豊後岡城は難攻不落の要塞。志賀親次が島津の大軍を撃退し、中川氏が総石垣の近世城郭へ大改修。廃城後、瀧廉太郎『荒城の月』の着想源となり、今も歴史を語り継ぐ。
豊後国(現在の大分県竹田市)に聳える岡城は、単なる一地方の城郭跡に留まらない、日本の歴史、特に戦国時代から近世、近代に至るまでの重層的な記憶を刻み込んだ稀有な存在である。断崖絶壁の上に築かれたその姿は「天空の城」とも称され、見る者を圧倒するが、その真価は壮麗な石垣の景観のみにあるのではない。本報告書は、豊後岡城を、戦国時代の軍事思想、築城技術の変遷、そして城主の人間像が凝縮された歴史的複合体として捉え直し、その多層的な価値を解明することを目的とする。
特に、一般に知られる「1586年、志賀親次がわずかな兵で島津の大軍を撃退した」という輝かしい戦歴を核心に据えつつ、その歴史的背景と、その後の城の変容を詳細に検証する。岡城の歴史は、緒方惟栄の築城伝説に始まり、戦国期における志賀親次の武勇と信仰、泰平の世における中川氏の築城技術の結晶、そして近代における瀧廉太郎の芸術的霊感の源泉という、時代ごとに異なる貌を持つ。
本報告書は四部構成を採る。第一部では、城の黎明期と、その難攻不落の性を規定した地理的特性を明らかにする。第二部では、戦国動乱の最中、九州の覇権を賭けた豊薩合戦における岡城の役割と、城主・志賀親次の実像に迫る。第三部では、戦乱の終焉と共に近世城郭へと昇華を遂げた岡城の構造的な特質と美学を分析する。そして第四部では、廃城を経て、国民的愛唱歌『荒城の月』のモチーフとなり、現代に受け継がれる文化的遺産としての価値を考察する。これにより、岡城が物語る複雑かつ豊かな歴史の全体像を提示するものである。
年代 |
主な出来事 |
備考 |
文治元年 (1185) |
緒方惟栄が源義経を迎えるために築城したと伝わる 1 |
伝説の域を出ないが、城の起源として語られる |
建武元年頃 (1334) |
志賀貞朝が後醍醐天皇の命で城を拡張したとされ、この頃から「岡城」と呼ばれるようになったという説がある 3 |
志賀氏の入城時期には諸説あり |
応安二年 (1369) |
志賀氏がこの地域に進出し、岡城を居城にしたと推測される 3 |
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天正14年 (1586) |
豊薩合戦 。城主・志賀親次が約千人の兵で島津軍3万5千の猛攻を撃退 6 |
「天下三堅城」と称される所以となる |
文禄2年 (1593) |
大友義統の改易に伴い、志賀親次も岡城を失う 3 |
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文禄3年 (1594) |
中川秀成 が播磨より7万石で入封し、城主となる 3 |
近世岡城の始まり |
慶長2年 (1597) |
中川秀成による大改修が完了。総石垣の近世城郭が完成し、御三階櫓なども建てられる 4 |
現在見られる岡城の基本構造が形成される |
慶長17年 (1612) |
大手門の位置を東向きから現在の西向きに変更 4 |
藤堂高虎あるいは加藤清正の助言によると伝わる |
寛文3年 (1663) |
三代藩主・中川久清により 西の丸 が新たに造営され、藩主御殿が建てられる 3 |
城の中心機能が西の丸へ移る |
明治4年 (1871) |
廃藩置県。その後、廃城令により城内の建造物はすべて破却される 4 |
石垣のみが残存する |
明治34年 (1901) |
瀧廉太郎 が『 荒城の月 』を作曲 6 |
少年時代に見た岡城跡の印象が着想の源とされる |
昭和11年 (1936) |
国の史跡に指定される 6 |
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岡城の歴史は、文治元年(1185年)、源平合戦の終結直後にまで遡る伝説に彩られている。豊後の武将・緒方三郎惟栄が、兄・源頼朝と対立した源義経を庇護し、迎えるためにこの地に城を築いたというのがその始まりとされる 1 。この伝承は、岡城の歴史に英雄譚としての深みを与えているが、史料的な裏付けは乏しく、あくまで伝説の域を出ないものと見なされている。
より確実な歴史の始まりは、南北朝時代に大友氏の一族である志賀氏がこの地を拠点としたことにある。その具体的な時期については諸説が存在する。一つは、建武元年(1334年)頃、志賀貞朝が後醍醐天皇の命を受けて古い城砦を拡張・修理し、この時から「岡城」と呼ばれるようになったとする説である 3 。もう一つは、それより後の応安二年(1369年)以降に志賀氏がこの地域に進出し、城を本格的に整備したとする説である 3 。いずれにせよ、この時代から戦国末期に至るまでの約260年間、岡城は志賀氏の居城としてその歴史を刻んでいくことになる 11 。
重要なのは、この中世・志賀氏時代の岡城が、現在我々が目にする壮大な石垣群を持つ姿とは全く異なっていたという点である。当時の城は、自然地形を巧みに利用し、土を盛り上げた土塁や、尾根を断ち切る堀切などを主たる防御施設とした、典型的な中世山城であったと推定される 12 。後の時代に天下に名を轟かせた岡城の武勲は、この素朴ながらも実戦的な「土の城」で成し遂げられたのである。
岡城が「難攻不落」と称される第一の要因は、その比類なき地理的・地形的条件にある。城は、大分県竹田市の東方、稲葉川と白滝川という二つの河川が合流する地点に突き出した、標高325メートル、比高約100メートルの舌状台地の先端に位置している 13 。三方は数十メートルの断崖絶壁となっており、天然の堀が城を固く守る。その姿は牛が伏しているようにも見えることから、「臥牛城(がぎゅうじょう)」の別名でも知られる 16 。『豊薩軍記』には、「四方ことごとく岩壁峨々として峙ち、苔深く岩滑にして手足を措くに所なし」と記されており、古くからその険峻さが認識されていたことがわかる 16 。
この特異な地形を形成したのは、約9万年前に起きた阿蘇山の大規模噴火である 18 。火砕流が堆積し、自らの熱と圧力で再溶結して固まったこの岩石は「阿蘇溶結凝灰岩」と呼ばれ、岡城の土台そのものを構成している 14 。この地質学的背景は、岡城の歴史において決定的な意味を持つ。溶結凝灰岩は比較的柔らかく加工が容易であったため、後の近世城郭への大改修において、壮大かつ精緻な石垣群を大量に構築することを可能にしたのである 18 。
岡城の「強さ」は、歴史を通じて二つの異なる源泉から成り立っている。一つは、本章で述べたような、人の手を加える以前からの「地形の強さ」である。そしてもう一つは、この地形を最大限に活用した「人の知恵と技術の強さ」である。戦国時代においては、志賀親次の卓越した戦術が地形と一体となり、難攻不落の伝説を生み出した。そして江戸時代においては、中川氏の築城技術が地形をキャンバスとして、物理的な堅固さと権威の象徴性を兼ね備えた石垣の城を創り上げた。岡城の最も輝かしい武勲が、現在我々が目にする石垣の城ではなく、その前身である土の城で達成されたという事実は、この城の歴史を理解する上で極めて重要である。それは、城の堅固さが、単なる物理的な構造物だけでなく、それを運用する将の才覚に大きく依存することを示す好例と言えよう。
天正14年(1586年)、九州の歴史を大きく揺るがす出来事が起きた。薩摩の島津氏が、長年の宿敵であった豊後の大友氏を滅ぼし、九州統一を成し遂げるべく、大軍を率いて豊後国へ侵攻したのである。これが「豊薩合戦」である 7 。当時、かつて九州六ヶ国を支配した大友氏の勢力は衰退しており、島津軍の圧倒的な軍事力の前に、大友配下の国人衆の多くは戦わずして寝返るか、降伏するかの選択を迫られた 16 。志賀一族でさえ分裂し、北志賀氏などは島津方に通じる有様であった 16 。
このような絶望的な状況下で、ただ一人、敢然と島津に立ち向かい、大友家への忠節を貫いたのが、岡城主・志賀親次であった。当時わずか19歳(一説に18歳)の若き城主は、1,000人から1,500人程度の寡兵で、島津義弘が率いる3万5,000ともいわれる大軍を迎え撃つことになった 6 。
岡城攻防戦は、単なる籠城戦ではなかった。親次は城の地形的利点を最大限に活かしつつ、極めて巧みな戦術を駆使して島津軍を翻弄した。軍記物である『豊薩軍記』などには、その具体的な戦法が生き生きと描かれている 16 。
親次の獅子奮迅の働きにより、岡城はついに陥落しなかった。この粘り強い抵抗は、島津軍の豊後平定のスケジュールを大幅に遅滞させる結果をもたらした 24 。そして、岡城が時間を稼いでいる間に、豊臣秀吉が派遣した20万の中央軍が九州に上陸。形勢は完全に逆転し、島津氏は秀吉に降伏することとなる 4 。
この岡城での戦いは、九州平定戦全体の帰趨に大きな影響を与えた。秀吉はこの籠城戦の報を聞き、「世の中には堅固な城があるものだ」と感嘆したと伝えられる 4 。敵将であった島津義弘でさえ、親次の戦いぶりを「天正の楠木正成」と絶賛したという 4 。この輝かしい武勲により、岡城は「難攻不落の城」としての名声を天下に轟かせ、「天下三堅城」の一つに数えられるようになったのである 4 。
岡城攻防戦を勝利に導いた志賀親次とは、一体どのような人物だったのか。彼は単なる勇猛な武将という一面だけでは語り尽くせない、複雑で魅力的な人物像を持つ。
親次は大友氏の重臣・志賀親守の子として生まれたが、彼の母方の祖母は、豊後の戦国大名・大友宗麟の正室であった奈多夫人である 25 。この縁により、親次は宗麟の外孫にあたり、幼い頃から宗麟に深く寵愛されていた。宗麟は、自身の嫡男である大友義統よりも、武勇に優れ器量の大きい親次に家督を継がせたいとさえ考えていたと伝えられるほどであった 25 。
親次の人物像を理解する上で最も重要な要素は、彼の熱心なキリシタンとしての信仰である。イエズス会宣教師ルイス・フロイスが著した『日本史』には、親次の信仰に関する詳細な記録が残されている 25 。それによれば、親次は侍女イザベルの影響でキリスト教に深く帰依し、家族に内緒で臼杵の教会を訪れ、洗礼を受けて「ドン・パウロ」という洗礼名を授かった 25 。
その信仰の深さは、常軌を逸しているとさえ言えるものであった。自らの腕に十字架の刺青を彫り、居城である岡城の瓦すべてに十字の紋様を入れたという 25 。さらに、偶像崇拝を徹底的に嫌い、城内にあった神社や仏閣をことごとく破壊し、そこにあった仏像や石像を城下の深い谷底へ投げ捨てたと記録されている 25 。現在でも岡城の谷底で古い石仏が見つかることがあるのは、この時の名残かもしれない。家族からの猛反対に遭っても、「たとえ家督を返上することになろうとも、キリシタンの信仰は捨てない」と公言して憚らなかった 25 。
彼の信仰は個人的なものに留まらなかった。領内での布教活動を積極的に支援し、宣教師を招聘した結果、1586年には岡藩のキリシタン信者数は豊後で最大規模に達した 25 。当時の岡藩の人口の大多数がキリシタン、あるいは洗礼を希望していたと推測されている 25 。
豊薩合戦において、多くの豊後の国人衆が主家を裏切り島津に寝返る中で、親次が孤立無援の状況でも最後まで大友氏への忠誠を貫いた背景には、このキリスト教信仰が深く関わっていたと考えられる。彼の主君であり祖父でもある大友宗麟もまた、日本で最も有名なキリシタン大名であった。親次にとってこの戦いは、単なる封建的な主従関係に基づく忠義の戦いであるだけでなく、同じ信仰を持つ主君を守り、九州におけるキリスト教世界を防衛するという、より高次の宗教的使命感に燃えた聖戦であった可能性が高い。彼の英雄的な行動の根源には、武士としての誇りとキリシタンとしての熱烈な信仰が分かちがたく結びついていたのである。
しかし、彼の栄光は長くは続かなかった。豊臣秀吉による九州平定後、朝鮮出兵(文禄の役)に従軍した際、主君・大友義統が敵前逃亡するという失態を犯し、親次もそれに連座する形で改易され、岡城と所領をすべて没収されてしまったのである 3 。
志賀親次が去った後の岡城は、新たな時代を迎える。文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の命により、播磨国三木から中川秀成が7万石で入封し、新たな城主となった 3 。秀成の入城は、岡城の歴史における大きな転換点であった。彼は直ちに城の大規模な改修に着手し、志賀氏時代までの実戦本位の「土の城」から、泰平の世の権威を象徴する壮大な「総石垣の城」へと、その姿を根本的に変貌させたのである 3 。
この大改修は慶長2年(1597年)に完成した。本丸、二の丸、三の丸といった主要な曲輪が新たに整備・拡張され、天守の代わりとなる三層構造の「御三階櫓」もこの時に建設された 4 。城の中心部も、志賀氏時代の中心であった東側の御廟所付近から、より広大な西側へと移され、城全体の縄張り(設計)が大きく変更された 4 。
特筆すべきは、城の正門である大手門の位置の変更である。当初、大手門は東側の「下原門」であったが、これを搦手(裏門)とし、新たに西側に大手門を設けた 8 。この変更は、当時最高の築城家として名高かった加藤清正 4 、あるいは藤堂高虎 8 の助言によるものと伝えられており、岡城の防御設計に当時の最新の築城思想が導入されたことを示している。
中川氏による城の拡張はその後も続き、寛文3年(1663年)、三代藩主・中川久清の時代には、城内で最も広い曲輪である「西の丸」が新たに造営された 3 。ここには藩主の隠居所としての御殿が建てられ、後には藩の政務を司る政庁の機能も集約され、岡城の中心的な場所となった 3 。こうして、中川氏13代、約277年間にわたる治世を通じて、岡城は近世城郭として完成の域に達したのである 11 。
中川氏によって築かれた近世岡城は、その構造と意匠において、日本の城郭の中でも際立った特徴を有している。
城の縄張りは、稲葉川と白滝川に挟まれた東西に細長い台地の地形を巧みに活かした、連郭式に近い形式を採る 15 。城域は、本丸や西の丸などの中心部である主郭部と、その西側に広がる家臣団の屋敷が置かれた外構に大別される 3 。
この城の最大の見どころであり、その性格を最もよく物語っているのが、城全域にわたって展開される壮大な石垣群である。特に、三の丸から二の丸にかけて、断崖絶壁に沿って築かれた高さ約20メートルにも及ぶ高石垣は圧巻の一言に尽きる 3 。これらの石垣は、単に防御機能を高めるだけでなく、山上の限られた平坦地を拡張し、広大な空間を創出するという重要な役割も担っていた 18 。
岡城の石垣は、その規模だけでなく、随所に見られる独特の意匠においても注目に値する。
これらの壮大かつ独創的な石垣建築が可能となった背景には、前述の通り、加工しやすい阿蘇溶結凝灰岩という地の利があった 18 。しかし、その意匠は単なる地の利の結果ではない。戦国が終わり、城の役割が純粋な軍事拠点から、藩の政治的中心であり藩主の権威を内外に示す象徴へと変化していく時代にあって、中川氏が築いた岡城の石垣は、新領主としての権威と財力を誇示するためのモニュメントであった。西洋城郭を彷彿とさせるデザインや他に類を見ない「かまぼこ石」といった意匠は、戦乱の終焉と新たな支配体制の到来を、訪れる者すべてに視覚的に宣言する意図が込められていたと考えられる。それは、志賀親次が守った「実戦の城」から、中川氏が築いた「見せる城」への、城郭の質的転換を雄弁に物語っている。
江戸時代を通じて岡藩の藩庁として機能した岡城も、明治維新という時代の大きなうねりからは逃れられなかった。明治4年(1871年)の廃藩置県、そしてその後の廃城令により、城内にあった御三階櫓や御殿、門といったすべての建造物は公売に付され、ことごとく破却された 4 。かつての威容を誇った天空の城は、壮大な石垣だけを残し、草木が生い茂る文字通りの「荒城」と化したのである。
しかし、この荒廃した姿が、岡城に新たな文化的価値を与えることになった。明治の天才音楽家・瀧廉太郎との出会いである。少年時代の一時期を竹田で過ごした廉太郎は、この荒れ果てた岡城跡を遊び場としていた 6 。石垣だけが残る城跡に立ち、かつての栄華を想像したであろう原体験は、彼の心に深く刻み込まれた。そして明治34年(1901年)、彼はこの岡城の原風景から着想を得て、日本国民の心を揺さぶる不朽の名曲『荒城の月』を作曲したのである 6 。
ここに、一つの興味深い歴史の綾が存在する。『荒城の月』の歌詞は、「春高楼の花の宴 めぐる盃かげさして」あるいは「秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて」と、城のかつての栄華と戦の記憶を歌い上げる。瀧廉太郎がそのイメージの源泉としたのは、間違いなく彼が目の当たりにした壮大な石垣の廃墟、すなわち中川氏が泰平の世に築き上げた近世城郭の姿であった。しかし、岡城がその歴史上、最も熾烈な戦火に包まれ、「秋陣営の霜の色」を現実のものとし、その名を天下に轟かせたのは、それより以前、志賀親次が守った素朴な「土の城」の時代であった。
したがって、この名曲は、岡城の歴史における二つの異なる時代の姿―中川氏の「平和と権威の城」と、志賀氏の「戦乱と武勇の城」―を、無意識のうちに一つの詩情の中に融合させていると言える。それは、文化的受容と史実との間に生じた、ある種の美しい誤読であり、岡城の歴史の重層性を象徴する出来事であった。
『荒城の月』によって新たな命を吹き込まれた岡城跡は、その歴史的・文化的価値が再評価されることになる。昭和11年(1936年)、城跡は国の史跡に指定され、法的な保護のもとに置かれることとなった 6 。現在では、公益財団法人日本城郭協会によって「日本100名城」の一つにも選定されており、全国の城郭愛好家や歴史ファンが訪れる重要な観光地となっている 32 。
城跡は有料で一般公開されており、春の桜祭りや秋の観月祭など、四季折々のイベントが開催され、多くの人々で賑わう 17 。一方で、約100万平方メートルにも及ぶ広大な城域のすべてが完全に整備されているわけではなく、一部には立ち入りが制限される危険なエリアも存在する 33 。経年劣化による石垣の孕み(はらみ)や崩落の危険性も指摘されており、この貴重な文化遺産を未来へ継承していくための、継続的な保存・整備が大きな課題となっている 34 。
近年では、歴史研究の進展にも貢献している。江戸時代に作成された『正保城絵図』をはじめとする古絵図が国立公文書館などによってデジタルアーカイブ化され、誰でも高精細な画像で閲覧することが可能となった 35 。これにより、研究者は在りし日の岡城の姿を詳細に分析することができ、岡城の歴史解明に新たな光が当てられることが期待されている。
豊後岡城の歴史を深く掘り下げると、そこには単一の物語ではなく、時代ごとに異なる貌を持つ、幾重にも折り重なった歴史の地層が存在することが明らかになる。
緒方惟栄の築城伝説に始まり、南北朝・室町期には志賀氏の拠点たる中世山城としてその礎が築かれた。そして、戦国時代の最終局面である豊薩合戦において、岡城はその歴史の頂点を迎える。この時、城の価値を決定づけたのは、物理的な城郭の堅固さ以上に、城主・志賀親次の卓越した戦略眼と、キリスト教信仰に裏打ちされた不屈の精神であった。彼の戦いは、九州全体の戦局に影響を与え、岡城に「天下三堅城」という不滅の名声をもたらした。
戦乱が終焉し、近世の泰平が訪れると、城主となった中川氏は、岡城を全く新しい姿へと生まれ変わらせた。現在我々が目にする壮大な総石垣の城郭は、戦国の記憶の上に築かれた、新たな時代の権威の象徴である。その独特の意匠は、岡城が単なる軍事施設から、藩政の中心であり文化的モニュメントへとその役割を変えたことを物語っている。
明治維新と共に廃城となり、物理的な楼閣を失った岡城は、しかし、瀧廉太郎の芸術的霊感の源泉となることで、新たな文化的生命を得た。『荒城の月』の哀愁を帯びた旋律は、岡城の栄枯盛衰の物語を日本人の心象風景に深く刻み込んだのである。
結論として、岡城は、戦国期の「実戦の城」、近世の「権威の城」、そして近代以降の「記憶の城」という、三つの異なる位相を持つ歴史的遺産である。志賀親次の武勇と信仰の物語と、中川氏の築城技術の結晶が重なり合うことで、岡城の比類なき魅力は形成されている。この城を理解するということは、単一の史実を追うことではなく、複数の歴史が堆積した「地層」を読み解くことに他ならない。岡城は、訪れる者すべてに、その複雑で豊かな歴史を静かに語り続けているのである。