名古屋城築城(1610)
1610年、徳川家康は豊臣家への圧力と関東防衛のため、名古屋城を築城。天下普請で諸大名を動員し、清正が天守台を築き、福島正則が堀川を開削。金鯱を頂く壮麗な城と計画都市を完成させ、徳川の天下泰平を確立した。
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天下布武の最終章:名古屋城築城(慶長十五年)のリアルタイム・ドキュメント
序章:関ヶ原後の天下と尾張の戦略的価値
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いは、徳川家康に天下の実質的な覇権をもたらした。三年後には征夷大将軍に任官し、江戸に幕府を開府。しかし、その支配は未だ盤石とは言い難い状況にあった。大坂城には豊臣秀頼が依然として君臨し、その母・淀殿とともに、西国大名に対して無視できぬ影響力を保持していたのである 1 。天下泰平の実現には、この豊臣家の存在という最後の懸念を払拭する必要があった。徳川の治世を絶対的なものとするため、次なる一手、すなわち最終的な布石が求められていた。
その戦略的要衝として浮上したのが、尾張国であった。当時の尾張の中心は、織田信長が天下統一への第一歩を記した名城、清洲城であった。しかし、この由緒ある城と城下町は、徳川の新たな時代を担う拠点として、看過できぬ複数の欠陥を抱えていた。第一に、地理的な脆弱性である。清洲は庄内川や五条川が合流する低湿地に位置し、度重なる水害に見舞われていた 1 。大規模な軍勢を駐屯させ、兵站を維持する恒久的な拠点としては、あまりにも心許ない立地であった。第二に、物理的な発展性の限界である。城下町はすでに飽和状態にあり、これ以上の経済的、人口的拡大は望めなかった 3 。
そして第三に、最も重要な戦略上の問題があった。江戸と京・大坂を結ぶ東海道の防衛という観点から見れば、清洲はやや西に偏りすぎていた。来るべき豊臣家との決戦を想定した際、より東に位置し、広大で堅固な地盤を持つ新たな拠点を築くことが急務とされたのである 3 。
これらの課題を前に、家康が下した決断は単なる「移転」ではなかった。それは、織田・豊臣時代から続く尾張の政治的・経済的秩序を一度完全に解体し、徳川の理念の下に新たな都市を創造する「グランドリセット」とも言うべき壮大な構想であった。清洲は、信長が天下布武の拠点とし、秀吉とも縁深い、旧時代の権力の象徴である。この地を放棄し、実質的な更地であった名古屋台地に、全く新しい城と城下町をゼロから建設すること。それは、徳川家康の絶対的な権力と構想力、そして新しい時代の到来を、天下に物理的な形で可視化する、最も雄弁な宣言となるはずであった。したがって、名古屋城の築城とそれに伴う「清洲越」は、過去との決別と徳川による新秩序の創造という、極めて象徴的な意味を帯びた一大事業として、その幕を開けることとなる。
第一章:遷府と築城の決定 ― 慶長十四年(1609年)の深謀
慶長十二年(1607年)、尾張国主であった家康の四男・松平忠吉が若くして世を去ると、家康は九男である徳川義直にその後を継がせた 4 。この若き藩主のために、新たな時代にふさわしい居城を築くという名目の下、家康の深謀遠慮は具体的な形を取り始める。慶長十四年(1609年)、家康は清洲城の廃城と、名古屋台地への新城建設を正式に決定した 1 。
名古屋台地の選定:地政学的優位性
家康が新たな拠点として名古屋台地を選んだ理由は、その地政学的な優位性にあった。複数の要素が、この地を理想的な場所たらしめていた。
第一に、その地形と地盤である。熱田台地の北端に位置する名古屋台地は、比較的高台にあり地盤も固いため、大規模な城郭建築に適していた 3 。清洲が抱えていた最大の弱点である水害のリスクが極めて低く、恒久的な拠点としての安全性が確保されていた 3 。
第二に、交通の要衝としての地理的条件である。名古屋は、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈である東海道と、内陸部を繋ぐ中山道との結節点に位置していた 3 。この地を押さえることは、物流と情報網を掌握し、有事の際には東西どちらへも迅速に軍を展開できることを意味した 3 。
第三に、自然地形の巧みな利用である。城の周囲を流れる河川は、天然の堀として強固な防御線の一部を形成するだけでなく、築城資材や物資を運ぶための舟運にも活用できるという二重の利点をもたらした 3 。濃尾平野の内陸に位置するため、伊勢湾からの台風の直接的な影響を緩和しつつ、適度な通風も得られるという気候的な配慮もなされていた 3 。
徳川義直の配置:御三家筆頭の礎
この最重要拠点に、家康は寵愛する九男・義直を配した。これは、徳川宗家に次ぐ家格を持つ「御三家」筆頭の尾張徳川家の創設であり、徳川による盤石な支配体制を築く上での核心的な人事であった 1 。将軍家に万が一のことがあれば、その後継を出す役割を担う御三家の筆頭を、東海道の要に置くこと。それは、徳川の血族による支配を永続させるための、揺るぎない意志の表れであった。
さらに、家康はこの人事に巧みな政略を織り交ぜる。義直の正室として、紀州藩主であり、元は豊臣恩顧の有力大名であった浅野幸長の娘・春姫を迎えたのである 1 。この政略結婚は、豊臣家と縁の深かった西国大名たちに対し、徳川家との結びつきを強める懐柔策であると同時に、彼らを徳川の体制内に取り込むという牽制の意図も含まれていた。
大坂方への抑えと関東防衛線:名古屋城に込められた軍事思想
名古屋城築城の最も直接的な動機は、その軍事戦略的意義にあった。この城は、二つの明確な目的を持って計画された壮大な軍事施設であった。
第一の目的は、大坂城の豊臣家に対する直接的な圧力である 1 。名古屋城は、徳川の勢力圏の西端に位置する巨大な要塞として、西日本、特に豊臣方に与する可能性のある大名たちへの強力な睨みを利かせる最前線基地であった。その威容は、徳川の軍事力を誇示し、豊臣方の挙兵を抑止する心理的な効果を狙ったものであった。事実、築城からわずか数年後に勃発する大坂冬の陣・夏の陣において、名古屋城は徳川軍の出撃拠点として重要な役割を果たすことになる 7 。
第二の目的は、江戸を中心とする関東の防衛である 1 。名古屋城は、東海道における最大の防御拠点として位置づけられ、万が一西国勢が東上を図った場合に、それを食い止めるための巨大な防壁となることを期待された 7 。
この城は、単に堅固な防御拠点であるに留まらなかった。その壮麗な姿、金の鯱を頂く巨大な天守、そして後述する天下普請という築城方式そのものが、徳川の圧倒的な権力と財力を天下に示すための装置であった。それは、戦わずして敵の戦意を削ぐことを目的とした、巨大な心理的兵器でもあったのである。家康は、城の完成を待たずして、その築城プロセス自体を、豊臣方を弱体化させ、徳川の支配を盤石にするための「戦い」の一部として組み込んでいた。名古屋城は、まさに天下統一事業の総仕上げとなる一手だったのである 3 。
第二章:天下普請の発令 ― 全国を揺るがす国家事業
慶長十四年(1609年)の築城決定を受け、家康は名古屋城建設を徳川家単独の事業としてではなく、全国の大名を動員する「天下普請(公儀普請)」として行うことを命じた 1 。これは、江戸幕府の権威の下に行われる国家的な公共事業であり、その命令は絶対であった。
「御手伝普請」という名の動員令
この天下普請は、特に「御手伝普請(おてつだいぶしん)」とも呼ばれ、幕府が指定した大名に工事の分担を命じる形式を取った 9 。動員の対象となったのは、西国・北国に領地を持つ外様大名を中心とした20家であった 1 。その顔ぶれは、加藤清正(肥後)、福島正則(安芸・備後)、黒田長政(筑前)、細川忠興(豊前)、前田利常(加賀・能登・越中)、毛利秀就(長門・周防)といった、いずれも一国一城の主である大大名たちであった 1 。彼らの多くは、関ヶ原の戦いでは東軍に与したものの、元をたどれば豊臣秀吉によって取り立てられた恩顧の大名であり、家康にとっては潜在的な脅威となりうる存在でもあった。
普請の二重の目的:忠誠の証と国力削奪
家康が彼らに普請を命じた目的は、単に労働力や資金を供出させるためだけではなかった。そこには、二重の巧妙な政治的意図が隠されていた。
第一に、徳川家への忠誠心を試すことであった。天下普請への参加は、徳川の支配体制を受け入れ、その権威に服従することの明確な表明であった。各大名は、自家の威信にかけて割り当てられた工事を完遂せねばならず、その働きぶりは家康への忠誠の度合いを測る試金石となった 1 。
第二に、そしてより重要な目的は、諸大名、特に豊臣恩顧の外様大名が蓄えた財力と軍事力を削ぐことにあった 1 。城の普請には莫大な費用と人員を要する。大名たちは自領から多くの家臣や人夫を動員し、その費用も全て自己負担で賄わなければならなかった。この経済的負担は、彼らの国力を消耗させ、将来的な謀反の可能性を財政的に摘み取る効果があった。大名間の競争意識を巧みに利用し、互いに見栄を張り、より立派な石垣を築こうと競わせることで、その消耗をさらに加速させたのである。
専門家集団の組織:普請奉行と作事奉行
この巨大プロジェクトを円滑に遂行するため、家康は当代一流の専門家集団を組織した。事業は大きく二つの部門に分けられた。
一つは、堀の開削や石垣の築造といった土木工事全般を担う「普請」である。この総責任者である普請奉行には、滝川忠征、佐久間政実ら5名が任命された 12 。
もう一つは、天守や御殿、櫓などの建築工事を担当する「作事」である。作事奉行には、大久保長安や、後に茶人・芸術家として名を馳せる小堀政一(遠州)ら9名が任じられた 12 。
そして、作事の中でも最も重要である天守の設計・監督を行う大工頭には、徳川幕府お抱えの工匠の棟梁であり、二条城や江戸城、駿府城の天守も手掛けた中井正清が起用された 12 。法隆寺宮大工の系譜を引く正清は、伝統的な寺社建築の技術を城郭建築に応用した当代最高の建築家であった 16 。このような適材適所の人事からは、徳川政権が、武士だけでなく高度な専門技術を持つテクノクラートを掌握し、国家事業を効率的に運営する卓越した行政能力を有していたことが窺える。
丁場割の策定:競争と威信をかけた大名たちの配置
石垣普請という巨大な土木工事は、「丁場割(ちょうばわり)」と呼ばれる工区割りによって、参加した20の大名に細かく分担された 17 。各大名は、割り当てられた区画の石材の調達から輸送、そして石積みまで、一切の責任を負った 9 。
当時作成された「名古屋城普請丁場割図」の写本が現存しており、それによれば、城の中核である本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣が、各大名にどのように割り振られたかを知ることができる 18 。特に、城の顔とも言える天守台の石垣は、最も高度な技術と労力を要する場所であったが、これは築城の名手として天下に知られた加藤清正が自ら望んで担当したと伝えられている 1 。
この丁場割は、単なる作業分担表ではない。それは、家康の政治戦略を解読するための「キャスト表」であった。参加した大名の顔ぶれと、彼らに割り当てられた場所を見れば、普請の負担が意図的に豊臣恩顧の有力大名に集中していることが一目瞭然となる。彼らは、城の心臓部である本丸の石垣という、最も名誉であり、同時に最も費用のかかる部分を築かされたのである。これは、彼らの自尊心をくすぐりつつ、その力を徳川の権威の礎として物理的に組み込んでしまうという、家康の巧みな人心掌握術と政治的策略を雄弁に物語っている。
表1:名古屋城 天下普請参加大名と担当区域(丁場割)一覧
大名名(当時の呼称/領地) |
主な担当区域(丁場)の例 |
備考 |
加藤清正(加藤肥後守 / 肥後) |
天守台、本丸東南部 11 |
築城の名手。豊臣秀吉子飼いの武将。 |
福島正則(羽柴左衛門大夫 / 安芸・備後) |
本丸北東部 11 |
豊臣秀吉子飼いの武将。「賤ヶ岳の七本槍」筆頭。 |
黒田長政(黒田筑前守 / 筑前) |
本丸南東部 11 |
豊臣家の重臣・黒田官兵衛の嫡男。 |
前田利常(松平筑前守 / 加賀・能登・越中) |
本丸西側 11 |
加賀百万石。前田利家の四男。 |
池田輝政・利隆(羽柴三左衛門・松平武蔵守 / 播磨) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
輝政は徳川家康の娘婿。 |
細川忠興(羽柴越中守 / 豊前) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
細川藤孝(幽斎)の嫡男。文化人としても名高い。 |
浅野幸長(浅野紀伊守 / 紀伊) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
豊臣政権の五奉行・浅野長政の嫡男。 |
毛利秀就(松平長門守 / 長門・周防) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
関ヶ原で西軍総大将となった毛利輝元の嫡男。 |
蜂須賀至鎮(蜂須賀阿波守 / 阿波) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
豊臣家の重臣・蜂須賀家政の嫡男。 |
山内忠義(松平土佐守 / 土佐) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
関ヶ原の功労者・山内一豊の養嗣子。 |
加藤嘉明(加藤左馬助 / 伊予) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
「賤ヶ岳の七本槍」の一人。 |
鍋島勝茂(鍋島信濃守 / 肥前) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
肥前佐賀藩初代藩主。 |
田中忠政(田中筑後守 / 筑後) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
豊臣秀次家老・田中吉政の嫡男。 |
寺澤広高(寺沢志摩守 / 肥前) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
豊臣秀吉に仕えた。 |
生駒正俊(生駒左近大夫 / 讃岐) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
豊臣政権の三中老・生駒親正の嫡男。 |
毛利高政(毛利伊勢守 / 豊後) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
元は森姓。豊臣秀吉に仕えた。 |
竹中重利(竹中伊豆守 / 豊後) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛の従兄弟。 |
稲葉典通(稲葉彦六 / 豊後) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
美濃三人衆・稲葉一鉄の孫。 |
木下延俊(木下右衛門大夫 / 豊後) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
豊臣秀吉の正室・高台院の兄の嫡男。 |
金森可重(金森出雲守 / 飛騨) |
不明(丁場割図に記載) 11 |
織田信長、豊臣秀吉に仕えた。 |
注:丁場割図には加藤清正を除く19家の記載があるが、詳細な担当区域が特定されているのは主要な大名に限られるため、表にはその例を記載した 18 。
第三章:慶長十五年(1610年) - 普請のリアルタイム・レポート
慶長十五年(1610年)、名古屋城築城は天下普請として本格的に始動した。この年は、土木工事である「普請」が驚異的な速度で進められた、まさに激動の一年であった。
閏二月~五月:始動する国家事業と現場の喧騒
普請命令が下ると、西国・北国の20の大名は、それぞれ数千から一万を超える家臣や人夫を率いて、尾張名古屋の地へと続々と集結した 10 。それまで静かであった名古屋台地は、瞬く間に数万人の人々で埋め尽くされ、巨大な建設拠点へとその姿を変えた。
まず、普請奉行の指揮の下、城全体の設計図である「縄張」に基づき、本丸、二之丸などの曲輪の位置や堀のラインが地面に引かれていった 6 。その後、各大名は割り当てられた自らの「丁場」において、一斉に工事を開始した。堀の開削が始まり、掘り出された土は曲輪の造成に使われた。現場は、槌を振るう音、石を運ぶ掛け声、指示を飛ばす武士たちの怒声、そして諸国から集まった人々の異なる方言が入り乱れ、昼夜を問わず凄まじい熱気と喧騒に包まれていたと想像される。
しかし、この華々しい国家事業の裏側には、過酷な現実も存在した。動員された人夫の多くは、農繁期にもかかわらず強制的に徴用された農民たちであった。「早く農地に帰してくれ。こんなにきつい労働には耐えられない」といった不満や苦情の声が上がったことも記録されており、巨大プロジェクトを支えた名もなき人々の苦難が窺える 23 。
六月~八月:石垣普請の最盛期 ― 技術と意地の競演
夏に入ると、工事は核心部である石垣普請の最盛期を迎える。これは、各大名が自家の技術力と威信をかけて競い合う、もう一つの戦場であった。
その中でも、ひときわ異彩を放っていたのが、天守台の普請を担当した加藤清正の働きであった。築城の名手として知られる清正は、その経験と技術の粋を集め、城の心臓部である天守台の石垣を、わずか三ヶ月にも満たない期間で築き上げた 1 。清正が築いた石垣は、下部は緩やかで上部に行くほど急になる優美な曲線を描く「扇の勾配」が特徴で、敵が登るのを困難にすると同時に、地震にも強い構造的堅固さを両立させたものであった 6 。
巨石を運ぶ「石曳き」の現場では、清正自らが巨大な石の上に乗って采配を振り、人夫たちの士気を鼓舞したという逸話が生まれた 24 。この姿は後に「清正公石曳きの像」として形作られ、彼のリーダーシップを象徴する伝説として語り継がれている。しかし、現在城内に残り、最大の巨石として知られる「清正石」は、実際には黒田長政の丁場に位置しており、この石を清正が運んだという話は、彼の絶大な名声が生んだ後世の創作であると考えられている 26 。
清正の働きに触発されるかのように、他の大名たちも急ピッチで工事を進めた。その結果、城郭全体の石垣は、着工からわずか一年足らずでその大部分が完成するという、驚異的な速度で築かれた 1 。慶長十五年の年末までには、本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣が完成したと記録されている 28 。これは、各大名の威信をかけた熾烈な競争と、それを統括する徳川幕府の卓越した組織力の賜物であった 3 。
並行事業:福島正則による堀川開削 ― 都市の動脈創生
この大規模な石垣普請と並行して、もう一つの巨大プロジェクトが進行していた。福島正則の指揮による、運河「堀川」の開削である 29 。これは、熱田の湊(伊勢湾)から名古屋城下までを結ぶ、全長約6キロメートルに及ぶ人工河川を掘るという壮大な事業であった 29 。
堀川の開削には、二つの明確な目的があった。一つは、兵站路としての機能である。城や町を造るために必要な石材や、木曽の山々から切り出される最高級の檜といった、重く巨大な資材を船で城の近くまで運ぶための大動脈であった 29 。もう一つは、軍事的な機能である。堀川は城の西側を流れることで、天然の堀が少ない方面の防御を固める外堀としての役割を担った 30 。
家康は、豊臣恩顧の猛将として知られる加藤清正に「城の骨格」である石垣を、そして同じく豊臣恩顧の福島正則に「都市の血管」である堀川を、同時に造らせた。これは、家康が名古屋という都市を、単なる軍事要塞としてだけでなく、将来の経済・物流の中心地としても構想していたことの明確な証左である。目前に迫る豊臣家との決戦に備える短期的な軍事戦略と、戦後の泰平の世における長期的な都市開発計画。この二つのビジョンが、慶長十五年の名古屋の地で、同時に、そして驚異的な速度で具現化されていったのである。
第四章:作事の開始と天守の完成 ― 慶長十七年(1612年)
慶長十五年(1610年)に石垣や堀といった土木工事(普請)が驚異的な速さで完了すると、事業の重心は天守や御殿を建てる建築工事(作事)へと移行した。ここでもまた、徳川家康が動員した当代最高の技術者たちの力が遺憾なく発揮されることとなる。
大工頭・中井正清の技
作事全体の指揮を執ったのは、大工頭の中井正清であった 12 。正清は法隆寺大工の家系に生まれ、伝統的な寺社建築の精緻な技術を習得しながら、それを二条城や駿府城といった巨大城郭の建築に応用した、まさに時代のトップランナーであった 15 。彼の指揮の下、名古屋城の建築は、単なる堅固な要塞ではなく、徳川の権威を象徴する芸術作品としての側面も帯びていく。
最高級の資材:木曽檜の搬入
天守をはじめとする主要な建造物には、最高級の建材が惜しげもなく投入された。特に、尾張徳川家の領地である木曽の山々から切り出された良質な檜材が、福島正則が開削した堀川などを通じて大量に現場へと運び込まれた 3 。当時の記録によれば、檜が2,815本、松が9,796本も使われたとされ、松や杉を多用した他の城とは一線を画す、贅を尽くした仕様であった 14 。この潤沢な資材が、後の迅速な建築を可能にしたのである。
天守の建築過程
慶長十七年(1612年)、天守の本格的な建築工事が開始された 12 。その構造は、巨大な大天守(外観5層、内部は5階地下1階)と、それよりも小規模な小天守(外観2層、内部は2階地下1階)を土塀で固められた橋台で連結する「連結式層塔型」という、当時の最新鋭の形式が採用された 12 。これは、防御力を高めると同時に、複雑で威厳のある外観を生み出すための設計であった。
家康は、来るべき大坂との決戦を前に、天守の早期完成を厳命した。この至上命令に応えるべく、中井正清は異例の手段を講じる。当時、並行して進められていた内裏や方広寺大仏殿の造営に従事していた熟練の大工たちを、一時的に名古屋の現場へと集結させたのである 12 。これにより、現場の技術力と労働力は飛躍的に向上し、昼夜兼行の突貫工事が敢行された 33 。
その結果は驚くべきものであった。6月に本格着工した天守は、わずか数ヶ月でその骨格を現し、11月上旬には壁塗り工事が完了。同11月21日には無事に上棟式を迎え、年内には壮大な天守が完成するという、前代未聞のスピードを達成した 12 。大砲による攻撃を想定し、壁面は厚い樫の板を鎧状に組み込み、漆喰で塗り固めるなど、最新の防御技術も盛り込まれていた 12 。
権威の象徴、金鯱の誕生
そして、この壮大な天守の最上層、大棟の両端には、名古屋城を象徴する一対の金の鯱が据え付けられた。この金鯱は、慶長大判にして1940枚分もの金を用いて鋳造されたと伝えられる 34 。天守閣の屋根に燦然と輝く金の鯱は、単なる飾りではない。それは、徳川家が持つ圧倒的な財力と、天下に号令する絶対的な権威を、誰の目にも明らかな形で示すための、最も効果的な象徴であった。この金鯱の存在によって、名古屋城は他のいかなる城をも凌駕する特別な存在として、天下にその威容を知らしめることとなったのである。
第五章:清洲越と城下町の誕生 ― 都市機能の完全移転
名古屋城という巨大なハードウェアの建設と並行して、徳川家康はさらに壮大なプロジェクトを断行した。それは、旧都・清洲の都市機能を、人々と共に新都・名古屋へ丸ごと移転させるという、前代未聞の都市移転計画「清洲越(きよすごし)」である。
前代未聞の都市移転「清洲越」
「清洲越」は、慶長十五年(1610年)の築城開始とほぼ同時に始まり、初代藩主・徳川義直が名古屋城へ正式に移る元和二年(1616年)頃まで、数年をかけて実施された 28 。この移転は、単に武士が居を移すといったレベルのものではなかった。清洲城下に住まう家臣団、商人、職人、さらには質屋に至るまで、あらゆる階層の人々が対象とされた 1 。その総数は、実に約60,000人にものぼったと言われる 1 。
さらに驚くべきは、移転の対象が人間だけではなかった点である。清洲の町を構成していた3つの神社と100を超える寺院も、その全てが名古屋へと移された 1 。建物を解体して資材を運び、名古屋の新たな場所で再建するという、途方もない労力を要する作業であった。これにより、人々の生活だけでなく、信仰や文化といった精神的な支柱までもが、新都・名古屋へと引き継がれたのである。この徹底した移転は、徳川家康の持つ絶大な権力と、それを実行に移す行政能力の高さを世に見せつける結果となった 36 。
計画都市名古屋のグランドデザイン
家康は、新たな城下町を設計するにあたり、過去の慣習に囚われなかった。かつてこの地にあった中世の那古野城の縄張りを継承することはせず、自らの強い意志のもと、全く新しい都市の青写真を描いたのである 7 。
その最大の特徴は、道路が縦横に直交する「碁盤割(ごばんわり)」と呼ばれる整然とした区画整理であった 7 。これは、武士の居住区と町人の商業区を明確に分離し、身分秩序を空間的に示すと同時に、火災の延焼を防ぎ、有事の際には軍隊の展開を容易にするという、防衛上の機能性も考慮された、極めて合理的な都市計画であった。この家康によるグランドデザインが、今日の日本有数の大都市・名古屋の街の骨格の直接的な原型となっている 7 。
旧清洲城の解体と資材の再利用
主を失った清洲城は、その役目を終え、廃城となった。城は解体され、その部材の多くは名古屋城の建設資材として再利用された 1 。特に、清洲城の小天守は、名古屋城の本丸北西隅に「御深井隅櫓(おふけすみやぐら)」として移築されたと伝えられている 1 。
この行為は、単なる資源の有効活用に留まらない、深い象徴的な意味を持っていた。旧時代の権威の象徴であった清洲城を解体し、その一部を新時代の徳川の城の構成要素として組み込むこと。それは、清洲が持っていた歴史と権威を、新都・名古屋が完全に吸収し、その正統な後継者であることを宣言する儀式でもあった。こうして、清洲の町は歴史の舞台から静かに姿を消し、名古屋という新たな都市が、尾張国の、そして徳川の西国の拠点としての歴史を歩み始めるのである。
第六章:本丸御殿の完成と城の竣工 ― 元和年間(1615年~)
天守が完成し、城郭の主要部分が整うと、築城の最終段階として、城主の居館であり、藩の政治を司る中枢施設である御殿の建設が進められた。名古屋城の御殿建築は、その壮麗さと格式の高さにおいて、近世城郭の頂点に立つものと評価されている。
将軍のための御殿:本丸御殿の完成
元和元年(1615年)、本丸御殿が完成した 1 。これは、書院造を基調とした壮大な建築物群であり、当初は藩主の住居兼藩庁として計画された 1 。その内部は、当代最高の絵師集団であった狩野派による、豪華絢爛な障壁画で埋め尽くされていた 39 。
玄関の襖や壁を飾ったのは、勇猛な虎や豹を描いた「竹林豹虎図」であり、これは狩野派の長老格であった狩野長信の筆によるものと考えられている 40 。公式な謁見の間である表書院は、狩野派の若き当主・狩野貞信が手掛け、金箔地に四季の草花を描いた荘厳な空間であった 40 。これらの障壁画は、訪れる者を威圧し、徳川家の権威を視覚的に訴えかけるための装置であった。
さらに、寛永十一年(1634年)には、三代将軍・徳川家光の上洛に備えて、本丸御殿に「上洛殿」が増築された 1 。この上洛殿の障壁画は、当時幕府の御用絵師として絶頂期にあった狩野探幽が担当した 40 。中でも「帝鑑図」や「雪中梅竹鳥図」は、探幽の最高傑作とされ、日本の絵画史上に残る至宝である 1 。これらの障壁画は、第二次世界大戦の空襲による御殿焼失の際に事前に取り外されていたため、焼失を免れ、1,047面が国の重要文化財に指定されている 43 。
藩庁機能の移転と義直の入城
元和二年(1616年)、初代藩主である徳川義直が、完成した名古屋城へ正式に入城した 1 。当初は本丸御殿を居館としていたが、元和六年(1620年)に本丸の東に位置する二之丸に新たな御殿が完成すると、義直はそちらへ移り住み、尾張藩の政庁機能も二之丸に集約された 1 。
この結果、城内で最も格式が高く、壮麗な本丸御殿は、将軍が京都へ上洛する際の専用宿館という、他に類を見ない特別な施設となった 1 。実際に将軍が宿泊したのは、二代・秀忠と三代・家光の二度だけであったが 45 、この「将軍専用の聖域」が城内に存在すること自体が、尾張徳川家が御三家筆頭であるという特別な地位を象徴していた。
この本丸御殿と二之丸御殿の機能分化は、徳川幕府が確立しようとした厳格な身分秩序を、建築空間によって可視化する装置であったと言える。将軍が使用する本丸御殿を、藩主が日常的に使用する二之丸御殿よりも圧倒的に豪華に、かつ神聖な空間として位置づけることで、「将軍は御三家筆頭藩主よりも上位にある」という絶対的な序列を、誰の目にも明らかにしたのである。部屋の格式に応じて障壁画の主題や画風が厳密に使い分けられていたことも 40 、御殿を訪れる者が、自分が通された部屋の絵を見るだけで自らの身分を再認識させられる仕掛けであった。名古屋城の御殿建築は、単なる住居や庁舎ではなく、徳川の統治イデオロギーを体現し、人々に身分秩序を内面化させるための、精緻に計算された空間だったのである。
終章:名古屋城が果たした歴史的役割
慶長十四年(1609年)の築城決定から数年、驚異的な速度で完成した名古屋城は、その直後から徳川家康の構想通り、日本の歴史において決定的な役割を果たしていくこととなる。
大坂の陣における後方拠点
築城からわずか4年後の慶長十九年(1614年)、豊臣家との最終決戦である大坂冬の陣が勃発する。この戦いにおいて、完成したばかりの名古屋城は、徳川軍にとって極めて重要な戦略拠点として機能した。江戸から大坂へ向かう徳川軍の主力が集結する前線基地となり、膨大な兵糧や武具を蓄える兵站拠点ともなった 7 。もし名古屋城が存在しなければ、徳川軍の西上はより困難なものとなっていたであろう。翌年の夏の陣を経て豊臣家が滅亡したことで、名古屋城築城という家康の布石が、天下統一を決定づける上でいかに的確なものであったかが証明された。
「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」の西の守り
豊臣家滅亡後、日本は260年以上にわたる長期の平和、すなわち「徳川の平和(パックス・トクガワーナ)」を享受することになる。この泰平の世において、名古屋城は御三家筆頭・尾張徳川家の居城として、西国大名への静かな、しかし強力な睨みを利かせ続ける重石としての役割を担った 1 。その壮大な威容は、徳川幕府の権威と軍事力を象徴し、いかなる謀反の企ても未然に抑止する無言の圧力となった。戦闘に使われることのない「平和の城」として、徳川の治世を支え続けたのである 6 。
現代名古屋の礎
名古屋城築城は、単に一つの城が造られたという出来事に留まらない。それは、一つの巨大都市の誕生を告げる画期的な事業であった。徳川家康が自ら設計したとされる碁盤割の城下町は、武士と町人の居住区が機能的に配置された、近世城下町の理想形であった 7 。この合理的な都市構造は、その後の時代の変遷の中でもその骨格を失うことなく、商業・産業の発展の礎となった。今日の日本を代表する大都市・名古屋の街並みの原型は、まさしくこの慶長年間の都市計画にその端を発しているのである 3 。名古屋城は、戦国乱世の終焉を告げ、新たな時代の秩序と繁栄を築き上げるという、徳川家康の壮大なビジョンが凝縮された、歴史的なモニュメントであると言えよう。
巻末資料
表2:名古屋城築城 詳細年表(慶長14年~元和6年)
年月(西暦/和暦) |
主要な出来事(築城・政治関連) |
詳細・関連人物 |
参照資料 |
1607年(慶長12年) |
徳川義直、尾張国主となる。 |
家康の九男。兄・松平忠吉の死去に伴う。 |
1 |
1609年(慶長14年) |
名古屋城築城が正式に決定される。 |
尾張の中心を清洲から名古屋へ移す「遷府」を決定。 |
1 |
1610年(慶長15年) |
天下普請による築城開始。 |
閏2月に着工。西国・北国大名20家が動員される。 |
1 |
|
堀川の開削が完了。 |
普請奉行:福島正則。資材運搬と外堀の役割を担う。 |
28 |
|
石垣普請がほぼ完了。 |
本丸、二之丸、西之丸、御深井丸の石垣が完成。天守台は加藤清正が担当。 |
1 |
|
「清洲越」が始まる。 |
清洲の武家、町人、社寺の名古屋への移転が開始される。 |
28 |
1612年(慶長17年) |
大小の天守、各櫓が完成。 |
大工頭:中井正清。6月に本格着工し、年内に完成。 |
12 |
|
本丸御殿の建築が始まる。 |
正月より着工。 |
12 |
1614年(慶長19年) |
大坂冬の陣が勃発。 |
名古屋城が徳川軍の後方支援拠点として機能する。 |
7 |
1615年(元和元年) |
本丸御殿が完成。 |
2月に完成。狩野派による障壁画で飾られる。 |
12 |
|
大坂夏の陣で豊臣家が滅亡。 |
|
37 |
1616年(元和2年) |
徳川義直が正式に入城。 |
初代尾張藩主として名古屋城に入る。 |
1 |
1617年(元和3年) |
二之丸御殿が完成。 |
|
38 |
1620年(元和6年) |
義直、二之丸御殿へ移る。 |
藩主の居館と藩庁機能が二之丸へ移転。本丸御殿は将軍上洛時の専用宿館となる。 |
1 |
引用文献
- 名古屋城の歴史と史跡・特徴/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16955_tour_036/
- 名古屋城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/09/
- なぜ家康は名古屋城を築いた?天下統一の先を見据えた戦略と現代に息づく魅力の全て https://www.explore-nagoyajo.com/ieyasu-strategy/
- 近世 | 名古屋城の歴史 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/history/kinse/
- 名古屋城の奥深い歴史と絶景!知られざるみどころとは? https://www.explore-nagoyajo.com/nagoya-castle-deep-history-and-spectacular-views/
- 名古屋城天守閣木造復元について 鉄筋コンクリート造り天守閣は‟市民の宝” - 自治体問題研究所 https://www.jichiken.jp/about/networks/shohou/160707_02/
- 名古屋城の概要 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/outline/nagoyajo/
- 名古屋城 / 名古屋城本丸御殿 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/17/
- 名古屋城「天下普請」の全貌:家康の野望、武将たちの競演、そして空前の経済戦略 https://www.explore-nagoyajo.com/tenka-construction/
- 序論―「現場」からみた名古屋城石垣普請 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/%E5%BA%8F%E8%AB%96_1.pdf
- 名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.00 はじめに - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/14192
- 名古屋城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E
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- 名古屋城 [5/8] 大天守内は門や御殿を模したミュージアム風。 https://akiou.wordpress.com/2015/02/14/nagoya-p5/
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- 名古屋城~本丸御殿~ http://urawa0328.babymilk.jp/aichi/nagoyajou.html
- 名古屋城 | 文化のみち二葉館 名古屋市旧川上貞奴邸 https://www.futabakan.jp/goforastroll/f008.html
- 郷土の誇り名古屋城本丸御殿の障壁画~400年前の輝きを今に https://g.kyoto-art.ac.jp/reports/2469/
- 名古屋城本丸御殿完成公開 絢爛豪華な見どころをご紹介します! | お知らせ https://www.nagoya-info.jp/news/detail/488/
- 狩野派の障壁画を見に行こう!名古屋城本丸御殿 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1595
- 本丸御殿障壁画 | 文化財 | 名古屋城について https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/property/hekiga/
- 復元模写 | 本丸御殿の復元 | 保存整備 | 名古屋城公式ウェブサイト https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/save/honmarugoten/replication/
- 名古屋城のマップ - 名古屋城天守閣を木造で復元し、旧町名の復活を目指す会 http://www.nagoyajou.net/introduction/map/
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