岡本大八事件(1612)
慶長十七年、岡本大八事件。有馬晴信は旧領回復を望み大八に欺かれ、幕府のキリシタン弾圧の口実となる。晴信は信仰を貫き殉死、大八は火刑。禁教令拡大、島原の乱遠因。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
岡本大八事件(慶長十七年)の全貌:戦国武将の執念と徳川幕府の黎明、そしてキリシタン禁制への序曲
序章:天下泰平の黎明と南蛮の影
慶長年間、日本の歴史は大きな転換点を迎えていた。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、徳川家康はその掌中に天下をほぼ収め、駿府城を拠点とする大御所として、新たな時代の秩序を構築しつつあった。しかし、その天下泰平の黎明期は、決して静謐なものではなかった。国内には未だ豊臣家が存続し、戦国の気風を残す大名たちの野心は燻り続けていた。そして、海の向こうからは「南蛮」の船がもたらす富と、それに伴う未知の価値観、すなわちキリスト教が、日本の社会構造に静かだが確実な変化を及ぼしていた。
この時代、家康は当初、南蛮貿易がもたらす莫大な利益を重視し、キリスト教に対しては比較的寛容な姿勢を見せていた 1 。しかし、その根底には、貿易という実利を優先する一方で、幕府の支配体制を揺るがしかねない異質な思想への深い警戒心があった。慶長五年(1600年)のオランダ船リーフデ号の漂着以降、幕府はポルトガルやスペインだけでなく、オランダやイギリスとの新たな交易路を模索し始めており、ポルトガルの独占的な地位は相対的に低下しつつあった 2 。この国際情勢の変化は、後の家康の決断に大きな影響を与えることになる。
この複雑な時代を象徴する人物の一人が、肥前日野江四万石の領主、有馬晴信であった。洗礼名をドン・プロタジオという彼は、かつて天正遣欧少年使節をローマに派遣したことで知られる、日本を代表するキリシタン大名である 5 。彼の行動原理の根底には、一つの強烈な情念があった。それは、かつて宿敵・龍造寺氏との戦いで失った旧領、肥前の藤津・彼杵・杵島の三郡を取り戻したいという、執念とも呼ぶべき悲願であった 5 。この執念こそが、彼を時代の奔流へと飲み込ませ、悲劇的な結末へと導く原動力となる。晴信は朱印船貿易にも積極的に乗り出して富を蓄え、さらに息子・直純が家康の養女(徳川秀忠の養女、家康の曾孫にあたる国姫)を娶るなど、幕府との関係強化にも腐心していた 6 。
岡本大八事件は、単なる一介の幕臣による収賄・讒言事件として片付けることはできない。その深層には、自らの武功によって領地を切り拓くことを是とする戦国武将の価値観と、徳川幕府が築こうとしていた中央集権的な法秩序との間に生じた、深刻な軋轢が存在した。晴信は、後述するポルトガル船撃沈という「大手柄」を立てたことで、戦国時代的な論功行賞の発想に基づき、旧領回復という「恩賞」を強く期待した。岡本大八が囁いた甘言は、この戦国武将の渇望に完璧に合致したのである。しかし、幕府の秩序の下では、大名の領地は幕府からの「恩貸」であり、私的な働きかけや賄賂による変更は断じて許されない。晴信の行動は、結果として新たな時代の秩序への挑戦と見なされ、厳しく断罪されることになる。彼の悲劇は、時代の価値観の転換期に生きた、一人の戦国武将の末路を象徴していた。
本報告書では、この岡本大八事件の全貌を、その発端から結末、そして後世への影響に至るまで、可能な限り詳細な時系列に沿って解き明かしていく。まずは、物語の主要な登場人物を以下に示す。
人物名 |
洗礼名 |
立場・役職 |
事件における役割と動機 |
有馬晴信 |
ドン・プロタジオ |
肥前日野江藩主 |
旧領回復の執念から賄賂を渡し、事件の当事者となる 5 。 |
岡本大八 |
パウロ |
本多正純の与力 |
晴信の野心を利用し、偽の朱印状で巨額の金を詐取する 9 。 |
徳川家康 |
- |
大御所 |
事件をキリスト教弾圧の好機と捉え、政治的に利用する 3 。 |
本多正純 |
- |
家康の側近 |
家臣の不祥事に直面し、幕閣としての対応を迫られる 9 。 |
長谷川藤広 |
- |
長崎奉行 |
晴信と対立関係にあり、事件の遠因の一つとなる 12 。 |
アンドレ・ペソア |
- |
マカオ総司令 |
マカオでの騒擾事件の責任者。晴信の報復の対象となる 4 。 |
第一部:導火線 ― マードレ・デ・デウス号事件の勃発(慶長十四年~十五年)
岡本大八事件の直接的な引き金となったのは、海外で起きた一つの流血沙汰と、それに続く長崎港での壮絶な海戦であった。国際的な緊張が、いかにして一人の大名の運命を狂わせ、日本の外交・宗教政策を転換させるに至ったのか。その経緯を時系列で追う。
慶長十四年(1609年):マカオでの流血
慶長十四年(1609年)二月、有馬晴信が派遣した朱印船が、占城(チャンパ)へ向かう途上でポルトガル領マカオに寄港した。この時、朱印船の乗組員たちが、ポルトガルの大型商船「マードре・デ・デウス号」(別名ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号)の船員と取引を巡って諍いを起こし、これが大規模な騒擾事件へと発展した 13 。事態を収拾すべく出動したマカオ総司令アンドレ・ペソアは、武力による鎮圧を敢行。その結果、晴信側の水夫や家臣ら約六十名が殺害されるという悲劇的な事態を招いた 4 。
慶長十五年(1610年):長崎での対峙
翌慶長十五年(1610年)五月、当のマードレ・デ・デウス号が、アンドレ・ペソアをカピタン・モール(総司令官)として長崎に入港した。ペソアは、マカオでの事件の調書を長崎奉行であった長谷川藤広に提出し、駿府にいる大御所・徳川家康に直接弁明したいと申し出た 13 。しかし、ポルトガルとの南蛮貿易が縮小・停止することを危惧した藤広は、真相が家康に伝わることを恐れ、ペソアの申し出を事実上妨害してしまう 13 。
一方、家臣を殺された有馬晴信の怒りは収まらなかった。彼は藤広に唆される形で、家臣の仇討ちとしてペソアとマードレ・デ・デウス号の捕縛、拿捕を家康に請願した 12 。晴信はこの請願と同時に、もう一つの重要な願い出をしていた。それは、家康が当時強く所望していた最高級の香木「伽羅」を入手するための、新たな朱印船派遣の許可であった 4 。
この晴信の請願に対し、家康は極めて冷静かつ政治的な判断を下す。当時の幕府は、オランダやイギリスとの新たな交易関係を築きつつあり、ポルトガルの貿易上の地位は相対的に低下していた 2 。万が一ポルトガルとの交易が途絶しても、幕府にとってはもはや致命傷ではない。家康は、晴信の報復を許可することで、①日本の法を犯した者には厳罰を下すという姿勢を内外に示しポルトガルを牽制し、②晴信に「貸し」を作ることで、自身が望む伽羅の入手を確実にし、③来るべき新時代の国際秩序における主導権を握る、という複数の政治的計算を働かせていた。晴信の個人的な復讐心は、家康の冷徹な国際政治戦略の一環として巧みに利用されたのである。家康は晴信に報復の許可を与え、その監視役として、当時本多正純の配下となっていた岡本大八を長崎へ派遣した 4 。
慶長十五年十二月十二日(西暦1610年1月6日):長崎港の炎
家康の許可を得た晴信は、長崎奉行・長谷川藤広の支援も受け、兵船三十艘と千二百人以上の兵を動員 14 。長崎港外に停泊するマードレ・デ・デウス号を完全に包囲した。四日四晩にわたる壮絶な攻防戦が繰り広げられた。追い詰められたアンドレ・ペソアは、降伏して辱めを受けることを潔しとせず、船の火薬庫に自ら火を放った。轟音と共にマードレ・デ・デウス号は大爆発を起こし、ペソアは船と運命を共にした 12 。長崎の夜空を焦がしたこの炎は、有馬晴信に武人としての栄光をもたらすと同時に、彼の運命を暗転させる、破滅への導火線でもあった。
第二部:甘言と偽印 ― 岡本大八、野望に付け入る(慶長十六年)
マードレ・デ・デウス号撃沈という、前代未聞の「大手柄」を立てた有馬晴信。その武功は駿府の家康の耳にも届き、大いに賞賛された 6 。この賞賛は、晴信の胸中に一つの強烈な期待を抱かせた。長年の悲願であった旧領三郡の回復が、ついにこの恩賞によって実現するのではないか。この、戦国武将としての功名心と領地への執着が、彼の判断を致命的に曇らせることになる。
事件の監視役として長崎に派遣されていた岡本大八は、晴信のこの功名心と期待感を鋭く見抜いていた。大八は家康の側近中の側近である本多正純の与力(配下)という、幕政の中枢に近い立場にあり、晴信と同じキリシタン(洗礼名:パウロ)でもあった 9 。この共通の信仰は、二人の間に特殊な信頼関係を醸成した。
晴信が催した祝宴の席で、大八は巧妙な罠を仕掛けた。「此度の御武功、上様(家康公)もことのほかお喜びである。内々のお話だが、恩賞として、かねてよりの御念願であった旧領三郡をお与えになるお考えがある由。この件、拙者が上司である本多正純様にお取次ぎし、万事滞りなく進むようお計らい致そう」 7 。この言葉は、恩賞を待ちわびる晴信にとって、まさに天啓であった。
この詐欺が成功した背景には、単なる言葉の巧みさだけではない、より根深い構造があった。当時のキリシタン共同体は、時に迫害の危険に晒される中で、信徒同士の強い連帯感、いわば「信頼のインフラ」を形成していた。晴信(ドン・プロタジオ)にとって、幕府の中枢にいる大八(パウロ)は、単なる幕臣ではなく、「信仰を同じくする味方」であり、信頼に足る「兄弟(イルマン)」であった。大八は、この信仰がもたらす強固な信頼関係を、自らの私腹を肥やすための道具として悪用したのである。
この甘言を信じ込んだ晴信は、大八が要求する「運動資金」として、次々と金品を提供した。その額は最終的に六千両という、当時としては破格の巨額に上った 4 。しかし、いくら待っても恩賞の下知は下されない。焦る晴信が大八に催促すると、大八は最後の、そして最も大胆な一手を打つ。家康の朱印状(御朱印)そのものを偽造し、晴信に渡して信用させたのである 10 。幕府の最高権威の象徴である朱印状の偽造は、発覚すれば死罪を免れない大罪であった。晴信は、偽りの証文を手に、旧領回復の夢が叶う日を今か今かと待ち続けた。しかし、それは決して訪れることのない、破滅への序曲に過ぎなかった。
第三部:露見 ― 駿府城下の対決(慶長十六年~十七年初頭)
偽りの朱印状を手に待てど暮らせど、幕府からの正式な沙汰はない。慶長十六年(1611年)も終わりに近づく頃、有馬晴信の忍耐は限界に達した。彼の取った行動は、壮大な詐欺事件を白日の下に晒すと同時に、自らの首を絞める結果を招くことになる。そして、追い詰められた詐欺師の絶望的な反撃が、事件の様相を一変させた。
本多正純への直訴
痺れを切らした晴信は、ついに駿府に赴き、岡本大八の上司である本多正純に直接面会して事の真偽を問いただすという、最後の手段に打って出た 7 。正純の屋敷を訪れた晴信は、こう切り出した。「岡本大八殿の仲介にて、此度の恩賞として旧領三郡を拝領する儀、上様のお内意を得ていると伺っておりますが、その後の沙汰はいつ頃になりましょうか」。これを聞いた正純は驚愕した。彼にとって全く寝耳に水の話であり、その瞬間に全てが大八による虚偽、そして壮大な詐欺であったことが露見したのである。
大八の捕縛と「讒言」
事態を報告された徳川家康は激怒し、直ちに駿府町奉行の彦坂光正に徹底的な調査を命じた。岡本大八は捕縛され、厳しい詮議にかけられた 13 。拷問に耐えかねた大八は、ついに朱印状の偽造と六千両の詐取を白状した。しかし、彼はただ罪に服すだけの男ではなかった。自らが生き延びるため、あるいは破滅するならば道連れを、と画策した彼は、驚くべき「讒言」をもって反撃に出たのである 13 。
大八はこう告発した。「有馬晴信は、マードレ・デ・デウス号攻撃の際に何かと口出しをしてきた長崎奉行・長谷川藤広を深く恨んでおり、『今度は藤広の船を沈めてくれるわ』と口走るのを確かに聞きました。彼には、藤広を暗殺する計画があったのです」 9 。これは、晴信が藤広と不仲であった事実 12 に、致命的な嘘を織り交ぜた、悪魔的な告発であった。
この大八の讒言は、事件の本質を劇的に変質させた。当初の構図は、大八の「朱印状偽造・詐欺」と晴信の「贈賄」であり、主犯は大八、晴信は被害者としての側面も持つ、統治機構内部の汚職事件であった。このままでは、晴信の処分は改易(領地没収)に至るかどうか、まだ情状酌量の余地があったかもしれない。
しかし、「長崎奉行暗殺計画」という告発は、事件を全く異なる次元へと引き上げた。長崎奉行は幕府の直轄地の長官であり、彼への害意は、すなわち幕府そのものへの反逆と見なされる。事件は単なる汚職から、国家への反逆という大逆事件へと「変質」したのである。これにより、晴信は同情されるべき被害者から、幕府の秩序を破壊しようとする危険人物へと、その立場を完全に転落させられた。
そしてこの「変質」は、かねてよりキリシタン大名の存在と、その団結力を危険視していた家康の政治的意図と、奇しくも完全に合致した。家康は、最後のキリシタン大名とも言える晴信を、信仰とは直接関係のない「反逆罪」という非の打ちどころのない大義名分で、合法的に排除する絶好の口実を手に入れたのである。
運命の対決
慶長十七年(1612年)三月十八日、本多正純は晴信を大久保長安の屋敷に呼び出し、大八と直接対決させた 13 。この場で、藤広への害意について詰問された晴信は、元来の短気な性格も災いし、かっとなってこれを認めるかのような発言をしてしまったと伝えられている 13 。この一言が、彼の運命を決定づけた。
第四部:断罪 ― 安倍川の炎、甲斐の露(慶長十七年三月~五月)
駿府で下された裁きは、迅速かつ苛烈を極めた。一人の詐欺師の処刑と時を同じくして、日本の宗教政策を根底から覆す命令が発せられる。二人のキリシタンの対照的な最期と、それを合図に幕を開ける大弾圧の時代の始まりを、リアルタイムで追跡する。
慶長十七年三月二十一日:駿府の火刑と禁教令
慶長十七年(1612年)三月二十一日、岡本大八は、朱印状偽造という天下を欺いた大罪により、駿府の市中を引き回された上、安倍川の河原において火あぶりの刑に処せられた 10 。この処刑は、他の大名たちに対する見せしめであり、徳川幕府の権威に逆らう者は容赦しないという、家康の断固たる意志表示でもあった 16 。
そして、歴史が注目すべきは、まさにこの 同日 、家康が江戸、京都、駿府といった幕府直轄地に対し、教会の破壊と布教の禁止を命じる、事実上のキリスト教禁教令を発布したことである 11 。
この禁教令発布のタイミングは、家康の真意を雄弁に物語っている。国家の基本方針に関わる重要な法令が、一介の役人の判決が出たその日のうちに即時制定・発布されるというのは、通常の行政手続きでは考え難い。これは、禁教令の草案や発布の段取りが、判決が下される以前から周到に準備されていたことを強く示唆する。家康は、キリシタンの組織力と、それがスペインやポルトガルといった海外勢力と結びつく可能性を以前から深く警戒していた 2 。しかし、南蛮貿易の利益や国内のキリシタン勢力への配慮から、一気に弾圧へ踏み切るための大義名分を欠いていた。
そこへ、キリシタンである幕臣(大八)とキリシタン大名(晴信)が、幕府の権威を揺るがす重大事件を起こした。これは家康にとって、キリスト教が日本の秩序を乱す「邪教」であると断じ、弾圧を正当化するための、またとない政治的口実となったのである。つまり、「岡本大八事件が原因で禁教令が出された」という単純な因果関係ではなく、「家康が禁教令を出すという政治目的のために、岡本大八事件を最大限に利用した」と捉えるのが、この歴史的瞬間の深層を理解する上でより正確な解釈と言えるだろう。
慶長十七年三月二十二日:有馬晴信への判決
大八が処刑された翌日の三月二十二日、有馬晴信に対して判決が下された。罪状は「旧領回復の弄策と長崎奉行殺害企図」。肥前日野江四万石の所領は全て没収(改易)され、身柄は甲斐国郡内(現在の山梨県都留市周辺)へ配流と決まった 7 。息子の有馬直純は、家康の養女を妻としていた縁により連座を免れ、有馬家の家督相続を許された 7 。これは、家康の厳罰主義と、徳川家との縁故を重んじる温情主義が同居した、巧みな政治的裁定であった。
慶長十七年五月七日:晴信、信仰に殉ず
配流先の甲斐国で蟄居していた晴信のもとに、幕府からの追っての沙汰が届いた。それは、死罪を命じるという非情なものであった。武士の誉れある死に方として切腹を勧められたが、晴信はこれを毅然として拒否した。キリスト教の教義において、自害は神に対する大罪とされ、固く禁じられていたからである。
慶長十七年(1612年)五月七日、有馬晴信は最後までキリシタンとしての信仰を貫き、家臣に自身の首を打たせた。妻たちが見守る中、四十五年の波乱に満ちた生涯を閉じたのである 4 。旧領回復の執念に燃え、時代の波に翻弄された戦国武将は、最期は信仰に殉じる殉教者としてその命を終えた。
終章:キリシタン禁制と時代の奔流
駿府で起きた一つの汚職事件は、日本の歴史を大きく転換させる奔流の源となった。その影響は一過性のものではなく、長期にわたって日本の社会と宗教、そして国際関係に深い爪痕を残していく。事件がもたらした直接的・間接的な影響を、全国的なキリシタン弾圧の本格化、有馬氏のその後の運命、そして約二十五年後に列島を震撼させる未曾有の内乱「島原の乱」への伏線という、三つの側面から考察する。
全国へ拡大する禁教政策
慶長十七年三月二十一日の禁教令は、当初は幕府の直轄地を対象とした限定的なものであった 11 。しかし、これは始まりに過ぎなかった。これを皮切りに、幕府のキリシタン弾圧は段階的に、そして加速度的に強化されていく。
翌慶長十八年(1613年)、禁教令は全国へと拡大される。家康は、高名な臨済宗の僧であり「黒衣の宰相」の異名を持つ以心崇伝に命じて、禁教の理論的支柱となる文書を作成させた。こうして起草された「伴天連追放之文」は、二代将軍・徳川秀忠の名をもって全国に発布された 13 。この文書は、神道・儒教・仏教を日本の伝統的な統治理念の根幹と位置づけ、キリスト教をその秩序を破壊する邪教と断じた。これにより、キリシタン弾圧は幕府の正当な国策として位置づけられたのである。
この後、全国各地で教会の破壊が進められ、キリシタン大名として名高かった高山右近や内藤如安らはマニラへ国外追放となった 13 。日本は鎖国へと続く道を、この時から本格的に歩み始めたのである。
有馬家の転封と「負の遺産」
父の罪によって一度は家名断絶の危機に瀕した有馬直純は、家督を継ぐと、幕府への恭順の意を示すために棄教。そして、かつて父が庇護した領内のキリシタンに対し、苛烈な弾圧を行う側に回った 6 。しかし、父の旧臣や領民を弾圧することへの良心の呵責か、あるいは旧来の家臣団との深刻な軋轢があったのか、直純は自ら幕府に国替えを願い出る。この願いは聞き入れられ、慶長十九年(1614年)、有馬氏は日向国延岡(現在の宮崎県延岡市)へ五万三千石で転封となった 6 。
この転封の際に、歴史的に重要な事象が起きる。直純に従って日向へ移ることを拒み、武士の身分を捨てて農民となり、信仰を守るために島原半島に残ることを選んだ家臣が、少なからず存在したのである 6 。
島原の乱への遠因
岡本大八事件は、単にキリシタン大名を排除しただけではなかった。その後の有馬直純の転封を通じて、島原半島に「指導者である領主を失い、かつての主君に裏切られた、しかし信仰心は極めて篤く、元武士としての戦闘知識や組織論を身につけた人々」という、極めて特殊な社会集団を意図せず生み出す結果となった。
有馬氏が去った後の島原半島は、一時天領(幕府直轄地)となった後、新たに松倉重政が入封した 13 。松倉重政とその子・勝家の二代にわたる統治は、領民の生活が成り立たないほどの過酷な年貢の取り立てと、キリシタンに対する残虐を極めた弾圧で知られる 13 。領民の不満と絶望は、限界点に達していた。
そして寛永十四年(1637年)、ついにその不満が爆発する。島原の乱である。この反乱が、単なる農民一揆ではない、幕府軍を相手に長期間にわたって善戦するほどの組織的で大規模な宗教戦争へと発展した背景には、岡本大八事件が残した「負の遺産」があった。かつて有馬氏の家臣であり、信仰を選んで土地に残った人々が、この反乱において指導的な役割を担う中核戦力となったのである 23 。
このように、岡本大八事件は、島原半島からキリシタンの庇護者を奪い、権力の空白を生み出した。そして、その後の領主交代が、信仰心の篤い元武士階級という「殉教の土壌」を醸成した。二十五年後、松倉氏の圧政という直接的な原因がその土壌に火をつけた時、日本史上最大規模の一揆が燃え上がった。岡本大八事件から島原の乱へと至る歴史は、一つの事件が、意図せざる結果を伴いながら、次の時代の悲劇へと連鎖していく様を冷徹に示している。
岡本大八事件 関連年表
年月(和暦/西暦) |
出来事 |
概要 |
慶長十四年 (1609) |
マカオ騒擾事件 |
有馬晴信の朱印船員がマカオでポルトガル人と衝突、多数の死者を出す 13 。 |
慶長十五年十二月 (1610.1) |
マードレ・デ・デウス号事件 |
晴信が家康の許可を得て、長崎港でポルトガル船を撃沈する 14 。 |
慶長十六年 (1611) |
岡本大八の詐欺 |
晴信、旧領回復の斡旋話に乗せられ、大八に六千両を渡す。偽の朱印状を受け取る 13 。 |
慶長十七年二月 (1612.3) |
事件発覚 |
晴信が本多正純に直訴し、詐欺が発覚。大八が捕縛される 13 。 |
慶長十七年三月二十一日 (1612.4.21) |
断罪と禁教令 |
大八が火刑に処される。同日、幕府直轄地にキリスト教禁教令が発布される 10 。 |
慶長十七年五月七日 (1612.6.6) |
晴信の最期 |
配流先の甲斐国にて、切腹を拒み、家臣に首を打たせて死去する 6 。 |
慶長十八年 (1613) |
禁教令の全国拡大 |
「伴天連追放之文」が発布され、キリシタン弾圧が本格化する 13 。 |
慶長十九年 (1614) |
有馬氏の転封 |
有馬直純が日向延岡へ転封。旧領は松倉氏の支配下となる 13 。 |
寛永十四年 (1637) |
島原の乱 勃発 |
松倉氏の圧政とキリシタン弾圧を背景に、有馬の旧領で大規模な反乱が発生する 22 。 |
引用文献
- なぜ日本はキリスト教を厳しく禁じたんですか? - 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 https://kirishitan.jp/guides/689
- 徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 日本がスペイン植民地になった可能性もある https://toyokeizai.net/articles/-/355272?display=b
- 家康によるキリスト教政策 ① - 宗教新聞 https://religion-news.net/2025/02/27/820edo/
- キリスト教禁止令〜家康の禁教令をわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/1067/
- 岡本大八事件で切腹した有馬晴信の「執念」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/46053
- 「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第6話有馬氏の失脚、 キリシタン弾圧 https://christian-nagasaki.jp/stories/6.html
- 岡本大八事件。 | 島原城七万石武将隊 https://ameblo.jp/shimashichibushoutai/entry-12362138026.html
- 有馬直純(ありまなおずみ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E9%A6%AC%E7%9B%B4%E7%B4%94-14459
- 岡本大八事件(オカモトダイハチジケン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6-451376
- 岡本大八事件と有馬晴信 | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A8%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1/
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