天正遣欧使節帰国(1590)
1590年、天正遣欧使節が8年ぶりに帰国。信長亡き後、秀吉の禁教令下で激変した日本に直面。政治的成果は得られぬも、活版印刷機や西洋文化をもたらし、日本のキリシタンに希望を与えた。
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激変の日本へ:天正遣欧使節、1590年の帰国と戦国時代の終焉
序章:出発前の世界 ― 1582年の日本とイエズス会の戦略
天正遣欧使節の帰国という事象を理解するためには、まず彼らが日本を離れた1582年という時点の世界観に立脚する必要がある。それは、織田信長という強力な中央権力者がキリスト教に対し比較的寛容な姿勢を示し、その庇護の下で教勢が拡大していく未来が現実的な可能性として存在した、束の間の時代であった。彼らの長崎出帆は、まさにその時代の最後の光景だったのである。
1582年の政治状況とキリスト教
1582年(天正10年)初頭の日本は、織田信長による天下統一事業が最終段階にあった。長年の戦乱は終わりを告げ、新たな秩序が生まれつつあるという期待感が社会を覆っていた。この信長政権下において、イエズス会を中心とするキリスト教は、一定の地位を確保していた。信長自身はキリスト教の教義に深く帰依したわけではないが、その合理性や、宣教師がもたらす南蛮の文物を高く評価し、彼らの活動を保護した。
特に九州地方では、キリスト教は大きな影響力を持っていた。豊後の大友義鎮(宗麟)、肥前の大村純忠、有馬晴信といった大名たちは、自ら洗礼を受けたキリシタン大名であり、領内での布教を積極的に支援した 1 。彼らの入信の動機は、純粋な信仰心のみならず、ポルトガル船がもたらす南蛮貿易の巨利と深く結びついていた。生糸や鉄砲、火薬といった軍需物資は、戦国大名の勢力維持に不可欠であり、キリスト教の受容は、この貿易を円滑に進めるための重要な外交手段でもあった 4 。
発案者アレッサンドロ・ヴァリニャーノの人物像と戦略
この状況下で、天正遣欧使節の派遣という壮大な計画を発案したのが、イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった 2 。イタリアの名門貴族に生まれ、パドヴァ大学で法学を修めた彼は、卓越した知性と戦略眼を持つ人物であった 9 。1573年、34歳の若さで東洋におけるイエズス会の全権を担う巡察師に抜擢されると、彼は従来の布教方針を根本から見直した 9 。
ヴァリニャーノが提唱したのは「適応主義」と呼ばれる画期的な方針である 9 。これは、宣教師が現地の文化や習慣を尊重し、それに順応することで布教を進めるという考え方であった。彼は、日本人の高い知性と文化水準を認め、高圧的な布教ではなく、対話と理解を通じてキリスト教を浸透させるべきだと考えた。その具体的な実践として、有馬(後に加津佐、天草へと移転)に日本人司祭養成のための高等教育機関「セミナリヨ」を設立した 2 。ここではラテン語や神学のみならず、西洋音楽、天文学といった当時最先端の学問が教えられた 7 。
使節派遣の多層的な目的
ヴァリニャーノが企画した少年使節の派遣は、この適応主義戦略の集大成ともいえる、極めて多層的な目的を持っていた。
第一に、公式な目的として、ローマ教皇および当時ポルトガルを併合していたスペイン国王フェリペ2世に対し、日本での布教活動への経済的・精神的援助を要請することであった 2 。
しかし、ヴァリニャーノの真の狙いはさらに深遠なものであった。その一つは、感受性の強い日本の若者に、キリスト教世界の偉大さと栄光を直接その目で見聞、体験させることにあった 2 。ヨーロッパの壮麗な教会建築、荘厳な宗教儀式、そして高度な科学技術。これらを目の当たりにした彼らが帰国後、自らの言葉でその感動を語ることこそ、いかなる宣教師の説教よりも雄弁に、キリスト教の魅力を日本人に伝える強力な推進力になると彼は確信していた 11 。
もう一つの狙いは、ヨーロッパに向けられたものであった。遥か東方の未知の国、日本からキリシタン大名の名代として少年たちが訪れるという事実は、ヨーロッパの権力者たちにとって、布教事業の成功を具体的に示す「生きた証拠」となる 13 。これにより、日本管区への継続的な資金援助と人材派遣を確実なものにしようとしたのである。これは、現代でいうところの、投資家に対する極めて高度なプレゼンテーションであり、壮大な投資誘致活動であったと言える。
この計画は、単なる使節派遣に留まらない。ヴァリニャーノは、経験豊富な宣教師ではなく、13歳から14歳という若年の少年たちを選んだ 14 。それは、彼らが白紙の状態でヨーロッパの壮大さを吸収し、その感動を純粋な形で日本に持ち帰ることを期待したからに他ならない。さらに重要なのは、彼らを次世代の日本人聖職者の中核と位置づけていた点である。外国人宣教師による布教には言語的・文化的な限界があることをヴァリニャーノは熟知していた。日本人による、日本人のための教会組織を構築する上で、ヨーロッパでの「箔」をつけた彼らは、将来的に不可欠な人材となるはずだった。この派遣は、日本におけるキリスト教会の未来を形作るための、数十年先を見据えた長期的投資としての高度な人事戦略だったのである。
選ばれし四少年
使節として選ばれたのは、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの四名であった 2 。彼らは有馬のセミナリヨで学ぶ生徒の中から、学業優秀で、かつキリシタン大名と縁故のある名家の出身者として選抜されたエリートであった 7 。主席正使の伊東マンショは大友宗麟の名代であり、日向の名門伊東氏の血を引く 2 。同じく正使の千々石ミゲルは、大村純忠の甥であり、有馬晴信の従兄弟にあたる 2 。彼らは単なる信徒少年ではなく、日本の支配階級に連なる、将来を嘱望された若者たちだったのである。
彼らが長崎の港を出帆した1582年2月20日は、歴史の巨大な分岐点であった 2 。そのわずか4ヶ月後の6月2日、彼らの庇護者であった織田信長が本能寺で横死する 17 。彼らが知る日本と、8年後に彼らが帰着する日本は、全く異なる政治体制、異なる価値観が支配する「異国」と化していた。この出発時と帰国時の劇的な断絶こそが、天正遣欧使節の物語に、深い歴史的意義と悲劇性を与える根源となっている。
第一章:未曾有の世界横断 ― 八年間の旅路が見せたもの
1582年2月に長崎を出帆した四人の少年たちの旅は、8年5ヶ月に及ぶ、まさに未曾有の世界横断であった。彼らは当時の技術で到達可能な世界の果てを目指し、航海の困難を乗り越え、ヨーロッパ文明の精華に触れた。特にスペイン帝国とローマ教皇庁で受けた破格の歓迎は、彼らの存在が当時のヨーロッパにおいていかに大きな意味を持っていたかを物語っている。
苦難の航海と経由地での経験
長崎を出た一行は、まずマカオに寄港し、そこで約10ヶ月を過ごした 2 。その後、マラッカ、インドのゴアへと向かう航路は、嵐や病気との戦いであった。当時の帆船による航海は常に死と隣り合わせであり、その過酷さは現代の想像を絶する。インドのゴアで、計画の発案者であるヴァリニャーノは巡察師としての職務のため一行と別れ、少年たちは通訳のメスキータ神父らに率いられてヨーロッパを目指すことになった 2 。アフリカ大陸南端の喜望峰を回り、大西洋を北上するという壮大な航海の末、彼らがヨーロッパの地に第一歩を記したのは、出発から2年半後の1584年8月、ポルトガルの首都リスボンであった 2 。
スペイン帝国での謁見 ― 国王フェリペ2世の厚遇
1584年11月、一行はスペインの首都マドリードに到着し、当時「太陽の沈まぬ帝国」を統治し、世界最強の君主と謳われた国王フェリペ2世に謁見した 2 。この謁見におけるフェリペ2世の対応は、異例中の異例であった。伊東マンショがヨーロッパの作法に則り、ひざまずいて王の手に接吻しようとしたところ、フェリペ2世はそれを押しとどめ、マンショを立たせると、親しく抱擁をもって迎えたのである 18 。これは他の三少年、さらには日本人随員に対しても同様に行われた 18 。当時の厳格な宮廷儀礼において、国王が臣下でもない異国の少年を抱擁することは考えられず、この破格の待遇は、居合わせた廷臣たちを大いに驚かせた 19 。
フェリペ2世は、少年たちが身にまとった日本の衣服にも強い好奇心を示した。着物や袴、腰の刀、さらには草履に至るまで、自ら手に取って熱心に確かめたという記録が残っている 19 。さらに王は、謁見後に少年たちがスペインの国威と富を日本で語れるようにと、完成したばかりの壮大なエル・エスコリアル宮殿や王室の武器庫を特別に見学させた 19 。
この手厚いもてなしの背景には、複雑な政治的計算があった。フェリペ2世は1580年にポルトガル王位を継承し、両国を統合したばかりであった 18 。日本の使節団を厚遇することは、彼がポルトガルの海外権益(マカオや長崎貿易を含む)の正統な支配者であり、アジアにおけるキリスト教布教の最大の庇護者であることを内外に誇示する絶好の機会であった。少年たちにスペインの国力を見せつけることで、日本におけるスペインの影響力を間接的に高めようという世界戦略の一環だったのである。
ローマ教皇庁での謁見 ― キリスト教世界の中心にて
スペインを後にした一行は、イタリアへと渡り、1585年3月23日、ついに旅の最終目的地であるローマに到着した 2 。ヴァティカン宮殿の「帝王の間」で行われたローマ教皇グレゴリウス13世との謁見は、壮麗を極めた 15 。日本の正装に身を包んだ少年たちが、ラテン語で九州のキリシタン大名からの親書を読み上げる姿は、ローマ市民に大きな感動を与え、その様子はヨーロッパ各地に報じられた 12 。
この歓迎の熱狂は、単に物珍しさから来るものではなかった。当時のカトリック世界は、マルティン・ルターに始まるプロテスタントの宗教改革によって大きく揺らいでいた。その中で、地球の裏側にある未知の国「ジパング」から、王の名代である少年たちが教皇への忠誠を誓うために遥々訪れたという事実は、カトリック教会の普遍性と権威が揺らいでいないことを内外に示す、またとない好機であった。少年たちの存在は、ヨーロッパでの失地を東方での布教成功によって補うという、対抗宗教改革(カウンター・レフォメーション)の希望の象徴として、いわば政治的に利用された側面が強かったのである 20 。
さらに劇的なことに、謁見からわずか18日後、高齢であったグレゴリウス13世は世を去ってしまう 20 。これにより、少年たちはその葬儀に参列し、後継者であるシクストゥス5世の戴冠式にも出席するという、二人の教皇に謁見する稀有な経験をすることになった 2 。
ルネサンス文化との邂逅
ローマでの大役を果たした後、一行はヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノなど、北イタリアの諸都市を歴訪し、各地で盛大な歓迎を受けた 2 。彼らはこの旅を通じて、ルネサンス文化の精華に直接触れることになった。ミケランジェロやラファエロの芸術、壮麗な宮殿建築、そして貴族社会の舞踏会など、彼らが体験したすべてが、日本のそれとは全く異なる文明の輝きであった 22 。
この旅は、ヨーロッパにおける日本の認知度を飛躍的に高めた。彼らの肖像画や旅の動静を記したパンフレットが次々と出版され、ヨーロッパでは一種の「日本ブーム」が巻き起こったのである 12 。四人の少年たちは、期せずして、日本初の公式な文化使節としての役割を果たしたのだった。
第二章:帰国先の日本 ― 変貌した国家と天下人・秀吉
使節団がヨーロッパで未知の文明に触れ、歴史の表舞台に立っていた8年余りの間に、彼らの故国・日本は文字通り天地が覆るほどの激変を遂げていた。信長の死は権力の空白を生み、その中から一人の稀代の英雄が台頭し、戦国乱世を終焉へと導いた。しかし、その新たな支配者が築いた国家は、キリスト教に対してかつてない厳しい姿勢で臨む、全く新しい貌の日本であった。少年たちが帰国する1590年という年は、戦国時代の実質的な終焉を意味すると同時に、新たな対外膨張の時代の幕開けを告げる画期であった。
権力者の交代と国内情勢の激変
1582年6月、使節団がまだマカオに滞在していた頃、日本国内では「本能寺の変」が勃発し、天下人・織田信長が横死した 17 。この報を中国地方で受けた羽柴秀吉は、驚異的な速度で軍を返し(中国大返し)、京の山崎で明智光秀を討ち破った 24 。これを機に、秀吉は信長の後継者レースの筆頭に躍り出る。翌1583年の賤ヶ岳の戦いで織田家の宿老・柴田勝家を破り、その地位を不動のものとした。
その後、秀吉の勢いは留まることを知らなかった。1585年には長宗我部元親を降して四国を平定。そして1587年、20万を超える大軍を率いて九州へ出兵し、長年の宿敵であった島津氏を屈服させた 25 。この九州平定により、西日本は完全に秀吉の支配下に入った。使節団を送り出したキリシタン大名たちも、今や秀吉の臣下の一人に過ぎなくなっていた。
1587年「バテレン追放令」の発令
九州平定を終えた秀吉が、その帰途にあった1587年7月、彼は突如として「バテレン追放令」を発布した 2 。これは、宣教師(バテレン)の国外退去を命じ、キリスト教の布教を禁じるもので、日本のキリスト教政策における180度の転換であった。
この突然の禁教令の背景には、複数の要因が複雑に絡み合っていた。直接的な引き金となったのは、九州平定の過程で、イエズス会がキリシタン大名・大村純忠から長崎を寄進され、そこを治外法権的な拠点としていた事実を知ったことであった 26 。日本の領土が断りなく外国の宗教組織に譲渡されていたという事実は、日本の最高主権者としての自負を持つ秀吉の逆鱗に触れた。
しかし、その根底にはより深い理由があった。秀吉は、日本は神々によって作られ、守られてきた「神国」であるという強い思想を持っていた。その神国の秩序の頂点に立つのが天皇であり、その実質的支配者が自分であるという認識であった。そこに、ローマ教皇という、秀吉自身よりも高次の権威を奉じる一神教が広まることは、彼が築き上げた国家秩序への根本的な挑戦と映ったのである。さらに、ポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売買していることへの嫌悪感や 29 、かつての一向一揆のようにキリシタンが団結して武装蜂起することへの警戒心も、彼の決断を後押しした 26 。
この追放令により、各地の教会や学校は破壊され、宣教師たちは潜伏を余儀なくされた 26 。しかし、法令の執行は徹底されなかった。秀吉は南蛮貿易がもたらす莫大な利益を失うことを恐れ、貿易自体は容認したからである 30 。その結果、商船に紛れて宣教師が密入国し、布教活動も半ば黙認されるという、極めて矛盾した状況が生まれた 30 。
1590年 ― 天下統一の完成
使節団が長崎の港にその姿を現した1590年7月、秀吉は日本の東方で、天下統一の総仕上げとなる戦いの指揮を執っていた。数十万の大軍で関東の雄・北条氏の小田原城を包囲し、これを降伏させたのである 17 。さらに奥州の伊達政宗をも服属させ、ここに約一世紀にわたって続いた戦国乱世は名実ともに終結した 24 。
この時点の秀吉は、まさに絶頂期にあった。彼は太閤検地や刀狩といった革新的な政策を全国規模で実施し、中世的な荘園制を解体して、近世的な支配体制を確立しつつあった 32 。しかし、彼の野望は国内の平定だけに留まらなかった。有り余る武士たちのエネルギーを外部に向け、天下人としての自身の権威を世界に示すため、その目はすでに海を越え、明国、さらにはインドへと向けられていた(唐入り構想) 33 。
使節団が旅立ったのは、内乱の時代の終わりが見え始めた頃であった。そして彼らが帰ってきたのは、新たな対外膨張の野望が渦巻く時代の始まりであった。彼らが持ち帰ったヨーロッパの情報は、この秀吉の膨張主義的な世界観の中で解釈されることになる。この時代の空気の劇的な変化が、彼らの報告の受け止められ方、そしてその後の運命を大きく左右していくのである。
第三章:長崎帰港 ― 時系列で辿る再会と報告
1590年7月21日、一隻のポルトガル船が長崎港に入港した 2 。8年5ヶ月という、当時の感覚では永遠にも等しい歳月を経て、天正遣欧使節が日本の地を再び踏んだ瞬間であった。しかし、彼らを待っていたのは、栄光の凱旋ではなかった。変貌した祖国の厳しい現実と、失われたものの大きさを突きつけられる、静かで緊張をはらんだ帰還であった。
1590年7月21日、長崎への帰着
船の甲板に立ったのは、もはや10代の少年ではなく、20歳を過ぎたたくましい四人の青年であった。彼らの目に映った長崎の光景は、出発の時とは一変していた。バテレン追放令の下、かつて活気のあったキリシタンの町は息を潜め、重苦しい空気が漂っていた 36 。彼らの帰還は、公に祝われることなく、潜伏していたキリシタンたちの間で密かに、しかし熱狂的に伝えられた。
彼らの帰国は、計画者であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノに導かれてのものであった。ヴァリニャーノはインドのゴアで一行と再会し、日本の厳しい情勢を鑑みて、周到な計画のもとに彼らを伴ってきたのである 2 。ヴァリニャーノの戦略は、自身の立場を単なるイエズス会の宣教師ではなく、「ポルトガル領インド副王の公式な使節」として位置づけることであった 37 。これは、宣教師の入国を禁じた追放令の網をくぐり抜け、天下人・豊臣秀吉との公式な謁見を実現するための、唯一にして最善の外交的方便であった。もしこの「外交使節」という隠れ蓑がなければ、彼らは入国直後に捕縛されていた可能性すらあった。彼らの帰国は、華々しい「凱旋」ではなく、危険を伴う「潜入」に近いものであった。
ヴァリニャーノとの情報共有と悲報
長崎に上陸した青年たちに、ヴァリニャーノは残酷な現実を伝えなければならなかった。彼らが不在の間に日本で何が起こったのか。信長の死、秀吉の台頭、そしてキリスト教に対する政策の全面的な転換。さらに、彼らをヨーロッパへ送り出した三人のキリシタン大名のうち、大友宗麟と大村純忠がすでにこの世を去っているという悲報も、この時伝えられた 2 。彼らの偉大な旅を支えたスポンサーは、もはや存在しなかった。
この状況は、16世紀という時代の情報伝達の圧倒的なタイムラグがもたらした悲劇でもあった。帆船による情報伝達には、片道で1年以上、往復すれば数年の時間を要した 40 。使節団がヨーロッパで英雄として歓待されていたまさにその頃、日本では追放令が発令されていた。彼らがローマ教皇から託されたメッセージや、彼ら自身がヨーロッパで見聞した知識を基に立てていたであろう日本での布教計画は、日本の厳しい現実の前では、すでに時代遅れのものとなっていたのである。
欧州からの報告と贈答品
青年たちは、ヴァリニャーノをはじめとするイエズス会の幹部に対し、8年間にわたる旅の詳細な報告を行った。ヨーロッパの政治情勢、各国の軍事力、そして宮廷文化。彼らがもたらした情報は、断片的にしか伝わっていなかったヨーロッパの実像を、日本の宣教師たちに初めて体系的に伝えるものであった。
また、彼らはローマ教皇やスペイン国王から託された数々の贈答品を携えていた。聖遺物が納められた十字架や、名誉の剣、貴族の帽子などである 41 。これらの品々は、唯一存命であった派遣大名・有馬晴信や、亡き大名たちの後継者に、厳かな儀式をもって授与された 41 。この儀式は、禁教令下で士気が低下していたキリシタン共同体を鼓舞し、自分たちの信仰が世界と繋がっていることを再確認させる重要な意味を持っていた。
上洛準備と待機
ヴァリニャーノは早速、「インド副王使節」として豊臣秀吉への謁見を求める書状を送った。しかし、秀吉の反応は冷ややかであった。彼は当初、この「バテレン」たちの面会を拒否した 42 。秀吉の側近であった増田長盛らの取りなしにより、あくまで布教の嘆願ではなく、友好のための外交使節としての謁見であるという名目で、ようやく上洛の許可が下りるまで、一行は九州で数ヶ月にわたる待機を余儀なくされた 42 。ヨーロッパ中の王侯貴族から歓待を受けた青年たちは、自らの故国で、天下人への謁見をただひたすら待つという屈辱的な状況に置かれたのである。
第四章:天下人との謁見 ― 聚楽第での邂逅
長い待機の末、ついに謁見の許可が下りた。1591年(天正19年)3月3日、ヴァリニャーノを正使とする一行は、豊臣秀吉がその権勢を天下に示すために築いた壮麗な城郭、京都の聚楽第へと赴いた 2 。この歴史的な邂逅は、宣教師ルイス・フロイスがその著書『日本史』に詳細に記録しており、二つの異なる文明と世界観が衝突した、緊張と好奇に満ちた空間の様子を今に伝えている。
聚楽第での対面
当時の聚楽第は、金箔で飾られた天守や御殿が立ち並び、その豪華絢爛さは訪れる者を圧倒したと伝えられる。その一室で、ヴァリニャーノと四人の青年たちは、天下人・豊臣秀吉と対面した。フロイスの記録によれば、秀吉は背が低く、容貌は醜悪であったが、その眼光は鋭く、全身から自信と威厳がみなぎっていたという 43 。
謁見は、ヴァリニャーノがインド副王からの国書を秀吉に奉呈することから始まった。国書には、秀吉の天下統一の偉業を讃え、両国の友好と、日本におけるキリスト教布教の許可を求める内容が記されていた 42 。しかし、この国書は1587年のバテレン追放令発令以前の情報に基づいて作成されたものであり、秀吉が最も問題視している点への配慮を欠いていた。この情報伝達の遅延が、両者の対話に埋めがたい溝を生む一因となった。
文化の交差 ― 献上品と御前演奏
続いて、使節団から秀吉への献上品が披露された。ヨーロッパの先進技術を示す精巧な地図、そして一頭の壮麗なアラビア馬 2 。秀吉の目を最も引いたのは、ハープ、リュート、クラヴォ(チェンバロの前身)といった、見たこともない西洋の楽器であった 2 。
秀吉の求めに応じ、四人の青年たちは彼の目の前でこれらの楽器を手に取り、アンサンブルを披露した。この時演奏された曲目は、ルネサンス期フランドル楽派の巨匠、ジョスカン・デ・プレが作曲したシャンソン「千々の悲しみ (Mille regrets)」であったと伝えられている 3 。その哀愁を帯びた美しい旋律は、秀吉を深く魅了した。彼は演奏に大変満足し、三度もアンコールを求めたという 45 。
この謁見は、秀吉にとっては物珍しい献上品や音楽、そして海外の情報を楽しむ「異文化エンターテインメント」であった。しかし、ヴァリニャーノと青年たちにとっては、追放令の緩和・撤回を勝ち取るための、最後の望みを賭けた「交渉」の場であった。秀吉が音楽に興じている間も、彼らの心中は絶望的なまでの緊張感に満ちていたに違いない。この両者の根本的な目的意識の乖離が、謁見の結末を決定づけた。
天下人からの問いかけ
秀吉は、青年たちの8年以上にわたる長い旅路や、ヨーロッパの王侯の暮らし、都市の様子などについて、尽きることのない好奇心をもって質問を浴びせた 11 。そして、一通りの歓談が終わった後、彼は核心に触れる問いかけを発した。
「汝ら、余に仕える気はないか。さすれば十分な俸禄を与えるであろう」 44 。
これは、彼らの信仰を試すとともに、ヨーロッパの知識を持つ有能な人材を自らの家臣団に加えようとする、秀吉らしい極めて現実的な提案であった。しかし、四人の青年たちは、この破格の申し出を丁重に、しかし断固として辞退した 44 。彼らが選んだ道は、地上の権力者に仕えることではなく、生涯を神に捧げることであった。その揺るぎない決意が示された瞬間であった。
謁見の結末
謁見は、表面的には穏やかな雰囲気のうちに幕を閉じた。秀吉は終始上機嫌であり、司祭たちは彼の満足した様子に一縷の望みを抱いたかもしれない 42 。しかし、その期待は無残に裏切られる。謁見の後、秀吉はインド副王に対し、キリスト教の教えを「邪法」と断じ、日本が「神国」であることを強調した上で、布教を断固として認めないという内容の、極めて厳しい返書をしたためたのである 42 。
少年たちが演奏した「千々の悲しみ」という曲名は、奇しくも彼らの運命を象徴していたかのようであった。故国に帰還したものの、自分たちの信仰が公に否定され、輝かしい未来への道が閉ざされたという悲劇的な状況。この哀愁を帯びた旋律は、彼ら自身の心情を代弁していたと解釈することもできる。音楽という非言語的な手段を通じて、歴史の皮肉が奏でられた謁見であった。
第五章:使節がもたらした遺産 ― 文化、技術、そして信仰
聚楽第での謁見は、政治的な成果という点では完全な失敗に終わった。豊臣秀吉の禁教方針は揺るがず、むしろその決意を再確認させる結果となった。しかし、天正遣欧使節が8年半の旅路の果てに持ち帰ったものは、政治的な駆け引きの次元を超えて、その後の日本の文化や技術、そして信仰のあり方に深く、永続的な影響を及ぼした。
グーテンベルク式活版印刷機の導入
使節団が日本にもたらした数々の文物の中で、最も重要かつ革命的な意義を持っていたのが、ヨハネス・グーテンベルクの発明に連なる金属活字を用いた活版印刷機であった 22 。それまでの日本では、書物の複製は手作業による写本に頼るか、一枚板を彫る木版印刷が主流であり、大量かつ迅速な出版は困難であった。この西欧式の印刷技術は、日本の知識生産と情報伝達のあり方を根底から変える可能性を秘めていた。
この印刷機は、随行員として印刷技術を習得した日本人、コンスタンチノ・ドラードらの手によって、当初は島原半島の加津佐に、後に天草のコレジオ(大神学校)に設置され、本格的な印刷事業が開始された 49 。
「キリシタン版」の出版事業
1591年から、徳川幕府による全国的な禁教令が厳格化され、宣教師や印刷技術者がマカオへ追放される1614年までの約20年間にわたり、この印刷機を用いて多数の書物が出版された 51 。これらは今日、総称して「キリシタン版」と呼ばれている 52 。
キリシタン版の出版物は、大きく三つのカテゴリーに分類される 52 。
- 宗教書: 『ドチリナ・キリシタン』(キリスト教教義問答集)や『コンテムツス・ムンヂ』(信心書『主の模倣』の翻訳)など、布教と信徒の信仰教育を目的とした書物。これらは日本語の文章を漢字仮名交じりで表記したものと、ローマ字で表記したものの両方が作られた 53 。
- 言語学書: ポルトガル語で日本語を解説した『日葡辞書』や、ラテン語の文法書『ラテン文典』など、来日した宣教師が日本語を習得するため、またセミナリヨの生徒がラテン語を学ぶための辞書や教科書 52 。
- 文学・教養書: 日本の古典である『平家物語』や『和漢朗詠集』、そして西洋の古典である『伊曽保物語』(イソップ物語)など 49 。
これらの出版事業は、単に書物を印刷するという技術的な側面だけでなく、深い戦略的意図を持っていた。禁教という厳しい状況下で、なぜ危険を冒してまで日本の古典文学を印刷したのか。それは、キリスト教信仰が日本の伝統文化と敵対するものではなく、むしろそれを尊重し、共存しうる普遍的なものであることを示すためであった。また、高度な印刷技術や言語学の知識を背景に持つキリスト教の文化的優位性を、日本の知識人層にアピールする狙いもあった。コレジオと印刷所は、物理的に宣教師が潜伏する拠点であると同時に、弾圧によって散り散りになりかねない信徒たちを、共通の書物と知識によって繋ぎとめる「知的な共同体」の中核、すなわち「知の要塞」を構築する試みであった。
その他の文化的影響と精神的支柱として
活版印刷以外にも、使節団は日本の文化に多大な影響を与えた。彼らが聚楽第で演奏したような、複数の声部が絡み合う多声音楽(ポリフォニー)や、オルガン、クラヴォといった鍵盤楽器の本格的な紹介は、日本の音楽史における特筆すべき出来事である 54 。また、彼らが持ち帰った西洋絵画は、油彩の技法や遠近法といった、それまでの日本絵画にはない新しい表現を伝えた。
しかし、彼らがもたらした最大の遺産は、物や技術そのものよりも、彼らの存在そのものであったかもしれない。政治的な成果は得られなかったとしても、彼らが成し遂げた偉業は、弾圧下に置かれた日本のキリシタンたちにとって、計り知れないほどの希望と誇りを与えた。自分たちと同じ日本人が、遥か世界の果てローマまで赴き、カトリック教会の最高指導者である教皇に直接謁見したという事実は、自分たちの信仰が孤立したものではなく、世界的な共同体と固く結びついているという確信を与えた。彼らが語るヨーロッパでの栄光に満ちた体験談は、厳しい弾圧に耐える信徒たちの精神的な支えとなり、彼らは殉教者や聖人に近い「生ける伝説」として、その後の長く苦しい潜伏の時代を通じて語り継がれていったのである。
終章:岐路に立つ四人の使節 ― その後の運命
ヨーロッパ全土で喝采を浴び、日本の文化史に不滅の遺産を刻んだ四人の青年たち。しかし、彼らの後半生は、栄光とはほど遠い、茨の道であった。帰国後の日本は、豊臣秀吉から徳川幕府へと政権が移る中で、キリスト教に対する弾圧をますます強化していく。かつて世界の広さをその目で見た若者たちは、急速に閉ざされていく故国で、それぞれに過酷な運命を辿ることになる。彼ら四人が歩んだ異なる道は、当時の日本のキリスト教徒が直面した苦難に満ちた選択肢、すなわち殉教、潜伏、追放、そして体制との妥協という、あらゆる可能性を象徴している。
伊東マンショ ― 司祭としての静かなる闘い
主席正使として一行を率いた伊東マンショは、帰国後、他の三人とともに天草のコレジオで神学を修め、マカオへの留学を経て、1608年に司祭に叙階された 56 。彼は、激化する弾圧の網をかいくぐりながら、小倉や中津、萩といった西日本の各地で地道な布教活動を続けた 36 。その生涯は、かつての栄華を誇ることなく、一人の司祭として静かに信仰を貫くものであった。1612年、長崎のコレジオにて、43歳の若さで病のためこの世を去った 58 。
中浦ジュリアン ― 信仰の証としての殉教
副使であった中浦ジュリアンは、四人の中で最も長く日本国内に留まり、最も壮絶な最期を遂げた。司祭となった後、彼は完全に非合法化されたキリスト教の潜伏司祭として、命の危険を顧みず信徒たちの間を巡り続けた 2 。1633年、ついに幕府に捕縛された彼は、長崎の西坂の丘で、最も残忍な拷問とされる「穴吊るし」の刑に処せられた 61 。逆さ吊りにされ、少しずつ死に至らしめられるという想像を絶する苦痛の中で、彼は最後まで棄教を拒み続けた。記録によれば、彼の最後の言葉は「この大きな苦しみは神の愛のため」であったという 61 。その殉教は、彼の信仰の強さを雄弁に物語っている。2008年、ローマ・カトリック教会は彼を「福者」の列に加えた 2 。
原マルティノ ― 追放先での学識
卓越した語学の才能に恵まれた原マルティノは、帰国後、キリシタン版の翻訳・出版事業において中心的な役割を果たした 36 。彼の学識は、禁教下の日本におけるキリスト教の知的伝統を支える上で不可欠であった。しかし、1614年に徳川家康が発した全国的な禁教令(慶長の大追放)により、彼は多くの宣教師や信徒と共に、日本を追われマカオへと渡った 2 。故国を追われた後も、彼はマカオの地でその学識を活かし、翻訳や著述活動を続け、1629年に客死した 2 。
千々石ミゲル ― 棄教の謎と再評価
四人の中で最も複雑で、長らく謎に包まれていたのが千々石ミゲルの人生であった。彼は帰国後、イエズス会を脱会し、信仰を捨てたと伝えられてきた唯一の人物である 2 。イエズス会側の記録によれば、彼は棄教して大村藩に仕えたとされる。その理由については、ヨーロッパでキリスト教世界の偽善(奴隷制度など)を目の当たりにしたことへの幻滅 66 や、イエズス会の強引で排他的な布教方針への疑問 67 など、様々な憶測がなされてきたが、真相は不明であった。
しかし、21世紀に入り、この定説を覆す可能性のある発見がなされた。長崎県諫早市でミゲルのものとされる墓所が発掘調査され、彼の妻の墓とみられる場所から、ロザリオの一部と思われるガラス玉やガラス片が出土したのである 67 。この考古学的な発見は、ミゲルがイエズス会という「組織」とは袂を分かったものの、キリストへの「信仰」そのものは生涯密かに持ち続けていた可能性を強く示唆している 72 。
この再評価は、ミゲルの物語を「信仰か、裏切りか」という単純な二元論から解放する。彼は、組織の方針と個人の内面的な信仰との間で葛藤し、日本の土壌にキリスト教をいかに根付かせるかという大問題に、彼なりに向き合った結果、イエズス会を離れるという道を選んだのかもしれない。彼の苦悩に満ちた選択は、組織への忠誠と個人の信仰のあり方という、現代にも通じる普遍的な問いを我々に投げかけている。
天正遣欧使節の物語は、1590年の帰国で終わるのではない。四人の青年がその後の人生で歩んだそれぞれの道こそが、この歴史的偉業の真の結末であり、戦国時代の終焉から徳川の泰平へと向かう激動の時代を生きた人々の、信仰と苦悩の軌跡そのものなのである。
添付資料:比較年表「天正遣欧使節の動向と日本・欧州の情勢(1582-1591)」
西暦 / 和暦 |
天正遣欧使節団の動向 |
日本国内の情勢 |
欧州の情勢 |
1582年 / 天正10年 |
2月20日、長崎を出帆。3月9日、マカオに到着し、年末まで滞在 2 。 |
6月、本能寺の変。織田信長が死去。山崎の戦いで羽柴秀吉が明智光秀を破る 17 。 |
グレゴリオ暦が教皇グレゴリウス13世により制定される。 |
1583年 / 天正11年 |
マラッカ、コチンを経由。11月10日、インドのゴアに到着 15 。ヴァリニャーノと別れる 2 。 |
秀吉、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、大坂城の築城を開始 24 。 |
- |
1584年 / 天正12年 |
喜望峰を回り、8月10日、ポルトガルのリスボンに到着 2 。11月14日、マドリードでスペイン国王フェリペ2世に謁見 15 。 |
小牧・長久手の戦い。秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍が戦う。 |
- |
1585年 / 天正13年 |
3月1日、イタリアに上陸。ピサ、フィレンツェを訪問 2 。3月23日、ローマで教皇グレゴリウス13世に謁見 2 。4月、グレゴリウス13世が死去。5月1日、新教皇シクストゥス5世の戴冠式に参列 2 。 |
秀吉、関白に就任。四国を平定する。 |
八十年戦争(オランダ独立戦争)で、スペイン軍がアントワープを占領。 |
1586年 / 天正14年 |
北イタリアの諸都市(ヴェネツィア、ミラノ等)を歴訪 2 。4月12日、リスボンを出帆し、帰路につく 2 。 |
秀吉、豊臣姓を賜る。太政大臣に就任。 |
- |
1587年 / 天正15年 |
5月29日、ゴアに到着し、ヴァリニャーノと再会 2 。 |
秀吉、九州を平定。7月、博多にてバテレン追放令を発布 2 。 |
スコットランド女王メアリー・スチュアートが処刑される。 |
1588年 / 天正16年 |
ゴアに滞在。 |
秀吉、刀狩令を発布 32 。 |
スペインの無敵艦隊が、イギリス海軍に敗れる(アルマダの海戦)。 |
1589年 / 天正17年 |
ゴアからマカオへ移動。 |
- |
フランスでアンリ4世が即位し、ブルボン朝が始まる 24 。 |
1590年 / 天正18年 |
ヴァリニャーノと共にマカオを出帆。7月21日、長崎に帰着 2 。 |
秀吉、小田原征伐で北条氏を滅ぼし、奥州を平定。天下統一を完成させる 25 。 |
- |
1591年 / 天正19年 |
3月3日、ヴァリニャーノらと共に京都の聚楽第で豊臣秀吉に謁見。西洋音楽を演奏 2 。 |
千利休が秀吉の命により切腹。秀吉、朝鮮出兵(文禄の役)の準備を本格化させる。 |
- |
引用文献
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- 《第9回》千々石ミゲルは本当に「信仰」を捨てたのか―天正遣欧少年使節の謎に迫る【後編】 https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12909/
- ミゲルの棄教の真実は? 天正遣欧使節・千々石ミゲルとみられる人骨発見 - クリスチャンプレス https://christianpress.jp/migelproject0927/
- 千々石ミゲル墓所調査プロジェクト https://migel-project.jp/
- 謎に包まれた千々石ミゲルの墓!? - おらしょ こころ旅 https://oratio.jp/p_column/nazo-tijiwamigeru
- 社外プロジェクト (千々石ミゲル夫妻墓所発掘調査) - オリエントアイエヌジー https://orient-ing.jp/external-projects
- インタビュー | 千々石ミゲル墓所調査プロジェクト https://migel-project.jp/top-interview/interview/