武蔵河越城は、太田道灌が築き、関東の要衝として扇谷上杉氏の拠点となった。河越夜戦では北条氏康が奇襲で大勝し、後北条氏の関東支配を確立。大道寺氏の善政で栄え、今は本丸御殿などが残る歴史的遺産である。
本報告書は、武蔵国中部に位置した河越城を、単なる一つの城郭としてではなく、室町時代中期から戦国時代の終焉に至るまでの関東地方の政治・軍事動向を映し出す「鏡」として位置づけ、その歴史的価値を多角的に解明することを目的とする。従来、太田道灌による築城や日本三大夜戦の一つである「河越夜戦」の舞台として断片的に語られることの多いこの城を、関東の勢力図の変遷と不可分に結びついた戦略的要衝として捉え直すことで、戦国時代の関東史におけるその本質的な重要性を明らかにする。
河越城が歴史の表舞台で重要な役割を果たし続けた根源的な理由は、その卓越した地政学的位置にある。城が築かれた武蔵野台地の北東端は、東に広がる広大な荒川低地を一望できる戦略的な高台であり、古河公方をはじめとする関東諸豪の動向を監視・牽制する上で最適の立地であった 1 。さらに、この地は鎌倉時代から整備されてきた鎌倉街道の上道・中道・下道といった主要交通路が交錯する結節点でもあり、軍事行動の拠点としてだけでなく、経済・物流の中心地としての潜在能力も秘めていた 1 。江戸時代に入ると、幕府がこの城を「江戸の北の守り」として最重要視し、新河岸川の舟運を利用した物資供給拠点として川越の町が繁栄したが、その地理的優位性は戦国時代からすでに確立されていたのである 1 。
この城の価値は、単に防御に適した地形という点に留まらない。より本質的には、「関東の勢力均衡点を押さえる位置」にあったことである。北に勢力を張る山内上杉氏、東に拠点を構える古河公方、そして後に南から勃興する後北条氏という、当時の関東を動かした三大勢力の活動範囲が重なり合う地点に河越城は存在した。それゆえ、この城を制する者は武蔵国、ひいては関東全体の主導権争いにおいて絶対的な優位性を確保することができた。太田道灌がこの地を選んだのは古河公方に対する最前線とするためであり 1 、後北条氏が執拗にこの城を狙ったのは武蔵国支配を磐石にし、北関東への進出拠点とするためであった 1 。そして、徳川家康が譜代の重臣を配置したのは、江戸の北方を固めるという地政学的重要性を継承したからに他ならない 3 。河越城の所有者が変わるたびに関東のパワーバランスが劇的に変動したのは、この地理的特性に起因する必然であった。すなわち、河越城の歴史とは、関東の支配者が誰であるかを示すバロメーターそのものであったと言えるのである。
河越城の誕生は、15世紀半ばの関東地方を席巻した大乱「享徳の乱」と分かちがたく結びついている。享徳3年(1454年)、第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺した事件は、約30年にも及ぶ未曾有の戦乱の幕開けとなった 1 。この事件により、成氏は幕府方の勢力に鎌倉を追われ、下総国古河に本拠を移して「古河公方」と称されるようになる。これにより、関東は古河公方勢力と、室町幕府を支持する関東管領上杉氏の勢力とによって二分され、武蔵国東部の低湿地帯が両者の勢力が直接衝突する最前線となったのである 1 。
この緊迫した情勢の中、扇谷上杉家の当主・上杉持朝は、古河公方勢力に対抗するための戦略的拠点の必要性を痛感する。そして長禄元年(1457年)、持朝は家宰であった太田道真・道灌父子に命じ、河越城の築城に着手させた 1 。築城の主導者については、父である道真とする説(『北条五代記』など)と、子の道灌とする説(『霊岩夜話』など)が存在するが、いずれにせよ父子が一体となってこの大事業にあたったことは間違いない 5 。築城の目的は二重の意味を持っていた。第一の目的は、言うまでもなく古河公方勢力に対する防衛拠点であり、その最前線として機能させることであった。しかし同時に、同じ上杉一族でありながら常に対立の火種を抱えていた山内上杉家に対し、武蔵国内における扇谷上杉家の支配権を誇示し、固めるという内向きの戦略的意図も含まれていたと考えられる 1 。
築城の過程は困難を極めたと伝えられる。築城地は「七ッ釜」と呼ばれる湿地帯であり、土塁を築いてもすぐに崩れてしまう難工事であった 5 。伝説によれば、ある夜、沼の主である龍神が道真の夢枕に立ち、「明朝、汝のもとに最初に現れた者を人身御供として我に捧げれば、築城は成就するであろう」と告げたという 5 。この種の伝説は、築城がいかに困難な事業であったかを物語ると同時に、その完成が人知を超えた力によるものと見なされるほど画期的な出来事であったことを示唆している。
太田道灌によって設計された初期の河越城の縄張り(城の設計)は、独立した区画(曲輪)を直線的に連ねる「連郭式」と呼ばれる形式であった。この独創的な設計は、後に築城者である道灌の名にちなんで「道灌がかり」と称されることになる 2 。城は武蔵野台地の北東端に位置する平山城であり、周囲に広がる湿地帯という自然地形を巧みに防御に取り入れていた 2 。築城当初の城域は約16万5千平方メートルに及び、8つの門と8つの櫓を備えていたと記録されている 2 。また、天守閣は持たなかったが、その代わりとして本丸南西の高台に三層の「富士見櫓」が築かれ、城の象徴かつ司令塔としての役割を担った 5 。
河越城の築城は、単独の事業ではなかった。ほぼ同時期に、武蔵国南方の拠点として江戸城も築城され、こちらには太田道灌自身が城主として入った 5 。そして、この二つの城は軍事道路(後の川越街道の原型)によって結ばれ、古河公方に対する一大防衛ネットワークを形成した 5 。これは、単に個別の拠点を構築するという発想を超え、武蔵国東部を一体的に防衛・統治する「面的支配」を意図した、当時としては極めて先進的な戦略構想であった。点(城)と線(街道)によって広域をコントロールするというこの思想は、後の戦国大名による領域支配の先駆けとも言えるものであり、太田道灌が単なる築城の名手ではなく、広域的な視点を持った戦略地政学の天才であったことを示している。彼の構想は、後の後北条氏や徳川氏による関東支配の青写真となった可能性が高い。
河越城を築き、享徳の乱の収束に多大な功績を挙げた太田道灌であったが、その卓越した能力と高まる名声は、皮肉にも主君である扇谷上杉定正の猜疑心を煽る結果となった。そして文明18年(1486年)、道灌は相模国糟屋の定正の館で謀殺されるという悲劇的な最期を遂げる 9 。死に際に「当方滅亡」と叫んだとされる彼の言葉は、扇谷上杉家のその後の運命を予言していたかのようであった 9 。この事件は、扇谷上杉家の軍事力を支えていた最大の柱を自ら折り、一族内の権力闘争を激化させる致命的な失策となった。
道灌という重石を失った関東の情勢は、再び混迷の度を深めていく。扇谷上杉氏と山内上杉氏という、本来は協力すべき同族間の対立が先鋭化し、「長享の乱」と呼ばれる新たな内乱へと発展したのである 10 。この内乱において、河越城は扇谷上杉氏の拠点として、再び争乱の中心地となった。その象徴的な出来事が、明応6年(1497年)に起きる。扇谷上杉朝良が居城とする河越城に対し、山内上杉家の当主・上杉顕定が入間川を挟んだ対岸の旧河越館跡に「上戸陣」と呼ばれる陣城を構築。古河公方を引き入れて、実に7年間もの長きにわたって睨み合いを続けたのである 5 。このエピソードは、かつて対古河公方の最前線であった河越城が、今や上杉氏内部の抗争の最前線へとその性格を変えてしまったことを如実に物語っている。
扇谷上杉氏の悲劇は、有能すぎる家臣を使いこなせず、内部抗争によって自らの力を削いでいった旧来の権門の典型例と言える。河越城は、扇谷上杉氏にとって最大の栄光(道灌による築城)の象徴であると同時に、最大の悲劇(道灌暗殺後の衰退と内紛)の舞台でもあった。なぜ扇谷上杉氏は衰退したのか。その答えは、中核となる軍事的天才・道灌を自ら葬り去ったことに尽きる。その結果、一族内で不毛な争いを始め、外部勢力、すなわち後に現れる後北条氏の介入を許す致命的な隙を生み出してしまった。この城の歴史は、実力主義が台頭する戦国時代において、旧来の権威や家格だけではもはや生き残れないという、時代の大きな転換を象徴している。一個人の能力が組織の命運を左右し、内部結束の欠如が、かつては強大であった組織をも崩壊へと導く。河越城を巡る扇谷上杉氏の動向は、戦国時代の普遍的な教訓を我々に示しているのである。
扇谷上杉氏が内紛によって衰退していく一方、関東の南西、伊豆・相模において新興勢力が急速に台頭していた。伊勢宗瑞(後の北条早雲)とその子・氏綱が率いる後北条氏である。彼らは旧来の権威に捉われない実力主義と巧みな戦略によって勢力を拡大し、やがてその矛先を武蔵国へと向けた 5 。大永4年(1524年)、北条氏綱は扇谷上杉氏の重要拠点であった江戸城を電撃的に奪取。これを皮切りに、岩付城を占拠するなど、着実に武蔵国への侵攻を進めていった 1 。
そして、後北条氏の武蔵国支配を決定づける瞬間が訪れる。天文6年(1537年)、扇谷上杉家の当主・朝興が病没し、若年の上杉朝定が家督を継いだ。この代替わりの脆弱性を見逃さなかった氏綱は、これを千載一遇の好機と捉え、一気呵成に河越城へと攻め寄せた。内紛と当主交代で弱体化していた扇谷上杉氏に、もはや後北条氏の猛攻を防ぐ力は残されていなかった。河越城はついに陥落し、朝定は北方の松山城へと敗走を余儀なくされる 1 。
この天文6年の河越城奪取は、単なる一城の攻防戦以上の意味を持つ、関東戦国史における重大な転換点であった。この勝利により、後北条氏は武蔵国における支配権をほぼ確立し、関東の中心地を完全に掌握した。河越城は、それまでの対上杉氏の最前線という守りの拠点から、後北条氏がさらに北関東へと勢力を拡大していくための攻めの拠点へと、その戦略的価値を180度転換させたのである 1 。後北条氏は、この重要拠点の城代として、一門の北条綱成や譜代の重臣である大道寺氏といった精鋭を配置し、武蔵国支配の楔とした 1 。
後北条氏がなぜ勝利できたのか。それは、敵の弱体化(上杉氏の内紛)と代替わりという好機を的確に捉え、逃さなかった戦略眼にあった。河越城の主が上杉氏から後北条氏へと交代したこの出来事は、関東における「旧権威から新興実力者への時代の主役交代」を決定づけた象徴的な事件であった。後の河越夜戦の劇的な勝利以上に、この時点での支配者の交代こそが、後北条氏の関東制覇への道筋を実質的に決定づけた、より根本的なターニングポイントであったと評価することができる。
後北条氏による河越城奪取は、関東の旧勢力に強烈な危機感を抱かせた。城の奪回と後北条氏の打倒を目指し、扇谷上杉家の当主・上杉朝定は、これまで長年にわたり敵対してきた同族の山内上杉家当主・上杉憲政、さらには後北条氏康の義兄にあたる古河公方・足利晴氏にまで働きかけ、反北条連合を結成するに至る 1 。この連合は、関東の旧権威が生き残りを賭けて結集した、まさに最後の大同盟であった。さらに、東の駿河国では今川義元が後北条領への侵攻を開始し(第二次河東一乱)、後北条氏は東西から挟撃されるという国家存亡の危機に直面した 5 。
天文14年(1545年)10月、反北条連合軍は河越城を包囲。その兵力は、江戸時代の軍記物などでは8万から8万6千という、当時としては破格の大軍勢であったと記されている 11 。対する河越城の守将は、勇猛で知られた北条綱成であったが、その手勢はわずか3,000に過ぎなかった 13 。しかし、近年の研究では、連合軍の兵力8万という数字は誇張であり、当時の各勢力の動員能力から推計すると、実数は2万から3万程度であったという説が有力視されている 14 。それでもなお、後に今川氏との戦いを収めて救援に駆けつけた北条氏康の本隊約8,000を合わせても、後北条軍の総兵力は約1万1千であり、数において圧倒的に劣勢であったことに変わりはなかった 17 。
連合軍は河越城を包囲したものの、その布陣は統制を欠いていた。扇谷上杉軍が東明寺周辺の砂久保に、山内上杉軍が北方の柏原に、そして古河公方軍がまた別の場所に陣を敷くなど、各勢力が個別に陣営を構えており、統一された指揮系統が存在しなかった 11 。この「寄せ集め」という組織的脆弱性が、後に彼らの命運を分けることになる。
勢力 |
通説(軍記物に基づく) |
近年の研究に基づく推定値 |
典拠資料 |
後北条軍(総兵力) |
約11,000 |
約11,000 |
|
籠城兵(北条綱成) |
3,000 |
3,000弱 |
13 |
救援軍(北条氏康) |
8,000 |
約8,000 |
11 |
反北条連合軍(総兵力) |
80,000~86,000 |
20,000~30,000 |
|
扇谷上杉軍 |
(内数) |
(内数) |
11 |
山内上杉軍 |
(内数) |
(内数) |
14 |
古河公方軍 |
(内数) |
(内数) |
|
この絶望的な状況を打開するため、北条氏康は周到かつ大胆な策を巡らせる。まず、半年に及ぶ籠城戦の間、彼は性急な決戦を避け、情報戦と謀略を駆使した。敵陣営内の不和を煽るための離間工作や、周辺の国人衆の調略を進め、戦わずして敵の戦力を削ぐことに注力したのである 17 。そして機が熟したと見るや、氏康は連合軍に対し「もはやこれまで。城を明け渡す代わりに、籠城している兵たちの命だけは助けていただきたい」という偽りの降伏勧告を送った 14 。この申し出は、長期の包囲戦で弛緩し、敵を侮っていた連合軍の将帥たちに「勝利は目前である」という慢心と油断を生じさせた 22 。
敵の警戒心が完全に解けたことを見計らい、天文15年(1546年)4月20日の深夜、氏康は決戦の火蓋を切った。兵たちに鎧兜を脱がせて身軽にさせ、音を立てずに敵陣に接近。そして、完全に油断しきっていた砂久保の扇谷上杉陣に対し、電撃的な夜襲を敢行した 19 。この奇襲は単なる突撃ではなく、全軍を4隊に分け、1隊を予備として残しつつ3隊が波状攻撃を仕掛けるという、極めて計算された戦術であった 19 。同時に、城内で合図を待っていた北条綱成の部隊も城から打って出て、混乱する連合軍を背後から突き、挟撃態勢を完成させた 17 。
不意を突かれた連合軍は、暗闇の中で大混乱に陥り、組織的な抵抗もできないまま総崩れとなった。この戦いで扇谷上杉家の当主・上杉朝定は討死し、重臣の難波田憲重ら多くの将兵が命を落とした 5 。これにより、名門・扇谷上杉氏は事実上滅亡する。山内上杉憲政は上野国へ、古河公方・足利晴氏は本拠地古河へと敗走し、関東における旧勢力の権威は決定的に失墜した 15 。
河越夜戦の歴史的意義は計り知れない。この劇的な勝利によって、後北条氏は名実ともに関東の覇者としての地位を確立し、その後の約半世紀にわたる支配体制を磐石のものとした 8 。この戦いは、織田信長の桶狭間の戦い、毛利元就の厳島の戦いと並び、寡兵が大軍を破った戦術的奇跡として「日本三大奇襲」の一つに数えられている 3 。
しかし、この戦いの本質は単なる「奇襲の成功」という戦術的側面のみにあるのではない。真の勝因は、寄せ集めであるがゆえに指揮系統が不明確で、長期の包囲戦によって士気が低下していた連合軍の組織的脆弱性と 17 、半年にわたって情報戦・心理戦を周到に仕掛け、敵の弱点を的確に突いた北条氏康の卓越した戦略眼との対比にある。兵力の多寡という物理的要素よりも、情報の質、指揮官の能力、組織の結束力といった非物理的要素が勝敗を決するという、近代戦にも通じる普遍的な原理を、この戦いは示している。河越夜戦は、戦国時代が単なる武力衝突の時代ではなく、高度な情報戦、心理戦、そして組織マネジメント能力が問われる時代であったことを証明する、最高のケーススタディと言えるのである。
河越夜戦の劇的な勝利を経て、河越城の役割は再び大きく変貌を遂げた。それまでの対上杉氏の最前線という軍事拠点としての性格から、後北条氏が北関東へと勢力を拡大し、広大な領国を経営するための政治・経済・軍事を統括する中核拠点へと進化したのである 1 。この重要な拠点を任されたのが、後北条氏譜代の重臣である大道寺氏であった。彼らは代々城代として河越に在城し、軍事と行政の両面を統括した 1 。
特に、大道寺政繁の時代には、河越の統治は大きな進展を見せた。政繁は優れた武将であると同時に、卓越した行政手腕を持つ官僚でもあった 25 。彼は、城下の治水事業に積極的に取り組み、洪水を防ぎ農地を安定させた。また、金融商人を城下に誘致して経済を活性化させ、さらには「掃除奉行」や「火元奉行」といった役職を設けて都市衛生や防災体制を整備するなど、近代的とも言える都市政策を展開した 25 。彼の統治思想の根底には、「民の暮らしあっての城。苛政は民を苦しめるだけでなく、城の根幹をも揺るがす」という信念があったと伝えられている 27 。このような善政によって城下の発展を促し、民心を掌握したことは、今日の「小江戸」川越の繁栄の礎を築いたと高く評価できる。
大道寺氏による統治は、後北条氏全体の領国経営思想を体現するものであった。後北条氏は、単に武力によって領地を「制圧」するだけでなく、検地の実施や税制の整備、そして民心の安定を重視した善政によって領国を「統治」することを基本戦略としていた。安定した領国経営が豊かな経済力を生み、それがさらなる軍事行動を支える強固な基盤となることを、彼らは深く理解していたのである。河越城と城下町は、この後北条氏の「力と統治のハイブリッド戦略」を実践するモデルケースであったと言える。
軍事面においても、後北条氏による城郭の改修が進められた。天正4年(1576年)頃、大道寺政繁の主導で城の大規模な修築・拡張が行われた記録がある 1 。太田道灌が築いた本丸、二ノ丸、三ノ丸といった基本構造を維持しつつ、新たに八幡曲輪などを増設し、防御機能が大幅に強化されたとみられる 1 。近年の発掘調査では、江戸時代の遺構の下から後北条氏時代のものと考えられる堀跡が発見されている 1 。この古い堀は乱雑に破壊されたのではなく、丁寧に埋め立てられた上で新たな堀が築かれており、極めて計画的な城郭改修が行われていたことが考古学的にも裏付けられている。この改修は、道灌以来の「連郭式」を基礎としながらも、馬出しのようなより実践的な防御施設を取り入れるなど、後北条氏独自の築城術(北条流)の要素が加えられた可能性が高い 28 。
このように、後北条氏の時代、河越城は単なる軍事要塞から、地域の政治・経済・文化の中心地としての性格を強めていった。それは、戦国大名が旧来の「支配者」から、領国と領民の経営に責任を持つ「統治者」へと脱皮していく、戦国時代の大きな歴史的潮流を示す重要な事例なのである。
約半世紀にわたり関東に君臨した後北条氏の支配も、天下統一を目前にした豊臣秀吉の前に、その終わりを告げる時が来た。天正18年(1590年)、秀吉は20万を超える大軍を動員し、小田原征伐を開始する。
この時、河越城代であった大道寺政繁は、北関東の防衛線である上野国の松井田城の守備についていた 25 。彼は、前田利家や上杉景勝、真田昌幸らが率いる圧倒的な兵力の北陸道軍を相手に奮戦するも、衆寡敵せず、水脈を断たれ兵糧を焼かれるなどの猛攻の末、ついに開城・降伏した 25 。城主である政繁が前線で降伏したことにより、主を失った河越城は、進軍してきた前田利家の軍勢に対し、ほとんど抵抗することなく開城したとみられる 5 。小田原城を中心とした各支城による拠点防衛網という後北条氏の防衛戦略は、豊臣軍の圧倒的な物量の前に各個撃破され、破綻を露呈したのである。
大道寺政繁のその後の運命は、戦国乱世の非情さを物語っている。降伏後、彼は豊臣方に加わり、武蔵松山城や八王子城の攻略戦において道案内役を務めるなど、かつての同胞を相手に戦うことを強いられた 25 。しかし、7月に本拠地である小田原城が陥落し、後北条氏が滅亡すると、秀吉は政繁に対し、主家を裏切り敵方に与した「不忠」を理由に切腹を命じた 25 。これは、旧体制の有力者を排除し、新たな支配秩序を天下に示すための見せしめであったと考えられている。有能な統治者であった政繁の悲劇的な最期は、一個人の能力や忠誠心ではもはや抗うことのできない、天下統一という時代の巨大なうねりを浮き彫りにしている。
後北条氏の滅亡後、関東一円は徳川家康の所領となった。家康は、江戸を新たな本拠地と定め、関東各地の要衝に信頼の厚い譜代の家臣を配置した。河越城には、徳川四天王の一人である酒井忠次の嫡男・酒井重忠が1万石をもって入封し、ここに川越藩が立藩する 1 。これにより、河越城の戦国時代は名実ともに終わりを告げ、江戸幕府の北の守りを担う近世城郭として、新たな歴史を歩み始めることになった。戦国時代の終焉における河越城は、後北条氏の滅亡という一つの時代の終わりと、徳川氏による新たな時代の始まりが交差する、まさに歴史の十字路であった。
戦国時代の河越城がどのような姿をしていたかを正確に復元することは容易ではないが、残された遺構や資料からその輪郭を辿ることができる。城の基本的な縄張りは、太田道灌が築いた「連郭式」が基礎となっていたと考えられる 2 。これに、後北条氏の時代、大道寺政繁らによって八幡曲輪の増設など、より実践的な防衛思想に基づく改修が加えられたのが、戦国期の河越城の姿であった 1 。江戸時代初期に藩主となった松平信綱によって大規模な拡張工事が行われる以前の、戦国末期の城の様子は、国立歴史民俗博物館が所蔵する「江戸図屏風」の中に描かれており、当時の姿を偲ぶ上で極めて貴重な視覚資料となっている 5 。
市街地化が進んだ現在でも、往時の姿を伝えるいくつかの遺構が残されている。
物理的な遺構だけでなく、河越城にはその歴史を物語る数々の伝説や異名が残されている。
これらの遺構と伝説は、それぞれが城の異なる側面を我々に語りかけてくる。遺構が城の物理的な「骨格」を伝えるのに対し、伝説や逸話は城にまつわる人々の記憶や想い、すなわち城の「魂」を物語っている。両者を合わせて考察することによって初めて、戦国時代の人々が河越城という空間をどのように体験し、認識していたのかを、より立体的に復元することができるのである。
本報告書で詳述してきた通り、河越城の歴史は、戦国期関東の動乱を凝縮した縮図である。その歴史は、享徳の乱という室町時代の秩序崩壊の中から生まれ、名将・太田道灌の先進的な戦略構想によって黎明期を飾った。しかし、道灌の死後は扇谷上杉氏の内紛と衰退の舞台となり、やがて新興勢力である後北条氏の手に渡る。そして、日本戦国史上屈指の逆転劇である河越夜戦の勝利により、後北条氏の関東支配を決定づける象徴的存在となった。その後、大道寺氏による善政の下で領国経営の拠点として繁栄するが、最終的には豊臣秀吉による天下統一の波に呑み込まれ、徳川の世へと引き継がれていく。このように、上杉氏の衰退、後北条氏の興亡、そして徳川氏の台頭という、戦国期関東のダイナミックな権力移行の過程そのものを、この城は体現している。
また、河越城は城郭技術の変遷を物語る貴重な証人でもある。太田道灌による中世的な「連郭式」縄張りを基礎としながら、後北条氏による実践的な改修を経て、江戸時代には松平信綱による大規模な拡張工事によって近世城郭へと姿を変えていった。一つの城跡の中に、異なる時代の築城思想が重層的に存在しており、その変遷を追うことができる学術的価値は極めて高い。
現代において、河越城は単なる過去の遺物ではない。全国的にも稀有な現存本丸御殿をはじめとする貴重な遺構は、我々が戦国時代の歴史と文化を直接感じることができる、かけがえのない文化遺産である 32 。川越市が現在進めている初雁公園の整備計画(城址公園化)は、この歴史的価値を未来へと継承していくための重要な取り組みである 31 。今後の発掘調査の進展と、歴史的景観の復元を通じて、河越城が持つ物語がより多くの人々に理解され、地域の誇りとして生き続けていくことが期待される。戦国期関東の要衝・河越城は、その歴史的価値を再認識され、未来に向けて新たな役割を果たしていくべき第一級の史跡なのである。
年代(西暦/和暦) |
主要な出来事 |
城主・城代 |
関連人物 |
典拠資料 |
1457年(長禄元年) |
太田道真・道灌父子により築城される。 |
扇谷上杉持朝 |
足利成氏 |
1 |
1486年(文明18年) |
太田道灌が主君・上杉定正に暗殺される。 |
扇谷上杉定正 |
- |
9 |
1497年(明応6年) |
山内上杉顕定が対岸に上戸陣を築き、7年間対峙する。 |
扇谷上杉朝良 |
- |
5 |
1537年(天文6年) |
後北条氏綱が攻め落とし、後北条氏の支配下に入る。 |
(城代)北条綱成 |
扇谷上杉朝定 |
1 |
1545年(天文14年) |
反北条連合軍による河越城包囲が始まる。 |
(城代)北条綱成 |
上杉朝定、上杉憲政、足利晴氏 |
5 |
1546年(天文15年) |
河越夜戦。北条氏康が連合軍を破り、扇谷上杉氏が滅亡する。 |
(城代)北条綱成 |
北条氏康 |
17 |
1576年(天正4年)頃 |
大道寺政繁により城が修築される。 |
(城代)大道寺政繁 |
北条氏政 |
1 |
1590年(天正18年) |
小田原征伐。前田利家が入城し、後北条氏が滅亡する。 |
(一時的)前田利家 |
豊臣秀吉、大道寺政繁 |
5 |
1590年(天正18年) |
徳川家康の関東入府に伴い、酒井重忠が入城し川越藩が立藩。 |
酒井重忠 |
徳川家康 |
1 |