鎌刃城
近江鎌刃城は、江北と江南の境目の要衝。安土城に先駆ける石垣や枡形虎口、大櫓など先進技術が判明。信長の直轄城となるも、旧勢力解体のため意図的に破城された悲劇の城。
境目の先進要塞 鎌刃城 ―戦国史を書き換える知られざる巨城の実像―
序章:忘れられた要衝、鎌刃城
滋賀県米原市、中山道番場宿を見下ろす山稜に、鎌刃城(かまはじょう)の石垣と堀切が静かに眠っている。その名は、戦国史の表舞台を飾る著名な城郭に比べれば、広く知られているとは言い難い。しかし、この城こそ、戦国時代の城郭技術史における定説を覆し、織田信長による天下統一事業の深層を解き明かす鍵を握る、極めて重要な遺構なのである。
かつて鎌刃城は、近江の他の山城と同様、土塁と堀切を主体とした「土の城」と考えられてきた。だが、平成10年(1998年)から5年間にわたって実施された発掘調査は、この認識を根底から覆す衝撃的な事実を次々と明らかにした 1 。主郭部を堅固に固める高石垣、敵兵の侵入を阻む精緻な枡形虎口、そして権威の象徴ともいえる大規模な礎石建ちの建物群。これらは、信長が天正4年(1576年)に築城を開始した安土城において本格的に導入されたとされる、近世城郭の技術的特徴であった 3 。ところが、鎌刃城はこれらの先進技術を、安土城よりも数年早く、天正2年(1574年)頃には既に備えていたことが判明したのである 3 。
ここに、鎌刃城が投げかける根源的な謎が生じる。なぜ、これほどまでに先進的で軍事価値の高い城が、歴史の表舞台から忽然と姿を消し、さらには意図的に破壊されねばならなかったのか。この城の技術的先進性と、その裏腹にある政治的短命性というパラドックスは、一見すると矛盾している。最新技術の粋を集めて改修されながら、わずか数年で廃城・破城に至るという事実は、当時の技術革新の驚異的な速度と、信長が進めた天下統一事業がいかに急進的で、旧来の秩序を根こそぎ破壊するものであったかを物語っている。信長はなぜ、味方が守る最新鋭の拠点を、非合理的にさえ見えるやり方で地上から抹消する必要があったのか。
本報告書は、この問いを解き明かすことを主眼に置く。鎌刃城の誕生から終焉までの歴史を追い、発掘調査によって明らかになったその驚くべき構造を詳細に分析し、同時代の城郭と比較することで、戦国城郭史におけるこの城の真の位置づけを明らかにする。それは、鎌刃城が単なる一地方の山城ではなく、戦国の動乱期から近世へと至る時代の大きな転換点に咲き、そして散っていった「過渡期の傑作」であったことを示す旅となるであろう。
第一部:動乱の近江と鎌刃城の宿命
第一章:江北と江南の狭間で ―「境目の城」の誕生
「近江を制する者は天下を制す」という言葉が示す通り、近江国は古代より日本の政治・軍事・経済の中心地であった 1 。京都に隣接し、東国と西国を結ぶ交通の大動脈を扼するこの地は、戦国時代においてもその戦略的重要性を失うことはなかった。特に、近江は琵琶湖を挟んで、北の江北と南の江南という二つの地域に大別され、それぞれに強大な戦国大名が割拠していた。江北には佐々木京極氏、後にはそこから台頭した浅井氏が、江南には佐々木六角氏が覇を唱え、両者は長年にわたり熾烈な抗争を繰り広げた 4 。
鎌刃城は、まさにこの江北と江南の勢力圏が激しく衝突する最前線、すなわち「境目の城」としてその宿命を背負っていた 5 。城が築かれたのは、現在の米原市と彦根市の境界に連なる山地であり、坂田郡と犬上郡という、両勢力の国境地帯であった 1 。眼下には、東国と京を結ぶ大動脈である中山道(古くは東山道)が通り、その要衝である番場宿を直接監視できる絶好の位置を占めている 4 。鎌刃城は、この主要街道だけでなく、山間を抜ける脇街道をも押さえることで、敵対勢力の軍事行動や物流を完全に掌握できる、比類なき地政学的価値を有していたのである 8 。
その築城年代は定かではないが、歴史上にその名が初めて現れるのは、応仁・文明の乱のさなかである文明4年(1472年)のことである。『今井軍記』によれば、この年、京極方の武将・今井秀遠が、六角方に属する堀次郎左衛門尉が守る鎌刃城を攻め落としたと記録されている 4 。このことから、15世紀後半には既に、鎌刃城が南北勢力の争奪の的となる国境の要塞として機能していたことがわかる。
その後も鎌刃城は、両勢力の力関係の変化に応じて、その帰属をめまぐるしく変え続けた。天文7年(1538年)には六角定頼の攻撃により、城は完全に六角方の支配下に入る 5 。しかし、江北で浅井氏が京極氏を凌ぐ勢力として台頭すると、永禄2年(1559年)頃には、在地領主であった堀氏が浅井氏に属し、鎌刃城は浅井方の最前線拠点となった 5 。このように、鎌刃城の歴史は、常に大勢力の狭間で翻弄され続けた「境目の城」としての過酷な運命そのものであったと言える。
第二章:城主・堀氏の苦闘 ― 浅井、六角、そして織田
鎌刃城と運命を共にしたのが、この地を治めた国人領主・堀氏である。堀氏の出自は必ずしも明確ではないが、藤原秀郷の流れを汲むともいわれる 13 。彼らは、強大な戦国大名の間にあって、ある時は臣従し、ある時は敵対し、巧みな勢力選択によって家の存続を図る、戦国時代の典型的な在地領主であった 6 。
その堀氏にとって最大の転機となったのが、元亀元年(1570年)の織田信長の近江侵攻であった。当初、堀秀村は主君である浅井長政に従っていたが、信長の家臣・木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)の麾下にあった竹中半兵衛による執拗な調略を受け、一族の樋口直房と共に浅井氏を裏切り、織田方へと寝返った 3 。この決断は、浅井氏の背後を突くものであり、信長の江北攻略において極めて大きな意味を持った。信長はこの功を賞し、一説には堀氏に坂田郡で6万石の所領を与え、戦時下の湖北支配を任せたといわれる 5 。
しかし、この裏切りは当然ながら浅井長政の激しい怒りを買った。堀氏が織田方に寝返った直後、長政はすぐさま鎌刃城に大軍を差し向け、城は陥落の憂き目に遭う 3 。だが、同年6月の姉川の合戦で織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利すると、堀秀村は再び城主に返り咲くことができた 3 。
戦いはこれで終わらなかった。翌元亀2年(1571年)5月、勢力を盛り返した浅井長政は、一向一揆勢と連携して再び鎌刃城に襲いかかった 10 。城は猛攻に晒され、落城寸前の危機に陥る。この窮地を救ったのが、近くの横山城を守備していた木下藤吉郎であった。藤吉郎は、鎌刃城の危機を察知するや、迅速に援軍を派遣。この素早い救援により、長政軍は撃退され、鎌刃城は辛うじて陥落を免れたのである 3 。この一連の攻防戦は、織田軍にとって鎌刃城が、浅井氏の本拠・小谷城を攻略するための極めて重要な前線基地であったことを物語っている。
ところが、織田方として数々の功績を挙げたはずの堀氏を、不可解な運命が待ち受けていた。天正2年(1574年)、堀秀村と樋口直房は、突如として信長から改易、すなわち領地没収を命じられたのである 3 。その理由は定かではない。一説には、堀家の家老であった樋口直房が越前攻めの陣から逃亡したため、その責任を問われたという 18 。また、浅井氏が滅亡し、羽柴秀吉が長浜城を築いて江北の新たな支配者となったことで、堀氏のような旧来の在地領主の存在が政治的に不要になったため、という見方もある 2 。
堀氏の改易は、単なる個人的な懲罰に留まらない。それは、戦国時代の国人領主という存在そのものが、信長の新しい天下統一事業の中でその役割を終え、整理・淘汰されていく時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。堀氏の価値は、江北と江南が対立する「不安定な状況」においてこそ発揮された。彼らはその緩衝材であり、調略の対象として重要であった。しかし、信長がその対立構造自体を破壊し、羽柴秀吉によるより強力で直接的な支配体制を確立すると、堀氏のような自立性を持つ中間勢力は、もはや安定支配の障害物でしかなくなったのである。彼らは古い時代の論理で最善の選択をしたが、新しい時代の論理によって切り捨てられた。鎌刃城の歴史は、城主・堀氏の改易をもって、事実上の終焉を迎えることとなった。
年代 |
主な出来事 |
城の帰属 |
関連人物 |
文明4年 (1472) |
京極方が堀氏の守る鎌刃城を攻撃した記録(初見) |
六角方 |
堀次郎左衛門、今井秀遠 |
天文7年 (1538) |
六角氏の支配下に入る |
六角氏 |
六角定頼 |
永禄2年 (1559) |
浅井氏の勢力下に入り、堀氏が城主となる |
浅井方 |
浅井長政、堀氏 |
元亀元年 (1570) |
堀秀村が織田信長に内応。直後、浅井長政に攻められ落城。姉川合戦後、織田方として復帰 |
織田方 |
堀秀村、織田信長、浅井長政 |
元亀2年 (1571) |
浅井長政に再度攻撃されるも、木下藤吉郎の援軍により撃退 |
織田方 |
堀秀村、浅井長政、木下藤吉郎 |
天正2年 (1574) |
堀秀村・樋口直房が信長により改易される |
織田直轄 |
堀秀村、織田信長 |
天正2年以降 |
信長の直轄城となるが、まもなく廃城・破城されたと推定される |
(廃城) |
織田信長 |
第二部:発掘された先進技術
第一章:縄張りに見る鉄壁の防衛思想
鎌刃城は、標高384mの山頂に築かれた、戦国時代の典型的な山城の様相を呈している 5 。その縄張り(城の設計)は、山頂の主郭を中心に、そこから北西、西、南東の三方向に伸びる尾根筋を巧みに利用して構築されている。城域は東西約370m、南北約400mにも及び、湖北地域では浅井氏の本拠・小谷城に次ぐ大規模なものであった 3 。
この城の防衛思想を最も象徴しているのが、尾根筋を分断するために設けられた巨大な堀切である。特に城の北方を固める「大堀切」は圧巻の一言に尽きる。最大幅約25m、堀底までの深さは約9mにも達し、尾根伝いに侵攻してくる敵兵の行く手を完全に遮断する 20 。このような大規模な土木工事は、敵の主攻方向を正確に予測し、そこに防御力を集中させるという、極めて合理的で計算された防衛思想の表れである。
さらに、南に伸びる尾根筋には「七つ堀」と称される連続堀切が設けられており、幾重にも連なる防御線で敵の消耗を誘う巧みな設計が見られる 20 。これらの堀切は、単に尾根を断ち切るだけでなく、曲輪(平坦地)と交互に配置することで、防御側が有利に戦える空間を創出している。
また、西側の尾根に築かれた西郭には、近江の城郭では比較的珍しい「畝状竪堀群」が確認されている 11 。これは、山の斜面に対して垂直に何本もの竪堀を並べたもので、斜面を横移動しようとする敵兵の動きを効果的に妨害するための防御施設である。こうした多様な防御遺構の組み合わせは、鎌刃城が単なる見張り台ではなく、あらゆる方向からの攻撃を想定し、徹底した防備を施した本格的な戦闘要塞であったことを雄弁に物語っている。
第二章:安土城以前の「石の城」
平成の発掘調査がもたらした最大の発見は、鎌刃城が安土城に先駆けて石垣を多用した「石の城」であったという事実である 3 。調査以前は、土を盛り上げた土塁が主体の城と考えられていたが、主郭をはじめとする城の中心部が、強固な石垣によって囲繞されていたことが判明した 5 。
石垣の構築には、現地で産出する石灰岩が用いられている。石材はあまり加工されていない自然石に近いもので、それらを巧みに組み合わせて積み上げる「野面積み」という技法が採用された。石と石の隙間には粘土を詰め込むことで、石垣全体の強度を高めている 5 。南-Ⅱ郭の下方斜面には、現在も高さ約4m、長さ約30mにわたって続く「大石垣」が良好な状態で残存しており、往時の壮麗な姿を偲ばせている 2 。
さらに注目すべきは、城の出入り口である虎口の構造である。主郭や北郭の虎口には、石垣で四角く囲んだ空間を設けた「枡形虎口」が採用されていた 3 。これは、敵兵をこの狭い枡形空間に誘い込み、三方向から矢や鉄砲を浴びせて殲滅するための、極めて高度な防御施設である。門の礎石の発見から、ここには格式の高い薬医門が建てられていたことも判明している 2 。
石垣の多用、そして枡形虎口の導入という、これらの近世城郭に繋がる先進的な築城技術が、天正4年(1576年)築城開始の安土城よりも前に、この鎌刃城で既に完成の域に達していたという事実は、日本の城郭技術史を書き換えるほどのインパクトを持つ。鎌刃城は、戦国末期の築城技術の革新を体現する、先駆的な城郭だったのである 3 。
第三章:天守の祖形か ― 謎の大櫓
鎌刃城の先進性を象徴するもう一つの遺構が、城の北部に位置する北-VI曲輪で発見された、巨大な建物の跡である 5 。発掘調査により、一辺が7間(約12.7m)四方以上にもなる大規模な礎石建物が存在したことが確認された 2 。
この建物の最大の特徴は、地面を掘りくぼめて構築された「半地下式」の構造を持っていた点である 3 。この半地下部分は、後の天守建築に見られる「穴蔵」に相当するものと考えられる。安土城の天主をはじめ、初期の望楼型天守の多くが地下室を備えていたことが知られており、鎌刃城の大櫓は、その構造的な祖形と見なせる可能性を秘めている 23 。
発掘調査では、建物を支えた礎石群とともに、日常生活で使われた椀や皿などの陶磁器、そして様々な寸法の鉄釘が大量に出土した 2 。このことから、この建物が単なる物見櫓ではなく、ある程度の居住性を備えた、城の象徴となる高層建築物、すなわち「大櫓」であったと推定される。
もしこの大櫓が、安土城天主に先行する高層建築であったとすれば、その意義は計り知れない。それは、城郭が単なる防御施設から、領主の権威を内外に誇示するための政治的シンボルへと変貌を遂げる、その黎明期を告げる存在であったということになる。鎌刃城は、軍事技術だけでなく、城郭建築の思想においても、時代を先取りしていたのである。
第四章:山城の生命線 ― 水の手の秘密
山城における籠城戦の成否を分ける最も重要な要素の一つが、水の確保、すなわち「水の手」である。鎌刃城は、この点においても驚くべき工夫を凝らしていた。
城の水源は、約700m離れた谷筋にある「青龍の滝」であった 2 。注目すべきは、その導水方法である。発掘調査の結果、滝の落ち口付近の岩盤が、幅約18cm、深さ約15cmにわたってU字型に掘り込まれていることが確認された。これは、滝の水を堰き止め、この溝に集めてから、木樋(木製の水道管)や竹樋を繋いで城内まで引き込んでいた導水路の跡と考えられている 2 。
このような明確な導水施設の遺構が、戦国時代の山城で発見されるのは全国的にも極めて稀であり、学術的に非常に価値が高い。この遺構は、鎌刃城が一時的な避難場所ではなく、長期的な籠城を想定して計画的に整備された、恒久的な軍事拠点であったことを示す何よりの証拠である。自然の地形を最大限に利用しつつ、高度な土木技術を駆使して生命線を確保する。ここにもまた、鎌刃城を築いた人々の、合理的で先進的な思考を垣間見ることができる。
第三部:戦国城郭史における鎌刃城
第一章:近江の城郭との比較
鎌刃城が持つ技術的な先進性は、同時代の近江を代表する他の城郭と比較することで、より一層明確になる。ここでは、浅井氏の本拠である小谷城と、六角氏の本拠である観音寺城を取り上げ、その構造と思想を比較分析する。
浅井氏の小谷城は、広大な山域に本丸、京極丸、山王丸といった多数の曲輪を連ねる巨大山城である 26 。しかし、その防御の基本は、急峻な地形を利用した切岸(人工的な崖)や土塁であり、石垣の使用は限定的・補助的なものに留まっている 28 。虎口も単純な平虎口が主であり、鎌刃城に見られるような計画的な石垣化や、防御効果の高い枡形虎口は採用されていない。同じ浅井氏の勢力圏にありながら(元亀元年まで)、両者の築城思想には明確な差異が見られ、小谷城が伝統的な「土の城」の系譜に連なるのに対し、鎌刃城はそこから一歩踏み出した新しい段階にあったことがわかる。
一方、六角氏の観音寺城は、鎌刃城と同様に石垣を多用した「石の城」として知られている 30 。城内の至る所で壮大な石垣群が確認でき、特に平井丸の虎口周辺の石垣は見事である 32 。しかし、観音寺城の縄張りは、広大な山内に点在する各曲輪を個別に固めるという思想が強く、城全体の防御システムとして有機的に結合されているとは言い難い側面がある 34 。それに対し、鎌刃城は主郭部という城の心臓部を中心に、虎口や主要な防御線に石垣を集中投下しており、より計画的で効率的な防御思想が貫かれている。観音寺城が巨大な山岳都市としての性格を持つのに対し、鎌刃城はより戦闘に特化したコンパクトな要塞としての洗練度が高いと言えるだろう。
城名 |
鎌刃城 |
小谷城 |
観音寺城 |
主な使用者 |
堀氏、織田氏 |
浅井氏 |
六角氏 |
築城思想 |
コンパクトな要塞型 |
広大な居館・防衛拠点複合型 |
巨大な山岳都市・要塞型 |
石垣の使用 |
主郭部を中心に多用(総石垣に近い) |
限定的・補助的 |
山内各所に多用 |
虎口の形態 |
枡形虎口(先進的) |
平虎口、一文字土塁(伝統的) |
平虎口、埋門、食い違い虎口 |
象徴的建造物 |
大櫓(天守の祖形か) |
大広間(政務・居住空間) |
(不明確だが多数の郭に館) |
特記事項 |
破城の痕跡、導水施設 |
複数の独立した曲輪群の連携 |
城内に寺院や多数の家臣屋敷 |
第二章:織田信長の城郭革命と鎌刃城
鎌刃城に見られる数々の先進技術は、一体どこから来たのであろうか。在地領主である堀氏が独自に発展させたものか、それとも別の要因があったのか。その鍵を握るのが、織田信長である。
元亀元年(1570年)、堀氏が織田方についた後、信長は鎌刃城を対浅井氏の重要拠点と位置づけた 5 。この時期に、信長の指導の下、彼の先進的な築城思想を反映した大規模な改修が行われた可能性が極めて高い。石垣の多用、枡形虎口の導入、そして大櫓の建設といった技術は、信長が後に安土城で結実させる「見せる城」「権威の城」という新しい城郭観の萌芽であり、その実験場として鎌刃城が選ばれたのではないか。
そう考えると、序章で提示した最大の謎、すなわち「なぜ信長はこれほど先進的な城を破壊したのか」という問いに対する答えが見えてくる。天正元年(1573年)に浅井氏が滅亡し、翌年には堀氏が改易されると、鎌刃城はその軍事的役割を終えた。そして、信長は江北の新たな支配拠点として、羽柴秀吉に長浜城を築かせた 15 。この新たな支配体制を確立する上で、旧勢力の象徴であり、国人領主の独立性の砦でもあった鎌刃城の存在は、むしろ障害となった。
信長による鎌刃城の「破城(城割)」は、発掘調査でもその痕跡が確認されている 3 。石垣は意図的に崩され、埋められた。これは、この城が二度と使えないようにするという軍事的な目的と同時に、旧来の勢力構造を完全に解体し、新たな支配秩序の到来を領民に知らしめるという、極めて強力な政治的パフォーマンスであった。先進的で強力な城であればあるほど、旧時代の象徴として破壊されなければならなかったのである。
鎌刃城は、信長の城郭革命における「過渡期の傑作」であった。その技術は直後の安土城で完成され、その政治的運命は信長の新しい支配体制の確立を象徴するものであった。その先進性ゆえに破壊されるという歴史の皮肉こそ、鎌刃城が戦国史に刻んだ最も重要な意味なのである。
終章:現代に蘇る鎌刃城
歴史の荒波の中でその役割を終え、意図的に破壊された鎌刃城は、その後400年以上にわたり、人々の記憶から忘れ去られ、静かな山中に眠り続けていた。しかし、平成の発掘調査によってその驚くべき実像が明らかになると、鎌刃城は再び脚光を浴びることとなる。
その学術的な価値の高さが認められ、平成17年(2005年)には国の史跡に指定された 35 。さらに、平成29年(2017年)には「続日本100名城」にも選定され 19 、全国の城郭ファンや歴史愛好家が訪れる名所となった。
今日の鎌刃城の姿があるのは、行政の取り組みだけでなく、地元住民による献身的な活動の賜物である。発掘調査の段階から協力してきた市民団体「番場の歴史を知り明日を考える会」は、史跡指定後もその保存と活用に中心的な役割を果たしてきた 1 。鬱蒼とした山林の整備、危険箇所の補修、詳細な案内板の設置、そして毎年6月に開催される「鎌刃城まつり」といったイベントの企画・運営など、その活動は多岐にわたる 11 。また、麓の集落に「番場資料館」を開設し、鎌刃城のジオラマや出土遺物を展示することで、訪れる人々にその魅力を伝える拠点となっている 41 。彼らの情熱と努力がなければ、鎌刃城の価値がこれほど広く共有されることはなかったであろう。
現在、米原市では「史跡鎌刃城跡保存活用計画」の策定が進められており、この貴重な文化遺産を将来にわたって適切に保存し、地域の活性化に繋げていくための取り組みが続けられている 43 。
鎌刃城は、もはや単なる過去の遺構ではない。それは、戦国時代の技術革新と政治的変革を物語る歴史の証人であり、地域の誇りを育み、歴史と自然を学ぶための生きた教材でもある。忘れられた要衝は今、地域社会との共生の中で新たな命を吹き込まれ、その価値を未来へと語り継いでいこうとしている。
引用文献
- 鎌刃城跡発掘調査概要報告書 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/53/53654/113684_1_%E9%8E%8C%E5%88%83%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E6%A6%82%E8%A6%81%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
- 【続日本100名城・鎌刃城(滋賀県)】大発見!当時の水の手遺構が見られる https://shirobito.jp/article/1598
- かま はじょうあと - 滋賀県総合教育センター https://www.shiga-ec.ed.jp/www/contents/1438304524592/html/common/other/55d173d3062.pdf
- 近江の戦国時代<2>浅井氏の台頭 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2042274.pdf
- 鎌刃城 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/k-mp.pdf
- 鎌刃城 歴史編 ー滋賀県の100名城 続100名城を紹介ー - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5oKFDcAB5L4
- 鎌刃城跡 - 米原市/滋賀県 | Omairi(おまいり) https://omairi.club/spots/108719
- 鎌刃城跡~松尾寺跡 トレッキングマップ - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/km-mp.pdf
- 2021年1月9日 鎌刃城(滋賀県米原市) - Castle.TATOの城郭訪問外史 https://castletato-visit.blog.jp/archives/10385364.html
- 鎌刃城 - ちえぞー!城行こまい http://chiezoikomai.umoretakojo.jp/kansai/siga/kamaha.html
- 鎌刃城・太尾山城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no16/
- ジオラマ【鎌刃城】 | 近江戦国 歴史浪漫 http://www.biwako.co.jp/kamaha/
- 近江 鎌刃城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/oumi/kamaha-jyo/
- 堀秀村 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%9D%91
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- 米原|ピズモのブログ|不楽是如何~史跡めぐりドライブ~ - みんカラ https://minkara.carview.co.jp/userid/157690/blog/37867835/
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- 鎌刃城 [2/4] 副郭から10mほど下の西郭の畝状竪堀群を見に行く。 https://akiou.wordpress.com/2015/07/25/kamaha-p2/
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- 鎌刃城のスタンプ場所や駐車場、主郭の虎口、大堀切など見どころを紹介! https://okaneosiroblog.com/shiga-kamaha-castle/
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- 小谷城の歴史と特徴/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16961_tour_042/
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- 【小谷城】甦る戦国の巨大山城 浅井長政が織田信長と攻防を繰り広げた城 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=smuo9F3ZmtM
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- 観音寺城の歴史観光見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/kannonji/kannonji.html
- 観音寺城(滋賀県近江八幡市) 信長と争った佐々木六角氏の居城 https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2019/07/27/200000
- 観音寺城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/western-japan-castle/kannonji-castle/
- 鎌刃城跡が国史跡に 文化審議会が答申 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/s21.pdf
- 鎌刃城跡 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/soshiki/kyoiku/rekishi/shokai/kunishitei/shiseki/2857.html
- 残念すぎる日本の名城 第34回:鎌刃城|戦国ロマンあふれる山城の魅力と課題に迫る - note https://note.com/just_tucan4024/n/nfa0c04f7785e
- 体が続く限り活動を続けたい 第1回日本城郭文化振興賞「番場の歴史を知り明日を考える会」 https://shirobito.jp/article/1632
- 中世城跡(鎌刃城)から里山の再生 /番場の歴史を知り明日を考える会 - 夏原グラントは https://www.natsuhara-g.com/archives/activity/1479
- 近江の城カード|滋賀県ホームページ https://www.pref.shiga.lg.jp/ippan/bunakasports/bunkazaihogo/311052.html
- 令和4年度地域創造支援事業 - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/soshiki/chikishinko/mai_tiiki/maibarashisouzou/tiiki/tiikisozosien/17567.html
- 投稿コーナー:続日本100名城 境目の城 鎌刃城 | 一般社団法人・東京滋賀県人会 https://imashiga.jp/blog/%E6%8A%95%E7%A8%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%BC%EF%BC%9A%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC100%E5%90%8D%E5%9F%8E%E3%80%80%E5%A2%83%E7%9B%AE%E3%81%AE%E5%9F%8E%E3%80%80%E9%8E%8C%E5%88%83%E5%9F%8E/
- 「文化財保存活用地域計画」について - 米原市 https://www.city.maibara.lg.jp/material/files/group/47/maibarashi_bunkazaichiikikeikaku_gaiyouban.pdf