門司城は関門海峡の要衝に位置し、毛利・大友両氏が激しく争奪。毛利元就は水軍を駆使し防衛。一国一城令で廃城、近代要塞化で遺構は失われた。
日本の歴史において、その地理的条件が宿命的な役割を担わされる地がいくつか存在する。九州の北東端、本州との間の関門海峡が最も狭まる早鞆ノ瀬戸に鋭く突き出す古城山(標高175メートル)は、まさにそのような場所である 1 。この戦略的要地に築かれたのが、本報告書の主題である門司城である。別名を門司ヶ関山城、あるいは亀城とも呼ばれるこの山城は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海上交通の結節点を押さえ、九州と本州を繋ぐ陸路・海路の十字路を眼下に見下ろすという、比類なき地政学的重要性を有していた 4 。
その歴史は古く、『歴代鎮西要略』などの記述によれば、源平合戦の最終局面である元暦二(1185)年に平氏によって築かれたと伝えられる 1 。その後、鎌倉・南北朝期には在地領主である門司氏の拠点となり、やがて戦国時代を迎えると、その戦略的価値は飛躍的に増大する。西国の覇権を巡り、中国地方の毛利氏と九州の雄・大友氏がこの城を巡って数年にわたり激しい争奪戦を繰り広げたことは、戦国史における九州方面の動向を語る上で欠かすことのできない一幕である。最終的に、江戸時代初期の元和三(1617)年、一国一城令によりその歴史に幕を下ろすまで、門司城はおよそ430年間にわたり、時代の動乱の中心にあり続けた 1 。
しかし、門司城の物語は単なる一城郭の興亡史に留まらない。その歴史は、卓越した戦略的価値を持つがゆえに、常に時代の覇権争いの最前線に置かれ続けるという宿命を背負っていたことを示している。そして、歴史の皮肉とも言うべきは、戦国期にその価値を最大化させた地政学的重要性こそが、近代において再び国家防衛の要として注目され、結果として明治期に建設された下関要塞の一部として徹底的に改変される原因となったことである 2 。時代を超えて重要であり続けたこと自体が、中世城郭としての遺構を地上からほぼ完全に消し去るという結果を招いたのである。本報告書では、特に戦国時代という視点から、この関門の要衝・門司城が果たした役割、その攻防の軌跡、そして歴史的意義について、多角的に深く掘り下げていく。
門司城の起源は、平安時代の末期、日本史を大きく転換させた源平合戦の時代に遡るとされる。『歴代鎮西要略』や『豊前志』といった後代の史料によれば、元暦二(1185)年、西へ西へと追われた平家一門の将・平知盛が、源氏との決戦に備えるため、家臣であった長門国目代の紀井通資に命じて築城させたのが始まりと伝えられている 1 。これが事実であれば、門司城は目前に迫った壇ノ浦の戦いを睨み、関門海峡の制海権を確保しようとした平家方の防衛戦略の一環として歴史の舞台に登場したことになる。
平家滅亡後、鎌倉時代中期の寛元二(1244)年、門司城の歴史は新たな局面を迎える。鎌倉幕府は、平家残党の鎮圧を目的とする下知奉行として、下総国を本拠とする御家人・藤原親房を豊前国へ下向させた 1 。親房は門司城に入り、後に門司六ヶ郷や筑前国香椎院内などを拝領し、その地名から「門司氏」を称するようになった 13 。こうして門司氏は、門司城を本城としてこの地に根を下ろし、領内に足立城、吉志城、若王子城、三角山城、金山城といった五つの支城を構え、それぞれに一族を配置して支配体制を固めた 10 。以後、約350年にわたり、門司氏は北九州の有力な国人領主として存続することとなる。
14世紀、全国的な内乱となった南北朝時代には、門司氏もその動乱と無縁ではいられなかった。一族は北朝(武家方)と南朝(宮方)の両派に分裂し、骨肉の争いを繰り広げることになる。史料「門司文書」によれば、門司城には北朝方の吉志系・門司左近将監親尚が拠り、一方で南朝方についた伊川系の門司若狭守親頼は近隣の猿喰城に籠もったと記録されており、一族が敵味方に分かれて戦った当時の状況がうかがえる 7 。
室町時代に入ると、門司城は周辺の有力大名の動向に大きく左右されるようになる。永享二(1430)年には、秋月春種と原田信朝が、当時九州北部に大きな影響力を持っていた周防の大内氏を攻め、その過程で門司城を攻略したという記録が残っている 7 。この後、門司城は大内氏の支配下に入り、関門海峡を抑える重要な支城として機能し続けた。この時期から、門司城は単なる一在地領主の居城という性格から、より広域を支配する大大名の戦略拠点へと、その役割を徐々に変え始めていた。来るべき戦国乱世において、この城が西国全体の覇権を左右する係争地となる、その萌芽はこの時代にすでに見て取ることができる。
戦国時代中期、門司城が位置する豊前国は、周防・長門を本拠とし、西国随一の勢力を誇った大内氏の支配領域にあった。大内氏は勘合貿易などを通じて莫大な富を蓄積し、その武威は九州北部にまで及んでいた。門司城は、その本国と九州の領地を結ぶ関門海峡を扼する戦略拠点として、極めて重視されていた。1550年にイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが山口を訪れた際にも、門司は交易港として大内氏の統括下にあり、国際的にも認知された要港であったことが記録からうかがえる 4 。
しかし、この安定した支配体制は、天文二十(1551)年に勃発した大内氏重臣・陶隆房(後の晴賢)の謀反、いわゆる「大寧寺の変」によって根底から覆される。主君である大内義隆が自刃に追い込まれたことで、巨大な大内領国は深刻な内乱状態に陥った。この好機を捉えたのが、安芸の国人領主から戦国大名へと飛躍しつつあった毛利元就であった。元就は天文二十四(1555)年の厳島の戦いで陶晴賢を討ち滅ぼすと、返す刀で弘治元(1555)年から弘治三(1557)年にかけて周防・長門へ侵攻(防長経略)し、大内氏の旧領を完全に併呑した 8 。
大内氏という西国に君臨していた巨大な権力の「蓋」が取り払われた結果、豊前国は突如として力の空白地帯となった。そして、この地を巡って二つの勢力が必然的に対峙することになる。一方は、大内氏の旧領を継承し、中国地方の新たな覇者となった毛利元就。もう一方は、豊後を本拠とし、かねてより九州北部に勢力を拡大してきた「九州探題」大友義鎮(後の宗麟)である 6 。
この対立構造において、門司城の戦略的価値はかつてないほどに高まった。毛利氏にとって、門司城は併呑したばかりの周防・長門を防衛するための最前線であり、さらには九州へ進出するための絶対不可欠な「橋頭堡」であった。対する大友氏にとって、門司城は自領豊前の玄関口であり、毛利氏の野心を食い止めるための「防波堤」に他ならなかった。両者にとって門司城の領有は、単なる一点の支配を意味するのではなく、西日本全体の戦略的優位を左右する死活問題となったのである。こうして、門司城を舞台とした両雄の激突は、旧大内領を巡る「後継者戦争」の様相を呈し、避けられない運命として歴史の幕を開けることとなった。
大内氏滅亡後の権力空白地帯となった豊前国を巡り、毛利氏と大友氏の対立が先鋭化する中で、門司城はその最前線となった。永禄年間(1558年~1562年)にかけて繰り広げられた一連の攻防戦は、九州の覇権を賭けた壮絶な戦いであり、本報告書の中核をなす部分である。
永禄元(1558)年、毛利元就は先手を打つ。元就は三男の小早川隆景を大将とする軍勢を派遣し、当時大友方の影響下にあった門司城を攻撃、これを奪取することに成功した 8 。城将には、元大内氏家臣で毛利氏に降っていた仁保隆慰を配置し、九州への足掛かりを確保した 18 。これに対し、大友義鎮は即座に反応し、重臣の戸次鑑連(後の立花道雪)らを派遣して反撃に出る。この戦い(第一次柳ヶ浦の戦いとも呼ばれる)で大友軍は一度は城を奪還するものの、毛利方も粘り強く反攻し、再び城を奪い返すなど、戦況は一進一退を極めた 17 。
翌永禄二(1559)年、大友方は再び大軍を編成して門司城に殺到し、毛利方の城将を討ち取るなどの戦果を挙げた。しかし、毛利方は小早川隆景率いる強力な水軍を駆使して反撃。大友軍の背後を海上から突くとともに補給路を脅かし、大友軍を撤退に追い込んで城を確保した 17 。
そして永禄三(1560)年12月、元就は再び仁保隆慰を門司城に派遣。隆慰は奇襲攻撃を敢行し、当時城を守っていた大友方の城番・怒留湯(ぬるゆ)直方を破り、門司城を完全に毛利氏の掌握下に置いた 17 。元就は隆慰に規矩郡の代官職を与えるなど、豊前沿岸部における支配体制の確立を急ぎ、来るべき大友氏との決戦に備えたのである 22 。
永禄四(1561)年、大友義鎮は毛利氏の九州における橋頭堡である門司城を完全に破壊すべく、その威信を賭けた総力戦に打って出た。戸次鑑連を筆頭に、田原親賢、臼杵鑑速、斎藤鎮実、吉弘鑑理といった豊後、豊前、筑後など六カ国の兵力を結集させた数万(兵力には諸説あり)ともいわれる大軍を動員し、門司城を陸上から完全に包囲した 2 。
これに対し、毛利方も総力を挙げて応戦する。総大将の毛利隆元と、実質的な戦術指揮官である小早川隆景が後詰として出陣。特に隆景の采配は巧みであった。彼は自軍を対岸の下関に布陣させると、得意の水軍を最大限に活用した機動防御を展開する 6 。水軍を用いて大友軍の補給路を海上から脅かし、敵の注意を引きつけている隙に、堀立直正らの率いる決死隊を夜陰に乗じて関門海峡を渡らせ、包囲された門司城への入城を成功させるなど、陸の大軍を海からの機動力で翻弄した 17 。さらに乃美宗勝らの部隊が大友軍の側背を攻撃し、敵将の一人である田北鑑生に重傷を負わせるなど、陸海一体となった立体的な戦術で大友軍の攻勢を巧みに凌いだ 17 。
この戦いには、日本戦国史の中でも特異な逸話が残されている。大友義鎮の要請に応じ、当時博多に停泊していたポルトガル船が戦場に来援し、積載していた大砲(フランキ砲)で門司城を砲撃したという記録である 17 。これは日本史上でも極めて早期の「艦砲射撃」の事例と考えられ、義鎮が南蛮貿易を通じて得た最新兵器を実戦投入したことを示している。後に義鎮が「国崩し」と命名したこの種の大砲は、臼杵城の防衛戦などで威力を発揮することになるが 23 、この門司城の戦いにおいては、参戦期間も短く、城に決定的な損害を与えるには至らなかったと推測される。
表1:永禄四(1561)年の門司城攻防戦における両軍の主要構成
勢力 |
総兵力(推定) |
総大将・指揮官 |
主要武将 |
毛利軍 |
約18,000 |
毛利隆元、小早川隆景 |
宍戸隆家、仁保隆慰、乃美宗勝、桂元澄、冷泉元豊 |
大友軍 |
約15,000 |
大友義鎮 |
戸次鑑連、臼杵鑑速、田原親賢、斎藤鎮実、吉弘鑑理 |
注:兵力については史料により差異がある。
戦局は10月26日の大友軍による総攻撃で頂点を迎える。臼杵鑑速や田原親賢らが率いる鉄砲隊と、戸次鑑連の弓隊が連携して猛攻を仕掛け、毛利方に大きな損害を与えたものの、城を陥落させることはできなかった 17 。さらに、大友軍の背後にあった松山城などが毛利方の別動隊によって攻略されるなど、戦略的に不利な状況に陥った大友軍は、11月5日の夜、ついに門司城の包囲を解いて撤退を開始した。しかし、この撤退行は毛利方の吉見正頼らによる執拗な追撃を受け、多くの将兵を失うという悲惨な結果に終わった 17 。この手痛い敗戦は、若き日の大友義鎮に大きな衝撃を与え、彼が出家して「宗麟」と号する直接的な契機になったとされている 8 。
この戦いの勝敗を分けた要因は、単なる兵力の多寡や武将の勇猛さではなかった。それは、毛利氏が有する「水軍を駆使した機動防御と兵站破壊戦略」と、大友氏の「陸上兵力による正攻法」という、両勢力の軍事思想そのものの衝突であった。小早川隆景の戦略は、大友の大軍を門司城という一点に釘付けにしつつ、その生命線である補給と連携を水軍によって海上から分断することにあった。これは、門司城が海峡を支配する「海城」としての機能を持つがゆえに可能となった戦術であり、制海権を握る者が地上の戦いをも有利に進めることを証明した戦史上の好例と言える。
永禄四年の大敗後も、大友方の門司城奪還の意志は尽きなかった。翌永禄五(1562)年、戸次鑑連らは再び豊前に出兵し、門司城近郊の柳ヶ浦で毛利軍と交戦。この戦いで毛利方の城将であった冷泉元豊らを討ち取るという戦果を挙げたが、門司城本体の攻略には至らなかった 17 。
数年にわたる激しい消耗戦は、両者に大きな負担を強いていた。毛利氏にとっては、背後の出雲で宿敵・尼子氏との戦いが激化しており、豊前方面に大軍を貼り付け続けることは困難であった。一方の大友氏も、門司城攻略に多大な兵力と時間を費やしたにもかかわらず、決定的な勝利を得ることができずにいた。このような双方の事情から、室町幕府十三代将軍・足利義輝の仲介による和睦交渉が進められることとなる。そして永禄七(1564)年7月、ついに両者の間で和睦が成立。この和睦により、門司城は引き続き毛利氏の勢力下に置かれることで、一連の争奪戦はひとまずの決着を見たのである 6 。
門司城は、独立峰である古城山の地形を巧みに利用して築かれた、連郭式の山城であったと推定される 26 。山頂に本丸(主郭)を置き、そこから延びる尾根筋に沿って二の丸や複数の曲輪(くるわ)を階段状に配置し、それらを堀切(ほりきり)や土塁(どるい)で防御するという、戦国期の山城の典型的な構造を備えていたと考えられる 3 。
しかし、前述の通り、明治二十五(1892)年以降、関門海峡を防衛するための大日本帝国陸海軍の下関要塞がこの地に建設されたため、中世の城郭遺構はほぼ完全に破壊されてしまった 2 。現在、本丸跡とされる場所には、当時の砲台のコンクリート製土台が残っており、往時の姿を偲ぶことは極めて困難である 2 。
それでも、注意深く探索すると、わずかながら戦国期の面影を伝える遺構が残存している。砲台跡の南側から西側にかけて見られる石垣の一部や、山麓に残る城門跡の石段などがそれである 2 。これらの石垣は、野面積み(のづらづみ)の様相などから、関ヶ原の戦い後に城を修築した細川氏時代のものである可能性が指摘されている 9 。また、近代に造られた砲台や弾薬庫、それらを結ぶ切通し道などが、かつての曲輪や堀切の位置をある程度踏襲して造られている可能性もあり、これらの近代遺構が、皮肉にも中世の縄張りを推定する上での手がかりとなっている側面もある 3 。
門司城は、その物理的な構造分類上は「山城」である。しかし、その存在意義と戦略的機能は、眼下に広がる関門海峡という「海の道」をいかに支配するかに集約されていた。この点において、門司城は機能的には「海城(うみじろ)」としての性格が極めて強い城郭であったと論じることができる。
ただし、その性格は、瀬戸内海の村上水軍が拠点とした能島城などとは一線を画す。能島城は、島全体を要塞化し、岩礁に船を係留するための柱穴(岩礁ピット)を無数に穿つなど、水軍衆の生活と戦闘の拠点が海と一体化した典型的な「海賊の城」であった 32 。これに対し、門司城は陸上の高所から海峡を航行する艦船の動きを恒常的に監視・統制し、必要に応じて麓の港湾施設と連携して水軍を出撃させる、いわば「陸上型海城」とも言うべき独特の性格を持っていた。これは、村上水軍のような特定の海域を拠点とする勢力ではなく、毛利氏のような広域を支配し、強力な水軍を組織的に運用する大大名が、国家的な海上交通路を恒久的に支配・防衛するために構築した戦略拠点であったことを示唆している。
門司城は、いわば「山城の皮を被った海城」と定義することができ、その戦略的価値はすべて海との関係性から生まれていた。この「陸と海のハイブリッド性」こそが門司城の本質である。永禄四年の大会戦において、大友軍が陸上から山城として攻略しようと試み、毛利軍が海上から海城としての機能を最大限に活用して守り切ったという戦いの様相は、まさにこの城の持つ特異な性格が戦局そのものを規定した象徴的な事例であった。城の物理的構造のみならず、それがどのような戦略思想の下で運用されたかを考察することこそが、門司城を理解する上で不可欠な視点である。
毛利氏と大友氏の激しい争奪戦の後、門司城の運命は中央の政局の変動に大きく影響されることとなる。天正十五(1587)年、豊臣秀吉による九州平定が成り、九州の国分(くにわけ)が行われると、門司城を含む豊前国企救郡は、秀吉の家臣である毛利勝信(森吉成)に与えられ、その支配下に入った 7 。
時代の大きな転換点となったのが、慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いである。この戦いで西軍に与した毛利勝信は改易され、戦功のあった細川忠興が豊前一国と豊後二郡を与えられて中津城に入封した 1 。忠興は当初、関門海峡の重要性を認識し、門司城を藩の重要な支城と位置づけていた。家臣の長岡勘解由左衛門を城代として配置し、防御能力を維持・向上させるための修築も行わせている 1 。
しかし、その後、細川忠興は領国経営の拠点として、門司からほど近い小倉の地に、大規模な近世城郭である小倉城の築城を開始する。政治・経済の中心地となりうる広大な城下町の建設を伴う平城(または平山城)である小倉城が藩庁として整備されるにつれ、純粋な軍事要塞である山城・門司城の戦略的地位は相対的に低下していった 3 。戦乱の時代が終わり、泰平の世が訪れる中で、城に求められる機能が変化していったのである。
門司城の終焉は、単なる幕府の命令によるものではなく、こうした「城の役割の歴史的転換」を象徴する出来事であった。戦国時代において城の価値は、何よりもまず「軍事拠点」としての防御力と戦略的位置によって測られた。しかし、統治の時代である江戸時代には、城は「藩の政治・経済の中心」としての機能が最優先されるようになる。山上に孤立し、大規模な城下町の展開が困難な門司城は、この新しい時代の要請に応えることができず、小倉城にその役割を完全に譲り、歴史の表舞台から退場する運命にあった。
そして元和元(1615)年、徳川幕府は「一国一城令」を発布する。これは、大名、特に外様大名が多く、潜在的な脅威と見なされていた西国諸大名の軍事力を削ぐことを目的とした政策であった 39 。この法令に基づき、居城以外のすべての支城は破却されることとなり、門司城もその対象となった。史料によっては廃城の年を元和三(1617)年とするものもあるが 1 、いずれにせよ、この時期に門司城はその約430年にわたる歴史に公式な幕を下ろしたのである 10 。一国一城令は、時代の流れの中で必然的に役割を終えつつあった門司城の運命を決定づける、最後の引き金に過ぎなかった。
門司城の歴史は、九州と本州の結節点という不変の地理的条件がいかに歴史を動かし、一城の運命を規定するかを雄弁に物語っている。源平の時代にその産声を上げたと伝えられて以来、戦国時代を経て近代に至るまで、この地は常に日本の歴史における枢要な舞台であり続けた。
特に戦国時代後期、西国最大の勢力を誇った大内氏が滅亡した後の権力闘争において、門司城が果たした役割は計り知れない。中国地方の新たな覇者・毛利氏と、九州の雄・大友氏が繰り広げた数年間にわたる攻防戦は、単なる局地的な領土紛争ではなく、西日本全体の覇権の帰趨を決定づける象徴的な戦いであった。この戦いでは、水陸共同作戦や、日本史上でも極めて早期の艦砲射撃の試みなど、当時の最先端の戦術が展開され、その後の西国大名の勢力図を大きく塗り替える重要な転換点となった。
近世に入り、城の役割が軍事拠点から統治拠点へと移行する中で、門司城はその歴史的使命を終え、一国一城令によって廃城となった。さらに近代においては、その不変の地政学的価値ゆえに再び軍事要塞として徹底的に改変され、中世城郭としての遺構をほぼ完全に失うという悲劇的な運命を辿った。
現在、城跡は和布刈(めかり)公園として整備され、市民や観光客が憩う場となっている 2 。往時の天守や櫓は存在せず、残されたわずかな石垣と近代の砲台跡が、この地で繰り広げられた激しい攻防の歴史を静かに物語るのみである。しかし、古城山の頂から関門海峡の雄大な潮流と、絶え間なく行き交う船舶を眺めるとき、我々は門司城が日本の歴史の中で担い続けた地政学的重要性という普遍的なテーマを、時を超えて感じ取ることができるのである。
年代 |
元号 |
主な出来事 |
城主・所属勢力 |
1185年 |
元暦2年 |
平知盛が紀井通資に命じ築城したと伝わる 1 。 |
平氏 |
1244年 |
寛元2年 |
藤原親房が豊前国代官職として下向、入城 1 。 |
鎌倉幕府 |
1255年 |
建長7年 |
親房の子孫が門司氏を称し、この地を本拠とする 7 。 |
門司氏 |
1364年頃 |
貞治3年頃 |
南北朝の動乱で、門司親尚(北朝方)が当城に拠る 14 。 |
門司氏(北朝方) |
1430年 |
永享2年 |
秋月春種らが大内氏を攻め、当城を落とす 7 。 |
(一時的に秋月氏ら) |
15世紀中頃~ |
|
大内氏の支配下に入る。 |
大内氏 |
1551年 |
天文20年 |
大寧寺の変により大内義隆が自刃。大内氏の勢力が衰退。 |
大内氏 |
1558年 |
永禄元年 |
毛利元就が小早川隆景を派遣し、門司城を奪取。仁保隆慰を城代とする 8 。 |
毛利氏 |
1559年 |
永禄2年 |
大友軍が攻撃するも、毛利軍が撃退し城を確保 17 。 |
毛利氏 |
1560年 |
永禄3年 |
毛利元就が仁保隆慰を再び派遣し、城を完全に掌握 17 。 |
毛利氏 |
1561年 |
永禄4年 |
大友義鎮が大軍を送り、最大の攻防戦となるが、毛利方が防衛に成功 8 。 |
毛利氏 |
1564年 |
永禄7年 |
将軍・足利義輝の仲介で毛利氏と大友氏が和睦。城は毛利領として確定 8 。 |
毛利氏 |
1587年頃 |
天正15年頃 |
豊臣秀吉の九州平定後、毛利勝信の所領となる 38 。 |
豊臣政権(毛利勝信) |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦いの後、細川忠興が豊前国に入封。城代を置き修築 1 。 |
細川氏 |
1617年 |
元和3年 |
一国一城令により廃城となる(元和元年(1615年)説もあり) 1 。 |
- |
1892年 |
明治25年 |
大日本帝国海軍の下関要塞が築かれ、中世の遺構がほぼ破壊される 2 。 |
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