京都南蛮寺建立(1576)
1576年、織田信長の庇護のもと、オルガンティーノは京都に南蛮寺を建立。和風三層構造に茶室を備え、都の新名所となる。信長の合理的精神とオルガンティーノの適応主義が結実するも、本能寺の変後、秀吉の伴天連追放令により破壊された。
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天正京都に屹立した十字架:南蛮寺建立の軌跡と戦国史における意義
序章:天正京都、異文化邂逅の前夜
戦国乱世の終焉と新たな秩序の胎動
天正四年(1576年)、京都の地に、それまでの日本の景観とは全く異質な建築物がその姿を現した。南蛮寺、すなわちイエズス会の教会堂である。この建立は、単なる一宗教施設の誕生に留まらず、戦国という長きにわたる動乱の時代が終わりを告げ、織田信長という新たな天下人の下で、日本が新たな秩序へと再編されていく過程を象徴する画期的な出来事であった。
足利将軍家の権威が地に堕ち、応仁の乱以来、京都は幾度となく戦火に焼かれ疲弊していた。しかし、永禄十一年(1568年)に信長が足利義昭を奉じて上洛し、京畿一帯をその支配下に収めると、都は久方ぶりの安定を取り戻し始める。信長の強力な統制は、旧来の権力構造を打破し、新たな時代の到来を予感させた。この政治的安定と経済の復興は、南蛮からもたらされる新しい文化や思想を受け入れる土壌を、期せずして育むこととなったのである。
イエズス会による京都布教の黎明期と宣教師たちの苦闘
イエズス会による京都での布教活動は、信長上洛に先立つ永禄二年(1559年)頃、将軍足利義輝の許可を得て本格化した 1 。当初、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスといった宣教師たちは、三好長慶や松永久秀ら時の権力者の黙認の下、六角通室町西や四条烏丸といった洛中の民家を借りてささやかな会堂とし、布教の拠点としていた 1 。
しかし、その道のりは決して平坦ではなかった。強大な力を持つ仏教勢力からの激しい反発や、目まぐるしく変わる政治情勢の荒波に翻弄され、幾度となく京都からの退去を余儀なくされた。彼らの活動は、常に既存の権力構造の狭間で許容される、不安定かつ小規模なものに過ぎなかったのである。この苦闘の経験こそが、宣教師たちに、旧来の権威に縛られない絶対的な庇護者の出現を渇望させる強い動機となった。そしてその渇望は、やがて天下布武を掲げる織田信長という存在に、一条の光明を見出すことになる。
南蛮寺の建立は、こうした背景の中で実現した。それは信長以前の、既存の権力への遠慮と妥協の産物であった仮の会堂とは全く次元を異にするものであった。信長という絶対権力者の承認の下、都の目抜き通りに壮麗な姿を現した南蛮寺は、キリスト教という異質な存在が、もはや日本の旧来の権威を憚る必要がなくなったことを天下に示す、視覚的な宣言であった。すなわち、この教会堂の建立は、信長の「天下布武」が京都という都市空間に具体的に刻み込まれた、一つの象徴的事業だったのである。
第一章:天下人・信長と伴天連オルガンティーノの邂逅
南蛮寺建立という前代未聞の事業を可能にしたのは、織田信長という天下人の特異な個性と、グネッキ・ソルディ・オルガンティーノという宣教師の卓越した才覚、そして両者の間に結ばれた特異な関係性であった。
織田信長の合理的精神と宗教観:フロイスの記述から読み解く
信長とイエズス会宣教師の関係を記録した最も重要な史料は、ルイス・フロイスが著した『日本史』である。フロイスは、信長を「よき理解力と明晰な判断力を具え」、日本の神仏に対する一切の礼拝や尊崇、さらにはあらゆる異教的な卜占や迷信を軽蔑する人物として描いている 4 。フロイスによれば、信長は霊魂の不滅や来世における賞罰といった、宗教の根幹をなす概念すら信じていなかったとされ、その精神は極めて合理的かつ現世的なものであったことが窺える 4 。
しかし、このフロイスによる信長評は、一神教であるキリスト教の宣教師という立場から見た、多分に一方向的な解釈である可能性を考慮せねばならない 4 。事実、フロイス自身も、信長が当初は名目上、法華宗に属しているように見せていたことや、一部の思想において禅宗の見解に同意していた点に言及している 4 。信長の態度は、既存の宗教を無差別に否定するものではなく、むしろ自らの絶対的な権力の下に全ての宗教勢力を統制しようとする、天下人としての強い意志の表れであったと解釈するのがより妥当であろう。彼は、宗教が持つ社会的・政治的影響力を深く理解し、それを自らの統治に利用しようとしたのである。
信長のキリスト教保護政策:その政治的・経済的動機
信長がキリスト教を手厚く保護した動機は、純粋な信仰心からではなく、極めて政治的・経済的な計算に基づいていた。
第一に、当時強大な荘園と僧兵を擁し、信長の天下統一事業に抵抗していた比叡山延暦寺や石山本願寺といった仏教勢力への対抗策として、キリスト教を利用した側面が挙げられる 6 。敵の敵は味方という論理に基づき、仏教勢力と教義的に対立するキリスト教を保護することで、既存の宗教的権威を相対化し、牽制する狙いがあった 9 。
第二に、宣教師たちがもたらす南蛮の進んだ知識や技術、そして彼らの背後にある南蛮貿易の巨大利益に対する強い関心である 6 。鉄砲や火薬、地球儀、時計といった文物は、信長の好奇心を刺激しただけでなく、軍事的・経済的にも大きな価値を持っていた。宣教師は、信長にとって南蛮世界へと通じる貴重な窓口であり、彼らを厚遇することは、このパイプを確固たるものにするための戦略的投資であった 5 。信長自身はキリスト教の教義を信仰することはなかったが、宣教師が南蛮文化の導入に果たす役割を認め、その活動を保護したのである 6 。
「宇留岸伴天連」オルガンティーノの人物像と布教戦略
この信長のプラグマティズム(実利主義)に巧みに応え、南蛮寺建立を主導したのが、イタリア人宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティーノであった。元亀元年(1570年)に来日した彼は、京都地区の布教責任者として、その類まれなる手腕を発揮する 12 。
オルガンティーノの成功の最大の要因は、その明るく温和な人柄と、日本の文化や習慣を深く尊重し、積極的に適応しようとする柔軟な姿勢にあった 13 。彼は日本の米を食べ、仏僧のような和服を身にまとい、日本人と親しく交わった。その親しみやすい姿は多くの日本人から敬愛され、「宇留岸伴天連(うるがんばてれん)」という愛称で呼ばれるほどであった 13 。この彼の「適応主義」とも言うべき布教戦略は、九州において厳格な姿勢を崩さず日本人との間に摩擦を生んだ宣教師フランシスコ・カブラルとは対照的であり、近畿地方における信者数の爆発的な増加に繋がった 13 。
信長とオルガンティーノの関係は、単なる「庇護者」と「被庇護者」という単純なものではなかった。それは、互いの目的を達成するための、冷徹な計算に基づいた戦略的パートナーシップであったと言える。信長は、オルガンティーノを通じて南蛮の利益を享受し、自らの権威を強化しようとした。一方、オルガンティーノは、信長の絶対的な権力を後ろ盾とすることで、長年の懸案であった京都における恒久的かつ壮大な布教拠点の建設という大事業を実現しようとした。南蛮寺の建立は、この戦国時代特有のリアリズムに満ちた二人の提携関係が結実した、最大の成果物だったのである。
表1:南蛮寺建立と終焉に至る時系列表
年代(西暦/和暦) |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1559年(永禄2年) |
イエズス会、京都での布教を本格化 |
- |
1 |
1569年(永禄12年) |
フロイス、信長と会見し布教許可を得る |
ルイス・フロイス, 織田信長 |
1 |
1570年(元亀元年) |
オルガンティーノ来日、後に京都へ |
G.S.オルガンティーノ |
12 |
1575年(天正3年) |
南蛮寺の建設計画が始動。住民の反対運動起こる |
オルガンティーノ, 村井貞勝, 信長 |
15 |
1576年(天正4年) |
南蛮寺建立。8月15日に献堂式 |
オルガンティーノ, 高山右近 |
3 |
1577年(天正5年) |
南蛮寺の鐘がポルトガルで鋳造される |
- |
17 |
1578年(天正6年) |
織田信長・信忠親子が南蛮寺を見物 |
織田信長, 織田信忠 |
18 |
1582年(天正10年) |
本能寺の変。織田信長死去 |
織田信長 |
19 |
1587年(天正15年) |
豊臣秀吉、伴天連追放令を発布。南蛮寺破壊される |
豊臣秀吉, 前田玄以 |
15 |
20世紀以降 |
跡地から礎石、硯などが発掘される |
- |
16 |
表2:主要関係人物とその役割
人物名 |
肩書・立場 |
南蛮寺建立における役割・行動 |
典拠 |
織田信長 |
天下人 |
強力な庇護者。住民の反対を退け、建設を許可。資材調達で特例を設けるなど全面的に支援。 |
15 |
G.S.オルガンティーノ |
イエズス会宣教師 |
建立計画の中心人物。信長や村井貞勝との交渉、信徒からの資金調達などを主導。 |
14 |
村井貞勝 |
京都所司代 |
信長の代理人。住民の反対運動を調停し、キリシタン側を保護。行政面で建設を支援。 |
15 |
ルイス・フロイス |
イエズス会宣教師 |
『日本史』の著者。南蛮寺建立の経緯や信長の人物像に関する貴重な記録を残す。 |
19 |
高山右近 |
キリシタン大名 |
熱心な支援者。資金援助や信徒の結束において重要な役割を果たした。 |
15 |
豊臣秀吉 |
天下人(信長後継) |
破壊者。伴天連追放令を発布し、南蛮寺を破却。信長の対キリスト教政策を転換させた。 |
19 |
前田玄以 |
京都所司代(秀吉期) |
破壊の実行監督者。ただし、後年はキリシタンに同情的であったともされる。 |
13 |
第二章:南蛮寺建立の胎動:庇護、資金、そして京の民の抵抗(リアルタイム解説)
南蛮寺の建立は、信長の鶴の一声で円滑に進んだわけではない。その背後には、京都の民衆との激しい対立と、信長の絶対権力による強引ともいえる意思決定のプロセスが存在した。その過程を時系列で追うことは、当時の社会の力学を浮き彫りにする。
天正3年(1575年)夏:建設計画の始動と用地の確定
信長が入京してから7年が経過した天正3年の夏、京都におけるキリシタンの数は数百人規模に達し、既存の借家を改造した礼拝堂は老朽化と狭隘化が著しくなっていた 15 。この状況を打開すべく、オルガンティーノは恒久的な教会堂の建設計画を始動させる。建設地として選ばれたのは、四条坊門姥柳町(現在の京都市中京区蛸薬師通室町西入ル付近)であった 17 。この場所は、信長が上洛時の宿所としていた本能寺からわずか200メートル弱という至近距離にあり 20 、政治の中心地への近接性を意識した、戦略的な立地選定であったことが窺える。
京都住民による建設反対運動と所司代・村井貞勝の調停
しかし、都の中心部に異教の壮麗な寺院が建設されるという計画は、京都の住民、特に仏教寺院と繋がりの深い町衆からの強い反発を招いた 15 。彼らは、伝統的な手続きに則り、信長に代わって京都の民政を統括していた京都所司代・村井貞勝のもとへ赴き、建設の中止を求める陳情を行った 15 。
貞勝は、信長のキリスト教保護の意向を十分に理解しており、住民たちをなだめ、キリシタン側の計画を保護する立場をとった 15 。だが、長年培われてきた都の共同体の結束は固く、所司代の説得にも住民は応じなかった。この対立は、中世以来の自治的伝統を持つ京都の町衆と、信長が打ち立てようとする中央集権的な新しい統治体制との間の、最初の大きな衝突の一つであった。
安土への直訴と信長の裁断:建設許可の決定的な瞬間
村井貞勝による調停が不調に終わると、反対派の住民たちは最後の手段に打って出る。彼らは京を離れ、琵琶湖のほとりで巨大な安土城の築城を指揮していた最高権力者・織田信長に直接、建設中止を訴え出たのである 15 。これは、自分たちの共同体の論理が、天下人の論理をも上回ることを期待した、まさに乾坤一擲の賭けであった。
しかし、信長の裁断は彼らの期待を無情にも打ち砕く。信長は住民たちの訴えに全く耳を貸さず、計画の続行を厳命した 15 。この決定的な瞬間、京都の伝統的な共同体の意思は、天下人の絶対的な権威の前に完全に屈服させられた。信長の意思が、京都のいかなる慣習や民意にも優先されるという、新しい時代の統治原則がここに確立されたのである。
安土城築城下での特例:資材調達とキリシタン大名らの協力
信長の庇護は、単なる精神的な後ろ盾に留まらなかった。当時、信長は安土城の築城と禁裏(皇居)の造営という二大国家プロジェクトを並行して進めており、畿内近国の木材をはじめとする建築資材は、これらの事業に優先的に徴発され、他国からの購入も厳しく制限されていた 15 。
この極めて厳しい資材統制の中、信長は南蛮寺の建設のためだけに「特例」を設け、資材の確保を許可したのである 15 。国家事業と同等の優先順位が、一宗教施設に与えられたこの事実は、信長の南蛮寺に対する並々ならぬ期待と、その強力な庇護を何よりも雄弁に物語っている。フロイスの記録によれば、信長は教会の礎石を運ぶために40人から50人もの人夫を自ら派遣したとさえ記されており、その支援は直接的かつ具体的であった 23 。
この信長の絶大な支援に加え、高山右近に代表されるキリシタン大名や、数百人に上る信者たちからの熱心な寄進と労働奉仕が、建設を力強く後押しした 15 。こうして南蛮寺は、天下人の権力、宣教師の情熱、そして信徒たちの信仰という三つの力が結集し、京都の民衆の抵抗を乗り越えて、その姿を現し始めたのである。
第三章:天正四年、都に現れた「珊太満利亜」の寺:その建築と内部空間
約一年の工期を経て完成した南蛮寺は、それまでの日本の建築史には存在しなかった、和と洋の要素が融合した独特の姿をしていた。その壮麗な様相は、当時の人々の目を驚かせ、都の新たな名所として語り継がれることになる。
狩野宗秀筆「都の南蛮寺図」の徹底分析
南蛮寺の具体的な姿を今に伝える唯一の視覚資料が、信長や秀吉の御用絵師であった狩野永徳の弟、狩野宗秀が描いたとされる「都の南蛮寺図」(神戸市立博物館所蔵)である 20 。この扇面画には、京都の街並みの中にひときわ高くそびえる、三層構造の建物が克明に描かれている 26 。屋根は日本の伝統的な本瓦葺であり、最上層は鐘楼を思わせる構造となっている 29 。門前には黒い衣をまとった宣教師たちの姿や、物見高く集まる人々の様子が見え、さらには南蛮帽子を売る店まで描かれており、この場所が南蛮文化の中心地として大変な賑わいを見せていたことが伝わってくる 30 。
和風三層構造の外観:瓦葺屋根と十字紋の融合
「都の南蛮寺図」や文献史料から推測される南蛮寺の外観は、西洋に見られる石造りの教会堂とは全く異なり、むしろ日本の城郭建築における天守閣や、寺院の三重塔を彷彿とさせる、堂々たる和風三層建てであった 31 。屋根の形式は、絵図から判断するに、当時の日本の社寺建築で主流であった入母屋造(いりもやづくり)が採用されていた可能性が高い 32 。
しかし、その和様の外観の中にも、キリスト教のシンボルが巧みに取り入れられていた。跡地からの発掘調査では、十字の紋様が刻まれた瓦が出土しており、屋根の上にはっきりとその信仰が示されていたことが確認されている 17 。この建築様式は、オルガンティーノが推し進めた「適応主義」の思想が具現化したものと言える。外観は日本の伝統的な景観に溶け込ませることで、異教に対する人々の警戒心を和らげ、一方で屋根瓦や内部の装飾に十字架などのモチーフを配することで、その本質がキリストの教えを説く場であることを明確にする。それは、異文化理解と自己のアイデンティティの保持という、二つの命題を両立させようとする、高度な文化戦略の表れであった。
フロイスの記録に見る内部:礼拝堂、神学校、そして「茶の湯の場所」
そのユニークな外観だけでなく、内部空間の構成もまた、南蛮寺の多機能性を物語っている。フロイスの記録によれば、三層の建物はそれぞれ異なる役割を担っていた 33 。
- 一階 :建物の中心となる礼拝堂(本堂)が設けられていた。さらに特筆すべきは、外部からの賓客をもてなすための宿泊施設と、「はなはだ高価で、見事に造られた茶の湯の場所」、すなわち本格的な茶室が備えられていた点である 33 。
- 二階 :フロイスやオルガンティーノら、宣教師たちの寝室や私室が並ぶ居住区画となっていた 33 。
- 三階 :将来の日本人司祭や宣教師を育成するための神学校(セミナリヨ)として使用され、長く設備の整った空間が広がっていた 33 。
さらに、柱や梁、欄間といった建築部材の彫刻や、襖や天井に描かれた絵画にも、聖書の物語やキリスト教に関連するモチーフがふんだんに取り入れられていたと推測される 17 。
この内部構造の中でも、一階に設けられた「茶の湯の場所」は、極めて重要な意味を持つ。当時の日本社会、特に武士や大商人といった支配者層にとって、茶の湯は単なる喫茶の趣味ではなく、政治的な交渉や情報交換、そして深い人間関係を構築するための、高度に洗練された社交儀礼であった 34 。宣教師たちは、この日本独自の文化の重要性を深く理解していた。教会内に本格的な茶室を設けることで、彼らはキリスト教に関心を持つ大名や文化人を、彼らが最も価値を置く作法でもてなすことができたのである。これは、教義を一方的に説くのではなく、相手の文化を尊重し、対等な立場で交流する姿勢を示すことで、心理的な障壁を取り払い、信頼関係を築くための、極めて戦略的な空間装置であった。南蛮寺の茶室は、西洋の宗教施設と日本の社交文化が融合した、前代未聞の「宣教のためのサロン」として機能し、ここで交わされた一碗の茶が、新たなキリシタン大名の誕生へと繋がっていった可能性は十分に考えられる。
第四章:洛中の新名所:南蛮寺が果たした文化的・宗教的役割
天正四年(1576年)、ついに完成した南蛮寺は、単なる宗教施設としての枠を超え、京都の社会と文化に大きな影響を与える存在となった。
天正4年8月15日:荘厳なる献堂式
天正四年八月十五日、南蛮寺は落成し、数百人の信者が集う中、オルガンティーノによって最初のミサが捧げられ、荘厳な献堂式が執り行われた 16 。この日はカトリック教会の暦において、聖母マリアがその肉体と霊魂を伴って天に上げられたことを記念する「聖母被昇天」の大祝日にあたる。これに因み、教会の正式名称は「被昇天の聖母教会(サンタ・マリア・デ・アスンサン教会)」と名付けられた 26 。信者たちの間では、親しみを込めて「珊太満利亜(さんたまりあ)上人の寺」とも呼ばれた 2 。この記念すべき献堂式には、キリシタン大名の高山右近も参列し、京都におけるキリスト教共同体の新たな門出を祝った 37 。
都の新たなランドマークとしての存在感
伝統的な町家や寺社が連なる京都の街並みの中で、天守閣を思わせる和風三層の南蛮寺は、際立って人々の目を引く存在であった。その物珍しさと壮麗さから、教会はまたたく間に都の新しい名所として評判を呼び、信者であるか否かを問わず、多くの見物人が訪れた 26 。
その評判は天下人・織田信長の耳にも達した。天正六年(1578年)、信長は嫡男の信忠を伴って南蛮寺を自ら見物に訪れている 18 。自らが強力に庇護した建築物の完成をその目で確かめたこの訪問は、南蛮寺の権威を決定的なものとし、その存在を京都の誰しもが認めざるを得ないものにした。
キリスト教信仰と南蛮文化の中心地として(1576年~1587年)
献堂式から破却されるまでの約11年間、南蛮寺は京都におけるキリスト教信仰の揺るぎない中心であり続けた。定期的にミサや祭儀が執り行われ、信者たちの精神的な支柱となった。また、三階に設けられた神学校では、日本人の若者たちがキリスト教の教義やラテン語、西洋音楽などを学び、次代の教会を担う人材として育成された 33 。
さらに、南蛮寺は信仰の場であると同時に、最先端の南蛮文化が日本に紹介される情報発信拠点でもあった 2 。宣教師たちを通じて、天文学や地理学、西洋医学、印刷術といった新しい知識や技術がもたらされ、日本の知識人たちに大きな刺激を与えた。天正五年(1577年)にポルトガルで鋳造され、イエズス会の紋章と西暦が刻まれた洋式の鐘が海を渡って設置されるなど 17 、南蛮寺はまさに国際色豊かな文化交流の最前線だったのである。
この南蛮寺の存在そのものが、実は最も効果的な布教活動であったとも言える。当時の一般民衆にとって、三位一体や原罪といったキリスト教の複雑な教義を、言葉だけで理解することは極めて困難であった。しかし、彼らは理屈ではなく、まずその存在感に圧倒された。「都の南蛮寺図」に描かれたように、人々はその物珍しい建物を一目見ようと集まり、門前では南蛮帽子が土産物として売られるほどの人気を博した 30 。
この「見物」という行為を通じて、人々はキリスト教を五感で体験した。黒い修道服をまとった異相の宣教師たちの姿、これまで聞いたこともないグレゴリオ聖歌の荘厳な響き、内部で行われる神秘的な儀式の様子、そして異国情緒と日本の伝統美が融合した建築物そのもの。これら全てが、理屈を超えて人々の好奇心を強烈に刺激する「見世物(スペクタクル)」として機能した。南蛮寺は、信仰の場であると同時に、一種のテーマパークのような役割を果たし、多くの人々の関心をキリスト教へと向かわせる強力なメディア装置であった。この「見て楽しむ」という間口の広さがあったからこそ、キリスト教は短期間で京都の社会に浸透し、多くの改宗者を獲得することができたのである。
終章:栄華と終焉:秀吉の禁教令と南蛮寺の破壊
わずか十一年余りの栄華を誇った南蛮寺であったが、その運命は、庇護者であった織田信長の死と共に、大きく暗転することになる。
天正15年(1587年):伴天連追放令の発布
本能寺の変で信長が斃れた後、天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、当初、信長の政策を引き継ぎ、キリスト教に対しては融和的な態度をとっていた。しかし、天正十五年(1587年)、島津氏を討伐するための九州平定の過程で、彼のキリスト教に対する認識は決定的に変化する。大村純忠や大友宗麟といったキリシタン大名が、領内の神社仏閣を破壊している実態や、ポルトガル商人によって多くの日本人が奴隷として海外に売買されている事実を目の当たりにし、秀吉はキリスト教の拡大が日本の伝統的な社会秩序を破壊し、国家の統一を脅かす危険な思想であると判断するに至った 24 。
同年六月十九日、九州の箱崎(現在の福岡市)に陣を構えていた秀吉は、突如として「伴天連追放令」を発布する 15 。日本は「神国」であると宣言し、キリスト教を「邪法」と断罪、宣教師に対して20日以内の国外退去を命じたこの法令は、日本の対キリスト教政策における歴史的な大転換点となった 30 。
南蛮寺の破壊:その具体的な時期と実行の過程
この追放令により、信長の庇護の象徴であった京都の南蛮寺も、当然ながら破壊の対象となった。破却の具体的な時期については、追放令が発布された天正十五年(1587年)とする史料 15 と、翌年の天正十六年(1588年)とする史料 3 が存在するが、いずれにせよ、追放令の発布直後から翌年にかけて、その解体・破却が断行されたと考えられる。
破壊の実行は、当時の京都所司代であった前田玄以の指揮監督の下で行われたと推測される。興味深いことに、玄以は当初キリシタンを弾圧する立場にあったが、後年にはキリスト教に理解を示すようになり、秀吉の死後は密かに信徒を保護したとも伝えられている 13 。追放令という国家の厳命を実行する現場においても、為政者たちの単純ならざる人間的な葛藤が存在したことを示唆している。
秀吉による南蛮寺の破壊は、単なる宗教的理由に留まるものではなかった。それは、信長が築き上げた政治・文化秩序を解体し、自らの価値観に基づく新たな天下を構築するための、極めて象徴的な「旧体制の清算」行為であった。南蛮寺は、何よりも信長の権威と彼の国際志向を体現するモニュメントであった。秀吉は、信長の後継者でありながら、その政策や文化を乗り越え、自らの独自性を天下に示すことを強く欲していた。信長が庇護した南蛮寺を破壊することは、秀吉が信長の宗教政策・外交政策を公式に否定し、天下の支配者が交代したことを内外に明確に知らしめる、効果的な政治的パフォーマンスであった。聚楽第や大坂城といった壮麗な建築で都を自らの色に染め上げていく過程において、信長時代の記憶を物理的に消し去ることは、秀吉にとって必要不可欠な作業だったのである。
オルガンティーノと信徒たちのその後
精神的・物理的な支柱であった南蛮寺を失ったオルガンティーノと京都のキリシタンたちは、厳しい弾圧の時代へと突入する。オルガンティーノは、同じく所領を没収された高山右近と共に、キリシタン大名・小西行長の領地であった小豆島に身を隠すなど、潜伏を余儀なくされながらも、京都の信徒たちを励まし、指導を続けた 13 。南蛮寺の跡地には、二度と教会が再興されることはなく 2 、京都におけるキリスト教信仰は、これより二百数十年にも及ぶ、長く厳しい冬の時代を迎えることとなったのである 42 。
補遺:南蛮寺の遺産:現代に伝わる痕跡
わずか11年余りで地上から姿を消した南蛮寺であるが、その存在を物語るいくつかの遺品が、奇跡的に現代まで伝えられている。
各地に残る遺物
- 南蛮寺の鐘 :京都市右京区にある臨済宗の大本山、妙心寺の塔頭・春光院には、「南蛮寺の鐘」として知られる青銅製の釣鐘が所蔵されている(国の重要文化財)。鐘の側面には、イエズス会の紋章である「IHS」の文字と共に、「1577」という西暦が陽刻されており、南蛮寺創建の翌年にポルトガルで鋳造され、はるばる海を越えて京都にもたらされたものであることがわかる 17 。
- 礎石と線刻硯 :昭和時代に行われた跡地の発掘調査では、建物の土台を支えていた巨大な礎石や、信徒が使用していたと思われる遺物が出土した。礎石は現在、同志社大学今出川キャンパスの図書館前に移設・保存されている 16 。また、ミサの様子と思われる図像が線で刻まれた石製の硯も発見されており、こちらは同大学の京田辺キャンパスにある歴史資料館で常設展示されている 16 。これらの遺物は、幻の教会の存在を物理的に証明する、極めて貴重な一次史料である。
「此付近南蛮寺跡」の石碑が語るもの
現在、南蛮寺があったとされる京都市中京区蛸薬師通室町西入ル北側の路上には、京都市によって昭和四十五年(1970年)に建立された「此付近南蛮寺跡」という石標が静かに佇んでいる 19 。日常の喧騒の中に埋もれがちなこの小さな石碑は、かつてこの場所に、戦国乱世の京都において、宗教、文化、政治が激しく交錯する国際交流の拠点となった壮麗な教会が存在したという、類いまれな歴史の記憶を現代の私たちに静かに語りかけている。この場所から程近い距離には、信長最期の地である本能寺跡や、かつてキリシタンの町であった「だいうす町」の跡地も点在しており 18 、これらの史跡を巡ることで、天正時代の京都に吹いた南蛮の風を、今なお感じることができるだろう。
引用文献
- 南蛮文化と京都 - 1. 文化革命としての南蛮人の渡来 https://khrri.or.jp/news/docs/20200312_nakaozemi.pdf
- 此付近南蛮寺跡 - 京都観光Navi https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=9&tourism_id=169
- 南蛮寺跡 - 京都市 https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=8&tourism_id=891
- ルイス・フロイスの描く織田信長像について https://toyo.repo.nii.ac.jp/record/8167/files/shigakukahen41_049-076.pdf
- 教科書には載らない!織田信長とキリスト教のリアルな関係とは - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/222
- 織田信長は、なぜキリスト教を保護したの https://kids.gakken.co.jp/box/syakai/06/pdf/B026109050.pdf
- ①ヨーロッパ人との出会い ②織田信長の統一事業 - 群馬県ホームページ https://www.pref.gunma.jp/uploaded/attachment/41464.pdf
- 授業「世界の動きと統一事業Ⅱ~キリスト教・織田信長~」|社会|中1|群馬県 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=7qowDb4xNew
- 織田信長はなぜキリスト教の布教を許したのか? その諸説を検討する。 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=R0loUqZpC4o
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- 【京都観光の予習】これだけは知っておきたい寺院の基礎知識 https://plus.kyoto.travel/entry/temple_kihon
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- 都の南蛮寺図 - 神戸市立博物館 https://www.kobecitymuseum.jp/collection/detail?heritage=365025
- 伴天連追放令|世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=2062
- 秀吉の国内・対外政策 - ちとにとせ|地理と日本史と世界史のまとめサイト https://chitonitose.com/jh/jh_lessons69.html
- 追放令後とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4%E5%BE%8C
- 京都のキリシタン遺跡 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/bunka16_frame1.html
- 同志社大学 南蛮寺の礎石 - Laudate | キリシタンゆかりの地をたずねて https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20081105_nanbanderasoseki.php