上州沼田城は河岸段丘の要害に築かれ、上杉・北条・武田が争奪。真田昌幸が智謀で手中に収め、信幸が五層天守を築くも、内政の失敗で改易、徹底破却された。
上野国沼田城は、戦国時代の関東・甲信越地方において、単なる一城郭に留まらない極めて重要な戦略的価値を有していた。その価値は、城が持つ二つの卓越した特性、すなわち地形的な防御力と地政学的な重要性が分かち難く結びつくことで、相乗的に増大した点に求められる。この稀有な条件の組み合わせこそが、越後の上杉氏、小田原の北条氏、そして甲斐・信濃の武田氏という三大勢力をして、国運を賭してまでこの城を渇望せしめた根源的な理由であった。
沼田城が築かれた地は、地理の教科書にも典型例として紹介されるほど見事な河岸段丘の地形を呈している 1 。北を薄根川、西を利根川、そして南を片品川という三つの河川が深く大地を削り取って形成した断崖絶壁の上に、城と城下町は位置していた 1 。特に城が構えられた沼田台地の北西端は、利根川と薄根川の合流点に面し、低地との比高差が約80メートルにも達する天然の要害であった 2 。三方を深い谷によって守られたこの地形は、大規模な軍勢による力攻めを極めて困難にし、城に絶対的な防御上の優位性を与えた。この地形は城郭本体のみならず、城下の町全体を防衛する機能も果たしており、後世「天空の城下町」と称される所以となっている 3 。
沼田の地は、関東平野から三国峠を越えて越後へ至る南北の街道と、信濃から上野を経て関東各地へ繋がる東西の交通路が交差する、地政学的な「結節点」であった 1 。この立地は、平時においては物流と文化の交流点として機能する一方、戦時においては軍事行動の起点、あるいは兵站線の中継地として決定的な意味を持った。越後の上杉氏にとっては関東出兵の橋頭堡であり、小田原の北条氏にとっては越後からの侵攻を防ぐ最前線の防壁であった。また、信濃から東進を図る武田氏や真田氏にとっては、関東への勢力拡大を実現するための不可欠な足掛かりであった。
このように、一度手中に収めれば攻守にわたって絶大な利益をもたらす交通の要衝でありながら、同時に天然の地形によって極めて堅固な防御力を誇るという二つの特性を最高水準で兼ね備えていたこと、これこそが沼田城の戦略的価値の本質である。どちらか一方の価値を持つ城は数あれど、この二つが一体となることで、沼田城は単なる拠点ではなく、地域のパワーバランスそのものを左右する「鍵」としての役割を担うことになった。故に、この城を巡る争奪戦は、必然的に戦国史でも類を見ないほど熾烈かつ執拗なものとなったのである。
沼田城の歴史は、その築城主である上野国の在地領主・沼田氏の栄光と悲劇から始まる。彼らは自らの勢力拡大の象徴としてこの城を築いたが、やがてその城が持つ過大な戦略的価値ゆえに、より大きな権力の奔流に飲み込まれていく。沼田氏の滅亡は、外部からの侵略という要因に加え、彼ら自身が抱えていた内部の脆弱性が招いた必然的な結末でもあった。
沼田城を築いた沼田氏の出自については、複数の説が存在し、明確な定説を見ていない。軍記物である『加沢記』は、宝治合戦で滅亡した三浦泰村の子・景泰がこの地に逃れて祖となったとする三浦氏系の説を伝える 5 。一方で、鎌倉時代に大友氏の一族が沼田を領した記録から大友氏系とする説や、相模国を本領とした藤原秀郷流波多野氏の一族とする説も存在する 5 。これは、戦国期における多くの地方豪族がそうであったように、その出自の記録が曖昧であったことを示す一例と言える。
確かなことは、沼田氏が上野国利根郡一帯に勢力を張る領主として、室町時代から活動していたという事実である。彼らは当初、荘田城、応永12年(1405年)からは小沢城、そして永正16年(1519年)には沼田台地の断崖上にあった幕岩城へと拠点を移していった 2 。この居城の変遷は、沼田氏が徐々にその勢力を拡大・強化していく過程を物語っている。そして、その集大成として、より大規模かつ恒久的な支配拠点として沼田城の築城が計画されるに至ったのである。
沼田城の築城は、沼田氏十二代当主であった沼田万鬼斎顕泰(ぬまたばんきさいあきやす)によって行われた。天文元年(1532年)、約3年の歳月を費やして城は完成し、当初は「蔵内(倉内)城」と称された 8 。これは、沼田氏の権勢が頂点に達したことを示す記念碑的な事業であった。
しかし、その栄光は長くは続かなかった。当時の関東は、旧来の支配者であった関東管領・山内上杉氏の権威が失墜し、相模国から新興勢力である後北条氏が急速に勢力を伸長させる激動の時代であった。この巨大な地政学的変動は、沼田氏のような国衆(在地領主)に深刻な影響を及ぼした。沼田氏の家中は、伝統的な主筋である上杉氏を支持する派閥と、新たな覇者である北条氏に与する派閥に分裂し、深刻な対立を生んだのである 1 。
顕泰自身は上杉方であったが、家中の主導権を巡る争いや家督相続を巡る内紛(顕泰が嫡男・朝憲を殺害し、側室の子である平八郎景義を後継に据えようとしたとされる事件など)が頻発した 5 。こうした内部の不和と忠誠心の揺らぎは、外部からの干渉や調略に対する致命的な脆弱性を生み出した。顕泰は一族内の抗争の末、一時城を追われて越後へ逃れるなど、その支配は常に不安定な状態にあった。沼田氏の悲劇は、既にこの内部崩壊の段階でその種が蒔かれていたのである。
沼田氏にとどめを刺したのは、武田信玄麾下の将として頭角を現した真田昌幸であった。天正8年(1580年)、武田氏の先兵として沼田城を支配下に置いた昌幸に対し、沼田氏の血を引く最後の当主、沼田平八郎景義が城の奪還を目指して立ち上がった。景義は「摩利支天の再来」とまで謳われた勇将であり、旧領回復を期して北条氏や地元の有力者・由良氏の支援を取り付け、挙兵したのである 5 。
しかし、景義の前に立ちはだかったのは、昌幸の冷徹な謀略であった。昌幸は、沼田城の守将であり、かつ景義の母方の伯父(一説には祖父)にあたる金子美濃守泰清に密かに接触し、調略を仕掛けた 8 。金子は昌幸の甘言に乗り、「城を明け渡す」と偽って景義を沼田城内へとおびき寄せた。天正9年(1581年)3月、武装を解いて城内に入った景義は、待ち構えていた兵によって謀殺された 17 。これにより、上野国に栄えた名門沼田氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消すことになった。
この悲劇を今に伝えるのが、現在の沼田公園内に残る「平八石」である 11 。この石は、討ち取られた景義の首を検分するために置かれたものと伝えられている 21 。晒された首は、亡骸が葬られた小沢城跡まで夜な夜な飛んで行ったという伝説も残り、沼田氏最後の当主の無念を物語っている 18 。昌幸の謀略は見事であったが、それは沼田氏が長年にわたって抱えていた内紛という土壌があったからこそ成功したものであった。自らの内紛によって滅びの道を歩み始め、その最後の扉を昌幸によって閉ざされた、それが在地領主・沼田氏の悲劇の真相であった。
沼田氏の手を離れた沼田城は、その戦略的重要性の高さゆえに、関東・甲信越の覇権を争う巨大勢力の角逐の場、まさに「権力の坩堝」と化した。城の支配者は目まぐるしく入れ替わり、その変遷はそのまま戦国後期の勢力図の推移を映し出す鏡となった。この混乱期に、類稀なる知謀と戦略眼をもって沼田の地を完全に手中に収めたのが、真田昌幸であった。
沼田氏の内紛に乗じる形で、最初にこの地を直接支配下に置いたのは、越後の「軍神」長尾景虎(後の上杉謙信)であった。永禄3年(1560年)、景虎は関東管領・上杉憲政を奉じて関東に出兵(越山)し、北条方に与していた沼田康元から沼田城を攻略した 14 。これにより城は上杉家の直轄拠点となり、上野家成、河田重親、松本景繁といった重臣たちが「沼田三人衆」として城代を務め、関東経営の最前線基地としての役割を担った 14 。
しかし、この上杉氏による支配も盤石ではなかった。天正6年(1578年)、謙信が急逝すると、その後継者を巡って上杉家は「御館の乱」と呼ばれる大規模な内乱に突入する。この好機を逃さず、宿敵・北条氏は迅速に軍事行動を起こし、沼田城を再び制圧。城代として猪俣邦憲らを送り込み、上野国への影響力を一気に回復させた 14 。
この時期の沼田城を巡る支配権の変転は、以下の年表に集約される。わずか20年ほどの間に、支配勢力が少なくとも4度も入れ替わるという事実は、この城が三大勢力のパワーバランスを測るバロメーターであり、誰もが手放すことのできない最重要拠点であったことを雄弁に物語っている。
表1:沼田城 支配勢力の変遷年表(1532年~1590年)
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
支配勢力(城主・城代) |
1532年(天文元年) |
沼田顕泰、沼田城(蔵内城)を築城。 |
沼田氏 |
1560年(永禄3年) |
長尾景虎(上杉謙信)が越山し、沼田城を攻略。 |
上杉氏 (城代:上野家成ら「沼田三人衆」) |
1569年(永禄12年) |
(『加沢記』説)沼田氏の内紛に乗じ、上杉氏が支配を強化。 |
上杉氏 (城代:本庄秀綱) |
1578年(天正6年) |
御館の乱に乗じ、北条氏が沼田城を制圧。 |
北条氏 (城代:猪俣邦憲、金子泰清ら) |
1580年(天正8年) |
真田昌幸が調略により無血開城させ、武田氏の支配下に置く。 |
武田氏(真田氏) |
1582年(天正10年) |
武田氏滅亡後、織田家臣・滝川一益の支配下となる。 |
織田氏 (城代:滝川益重) |
1582年(天正10年) |
本能寺の変後、「天正壬午の乱」を経て真田昌幸が支配権を再確立。 |
真田氏 |
1589年(天正17年) |
豊臣秀吉の裁定により、北条氏へ引き渡される。 |
北条氏 (城代:猪俣邦憲) |
1590年(天正18年) |
小田原征伐後、真田氏に返還される。 |
真田氏 |
出典: 14 等の情報を基に作成。
この混沌とした状況に終止符を打ち、沼田の地に安定した支配を確立したのが真田昌幸であった。当初、昌幸は武田勝頼の家臣として沼田攻略を命じられていた。天正7年(1579年)、昌幸は沼田城攻略の前線基地として名胡桃城を築城 8 。翌天正8年(1580年)、彼は武力ではなく知謀をもって沼田城に迫った。城代の一人であった金子泰清を巧みに調略し内応させると同時に、叔父である猛将・矢沢頼綱に軍を率いて進軍させた。この軍事圧力と内部からの切り崩しの連携により、沼田城は一滴の血も流すことなく開城し、武田氏の、そして実質的には真田氏の支配下に入ったのである 8 。
昌幸の真価が発揮されたのは、天正10年(1582年)の武田氏滅亡後のことである。主家を失い、織田信長の家臣・滝川一益の配下となった昌幸だが、同年の本能寺の変によって信長が斃れると、旧武田領は主無き地となり、徳川、北条、上杉がその継承を巡って争う「天正壬午の乱」が勃発する 14 。この未曾有の動乱期において、昌幸は小領主としての生き残りを賭け、卓越した外交・軍事能力を駆使した。
彼の行動原理は、単なる大勢力への追従ではなかった。それは、信濃小県郡(西の拠点・上田)と上野沼田(東の拠点)を両輪とする、独立した領国を確立するという明確な戦略構想に基づいていた。当初、昌幸は北条氏直に属して徳川軍と戦ったが、戦況が膠着すると、徳川家康からの領土安堵の誘いに応じて離反。北条軍の補給路であった碓氷峠を占拠し、戦局を徳川有利に導いた 25 。しかし、その後の徳川・北条間の和睦交渉において、家康が沼田領を北条氏に割譲することを約束すると、昌幸は主筋であるはずの家康に公然と反旗を翻した 26 。彼にとって沼田は、交渉の道具ではなく、真田家が独立大名として自立するための東の生命線であり、絶対に譲ることのできない戦略資産であった。この一貫した執着こそが、昌幸の「表裏比興の者」と評される行動の根底に流れる、揺るぎない戦略だったのである。
真田昌幸の執念によって確保された沼田城は、その子・信幸(後の信之)の代に最盛期を迎え、壮麗な五層の天守が聳える近世城郭へと変貌を遂げた。しかし、その栄華は戦国乱世の終焉とともに新たな時代の価値観に直面し、築城から約150年後、武力ではなく内政の失敗によって突如として終焉を迎える。沼田城の歴史は、武力、政略、そして統治能力という、時代の求めるものが変遷していく様を象徴的に物語っている。
真田昌幸が徳川家康の命令を拒否して沼田城の支配を続けたことは、関東の平穏を望む天下人・豊臣秀吉にとって看過できない問題となった。これが世に言う「沼田領問題」である 29 。秀吉の天下統一事業の最終段階において、関東の雄・北条氏を従属させる上で、この沼田領の帰属問題は避けて通れない障害となっていた。
天正17年(1589年)、秀吉は自らの権威をもってこの問題に裁定を下す。その内容は、沼田城を含む沼田領の3分の2を北条氏に引き渡し、名胡桃城などを含む残りの3分の1を真田氏の所領として安堵するというものであった 14 。秀吉の家臣である津田盛月と富田一白、そして徳川家康の家臣・榊原康政が立ち会いのもと、沼田城は真田氏から北条氏へと引き渡された 14 。
しかし、この裁定が実行された直後、歴史を大きく動かす事件が発生する。沼田城代となった北条方の将・猪俣邦憲が、真田領とされた名胡桃城を武力で奪取したのである。これが「名胡桃城事件」である 14 。この行為は、秀吉が天下に発令していた「惣無事令(大名間の私闘を禁じる法令)」への明確な違反であった。秀吉はこの事件を、北条氏が豊臣政権への服従を拒否する意思表示とみなし、これを口実として全国の大名に号令を発し、翌天正18年(1590年)の小田原征伐へと踏み切った 14 。上野国の一城郭を巡る領有権問題が、結果的に戦国時代の終わりを告げる天下統一戦争の直接的な引き金となったのである。
小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、沼田領は再び真田氏の元へと返還された。そして、昌幸の嫡男・真田信幸が、父から独立した2万7千石の領主として沼田城主となった 8 。
信幸の治世を語る上で欠かせないのが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを前にした逸話である。天下分け目の戦に際し、信幸は徳川家康率いる東軍に、父・昌幸と弟・幸村(信繁)は石田三成率いる西軍に与することを決断。袂を分かった昌幸と幸村が、居城である信濃上田城へ戻る途上、孫の顔を見るためとして沼田城への入城を求めた。しかし、城を預かっていたのは信幸の正室・小松姫(大蓮院)であった。彼女は徳川四天王・本多忠勝の娘であり、家康の養女として信幸に嫁いだ気丈な女性であった。小松姫は緋縅の鎧を身にまとい、薙刀を携えて城門に立ち、「たとえ舅君といえども、今は敵味方。主(信幸)の留守中に城内へお入れすることはなりませぬ」と、入城を断固として拒否した 3 。その毅然とした態度に、謀将・昌幸も「さすがは本多忠勝の娘」と感心し、入城を諦めたという。しかし、話はそれで終わらない。小松姫はその後、密かに昌幸一行を城下の正覚寺に案内させ、翌日には自ら子供たちを連れて訪れ、祖父と孫の最後の対面を果たさせたと伝えられている 39 。戦国の非情さの中にも、家族としての情愛と武家の妻としての矜持を示したこの逸話は、小松姫の人物像を鮮やかに描き出している。
関ヶ原の戦後、信幸(後に信之と改名)は父の旧領・上田も継承し、大名としての地位を固めた。彼は戦乱で疲弊した沼田領の復興に尽力し、岡谷戸神用水や町田用水といった用水路を開削して新田開発を進め、城下町の町割りを行うなど、善政を敷いて領民から慕われた 8 。
そして慶長2年(1597年)頃、信幸は沼田城の大規模な改修に着手し、その象徴として五層の壮大な天守閣を建造した 3 。当時の関東において五層の天守を持つ城は、将軍の居城である江戸城を除いては沼田城だけであったとされ、その威容は真田家の権勢を天下に示すものであった 22 。
信之が信濃松代藩へ転封となると、沼田領は信之の長男・信吉を初代藩主とする沼田藩として、松代藩の分領的な形で存続した 9 。しかし、沼田を本拠とした真田家の治世は、五代藩主・真田信利の代に突如として終わりを迎える。
信利は、沼田藩の実質的な石高が3万石程度であったにもかかわらず、幕府に対して14万4千石もの過大な石高を申告した 45 。これは、真田本家の家督を継げなかったことへの対抗心からとも言われるが、結果として領民にはその過大な石高に見合った重税が課せられ、領内は著しく疲弊した。
この悪政の破綻は、意外な形で露呈する。延宝8年(1680年)、幕府は江戸の両国橋が流失したため、その架け替え用材の調達を沼田藩に命じた 9 。しかし、長年の重税で困窮しきっていた領民の協力は得られず、信利は用材を納期までに調達することができなかった。
この用材調達の遅延と、かねてからの悪政が幕府の咎めるところとなり、天和元年(1681年)、真田信利は改易、すなわち領地没収の処分を受けた 10 。そして翌天和2年(1682年)、戦国の世を駆け抜け、真田氏の栄華を誇った沼田城は、幕府の命令によって天守、櫓、城門に至るまで徹底的に破却され、堀も埋め立てられた 9 。数多の戦火を耐え抜いた名城が、戦争ではなく、木材調達の失敗という内政上の失態によって地上から姿を消した事実は、武勇や政略よりも安定した統治能力が求められる江戸時代の到来を、皮肉な形で物語っている。
真田氏の時代に最盛期を迎えた沼田城は、近世城郭として高度に完成された構造を誇っていた。その姿は、江戸時代初期に作成された「正保城絵図」によって詳細に知ることができる。徹底的な破却により往時の建造物は失われたものの、今なお残る遺構や文化財は、かつての城の壮大さと、そこに刻まれた歴史を静かに伝えている。
真田氏四代藩主・信政の時代、正保年間(1644年~1647年)に幕府へ提出された「上野国沼田城絵図」は、城の軍事的側面を克明に記録した貴重な資料である 2 。この絵図によれば、沼田城の縄張り(城の設計)は以下の特徴を持っていた。
天和2年(1682年)の破却後、沼田の地は本多氏、黒田氏、そして土岐氏が藩主として治めたが、城が本格的に再建されることはなかった。彼らは三の丸跡に藩の政庁となる居館(屋形)を構えるにとどまり、かつてのような天守や櫓が再び築かれることはなかったのである 10 。
明治維新を経て、これらの居館も取り壊され、城跡は荒廃が進んだ。この状況を憂いたのが、旧沼田藩士の子で実業家として成功を収めた久米民之助であった。大正5年(1916年)、彼は私財を投じて城跡の土地を購入し、公園として整備した上で、大正15年(1926年)に沼田町(現在の沼田市)へ寄付した 15 。現在の沼田公園の礎は、彼の郷土愛によって築かれたものである。
現在、公園として整備された城跡には、往時の面影を伝えるいくつかの遺構や文化財が残されている。本丸西櫓台の石垣や、本丸と二の丸を隔てていた本丸堀の一部は、今も城郭の痕跡を明確に示している 2 。また、公園内には歴史を物語る重要な文化財が点在する。
これらの遺構や文化財は、今はなき「天空の要塞」の記憶を現代に伝え、訪れる人々にその激動の歴史を語りかけている。
上州沼田城の歴史は、戦国乱世から近世へと至る時代の大きなうねりを、一つの城郭の盛衰を通して凝縮して見せてくれる。その存在は、単なる上野国の一地方拠点に留まるものではなかった。城が持つ地理的・地政学的な特異性は、在地領主・沼田氏を悲劇的な滅亡へと導き、代わって上杉、北条、武田という三大勢力による熾烈な争奪戦の舞台となった。
この混沌の中から、真田昌幸はその類稀なる知謀によって沼田城を掌握し、真田家が独立大名へと飛躍するための東の拠点として確立した。城を巡る「沼田領問題」は、やがて豊臣秀吉による天下統一事業の最終局面と直結し、「名胡桃城事件」を誘発することで、戦国時代の終わりを告げる小田原征伐の引き金となるという、日本史における極めて重要な役割を果たした。
真田信幸とその妻・小松姫の時代に、城は五層の天守を戴く壮麗な姿へと昇華され、真田家の栄華を象徴した。しかし、その栄光も永遠ではなかった。時代の価値観が武勇や政略から安定した統治能力へと移行する中で、五代藩主・真田信利は内政の失敗によって藩を取り潰され、城もまた徹底的に破却される運命を辿った。戦火ではなく、行政処分によって名城が地上から姿を消した事実は、戦国という時代の完全な終焉を物語っている。
沼田氏の興亡、真田昌幸の謀略、信幸と小松姫の決断、そして信利の失政。沼田城の石垣と堀は、これらの人間ドラマと、それに伴う武家の栄枯盛衰の全てを見つめてきた。今日、公園として人々の憩いの場となっているその地は、かつて関東・甲信越の勢力図を塗り替え、日本の歴史を動かすほどの重みを持っていたことを、今なお静かに我々に語りかけているのである。