真田昌幸配流(1600)
慶長五年、真田昌幸は関ヶ原で西軍に与し、徳川秀忠軍を上田城で翻弄。西軍敗北後、死罪を免れ紀伊九度山へ配流。昌幸は九度山で信繁に兵法を伝授し、真田家存続の礎を築く。
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真田昌幸の配流(慶長5年):天下分け目の渦中で下された智将の決断とその代償
真田昌幸配流に至る主要時系列表
年月日 |
真田昌幸・信繁の動向 |
真田信之の動向 |
徳川家康・秀忠の動向 |
関連事項 |
慶長5年 (1600) |
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7月21日頃 |
下野国犬伏にて、父子三人が密議。西軍への参加を決断(犬伏の別れ)。 |
父・弟と袂を分かち、東軍への参加を表明。徳川秀忠軍に合流。 |
徳川家康、会津征伐を中止し江戸へ帰還。西進を開始。 |
石田三成らが家康打倒の兵を挙げる。 |
8月下旬 |
信濃国上田城に帰還し、籠城の準備を整える。 |
秀忠軍の先鋒として上田城に迫る。父の降伏勧告の使者を務める。 |
徳川秀忠、3万8千の軍勢を率い中山道を進軍。 |
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9月2日-8日 |
降伏を偽装して時間を稼ぎ、徳川秀忠軍を挑発。第二次上田合戦でこれを翻弄し、足止めに成功する。 |
父の籠城の決意を受け、上田城攻めに参加。砥石城を攻める。 |
秀忠軍、上田城攻略に失敗し、多大な損害を被る。関ヶ原への進軍を再開するも、大幅に遅れる。 |
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9月15日 |
(上田城にて籠城中) |
(秀忠軍と共に中山道を進軍中) |
家康、美濃国関ヶ原にて西軍主力と激突。 |
関ヶ原の戦い。東軍が約半日で勝利を収める。 |
9月下旬 |
関ヶ原での西軍敗報を受け、上田城を開城し降伏。 |
父と弟の助命嘆願を開始。 |
家康、戦後処理を開始。秀忠は決戦に遅参し、家康の叱責を受ける。 |
石田三成らが捕縛・処刑される。 |
10月-12月 |
死罪を宣告されるも、信之と本多忠勝の嘆願により、紀伊国高野山への配流に減刑される。 |
舅・本多忠勝と共に決死の助命嘆願を行う。父の旧領・上田領を安堵される。 |
家康、信之らの嘆願を受け入れ、昌幸父子の助命を決定。 |
西軍諸大名への処分が下される。 |
12月13日 |
信繁、その妻子、および16名の家臣らと共に上田を出発。配流の途につく。 |
上田城主となる。父たちの配流生活への仕送りを開始する。 |
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慶長6年 (1601) |
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高野山での生活を経て、麓の九度山村に移り住む。蟄居生活が始まる。 |
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慶長6年-16年 |
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信之からの仕送りと真田紐の生産などで生計を立てる。信繁に兵法を伝授する。 |
藩主として領国経営に務めつつ、父と弟への経済的支援を続ける。 |
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慶長16年 (1611) |
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6月4日 |
病のため、九度山にて死去。享年65。 |
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序章:天下分け目の序曲 ― 対立の構造と真田家の立場
慶長3年(1598年)8月、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を終えると、日本は再び動乱の時代へと逆戻りする兆しを見せ始めた。秀吉が遺した幼い嫡男・秀頼を補佐するべく設置された五大老・五奉行の体制は、その均衡を急速に失っていく。中でも五大老筆頭の徳川家康は、秀吉の遺命を次々と破り、諸大名との私的な婚姻政策などを通じてその影響力を際限なく拡大させていった 1 。この動きは、豊臣政権の忠実な官僚として政権の維持を至上命題とする五奉行筆頭・石田三成との間に、決定的な亀裂を生じさせることになる 2 。
この対立は、しばしば豊臣家臣団内部の「武断派」と「文治派」の確執として語られることがある 3 。しかし、その構造は単純な派閥抗争に帰結するものではない。朝鮮出兵における作戦方針や恩賞を巡る対立、太閤検地などによる中央集権化への反発など、各大名が抱える利害と思惑は複雑に絡み合っていた 3 。家康は、三成に不満を抱く加藤清正や福島正則ら武断派の諸将を巧みに取り込み、自らの陣営を強化していく 4 。慶長4年(1599年)には、七将による石田三成襲撃事件が発生し、家康の仲裁によって三成が奉行職を辞して佐和山城に隠居するという形で、政権内部における家康の優位は揺るぎないものとなった 4 。
このような緊迫した情勢の中、信濃国上田を本拠とする真田昌幸は、極めて微妙な立場に置かれていた。昌幸はかつて、武田家滅亡後の混乱期(天正壬午の乱)において、徳川、北条、上杉といった強大な勢力の間を渡り歩き、その卓越した知略と交渉術で自家の独立を勝ち取った稀代の智将であった 7 。特に、徳川家康とは沼田領の領有を巡って激しく対立し、天正13年(1585年)の第一次上田合戦では、わずか2,000の兵で7,000を超える徳川の大軍を撃退するという輝かしい戦歴を持っていた 9 。
その後、豊臣秀吉の天下統一の過程で徳川との和睦を余儀なくされ、形式上は家康の与力大名という立場に組み込まれたものの、昌幸の心中に家康への完全な臣従の念はなかった 11 。むしろ、秀吉の権威によって自家の独立が保障されているという認識が強かったであろう。したがって、秀吉亡き後に家康が天下の実権を掌握していく様は、昌幸にとって自家の存立を脅かす最大の危機と映ったに違いない。家康の支配体制が確立されれば、再びその影響下に置かれ、独立大名としての地位が危うくなることは明白であった。昌幸が来るべき決戦において下す判断は、単なる家康への私怨や反骨心だけでなく、豊臣政権という既存秩序を維持することこそが真田家の独立を守る最善の策であるという、極めて冷徹な戦略的思考に基づいていたのである。
第一章:犬伏の別れ ― 家名存続を賭した究極の選択(慶長5年7月)
慶長5年(1600年)6月、徳川家康は、会津の上杉景勝に謀反の疑いありとして、諸大名を率いてその討伐へと向かった。真田昌幸もまた、長男・信之、次男・信繁(後の幸村)と共に徳川軍に従い、中山道を進んで下野国へと入った 13 。しかし7月下旬、一行が下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)に陣を張っていた夜、事態は急変する。石田三成から、家康の罪状を列挙し、その打倒のために挙兵を促す密書が届いたのである 8 。
この一通の書状は、真田家に究極の選択を迫るものであった。徳川方(東軍)にこのまま従うのか、あるいは石田方(西軍)に馳せ参じるのか。その夜、昌幸、信之、信繁の父子三人は陣幕の中で膝を突き合わせ、夜を徹して密議を交わした。世に言う「犬伏の別れ」である 13 。
この密議は、感情的な議論の場ではなかった。それは、戦国の世を生き抜いてきた真田家が、その家名を未来永劫存続させるために編み出した、非情にして合理的な生存戦略の策定会議であった 8 。父子三人の立場と縁戚関係は、奇しくも来るべき天下分け目の両陣営に跨っていた。
- 長男・信之 は、徳川四天王の一人である猛将・本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えていた。小松姫は家康の養女という立場でもあり、信之と徳川家との結びつきは極めて強固であった 8 。彼が東軍に与することは、徳川との関係を維持し、万が一西軍が敗れた場合の保険となる。
- 次男・信繁 は、西軍の有力武将であり、三成の盟友でもある大谷吉継の娘を妻としていた 11 。豊臣恩顧の大名として、父と共に西軍に参加する大義名分は十分にあった。
- 父・昌幸 は、前述の通り家康への根強い不信感を抱いていたことに加え、西軍の総大将である毛利輝元や副将の宇喜多秀家らの石高、そして豊臣政権という正統性を鑑み、西軍勝利の公算は決して低くないと判断した可能性が高い 11 。
議論の末、下された結論は「分裂」であった。信之は東軍へ、昌幸と信繁は西軍へ。父子兄弟が敵味方に分かれて戦うという、苦渋の決断が下されたのである 14 。これは、東軍が勝っても、西軍が勝っても、どちらに転んでも真田の血脈だけは確実に生き残るという、究極のリスク分散戦略であった 8 。
しかし、この決断の深層には、単なる「保険」という守りの発想だけではない、昌幸ならではの攻めの戦略が隠されていた。信之を東軍に送り込むことは、徳川方に対する一種の「楔」を打ち込む行為でもあった。昌幸と信繁が西軍の勝利に貢献すれば、戦後の真田家の発言力は絶大なものとなる。その際、東軍に属していた信之の存在は、敗者となった徳川方の旧臣や所領を穏便に処理するための貴重な交渉カードとなり得た。逆に、万が一東軍が勝利した場合には、信之が徳川への忠誠を示すことで、父と弟の助命嘆願を行うことができる。これは、実際に後に起こるシナリオそのものである 11 。つまり、「犬伏の別れ」は、守りのリスクヘッジであると同時に、戦後の新たな権力構造の中で真田家が有利な立場を確保するための、攻めの「オプション戦略」でもあった。昌幸の思考は、単なる一族の生き残りを越え、次なる時代の秩序形成までをも見据えていたのである。
第二章:第二次上田合戦 ― 老将、徳川本隊を翻弄す(慶長5年9月)
犬伏で父や弟と袂を分かった信之は徳川軍に残り、昌幸と信繁は居城である信濃上田城へと引き返した。家康は東海道を西上する本隊とは別に、嫡男・徳川秀忠に3万8千という大軍を預け、中山道を進軍させた 16 。この秀忠率いる徳川本隊の進路上に、昌幸と信繁がわずか数千の兵で籠る上田城が立ちはだかっていた 17 。
昌幸の狙いは、この圧倒的な兵力差を持つ秀忠軍を撃滅することではなかった。彼の目的はただ一つ、秀忠軍の足を上田に釘付けにし、美濃国関ヶ原で予定されるであろう東西両軍の主力決戦に間に合わせないこと、すなわち「時間稼ぎ」であった 17 。もし秀忠軍の到着が遅れれば、家康は主力の一部を欠いたまま西軍と戦わねばならず、西軍の勝機は飛躍的に高まる。昌幸は、局地戦の勝利ではなく、天下の趨勢を左右する大局的な勝利を目指していた。
慶長5年9月、上田に迫った秀忠は、まず信之を使者として送り、降伏を勧告した。昌幸はこれに対し、一度は降伏を申し出る素振りを見せる 17 。この偽りの降伏交渉によって、昌幸は城の守りを一層固めるための貴重な時間を稼ぎ出した。そして数日後、交渉の場で突如として態度を豹変させ、徹底抗戦の意思を表明する 17 。この老獪な挑発に秀忠は激怒し、上田城への総攻撃を命じた。昌幸は、血気にはやる若き総大将を、見事に自らの描いた筋書きの舞台へと引きずり込んだのである。
ここから、昌幸の神算鬼謀と称される籠城戦が展開される。
- 挑発と誘引 : まず、城兵に城下の田の稲を刈らせ、徳川方の兵をおびき寄せる(刈田戦法)。挑発に乗って突出してきた部隊を、城からの集中砲火で撃退する 17 。
- 伏兵と奇襲 : 昌幸と信繁自らが城外へ打って出て敵軍を引きつけ、城門近くまで誘い込むと、一斉に鉄砲を浴びせかける。同時に、城の側面に潜ませておいた伏兵が徳川軍の側面を突き、大混乱に陥れた 19 。
- 水計 : 追撃してきた徳川軍が城下を流れる神川を渡るのを見計らい、あらかじめ上流で堰き止めておいた水を一気に解放。増水した川に多くの兵が押し流され、溺死した 17 。
- 本陣急襲 : さらに、砥石城近くの虚空蔵山に配置していた別動隊が、秀忠の本陣に奇襲をかけた。これにより徳川軍の指揮系統は麻痺し、総崩れとなって小諸城までの撤退を余儀なくされた 17 。
昌幸の完璧な策略により、3万8千の徳川軍はわずか数千の真田軍に手玉に取られ、数日間にわたって上田に足止めされた挙句、多大な損害を出して撤退した 18 。秀忠がようやく上田城攻略を諦め、関ヶ原へと急いだ時には、既に9月15日の本戦は終わっていた 9 。昌幸の戦略目標は、完璧に達成されたのである。
しかし、この軍事的な大勝利は、皮肉にも真田昌幸にとって政治的に最悪の結果を招くことになる。彼は、徳川の次期将軍である秀忠の眼前でその大軍を完膚なきまでに打ち破り、天下分け目の決戦に遅参するという、武将として最大の屈辱を与えてしまった。この一件は、秀忠の心に生涯癒えることのない深い遺恨を刻みつけた。戦後、昌幸父子に下される処分の厳しさは、単に西軍に与したという罪状だけでなく、この秀忠個人への侮辱が大きく影響することになる。軍事的才能が輝けば輝くほど、その政治的命運は暗転していく。昌幸は、まさに「勝ちすぎた」のである 20 。
第三章:戦後処理と助命嘆願 ― 死罪から配流へ(慶長5年9月~12月)
上田城で昌幸が徳川秀忠軍を翻弄している頃、遠く美濃国関ヶ原では、天下の趨勢を決する戦いの火蓋が切られていた。昌幸は西軍の勝利を確信していたとされるが 17 、その期待は無惨に裏切られる。慶長5年9月15日、西軍の有力武将であった小早川秀秋の裏切りを皮切りに、西軍は雪崩を打って崩壊。天下分け目の決戦は、わずか半日で東軍の圧勝という形で幕を閉じた 21 。西軍を主導した石田三成や小西行長、安国寺恵瓊らは捕らえられ、京の六条河原で斬首された 23 。
上田城に届いた西軍敗北の報は、昌幸にとってまさに青天の霹靂であった。輝かしい戦勝も、大局の敗北の前には意味をなさなかった。昌幸・信繁父子は徳川方に降伏し、上田城を開城。敗軍の将として、勝者である家康の裁定を待つ身となった。
徳川方にとって、昌幸父子の罪は決して軽いものではなかった。西軍に与したこと自体もさることながら、何よりも徳川家の跡継ぎである秀忠の軍を散々に打ち破り、関ヶ原の本戦に遅参させた罪は万死に値すると考えられた 20 。徳川家臣団の間では、二度も徳川軍に煮え湯を飲ませた昌幸への憎悪が渦巻いており、父子ともに死罪は免れないというのが衆目の一致するところであった 25 。
この絶体絶命の状況で、父と弟を救うために立ち上がったのが、東軍に属して戦った長男・信之であった。信之は、自らの戦功に対する恩賞として与えられるはずであった父の旧領・上田領の拝領さえも辞退する覚悟を示し、家康に必死の助命嘆願を行った 20 。しかし、秀忠の屈辱を目の当たりにしていた家康や家臣たちの怒りは根深く、容易に首を縦に振らなかった。
事態を打開したのは、信之の舅であり、徳川四天王の筆頭に数えられる猛将・本多忠勝であった 25 。娘婿である信之の苦境を見かねた忠勝は、家康との談判の場に同席。理を尽くして説得してもなお家康が聞き入れないと見るや、佩刀の柄に手をかけ、「もしこの儀、お聞き入れくださらずんば、この忠勝、御辺と一戦仕る覚悟にござる!」と、主君である家康に対して一歩も引かぬ構えで迫ったと伝えられている 26 。生涯無傷を誇った徳川随一の功臣が、自らの命とこれまでの忠誠のすべてを賭して示した覚悟は、さすがの家康をも動かした。
家康が最終的に助命を受け入れた背景には、忠勝への配慮や信之への温情だけではなく、彼ならではの高度な政治的計算も働いていた。ここで昌幸を処刑すれば、忠義に厚い信之が徳川家に生涯遺恨を抱き続けることになりかねない。それでは、有能な真田家を真に心服させることはできない。むしろ、父と弟の命を救うという最大の「恩」を信之に売ることで、彼を生涯徳川家に尽くす忠臣とすることができる 20 。また、戦国一の智将と謳われた昌幸を殺さずに監視下に置くことで、その知謀が再び敵に利用されるリスクを管理しつつ、信之の忠誠心を確固たるものにできる。家康は、情に訴えかけられながらも、極めて冷徹な計算で真田家を完全に掌握する道を選んだのである。
かくして、昌幸・信繁父子の処分は、死罪から一等を減じられ、所領を全て没収の上、紀伊国高野山への配流と決まった 28 。これは、西軍の総大将格であった宇喜多秀家が八丈島へ流罪となったのに次ぐ、極めて重い追放処分であった 29 。智将・真田昌幸の、大名としての人生は、ここに終わりを告げた。
第四章:紀州九度山へ ― 故郷を去る日(慶長5年12月)
処分が決定すると、昌幸は長年本拠としてきた上田城を、新たな城主となった長男・信之に明け渡した。犬伏での別れからわずか数ヶ月、父と子は勝者と敗者として再会し、今度は生きて再び会えるかも分からぬ、最後の別れを交わした。
慶長5年(1600年)12月13日、真田昌幸と信繁は、徳川方の監視のもと、配流の地である高野山へ向けて上田を発った 30 。この過酷な旅路には、信繁の妻(大谷吉継の娘)とその子らが同行した。一方で、昌幸の正室である寒松院は上田に留まったとされる 30 。
真田家の家臣団の多くは、新たな当主となった信之に従い、真田家を支えるために上田に残った。しかし、主君の苦難に付き従うことを選び、故郷を捨てる覚悟を決めた者たちもいた。その数は16名であったと伝えられている 31 。その中には、高梨内記、青柳清庵(千弥)、三井豊前といった、後に大坂の陣で信繁と共に最後まで戦うことになる忠臣たちの名も含まれていた 29 。彼らは、先の見えない蟄居生活において、昌幸・信繁一家の生活を支え、主君の傍らで再起の時を待つことになる。
一行が最初に送られたのは、霊峰・高野山であった。しかし、高野山は真言密教の聖地であり、当時は女人禁制の掟が厳格に守られていた。そのため、妻子を伴う信繁らにとって高野山での生活は困難であった。また、冬の寒さも信州育ちの一行にとってさえ厳しいものであったという 32 。こうした事情から、ほどなくして一行は高野山の麓にある九度山村へ移り住むことを許された 33 。
九度山は、高野山への参詣者が身を清めるための宿場町であり、高野山への玄関口として栄えていた。この地が、昌幸にとっては終焉の地、そして信繁にとっては雌伏の時を過ごす舞台となる。ここから、父子にとって10年以上にわたる長く厳しい蟄居生活が始まったのである。
第五章:蟄居の日々 ― 九度山における昌幸の晩年と最期(慶長6年~16年)
紀州九度山での生活は、かつて一国の大名であった昌幸にとって、屈辱と困窮に満ちたものであった。所領を全て没収された一家の経済基盤は、上田藩主となった長男・信之からの仕送りに大きく依存していた 34 。信之は父と弟の苦境を思い、定期的に金銭や物資を送ったが、それでも監視下にある配流の身、生活は常に厳しかった。昌幸が信之に宛てた手紙には、借金の返済に窮している様子や、病に苦しむ自身の窮状を察してほしいと訴える切実な言葉が残されている 35 。
この困窮を補うため、昌幸や信繁、そして家臣たちは内職に励んだ。『名将言行録』によれば、昌幸自らが大小の刀の柄に木綿の打ち紐を巻いて生活の糧にしていたと伝えられている 36 。また、一家は「真田紐」と呼ばれる、丈夫で美しい平紐を織り、これを家臣に行商させて生計の足しにした 37 。
しかし、この真田紐の行商は、単なる資金稼ぎ以上の意味を持っていた。それは、蟄居の身でありながら天下の情勢を探るための、昌幸ならではの情報収集活動でもあった。諸国を売り歩く家臣たちを通じて、大坂の豊臣家の動向や、各地の大名の動き、そして徳川幕府の施策といった情報を集めていたとされている 37 。肉体は紀州の片田舎に繋がれていても、稀代の智将の思考は、常に天下の動きと共にあった。
そして昌幸は、残された時間の全てを、自らの最高傑作を完成させるために注ぎ込んだ。その最高傑作とは、息子・真田信繁である。昌幸は、いずれ必ずや徳川と豊臣の最終決戦が起こることを予見し、自分が生涯をかけて培ってきた兵法、戦術、調略の全てを、信繁に叩き込んだ 38 。信繁もまた、父の薫陶を余すところなく吸収し、監視の目を盗んでは武術や馬術の鍛錬を怠らなかったという 38 。外部から隔絶された九度山での10年余りの歳月は、信繁にとって、父という最高の師から直接軍学の奥義を授けられる、濃厚な教育期間となった。家康が昌幸を無力化するために下した「配流」という処分が、皮肉にも、後に家康自身を最も追い詰めることになる不世出の将星を育て上げるための、最高の環境を提供したのである。
しかし、昌幸自身が再び采配を振るう日は、ついに訪れなかった。長年の心労と不自由な生活は、老将の心身を確実に蝕んでいた。信之への手紙には、気力・体力の衰えを嘆き、故郷の信之に一目会いたいと願う、弱々しい一面も垣間見える 35 。慶長16年(1611年)6月4日、真田昌幸は天下の再乱を見ることなく、九度山の屋敷でその65年の生涯を閉じた 35 。亡骸は火葬され、その屋敷跡に墓所が築かれた。この場所は後に真田庵(善名称院)となり、今なお昌幸の魂を祀っている 32 。
終章:遺されたもの ― 配流が歴史に刻んだもの
真田昌幸の配流は、一人の稀代の智将の政治的キャリアの終焉を意味した。しかし、彼の死は物語の終わりではなかった。むしろそれは、真田家の名を日本の歴史に不滅のものとして刻み込む、新たな伝説の序章であった。
昌幸の死から3年後の慶長19年(1614年)、豊臣秀頼からの招きに応じ、信繁は蟄居の地であった九度山を脱出。父から受け継いだ家臣たちと共に大坂城へ入城する 41 。彼は、九度山で父から授けられた知謀の全てを解き放った。冬の陣では、大坂城南方に「真田丸」と呼ばれる出城を築き、徳川の大軍を散々に翻弄 41 。翌年の夏の陣では、赤備えの決死隊を率いて徳川家康の本陣に三度にわたる猛突撃を敢行し、家康をあと一歩のところまで追い詰めた 42 。その鬼神の如き戦いぶりは、敵である徳川方からも「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と最大級の賛辞を送られ、「真田幸村」の名は武士の鑑として後世まで語り継がれる伝説となった 42 。昌幸の悲劇的な配流生活は、結果として、彼の最高傑作である「真田信繁」を完成させるための、最後の、そして最大の仕掛けとなったのである。
一方、東軍につき、徳川の家臣として生きる道を選んだ長男・信之は、もう一つの形で父の願いを成就させた。彼は、大坂の陣で弟・信繁が華々しく活躍したことで、幕府から絶えず警戒と猜疑の目に晒されながらも、巧みな政治手腕と忍耐をもって徳川への忠勤に励み続けた 45 。その苦労が実り、最終的には信濃松代藩の初代藩主として、真田家を近世大名として存続させることに成功した 47 。彼の生涯にわたる苦悩と忍耐が、「犬伏の別れ」で昌幸が最も希求した「家名存続」という目的を、見事に実現させたのである。
結論として、真田昌幸の配流という事変は、彼個人の物語の悲劇的な結末であった。しかし、それは同時に、息子たちに異なる形でその遺志を託すための、壮大なバトンパスでもあった。九度山での苦難の10年間は、次男・信繁を歴史に名を残す不滅の英雄へと昇華させ、長男・信之には家を守り抜くという重責を全うさせた。昌幸が下した決断、繰り広げた戦い、そして耐え忍んだ配流という悲劇の全てが、結果として真田家の名を日本の歴史に最も鮮烈な形で刻み込む礎となった。それは、一族の存続という目的が、当事者の想像を遥かに超える形で達成された、戦国乱世の終焉を象徴する出来事であったと言えるだろう。
引用文献
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- 関ヶ原の戦いと浮世絵/ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/ukiyoe-basic/sekigahara-ukiyoe/
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- 関ヶ原の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7045/
- 関ヶ原の戦い① 関ヶ原の戦いはなぜ起こったのか - 城びと https://shirobito.jp/article/501
- 真田昌幸 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E6%98%8C%E5%B9%B8
- 真田昌幸の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/36824/
- 上田合戦とは/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16980_tour_061/
- 真田昌幸はどこまで計算づく?~“最強の智将”説と実際の戦略~ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=_O84QYYUl7w
- 真田父子の生涯における最大の見せ場となった「犬伏の別れ(1600 ... https://sengoku-his.com/464
- 真田昌幸が「表裏比興者」として秀吉に成敗されそうになったウラ事情とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/459
- 犬伏の別れと真田信之、小松殿の決断 - PHPオンライン https://shuchi.php.co.jp/article/3250
- 【真田信之】真田信繁の兄・信之は地味だけど功労者!ー逸話とゆかりの城で知る! 戦国武将 https://shirobito.jp/article/1747
- 戦国時代の最後をしめくくった真田幸村。 - 江戸散策 | クリナップ https://cleanup.jp/life/edo/101.shtml
- (わかりやすい)関ヶ原の戦い https://kamurai.itspy.com/nobunaga/sekigahara.htm
- 「第二次上田城の戦い(1600年)」2度目の撃退!真田昌幸、因縁 ... https://sengoku-his.com/465
- 上田合戦での真田の戦法 - 小諸市 https://www.city.komoro.lg.jp/material/files/group/3/_Part5_19508154.pdf
- 《第5回 第二次上田合戦》真田軍が徳川の大軍を翻弄 その悲しい結末とは - LIVING和歌山 https://www.living-web.net/%E3%80%8A%E7%AC%AC5%E5%9B%9E-%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%90%88%E6%88%A6%E3%80%8B%E7%9C%9F%E7%94%B0%E8%BB%8D%E3%81%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E3%81%AE%E5%A4%A7%E8%BB%8D%E3%82%92%E7%BF%BB/
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- 真田信之 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E4%B9%8B