村中城は、肥前の龍造寺氏の拠点。佐賀平野のクリーク網を活かした「水城」であり、龍造寺隆信が本家を継承し肥前の覇権を確立。隆信の死後、鍋島氏が実権を掌握し、近世城郭「佐賀城」へと変貌。その遺構は佐賀城公園の地下に眠る。
本報告書は、近世佐GA城の礎としてのみ語られがちな「村中城」を、戦国時代の肥前国における独立した政治・軍事拠点として再評価することを目的とする。村中城は、単なる佐賀城の前身としてではなく、龍造寺氏の興亡というダイナミズムの中で、その構造、機能、そして歴史的役割がいかに変容したかを解明する対象である。この目的を達成するため、最新の考古学的知見と文献史料を駆使し、多角的な分析を行う。
近世佐賀城の巨大な構造の下に埋もれ、その実像は長らく不明であった 1 。しかし、近年の発掘調査は、その姿を断片的ながらも明らかにしつつある 1 。これらの新事実は、龍造寺氏、特にその最盛期を築いた龍造寺隆信の権力構造と、村中城が果たした役割を再構築するための重要な手がかりを提供する。本報告書は、これらの知見を基に、戦国大名龍造寺氏の権力基盤としての村中城の性格を明らかにしようとする試みである。
龍造寺氏の出自は、藤原秀郷流を称し、肥前の有力国人であった高木氏の一族から分かれたとされる 2 。その歴史は、仁平年間(1151年~1154年)に藤原季善が肥前国佐賀郡小津東郷内の龍造寺村に入り、その地名を姓としたことに始まると伝えられている 2 。鎌倉時代から室町時代にかけ、龍造寺氏は佐賀平野に根を張る国人領主として徐々にその基盤を固めていった。
室町時代、龍造寺氏は数家に分かれたが、その中心となったのが惣領家である村中龍造寺家と、分家の水ヶ江龍造寺家であった 2 。村中城は、当初この村中龍造寺家の居城として機能していた 4 。しかし、室町時代後期になると、村中龍造寺家は当主の早逝などが相次ぎ、その勢力は衰退傾向にあった 2 。
村中本家の衰退とは対照的に、分家である水ヶ江龍造寺家から傑出した人物が現れる。龍造寺家兼である。彼は当初、水ヶ江城を拠点としていた 5 。肥前守護であった少弐氏の被官として頭角を現した家兼は、享禄3年(1530年)の田手畷の戦いで、周防の大内義隆の軍勢を破り、その名を九州に轟かせた 2 。この勝利は、龍造寺氏が単なる少弐氏の配下から、自立した戦国大名へと歩み出す契機となった。
しかし、その道のりは平坦ではなかった。家兼は後に主君である少弐資元を裏切り大内氏と通じたため、少弐氏の重臣・馬場頼周の謀略に遭い、二人の息子と四人の孫を殺害されるという壊滅的な打撃を受けた 2 。この苦境の中、家兼は筑後の蒲池氏のもとへ逃れ、その支援を受けて再起を図る。この一連の経験は、龍造寺氏の権力構造に大きな影響を与え、後の飛躍の土台となったのである。
龍造寺家兼の死後、龍造寺氏の運命を担ったのが、曾孫の龍造寺隆信であった。彼は幼少期に出家し「円月」と名乗っていたが、天文15年(1546年)、蒲池鑑盛らの支援を受けた家兼(当時は剛忠と号す)が馬場頼周を討ち、龍造寺氏を再興させると、還俗して家督を継ぐこととなった 5 。当初、隆信(当時の名は胤信)は、自身の家系である水ヶ江龍造寺家の当主となった 6 。
龍造寺氏の権力基盤を完全に掌握するためには、本家である村中龍造寺家との統合が不可欠であった。この課題は、天文17年(1548年)に村中龍造寺家の当主・龍造寺胤栄が嗣子なく死去したことで、決定的な局面を迎える。隆信は胤栄の未亡人を娶ることで、村中龍造寺家の家督をも継承した 6 。この婚姻は、単なる血縁上の相続ではなく、権力が分散していた龍造寺一門の軍事力と政治的正統性を一身に集約する、極めて戦略的な行為であった。これにより、村中城は名実ともに統一された龍造寺氏の単一の本拠地となり、隆信が外部へと勢力を拡大するための盤石な基盤が築かれたのである。
隆信が村中城主となった後も、その権力は盤石ではなかった。家督継承に不満を持つ一族や家臣による抵抗は続き、土橋栄益などによる村中城の包囲戦も発生した 1 。隆信は一時、城を明け渡すほどの苦境に立たされたが、これを奪回。こうした内紛を乗り越え、村中城を完全に掌握していく過程は、彼が肥前の小領主から、九州を代表する戦国大名へと成長していく象徴的な出来事であった。内部の不安定要素を解消したことで、隆信は対外的な勢力拡大へと本格的に乗り出すことが可能となったのである。
龍造寺氏時代の村中城の具体的な姿は、後世の佐賀城建設によって完全に覆い隠され、長らく謎に包まれていた 1 。しかし、平成21年(2009年)から平成23年(2011年)にかけて佐賀市教育委員会が実施した西御門付近の発掘調査は、その実像に光を当てる画期的な成果をもたらした 1 。この調査により、近世の整地層の下から、16世紀中頃から後半、すなわち龍造寺隆信の時代に相当する遺構が初めて確認されたのである 1 。
調査で最も注目されるのは、計画的に配置された2棟の大型掘立柱建物(SB5200、SB5205)の発見である 1 。
これらの建物は、当時の佐賀平野における他の建造物群を圧倒する規模であり、一般の農民や町人の住居とは考え難い。計画的な配置と規模から、これらは村中城の中枢施設、すなわち政務を執り行う館や、城主の居館であった可能性が極めて高いと結論付けられている 1 。
建物の南側では、施設全体を区画するために掘られたとみられる2本の溝(SD5090、SD5043)が確認された 1 。幅は最大で1mを超え、深さも70cmに達する。溝の底からは腐食した板材の一部が発見されており、溝に沿って板塀が立てられていた可能性も示唆されている 1 。重要なのは、これらの建物と溝がほぼ同じ方位を向いて整然と配置されている点である。これは、村中城が単なる自然地形を利用した砦ではなく、高度な設計思想に基づき、計画的に建設された城館であったことを明確に示している。
発掘調査で明らかになった中枢部の構造に加え、村中城の全体像を理解する上で欠かせないのが、その立地である。佐賀平野は、網の目のように張り巡らされたクリークと呼ばれる水路網が特徴的な地形である 9 。村中城は、このクリークを幾重にも巡らせた天然の防御網の中心に位置する、典型的な低平地の城館であった 9 。後の佐賀城がそうであったように、石垣を多用するのではなく、幅の広い堀と土塁を主たる防御施設とし、周辺の湿地帯や河川そのものを広大な要害として活用していた 3 。これは、山城とは全く異なる防御思想に基づくものであり、佐賀平野という土地の特性を最大限に生かした、極めて合理的な城郭であったと言える。
龍造寺隆信の権力基盤を考える上で、村中城と並んで極めて重要なのが、杵島郡白石町に位置する須古城の存在である 12 。須古城はもともと平井氏の居城であったが、隆信が4度にわたる猛攻の末、天正2年(1574年)に攻略した 13 。その後、隆信は須古城を大規模に改修し、自身の居城とした 15 。特に、隆信が「五州二島の太守」と称される最大版図を築いた時期には、須古城は広大な領国を統治する「首都」として機能したとされている 13 。
近年の須古城跡の発掘調査は、この城の重要性を裏付ける画期的な発見をもたらした。城跡から、戦国大名の居城からの出土としては極めて稀な、大量の瓦が発見されたのである 16 。瓦葺きの建物は、当時の九州において高い権威と経済力を象徴するものであった。この発見は、須古城に恒久的で格式の高い、壮麗な建造物が存在したことを物語っている。
注目すべきは、専門家が「龍造寺家の本拠といわれる佐賀城では見つかっていない」と指摘している点である 16 。これまでの発掘調査において、村中城跡から瓦が出土したという報告はない。この物証の差は、両城の機能的な違いを示唆する重要な手がかりとなる。
このことから、龍造寺隆信の支配体制は、単一の首都に権力を集中させる形態ではなく、「村中城」と「須古城」という二つの拠点を機能的に使い分ける「双都心体制」であった可能性が浮かび上がる。すなわち、村中城は龍造寺氏代々の本拠地として佐賀平野の支配と防衛の核となる「内向き」の拠点であり続けた。一方で、須古城は、新たに獲得した広大な領国を統治し、「五州二島の太守」としての威勢を対外的に示すための、政治的・軍事的な「外向き」の拠点としての役割を担っていたと考えられる。急速に拡大した領国を効率的に統治し、かつ伝統的な本拠地も維持するための、極めて合理的で戦略的な選択であったと言えよう。
天正12年(1584年)3月、島津・有馬連合軍との間で勃発した沖田畷の戦いは、龍造寺氏の運命を決定づける悲劇となった 1 。九州制覇を目指す隆信は、島原半島に大軍を率いて侵攻 17 。この時、龍造寺軍の出陣拠点は須古城であり、島原半島では三会城などを前線基地としていた 18 。しかし、地の利を得た島津軍の巧みな戦術の前に龍造寺軍は大混乱に陥り、総大将である龍造寺隆信自身が討ち死にするという壊滅的な敗北を喫した 4 。
「肥前の熊」と恐れられた強力な指導者を失った龍造寺氏の権勢は、急速に翳りを見せ始める。隆信の跡を継いだ嫡男・政家は病弱であり、広大な領国を維持する求心力を持ち得なかった 8 。その結果、一族の実権は、隆信の義弟であり、最も有能な重臣であった鍋島直茂の手へと徐々に移っていくこととなる 4 。
豊臣秀吉による九州平定後、龍造寺氏の領国経営は、秀吉の命令によって鍋島直茂が代行するという形で公式に追認された 3 。これにより、直茂の立場は決定的なものとなる。天正18年(1590年)、直茂は村中城に入り、城郭の改修計画に着手し始めるなど、実質的な支配者としての地位を固めていった 3 。龍造寺氏の権力は形骸化し、肥前の支配権は事実上、鍋島氏へと移行したのである。
慶長7年(1602年)頃から始まったとされる城の改修は、慶長13年(1608年)から慶長16年(1611年)にかけて、鍋島直茂・勝茂親子による大規模な「総普請」として本格化した 3 。この事業は、中世的な城館であった村中城を、新たな時代に対応する近世城郭へと生まれ変わらせるものであった。
新しい城の縄張りは、旧来の村中城を内包し、その東北方向へと大きく拡張する形で設計された 23 。この大規模な拡張工事に伴い、かつて城内にあった高寺、泰長院、龍泰寺、龍造寺八幡宮といった寺社は城外へと移転させられた 23 。これは、単なる城の拡張に留まらず、城郭を中心に武家地、町人地を計画的に配置する、近世的な城下町建設の始まりであった 23 。
この総普請を経て、村中城は完全にその姿を変えた。幅が最大で約72mにも及ぶ広大な堀が巡らされ、本丸には五重の天守閣が聳え立った(後に享保11年(1726年)の火災で焼失) 4 。龍造寺氏が築いた低平地の城館は、石垣と天守を備えた壮麗な近世城郭「佐賀城」へと変貌を遂げたのである 24 。
鍋島氏によるこの事業は、単なる軍事的な増強ではなかった。それは、龍造寺氏の権威の中心地を物理的に「上書き」し、それを遥かに凌駕する規模と威容を持つ城郭を築くことで、旧来の権威を継承しつつも、それを乗り越える新たな支配体制の到来を内外に宣言する、極めて政治的な行為であった。村中城の終焉は、龍造寺という戦国大名の時代の終わりを、そして鍋島氏による近世佐賀藩の時代の幕開けを象徴する出来事だったのである。
戦国時代の九州では、龍造寺氏、大友氏、島津氏が覇を競った。彼らの権力拠点である居城の構造を比較分析することは、それぞれの権力の特質を浮き彫りにする上で極めて有効である。
豊後国を拠点とした大友氏の居城・大友氏館(大分市)は、発掘調査によって、最大で東西67m、南北30mにも及ぶ広大な池を持つ壮麗な庭園が存在したことが明らかになっている 26 。この館は、フランシスコ・ザビエルが大友宗麟と会見した場所としても知られ、南蛮貿易やキリスト教文化との交流を象徴する、国際色豊かな空間であった 28 。防御施設も備えてはいたが、その中心には文化的な機能が据えられていた点が大きな特徴である。
大友氏は、京風の洗練された庭園や、ヨーロッパからもたらされた先進的な文化を積極的に受容し、それを披露することで、自らの権力の正統性と先進性を国内外に誇示した。その権力は、文化と外交に強く裏打ちされたものであった。
薩摩国を拠点とした島津氏の居城である内城、そして後の鹿児島城(鶴丸城)は、山麓の居館と背後の山城(詰城)が一体となった、二元的な構造を持つ 29 。平時の政務や生活は麓の屋形で行い、有事の際には背後の城山に立て籠もるという、中世以来の伝統的で実戦的な城郭思想を継承していた。天守閣を持たず、行政機能と実用性を重視した屋形造りが特徴であり、そこには徳川幕府への政治的配慮も見て取れる 30 。
守護大名以来の長い歴史を持つ島津氏は、華美な装飾よりも、堅実で実利的なアプローチを採った。伝統的な城郭構造を維持しつつ、領国支配の行政システムを効率的に機能させることに重点を置き、その権力の強固さを示した。
大友氏館のような華やかな文化的空間でもなく、島津氏内城のような伝統的な山城・居館体制でもない。村中城は、佐賀平野という特異な地形と一体化した、巨大な「水利・防衛システム」であった。その構造は、石垣よりも広大なクリーク網という自然の要害を最大限に活用するものであり、龍造寺氏の急速な軍事的拡大という、極めて現実的かつ実利的な要求に特化していた。
城の構造は、その主の権力特性を色濃く反映する。大友氏の権力が「文化・外交」を、島津氏の権力が「伝統・実利」を象徴するとすれば、龍造寺氏の村中城(および須古城)は、地理的特性を最大限に利用した「軍事・地理的制圧」を象'徴していると言える。新興勢力であった龍造寺氏の力の源泉が、佐賀平野の生産力とクリーク網による鉄壁の防御にあったことを、村中城のあり方そのものが雄弁に物語っているのである。
表1:九州三大名の主要拠点比較分析
大名家 |
拠点名 |
立地(地形) |
主要防御施設 |
検出された主要遺構(建物・庭園等) |
象徴する権力の性格 |
龍造寺氏 |
村中城 |
沖積平野(低平地) |
広大な堀(クリーク)、土塁 |
大型掘立柱建物、区画溝 |
軍事・地理的制圧 |
|
須古城 |
独立丘陵(平山城) |
石垣、土塁、堀 |
瓦葺き建物(瓦が出土) |
対外的な威信・政治拠点 |
大友氏 |
大友氏館 |
沖積平野(河口付近) |
堀、土塁 |
広大な池を持つ庭園、館跡 |
文化・外交・国際性 |
島津氏 |
内城・鹿児島城 |
シラス台地、山麓 |
石垣、水堀、背後の山城(詰城) |
居館(屋形)跡 |
伝統・実利・堅実性 |
村中城は、単に佐賀城に吸収された過去の遺物ではない。それは、戦国時代という激動の時代に、肥前の小領主であった龍造寺氏を九州の覇者の一角にまで押し上げた、権力の中枢エンジンであった。発掘調査によって明らかになった大規模な中枢施設の存在は、龍造寺隆信がこの城を拠点に、広大な領国を統治するための高度な行政機構を整備していたことを示唆している。
城の構造、立地、そして須古城との機能的な関係性は、龍造寺隆信の野心と戦略、そしてその権力の特質を映し出している。しかし、沖田畷における隆信の死は、その運命を大きく転換させた。強力な指導者を失ったことで、城は主家の衰退と共にその役割を変え、最終的には鍋島氏による近世的な都市計画の礎として、その姿を歴史の舞台から消すこととなった。
村中城の物理的な遺構は、現代の佐賀城公園の地下深くに眠っている。しかし、その思想の根幹をなしたものは、今なお地上にその姿をとどめている。城の防御と城下町の生命線を支えた佐賀平野のクリーク網は、形を変えながらも現代佐賀市の都市構造や水利システムの中に生き続けているのである 23 。石垣や建物といった物的な遺構は失われたが、人と水が織りなすこの歴史的景観こそが、村中城が現代に伝える真の遺産であると言えるだろう。
表2:龍造寺氏と村中城関連年表
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
関連城郭 |
歴史的意義 |
1151-54年頃(仁平年間) |
藤原季善が龍造寺村に入り、龍造寺氏を称する |
藤原季善 |
- |
龍造寺氏の起源 2 |
1530年(享禄3年) |
田手畷の戦いで大内軍を破る |
龍造寺家兼 |
水ヶ江城 |
龍造寺氏台頭の契機 2 |
1546年(天文15年) |
家兼が馬場頼周を討ち、龍造寺氏を再興。隆信が家督を継ぐ |
龍造寺家兼、龍造寺隆信 |
水ヶ江城 |
隆信の歴史の始まり 5 |
1548年(天文17年) |
隆信が村中龍造寺本家を継承し、村中城主となる |
龍造寺隆信 |
村中城 |
龍造寺氏の権力統合 6 |
1570年(元亀元年) |
今山の戦いで大友軍を破る |
龍造寺隆信、鍋島直茂 |
村中城 |
肥前における龍造寺氏の覇権確立 7 |
1574年(天正2年) |
須古城を攻略 |
龍造寺隆信 |
須古城 |
西方への勢力拡大拠点確保 13 |
1580年頃(天正8年頃) |
龍造寺氏が最盛期を迎える。「五州二島の太守」と称される |
龍造寺隆信 |
村中城、須古城 |
九州三大勢力の一角となる 1 |
1584年(天正12年) |
沖田畷の戦いで隆信が戦死 |
龍造寺隆信 |
(出陣拠点:須古城) |
龍造寺氏衰退の決定的要因 4 |
1590年(天正18年) |
鍋島直茂が村中城に入城 |
鍋島直茂 |
村中城 |
鍋島氏による実権掌握の象徴 3 |
1608年-1611年(慶長13-16年) |
鍋島氏による佐賀城総普請 |
鍋島直茂、鍋島勝茂 |
村中城、佐賀城 |
村中城から近世城郭佐賀城へ変貌 3 |