組みを整えるなど、民政にも意を尽くした善政を敷いていたことが知られている 67 。後北条氏の滅亡後、その旧領の大部分は徳川家康に与えられた 44 。家康が江戸に幕府を開き、二百数十年にわたる泰平の世の礎を築くにあたり、後北条氏が構築したこの先進的な統治システムやインフラ、そして安定した民心が、何らかの形で参照され、活用された可能性は十分に考えられる 69 。
結論として、小田原城は、後北条氏百年の栄華と、戦国という一つの時代の終焉を同時に象徴する、記念碑的な城郭であると言える。その巨大な総構は、静的防御思想の極致であったがゆえに、戦争のあり方そのものが変質するという時代の大きな転換点において、新たな戦略概念に対応できず、その役割を終えた。しかし、その城郭が体現した先進的な築城技術と、その城を支えた合理的な統治システムは、決して無に帰したわけではない。それらは次の時代を担う者たちに受け継がれ、形を変えながら、近世日本の礎の一部として生き続けていったのである。小田原城の歴史は、我々に、いかなる堅城も時代の変化という大きな流れには抗えないという教訓と、敗者の遺産が勝者の未来を豊かにしうるという、歴史の深遠な連続性を示唆している。