堺鉄砲商統制(1590)
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天正十八年 堺鉄砲商統制の真相 ―天下統一最終局面における豊臣政権の兵站戦略―
序章:問いの再定義
「堺鉄砲商統制」とは何か ― 単一の法令から、国家戦略のプロセスへ
天正十八年(1590年)に和泉国堺で実施されたとされる「堺鉄砲商統制」は、しばしば「火器取引の統制を強め治安を図る」という限定的な目的の事変として理解される。しかし、この見方は事象の一側面に光を当てているに過ぎない。本報告書は、この統制を単一の法令や局地的な治安維持政策としてではなく、豊臣秀吉による天下統一事業の最終局面、すなわち小田原征伐という未曾有の軍事作戦を遂行するための、国家規模の兵站戦略の一環として再定義する。
この統制は、特定の「統制令」が発布されたという記録が明確に残っているわけではない。むしろ、天下統一という至上命題の下、堺奉行所という行政機関を通じて、国内最大の兵器生産拠点である堺の全資源を国家目標達成のために動員した、一連の行政・軍事措置の総体であったと捉えるべきである。その実態は、平時における商業活動の監督というレベルを遥かに超え、戦時下における生産、流通、品質、価格の全てを国家が掌握する、極めて計画的な経済統制であった。
1590年という時点の歴史的意義:天下統一の画竜点睛
この事変が起きた天正十八年(1590年)という年は、日本の歴史において決定的な画期であった。この年、豊臣秀吉は関東に覇を唱えた後北条氏を屈服させ、奥州の諸大名をも従わせることで、名実ともに日本の統一を完成させた 1 。この天下統一の総仕上げとなった小田原征伐は、動員兵力20万以上という、日本の戦史上、空前の規模を誇る軍事行動であった。
この巨大な軍事力を数ヶ月にわたり展開し、敵を圧倒するためには、兵糧の確保と並んで、兵器、とりわけ当代最新鋭の武器であった鉄砲と、その弾薬の安定的かつ大量の供給が作戦の成否を左右する生命線であった。したがって、1590年の堺における一連の動きは、この国家的な大事業を兵站面から支えるための必然的な帰結であり、豊臣政権の国家統治能力が試された一大プロジェクトだったのである。本報告書では、この歴史的文脈を基軸に、統制に至るまでの前史、1590年当時の具体的な統制のプロセス、そしてそれが後世に与えた影響を時系列に沿って詳細に解明する。
第一部:前史 ― 統制の土壌
1. 自由都市の黄昏:織田信長による堺の屈服
経済力と軍事力を背景とした自治の実態
統制以前の堺は、日本の都市史において特異な存在であった。平安時代、摂津・河内・和泉の三国の境に位置することからその名を得たこの地は、鎌倉時代に港町として発展し、室町時代には日明貿易や南蛮貿易の拠点として黄金時代を迎えた 2 。莫大な富が蓄積され、有力商人である「会合衆」が市政を運営する自治都市として繁栄した 5 。その独立性の象徴が、町の周囲三方を囲む壮大な環濠であった。これは、守護大名をはじめとする外部の武力による干渉を拒絶する、堺の強い自治意識の物理的な現れであった 6 。
この経済的繁栄に加え、堺は戦国時代の軍事バランスを左右するほどの生産能力を保持していた。16世紀半ばに鉄砲が伝来すると、堺の商人はその先進性と将来性に着目し、いち早く種子島から製造技術を導入した 8 。堺には古墳時代から続く伝統的な金属加工技術の素地があり、これに分業制を組み合わせることで、鉄砲の大量生産体制を確立、瞬く間に日本最大の鉄砲生産拠点へと成長した 10 。戦国大名たちは、自軍の軍事力強化のためにこぞって堺の鉄砲を求め、堺は経済のみならず軍事においても、天下の動向に影響を与える一大勢力となったのである。
信長の矢銭要求と政治的独立の終焉
しかし、この「自由・自治都市」としての栄華は、織田信長の登場によって大きな転換点を迎える。永禄十一年(1568年)、将軍・足利義昭を奉じて上洛した信長は、堺に対して2万貫という巨額の矢銭(軍用金)の支払いを要求した 13 。当時の貨幣価値で20億円にも相当するとされるこの要求は、堺の財力を試すと同時に、その服従を迫るものであった。
当初、堺の会合衆は、長年の同盟関係にあった三好三人衆と結び、この要求を拒絶する姿勢を見せた。しかし、信長は尼崎を焼き討ちにするなど、圧倒的な軍事力を背景に圧力を加えた 14 。海を隔てて燃え盛る尼崎の炎を目の当たりにした堺は、信長への抵抗が無益であることを悟り、屈服を余儀なくされた。この事件は、堺が政治的独立を完全に喪失し、中央の天下人の支配下に組み込まれる決定的な瞬間であった。信長は、天下統一に不可欠な「兵器廠」を直接管理下に置くための戦略的布石として、堺を屈服させたのである。この矢銭要求は、堺の財力を削ぐと同時に、その支配権を確立し、兵器の生産と流通をコントロールするための「入場料」であったと解釈できる。
庇護と支配:信長政権下での鉄砲生産の拡大
信長は堺の自治を武力で完全に粉砕したわけではなかった。彼は会合衆の一定の権威を認めつつ、彼らを自身の支配体制に組み込むという、硬軟両様の策を用いた 11 。その象徴が、今井宗久や津田宗及といった有力商人の登用である。信長は彼らを茶頭として重用し、文化的な側面から関係を深める一方で、彼らを通じて堺の経済力と軍事生産力を掌握した 16 。特に今井宗久は信長の厚い信任を得て、堺近郊に鍛冶屋などを集めた鉄砲・火薬の「工業団地」を形成するなど、信長の軍産複合体の中核を担う存在となった 14 。
信長の支配は、堺から独立を奪うものであったが、同時にその鉄砲産業を国家的な規模でさらに発展させるという二面性を持っていた。信長という最大かつ最優先の顧客を得たことで、堺の生産能力は飛躍的に向上し、後の長篠の戦いなどで示される信長の革新的な戦術を兵器生産の面から支えた。堺は、独立した都市国家から、天下人のための兵器廠へとその性格を大きく変貌させたのである。
2. 豊臣政権の成立と堺の再編
秀吉の国家構想:中央集権化と兵農分離
本能寺の変で信長が斃れた後、その後継者となった豊臣秀吉は、信長が敷いた路線をさらに推し進め、より徹底した中央集権国家の構築を目指した。その政策は、社会のあらゆる資源を国家が一元的に管理し、頂点たる関白・太政大臣の許に直結させることを目的としていた。全国の土地と生産力を石高という統一基準で把握した太閤検地 18 、天正十六年(1588年)に発令され、武士以外の者が武器を所有することを禁じた刀狩令 19 、そして武士、町人、農民間の身分移動を禁じた人掃令(身分統制令) 18 などは、その代表的なものである。これらの政策は、中世的な社会構造を解体し、近世的な身分制社会を確立するための布石であった。
環濠埋め立て:自治の象徴の解体と心理的効果
秀吉の徹底した中央集権化政策の矛先は、かつて自治都市として栄えた堺にも向けられた。天正十四年(1586年)、秀吉は堺の自治と防衛の象徴であった環濠の埋め立てを命令した 7 。これは単なる都市改造事業ではない。物理的な武装解除であると同時に、堺市民が長年育んできた独立の気概と誇りを根底から覆す、極めて象徴的な意味を持つ政策であった。刀狩令が農村から武器を奪ったように、環濠埋め立ては都市からその防衛機能を奪う「都市の刀狩り」とも言うべきものであった。これにより、堺はもはや特別な「都市国家」ではなく、天下人の支配下にある数多の都市の一つへと、その地位を完全に変えられたのである。
石田三成の堺奉行就任と直接統治体制の確立
環濠の埋め立てと並行して、秀吉は統治機構の改革にも着手した。彼は腹心中の腹心であり、卓越した行政能力を持つ石田三成を堺奉行に任命した 21 。これは、信長時代のような会合衆を介した間接的な統治から、豊臣政権による直接統治への完全な移行を意味するものであった。
三成は秀吉の側近として常に行動を共にしていたため、堺における日常的な実務は父の石田正継が代官として担ったとされる 23 。しかし、統治の最高責任者が三成であるという事実は、秀吉が堺の経済力と兵器生産能力を、自身の国家構想においていかに重要視していたかを雄弁に物語っている。堺奉行所の設置は、堺の持つ全ての資源を、豊臣政権の政策目的のために、より効率的かつ直接的に動員するための行政機構の整備であった 24 。この数年間にわたる周到な制度改革と権力基盤の構築があったからこそ、1590年の大規模な統制が可能になったのである。
第二部:本論 ― 1590年、統制のリアルタイム再現
1. 天正17年(1589年)末~天正18年(1590年)3月:小田原征伐発令と戦時動員体制
天正十七年(1589年)末、豊臣秀吉は関東の雄、後北条氏に対して事実上の最後通牒を発し、翌年春の征伐開始を決定した 1 。この決定と同時に、日本全土は一気に戦時体制へと移行する。全国の大名には、石高に応じた空前の規模での軍役が課せられ、壮大な兵站準備が開始された。この国家総動員体制の中核を担うことになったのが、兵器廠たる堺であった。
年が明けた天正十八年(1590年)初頭から、堺の町はかつてない緊張感に包まれた。石田三成が統括する堺奉行所を通じて、市内の鉄砲鍛冶工房や商人に対し、膨大な量の鉄砲・弾薬の生産・納入命令が矢継ぎ早に発せられた。これはもはや、対等な立場での商取引ではなかった。国家による一方的な「徴発」に近い性格を持ち、納期や数量、仕様は奉行所によって厳格に定められ、異議を唱える余地はなかった。
堺奉行所は、この巨大な軍需生産を管理する司令塔として機能した。生産計画の策定、各工房への生産量の割り当て、原材料(鉄、木炭、火薬原料)の調達と配給、そして厳格な納期管理まで、兵器生産に関わる全てのプロセスを統括した。堺の鉄砲鍛冶たちは、個々の大名や商人からの注文に応じて自由に生産する権利を完全に失い、奉行所が定めた国家規格の兵器を、定められた納期までに生産することだけを厳命される存在となった。
かつて会合衆として堺の自治を担った今井宗久や津田宗及といった豪商たちも、この体制下ではその役割を大きく変えざるを得なかった 17 。彼らはもはや政策決定者ではなく、国家プロジェクトの実行担当者であった。その長年の経験で培われた財力と国内外のネットワークを駆使し、鉄砲生産に不可欠な鉄や、特に輸入に頼る硝石といった火薬原料の調達、生産資金の融通、そして完成品の輸送といった兵站業務の一翼を担わされた。彼らの活動は、自由な利潤追求から、国家への奉仕へとその目的を転換させられたのである。
2. 天正18年(1590年)4月~7月:小田原包囲戦と兵站の極限
天正十八年四月三日、豊臣方の大軍が小田原城の包囲を開始すると、堺における生産と輸送は極限状態に達した。前線での戦闘による武器・弾薬の消耗報告が逐一堺にもたらされ、それに応じて追加生産と輸送が昼夜を問わず行われた。この巨大な兵站システムを支えたのが、堺奉行・石田三成の卓越した管理能力であった。彼は天正十五年(1587年)の九州平定において、25万ともいわれる大軍への補給を滞りなく成功させた実績があり、その経験とノウハウをこの小田原征伐でも遺憾なく発揮した 23 。堺から小田原へ至る水路・陸路は、豊臣政権によって厳重に管理され、計画通りに膨大な物資が前線へと送り届けられた。
この戦時下において、品質の管理と私的取引の禁止は絶対的な命令であった。粗悪品の納入や納期遅延は、単なる契約不履行ではなく、作戦全体の成否に関わる国家への反逆行為と見なされた。奉行所による厳しい検品が全ての製品に対して行われ、基準に満たないものや納期を守れない者は、鍛冶・商人を問わず過酷な処罰が科せられた可能性が高い。
同時に、生産された鉄砲や火薬が、敵である後北条氏方や、その他の潜在的な敵対勢力へ横流しされることを防ぐため、堺における私的な武器取引は完全に禁止された。これが、後世に「火器取引の統制」として伝わる事象の具体的な中身である。堺の町は、奉行所の役人や検断による厳しい監視下に置かれ、不審な取引や物資の移動は徹底的に取り締まられた。堺は、自由な商業都市から、厳格な規律の下に置かれた巨大な兵器工場へとその姿を変えたのである。
この統制の背景にある軍事的・ロジスティクス的圧力の大きさは、以下の試算によってより具体的に理解することができる。
指標 |
推定値 |
算出根拠・解説 |
動員総兵力 |
約 220,000人 |
小田原征伐に動員された諸大名の兵力の合計。 |
推定鉄砲装備率 |
15% - 20% |
当時の先進的な軍団における鉄砲の配備比率からの仮定。 |
必要鉄砲総数 |
33,000 - 44,000挺 |
動員兵力に装備率を乗じた数。予備を含めるとさらに増加する。 |
1日の戦闘での1人あたり弾薬消費 |
10発 |
継続的な戦闘を想定した控えめな仮定。 |
90日間の包囲戦での必要総弾薬数 |
29,700,000 - 39,600,000発 |
鉄砲兵が3ヶ月間戦闘を継続した場合の膨大な弾薬需要。 |
堺の平時における年間生産能力 |
不明(数千挺レベルと推定) |
平時の需要は限定的であり、戦時の需要とは比較にならない。 |
動員期間中に求められた生産ペース |
平時の数倍以上 |
上記の需要を満たすためには、通常の市場原理では到底不可能な生産ペースが要求された。 |
表1:小田原征伐における想定鉄砲需要と堺の生産能力の比較
この表が示すように、小田原征伐という国家事業が必要とした兵器の量は、平時の商業取引の規模を遥かに凌駕していた。通常の市場原理に任せていては、これだけの量を、これだけの短期間に、品質を維持しながら調達することは不可能であった。したがって、豊臣政権が堺の生産体制に対して、商取引の論理を超えた国家レベルの強力な統制を加えたことは、恣意的な権力行使ではなく、天下統一という国家目標を達成するための、合理的かつ必然的な戦略的選択だったのである。
3. 天正18年(1590年)8月~12月:戦後処理と統制の恒久化
天正十八年七月五日、後北条氏当主の北条氏直が降伏し、難攻不落を誇った小田原城は開城した 29 。これにより秀吉の天下統一事業は事実上完成し、日本は長い戦乱の時代に終止符を打った。
大規模な軍事行動の終結に伴い、堺に対する戦時下での極端な生産命令は解除され、町の緊張は徐々に緩和されていった。しかし、堺の武器生産が、かつてのような自由な状態に戻ることは二度となかった。小田原征伐を遂行するために構築された、堺奉行所が生産と流通を一元的に管理するという統制システムは、平時においても維持・強化され、恒久的な制度として定着したのである。
戦後、鉄砲の生産は事実上の許可制となり、どの鍛冶が、どのような仕様の銃を、いくつ製造したかが、すべて奉行所に登録・管理されるようになった。これにより、豊臣政権は国内の武器生産の全容を恒久的に把握し、管理下に置くことに成功した。これは、刀狩令によって民衆から武器を没収したことに加え、武器の生産源そのものを国家がコントロールするという、より高度な武器管理体制の確立を意味した。この天正十八年に堺で確立されたシステムは、後の江戸幕府による鉄砲改めや生産管理政策の直接的な原型となり、二百数十年にわたる泰平の世の礎の一つとなったのである 30 。
第三部:分析 ― 統制の構造と影響
1. 統制のメカニズム
天正十八年の堺における統制は、その場しのぎの場当たり的なものではなく、極めて体系的なメカニズムによって成り立っていた。
第一に、 堺奉行所の行政機能 である。石田三成が統括する堺奉行所は、単なる監督官庁ではなかった。生産計画の立案、資源配分、価格決定、品質検査、輸送管理までを一元的に担う、さながら現代の「兵器庁」とも言うべき強力な権限を持つ行政機関として機能した。これにより、豊臣政権の意志が、末端の鍛冶工房に至るまで迅速かつ的確に伝達される体制が構築された。
第二に、 サプライチェーンの国家管理 である。統制の対象は、完成品の鉄砲だけではなかった。その生産に不可欠なサプライチェーン全体、すなわち原材料の調達から管理が及んでいた。鉄や木炭といった国内で調達可能な資源はもちろんのこと、特に火薬の主原料であり輸入に依存していた硝石は、秀吉が発給する朱印状を伴う貿易などを通じて国家が独占的に管理し、奉行所を通じて各工房に計画的に配給されたと考えられる 5 。これにより、民間での自由な原料調達は不可能となり、奉行所の計画に従わない限り、鉄砲の生産自体が行えない状況が作り出された。
第三に、 経済的統制 である。戦時下において、鉄砲の買い上げ価格は市場原理によって決定されるのではなく、奉行所が一方的に定める公定価格で取引された。これは事実上の国家による独占的な買上制度であり、堺の商人が価格交渉によって利潤を最大化しようとする余地はほとんど残されていなかった。彼らの役割は、国家が定めた価格と数量に基づき、兵站業務を滞りなく遂行することに限定されたのである。
2. 歴史的帰結
この徹底した統制は、堺という一都市にとどまらず、日本の歴史に長期的かつ構造的な影響を及ぼした。
第一の帰結は、 堺商人の政治的影響力の完全な喪失 である。統制を通じて、堺の商人たちは、かつてのように会合衆として団結し、天下の政治を動かすほどの力を持つ独立した勢力ではなく、国家の経済政策に従属する存在であることが決定的となった 25 。後に、茶人として文化的権威の頂点に立った千利休でさえ、秀吉の意向一つで切腹を命じられた事件は 21 、いかに強大な財力や文化的権威を持つ豪商であろうとも、もはや天下人の絶対的な権力の前には無力であることを象徴している。
第二に、 鉄砲鍛冶の「御用職人」化 が挙げられる。統制以前、堺の鉄砲鍛冶は、より高性能な銃を開発し、高く売ることで富を築くという、自由競争の原理の中で生きていた。しかし、統制によって彼らは豊臣政権(そして後の幕府)の注文に応じて、定められた仕様の製品を納期通りに生産する「御用職人」へとその性格を変えていった。安定した需要が保証される一方で、技術革新へのインセンティブは著しく低下した。これが、日本の火縄銃が江戸時代を通じて大きな構造的進歩を遂げなかった一因となった可能性は否定できない 30 。
第三に、 大坂への経済中心地のシフト が決定づけられた。秀吉は、自身の本拠地である大坂城下に全国から商人や職人を集め、新たな経済・物流の中心地を形成しようと計画していた 25 。堺の自治権と経済的自由を奪う一連の政策は、相対的に大坂の地位を高める効果を持ち、日本の経済の中心が堺から大坂へと移っていく大きな流れを創り出した。
最後に、そして最も重要な帰結は、 近世的武器管理体制の確立 である。この統制によって確立された、中央権力が武器の生産・流通を一元的に管理するシステムは、そのまま江戸幕府に引き継がれた。これは、戦乱の世を終わらせ、武士階級が社会を統治する安定した近世社会を築く上で、極めて重要な基盤となった。自由な市場と競争の中で技術革新と富の蓄積を目指した中世的な「商工業都市」のモデルは終焉を迎え、国家の統制と庇護のもとで特定の役割を担う近世的な「城下町」の職人モデルへと転換する、大きな歴史的潮流の象徴的事件であったと言える。
終章:結論
「堺鉄砲商統制」の再評価:治安維持から国家戦略物資の完全掌握へ
本報告書を通じて明らかにしたように、天正十八年(1590年)の「堺鉄砲商統制」は、単なる火器取引の監督や治安維持を目的とした局地的な事変では断じてない。それは、豊臣秀吉が天下統一という国家目標を達成するために、国内最大の兵器廠である堺の人的・物的資源の全てを、堺奉行所という行政機関を通じて完全に国家管理下に置いた、計画的かつ戦略的な軍事・行政プロセスであった。この出来事は、豊臣政権が有する強大な中央集権的権力と、石田三成に代表される官僚機構の卓越した実行能力を天下に示すものでもあった。
豊臣秀吉の天下統一における堺の最終的役割
かつては環濠に守られ、会合衆の自治の下、天下人に伍するほどの独立勢力であった堺は、織田信長に屈服し、その支配下に組み込まれた。そして秀吉の時代に至り、その天下統一事業の最終局面である小田原征伐において、兵站面から作戦を支える「国家の兵器廠」として、その歴史的な役割を果たすことになった。堺の鉄砲鍛冶が作り出した無数の鉄砲と弾薬が、豊臣軍の圧倒的な武力の源泉となり、日本の統一を決定づけたのである。
自由都市の終焉と近世的身分制社会への編入
1590年の出来事は、堺にとって、中世的な自由・自治都市の時代の完全な終わりを意味した。環濠は埋め立てられ、会合衆は政治的権力を失い、商人や職人は国家の統制下に置かれた。それは、堺が中央集権的な近世国家の枠組みの中に、兵器生産を担う一工業都市として編入されたことを決定づけるものであった。この堺の変貌は、一個の都市の運命に留まらず、戦国乱世の終焉と、新たな時代の秩序、すなわち近世的身分制社会の到来を告げる、日本史における象徴的な事件だったのである。
引用文献
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- 堺の歴史|ようこそ堺へ! - 堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/history/
- 堺・ふしぎ発見! - 歴史街道 https://www.rekishikaido.gr.jp/club/event/walk/2820/
- 2:「自由・自治都市」として発展 ~ 堺 | このまちアーカイブス - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/sakai/p02.html
- 環濠都市・堺。500年の歴史&ロマンをめぐって - 堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/feature/detail/81
- 堺環濠都市遺跡 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/kangotoshi.html
- 鉄砲鍛冶とは‐歴史と技術‐/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/116905/
- 歴史好きの人集まれ!戦国時代にタイムスリップ「堺鉄砲館」|堺市堺区 https://mediall.jp/landmark/22060
- 中学社会 定期テスト対策【中世(鎌倉時代~室町時代)】 堺の鉄砲鍛冶について - ベネッセ教育情報 https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00727.html
- 有名な鉄砲鍛冶・生産地/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/famous-gun-blacksmith/
- 金属加工技術を受け継ぎ発達した産業 ~ 堺 - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/sakai/p08.html
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