最終更新日 2025-09-21

土佐山内家藩政開始(1601)

慶長5年、関ヶ原で西軍に与した長宗我部盛親は改易。東軍の山内一豊が土佐20万石を拝領し、慶長6年に藩政を開始。浦戸一揆を鎮圧し高知城を築城。地検帳で財政を確立、上士と郷士の身分制度を導入、土佐藩の礎を築く。
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土佐大変 -慶長五年の関ヶ原から始まる山内家藩政創始の軌跡-

序章:関ヶ原、運命の分水嶺

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原で繰り広げられた天下分け目の戦いは、わずか一日で徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。この戦いの帰趨は、日本の政治的中心を再定義しただけでなく、遠く離れた四国の土佐国に、抗いがたい運命の渦をもたらすことになる。本報告書は、この歴史的転換点を起点として、土佐国に君臨した長宗我部家が没落し、新たな支配者として山内一豊が登場する「土佐山内家藩政開始」という事変を、その激動のプロセスに焦点を当てて徹底的に解明するものである。

この変革の渦中にいた二人の武将、土佐国主・長宗我部盛親と遠州掛川城主・山内一豊の運命は、関ヶ原において決定的に分かたれた。盛親は、父・元親以来の豊臣家への恩義から石田三成方の西軍に与したものの、戦機を逸して戦闘に参加することなく敗走するという、最も不名誉な形で敗者となった 1 。一方、同じく豊臣恩顧の大名であった一豊は、いち早く徳川家康への忠誠を表明し、特に会津征伐の途上で開かれた「小山評定」において、自らの居城を家康に提供するという大胆な申し出を行うことで、戦功以上の政治的価値をその身に刻みつけた 3

本報告書は、この関ヶ原の戦後処理から始まる土佐国の権力移行の力学を、当事者たちの視点から時系列に沿って再構築する試みである。第一部では、西軍敗将として凋落していく長宗我部家の悲劇と、旧領にしがみつこうとする家臣たちの絶望的な抵抗を追う。第二部では、新たな領主として土佐に乗り込む山内一豊が、いかにして政治的勝利を手にし、血を伴う実力行使によってその支配を確立していったかを検証する。そして第三部では、単なる領主交代に留まらない、新たな国家「土佐藩」のグランドデザイン—新首都の建設、財政基盤の再構築、そして二百数十年にわたり土佐社会を規定することになる身分制度の創設—を描き出す。これは、戦国が終わり、近世が始まる瞬間の、土佐国における生々しい記録である。

【表1:土佐国主交代の時系列表(慶長5年9月~慶長8年8月)】

年月

長宗我部側の動向

山内側の動向

中央(徳川家)の動向

慶長5年(1600年)9月

関ヶ原の戦いで南宮山に布陣するも戦わず敗走 2

関ヶ原の戦いに東軍として参陣。南宮山の毛利・長宗我部軍を牽制 5

関ヶ原の戦いで勝利。戦後処理を開始。

慶長5年(1600年)10月

帰国後、井伊直政を介し家康に謝罪交渉を開始 6

「小山の功名」が評価され、土佐一国を拝領することが内定 4

長宗我部盛親の兄・津野親忠殺害の報に家康が激怒 7

慶長5年(1600年)11月

兄・親忠殺害を理由に改易が決定。京都で謹慎 6

弟・康豊を城受取の上使として土佐へ派遣する準備を進める 10

井伊直政の家臣を上使として土佐へ派遣し、浦戸城接収を命じる 12

慶長5年(1600年)12月

-

康豊らが土佐に到着。

浦戸一揆勢が上使の宿所を包囲。籠城戦が開始される 12

慶長6年(1601年)1月

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浦戸一揆を鎮圧。1月8日、一豊が浦戸城に入城 4

-

慶長6年(1601年)3月

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桂浜の相撲大会で一揆残党を粛清 14

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慶長6年(1601年)6月

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新城の建設地を大高坂山に決定 15

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慶長6年(1601年)9月

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高知城の築城を開始(鍬初式) 16

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慶長8年(1603年)8月

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高知城の本丸・二の丸が完成し、一豊が入城 17

徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。

慶長8年(1603年)11月

-

長宗我部遺臣による滝山一揆が発生、鎮圧する 15

-


第一部:落日の長宗我部家(慶長5年9月~12月)

第一章:戦わずして敗る

関ヶ原の戦場において、長宗我部盛親が率いた6,600の軍勢は、徳川家康の本陣を背後から脅かす南宮山に布陣していた。しかし、運命の日は彼らにとって、武門の誉れとは程遠い、屈辱的な記憶として刻まれることになる。西軍総大将・毛利輝元の出馬がない限り動かないとする毛利勢の方針と、東軍に内通していた吉川広家の執拗な妨害により、盛親の軍勢はついに一戦も交えることなく、西軍の崩壊を目の当たりにした 1 。戦わずして敗者となる―それは、戦国の武将にとって最大の汚名であった。敗色濃厚となるや、盛親は戦場を離脱し、失意のうちに土佐への帰路についた 2

土佐に帰国した盛親が望みを託したのは、外交交渉による家名の存続であった。彼は徳川家康の重臣であり、戦後処理の実務を統括していた井伊直政に接触し、家康への謝罪と旧領の安堵を必死に嘆願した 6 。当初、この交渉には光明が見えていた。家康は土佐一国は没収するものの、盛親に対して別の地に所領を与える意向を示していたとも伝えられている 6 。この情報に、盛親は長宗我部家再興の夢を繋いだに違いない。

しかし、交渉が進む間、盛親は京に送られ、京都所司代・板倉勝重の監視下で謹慎を余儀なくされた 9 。行動の自由を奪われた彼は、なおも再興への道を模索する。家康と親しい間柄にあった幕臣・蜷川親長に密かに書状を送り、家門再興への口添えを依頼したのである 8 。だが、一度敗軍の将となった者に対する世間の風は冷たかった。親長は何かと理由をつけて盛親との面会を拒み、かつて忠誠を誓った旧臣たちでさえ、盛親と関わることを避けるようになっていた 8 。盛親の周囲からは、急速に人影が消えていった。

第二章:血族殺しの代償

盛親の運命を決定的に暗転させたのは、関ヶ原の戦場での不作為ではなかった。それは、合戦の直前に彼自身が犯した、血族殺しという取り返しのつかない過ちであった。家臣である久武親直が、「兄の津野親忠が、伊勢の藤堂高虎と結託して土佐半国を支配しようと画策している」と讒言した。家中の統制に苦慮していた盛親は、この言葉を鵜呑みにし、実の兄である親忠の殺害を命じてしまったのである 6 。皮肉なことに、親忠は家康の了承を得て長宗我部家の存続を働きかけていたとも言われており、この暗殺は盛親が自ら再興の道を断ち切るに等しい、致命的な失策であった 19

この「兄殺し」の報は、徳川家康の逆鱗に触れた 7 。家康が築こうとしていた新しい天下は、法と秩序に基づくものであり、個人の都合による私闘や、ましてや血族間の殺戮といった戦国的蛮行は、その根幹を揺るがす許しがたい行為であった。盛親の改易は、単に関ヶ原で西軍に与したという軍事的な理由に留まらない。むしろ、戦闘に参加しなかったことで東軍への寝返りや戦功による赦免の道が閉ざされた上に、家康が最も嫌悪する「秩序を乱す非道な行為」が重なったことが、その本質的な原因であった。盛親が井伊直政を介して恭順の意を示しながら、その裏では本拠地である浦戸城の防備を固め、合戦の準備を進めていたという報告も、家康の不信感を決定的にした 8 。反省の色なし、と判断されたのである。

その結果、井伊直政を通じた交渉は完全に決裂。長宗我部盛親に対しては、所領の一部削減(減封)ではなく、領地・屋敷のすべてを没収するという最も厳しい処分、すなわち「改易」が下された 6 。これにより、土佐二十四万石の大名・長宗我部家は、歴史の表舞台から姿を消すこととなった。

第三章:浦戸城の抵抗

主家改易という非情な通達は、土佐国中に大きな衝撃となって走った。特に、長宗我部元親が一代で築き上げた精強な半農半兵の戦闘集団「一領具足」たちは、この決定を受け入れることができなかった。彼らは、長年にわたり長宗我部氏の下で土地と誇りを守ってきた自負があり、新領主の到来は自らの生活基盤そのものを脅かすものであった。彼らは「せめて土佐半国だけでも盛親公に下されよ」と、主家の存続を嘆願し、長宗我部家の本拠地・浦戸城に立てこもるという実力行使に出た 19

慶長5年(1600年)の暮れ、事態を重く見た家康は、井伊直政の家臣を上使として土佐に派遣し、浦戸城の速やかな明け渡しを命じた 12 。しかし、竹ノ内惣左衛門らを大将とする一領具足を中心とした一揆勢は、これを断固として拒否。それどころか、上使一行が宿所としていた雪蹊寺を約1万7千の兵で包囲し、徹底抗戦の構えを見せた 12 。世に言う「浦戸一揆」の勃発である。海に面した要害である浦戸城での籠城戦は、約50日間にも及んだ 22

しかし、この抵抗は悲劇的な結末を迎える。新体制下での自らの処遇を案じた長宗我部家の重臣たちは、一揆勢の説得を早々に諦め、新領主となる山内家側に寝返った。彼らは一揆勢を裏切り、内部から攻撃を加えたのである 20 。この内部崩壊により、一揆は急速に鎮圧された。指導者たちを含む273名が討ち取られ、その首は塩漬けにされて、戦後処理の報告として大坂の井伊直政のもとへ送られた 12 。残された胴体は、浦戸に近い石丸の地にまとめて埋葬され、後にその悲劇を伝える「一領具足供養の碑」が建てられた 19 。主家のために立ち上がった者たちの抵抗は、無惨な結末をもって終わりを告げた。


第二部:新領主・山内一豊の土佐入り(慶長5年10月~慶長6年3月)

第四章:「小山の功名」という布石

長宗我部家が没落への道を転がり落ちていた頃、遠州掛川城主・山内一豊の運命は、旭日昇天の勢いであった。その最大の転機は、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいえる、慶長5年7月25日の下野国小山での軍議、いわゆる「小山評定」であった。徳川家康が上杉景勝討伐のために関東へ軍を進めている最中、石田三成が畿内で挙兵したとの報が届く。豊臣恩顧の大名が多くを占める諸将の間に動揺が走る中、福島正則が率先して家康への味方を表明すると、それに続いたのが一豊であった。彼は居城である掛川城を明け渡し、城内の兵糧や武具に至るまで、すべてを家康のために提供すると申し出たのである 3

この発言は、単なる忠誠表明以上の意味を持っていた。大軍の移動には兵站の確保が不可欠であり、東海道の要衝である掛川城を拠点として提供するという申し出は、家康にとって計り知れない軍事的価値があった 24 。しかし、それ以上に重要だったのは、その政治的効果である。多くの大名が家康につくか三成につくか去就を決めかねている状況で、一豊の「退路を断って家康に全てを賭ける」という明確な意思表示は、その場の空気を支配し、他の大名たちの意思決定を促す強力な同調圧力となった。これは、家康が最も求めていた「忠誠の可視化」であり、戦場での武功にも勝る政治的貢献であった。

この「小山の功名」は、家康に一豊への絶対的な信頼を植え付けた。後日、家康は一豊の忠誠を「木の根」に、他の武将の戦功を「枝葉」に例えて賞賛したと伝えられている 24 。関ヶ原の本戦における一豊自身の軍功は、南宮山の毛利・長宗我部軍を牽制した程度で、決して目立つものではなかった 5 。にもかかわらず、戦後の論功行賞において、彼は掛川五万石余から、長宗我部氏が改易された土佐一国—表高20万2600石、実高24万石余—という破格の恩賞を与えられた 10 。これは、一豊が戦国的な武功主義から、近世的な秩序と忠誠を重んじる新しい時代の価値観へといち早く適応し、その本質を見抜いていたことへの報酬であった。彼の土佐拝領は、戦場での勝利ではなく、戦いが始まる前の情報戦と政治的パフォーマンスの勝利だったのである。

第五章:血の鎮圧

土佐一国拝領という内示を受け、一豊は掛川城にあって、新領地入りの準備を慎重に進めていた 11 。しかし、前述の通り、土佐では長宗我部旧臣による浦戸一揆が勃発し、予断を許さない状況にあった。一豊はまず、城の受け取りと一揆の鎮圧という困難な任務を、実弟の山内康豊に託した。康豊は、徳川家の目付役である井伊直政の家臣団と共に、先遣隊として土佐へ派遣された 10

康豊率いる部隊は、長宗我部旧臣の一部を味方につけることに成功し、約二ヶ月にわたる攻防の末、浦戸城の抵抗を鎮圧した 12 。これにより、ようやく新領主が土佐の地を踏む準備が整った。慶長6年(1601年)1月8日、山内一豊は満を持して浦戸城に入城し、土佐藩主としての第一歩を印した 4

しかし、一豊の統治は平穏には始まらなかった。領内には依然として旧主を慕い、新領主に反感を抱く勢力が根強く残っていた。一豊は民心の安定を図るため、馬の駆初めや相撲大会といった催しを開いた 27 。だが、これは懐柔策であると同時に、抵抗勢力を一網打尽にするための冷徹な謀略でもあった。同年3月1日、景勝地である桂浜で盛大な相撲大会が催された。土佐全土から相撲自慢の者たちが集まり、多くの見物客で賑わう中、惨劇は起きた。一豊の家臣たちが、隠し持っていた鉄砲で突如群衆に発砲し、浦戸一揆の残党と見られる一領具足や庄屋73名を捕縛、種崎の浜で処刑したのである 14 。この「桂浜の悲劇」は、一豊が武力と恐怖によって土佐を支配するという断固たる意志を領民に示した事件であった。それでも抵抗の火は完全には消えず、慶長8年(1603年)には年貢の徴収に反対する「滝山一揆」が起こるなど、山内家の支配が盤石になるまでには、なおも時間と血を要した 15


第三部:新国家の創造(慶長6年~慶長10年)

第六章:新たな首都の建設

浦戸城に入った山内一豊は、すぐにこの地が新たな土佐国の首府として不適格であると判断した。城は東・南・北を海に囲まれた半島状の丘陵にあり、防衛には優れているものの、掛川五万石時代よりも広大な城下町を建設し、経済を発展させようとする一豊の構想にとっては、あまりにも手狭だったのである 13 。彼は領内をくまなく調査し、最終的に新城の建設地として、高知平野の中央に位置する大高坂山を選定した 10 。皮肉にもこの地は、かつて長宗我部元親が築城を試みたものの、度重なる水害に悩まされ、わずか3年で放棄した場所であった 29 。しかし一豊は、交通の要衝としての利便性と、城下町を展開するに足る広大な平野部という、この土地が持つ未来への可能性に賭けたのである 28

一豊が敢えて治水困難な土地を選んだことは、彼の統治思想を雄弁に物語っている。それは、戦国的な「防衛」を主眼とした城選びから、近世的な「統治と経済」を重視する都市計画への明確な転換であった。彼のビジョンを実現するためには、治水という巨大な初期投資が不可欠だった。築城と並行して、大規模な治水・都市開発プロジェクトが開始された。鏡川と江ノ口川という二つの川に挟まれた低湿地帯を克服するため、近江から石工集団「穴太衆」が招聘された 30 。彼らは、一見すると雑然としているが排水能力に優れ、豪雨の多い土佐の気候に適した「野面積み」の技法で、堅固な石垣を築き上げた 30 。城下町は、城の防衛と水防の役割を兼ねた堀や堤防によって碁盤の目状に区画され、武士が住む「郭中」、町人が住む「下町」、下級武士が住む「上町」などが計画的に配置された 28 。これは、短期的な困難を乗り越えることで、長期的な繁栄を確保するという、近世大名としての経営者的な視点に基づいた壮大な未来への投資であった。

慶長6年(1601年)9月、地鎮祭と鍬初式が執り行われ、新城の建設が正式に始まった 16 。そして慶長8年(1603年)8月、本丸と二の丸が完成し、一豊は浦戸城から移徙を果たす 10 。城は当初、その地形から「河中山(こうちやま)城」と名付けられた 15 。しかし、二代藩主・忠義の時代に、水害を連想させる「河中」の名が嫌われ、「高智山城」と改められた。これが転じて「高知城」となり、地名「高知」の由来となったのである 17 。天守は、一豊がかつて居城とした掛川城の天守を模した、望楼型の壮麗なものであったと伝えられている 5 。こうして、新たな土佐国の政治・経済・文化の中心地が誕生した。

第七章:土地と人民の再編成

新国家の建設は、物理的な都市計画だけでは完結しない。その土地と人民をいかに把握し、統治システムに組み込むかが、新政権の安定を左右する。一豊は土佐入国時、長宗我部氏が天正15年(1587年)から数年がかりで完成させた、土佐一国の詳細な検地帳、通称「長宗我部地検帳」を接収した 33 。全368冊に及ぶこの基本台帳は、土地の面積、等級、耕作者に至るまでを網羅しており、一豊はこれを初期の藩政運営にそのまま活用することで、迅速な領内把握を可能にした 33

この地検帳の精査は、土佐藩の財政基盤に大きな変革をもたらした。長宗我部氏が豊臣政権に公式に届け出ていた土佐国の石高は、わずか9万8千石であった 25 。しかし、一豊は地検帳を基に石高を厳密に再算定し、慶長10年(1605年)、幕府に対して新たに20万2千6百石余として届け出たのである 25 。これは幕府の公認石高である「表高」であり、実際の生産高を示す「内高」は、長宗我部検地が示す通り24万石を超えていたとされる 26 。この石高の「再発見」と公式化により、土佐藩の財政規模は公称で倍以上に拡大し、その後の藩政運営の強固な礎となった。

さらに一豊は、土佐の社会構造そのものを根本から再設計した。彼が掛川から引き連れてきた譜代の家臣団を「上士」とし、高知城下に集住させ、藩政の中枢を独占させた 34 。一方で、長年にわたり土佐を支配してきた長宗我部家の旧臣、特に一領具足たちは「郷士」という下級武士の身分に編入され、その多くは城下から離れた在郷(農村部)に居住することを強いられた 34 。この両者の間には、乗り物や履物、日傘の使用に至るまで、日常生活の細部にわたる厳格な身分差別が設けられた 35 。これは、支配者(山内家臣団)と被支配者(長宗我部旧臣)という征服関係を、永続的な身分制度として固定化する試みであった。この人工的で硬直的な身分制度は、山内家の支配を二百数十年間にわたって安定させることに貢献したが、同時に郷士階級に強い不満と上昇への渇望を蓄積させることにもなった。1601年に設計されたこの社会構造が、二百数十年後の幕末に、坂本龍馬や武市半平太といった郷士出身の志士たちを突き動かし、日本史を大きく転換させる原動力となるという、歴史の皮肉な伏線を内包していたのである 34

【表2:長宗我部体制と山内体制の比較】

項目

長宗我部体制(元親・盛親期)

山内体制(一豊期)

備考

本拠地

岡豊城 → 大高坂山城 → 浦戸城 28

浦戸城 → 高知城(大高坂山) 13

防衛重視の山城・海城から、経済・統治重視の平山城へ移行。

公式石高

9万8千石 25

20万2千6百石余(表高) 25

実態に合わせた石高の再算定により、藩の公称財政規模が倍増。

実質石高

約24万石 26

約24万石(内高) 26

実質的な生産力は変わらないが、それを把握し統制するシステムが確立。

家臣団構成

土佐国人を中心とした譜代・一領具足 21

掛川以来の譜代家臣団(上士)と長宗我部旧臣(郷士) 34

支配者層が外部から来た家臣団に完全に入れ替わる。

身分制度

一領具足(半農半兵)を中核とする比較的流動的な体制

上士・郷士の厳格な固定的身分制度 35

征服関係を永続化させるための社会構造の再設計。幕末の対立の根源となる。

経済基盤

農業生産、限定的な交易

農業生産に加え、製紙業・林業などの殖産興業を藩が主導 38

藩財政の安定化と多様化を目指す近世的な経済政策の導入。

第八章:未来への種蒔き

山内一豊の土佐における治世は、慶長6年(1601年)の入国から慶長10年(1605年)の逝去まで、わずか4年9ヶ月という短い期間であった 4 。しかし、この短期間に彼は、後の土佐藩の発展の礎となる数々の種を蒔いている。彼の政策は、二代藩主・忠義と、その下で「土佐藩制確立者」と称されるほどの辣腕を振るった家老・野中兼山の時代に受け継がれ、大きく花開くことになる 38

土佐の伝統産業であった製紙業は、山内藩の特別な保護と奨励を受けた。古くは平安時代の『延喜式』にもその名が見える土佐和紙は、藩の特産品として位置づけられ、品質が向上した 39 。特に、柿色や紫、萌黄など七色に染め上げられた「土佐七色紙」は、幕府への献上品として高い評価を受け、土佐和紙の名を全国に知らしめた 39

また、土佐の豊かな自然資源も、藩の重要な財源として積極的に開発された。県木にも指定されている魚梁瀬杉をはじめとする良質な木材は、藩の管理下で伐採され、大坂や江戸の市場へ送られた 40 。河川に目を向ければ、鮎は「御用鮎」として藩が漁獲から流通までを厳しく管理し、藩主や武家の食膳を彩ると同時に、貴重な商品となった 46

宗教や文化の面でも、新しい秩序が形成されていった。長宗我部氏の時代から信仰を集めてきた土佐神社などの伝統的な社寺は、手厚く保護される一方で、藩の厳格な統制下に置かれた 47 。そして何よりも、大高坂山に築かれた高知城とその城下町は、土佐国における新たな文化の発信地となった 48 。こうして、一豊が始めた新国家の創造は、産業、文化、社会のあらゆる側面に及び、土佐の地を近世的な藩体制へと着実に移行させていったのである。


終章:山内土佐藩の確立と遺されたもの

慶長10年(1605年)9月20日、山内一豊は波乱に満ちた61年の生涯を土佐の地で閉じた 4 。彼の治世はあまりにも短かったが、その間に成し遂げた事業は、その後の土佐藩二百数十年の歴史の方向性を決定づけるものであった。彼はまず、浦戸一揆や桂浜での粛清といった血を伴う手段で旧勢力の抵抗を徹底的に鎮圧し、新政権の権威を確立した。次に、治水という困難な課題を克服して新たな首都・高知を建設し、土佐の政治経済の中心を創造した。さらに、長宗我部地検帳を継承・発展させることで藩の財政基盤を固め、そして何よりも、上士と郷士という厳格な身分制度を導入することで、自らの支配構造を社会の隅々にまで浸透させ、固定化した。

一豊が築いた土佐藩は、その後、大きな内乱もなく、表面的には安定した統治を続けることになる。しかし、その水面下では、藩政創始期に意図的に作り出された上士と郷士という深刻な対立構造が、マグマのように熱量を蓄積し続けていた。支配する者と支配される者、城下に住む者と在郷に住む者、特権を持つ者と持たざる者。この分割統治のシステムは、山内家の支配を盤石にした一方で、被支配層である郷士階級に、絶えることのない不満と抑圧からの解放を願うエネルギーを育んだ。

そして二百数十年後、黒船来航という外圧が日本を揺るがした幕末の動乱期において、この蓄積されたエネルギーはついに爆発する。武市半平太が土佐勤王党を組織し、坂本龍馬が藩の枠を超えて日本全体の変革を夢見た時、彼らを突き動かした原動力の一つが、この郷士という身分への積年の想いであったことは間違いない。山内一豊が1601年に設計した土佐藩という国家の構造そのものが、二百数十年後の維新回天の原動力の一端を生み出したのである。土佐山内家の藩政開始とは、単に一つの大名家が滅び、新たな大名家が興ったというだけの出来事ではない。それは、近世土佐藩のすべてを規定し、遠く幕末の動乱にまで影響を及ぼすことになる、巨大な歴史の分水嶺であった。

引用文献

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  5. 高知城の礎を築いた土佐藩初代藩主・山内一豊と妻・千代 | よさこいおきゃくブログ https://www.kochi-bank.co.jp/yosakoi-okyaku/blog/?p=16311
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  20. 関ヶ原合戦四百年 - 高知市歴史散歩 https://www.city.kochi.kochi.jp/akarui/rekishi/re0012.htm
  21. 浦戸一揆と一領具足 - 浦戸の歴史 - 高知市立浦戸小学校 https://www.kochinet.ed.jp/urado-e/rekishi/1.html
  22. 浦戸城跡、若宮八幡宮 - モデルコース - こうち旅ネット https://kochi-tabi.jp/model_course.html?id=12&detail=142
  23. 一領具足供養の碑 - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/kanko/ichiryougusoku.html
  24. 関ヶ原で家康が勝利、一豊は土佐20万石へ(1600) - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/7960.html
  25. 土佐藩 | 坂本龍馬人物伝 https://www.ryoma-den.com/shiryou/tosahan.html
  26. 文久2年(1862)の土佐藩の石高と人口を知りたい。 | レファレンス ... https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000128778
  27. 山内一豊と妻・千代 伝 - 幕末から維新・土佐の人物伝 https://www.tosa-jin.com/yamanouti/yamanoui_01.htm
  28. 山内一豊が造った城と町:高知城と市街 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11841045
  29. 【高知県】高知城の歴史 優美で古風な姿が魅力的な名城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2257
  30. 歴史的建造物誕生の秘密を探る! 高知城[高知県]幾多の災いを免れた南海道随一の名城| コベルコ建設機械ニュース(Vol.266) - コベルコ建機 https://www.kobelco-kenki.co.jp/connect/knews/vol266/monuments.html
  31. 2014 高知市都市計画マスタープラン (2021 改訂版) https://www.city.kochi.kochi.jp/joho/upload/files/1702/10zentai.pdf
  32. お茶街道:人物:山内一豊 http://www.ochakaido.com/rekisi/jinup/jinup08.htm
  33. 長宗我部地検帳 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237391
  34. 土佐藩(とさはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E8%97%A9-105069
  35. 土佐藩の階級制度 | 坂本龍馬人物伝 https://www.ryoma-den.com/shiryou/seido.html
  36. 【やさしい歴史用語解説】「上士」と「下士」 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1637
  37. Interviews いしずゑを築く~本物の英国文化を体現させるために~ https://www.kandagaigo.ac.jp/memorial/interview_bh/02/interview_02_2.html
  38. 初期の土佐藩 - 高知城歴史博物館 https://www.kochi-johaku.jp/column/4521/
  39. 土佐和紙の歴史 - モリサ https://www.morisa.jp/tosawashi/tosawashi-story
  40. 村の歴史 | 高知県・馬路村公式ホームページ https://vill.umaji.lg.jp/about/history/
  41. 兼山 - 農業農村工学会 https://www.jsidre.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2016/03/keisai_48-9hito.pdf
  42. 近世編-野中兼山と宿毛 https://www.city.sukumo.kochi.jp/sisi/030701.html
  43. 【歴史ふれあい広場】野中兼山一族幽閉之地 - 宿毛市 https://www.city.sukumo.kochi.jp/docs-26/29849.html
  44. 土佐和紙(土佐の手づくり工芸品) - 高知市公式ホームページ https://www.city.kochi.kochi.jp/site/tosa-kogei/tosanotezukuri-tosawashi.html
  45. 土佐和紙 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%92%8C%E7%B4%99
  46. 川魚の王者といわれる鮎は、江戸時代の藩主や武家に珍重された。そこで、土佐藩は「御用鮎」の制度を設けた。主要河川の川筋の庄屋の責任で鮎の買い上げ量を確保して、規格寸法以上のものは勝手に売却させなかった。それ以外の鮎についても、勝手な取引は許さず - 高知市歴史散歩 https://www.city.kochi.kochi.jp/akarui/rekishi/re0409.htm
  47. は じ め に - 高知市 https://www.city.kochi.kochi.jp/joho/upload/files/0502/1205_pabukome_hp.pdf
  48. 高知県コース3 day2 | お役立ち情報 - OSAKA INFO https://osaka-info.jp/information/around-trip/kochi/course03/day2.html
  49. 高知市広報「あかるいまち」 歴史万華鏡(2014年10月号) https://www.city.kochi.kochi.jp/akarui/mangekyo/man1411.htm
  50. 高知城下町の形成と治水対策 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/148767698.pdf
  51. ダメ夫なんかじゃない!山内一豊の物語 vol.2 一豊の生涯 | おでかけ特集 - 一宮市観光協会 https://www.138ss.com/feature/detail/7/