広島城築城(1589)
1589年、毛利輝元は吉田郡山城の限界を認識し、豊臣秀吉の意向を汲み太田川デルタに広島城を築城。水運を活かした近世都市を目指すも、関ヶ原の戦いで毛利氏は転封。城は短命に終わるも、現代広島の礎となった。
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広島城築城(1589年):戦国終焉期における毛利氏の生存戦略と新時代への布石
序章:中国の覇者、新たな時代への岐路
天正17年(1589年)に開始された広島城の築城は、単に一戦国大名が居城を移転したという事象に留まらない。それは、織田信長亡き後の天下を統一した豊臣秀吉による新たな政治秩序が確立される中で、中国地方の覇者であった毛利氏が、その存亡をかけて行った自己変革の象徴であった。この一大事業の背景には、旧来の本拠地が抱える時代的限界と、新時代が求める統治者像への適応という、避けては通れない歴史的必然が存在した。
豊臣政権の確立と毛利輝元の立場
毛利元就の孫である毛利輝元は、豊臣政権下において112万石の広大な領地を安堵され、五大老の一人に数えられるなど、依然として西国随一の有力大名としての地位を保持していた 1 。しかし、その立場は、かつて中国地方に並ぶ者のなかった独立した覇者としてのそれとは本質的に異なっていた。輝元は、強力な中央政権に臣従する一大名であり、その領国経営は常に豊臣秀吉の監視と意向の下に置かれていた。この中央集権化という時代の大きな潮流は、毛利氏の統治思想に根本的な変革を迫るものであった。もはや、軍事力のみで領国を維持する時代は終わりを告げ、安定した統治能力と経済力が大名に求められるようになっていたのである。
本拠地・吉田郡山城が抱える時代的限界
この新たな時代認識の中で、毛利氏が約250年にわたり本拠としてきた安芸国吉田郡山城の限界は、もはや覆い隠すことができないほど明白となっていた 2 。吉田郡山城は、安芸国北部の山間部に位置し、複雑な地形と無数の曲輪群によって守られた、典型的な中世の山城であった 3 。
第一に、その防御思想は旧態依然としていた。敵の侵攻をひたすら高低差と堅固な守りで撃退するという思想は、群雄が割拠した戦国乱世においては極めて有効であった 5 。しかし、天下統一が成り、国内の平定が進む中で、このような過度に要害堅固な山城は、中央政権に対して謀反の意図を抱いていると見なされかねない、政治的なリスクを孕む存在となっていた。
第二に、経済的・交通的な不便性は致命的であった。内陸の山間部に位置するため、当時の物流の主役であった瀬戸内海の水運から完全に隔絶されていた 6 。これにより、領国経済の中心として大規模な城下町を展開し、商工業を集積させ、広域的な経済圏を形成するには地理的にあまりにも不向きであった 3 。
第三に、統治機能の限界が露呈していた。中国8カ国にまたがる広大な領国を支配する「首都」として、領内各地からのアクセス、情報の集積、そして家臣団を集住させて統治機構を効率的に運営するといった、近世的な中央集権統治の拠点としての機能を欠いていたのである 8 。
かくして、広島城築城の決断は、単なる居城の移転に留まらず、毛利氏という組織が「中世の軍事勢力」から「近世の統治機構」へと脱皮するための、不可逆的な構造転換の象徴となった。それは、毛利元就以来の成功体験と精神的支柱であった吉田郡山城との決別を意味し、秀吉が求める「近世大名」としての姿へ自らを適応させるための、存亡をかけた経営判断だったのである。
第一章:新時代の首都選定(1588年~1589年初頭)
吉田郡山城の限界を痛感した毛利輝元は、新たな本拠地の選定に着手する。そのプロセスは、豊臣秀吉が提示した新時代の都市像に強い影響を受けつつ、毛利氏の伝統的な戦略思想と将来への経済的展望を融合させる形で進められた。数多の候補地の中から、あえて技術的困難が予想される太田川デルタが選ばれた背景には、極めて合理的かつ戦略的な判断が存在した。
輝元の上洛と大坂城・聚楽第の衝撃(1588年)
天正16年(1588年)、輝元は上洛し、豊臣秀吉が築いた大坂城や、政庁兼邸宅として造営された聚楽第をその目で直接見る機会を得た 9 。彼がそこで目の当たりにしたのは、単に壮麗な天守や巨大な石垣といった軍事施設の威容だけではなかった。それらと一体的に整備された広大な城下町、活気にあふれる商人町、そして淀川水系の水運を巧みに利用した巨大な物流ネットワークであり、政治・軍事・経済が見事に融合した近世城郭都市の姿であった 9 。
この経験は、輝元に衝撃を与え、旧来の山城がもはや時代遅れであることを痛感させた。そして、毛利氏の広大な領国を統治する「首都」として、経済の中心地となり得る平城を、水運の要衝に築くことの重要性を確信させる決定的な契機となったのである 8 。
太田川デルタ地帯への着目:水運の魅力と地理的リスク
帰国した輝元は、家臣の福島元長らの案内で新城の候補地を精力的に検分した。己斐山や二葉山なども検討されたが、最終的に彼の心を捉えたのは、太田川の河口に広がる「五箇村(ごかそん)」と呼ばれた広大なデルタ地帯であった 1 。
この地が持つ最大の魅力は、当時の物流の生命線であった瀬戸内海の海上交通を直接掌握できるという、他のどの候補地にもない圧倒的な利点にあった 6 。当時、海上交通の拠点であった厳島(宮島)に近く、太田川の水運を利用すれば、中国山地の内陸部にまで大量の物資を輸送することが可能であった 6 。この立地は、領国経済の活性化と軍事的な兵站線の確保という両面において、計り知れない戦略的価値を秘めていた。
一方で、この選択には大きな困難が伴った。五箇村は広大な低湿地帯であり、地盤は極めて軟弱であった。当時の記録には「海上に点々と島が浮かんでいる状態」であったと記されており、大規模な城郭を築くには、ゼロから土地を造成する必要があった 12 。加えて、洪水や高潮といった水害のリスクも常に付きまとう場所であった 6 。しかし輝元は、「土地が小さい」「地盤が弱い」「水害に弱い」という技術的なデメリットよりも、「海に開けており、大量輸送が可能」という長期的な経済的メリットの方が大きいと判断した 6 。これは、短期的な軍事合理性よりも長期的な経済合理性を優先した、近世大名としての経営判断であった。
築城準備と地名「広島」の誕生
築城地が内定すると、計画は着実に実行へと移された。天正16年(1588年)11月には、後に普請奉行となる重臣・二宮就辰が現地に入り、地勢調査などの準備を開始した 13 。そして同年12月18日付の二宮就辰から井原元尚に宛てた書状において、翌年から「佐東普請」、すなわち太田川下流の佐東郡における築城工事を開始する予定であることが伝えられている。これが、広島城築城計画に関する最も初期の史料の一つとされている 13 。
新たな城と町の名前については、毛利氏の祖先とされる大江広元の名から「広」の一字を取り、デルタ地帯(五箇村)の中で最も大きな島であったことにちなんで「広島」と命名されたという説が有力である 15 。この「広島」という地名が史料上で初めて確認されるのは、天正17年(1589年)7月17日付の輝元書状であり、そこには「佐東広嶋之堀普請」と明確に記されている 14 。こうして、新たな時代の首都の名が歴史に刻まれたのである。
第二章:グランドデザインに秘められた意図(設計段階)
広島城の設計、すなわち縄張は、単なる建築計画ではなかった。それは、天下人・豊臣秀吉に対する毛利氏の政治的立場を表明する、極めて高度な意匠であった。そのグランドデザインには、秀吉への恭順の意を示す壮大な威容と、謀反の疑いを抱かせないための意図的な脆弱性という、一見矛盾した二つの要素が巧妙に織り込まれていた。この複雑な設計思想の背景には、秀吉の腹心であり築城の名手でもあった黒田官兵衛の存在が大きく関わっている。
縄張りと黒田官兵衛の助言:築城の名手の視点
広島城の縄張には、秀吉の軍師として知られ、大坂城や名護屋城の設計にも携わった築城の名手・黒田官兵衛(孝高、後の如水)が深く関与したことが、複数の史料から示唆されている 17 。官兵衛の築城術は、海や川といった自然地形を最大限に活用した水利の巧みさ、城と城下町を一体的に整備する都市計画的な視点、そして戦いのための実戦的合理性を特徴としており、太田川デルタに平城を築くという広島城の基本構想は、まさに彼の思想と合致するものであった 18 。
豊臣秀吉は、諸大名が大規模な城を築く際に、自らの意向を反映させ、また技術的な助言を与えるために、信頼する官兵衛をアドバイザーとして派遣することがあった 17 。天正17年(1589年)5月2日付の輝元書状には、秀吉が派遣した官兵衛を広島で接待した旨の記述が残されており、彼が築城の初期段階で現地を訪れ、何らかの助言を行ったことはほぼ間違いないと考えられる 13 。
秀吉への配慮:「敢えて脆弱に」という高等戦術の真相
広島城の設計意図を解き明かす上で最も重要な史料が、黒田家の公式記録である『黒田家譜』である。そこには、この城の立地を巡る毛利輝元、その叔父である小早川隆景、そして黒田官兵衛の間の、深謀遠慮に満ちたやり取りが詳細に記録されている 20 。
事の発端は、輝元がデルタ地帯の低地は防御に不向きであると考え、より防御に適した山寄りの高台へ築城地を変更しようと検討したことであった。輝元がこの懸念を叔父の隆景に相談したところ、隆景は即答を避け、「城作りが上手い黒田殿に相談してみましょう」と提案する 20 。
その後、広島を訪れた官兵衛に隆景が意見を求めると、官兵衛は内心では「守りに欠ける城だ」と思いながらも、「この城の守りはそれほど悪くはないでしょう。今から場所を変えるのは大変な苦労です」と、現状の計画を肯定する返答をした。その心中には、「八カ国を領する大大名である毛利氏が、万一謀反を起こしてこの地に籠城するようなことがあれば、城の守りが固いことは秀吉公にとって都合が悪いだろう」という、主君秀吉の立場を慮る政治的判断があった 20 。
隆景の真意もまた、そこにあった。彼は、秀吉の腹心である官兵衛が必ずそう判断することを見越して、あえて彼に意見を求めたのである。後年、広島城を訪れた秀吉が「この城の地形は低くて守りが弱い。水攻めにすればすぐに落とせるだろう」と評した際に、輝元が不満を漏らすと、隆景はついにその真意を明かした。「城の守りを弱くしたのは、毛利家を長く続かせるための謀略です。太閤殿下に『毛利に謀反の恐れなし』と思っていただくことこそが、当家にとって何よりの要害なのです」と 8 。この逸話は、広島城の設計が、物理的な防御力よりも政治的な安全性を優先するという、極めて高度な戦略に基づいていたことを物語っている。
大坂城と聚楽第からの影響
こうした政治的配慮を内包しつつも、広島城の具体的な意匠は、輝元が上洛時に見た豊臣政権の象徴的建造物から強い影響を受けていた。城全体の構造は、広大な御殿を設け、政庁としての性格を重視した点で、秀吉の政庁兼邸宅であった平城・聚楽第に範を取ったとされる 10 。
一方で、城の象徴である天守は、豊臣秀吉の権威の象徴である大坂城を強く意識したものであった。壮大な五重の天守を構え、その外観を黒い下見板張で覆うという意匠は、大坂城を模倣したものであり、秀吉への忠誠と臣従の意を視覚的に示すためのものであったと考えられている 21 。かくして広島城は、「秀吉に忠誠を誓う西国随一の大名」という表の顔と、「いざとなれば籠城はせぬ」という裏の顔を併せ持つ、二重の意味を持つ城郭として設計された。この深謀遠慮こそが、戦国末期の激動の時代を生き抜くための知恵だったのである。
第三章:大地を創る―島普請の10年(1589年~1599年)
広島城の築城は、天正17年(1589年)の着工から慶長4年(1599年)の完成まで、約10年の歳月を要した一大事業であった。その過程は、単なる建物の建設ではなく、文字通り海上のデルタに新たな大地を創造する「島普請」と呼ばれる困難な作業から始まった。ここでは、その10年間のプロセスを時系列で追い、この巨大プロジェクトのリアルタイムな進行状況を再現する。
表1:広島城築城 詳細年表(1589-1599)
年(和暦/西暦) |
月日 |
出来事・工事内容 |
関連人物 |
典拠 |
天正16年 (1588) |
11月初旬 |
築城準備のため、地勢調査などを開始。 |
二宮就辰 |
13 |
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12月18日 |
翌年からの「佐東普請」開始予定を伝える書状が発給される。 |
二宮就辰 |
13 |
天正17年 (1589) |
1月19日 |
輝元が「島普請」への強い意志を示す書状を発給。 |
毛利輝元 |
13 |
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3月18日 |
輝元が家臣に対し、25日までの普請への出頭を命じる。 |
毛利輝元 |
14 |
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4月15日 |
「御鍬初(おくわはじめ)」(鍬入れ式)を執り行い、公式に着工。 |
毛利輝元 |
13 |
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5月2日 |
秀吉が派遣した黒田官兵衛を接待。縄張りに関する助言を受けたとされる。 |
毛利輝元, 黒田官兵衛 |
13 |
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7月17日 |
「佐東広島之堀普請」の命令が下る。堀の掘削工事が本格化。 |
毛利輝元, 穂田元清 |
13 |
天正18年 (1590) |
年末 |
堀と城塁(土台部分)がおおむね竣工する。 |
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22 |
天正19年 (1591) |
1月8日 |
輝元、吉田郡山城から未完成の広島城へ正式に入城。 |
毛利輝元 |
22 |
文禄元年 (1592) |
4月 |
文禄の役の途上、秀吉が広島城に立ち寄り城内を見物。 |
豊臣秀吉, 毛利輝元 |
8 |
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この頃 |
天守の作事(建築工事)が開始されたとする説が多い。 |
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14 |
文禄2年 (1593) |
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石垣が完成。城郭の主要な区画が画定する。 |
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22 |
慶長4年 (1599) |
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全ての工事が完了し、広島城が落成する。 |
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22 |
1589年~1591年:黎明期―無からの創造
天正17年(1589年)の春、雪解けを待ったかのように、広島の地はにわかに活気づいた。1月19日に輝元が築城への強い意志を示した後 13 、3月18日には領国の家臣に対し、普請のための動員令が発せられた 14 。これは、壮大な計画が構想段階を終え、実行の段階へと移ったことを示す狼煙であった。そして4月15日、輝元自身の手による「御鍬初」が執り行われ、工事は公式に開始された 13 。
普請奉行には、輝元の信頼厚い重臣である二宮就辰と、輝元の叔父にあたる穂田(穂井田)元清が任命された 1 。彼らの指揮のもと、まず最優先で進められたのが堀の掘削であった 14 。この工事は、単に防御のための堀を造るだけではない。低湿地帯に城を築くため、堀を掘って出た膨大な量の土砂を使い、土地そのものをかさ上げして造成するという、文字通り「島を創る」作業、すなわち「島普請」であった 10 。
この難工事の実態は想像を絶するものであった。軟弱な地盤に巨大な石垣を築くため、「千本杭」と呼ばれる松の木杭を無数に地中深く打ち込み、地盤を固めた上で基礎を築くという、当時最新の土木技術が用いられたと伝わっている 22 。築城に必要な石材は仁保島や江波、黄金山といった広島湾岸部から、木材は遠く周防国などから、すべて船によって海上輸送された 1 。この普請は、毛利領全体の資源と労働力を動員する巨大な社会プロジェクトであり、その過程自体が、輝元を頂点とする新たな支配体制を強化する役割も果たした。
約2年にわたる懸命な工事の末、天正18年(1590年)末には、城の土台となる堀と城塁がおおむね完成した 22 。これを受け、天正19年(1591年)1月8日、輝元は普請がまだ続く広島城へ、吉田郡山城から正式に入城した 23 。これは、居住性や防御機能の完成を待たずして行われた政治的な決断であった。旧本拠地との決別を決定的なものとし、新時代への移行という後戻りのできない意志を、家臣団そして天下に示すための、強い政治的パフォーマンスだったのである。
1592年~1595年:発展期―城郭の骨格形成
輝元の入城後も工事は続けられ、城は次第にその骨格を現し始めた。文禄元年(1592年)4月、朝鮮出兵(文禄の役)の指揮を執るため九州の名護屋城へ向かう途上の豊臣秀吉が広島城に立ち寄り、城内を見物した 8 。この時、秀吉が「水攻めに弱い」と評した逸話は有名であるが、同時に、西国における一大拠点として広島城が着実に整備されていることをその目で確認したはずである。
多くの史料は、この秀吉の来訪と前後して、城の象徴である天守の作事が始まったと記している 25 。天下人である秀吉の視察が、その居城である大坂城を模した壮大な天守の建設を加速させる一因となった可能性は十分に考えられる。
そして翌年の文禄2年(1593年)には、城の防御の要である石垣が完成したと記録されている 22 。これにより、本丸、二の丸といった城郭の主要な区画が画定し、広島城はその防御の骨格をほぼ形成するに至った。ただし、この時期は文禄・慶長の役と重なっており、毛利氏が多大な軍役と兵站を負担していたことから、築城工事の労働力や資源が割かれ、全体の進捗に影響を与えた可能性も否定できない 29 。
1596年~1599年:完成期―壮麗なる威容の実現
石垣という骨格が完成した後、工事の主眼は天守をはじめとする諸建築物の建設へと移っていった。この時期には、五重の大天守と二基の小天守、藩主の住まいと政庁を兼ねる広大な本丸御殿、そして本丸を守る二の丸に配された平櫓、多聞櫓、太鼓櫓といった櫓群、さらには各所の城門などが次々と建設されていった 2 。
そして着工から約10年の歳月を経た慶長4年(1599年)、ついに全ての工事が完了し、壮麗な近世城郭・広島城はその全容を現した 22 。葦の茂る寒村であった太田川のデルタは、西国に比類なき巨大な城郭都市へと変貌を遂げたのである。
第四章:水上に浮かぶ巨城―広島城の構造解析
慶長4年(1599年)に完成した広島城は、安土桃山時代の築城技術の粋を集めた、壮大かつ巧妙な近世城郭であった。その構造は、豊臣秀吉の大坂城や聚楽第の影響を受けつつも、毛利氏独自の戦略思想を反映した数々の特徴を備えていた。広大な水堀によって守られたその姿は、まさに「水上に浮かぶ巨城」と呼ぶにふさわしいものであった。
表2:主要城郭比較(吉田郡山城・広島城・豊臣大坂城)
比較項目 |
吉田郡山城 |
広島城 |
豊臣大坂城 |
立地 |
山城(内陸丘陵地) |
平城(河口デルタ地帯) |
平山城(上町台地) |
築城年代 |
南北朝時代~ |
天正17年~慶長4年 (1589-1599) |
天正11年~ (1583-) |
主要防御施設 |
堀切、土塁、切岸、多数の曲輪 |
三重の水堀、高石垣、多数の櫓 |
広大な水堀、高石垣、巨大な虎口 |
天守の構造 |
なし(小規模な物見櫓のみ) |
五重五階、複連結式望楼型 |
五重七階(地下一階含む)、望楼型 |
天守の外観 |
- |
黒い下見板張 |
黒漆塗りの壁、金箔瓦 |
城下町の機能 |
小規模な根小屋町 |
計画的な大規模城下町(水運拠点) |
日本最大の城下町(経済・政治中心) |
政治・経済的性格 |
中世の軍事防衛拠点 |
近世の領国統治・経済中心 |
天下人の首都、全国支配の拠点 |
天守:他に類を見ない複連結式望楼型天守の威容
広島城の最大の特徴は、その天守の構成にあった。中央にそびえる五重五階の大天守を中心に、南と東にそれぞれ三層三階の小天守を配し、それらを渡櫓(わたりやぐら)で連結するという「複連結式」と呼ばれる、他に類を見ない極めて壮大かつ複雑な構造を誇っていた 14 。この構成は、城の威容を最大限に高めると同時に、防御上の死角を減らす機能も持っていた。
建築様式としては、初期の天守に多く見られる「望楼型」が採用された。これは、入母屋造の大きな屋根を持つ基部(広島城の場合は二層目まで)の上に、物見櫓(望楼)を載せたような形状であり、関ヶ原の合戦以降に主流となる、各階を規則的に積み上げた「層塔型」とは異なる、古式な特徴を持つ 21 。しかし、その内部構造は外観の屋根の数(五重)と内部の階数(五階)が一致しており、これは同時代の望楼型天守には珍しい先進的な特徴であった。構造的には望楼型でありながら、機能的には層塔型へと繋がる過渡的な要素を併せ持っていたのである 14 。
その外観は、豊臣大坂城を模したとされる黒い「下見板張」で覆われていた 21 。これは、風雨に弱い白漆喰の壁を板で保護するという実用的な目的と、黒漆塗りと同様の重厚な威厳を醸し出す意匠的な目的を両立させるものであった。この黒を基調とした威容は、毛利氏が豊臣政権の一翼を担う大名であることを強く印象付けた。
防御施設:広大な水堀と巧妙な縄張
広島城の防御思想は、高さではなく「広さ」、特に水の防御力を最大限に活用する点に特徴があった。城郭は内堀、中堀、外堀という三重の広大な水堀で囲まれ、さらにその外周を太田川の分流が天然の堀として囲むという、鉄壁の布陣であった 30 。
特に本丸と二の丸を囲む内堀の規模は圧巻で、その幅は広いところで約50間(約100メートル)にも達した 36 。これは、当時普及し始めていた鉄砲の有効射程(約30間、約60メートル)を大きく上回るものであり、堀の外から本丸へ直接的な攻撃を加えることを極めて困難にしていた 34 。石垣の高さを抑える一方で、堀の幅を最大限に広げることで防御力を確保するという設計思想は、低湿地という立地を逆手に取った合理的な選択であった。
本丸への侵入経路も巧妙に設計されていた。本丸の正面玄関である中御門を守るように、南側に独立した区画である「二の丸」が配置された。これは「馬出(うまだし)」と呼ばれる防御施設の一種で、城外へ出撃する際の拠点となると同時に、敵が本丸に到達する前に必ず攻略しなければならない前線基地でもあった 8 。この二の丸は、表御門、平櫓、多聞櫓、太鼓櫓といった堅固な櫓群で厳重に固められており、本丸の防御力を飛躍的に高めていた 36 。さらに、城内全体には約80基もの櫓が林立していたとされ、その数は国内最多クラスを誇り、あらゆる角度からの攻撃に備えていた 34 。
石垣:築城の痕跡を語る
広島城の石垣は、その築かれた時期や場所によって異なる工法が用いられており、築城の歴史を物語っている。天守台など、毛利氏による築城初期に築かれた石垣は、自然の石をあまり加工せずに巧みに積み上げる「野面積み」や、石の接合部をある程度加工して隙間を減らした「打込接(うちこみはぎ)」といった工法が見られる 38 。隅の部分は、長方形の石を交互に組み合わせて強度を高める「算木積(さんぎづみ)」という技法が用いられ、近世城郭としての技術的な高さを窺わせる 39 。
石材には広島湾岸の海岸にあった石が多く使われたため、表面にカキの貝殻が付着した石垣が今でも確認できる 38 。また、毛利氏時代の石垣には、普請を担当した大名を示す「刻印」が見られないことも特徴である。後に城主となった福島正則が改修した石垣には多くの刻印が残されており、この違いは石垣の築造年代を特定する上での重要な手がかりとなっている 31 。
第五章:城、町を創る―広島城下町の誕生
広島城の築城は、単に城という軍事・政治拠点を造る事業に留まらなかった。それは、城を中心に据えた計画的な都市創造プロジェクトであり、現代にまで繋がる大都市「広島」の原型をゼロから創り出すという壮大な試みであった。毛利輝元が進めた城下町の「町割り」は、防衛という軍事的な目的と、水運を軸とした経済的発展という目的を両立させる、極めて合理的な設計思想に基づいていた。
「芸州広嶋城町割之図」の分析:初期都市計画の全貌
毛利氏時代の広島城下の初期の姿を今に伝える貴重な史料が、「芸州広嶋城町割之図」である。この絵図は、築城が開始されて間もない天正17年から18年(1589年~1590年)頃の景観を描いたものと推定されている 41 。図中では、道筋、川や堀、町屋、寺社、侍屋敷などが系統的に色分けされており、城郭を中心に据えた計画的な初期都市計画の全貌を読み取ることができる 42 。この絵図は、毛利氏がどのような都市を目指したのか、その統治ビジョンを可視化したものと言える。
タテ町型城下町の構造と機能
広島の城下町は、城の大手門から南へ真っすぐに伸びる大手筋を基軸とし、太田川の分流の流れ(タテのライン)に沿って町を配置する「タテ町型城下町」として整備された 44 。この都市構造は、当時の物流の主役であった水運を最大限に活用するための、極めて合理的な設計であった。川沿いには船着き場である「雁木(がんぎ)」が数多く設けられ、物資の荷揚げや人の往来で賑わった 42 。特に、本川(旧太田川)と元安川に挟まれた中島本町(現在の平和記念公園内)は、西国街道が貫通し、水陸交通の結節点として、城下一の繁華街へと発展していった 44 。
武家屋敷、町人地、寺社の戦略的配置
城下町の空間配置は、身分制度と防衛思想に基づき、戦略的に行われた。城の中核部を囲む内堀と中堀の間の広大な区画(三の丸)には、毛利一門や譜代の重臣たちの屋敷が配置され、城の第一次防衛ラインを形成した 1 。これは、家臣団を城の周囲に集住させることで、有事の際の即応性を高めると同時に、彼らを直接的な支配下に置き、中央集権化を徹底するという政治的な目的も持っていた。
一方、商人や職人が住む町人地は、西国街道沿いや水運の便が良い場所に計画的に集められた。中には、革屋町、鍛冶屋町、材木町といったように、同業の職人たちが集住する町も形成され、城下町の経済活動の基盤を支えた 29 。また、寺社群は城下の外縁部や街道の入口などに配置され、有事の際には防衛拠点としても機能するよう意図されていた。このように、広島城下の空間配置は、単なる利便性の問題ではなく、軍事・経済・政治の各側面から領国を効率的に支配するための、計算され尽くした「統治の装置」であった。
吉田郡山からの人口移動と新都市の社会形成
新城下町の建設に伴い、旧本拠地である吉田郡山城下から、多くの家臣団とその家族、そして彼らの生活を支える御用商人たちが移住してきた 29 。江戸時代に編纂された『知新集』によれば、広島草創期の有力な町人の多くが、吉田郡山をはじめとする毛利領内からの移住者で占められていたことが記録されている 29 。
さらに、この新興都市は、新たな機会を求める人々を惹きつけた。戦乱の中で旧主を失った浪人たちが、武士としての道を諦め、新天地・広島で商人として身を立て、成功を収める例も少なくなかった 29 。こうして、旧来の家臣団と新興の商人たちが混じり合うことで、広島城下にはダイナミックな社会が形成されつつあった。それは、毛利氏が築いた新たな「首都」が、多くの人々にとって希望の地であったことの証左に他ならない。
終章:束の間の栄光と未来への遺産
毛利氏が10年の歳月と領国の総力を挙げて築き上げた広島城とその城下町。しかし、その栄光はあまりにも束の間のものであった。歴史の激流は、完成したばかりの新都に安息の時間を与えることなく、毛利氏を非情な運命へと導いていく。だが、この一大事業が残した遺産は、築城主の手を離れた後も、この地の歴史を形作り、現代の広島へと繋がる確かな礎となった。
完成直後の関ヶ原の戦いと毛利氏の退去
慶長4年(1599年)に広島城が落成した、そのわずか1年後の慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発した。西軍の総大将に担ぎ出された毛利輝元は、戦後の論功行賞において敗戦の責任を厳しく問われることとなる。その結果、毛利氏は安芸・備後をはじめとする中国地方の大半の領国を没収され、周防・長門の二国(現在の山口県)へ、112万石から約37万石へと大幅に減封された上での転封を命じられた 8 。
これにより、輝元が新時代の拠点として心血を注いで築いた広島城は、わずか1年余りでその手を離れることになった。この劇的な結末は、戦国時代の終焉期における権力闘争の非情さと、栄枯盛衰の激しさを象徴する出来事として、歴史に深く刻まれている。
戦国時代の終焉を象徴する近世城郭としての歴史的意義
広島城は、毛利氏にとっては悲劇の城となったが、歴史的には極めて重要な意義を持つ。それは、戦国乱世の終結期に、豊臣政権という巨大な中央権力の下で、地方の有力大名がどのような城を築き、どのような領国経営を目指したかを示す、第一級の歴史的遺産である。
その設計思想には、中央への恭順の意と、西国の覇者としての矜持、そして生き残りをかけた政治的配慮という、当時の複雑な力学が色濃く反映されている。壮大な天守や城下町の構造は、近世大名への脱皮を目指した毛利氏のビジョンを物語る一方、敢えて残された「水攻めへの脆弱性」は、天下人への深謀遠慮を内包していた。広島城は、単なる建築物ではなく、戦国時代の終焉という激動の時代を生きた人々の、高度な政治思想が結晶化した存在なのである。
現代都市・広島の礎として
毛利氏が去った後、広島城には福島正則、そして浅野長晟が入城し、明治維新に至るまで浅野氏42万石の居城として、この地の政治・経済・文化の中心であり続けた 2 。そして、毛利輝元が行った「島普請」と城下町の「町割り」は、太田川デルタ地帯における都市開発の原点として、その後の広島の発展の基礎を築いた。
川の流れに沿って整備された街路、水運のために設けられた雁木、そして城を中心に広がる市街地の骨格は、幾多の変遷を経ながらも現代の広島市中心部の街並みに受け継がれている 45 。原爆によって天守をはじめとする地上の建造物は一瞬にして失われたが、輝元が創造した都市の骨格そのものが消え去ることはなかった。広島城築城とは、まさにゼロから大都市を創造した事業であり、その遺産は形を変えながらも、今日の国際平和文化都市・広島の礎として、今なお生き続けているのである。
引用文献
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