佐渡本間氏の拠点、雑太城は日野資朝が幽閉された壇風城を前身とする。本間氏惣領家の衰退と上杉景勝の侵攻により、恭順するも破却され、佐渡中世史の終焉を告げた。
日本海に浮かぶ佐渡島は、古代より流刑の地として、また近世には金銀山の島として、日本の歴史に独特の光彩を放ってきた。しかし、その中世史、とりわけ鎌倉時代から戦国の終焉に至るまでの約四百年間は、一貫して「本間氏」という一族の支配下にあり、島独自の歴史世界が形成されていた。本報告書が光を当てる「雑太城(さわだじょう)」は、その佐渡本間氏の惣領家が本拠とした城であり、一族の栄光と衰退、そして戦国という時代の終焉を象徴する、静かなる歴史の証人である。
利用者から提示された「壇風城ともいう」「日野資朝が幽閉された」といった断片的な情報は、この城が持つ重層的な物語の序章に過ぎない。本報告書は、雑太城を単なる城跡としてではなく、佐渡の中世史、ひいては日本の戦国史の動向を映し出す「鏡」として捉え直し、その多層的な歴史的価値を解明することを目的とする。なぜ惣領家は衰退の一途を辿ったのか。なぜ悲劇の貴公子はこの地で命を落とさねばならなかったのか。そして、なぜ越後の大名に恭順の意を示した城が、無慈悲にも破壊されねばならなかったのか。これらの問いを解き明かすことは、佐渡一国の歴史的深淵を覗き込むだけでなく、戦国という時代の本質に迫る試みでもある。本稿では、現存する資料を丹念に読み解き、雑太城に秘められた物語を、その歴史的背景とともに詳細に描き出す。
雑太城の歴史を紐解く上で、まず理解すべきは、この名で呼ばれる城郭が、時期を異にする二つの存在から成り立っているという事実である。一つは佐渡本間氏の初期居館であった「壇風城(だんぷうじょう)」、もう一つは戦国期の動乱に対応すべく新たに築かれた拠点としての「雑太城」である。この二つの城の性格と立地の違いは、単なる拠点の移転に留まらず、本間氏惣領家の権力構造そのものの変質を物語っている。
壇風城は、雑太元城とも呼ばれ、佐渡本間氏が鎌倉時代に佐渡へ入部して以来、初期に構えた居館跡と伝わる 1 。その所在地は、現在の佐渡市竹田、佐渡警察署に隣接する舌状台地とされ、周囲を水田に囲まれた比高
4~5メートルほどの微高地に位置していた 3 。この城は、戦国期の城郭に見られるような堅固な防御施設を持たず、平地に築かれた「館(やかた)」としての性格が強かったと考えられる 5 。
この館が歴史の表舞台に登場するのは、鎌倉時代末期の「正中の変」(1324年)である。後醍醐天皇による最初の倒幕計画に連座した公卿、日野資朝(ひのすけとも)が捕縛され、佐渡へ流された際に幽閉されたのがこの壇風城であった 1 。資朝はこの地で一首の和歌を詠んだ。
秋たけし 檀(まゆみ)の梢吹く風に 雑太の里は 紅葉しにけり 1
この歌にちなみ、後世、この館は「壇風城」という風雅な美称で呼ばれるようになったのである 5 。この館の防御性の低い構造は、鎌倉から南北朝期にかけての本間氏惣領家が、軍事的な実力よりも鎌倉幕府から与えられた「守護代」という公的な権威によって佐渡を統治していた時代の姿を如実に示している。彼らにとって、この館は武威を誇示する要塞ではなく、政務を執り行う政庁としての機能が主であったと推察される。
16世紀に入り、応仁の乱に端を発する戦国の動乱が全国に波及すると、佐渡もその例外ではいられなくなった。特に越後国で守護の上杉氏と守護代の長尾氏が争った「永正の乱」は佐渡にも影響を及ぼし、本間一族の内部でも分家が力をつけ、惣領家の権威に挑戦する動きが活発化する 2 。このような軍事的緊張の高まりを受け、本間氏惣領家は、従来の壇風城では防衛上の不安が大きいと判断し、新たな拠点を築くに至った。これが、壇風城の西方約1キロメートルに位置する現在の妙宣寺(みょうせんじ)の境内地に築かれた、戦国期の「雑太城」である 2 。
この新しい雑太城は、新川城あるいは竹田城とも呼ばれ 8 、築城時期は16世紀前半、本間有泰(ありやす)ないしその父・泰時(やすとき)の代と推定されている 2 。国仲平野を見渡す丘陵の先端を利用して築かれた平山城であり 8 、土塁や空堀といった防御施設を備えた、より実戦的な城郭であった 11 。壇風城という「館」から、雑太城という「城」への移行は、本間氏惣領家の統治形態が、幕府の権威に依存した中世的なあり方から、自らの軍事力によって領国を維持する戦国大名へと適応しようとした、苦闘の表れであった。それは、もはや権威だけでは一族を統制できなくなった惣領家が、実力をもってその地位を守らざるを得なくなった時代の到来を告げる、象徴的な出来事だったのである。
雑太城の主であった本間氏は、鎌倉時代から戦国時代の終焉まで、三百数十年にわたり佐渡国を支配した一族である。彼らの興隆と、戦国期における惣領家の衰退の過程を理解することは、雑太城の歴史的意義を把握する上で不可欠である。
本間氏のルーツは、相模国愛甲郡依知郷本間(現在の神奈川県厚木市)にあり、武蔵七党の一つである横山党海老名氏の流れを汲むとされる 2 。彼らが佐渡と関わりを持つようになったのは、承久3年(1221年)の「承久の乱」が契機であった。この乱で勝利した鎌倉幕府は、佐渡国を北条氏一門の大佛(おさらぎ)氏の所領とし、その被官であった本間氏が守護代として佐渡へ派遣されたのである 10 。
初代守護代として佐渡へ下向したとされる本間能久(よしひさ)は、国府が置かれた雑太郡に居館(後の壇風城)を構え、統治の基礎を築いた 2 。その後、本間氏は島内各地に一族を配して地頭職を掌握し、佐渡最大の武士団として勢力を拡大していった 11 。鎌倉・室町時代を通じて、彼らは佐渡の実質的な支配者として君臨したのである。
盤石に見えた本間氏の支配体制も、戦国時代に入ると大きく揺らぎ始める。惣領家である雑太本間家に対し、各地に分かれた庶流がそれぞれ在地領主として力を蓄え、自立化する傾向を強めたのである 18 。中でも、佐渡の中央部を拠点とする河原田本間家(居城:河原田城、別名:獅子ヶ城)と、南部の港湾地帯を支配する羽茂本間家(居城:羽茂城)の二大分家が著しく台頭した 10 。
これらの分家は惣領家の権威を凌ぐほどの勢力となり、やがて島内の主導権を巡って互いに激しく争うようになる 10 。惣領家である雑太本間家は、この一族内の抗争を調停する力を失い、次第にその権威は形骸化していった 19 。
この権力構造の変化の背景には、経済基盤の違いがあったと推察される。雑太本間氏は、国府が置かれた国仲平野の広大な穀倉地帯を伝統的な経済基盤としていた 16 。これは安定した基盤ではあったが、その富の増大には限界があった。一方、分家である河原田本間氏は、鶴子銀山をはじめとする鉱山の利権を掌握し 16 、羽茂本間家は小木港などの良港を拠点とした海上交易によって莫大な富を蓄積していたと考えられる。貨幣経済が浸透し、鉄砲の導入などで軍事費が高騰した戦国時代において、鉱業や交易といった新たな経済力を握った分家が、伝統的な農業基盤に依存する惣領家を経済力、ひいては軍事力で凌駕していくのは、必然の流れであった。この経済力の格差が、佐渡における「下剋上」の土壌を育み、雑太本間氏の衰退を決定づけたのである。
雑太城の歴史を語る上で、本間氏の物語とは別に、もう一つの重要な悲劇が存在する。それは、鎌倉時代末期の公卿・日野資朝の物語である。彼の流罪と非業の死は、この地を単なる城跡に留まらない、深い哀感を帯びた「記憶の場」へと昇華させた。
日野資朝は、権大納言・日野俊光の子として生まれ、後醍醐天皇の側近として重用された学識豊かな公卿であった 7 。正中元年(1324年)、後醍醐天皇が企てた最初の鎌倉幕府討幕計画が、密告により露見する。これが「正中の変」である 21 。この時、資朝は計画の首謀者の一人とされたが、後醍醐天皇への追及を避けるため、全ての罪を一身に引き受けたとされる 7 。その結果、資朝は佐渡国への流罪に処され、本間氏の居館であった壇風城に幽閉されることとなった 6 。
配流中の資朝は、厳しい監視下にありながらも、信仰に心の安寧を求めた。現存する国指定重要文化財「細字法華経」は、彼が亡き父母の追善供養のために、縦わずか5.8センチメートルの巻物に、1行に16文字もの細かな楷書で法華経を書き写したものである 23 。この遺品は、逆境の中にあっても気品と信仰心を失わなかった資朝の人柄を今に伝えている。
資朝が佐渡で静かな日々を送っていた7年後の元弘元年(1331年)、後醍醐天皇は再び討幕の兵を挙げる。「元弘の変」である 7 。しかし、この計画も失敗に終わり、後醍醐天皇は隠岐へ、同志であった日野俊基は鎌倉で処刑された 7 。この事態を受け、鎌倉幕府は禍根を断つべく、既に佐渡へ流罪となっていた資朝の処刑を決定した 7 。一度裁きが下った流人が、後の事件に連座して死罪となるのは極めて異例の措置であり、幕府の強い危機感の表れであった 7 。
幕府の厳命を受けた佐渡守護代・本間山城入道(泰宣)は、元弘2年(1332年)6月2日、資朝を壇風城から引き出し、竹田川の河原で斬首した 7 。享年43歳であった。その辞世の句は、彼の達観した心境を伝えている。
五蘊(ごうん) 仮に形を成し
四大(しだい)今空に帰す
首(こうべ)を将(もっ)て白刃に当つ
截断(せつだん)一陣の風 7
遺体はその場で荼毘に付され、遺骨は高野山に葬られたと伝えられている 7 。
日野資朝の非業の死は、佐渡の人々に深い衝撃と哀れみを与え、後世、彼は一種の御霊信仰の対象となった。この悲劇を広く世に知らしめたのが、軍記物語『太平記』や、世阿弥作と伝わる能『檀風』で描かれた、息子・阿新丸(くまわかまる、後の日野邦光)による仇討ちの物語である 7 。父の死を知った阿新丸が佐渡へ渡り、本間山城入道を討ち果たすというこの伝説は、資朝の無念を晴らす物語として人々の心を捉えた。
この物語は、史実とは異なる創作部分も多いが、資朝の悲劇を人々の記憶に刻み込む上で大きな役割を果たした。佐渡島内には、資朝の霊を鎮めるために創建されたと伝わる大膳神社があり、現在も篤い信仰を集めている 25 。また、雑太城跡に建つ妙宣寺では、現在でも資朝の命日とされる日に近い7月3日に、その霊を慰めるための奉納能が執り行われている 27 。
このように、雑太城の故地は、単なる歴史上の出来事があった場所というだけでなく、人々の信仰や文化活動を通じて、その記憶が現代に至るまで生き続けている稀有な場所なのである。鎌倉幕府末期の中央政争の悲劇、佐渡を支配した本間氏の物語、そして戦国の終焉という複数の歴史が重層的に堆積したこの地は、佐渡の中世史を象徴する「記憶の場」として、特別な価値を有している。
天正17年(1589年)、雑太城と本間氏の運命を決定づける出来事が起こる。越後の大大名・上杉景勝による佐渡侵攻である。この軍事行動は、佐渡における三百数十年にわたる本間氏支配に終止符を打ち、雑太城を廃城へと追いやった。
上杉謙信の死後、佐渡本間一族の内紛は一層激化していた。特に、河原田本間氏と羽茂本間氏の対立は深刻で、島内は混乱状態にあった 28 。さらに彼らは、上杉景勝と敵対する会津の蘆名氏や出羽の最上義光と結び、反上杉の姿勢を鮮明にする 10 。この状況は、景勝にとって佐渡へ介入する絶好の口実となった。
景勝は、本間氏の内乱平定を大義名分として掲げたが、その背後には、佐渡の金銀山という経済的実利と、背後を脅かす反上杉勢力の拠点を潰すという軍事的狙いがあったことは想像に難くない。そして何より重要だったのは、この佐渡侵攻が、天下統一を進める豊臣秀吉の公認を得たものであったという点である 10 。これにより、景勝の軍事行動は、単なる領土拡大のための私戦ではなく、豊臣政権による「惣無事令」に基づく秩序回復、すなわち天下統一事業の一環として正当化されたのである。
天正17年(1589年)6月、上杉軍は千艘を超える大船団で佐渡へ上陸を開始した 19 。軍奉行を務めた直江兼続は、島内各地の本間氏一族に対し、戦闘を避けて降伏するよう通達を出した 30 。この通達に対し、本間一族の対応は大きく二つに分かれた。
徹底抗戦の道を選んだのは、河原田城主・本間高統と羽茂城主・本間高茂(高貞)であった 29 。彼らは島内の兵力を結集して激しく抵抗したが、上杉軍の圧倒的な兵力の前に次々と城は陥落。高統は嫡男と共に自刃し 28 、高茂は逃亡の末に捕らえられ処刑された 30 。
一方、早々に恭順の道を選んだ者たちもいた。惣領家である雑太城主・本間憲泰(大炊介)をはじめ、沢根城主・本間左馬助、潟上城主・本間秀高、久知城主・本間泰時らは、上杉方に協力、あるいは戦わずして降伏した 11 。特に沢根城主は上杉軍の上陸を支援するなど、積極的に協力したとされる 19 。この一族内の分裂が、本間氏の滅亡を早める一因となったことは間違いない。
表1:天正17年佐渡侵攻における本間氏主要諸家の動向
家名(城名) |
当主(通称) |
動向 |
結果 |
雑太本間氏(雑太城) |
本間 憲泰(大炊介) |
恭順 |
降伏後、城は破却。越後へ移封。 |
河原田本間氏(河原田城) |
本間 高統(佐渡守) |
徹底抗戦 |
城は落城し、嫡男と共に自刃。滅亡。 |
羽茂本間氏(羽茂城) |
本間 高茂(対馬守) |
徹底抗戦 |
城は落城し、逃亡後捕縛され処刑。滅亡。 |
沢根本間氏(沢根城) |
本間 高次(左馬助) |
協力・先導 |
戦後、上杉家臣となり越後へ移封。 |
潟上本間氏(潟上城) |
本間 秀高(帰本斎) |
恭順 |
降伏後、越後へ移封。 |
久知本間氏(久知城) |
本間 泰時 |
協力・先導 |
戦後、上杉家臣となり越後へ移封。 |
佐渡全島を制圧した景勝は、戦後の仕置に取り掛かる。抵抗した河原田・羽茂両氏が滅ぼされたのは当然の帰結であったが、不可解なのは、恭順した雑太本間氏の処遇であった。城主・本間憲泰は上杉軍に協力したにもかかわらず、雑太城は無慈悲にも破却され、憲泰自身も佐渡の所領を没収の上、越後国へ移されたのである 11 。
この一見矛盾した処置は、上杉景勝の冷徹かつ合理的な佐渡統治戦略を浮き彫りにしている。景勝の真の目的は、単に反抗勢力を鎮圧することではなく、佐渡から本間氏という旧来の権威と権力構造を根こそぎ排除し、上杉氏による直接支配体制を確立することにあった。もし恭順した雑太本間氏を惣領家として温存すれば、彼らが将来再び佐渡国人の精神的支柱となり、上杉氏の支配に対する不満の受け皿となる危険性を孕んでいた。
したがって、景勝は彼らの恭順を受け入れて命は助ける一方で、その本拠地である雑太城を物理的に破壊し、当主を佐渡から引き離すことで、本間氏による支配が名実ともに終わったことを島内外に示したのである。これは、抵抗勢力のみならず、協力勢力をも含めて旧体制を完全に解体し、更地の上に新たな支配構造を築き上げるという、戦国末期から豊臣政権期にかけて見られる先進的な領国経営思想の現れであった。雑太城の破却は、本間憲泰個人への懲罰ではなく、佐渡の中世そのものに終止符を打つための、象徴的な儀式だったのである。
上杉氏によって破却された雑太城であるが、その跡地には現在、日蓮宗の寺院・妙宣寺が建立されており、境内には今なお戦国時代の城郭遺構が色濃く残されている。これらの遺構を分析することで、佐渡本間氏惣領家の最後の拠点となった城の姿を垣間見ることができる。
雑太城は、佐渡の中央に広がる国仲平野の西端、比高5メートルほどの低位段丘の先端に位置する平山城である 11 。現地に残る案内板や研究によれば、城は主に三つの郭(曲輪)から構成されていたと推定されている 12 。
現在、城跡の遺構として最も明瞭に確認できるのは、妙宣寺の伽藍が配置されている区域である。
現地案内板が示す「三つの郭」のうち、三つ目の郭の正確な位置については諸説ある。本堂裏手の藪化した区画や 11 、主郭の南側に広がる森、あるいは墓地となっている帯曲輪状の平場などがその候補として考えられるが、確定には至っていない 11 。また、谷を挟んだ対岸には大川城や国分城といった支城が存在し、これらが一体となって広義の雑太城防衛網を形成していた可能性も指摘されている 11 。
雑太城跡では、これまで本格的な学術目的の発掘調査は行われていない。しかし、平成11年(1999年)以降、市道の改良工事などに伴う数度の確認調査が実施されている 35 。これらの調査では、石組の水路跡などが検出されたものの、城郭の構造や年代を直接的に示すような遺構や遺物は発見されておらず、城の全体像解明には至っていないのが現状である 35 。
一方で、城郭の歴史的背景を考察する上で重要なのが、周辺遺跡との関係である。雑太城の北東約500メートルの位置には、平安時代前期の佐渡国府に関連する施設跡とされる「下国府遺跡」(国指定史跡)が存在する 8 。このことは、本間氏が佐渡の新たな拠点として雑太城を築くにあたり、古代以来の政治的中心地であった国府の近接地を選んだことを示唆している。これは、単に軍事的な要衝であっただけでなく、佐渡の伝統的な権威の中心地を掌握するという、政治的な意図が働いていた可能性を示している。
天正17年(1589年)の佐渡平定後、雑太城は城としての役目を終えた。しかし、その土地は新たな役割を与えられ、歴史の舞台に残り続けることとなる。その変転の鍵を握ったのが、上杉景勝の懐刀として知られる直江兼続であった。
佐渡平定後、島の統治は実質的に軍奉行であった直江兼続に委ねられた 37 。兼続は、武力による制圧だけでなく、人心の安定と新たな支配体制の構築を急いだ。その施策の一つが、破却した雑太城の跡地を、日蓮の直弟子である阿仏房日得(あぶつぼうにっとく)が開いた妙宣寺に寄進することであった 12 。
妙宣寺は、もともと阿仏房が自身の邸宅を寺としたのが始まりであり、佐渡における日蓮宗の重要な拠点であった 24 。兼続は、この由緒ある寺院に「寺内は前々の如く、諸式相違有るべからず」という寺領安堵状を与え、さらに雑太城の城地を払い下げて移転させたのである 7 。
この一連の措置は、単なる宗教保護政策に留まるものではない。本間氏という旧権力の象徴であった城を破壊し、その跡地に民衆の篤い信仰を集める寺院を建立させることには、高度な政治的意図が隠されていた。それは、武力による支配から、信仰を通じた人心掌握へと移行し、上杉氏による新たな統治の正当性を島民に視覚的に示すという、巧みな統治術であった。戦国の城跡が、平和を祈る寺院へと生まれ変わることで、佐渡における時代の転換は決定的なものとなったのである。
上杉氏の支配下に入った佐渡では、近世的な領国経営が推し進められた。その基盤となったのが検地である。上杉氏は、天正20年(1592年)の寺社領検地を皮切りに 40 、慶長5年(1600年)には代官・河村彦左衛門を派遣して佐渡一国にわたる大規模な田地検地を実施した 41 。これにより、領内の石高が正確に把握され、統一された基準に基づく年貢収取体制が確立された。
しかし、上杉氏による佐渡支配は長くは続かなかった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉景勝は、戦後に会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封・移封される。これに伴い、佐渡は徳川家康の支配下に入り、江戸幕府の直轄領(天領)となった。以後、佐渡には奉行所が置かれ、金銀山の開発とともに、日本の近世史において重要な役割を担っていくことになる。
戦国の世が終わり、雑太城は歴史の舞台から姿を消した。しかし、その跡地と、城に関わった人々の物語は、様々な形で現代に受け継がれている。ここでは、歴史遺産としての雑太城の現在の評価と、城主であった本間一族のその後の運命について概観する。
雑太城跡そのものは、2024年現在、国、新潟県、あるいは佐渡市のいずれの文化財指定も受けていない 14 。これは、城郭の主要部分が妙宣寺の境内地として利用され、往時の姿が一部改変されていることや、本格的な学術調査が進んでいないことなどが理由として考えられる。
しかし、城跡が文化財指定を受けていないからといって、その歴史的価値が低いわけでは決してない。むしろ、その歴史的背景と不可分に結びついた、極めて価値の高い文化財がこの地に集積している。
これらの文化財は、雑太城の歴史、すなわち本間氏の支配の終焉と新たな時代の到来、そしてそれ以前の鎌倉末期の悲劇といった、この土地が持つ重層的な物語を雄弁に物語る物証である。城跡とこれらの文化財を一体のものとして捉えることで、その歴史遺産としての真価が理解される。
天正17年(1589年)の佐渡平定によって、本間氏は支配者としての地位を失ったが、一族が完全に断絶したわけではない。その後の彼らの運命は、佐渡侵攻時の選択によって大きく分かれた。
上杉氏に恭順した雑太城主・本間憲泰や久知城主・本間泰時らは、所領を没収された代わりに越後国に新たな領地を与えられ、上杉家の家臣団に組み込まれた 45 。彼らはその後、主君・上杉景勝の会津、そして米沢への移封に従い、米沢藩士として家名を存続させた者もいる 10 。
一方、最後まで抵抗し滅亡したと思われた家系も、完全に途絶えたわけではなかった。河原田城主・本間高統の子・高応は、家臣の手引きで城を脱出し、会津の蘆名氏のもとへ落ち延びて家名を保った 28 。また、羽茂本間氏の縁者も、他国へ逃れたり、島内に潜伏したりして生き延び、後世にその血脈を伝えたという記録も残る 46 。
さらに特筆すべきは、武士の道を捨て、新たな世界で成功を収めた一族の存在である。佐渡を離れた本間氏の一部は、出羽国酒田(現在の山形県酒田市)に移り住み、江戸時代を通じて日本有数の豪商へと成長した 10 。彼らは北前船交易などで莫大な富を築き、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの繁栄を極めたのである 47 。これは、戦国時代の終焉が、旧来の武士階級に多様な生き方の選択を迫ったことを示す、興味深い事例と言えるだろう。
佐渡国雑太城の歴史は、城郭そのものの華々しい攻防戦の物語によって彩られているわけではない。むしろ、その歴史は、時代の大きなうねりの中で、ある地方権力がどのように生まれ、変容し、そして終焉を迎えたかを静かに物語る、一つの年代記である。
鎌倉幕府の権威を背景に、平地の「館」から始まった本間氏の支配。それは、やがて戦国の動乱の中で、自らの実力を示すための「城」を必要とした。惣領家の衰退と分家の台頭は、伝統的な農業基盤から、鉱業や交易といった新たな経済力へと富の源泉が移行していく時代の変化を映し出していた。また、この地に刻まれた日野資朝の悲劇は、中央の政争がいかに遠い辺境の地にまで影響を及ぼしたかを示す証左であり、その記憶は能や慰霊の儀式を通じて、今なお人々の心に生き続けている。
そして、天正17年。上杉景勝の侵攻と、それに続く雑太城の破却は、佐渡における中世の終わりを決定づけた。恭順したにもかかわらず城を破壊するという冷徹な判断は、個人の忠誠よりも領国全体の安定と支配体制の再構築を優先する、近世大名の合理的な統治思想の表れであった。城が破壊され、寺が建立されるという象徴的な出来事を通じて、佐渡は本間氏の時代から上杉氏、そして幕府天領の時代へと、不可逆的な転換を遂げたのである。
結論として、雑太城は単なる一地方の城跡ではない。それは、鎌倉期の「権威」の時代から、戦国期の「実力」の時代へ、そして近世の「統治」の時代へと移行する、日本の歴史の縮図が凝縮された場所である。勝者である上杉氏の視点からではなく、滅びゆく敗者・本間氏の視点から戦国時代の終焉を静かに物語る、稀有で貴重な歴史の証人と言えるだろう。その声に耳を傾けるとき、我々は佐渡という島が内包する、豊かで奥深い歴史世界の一端に触れることができるのである。