最終更新日 2025-09-21

福島正則城郭普請停止(1619前史)(1609)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

慶長十四年 広島城普請停止事変 ― 福島正則改易への序曲 ―

序章:画された境界線

本報告書は、慶長14年(1609年)に発生した「福島正則による広島城普請停止事変」を、単なる建築問題を巡る地方の出来事としてではなく、徳川幕府による全国支配体制確立の過程で起きた象徴的な政治事件として捉え、その10年後の元和5年(1619年)における福島正則改易に至る、不可逆的な流れの起点を詳細に分析するものである。

関ヶ原の戦いにおける最大の功労者の一人であり、豊臣恩顧大名の筆頭格として安芸・備後49万8千石を領した福島正則 1 。彼はなぜ、絶頂期にあったはずのこの時期に、大御所・徳川家康の不興を買うに至ったのか。そして、この事変は一度「赦免」という形で決着したにもかかわらず、なぜ彼の運命を決定づける暗い伏線となったのか。この問いを解明するためには、事変の表面的な経緯を追うだけでは不十分である。当時の政治力学、正則という武将の気質、そして「城郭普請」という行為が持つ時代の意味を深く掘り下げ、点と点を結びつけていく必要がある。本報告は、この1609年の事件を多角的に分析することで、戦国の価値観が新たな時代の秩序によって塗り替えられていく、その境界線上に起きた悲劇の真相に迫るものである。

第一部:盤上の駒 ― 事変に至る背景

猛将・福島正則の栄光と隘路

福島正則という武将を理解することは、本件の背景を知る上で不可欠である。彼は永禄4年(1561年)、尾張国の桶屋の子として生まれ、母が豊臣秀吉の叔母であった縁から、幼少より秀吉に仕えたと伝えられる 2 。その名を天下に轟かせたのは、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いである。この戦いで加藤清正らと共に「賤ヶ岳の七本槍」と称賛されたが、中でも正則の功は「一番槍・一番頸」として別格の扱いを受け、彼の武勇を象徴する出来事となった 3 。その後、伊予今治11万石、尾張清洲24万石と着実に加増を重ね、秀吉子飼いの猛将として豊臣政権の中核を担う存在となった 3

しかし、秀吉の死は彼の運命を大きく変える。かねてより対立していた石田三成が豊臣家を壟断することを恐れた正則は、徳川家康に接近 5 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧の大名でありながら東軍の先鋒として奮戦し、その勝利に決定的な貢献を果たした 1 。この功績により、彼は西国の要衝である安芸・備後49万8千石の大領を与えられ、大大名としての地位を確立する 6

だが、彼の行動原理は、あくまで「豊臣家を私物化しようとする三成を討つ」というものであり、心底から徳川家に忠誠を誓ったわけではなかった 2 。それゆえ、慶長8年(1603年)に家康が征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開いた際には、大きな衝撃を受けたとされる 6 。彼の認識では、家康は豊臣秀頼が成人するまでの後見役であり、天下はあくまで豊臣家のものであった。この「戦国的価値観」と、家康が構築しようとする新たな「徳川の秩序」との間には、当初から埋めがたい認識の齟齬が存在していた。正則の武人としての実直さと自負心は、徳川の治世においては、政治的感覚の欠如という致命的な隘路となったのである。

天下普請の時代と城郭の政治性

江戸幕府が開かれて間もない慶長年間は、徳川による支配体制を盤石にするための重要な過渡期であった。最大の課題は、依然として強大な力を持つ豊臣恩顧の外様大名をいかに統制下に置くかという点にあった 8 。この目的のために、家康は「天下普請」という巧妙な政策を多用した。これは、江戸城や名古屋城、丹波篠山城などの築城や改修を諸大名に命じるもので、膨大な費用と労役を負担させることで大名の財力を削ぎ、その力を削ぐことを目的としていた 10

このような時代背景において、「城郭普請」という行為は、単なる建築・土木工事以上の極めて政治的な意味合いを帯びるようになっていた。城は軍事拠点であると同時に、大名の権威と経済力を示す象徴でもあった。そのため、幕府の許可なく居城を増改築することは、潜在的な軍事力の増強と見なされ、徳川の権威に対する挑戦と受け取られかねない危険な行為であった。

元和元年(1615年)に大坂の陣の直後、徳川秀忠の名で発布された武家諸法度(元和令)は、こうした流れを初めて成文法として明文化したものである。その中には、「新規ノ城郭構営ハ堅クコレヲ禁止ス(新たな城の築城は固く禁じる)」、「居城ノ隍塁・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ(居城の堀や石垣などが破損した際は、奉行所に届け出て指示を受けること)」という条文が明確に記された 12

しかし、本件が発生した慶長14年(1609年)は、この武家諸法度制定の6年も前である。つまり、城郭普請を直接規制する明確な法律はまだ存在しなかった。それゆえに、この時期の普請問題は「法」による裁きではなく、天下人たる家康の意向という、極めて属人的かつ政治的な判断によって左右された。家康の不興は、成文化されていない「暗黙のルール」を正則が破ったと見なされたことに起因するのである。

西国の鎮守・広島城

関ヶ原の戦いの結果、西軍の総大将であった毛利輝元は周防・長門の二国に減封され、その旧領である安芸・備後を与えられたのが福島正則であった 3 。広島城は、毛利氏が築いた壮麗な近世城郭であり、正則の入封は、西国に睨みを利かせる、特に強大な潜在的脅威である毛利氏を封じ込めるという、幕府の明確な戦略的意図に基づいていた 1

この重責を担った正則は、慶長6年(1601年)に広島へ入城すると、直ちに精力的な領国経営と城郭の強化に着手する。彼の統治は、戦国武将としての合理性と実務能力に満ちていた。嫡子を三原城に、一族や重臣を三次、東城、神辺などの支城に配置して防備を固め、領内では厳しい刀狩りを実施した 1

同時に、広島城そのものにも大規模な普請を行った。『福島太夫殿御事』によれば、入封翌年の慶長6年正月から家臣総出で普請を開始し、石垣構築のために近江から専門技術者集団である「穴太衆(あのうしゅう)」を招聘したと伝えられる 15 。その普請は多岐にわたり、城の外郭部分を整備し 3 、特に西の大名(毛利氏)からの攻撃を想定して西側の防御を重点的に増強した 13 。また、太田川デルタに位置する広島は洪水が多発するため、城の外周を流れる川の堤防を対岸より高くする治水工事も行っている 3

これらの普請は、慶長14年(1609年)に至るまで、断続的ではなく継続的に行われていたことが史料からうかがえる 1 。正則の視点に立てば、これらは西国の抑えという任務を遂行し、領地と領民を守るための合理的かつ必要な措置であった。しかし、8年以上にわたる継続的な軍事拠点の強化は、中央の徳川幕府や、監視対象である隣国の毛利氏の目には、過剰な軍備増強、ひいては不穏な動きと映る危険性を常に孕んでいた。この継続的な普請活動こそが、後に「新城普請」という致命的な噂を生む土壌となったのである。

年代(慶長)

主要な普請・関連事項

典拠

慶長6年(1601)

広島入封。正月より家臣総出で普請を開始。近江より穴太衆を招聘。

15

時期不明(~14年)

城の東北部を中心に大々的な普請を実施。外郭部分を整備。

1

時期不明(~14年)

洪水対策のため、城外周の川沿い堤防を高くする。

3

慶長13年(1608)

幕府の公役として、他の西国大名と共に丹波篠山城の築城に参加。

11

慶長14年(1609)

支城の普請が「新城普請」の噂となり、家康の不興を買う。

15

第二部:刻一刻 ― 普請停止事変の真相(時系列分析)

発端:駿府に届いた「新城普請」の報

慶長14年(1609年)、駿府に隠居していた大御所・徳川家康の元に、穏やかならぬ報せが届いた。安芸広島の福島正則が、大規模な城普請を行っているというのである。この情報の詳細は、正則自身が後に薩摩の島津家久に宛てた書状から明らかになる。それによれば、問題とされたのは広島城本城の普請ではなく、「輝元代より之端城共」、すなわち毛利輝元の時代から存在した支城群の修築であった 15

しかし、この事実が駿府に伝わる過程で、「新城普請の噂」へと誇張されてしまった。情報が正式な報告ではなく「噂」として伝播したという点は極めて重要である。これは、情報の伝達経路に、正則に対して必ずしも好意的でない勢力が介在した可能性を示唆している。かつての領主であり、正則によって故地を追われた毛利氏のような存在が、正則の力を削ぐために意図的に情報を操作し、幕府に注進した可能性は十分に考えられる。物理的な距離がもたらす情報の非対称性の中で、正則は自らの意図とは全く異なる形で、中央の権力者に疑惑の目を向けられることになったのである。

激震:大御所・家康の不興

「新城普請」の報に接した家康は、強い不興の念を示した。彼の怒りの核心は、個別の城の修築の是非にあるのではない。徳川の許可なく、西国の要衝で軍事拠点の強化を図るという行為そのものが、天下の秩序に対する挑戦であると受け止めたからである。特に相手は、豊臣恩顧大名の筆頭格であり、その動向が他の外様大名に与える影響も大きい福島正則である。

家康にとって、この一件は正則個人の問題を越え、徳川の支配体制を確立するための絶好の機会であった。ここで正則を厳しく咎め、屈服させることで、全国の、特に豊臣家に恩義を感じる大名たちに対し、誰が真の天下人であるかを改めて知らしめることができる。それは、法度という明文化されたルールに依らず、家康個人の絶大な権威によって秩序を維持するという、当時の統治スタイルを象徴するものであった。家康の不興は、計算された政治的パフォーマンスの幕開けを告げる号砲だったのである。

収拾:破却と謝罪

家康の不興という報は、直ちに広島の正則にもたらされた。事態の深刻さを瞬時に悟った正則の対応は迅速であった。『広島県史』所収の年表によれば、慶長14年7月29日、正則は「広島城修築のことで家康の不興を買ったのを憚り破却する」と記録されている 11 。彼は一切の弁明や抵抗を試みることなく、即座に問題とされた普請箇所を自らの手で破壊し、恭順の意を示したのである。

この時の正則の心境は、前述の島津家久への書状に詳しい。彼はその中で、支城の普請が新城普請の噂として家康の耳に入り不興を買ったため、問題の箇所を破却して謝罪した旨を説明している 15 。この書状からは、弁明の機会もなく一方的に断罪され、絶対的な権力者の前でただ頭を下げるしかなかった彼の無念さが滲み出ている。関ヶ原の戦場で共に戦い、東軍勝利の立役者となったはずの自分が、今や些細な(と彼自身は考えていただろう)普請を理由に謀反の嫌疑をかけられている。この時点で彼は、自らの立場が完全に徳川の掌中にあることを、骨身に染みて理解したに違いない。

幕引き:「如前々普請可仕旨」の真意

正則の迅速な謝罪と普請箇所の破却という完全な服従の姿勢に対し、家康は満足の意を示した。そして、正則を赦免するとともに、「如前々普請可仕旨(以前の通り、普請を行ってよい)」との許可を与えた 15

一見すると、これは家康の寛大さを示す処置のように思える。しかし、その裏には極めて高度な政治的計算が隠されていた。この一連のプロセスを通じて、家康はいくつかの目的を同時に達成している。第一に、絶対的な権威を見せつけ、正則を完全に屈服させた。第二に、その上で「赦免」という形で恩を売り、徳川家と福島家の主従関係を再確認させた。そして最も重要な第三の点は、正則に「幕府の意に沿わぬ普請を行えば、いかなる功労者であろうと断罪される」という事実を学習させ、政治的な「前科」を刻み込んだことである。

この「如前々」の許可は、もはや無条件の信頼に基づくものではなく、「監視下における許可」であった。家康は正則を許すことで、彼を泳がせつつ、いつでも取り潰すことのできる口実を手に入れた。1609年の事変は、こうして一応の決着を見た。しかし、両者の間に刻まれた不信の溝は、もはや埋めようのないほど深く、この一件こそが10年後の悲劇へと繋がる、運命の分岐点となったのである。

第三部:十年後の残響 ― 1619年改易への道程

法度の完成:武家諸法度と城郭規制の明文化

1609年の事変から1619年の改易までの10年間は、徳川幕府の支配体制が大きく変質し、確立された時代であった。その最大の画期が、元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した直後に発布された武家諸法度である。

これにより、1609年時点では家康の個人的な意向という曖昧な基準に過ぎなかった城郭普請の規制が、幕府の最高法規として明確に成文化された 12 。違反者への処罰は、もはや「大御所の不興を買う」といった政治的な問題ではなく、「国法への違反」という法的な罪へとその性質を変化させた。これは、大名統制が属人的な支配から、法治によるシステム的な支配へと移行したことを意味する。この法の存在が、10年後の正則の運命を決定的に左右することになる。

世代交代と政治環境の変化

この10年間には、幕府中枢における権力者の交代もあった。元和2年(1616年)、圧倒的なカリスマで幕府を牽引してきた徳川家康が死去。これにより、二代将軍・徳川秀忠が名実ともに最高権力者となった。秀忠の統治スタイルは、父・家康の老獪な政治術とは異なり、法と秩序を重んじる、より厳格で官僚的なものであった。特に、豊臣恩顧の大名に対しては容赦がなく、些細な瑕疵を捉えては改易・減封を断行し、幕府の権威を確立しようとした 9

さらに、大坂の陣による豊臣家の滅亡は、政治環境を根底から変えた。もはや幕府は、豊臣恩顧の大名たちに配慮する必要がなくなった。むしろ、彼らは潜在的な不安定要因と見なされ、体制安定のために積極的に排除すべき対象となっていった 8 。正則を取り巻く環境は、この10年で著しく厳しさを増していたのである。

再現された悲劇:元和三年の大洪水と無断修築

このような状況下で、悲劇は再び繰り返される。元和3年(1617年)、広島を大洪水が襲い、広島城の石垣や櫓などが大きく破損した 18 。領主として城の修復は急務であった。

元和4年(1618年)、江戸に参勤していた正則は、幕府に城の修復許可を願い出た。しかし、その許可は2ヶ月もの間、意図的にか放置された 21 。城の破損を放置できず、また幕閣の本多正純から口頭での内諾を得たとも言われるが 21 、痺れを切らした正則は、正式な許可を待たずに国元の家臣に修築を命じてしまう 1 。これが、武家諸法度違反として幕府に咎められることになる。

ここでの正則の対応は、10年前とは明らかに異なっていた。幕府は、修築した箇所の完全な破却を命じたが、正則は「本丸以外の修築部分を破却せよ」との命令に対し、本丸の石垣や櫓のみを破却し、二の丸や三の丸には手をつけなかったとされる 1 。この命令不履行が、彼の運命に最後のとどめを刺した。

なぜ今回は赦されなかったのか。その理由は、10年前との比較によって明白となる。第一に、絶対的な法的根拠である武家諸法度が存在したこと。第二に、最高権力者が寛容さを見せる必要のない厳格な秀忠であったこと。第三に、正則自身の対応が、命令を完全に履行せず不十分であったこと。そして第四に、決定的な要因として、1609年の「前科」があったことである。幕府から見れば、正則は「かつて家康公から一度御指導を受け、赦されたにもかかわらず、再び同じ過ちを犯した、反省の色なき不届き者」と映った。これら全ての要因が複合的に絡み合い、もはや弁解の余地はなく、安芸・備後49万8千石没収という、改易の極刑が下されたのである。

比較項目

慶長14年(1609年)事変

元和5年(1619年)事変

発生年

1609年

1619年

幕府側の最高権力者

徳川家康(大御所)

徳川秀忠(将軍)

法的根拠

なし(家康の個人的権威)

武家諸法度(元和令)

事変のきっかけ

支城の普請

洪水の被害による本城の修築

正則の対応

迅速な謝罪と完全な服従

許可願いの遅延に業を煮やし着工

幕府の初期命令

普請箇所の破却

修築箇所の破却

正則の命令履行度

完全履行(指示通りに破却)

不履行(指示された一部のみを破却)

最終結果

赦免 ・「如前々」の普請許可

改易 (安芸・備後49万8千石没収)

結論:時代の終焉を告げた石垣

福島正則の改易は、単に彼が武家諸法度に違反したという一面的な事象として結論づけることはできない。その悲劇の序曲となった慶長14年(1609年)の普請停止事変は、徳川幕府が豊臣恩顧の有力大名の力を削ぎ、絶対的な支配体制を確立するための、巧妙に計算された「政治的予行演習」であった。

この事変を通じて、家康は「城郭普請」という軍事力の根幹を幕府の完全な管理下に置くという暗黙のルールを打ち立て、正則という格好の標的に対して消えない「前科」を刻み込んだ。それは、寛大な「赦免」という仮面を被った、冷徹な布石であった。

正則は、この10年間で起きた時代の決定的な変化――すなわち、個人の武勇や功績が物を言う戦国の世から、法と秩序が全てを律する徳川の世へという不可逆的な潮流――を、その肌で感じながらも、最後まで完全には理解し、適応することができなかった。かつての武人としての合理性と誇りに基づいて行動した結果、彼は自ら張り巡らされた新たな時代の法と政治の網にかかり、自滅に至ったのである。

元和5年(1619年)、幕府の命令によって無残に破壊された広島城の石垣は、単なる建造物の残骸ではない。それは、賤ヶ岳の猛将が新時代の政治力学の前に屈服し、一つの時代がその終焉を迎えたことを物語る、歴史の静かな証人なのである。

引用文献

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  2. 豊臣家を守れなかった武将・福島正則の敗北の理由 - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_40/
  3. 福島氏の入国と改易/浅野氏の治世 - 広島城 https://hiroshimacastle.jp/history/history02/
  4. 秀吉の死後、いち早く家康方についた、福島正則が辿った生涯|石田三成と対立し、豊臣家分裂のきっかけを作った猛将【日本史人物伝】 - サライ.jp https://serai.jp/hobby/1146423
  5. 福島正則 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E6%AD%A3%E5%89%87
  6. 福島正則の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7557/
  7. 関ヶ原の決断を一生後悔し続けた福島正則 | 『日本の人事部』プロフェッショナルコラム https://jinjibu.jp/spcl/SP0005752/cl/detl/1423/
  8. 日本史/江戸時代 - ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-edo/
  9. 栄光から転落へ。大事件で13年間身の潔白を主張し続けた徳川家康の側近、本多正純の人生 https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/115967/
  10. 初期の土佐藩 - 高知城歴史博物館 https://www.kochi-johaku.jp/column/4521/
  11. 広島県史年表(近世 1) 慶長 6 年(1601)~1780 安永 9 年(1780) https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/nenpyou/nenpyou-kinsei1.pdf
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  13. 広島城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E
  14. 福島正則没後400年記念事業 推し活 江戸から現代へ - 広島市 https://www.city.hiroshima.lg.jp/tourism-culture/history/1026883/1026891/1038090/1030815.html
  15. 広島城外堀跡 城北駅北交差点地点 発掘調査報告 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/16/16104/12026_1_%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E5%A4%96%E5%A0%80%E8%B7%A1%E5%9F%8E%E5%8C%97%E9%A7%85%E5%8C%97%E4%BA%A4%E5%B7%AE%E7%82%B9%E5%9C%B0%E7%82%B9%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A.pdf
  16. 広島城外堀跡城北駅北交差点地点発掘調査報告 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/16/16104/12026_1_%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%9F%8E%E5%A4%96%E5%A0%80%E8%B7%A1%E5%9F%8E%E5%8C%97%E9%A7%85%E5%8C%97%E4%BA%A4%E5%B7%AE%E7%82%B9%E5%9C%B0%E7%82%B9%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A.pdf
  17. 【クイズ】 福島正則が改易された理由とは? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/quiz/851
  18. 広島城広島県広島市 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/area/chugoku/hiroshima/hiroshima/
  19. 福島正則 愛知の武将/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/historian-aichi/aichi-fukusima/
  20. 徳川幕府の大名改易政策を巡る一察(一) https://nichibun.repo.nii.ac.jp/record/933/files/nk03002.pdf
  21. 平和が訪れた江戸時代、戦国武将はどうしてた?猛将・福島正則が引き際に見せた男の意地とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/109505/
  22. 中国地方の名城【広島城の歴史】をまとめました - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/hiroshimacastle/
  23. 「切腹せよ」酒に酔った失言で家臣を死なせた名将・福島正則の悲劇と不器用な終幕【後編】 | 歴史・文化 - Japaaan - ページ 2 https://mag.japaaan.com/archives/252014/2