九戸政実の乱後仕置(1591)
天正19年、九戸政実が豊臣秀吉の奥州仕置に反発し挙兵。南部信直との家督争いも背景に、豊臣軍6万に攻められ九戸城は落城。政実は処刑され、北奥羽は再編。天下統一の最終章を飾る戦いとなった。
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九戸政実の乱と後仕置:豊臣天下統一の最終章と北奥羽の再編
序章:天下統一の終焉、北奥に残された火種
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が北条氏の降伏をもって終結し、それに続く「奥州仕置」が断行された。これにより、百年に及んだ戦国の乱世は事実上の終焉を迎え、秀吉を中心とする統一政権の支配が日本全土に及ぶかに見えた 1 。しかし、中央の論理によって強引に進められたこの領土再編は、長年にわたり独自の秩序を育んできた陸奥国北部の社会に深刻な亀裂を生じさせる。特に、甲斐源氏の流れを汲む名門・南部一族の内部に燻っていた権力闘争の火種に、中央政権という外部からの風が吹き付けたことで、それは天下統一事業の総仕上げを血で染める最後の大規模な内乱へと燃え上がることになる。
本報告書は、天正19年(1591年)に発生した「九戸政実の乱」およびその後の「仕置」について、単なる一地方の反乱としてではなく、戦国時代から近世へと移行する時代の大きな転換点に位置づけられる画期的な事件として多角的に分析するものである。南部氏内部の構造的対立というミクロな視点と、豊臣政権による全国支配体制の確立というマクロな視点を交錯させながら、事件の遠因から凄惨な結末、そしてその後の北奥羽地域の秩序形成に至るまでを、時系列に沿って詳細に解明することを目的とする。
第一部:構造的対立の深化 ― 乱の胎動(天正10年~天正19年正月)
九戸政実の乱は、天正19年(1591年)に突如として勃発した事件ではない。その根源は、10年近くにわたる南部氏内部の根深い対立と、豊臣政権という新たな権力構造がもたらした秩序の変容にあった。この部は、乱が必然的な帰結であったことを、南部氏の家督問題と奥州仕置という二つの軸から論証する。
第一章:南部宗家の家督問題 ― 信直と政実、交わらぬ道
古来、陸奥国北部に広大な領域を築いた南部氏は、宗家である三戸南部氏を盟主としながらも、八戸氏、九戸氏、七戸氏といった有力な分家が強い独立性を保つ「郡中」と呼ばれる一族連合体によって統治されていた 3 。中でも九戸氏は、南部氏の祖・南部光行の子である行連を祖とするとされ、宗家と並び称されるほどの勢威を誇る名族であった 1 。この緩やかな連合体という統治構造こそが、後の深刻な対立の温床となる。
全ての歯車が狂い始めたのは、天正10年(1582年)、南部氏の最盛期を築いた第24代当主・南部晴政と、その後継者であった嫡男・晴継が相次いで急死したことに端を発する 3 。後継者を巡る一門の大評定では、晴政の次女を娶っていた九戸政実の弟・実親を推す声が多数を占めていた 3 。しかし、この流れに待ったをかけたのが、重臣の北信愛であった。信愛は「田子九郎信直(後の南部信直)は晴政の従兄弟、かつ晴継の姉婿なり。その器量、また他に勝る」と強く主張し、同じく有力一門である八戸政栄の支持も取り付けた 7 。信直は晴政の養嗣子であったものの、後に晴政との関係が悪化し、不遇をかこっていた人物である 8 。北信愛は武装した兵を田子城に派遣し、半ば強引に信直を三戸城に迎え入れ、第26代当主として擁立したのである 7 。
この一連の家督継承劇は、正統な後継者候補であった弟・実親を退けられた九戸政実にとって、到底承服できるものではなかった。政実の信直に対する根深い不満と敵愾心は、この瞬間に決定的なものとなった 3 。
この対立は、単なる個人的な確執や権力闘争に留まるものではない。それは、南部氏という組織が、中世的な一族連合体から、当主の権力を絶対化する近世的な中央集権型大名へと脱皮できるか否かを問う、「体制選択」の闘争であった。九戸政実は、伝統的な「郡中」の枠組みの中で、有力分家としての独立性を維持しようとした。一方、庶流出身で権力基盤の脆弱な信直は、津軽為信の独立といった内外の危機に対応するためにも 7 、強力なリーダーシップによって家中を統制し、権力を宗家に集中させる必要があった。信直の家督継承は、南部氏が近世大名へと生まれ変わるための、避けては通れない産みの苦しみだったのである。
第二章:中央の論理、地方の現実 ― 「奥州仕置」の衝撃
信直と政実の対立が膠着状態にあった中、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が開始される。中央の情勢を注意深く観察していた信直は、この機を逃さなかった 13 。兵1000を率いて小田原に参陣し、秀吉に臣従の意を示す 3 。戦後、宇都宮において行われた「奥州仕置」において、信直は秀吉から南部領七郡の支配を公的に認める朱印状を授与された 3 。
この朱印状が持つ意味は、単なる領土の安堵に留まらなかった。それは、豊臣政権が信直を南部氏唯一の正統な当主、すなわち近世大名として公認したことを意味した。これにより、これまで宗家と並び立つほどの勢力を誇ってきた九戸政実ら他の有力一族は、法的に信直の「家臣」として位置づけられることになり、その独立性は完全に否定されたのである 3 。奥州とは縁もゆかりもない中央の権力者によって、長年の地域の秩序が一方的に塗り替えられたことへの反発は、政実の中で頂点に達した 1 。
さらに、奥州仕置軍が引き揚げた直後の同年10月頃から、陸奥国各地では葛西・大崎一揆や和賀・稗貫一揆など、秀吉の強引な仕置に対する大規模な反乱が相次いで勃発した 3 。北奥羽全体が不穏な空気に包まれる中、先に南部氏から独立を勝ち取り、秀吉から大名としての地位を認められた津軽為信の成功事例は、政実の野心を刺激したであろうことは想像に難くない 8 。
政実の戦略は、他の奥州一揆とは本質的に異なっていた。葛西・大崎一揆が改易された旧領主の遺臣らによる豊臣政権への直接的な反乱であったのに対し、政実の主たる目的は、あくまで南部氏内部の主導権を掌握することにあった。しかし、信直が秀吉という絶対的な権威から「お墨付き」を得たことで、信直への反抗は、自動的に豊臣政権への反逆と見なされるという構造が完成してしまった。政実は、奥州各地に広がる「反豊臣」の時流に乗りつつ、その刃を直接の政敵である信直に向けるという、極めて危険な賭けに出ることを余儀なくされたのである 5 。
第三章:決別の狼煙 ― 新年参賀の拒否
天正19年(1591年)正月。九戸政実は、南部一族の慣例であった宗家・三戸城への新年参賀を、ついに拒否する 6 。これは、もはや信直を南部氏の当主として認めないという最終的な意思表示であり、北奥の雪解けを待って戦端を開くことを告げる、事実上の宣戦布告であった。南部領内は、一触即発の極度の緊張状態に包まれ、天下統一の最終章となる内乱の幕が静かに上がろうとしていた。
第二部:奥州再仕置 ― 豊臣中央軍の進撃(天正19年3月~8月)
政実の決起に対し、当初は自力での鎮圧を目指した南部信直であったが、九戸勢の予想以上の抵抗と家中からの離反者の続出により、その試みは頓挫する。窮地に陥った信直は、天下人・豊臣秀吉に助けを求める。この要請は、奥州の再度の仕置、すなわち「奥州再仕置」へと発展し、豊臣政権の総力を挙げた空前の大軍が北奥の地を目指すこととなる。
表1:九戸政実の乱 関連年表
年月日 |
出来事 |
天正10年 (1582) |
南部晴政・晴継父子が相次いで死去。南部信直が家督を継承し、九戸政実との対立が始まる。 |
天正18年 (1590) |
7月 |
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10月 |
天正19年 (1591) |
1月 |
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3月 |
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4月 |
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6月9日 |
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6月 |
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7月24日 |
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8月23日頃 |
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8月24日 |
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9月1日 |
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9月2日 |
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9月4日 |
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9月17日 |
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9月20日 |
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(乱後) |
第一章:九戸勢の蜂起と南部領の戦乱(3月~6月)
雪解けを待った天正19年3月、九戸政実は櫛引清長、七戸家国らと結び、約5,000の兵力でついに決起した 12 。その軍勢は精強で、信直の支配に不満を抱く地域の土豪たちもこれに呼応し、緒戦において九戸方は優勢に戦を進めた 1 。当時の緊迫した状況は、豊臣家臣で奥州の仕置を担当していた浅野長政の代官が3月17日付で発した書状からも窺い知ることができ、そこには九戸方の挙兵に対する強い警戒感が記されている 17 。
対する南部信直は防戦一方となり、家中からは恩賞の見込めない内輪揉めを嫌い日和見を決め込む者や、九戸方に寝返る者まで現れる始末であった 1 。特に、南部氏の一族である一戸氏の居城を巡る攻防戦に敗れたことは、信直にとって大きな痛手となった 5 。もはや自力での鎮圧は不可能であると悟った信直は、最後の手段に打って出る。6月9日、嫡男の利直と腹心の北信愛を京に上らせ、秀吉に謁見。北奥の惨状を訴え、正式に中央からの援軍を要請したのである 12 。
第二章:秀吉の決断と再仕置軍の編成(6月~7月)
信直からの報告は、葛西・大崎一揆の鎮圧に手間取っていた秀吉を激怒させた。奥州の完全平定を天下統一事業の総仕上げと位置づけていた秀吉は、この反乱を根絶やしにし、他の抵抗勢力に対する「見せしめ」とすることを決意する 17 。
秀吉の命令一下、奥州再仕置軍が編成される。その陣容は、地方の反乱鎮圧とは到底思えない、国家規模の壮大なものであった。関白・豊臣秀次を総大将に、後詰として徳川家康。そして、蒲生氏郷、浅野長政、石田三成、上杉景勝、前田利家、佐竹義重といった、豊臣政権を支える錚々たる大名が軒並み動員された 12 。さらに、伊達政宗や最上義光ら、奥羽の豊臣方大名もこれに加わり、その総兵力は6万とも10万とも言われる、まさに空前絶後の大軍であった 18 。この過剰ともいえる戦力投入は、九戸政実を軍事力で屈服させるだけでなく、豊臣政権の絶対的な力を天下に示すという、高度な政治的パフォーマンスでもあった。
表2:奥州再仕置軍 主要編成表
役職・方面軍 |
主要指揮官 |
参陣した主な大名・兵力 |
総大将 |
豊臣 秀次 |
(秀次自身の軍勢) |
後詰 |
徳川 家康 |
(徳川軍) |
白河方面軍 |
浅野 長政、蒲生 氏郷 |
豊臣・徳川配下の一級武将が多数参陣 |
仙北方面軍 |
上杉 景勝、大谷 吉継 |
(上杉軍、大谷軍) |
津軽方面軍 |
前田 利家、前田 利長 |
(前田軍) |
相馬方面軍 |
石田 三成、佐竹 義重、宇都宮 国綱 |
(石田軍、佐竹軍、宇都宮軍) |
東北諸大名 |
伊達 政宗、最上 義光、秋田 実季、津軽 為信など |
(各々の領国から動員) |
総兵力 |
- |
約6万~10万 と推定 |
出典: 12 に基づき作成
第三章:白河口から北へ ― 鎮圧と進軍(7月~8月)
天正19年7月24日、再仕置軍の中核をなす蒲生氏郷の軍勢が、本拠地である会津若松城を出発した 6 。軍勢は白河口から奥州街道を北上し、道中で浅野長政の部隊と合流。未だ燻る一揆の残党を鎮圧しながら、その進軍を続けた 12 。
8月下旬には、軍勢は南部領の南端にあたる和賀郡に着陣 12 。この地から、九戸勢との本格的な戦闘が開始される。九戸方の武将・小鳥谷摂津守が少数精鋭を率いて再仕置軍に夜襲をかけ、一矢を報いる場面もあったが、巨大な軍勢の進撃を押しとどめるには至らなかった 17 。また、本隊とは別に編成された別動隊は、戸田、伊保内、大館といった九戸方の支城を次々と攻略し、包囲網を狭めていった 6 。九戸政実と籠城兵の運命は、この圧倒的な軍勢が南部領に足を踏み入れた時点で、事実上決していたのである。
第三部:九戸城攻防戦 ― 天下統一最後の戦い(天正19年9月1日~9月4日)
再仕置軍の圧倒的な進撃の前に、九戸方の支城は次々と陥落。九戸政実は本拠地である九戸城での籠城戦を決意する。わずか四日間の攻防であったが、この戦いは、豊臣秀吉による天下統一事業の最後を飾る、象徴的な戦いとなった。
第一章:前哨戦 ― 姉帯城・根反城の陥落(9月1日)
九戸城の南方を固める前線基地として、姉帯城と根反城は極めて重要な拠点であった 5 。天正19年9月1日、奥州再仕置軍はこれらの城に総攻撃を開始する。姉帯城では、城主の姉帯兼興らが奮戦し、激しい抵抗を見せたが、押し寄せる大軍の前に持ちこたえることはできず、その日のうちに陥落した 5 。浅野長政が戦後に発した書状にも「去る一日、根反・姉帯の城をただちに攻め掛けて陥落させた」と記されており、その攻撃が迅速かつ圧倒的であったことがわかる 11 。前線基地のあまりにも早い陥落は、九戸城に籠もる兵たちの士気に大きな動揺を与えた。
第二章:九戸城の包囲(9月2日)
九戸城は、馬淵川、白鳥川、猫渕川という三つの川に三方を囲まれ、断崖絶壁を天然の要害とする堅固な平山城であった 17 。城内には東北地方最古級とされる石垣が用いられ、深く掘られた空堀と合わせて、難攻不落を誇っていた 1 。
9月2日、6万ともいわれる再仕置軍が、この九戸城を完全に包囲した 12 。対する籠城兵は、女子供を含めてもわずか5,000 13 。その兵力差は12倍以上であり、軍事的には絶望的な状況であった。豊臣軍は直ちに攻城戦を開始し、激しい戦闘が繰り広げられた。浅野長政の書状には「塀際まで攻め寄せた」とあり、城の堅固な守りを前にしながらも、執拗な攻撃が加えられたことが窺える 11 。
第三章:偽りの和議 ― 降伏勧告の裏側(9月2日~3日)
九戸城の堅牢さを前に、力攻めだけでは味方の損害も大きいと判断した蒲生氏郷ら討伐軍の首脳は、戦術を謀略へと切り替えた 1 。彼らが使者に立てたのは、九戸氏の菩提寺である長興寺の住職・薩天和尚であった 1 。
薩天和尚を通じて伝えられた降伏の条件は、九戸方にとって受け入れやすいものであった。「反乱の弁明をする機会を与える」「城兵の命は保証する」という内容であり、政実らが上洛して秀吉に直接釈明することを促すものであった 1 。圧倒的な兵力差という現実と、城兵の助命という条件を前に、政実は苦渋の決断を迫られる。伝承によれば、弟の実親は「これは敵の策略ですぞ」と最後まで和議に反対したという 22 。
この「助命を約束しての降伏勧告」と、その後の「約束反故による虐殺」という手法は、単なる戦術ではなく、豊臣政権の支配イデオロギーそのものを体現していた。秀吉は、かつて肥後国人一揆の鎮圧の際にも同様の苛烈な処置をとっており、そこには「一度でも中央の権力に逆らった者には、武士の情けも約束も通用しない」という絶対的な権威を示す政治的意図があった。これは、戦国時代を通じて培われた武士の名誉や信義といった旧来の価値観を否定し、天下人の命令こそが唯一絶対の法であるという、新たな時代の秩序を血をもって知らしめるための、冷徹な政治的パフォーマンスだったのである。
第四章:開城 ― 政実、白装束での投降(9月4日)
数日にわたる葛藤の末、9月4日、九戸政実はついに和議を受け入れ、降伏を決意した 6 。政実は、櫛引清長ら主だった武将7名と共に、髪を剃り、死に装束である白衣をまとって城を出た 1 。その姿は、自らの運命を悟りつつも、城兵の助命という一点に最後の望みを託した、武将としての悲壮な覚悟を示していた。この瞬間、戦国時代最後の組織的抵抗として知られる「九戸政実の乱」は、戦闘行為としては終焉を迎えた。しかし、本当の「仕置」は、ここから始まるのであった。
第四部:「仕置」の実態と新たな秩序 ― 北奥の再編(天正19年9月4日以降)
九戸政実の降伏によって戦闘は終結したが、それは豊臣政権による苛烈な「仕置」の始まりに過ぎなかった。この「乱後仕置」は、単なる反乱者への懲罰に留まらず、北奥羽の政治地図を根本から塗り替え、南部氏を近世大名へと脱皮させ、後の盛岡藩の礎を築くという、極めて計画的な国土改造の側面を持っていた。
第一章:二の丸の惨劇 ― 「撫で斬り」の実相
政実らが投降し、城の門が開かれるや否や、討伐軍は偽りの和議の約束を反故にし、一斉に城内へと雪崩れ込んだ 22 。そして、城内に残っていた兵士はもちろんのこと、戦闘員ではない女性や子供に至るまで、全てを二の丸に追い込み、火を放って皆殺しにしたのである 1 。この凄惨な虐殺、いわゆる「撫で斬り」は、秀吉の「なでぎりに申し付くべき候」という強硬な方針を忠実に実行したものであった 17 。
この惨劇は、単なる伝承ではない。近年の九戸城跡の発掘調査では、二の丸跡から、首を刎ねられ、無数の刀傷を負った女性を含む複数の人骨が発見されており、撫で斬りが紛れもない歴史的事実であったことを考古学的に裏付けている 11 。乱後に浅野長政が記した書状には、「その他の悪徒人共はすべて首を刎ね」たと、感情を一切排した筆致で淡々と記録されており 11 、当時の武将たちがこの種の殲滅を、命令遂行の一環としていかに冷徹に捉えていたかがわかる。
第二章:首謀者たちの最期
城を出て投降した政実と重臣たちにも、慈悲はなかった。彼らに約束されていた弁明の機会は一切与えられず、捕縛されたまま総大将・豊臣秀次の本陣が置かれていた三迫(現在の宮城県栗原市)まで護送された 6 。
そして天正19年9月20日、秀次の命令により、政実らは斬首に処された。享年56であったと伝えられる 6 。その首は、密かに家臣の手によって故郷に持ち帰られ、九戸神社の近くに埋葬されたという伝説が今なお残っている 10 。
九戸一族の多くはこの時に処断されたが、政実の実弟で、乱には直接加担しなかったとされる中野康実の系統は存続を許された。その子孫は中野氏を称し、皮肉にも後に南部家中で八戸氏、北氏と共に「御三家」と呼ばれる家老職を代々務める家系として続くこととなる 3 。
第三章:論功行賞と領地再編
この苛烈な乱の鎮圧における最大の功労者は、言うまでもなく南部信直であった。乱後、信直は秀吉からその功を賞され、先の奥州仕置で改易された和賀氏・稗貫氏の旧領、すなわち和賀郡と稗貫郡を与えられた 9 。
これにより、信直の所領は従来の糠部、閉伊、鹿角、岩手、紫波の五郡(津軽二郡は為信領として事実上喪失)に二郡が加わり、合計七郡(朱印状の上では九郡)を領有することになった。その石高は10万石とされ、名実ともに北奥羽を代表する近世大名としての地位を不動のものとしたのである 9 。信直は、かつて津軽為信に奪われた津軽三郡の代替地という形でこの加増を得た側面もあり、長年の遺恨を巧みに利用して実利を得るという、優れた政治手腕を見せた 9 。
第四章:盛岡藩の礎 ― 新たな本拠地の選定
乱後の検地などのため南部領に残った蒲生氏郷と浅野長政は、単なる軍人ではなく、秀吉の意を汲んで領国経営を行う優れた行政官でもあった。彼らは信直に対し、本拠地を伝統的な三戸や、乱後に福岡城と改名された九戸から、より南方の要衝である不来方(こずかた)へ移すことを強く勧めた 3 。
この助言の裏には、豊臣政権の高度な戦略的意図があった。南に隣接し、常に奥州の覇権を狙う伊達政宗への備えと、新たに加わった和賀・稗貫両郡を含む広大な領国全体を効率的に支配するためには、不来方が地政学的に最適であると判断したのである 9 。これは、南部氏の領国経営を、豊臣政権が描く全国的な支配体制のグランドデザインの中に組み込むための、極めて政治的な措置であった。
信直はこの助言を受け入れ、文禄元年(1592年)から不来方における新城、すなわち後の盛岡城の築城に着手した 2 。これにより、三戸を本拠地とした中世以来の南部氏の歴史は一つの区切りを迎え、近世大名・盛岡藩としての新たな時代が幕を開けることになったのである。
結論:戦国時代の終焉を告げる「仕置」の歴史的意義
九戸政実の乱と、それに続く苛烈な「後仕置」は、日本史において極めて重要な意義を持つ事件であった。
第一に、この乱の鎮圧をもって、豊臣秀吉の天下統一事業に対する大規模かつ組織的な武力抵抗は完全に終息した 1 。それは、応仁の乱以来、百数十年続いた戦国乱世の事実上の終焉を意味するものであった。
第二に、この事件は、中世以来の伝統と独立性を保ってきた地方の在地領主が、中央の絶対的な権力の前にはいかに無力であるかを決定的に示した。偽りの和議と撫で斬りという非情な手段は、旧来の価値観がもはや通用しないことを天下に知らしめ、豊臣政権による中央集権体制が日本の隅々にまで及んだことを証明した。
第三に、南部氏にとって、この血塗られた事件は、旧来の「郡中」という一族連合体のしがらみを断ち切り、強力な当主権のもとに家中が統一される近世大名へと飛躍する、大きな契機となった。乱後の領地再編と、豊臣政権の戦略的意図のもとで開始された盛岡城築城は、その後約270年間にわたって続く盛岡藩の直接的な礎となったのである。
結論として、「九戸政実の乱後仕置」は、戦国という一つの時代の終わりを告げる凄惨な最終幕であると同時に、近世という新たな時代の秩序が、血と謀略の上に築かれていく様を象徴する、画期的な出来事であったと言える。
引用文献
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- 武家家伝_南部氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nanbu_k.html
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- 南部氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F
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- Untitled - 九戸村 https://www.vill.kunohe.iwate.jp/brand/map/kunohe-map.pdf
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- 「南部信直」南部家中興の祖は、先代殺しの謀反人!? 庶流ながら宗家を継いだ名君 https://sengoku-his.com/470
- 九戸政実とは 豊臣秀吉天下統一最後の相手 - 岩手県 https://www.pref.iwate.jp/kenpoku/nino_chiiki/1053577/1053578/index.html
- 【岩手県】九戸城の歴史 反乱の舞台となった難攻不落の要害 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2318
- 九戸政実の乱 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/KunoheMasazaneNoRan.html
- 南部信直(南部信直と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/79/
- 南部氏(なんぶうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F-108947
- www.touken-world.jp https://www.touken-world.jp/dtl/kunohemasazane/#:~:text=%E5%8F%8D%E4%B9%B1%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0%E3%81%AF%E3%80%81%E3%80%8C%E5%A5%A5%E5%B7%9E,%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E5%81%B4%E9%9D%A2%E3%82%82%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
- 南部信直(なんぶ のぶなお) 拙者の履歴書 Vol.150~陸奥の地を守りぬいた戦国の世 - note https://note.com/digitaljokers/n/n84b553f7cc9a
- 「九戸政実の乱(1591年)」秀吉、天下統一への最終段階。奥州再仕置と北の精鋭・九戸軍大攻囲 https://sengoku-his.com/122
- 戸城 http://www.tokugikon.jp/gikonshi/279/279shiro.pdf
- 九戸政実の乱 前編 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=WDnEoGz8-nM
- 岩手県二戸市九戸城跡 https://www.city.ninohe.lg.jp/info/2324
- 九戸政実 http://www.vill.kunohe.iwate.jp/docs/251.html
- 寄稿 『南部一族の歴史とそのゆかりの城』斎藤秀夫 - 米沢日報デジタル https://www.yonezawa-np.jp/html/feature/2020-13%20nanbu%20family/nanbu_family.html
- 岩手から秋田への内陸部夏祭り旅(六日目完)~戦国時代の終焉となった九戸政実の乱の舞台、九戸城。天下統一の新しい時代に潰された悲惨な結末です~ (二戸・一戸) - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11532559
- 【漫画】九戸政実の生涯~6万の豊臣軍と戦った武将の末路~【日本史マンガ動画】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=v9fDYraZDJ8
- 九戸政実(くのへ まさざね) 拙者の履歴書 Vol.151~義に殉じた叛臣 - note https://note.com/digitaljokers/n/nf65a22bd17cf