越後国に存在した琵琶島城は、鵜川の天然要害を利用した平城。謙信の軍師とされる宇佐美定満の居城として知られるが、その実像は伝説と乖離。柏崎湊を支配する経済・軍事要衝として、御館の乱で真価を示した。
日本の戦国時代にその名を刻む城郭は数多いが、その多くは山城としての険峻な姿や、近世城郭としての壮麗な天守を今に伝えている。しかし、越後国(現在の新潟県)に存在した琵琶島城は、そうした城とは一線を画す。河川の改修と市街地化の波に呑まれ、その物理的な痕跡を完全に地上から消し去った「失われた城」である 1 。その名は、上杉謙信の伝説的な軍師・宇佐美定満の居城として広く知られているが、その名声とは裏腹に、城と城主を巡る物語は史実と後世の創作が複雑に絡み合った、一つの大きなパラドックスを内包している。
本報告書は、この琵琶島城を多角的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。まず、現存しない城郭の構造を地理的環境と古記録から再構築し、その立地が持つ戦略的意味を明らかにする。次に、南北朝時代の築城から慶長3年(1598年)の廃城に至るまでの通史を追い、越後国内の権力闘争の中で当城が果たした役割を時系列で整理する。
そして、本報告書の中核をなすのが、城主とされる宇佐美氏、特に宇佐美定満を巡る「虚像」の解体である。江戸時代の軍記物語によって形成された「伝説の軍師」像と、一次史料から浮かび上がる実像との間の大きな乖離を徹底的に検証する。この作業を通じて、琵琶島城の名声がいかにして構築されたか、その歴史的背景を探る。
最終的に、宇佐美氏の伝説から離れ、戦国期越後における琵琶島城の真の戦略的価値を再評価する。それは、日本海交易の拠点であった柏崎湊を支配下に置く経済的・兵站的要衝としての役割であり、その重要性は上杉家の後継者争いである「御館の乱」において最も鮮明に示された。本報告書は、失われた平城の物理的な再構築に留まらず、その歴史的評価にまとわりついた伝説の層を剥がし、戦国時代の地政学と経済の中に埋もれた真の意義を明らかにすることを目指すものである。
琵琶島城は、その物理的遺構が完全に失われているため、その姿を現代の我々が直接目にすることはできない 3 。しかし、地理的条件と断片的な記録を組み合わせることで、かつて鵜川のほとりに存在した平城の巧みな設計思想と戦略的価値を浮かび上がらせることが可能である。
琵琶島城は、典型的な平城であり、山城が持つような天然の地形的優位性には恵まれていなかった 2 。その防御力を担保していたのが、城の立地そのものであった。城は、鵜川が大きく蛇行する地点に形成された自然堤防上に築かれていた 3 。さらに、この地点は横山川などの支流が鵜川に合流する場所でもあり、複雑な河川網が城の周囲を取り囲んでいた 6 。
この地形は、城にとって巨大な天然の水堀として機能した。特に、昭和30年代に行われた河川改修以前の鵜川は、現在よりもはるかに激しく蛇行しており、城はその流れによって三方あるいは四方を守られる、まさに「水の要塞」であったと推測される 5 。加えて、周辺一帯は土地改良が進む前は「深田」と呼ばれる排水の悪い湿地帯であり、大軍が組織的に展開し、城に接近することを物理的に困難にしていた 6 。このように、琵琶島城は平城でありながら、周囲の自然環境を最大限に活用することで、極めて高い防御力を実現していたのである。
城の具体的な縄張り(設計)を知る手がかりは、江戸時代の地誌『白川風土記』の記述に残されている 6 。この記録によれば、城は複数の曲輪から構成されていたことがわかる。
防御施設に関しても、昭和初期まではその痕跡が残っていたと伝えられている。本丸の周囲は、高さ2~3メートル、基底部の幅が4~5メートルにも及ぶ大規模な土塁で囲まれており、東に大手虎口(正門)、西に搦手虎口(裏門)が設けられていたという 1 。これらの記録から、琵琶島城が単なる砦ではなく、複数の防御区画と堅固な土木工事によって構成された、本格的な城郭であったことがうかがえる。
琵琶島城は、慶長3年(1598年)に廃城となった後、江戸時代を通じてその機能を失い、城としての役割は大久保などに置かれた陣屋へと移っていった 1 。しかし、城郭の痕跡が完全に消滅したのは、はるか後世のことである。
昭和初期の段階では、前述の通り主郭の土塁跡などが残存していた 1 。しかし、第二次世界大戦後の高度経済成長期に入ると、城跡が残る土地の運命は大きく変わる。鵜川の治水と周辺地域の利水を目的とした大規模な河川改修工事と、それに伴う市街地の拡大によって、城の遺構は次々と削平され、完全に失われた 1 。
現在、城の中枢部があった場所には新潟県立柏崎総合高等学校(旧柏崎農業高校)が建っており、往時の面影を偲ぶものは何もない 1 。わずかに、校地内に設置された「琵琶島城跡」と記された石碑と説明板が、かつてこの地に越後の歴史を動かす拠点があったことを静かに伝えているのみである 1 。なお、城跡は昭和48年(1973年)8月1日に柏崎市の市指定史跡(記念物)に指定されている 1 。
琵琶島城の物理的な消滅は、単なる風化や時の流れによるものではない。それは、近世から近代、そして現代へと至る社会の変化を象徴する出来事であった。軍事拠点の価値が失われ、治水や教育といった近代的な社会基盤の整備が優先される中で、城はその物理的な存在を次世代の発展のために明け渡した。その意味で、琵琶島城の「不在」そのものが、柏崎という都市の近代化の歴史を物語る、一つの歴史的遺産であると言えるだろう。
琵琶島城の歴史は、越後国における守護・上杉氏と守護代・長尾氏の間の、長く複雑な権力闘争と密接に結びついている。築城から廃城に至るまでの約250年間、この城は越後の政治情勢を映し出す鏡のような存在であった。
表1:琵琶島城 関連年表
西暦 / 和暦 |
琵琶島城の動向 |
城主・関連人物 |
越後国および周辺の情勢 |
南北朝時代前期 |
宇佐美氏により築城されたと伝わる 2 。 |
宇佐美氏(上杉憲顕に従属) |
越後守護職・上杉憲顕が越後に入国。 |
1380年頃 |
宇佐美祐益が配されたのが始まりとの説もある 10 。 |
宇佐美祐益(上杉房方に随行) |
越後守護職・上杉房方が入部。 |
1514年(永正11年) |
城主一族の宇佐美房忠が小野城などで敗死 10 。 |
宇佐美房忠 |
永正の乱。守護・上杉定実と守護代・長尾為景が対立。 |
1536年(天文5年) |
三分一原の戦い。定満は為景を追い詰めるも敗北 10 。 |
宇佐美定満 |
上杉定憲が長尾為景排斥の兵を挙げる。 |
1564年(永禄7年) |
宇佐美定満が野尻池で溺死。宇佐美氏が没落 9 。 |
宇佐美定満 |
長尾政景も同日に溺死。 |
天正初年頃 |
宇佐美氏没落後、城主が変遷。 |
琵琶島殿、琵琶島弥七郎、前島修理亮 |
上杉謙信が越後を統一。 |
1578年(天正6年) |
御館の乱。景虎方に与し、景勝方に降伏・開城 10 。 |
前島修理亮 |
上杉謙信が急死し、景勝と景虎の間で後継者争い勃発。 |
1584年(天正12年) |
桐沢具繁が御館の乱の恩賞として城主となる 3 。 |
桐沢但馬守具繁 |
上杉景勝が越後を掌握。 |
1598年(慶長3年) |
上杉景勝の会津移封に伴い、桐沢氏も移り廃城となる 2 。 |
桐沢但馬守具繁 |
豊臣秀吉の命により、全国的な大名配置転換が行われる。 |
琵琶島城がいつ、誰によって築かれたか、それを明確に示す同時代の史料は存在しない。しかし、最も広く受け入れられている説は、南北朝時代に宇佐美氏によって築かれたというものである 2 。伊豆国(現在の静岡県)を本拠とする豪族であった宇佐美氏は、足利尊氏に仕え、越後守護職に任じられた上杉憲顕が越後に入国する際に随行し、この地に拠点を構えたとされる 3 。
別の伝承として、応安元年(1368年)あるいは康暦2年(1380年)頃、上杉房方が越後守護として入部した際、鎌倉公方・足利氏満の命により、宇佐美満秀の弟である祐益が随行し、琵琶島に配されたのが始まりとする説もある 10 。いずれの説も、宇佐美氏が越後守護である上杉家の被官として越後に入り、その拠点として琵琶島城を築いたという点で共通している。この出自が、後の宇佐美氏の政治的立場を決定づけることになる。
室町時代の越後では、名目上の支配者である守護・上杉氏と、実権を掌握しつつあった守護代・長尾氏との間で、長年にわたり激しい権力闘争が繰り広げられた。守護・上杉氏の直臣として越後に入った宇佐美氏は、一貫して上杉方として行動し、長尾氏と対立する立場にあった 3 。
その対立が最も激化したのが、16世紀初頭の「永正の乱」である。この乱において、宇佐美房忠は守護・上杉定実を支持し、守護代・長尾為景(上杉謙信の父)と敵対した。しかし、永正11年(1514年)、房忠が立て籠もった小野城が為景に攻め落とされ、房忠は討死を遂げた 10 。
房忠の後を継いだとされる宇佐美定満もまた、父祖以来の反長尾の姿勢を貫いた。天文5年(1536年)、上杉定憲が為景排斥の兵を挙げると、定満もこれに呼応。三分一原の戦いで為景軍と激突した。この戦い自体は定満方の敗北に終わったものの、一説には定満の奮戦が為景を討死寸前にまで追い詰めたとされ、これが為景の隠居の一因になったとも言われている 10 。
長尾為景の子・景虎(後の上杉謙信)が家督を継ぎ、越後の実権を完全に掌握すると、守護・上杉家は形骸化し、宇佐美氏も景虎に従うこととなる。しかし、永禄7年(1564年)に宇佐美定満が謎の死を遂げると、宇佐美氏は没落の一途をたどる 3 。
その後、琵琶島城は長尾(上杉)家の直轄拠点となり、城主は頻繁に交代したと考えられる。史料には「琵琶島殿」や能登出身とされる「琵琶島弥七郎」といった人物の名が見えるが、その詳細は不明である 3 。
天正6年(1578年)、上杉謙信が急死すると、その後継を巡って養子の景勝と景虎が争う「御館の乱」が勃発する。この時、琵琶島城主であった前島修理亮は景虎方に与した 3 。琵琶島城が柏崎湊を抑える戦略的要地であったことから、前島は御館に籠る景虎への兵站輸送を試みた。しかし、景勝方の将・佐野清左衛門尉の妨害によって輸送は失敗に終わり、琵琶島城も間もなく降伏・開城した 10 。
乱が景勝の勝利に終わった後、天正12年(1584年)、論功行賞として桐沢但馬守具繁が新たな城主に任命された 2 。
琵琶島城の歴史は、越後の支配者であった上杉家の動向と共に終焉を迎える。慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は越後から会津120万石へと移封された。これに伴い、城主であった桐沢具繁も主君に従って会津へと移り、その拠点であった琵琶島城は放棄され、廃城となった 2 。南北朝時代から2世紀半にわたり、越後の政治と経済の要衝として機能してきた城は、その歴史的役割を静かに終えたのである。
琵琶島城の名を不朽のものにしたのは、城主とされる宇佐美定満の存在である。彼は上杉謙信の「軍師」として、数々の合戦を勝利に導いた天才的戦略家として語り継がれてきた 14 。しかし、その英雄的なイメージは、後世に創られた虚像である可能性が極めて高い。一次史料と軍記物語を比較検討することで、伝説の裏に隠された歴史の真実を探る。
表2:宇佐美定満像の比較:一次史料と軍記物
事績・評価 |
軍記物における記述(主に『北越軍記』) |
一次史料における裏付け |
考察 |
上杉謙信の軍師 |
謙信の軍師として常に側にあり、数々の献策を行ったとされる 3 。上杉四天王の一人に数えられる 16 。 |
謙信の軍師であったことを示す同時代の史料は皆無。「軍師」という役職自体が戦国期には一般的ではない 15 。 |
「軍師」像は、江戸時代に宇佐美定祐が自らの軍学の権威付けのために創作した可能性が高い 11 。 |
長尾為景との関係 |
謙信の父・為景の代から長尾家に仕えた忠臣として描かれることがある。 |
史実では、守護・上杉方に与し、長尾為景と敵対。三分一原の戦いで為景軍と交戦している 10 。 |
軍記物は、宇佐美氏が本来は長尾氏の敵対者であったという不都合な史実を意図的に改変している。 |
長尾政景の誅殺 |
謙信への謀反を企てた長尾政景を、野尻湖上の舟遊びに誘い出し、道連れに心中して誅殺した忠臣 9 。 |
長尾政景が野尻池で溺死したことは事実だが、定満が関与したことを示す同時代の史料は存在しない 11 。 |
史料から姿を消した定満の最期を英雄的に飾るための創作。定満の死因・没年も不明である。 |
琵琶島城との関係 |
琵琶島城を居城とし、そこから謙信を支えたとされる 3 。 |
宇佐美氏が琵琶島城主であった可能性は高いが、本拠地は小野城など別の場所であったとする研究もある 2 。 |
琵琶島城と宇佐美氏の結びつきを強調することで、物語に地理的なリアリティを与えている。 |
一般に知られる宇佐美定満の姿は、江戸時代に成立した『北越軍記』や『北越軍談』といった軍記物語によって形作られたものである 6 。これらの物語の中で、定満は長尾景虎(謙信)の類稀な才能をいち早く見抜き、家督相続を後押しした人物として登場する 14 。そして、謙信の軍師として常にその傍らにあり、武田信玄や北条氏康といった強敵との戦いにおいて、巧みな計略で上杉軍を勝利に導いたとされる。
この「軍師・宇佐美定満」のイメージは、小説や大河ドラマなどの大衆文化を通じて繰り返し描かれ、不動のものとなった 6 。彼は柿崎景家、直江景綱、甘粕景持らと共に「上杉四天王」の一人に数えられ、上杉家を代表する名将として認識されている 16 。
しかし、信頼性の高い同時代の一次史料を検証すると、この華々しい軍師像は根底から揺らぐ。まず、定満が謙信の「軍師」であったという事実は、いかなる一次史料からも確認できない 11 。そもそも「軍師」という役職自体が、中国の兵法書に由来するもので、戦国時代の日本に常設の役職として存在したわけではない 17 。謙信の意思決定を支えたのは、直江実綱(景綱)や本庄実乃といった奉行衆であり、そこに定満の名は見当たらない 17 。
史料で確認できる宇佐美定満の確実な活動は、むしろ長尾氏の敵対者としてのものである。前章で述べた通り、彼は父祖以来の立場を守り、守護・上杉家のために守護代・長尾為景と戦った 10 。その後、謙信の代になって長尾家に仕えたことは事実のようだが、天文20年(1551年)に上田長尾家の長尾政景が謙信に降伏したのを最後に、定満の名は信頼できる史料から忽然と姿を消してしまう 11 。これは、彼が謙信のキャリアを通じて中心的な役割を果たし続けたという軍記物の記述とは、全く相容れない。
さらに、宇佐美氏が琵琶島城を本拠としていたという定説自体にも、再考の余地が指摘されている。研究者の中には、宇佐美氏の本拠地は現在の柿崎区域にあった小野城であり、琵琶島城は上杉・長尾家の直轄地であった可能性を指摘する声もある 2 。
では、なぜこれほどまでに史実と異なる「軍師・宇佐美定満」像が生まれ、定着したのか。その根源は、江戸時代前期に成立した軍記物『北越軍記』にある 11 。この書の作者は、紀州徳川家に仕えた軍学者・宇佐美定祐であるとされている 17 。定祐は自らを戦国期の宇佐美氏の末裔と称し、越後流軍学の祖として自らの家系を権威づける必要があった。そのために、自身の祖先とされる人物(定満、あるいは軍記物の中では定行という名で登場する)を、戦国最強の武将と謳われた上杉謙信の師であり、天才軍師であったかのように描き出したと考えられる。
このプロセスは、一種の歴史の捏造であった。平和な江戸時代において、武士の家格や由緒は極めて重要であり、幕府自身が各家の由緒書の提出を求め、ある種の由緒捏造を黙認、あるいは推奨する側面すらあった 17 。宇佐美定祐は、この時代の風潮の中で、自らの家と学派の価値を高めるために、『北越軍記』という壮大なフィクションを書き上げたのである。この物語は、史実の複雑さや曖昧さを排し、英雄と忠臣という分かりやすい構図で描かれていたため、講談や読み物として民衆に広く受け入れられ、やがて史実であるかのように信じられるようになっていった。
宇佐美定満の伝説を象徴するのが、永禄7年(1564年)の野尻湖(あるいは野尻池)における最期の逸話である 9 。物語によれば、謙信に対して謀反の疑いがあった重臣・長尾政景を、定満は舟遊びに誘い出す。そして、湖上で政景を組み伏せ、共に湖底に身を投じて主君の敵を討ち果たした、というものである。自己の命と引き換えに主君の危機を救った、忠臣の鑑として語られる美談である。
しかし、この感動的な逸話もまた、一次史料には一切の裏付けがない 11 。長尾政景が舟遊び中に溺死したことは史実と考えられているが、そこに定満が同席し、意図的に心中を図ったという証拠はどこにも存在しない 11 。この物語は、史料から姿を消した定満の後半生を埋めるために、そして彼の生涯を英雄的に完結させるために、『北越軍記』の作者によって創作されたエピソードである可能性が極めて高い。
さらに、この伝説を補強し、混乱を招いている要因として、長野県信濃町の野尻湖に浮かぶ琵琶島に、もう一つの「琵琶島城」が存在することが挙げられる 18 。この島には宇佐美定行(定満)の墓とされる経塚があり、長尾政景誅殺の地として案内されている。越後国柏崎市の琵琶島城と、信濃国野尻湖の琵琶島城という二つの異なる場所が、宇佐美定満という一人の人物を介して結び付けられ、混同されることで、伝説はより強固なリアリティを持つに至ったのである。
結論として、琵琶島城と宇佐美定満を巡る物語は、歴史そのものというよりは、「歴史がどのように語られ、記憶されるか」というプロセスを示す格好の事例である。城という実在の場所を舞台装置とし、実在の人物を主人公としながら、後世の社会的な要請に応じて壮大な歴史フィクションが構築された。琵琶島城が今日これほどまでに知られているのは、その史実上の重要性以上に、この魅力的な物語の力に負うところが大きいのである。
宇佐美定満を巡る伝説の影に隠れがちであるが、琵琶島城が戦国時代の越後において極めて重要な拠点であったことは疑いのない事実である。その価値は、特定の城主の武勇や智謀に依存するものではなく、城が持つ地政学的な位置と、それがもたらす経済的・軍事的機能に根差していた。
琵琶島城が担っていた最も重要な機能は、中世越後における有数の港湾であった「柏崎湊」の支配と防衛であった 3 。城は鵜川によって柏崎湊と直接結ばれており、港に出入りする船舶や物資の流通を管理・監督するのに理想的な位置にあった 3 。
戦国時代において、港湾の支配は領国経営の生命線であった。日本海交易を通じて、塩や鉄、海産物といった生活必需品はもちろん、畿内や西国からの奢侈品、さらには武器・弾薬などの軍需物資がもたらされた。これらの交易に税を課し、流通を掌握することは、領主にとって莫大な経済的利益を生み出した。琵琶島城は、この越後の経済的大動脈を抑えるための拠点であり、上杉(長尾)家にとって、その直轄支配下に置くべき最重要拠点の一つであったと考えられている 6 。宇佐美氏のような譜代の重臣や、あるいは上杉家一門の者が城主として派遣されたのは、この地の経済的重要性を物語っている。
琵琶島城の戦略的価値が歴史の表舞台で最も明確に示されたのが、天正6年(1578年)に勃発した上杉家の内乱「御館の乱」においてであった。この時、城主の前島修理亮は上杉景虎方に与し、上杉景勝と敵対した 10 。
この事態を、景勝は極めて深刻に受け止めていた。その証拠が、景勝が琵琶島城の近くにあった旗持城の城将・佐野清左衛門尉に宛てて送った書状の中に残されている。この書状で景勝は、佐野に対して以下の三点を厳命している 3 。
この書状の内容は、景勝が琵琶島城をどのように評価していたかを如実に示している。彼が恐れたのは、琵琶島城の兵が直接戦闘に参加すること以上に、その兵站拠点としての機能であった。柏崎湊から供給される豊富な物資が景虎方に渡れば、戦況は景勝にとって著しく不利になる。城を力攻めにするのではなく、まずその補給路を断つことを最優先課題とした景勝の判断は、琵琶島城が軍事力そのものよりも、ロジスティクスと経済の拠点として、この内乱の帰趨を左右するほどの重要性を持っていたことを証明している。
結局、前島修理亮が船団を組んで御館への物資輸送を試みたところを、佐野清左衛門尉の部隊が迎撃し、これを阻止した 12 。生命線を断たれた琵琶島城はまもなく景勝方に降伏・開城し、景勝は重要な経済基盤を確保することに成功した 10 。この一連の出来事は、戦国時代の合戦が単なる兵力の衝突だけでなく、経済力と補給能力を巡る総力戦であったこと、そして琵琶島城がその中で決定的な役割を担う戦略拠点であったことを、何よりも雄弁に物語っている。
本報告書を通じて行われた琵琶島城の総合的な調査は、この失われた平城が持つ二重の歴史的意義を浮き彫りにした。
第一に、琵琶島城は、宇佐美定満という一人の武将の居城という枠を超え、戦国期越後における地政学的・経済的な要衝であった。鵜川の蛇行を巧みに利用した天然の要害に位置し、中世越後有数の港湾であった柏崎湊を直接支配下に置くことで、上杉氏の領国経営における経済的・兵站的生命線を担っていた。その真価は、伝説的な合戦譚の中ではなく、上杉家の内乱「御館の乱」において、その補給能力が勝敗を左右する戦略的要素として敵味方双方から認識されていたという史実にこそ見出される。琵琶島城の歴史は、戦国時代の争いが単なる軍事力の衝突に留まらず、経済基盤と補給路を巡る熾烈な闘争であったことを示す、具体的な証左である。
第二に、琵琶島城は、歴史的事実が後世の物語によっていかに上書きされ、変容していくかを示す、極めて興味深い事例である。史料上では断片的な姿しか窺えない城主・宇佐美定満は、江戸時代の軍記物語『北越軍記』の作者の意図によって「伝説の軍師」へと昇華された。そして、琵琶島城はその伝説が繰り広げられるための壮大な「舞台装置」としての役割を与えられた。この英雄譚は、複雑で曖昧な史実よりもはるかに魅力的であったため、大衆文化を通じて広く浸透し、城の本来の重要性を覆い隠してしまった。
したがって、琵琶島城の物語は、二つの異なる層から成り立っている。一つは、鵜川のほとりに確かに存在し、越後の経済と軍事を支えた物理的な城の歴史。もう一つは、人々の記憶と記録の中で構築され、語り継がれてきた伝説の歴史である。
現代において、琵琶島城の遺構は完全に消滅し、その地には石碑が立つのみである。しかし、その不在は、我々に対して重要な問いを投げかける。我々が「歴史」として認識しているものは、果たして過去に実際に起こった出来事そのものなのか、それとも後世の価値観や要請によって再構成された物語なのか。琵琶島城は、その両義性の中にこそ、現代における真の歴史的意義を持っている。それは、かつて鵜川のほとりにあった土と石の構造物としての歴史に留まらず、歴史叙述そのものの本質を我々に問いかける、思想的な遺産なのである。