日向の要衝飫肥城は、伊東氏と島津氏が百年にわたり争奪。南九州特有の群郭式城郭で、実戦的な防御を誇った。伊東祐兵が秀吉の支援で旧領を回復し、城下町を整備。
日本の戦国史において、一つの城を巡り百年にわたり二つの大名家が血で血を洗う争いを繰り広げた例は稀である。日向国南部、現在の宮崎県日南市にその跡を残す飫肥城は、まさにその稀有な歴史の舞台となった城郭である。この城が持つ戦略的重要性は、単に一地方の拠点という範疇を遥かに超え、伊東氏と島津氏という南九州の二大勢力の存亡をかけた係争地として、戦国時代の地図に深くその名を刻み込んだ 1 。
飫肥城がこれほどの戦略的価値を持った理由は、その地理的特性に深く根差している。日向国中部に勢力を張る伊東氏にとって、飫肥は薩摩・大隅方面への南進政策における橋頭堡であり、一方で九州統一を目指す薩摩の島津氏にとっては、日向への北上、あるいは伊東氏の侵攻を食い止めるための最前線防衛拠点であった。さらに、この地は高品質な木材として名高い「飫肥杉」の産地であり、酒谷川を利用した舟運の結節点という経済的な価値も有していた 3 。領土的野心と経済的利権が交差するこの地は、必然的に両氏の衝突が避けられない場所となったのである。
この城の成り立ちを語る上で欠かせないのが、南九州特有の地質、すなわち「シラス台地」の存在である 3 。火山噴出物が堆積して形成されたこの大地は、加工が容易である反面、地盤が脆弱で崩れやすいという特性を持つ。この地理的制約は、近畿地方に見られるような巨大な石垣を高く積み上げる築城術の発展を困難にした。しかし、南九州の武将たちはこの制約を逆手に取り、独自の城郭思想を発展させた。それは、石を「積む」のではなく、台地そのものを「削る」という発想の転換であった。広大な台地を巨大な空堀で分断し、それぞれが独立した防御機能を持つ複数の曲輪(くるわ)を林立させる「群郭式(ぐんかくしき)」と呼ばれる縄張りがそれである 4 。
飫肥城の構造は、この南九州の城郭思想を色濃く反映している。それは単なる建築様式ではなく、「地理的制約」と「永続的な戦争状態」という二つの要因が融合して生まれた、必然的な形態であった。絶え間ない攻防が続く中で、城に求められたのは権威の象徴ではなく、あくまで実戦における防御機能の最大化であった。シラス台地という自然地形を最大限に活用し、大地を深く削り込むことで堅牢な要塞群を築き上げた群郭式縄張りは、資材や技術の制約の中で防御効果を追求した、南九州の風土と戦乱の歴史が生んだ合理的な帰結であった。飫肥城の姿そのものが、この地の自然と歴史を雄弁に物語っているのである。
飫肥城が歴史の表舞台に登場する以前、その起源は必ずしも明確ではない。しかし、最も有力視されている説は、南北朝時代に日向国の有力な国人であった土持氏によって築かれたというものである 3 。当初、この地は「飫肥院(おびいん)」と呼ばれていた可能性が指摘されており、これは穀物を収める倉庫(院)が置かれていたことに由来すると考えられている 5 。このことからも、飫肥が古くから地域の経済活動における重要な拠点であったことが窺える。
土持氏は、当初伊東氏と婚姻関係を結ぶなど協調路線をとっていたが、日向守護の地位を巡る争いや薩摩島津氏への対応を巡って次第に対立し、戦国時代に入ると島津氏の配下となっていった 8 。これにより、飫肥の地は日向中部から勢力を南下させようとする伊東氏と、それを阻止しようとする島津氏の勢力圏が直接接触する最前線へと変貌していく。
伊東氏と島津氏による百年にわたる争奪戦の直接的な引き金となったのは、1485年(文明17年)の出来事であった。当時、日向国中部でその勢力を確固たるものにしていた伊東氏12代当主・伊東祐国が、飫肥への大々的な侵攻を開始したのである 4 。しかし、この戦いは伊東氏にとって悲劇的な結末を迎える。島津軍の激しい抵抗の前に伊東軍は苦戦し、乱戦の中で当主・祐国が討ち死にするという最悪の結果に終わった 4 。
一族の当主を敵地で失うというこの衝撃的な敗北は、伊東家の武門の誇りを深く傷つけ、島津氏に対する消しがたい遺恨を植え付けた。もしこの戦いが単なる領土紛争であったならば、当主の死という甚大な損害を受けて戦略を見直すのが合理的であったかもしれない。しかし、伊東氏はこの後も執拗に飫肥への侵攻を繰り返すことになる 4 。これは、飫肥城の奪取が単なる戦略目標から、亡き祐国の無念を晴らし、島津氏に対して失墜した一族の権威を回復するための「宿願」へと昇華されたことを意味する。当主の仇討ちという感情的な動機が、この争いを百年にわたる泥沼の消耗戦へと発展させる根源となったのである。
一方の島津氏も、伊東氏の執拗な南下を強く警戒していた。島津宗家は、この戦略的要衝を防衛するため、一族である新納氏を飫肥城に、また南西の櫛間城には同じく庶流の伊作氏を配置し、対伊東氏の防衛線を構築した 5 。しかし、この防衛体制は盤石ではなかった。城主として派遣された新納氏と伊作氏の間で不和が生じ、伊作氏が反乱を起こして飫肥城を攻撃するという内紛が発生したのである 5 。
この内乱に伊東氏が介入したことで、事態はさらに複雑化する。島津宗家が辛うじて反乱を鎮圧し、飫肥城を再び直接支配下に置いたものの、この一連の騒乱は、飫肥周辺地域が常に不安定な情勢下にあり、外部勢力の介入を容易に許す脆弱性を抱えていたことを露呈させた。こうして飫肥城は、両氏の力が拮抗し、互いに譲ることのできない係争地として、南九州の戦国史にその位置を固定化されていったのである。
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関係人物 |
結果と影響 |
1485年(文明17年) |
伊東祐国、飫肥へ侵攻するも島津軍との戦闘で戦死。 |
伊東祐国 |
伊東氏と島津氏の百年にわたる争奪戦の発端となる 4 。 |
1541年(天文10年) |
伊東義祐、本格的に飫肥城への侵攻を開始。 |
伊東義祐 |
争奪戦が激化する 9 。 |
1545年(天文14年) |
伊東軍、飫肥城周辺の烏帽子砦を攻略。島津軍も反撃し、一進一退の攻防が続く。 |
- |
周辺の支城を巡る消耗戦が展開される 11 。 |
1548年(天文17年) |
伊東軍、飫肥城を直接攻撃するも攻略に至らず。 |
- |
飫肥城の堅固さが示される 11 。 |
1559年(永禄2年) |
島津義弘が飫肥城の在番(城代)となる。 |
島津義弘 |
島津氏が防衛体制を強化 11 。 |
1562年(永禄5年) |
5月、島津忠親(飫肥城主)、伊東義祐に飫肥城を明け渡す。 |
伊東義祐, 島津忠親 |
伊東氏、一時的に飫肥城を支配下に置く 11 。 |
1562年(永禄5年) |
9月、島津忠親、わずか4ヶ月で飫肥城を攻め落とし奪還する。 |
島津忠親 |
戦況が再び膠着状態に戻る 11 。 |
1568年(永禄11年) |
伊東義祐、2万を超える大軍で飫肥城を包囲。島津の援軍を破り、和睦により飫肥城を割譲させる。 |
伊東義祐 |
伊東氏が飫肥城を完全に掌握。伊東氏の勢力は最大版図を迎える 2 。 |
1572年(元亀3年) |
木崎原の戦い。伊東軍が島津義弘軍に大敗を喫する。 |
伊東義祐, 島津義弘 |
伊東氏衰退の決定的な契機となる 9 。 |
1576年(天正4年) |
島津氏、衰退した伊東氏を攻め、飫肥城を再び支配下に収める。 |
- |
飫肥城が再び島津氏の手に落ちる 12 。 |
1577年(天正5年) |
「伊東崩れ」。伊東氏の重臣が次々と離反。伊東義祐は日向を追われ豊後へ逃れる。 |
伊東義祐, 上原尚近 |
伊東氏の領国が崩壊。上原尚近が飫肥城主となる 9 。 |
1587年(天正15年) |
豊臣秀吉の九州平定。伊東祐兵が先導役として功を挙げ、秀吉より旧領・飫肥を与えられる。 |
伊東祐兵, 豊臣秀吉 |
伊東家再興の道が開かれる 4 。 |
1588年(天正16年) |
5月、城代・上原尚近の抵抗の末、伊東祐兵が飫肥城に入城。 |
伊東祐兵, 上原尚近 |
百年戦争が名実ともに終結。伊東氏による飫肥統治が始まる 5 。 |
伊東祐国の孫である伊東義祐が家督を継ぐと、祖父の代からの宿願であった飫肥城奪取に向けた動きは、かつてないほどの激しさを見せるようになる 5 。天文、弘治、永禄の各年代を通じて、飫肥城とその周辺の支城群は、両軍の血が絶え間なく注がれる凄惨な戦場と化した。
詳細な記録によれば、伊東軍は水ノ尾(貝殻城)や中ノ尾(鳶ヶ嶺)、鬼ヶ城といった飫肥城を守るための前線砦に対し、波状的な攻撃を繰り返した 11 。1545年(天文14年)に烏帽子砦を攻略すれば、すぐさま島津軍が反撃してこれを焼き払うなど、まさに一進一退の攻防が繰り広げられた 11 。1562年(永禄5年)には、長年の攻勢が実を結び、ついに島津方から飫肥城の明け渡しを取り付けることに成功する。しかし、その支配は長くは続かなかった。わずか4ヶ月後には島津軍の逆襲に遭い、城は再び奪還されてしまう 11 。この出来事は、飫肥城がいかに両勢力にとって譲れない地であったか、そしてその支配を維持することがいかに困難であったかを物語っている。
長きにわたる膠着状態を打破したのは、伊東義祐の執念であった。1568年(永禄11年)、義祐は2万1千人という、当時としては破格の大軍を動員し、飫肥城に対する総攻撃を開始する 9 。この圧倒的な兵力の前に、島津方の防衛網はついに崩壊。島津宗家からの援軍も撃退され、籠城していた島津軍は和睦を受け入れざるを得なくなり、飫肥城は伊東氏に割譲された 2 。伊東祐国の戦死から80年余り、三代にわたる悲願がついに達成された瞬間であった。
この勝利は、伊東氏の勢力を絶頂へと押し上げた。義祐は日向国内に「伊東四十八城」と称される広大な支城網を構築し、その支配体制を盤石なものとした 2 。そして、宿願の地であった飫肥城は、嫡男であり後の当主となる伊東祐兵に与えられ、伊東氏の領国経営において本城に次ぐ最重要拠点として位置づけられたのである 5 。
しかし、栄華は長くは続かなかった。伊東氏の崩壊は、一つの敗戦をきっかけに、それまで水面下で進行していた組織の綻びが連鎖的に噴出した結果であった。
その直接的な引き金となったのが、1572年(元亀3年)の木崎原の戦いである 9 。この戦いで、数で優位にあったはずの伊東軍は、島津義弘が率いる寡兵の前に戦術的に翻弄され、総大将をはじめとする多くの有力武将を失うという壊滅的な大敗を喫した。この軍事的な失敗は、伊東氏の武威を失墜させ、その支配体制に深刻な動揺をもたらした。
だが、なぜ一度の敗戦が、盤石に見えた四十八城体制の全面的な崩壊にまで繋がったのか。その根源には、伊東義祐自身の内政の失敗があった。長年の宿願を達成したことによる驕りか、義祐は奢侈にふけり、家臣に対して理不尽な振る舞いを見せることが増えていたという 2 。これにより、家臣団の結束は徐々に蝕まれていた。
この内部の亀裂を、敵である島津方は見逃さなかった。島津家臣・上原尚近は、軍事力だけでなく、巧みな情報戦を仕掛けたのである。彼は、伊東氏の重臣が島津に内通しているという内容の偽手紙を作成し、意図的に伊東方の手に渡るように工作した 14 。すでに当主への不満が渦巻いていた伊東家中は、この調略によって疑心暗鬼の坩堝と化した。重臣たちは互いを信じられなくなり、保身のために次々と島津方へと寝返っていった。この組織の内部崩壊こそが、「伊東崩れ」の実態である 9 。
最終的に、信じるべき家臣を失った義祐は本拠地である佐土原城を追われ、豊後の大友宗麟を頼って流浪の身となる 12 。そして、伊東氏が百年の執念を燃やした飫肥城も、あっけなく島津の手に落ち、その城代には一連の調略で最大の功績を挙げた上原尚近が任じられた 13 。伊東氏の崩壊は、軍事、内政、そして情報戦という三つの側面が複合的に絡み合った、戦国時代の厳しさを象徴する出来事であった。
飫肥城の縄張りは、百年戦争という過酷な実戦環境がいかに城郭の姿を機能的に磨き上げていくかを如実に示している。日南市の公式記録によれば、城域は東西約750メートル、南北約500メートルに及び、その広大な敷地には大小13もの曲輪が林立していた 4 。これは、南九州の中世城郭に特徴的な「群郭式」の典型例である。
この構造の最大の特徴は、各曲輪が巨大な空堀によって完全に隔絶され、それぞれが高い独立性を保っている点にある 5 。仮に敵の猛攻によって一つの曲輪が陥落したとしても、残りの曲輪は独立した砦として機能し、連携して抵抗を続けることができた。これにより、城全体が容易には落ちない、粘り強い多重防御システムが形成されていたのである。
この設計思想は、一般的な城郭が持つピラミッド型の防御構造とは一線を画す。天守や本丸といった特定の中心を死守するのではなく、城全体を一個の要塞群として機能させる「防御の非中心化」とも言うべき思想が貫かれている。これは、兵力が劣勢な状況でも、一点突破による急な総崩れを防ぎ、援軍の到着を待つ時間を稼ぐことを想定した、極めて実践的な構造であった。飫肥城は「落とされない」ことよりも「簡単には落ちきらない」ことを目指して設計されており、これは絶え間ない攻防が続いた南九州の戦国時代を象徴する、現実的な生存戦略の表れと言える。
飫肥城の構造は中世的な特徴を色濃く残す一方で、後の近世城郭へと繋がる先進的な防御施設も随所に見られる。その代表格が、城の正門である大手門の内部に設けられた「枡形虎口(ますがたこぐち)」である 4 。
これは、門の内側に四角形の空間を設け、進入路を直角に屈折させる構造である。城内に殺到しようとする敵兵は、この空間で動きを著しく制限され、三方を囲む土塀や櫓から集中攻撃を浴びることになる 4 。また、通路自体をクランク状に折り曲げた「喰違虎口(くいちがいこぐち)」なども確認されており、敵兵の突進力を削ぎ、防御側が常に有利な位置から迎撃できるような工夫が凝らされていた 5 。これらの巧妙な仕掛けは、単なる力攻めを許さない、計算され尽くした防御思想の産物であり、戦国時代を通じて蓄積された実戦の教訓が昇華されたものと言えよう。
近世城郭の象徴ともいえる天守は、飫肥城には築かれなかった 20 。これは、この城が領主の権威を誇示するためのものではなく、その目的が純粋に軍事拠点としての機能に特化していたことを何よりも雄弁に物語っている。城の防御力は、天守という単一の強力な防御点に依存するのではなく、独立した多数の曲輪の堅固さと、それらを結ぶ複雑な動線、そして巧妙に配置された虎口群によって、城郭全体で担保されていた。
記録によれば、天守の代わりとして、中の丸の南東隅に築かれた「大櫓」と呼ばれる隅櫓が、城のシンボル的な役割を果たしていた可能性が指摘されている 6 。しかし、城の真の心臓部は、特定の建物ではなく、この群郭式の縄張りそのものであった。実戦の中で磨き上げられたこの要塞群こそが、伊東・島津両氏が百年をかけても容易に決着をつけられなかった、飫肥城の強さの根源だったのである。
伊東家の領国が崩壊し、父・義祐と共に豊後へ落ち延びた嫡男・祐兵の人生は、苦難の連続であった 22 。頼った大友氏も耳川の戦いで島津氏に大敗し、その勢力を失うと、祐兵らは豊後国内で肩身の狭い思いをすることになる。彼は父や僅かな家臣と共に海を渡り、伊予国へと逃れるなど、流浪の日々を送った 22 。
しかし、この逆境の中で祐兵は再興の機会を窺っていた。転機が訪れたのは1582年(天正10年)、天下統一への道を歩み始めていた羽柴秀吉に仕官する機会を得たことである 22 。祐兵は、同年の山崎の戦いや翌年の賤ヶ岳の戦いにおいて武功を挙げ、着実に秀吉の信頼を勝ち取っていった 22 。彼は、もはや地方豪族同士の争いで旧領を回復することは不可能であり、時代の趨勢が中央の新たな権力者へと向かっていることを的確に見抜いていた。
祐兵の先見の明が真価を発揮したのは、1586年(天正14年)から始まった豊臣秀吉による九州征伐においてであった。秀吉は、島津氏の領国、特に日向の地理や人脈、そして戦況に精通している祐兵の価値を高く評価し、彼を豊臣軍の「先導役」という極めて重要な役割に抜擢した 12 。
故郷への帰還を果たした祐兵は、かつての旧臣たちをまとめ上げ、豊臣軍の先鋒として奮戦した。根白坂の戦いなどで島津軍を破り、その降伏に大きく貢献したのである 22 。この功績は秀吉に高く評価され、戦後の論功行賞において、祐兵はついに念願であった旧領・飫肥を含む広大な所領を与えられた 4 。これは単なる武勇伝ではなく、祐兵が自らの持つ専門知識という価値を、天下統一という新たな時代の大きな物語の中に巧みに位置づけることで目的を達成した、優れた政治的判断の結果であった。彼は、個人の武力が全てであった時代から、中央の権威といかに結びつくかが重要となる時代への移行を象徴する、見事な立ち回りで一族の再興を成し遂げたのである。
しかし、飫肥城への帰還は、すんなりとはいかなかった。秀吉の裁定が下った後も、城代として飫肥を守っていた島津家臣・上原尚近は、城の明け渡しを頑なに拒絶したのである 5 。かつて自らが謀略の限りを尽くして伊東氏から奪い取った城を、その当主に返すことは、彼の武将としての矜持が許さなかったのかもしれない。尚近は秀吉からの使者を殺害するなど、激しい抵抗を見せた 17 。
この抵抗は翌1588年(天正16年)まで続いたが、天下人である秀吉の命令と、主家である島津氏からの度重なる説得の前には、さすがの尚近も抗しきれなかった。ついに彼は城から退去し、同年5月、伊東祐兵は名実ともに飫肥城主として、故郷の地を踏んだ 12 。伊東祐国の死から始まった百年にわたる争奪戦は、ここに真の終結を迎えたのである。
飫肥城への帰還を果たした伊東祐兵の視線は、もはや過去の戦乱にはなく、未来の領国経営へと向けられていた。彼は単に城を回復しただけでなく、その周辺に本格的な城下町を建設することに着手したのである 25 。江戸時代初期に描かれた絵図には、すでに現在の飫肥の町並みに繋がる整然とした町割りの原型が見られることから、祐兵の時代に近世的な都市計画の基礎が築かれたことがわかる 26 。これは、飫肥が純粋な軍事拠点から、飫肥藩5万1千石の政治・経済の中心地へと、その役割を大きく転換させたことを示している。
江戸時代に入り、平穏を取り戻したかに見えた飫肥城であったが、新たな試練に直面する。寛文2年(1662年)、延宝8年(1680年)、そして貞享元年(1684年)と、短期間に三度もの大地震に見舞われ、城は甚大な被害を受けたのである 8 。
しかし、飫肥藩伊東氏はこの災禍を、城を近代化させる好機と捉えた。シラス台地上の脆弱な旧本丸を放棄し、より安定した平地に新たな本丸を造成。その周囲には、織豊系の築城術を取り入れた石垣や枡形虎口が整備された 4 。この大規模な改修事業の結果、飫肥城は、南九州特有の中世的な群郭式の構造を色濃く残しつつも、主郭部には近世的な石垣造りの様式が共存するという、他に類を見ない独特の姿を持つに至った。その城郭は、戦国から江戸へと至る時代の変遷を、地層のようにその身に刻み込んでいるのである。
日向・飫肥城の歴史は、単なる一つの城の盛衰史ではない。それは、シラス台地という地理的宿命の上で、伊東・島津という二つの名家が百年にわたり燃やした執念の物語である。戦国の過酷な実戦環境が、大地を削り、曲輪を並べるという独自の城郭思想を磨き上げ、その堅固な縄張りは、幾多の攻防の歴史を今に伝えている。そして、時代の大きなうねりを読み解き、流浪の果てに故郷を回復した伊東祐兵の不屈の精神は、戦乱の世の終焉と新たな時代の幕開けを象徴している。
中世の面影と近世の様式が同居するその姿は、訪れる者に、戦国の動乱から近世の安定へと至る日本の歴史のダイナミズムを静かに、しかし力強く語りかけている。飫肥城は、南九州の自然と人々が織りなした、稀有な歴史遺産なのである。