最終更新日 2025-09-24

中津城築城(1588)

天正十六年、黒田官兵衛は豊前国人一揆鎮圧のため、水陸交通の要衝中津に城を築く。宇都宮鎮房を謀殺し、一揆を平定。中津城は水城として防御と兵站を両立させ、官兵衛の戦略思想を体現する権力装置となった。
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天正十六年 中津城築城の動態的考察 ―豊前国人一揆と黒田官兵衛の覇権確立プロセス―

序章:天下人の新たな秩序と豊前の地

天正16年(1588年)に開始された中津城の築城は、単なる一城郭の建設事業ではない。それは、豊臣秀吉による天下統一事業が最終段階に入る中で、新たな中央集権体制が地方の旧来勢力と激しく衝突し、その抵抗を武力と謀略によって排除していく過程を象徴する事件であった。この報告書は、中津城築城を、同時期に激化した「豊前国人一揆」という軍事紛争と不可分の動的なプロセスとして捉え、黒田官兵衛孝高(如水)がいかにして豊前の地に覇権を確立したかを、時系列に沿って詳細に解明するものである。

1. 九州平定後の地政学 ― なぜ黒田官兵衛は豊前へ送られたのか

天正15年(1587年)、島津氏の降伏をもって豊臣秀吉の九州平定は完了した 1 。戦後、筑前博多の筥崎(はこざき)で行われた論功行賞において、黒田官兵衛孝高は豊前国のうち六郡、およそ12万石の領主として封じられた 2 。播磨国姫路に生まれた官兵衛にとって、これは生涯の拠点となるべき国の拝領であった。

この配置には、秀吉の深謀遠慮が見て取れる。第一に、官兵衛の功績に対する正当な報奨という側面がある。官兵衛は、織田信長への帰属を主君に進言して以来、秀吉の参謀として常にその傍らにあった 5 。特に、本能寺の変に際して動揺する秀吉に「天下を取る好機」と進言し、「中国大返し」を成功に導いた逸話は、彼の軍事的才能と先見性を示すものとして名高い 1 。その後の山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経て、四国征伐、そして今回の九州平定に至るまで、官兵衛は常に軍監として、あるいは調略の担い手として、秀吉の天下取りを支え続けた最大の功労者の一人であった 6 。豊前の地は、そうした功績に報いるための恩賞であった。

しかし、その石高は官兵衛の功績に比して決して大きいとは言えない。この背景には、秀吉の官兵衛に対する複雑な感情、すなわち絶大な信頼と同時に抱いていた強い警戒心があった。秀吉は官兵衛の類稀なる才能を高く評価する一方で、その能力がいつか自らに牙を剥くのではないかと恐れていたとされる 4 。後世の創作である可能性も指摘されるが、「官兵衛に100万石を与えてみよ、たちまち天下を奪ってしまうだろう」と秀吉が語ったという逸話は、秀吉の警戒心を的確に表現している 5

この観点から見ると、豊前国という配置は絶妙であった。豊前は、周防灘を通じて瀬戸内海と直結し、大坂との水運に優れた地である 6 。これは、中央との迅速な連絡を可能にする一方で、いまだ完全には服従していない九州の在地大名、特に南の島津氏に対する強力な「抑え」としての役割を期待されたことを意味する。最も信頼でき、かつ軍事的に有能な官兵衛をこの地に置くことは、豊臣政権の九州支配を盤石にする上で不可欠であった。同時に、官兵衛を畿内の中枢から物理的に遠ざけることで、その影響力を一定の範囲に限定し、制御下に置こうという秀吉の意図も透けて見える。官兵衛の豊前入府は、単なる恩賞ではなく、豊臣政権の地方支配戦略における極めて重要な一手だったのである。

2. 在地勢力の抵抗 ― 鎌倉以来の名族・宇都宮氏の存在

官兵衛が新たに入手した豊前の地は、決して平穏な土地ではなかった。そこには、鎌倉時代以来、約400年にわたって地域に深く根を張ってきた国人(こくじん)と呼ばれる在地領主たちが存在した 9 。その中でも最大の勢力を誇ったのが、城井谷(きいだに)を本拠とする城井(きい)氏、すなわち宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)であった 10

宇都宮氏をはじめとする豊前の国人衆は、秀吉の九州平定に際しては、その圧倒的な軍事力の前に恭順の意を示し、戦いにも参加していた 9 。しかし、彼らにとってそれは、あくまで新たな天下人に対する一時的な服従であり、自らの所領支配権が安堵されることを期待しての行動であった。ところが、戦後に下された秀吉の決定は、彼らの期待を根底から覆すものであった。豊前六郡は新来の領主である黒田官兵衛に与えられ、国人たちはその支配下に組み込まれることになったのである。

この領主交代は、国人たちにとって単なる主君の変更以上の意味を持っていた。秀吉が全国で推し進めていた「惣無事令(そうぶじれい)」や「太閤検地」は、国人たちが伝統的に保持してきた土地と人民に対する私的な支配権を否定し、すべての土地を天下人のものとして再配分する、中央集権的な新秩序の確立を目指すものであった。黒田氏の支配下に入るということは、彼らが領主としての地位を失い、黒田家の家臣として組み込まれるか、あるいは武士の身分を捨てて百姓になるかの二者択一を迫られることを意味した 11 。これは、彼らの存在基盤そのものを揺るがす死活問題であった。

一致団結してこの新たな支配に抵抗したのが、「豊前国人一揆」である 11 。彼らの抵抗は、単なる新領主への反発という次元を超え、中世的な地方分権的秩序が、豊臣政権という近世的な中央集権体制に飲み込まれていく時代の大きな転換点において、旧秩序が発した断末魔の叫びであった。官兵衛の豊前統治は、この根深い抵抗勢力との対決から幕を開けることになったのである。

第一章:前夜 ― 豊前入国と不穏の兆し(天正15年 / 1587年)

黒田官兵衛の豊前入国から国人一揆の本格的な勃発までの数ヶ月間は、表面的な静けさの裏で、来るべき動乱の予兆が渦巻く緊迫した時期であった。官兵衛による新体制構築の試みと、それに反発する在地勢力の思惑が交錯し、豊前の地は一触即発の状況へと向かっていった。

1. 豊前六郡の拝領と馬ヶ岳城への入城(7月)

天正15年(1587年)7月、豊前六郡の知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)を受け取った官兵衛は、播磨から一族郎党を率いて豊前に入国した 3 。彼が九州における最初の居城として選んだのは、馬ヶ岳城(うまがたけじょう、現在の福岡県行橋市および京都郡みやこ町にまたがる)であった 3

馬ヶ岳城は、その名の通り神馬の姿に似ていると伝えられる山容を持つ山城であり、古くからの軍事拠点であった 3 。秀吉自身も九州平定の途上、同年3月にこの城に滞在した記録が残るほどの要衝である 3 。官兵衛がまずこの城を選んだのは、平穏な統治の開始というよりは、軍事的緊張状態下での入国であったことを示唆している。在地勢力の動向が不透明な中、まずは防御に優れた既存の城郭を迅速に確保し、当面の軍事拠点を構築することが最優先されたのである。しかし、官兵衛の構想は、この山城に留まるものではなかった。山城は防衛には適していても、領国全体を統治し、経済を発展させるための拠点としては、城下町の形成が困難であるなど多くの制約があった 1 。この時点で既に、官兵衛の視線は、より広大で交通の便に優れた平野部へと向けられていたと考えられる。

2. 肥後国人一揆への出兵と豊前の権力空白

官兵衛の豊前統治が緒に就いた矢先、隣国の肥後国で大事件が発生する。肥後を与えられた佐々成政が性急な検地を強行した結果、大規模な国人一揆が勃発したのである。事態を重く見た秀吉は、九州の諸大名に鎮圧を命じ、その中に官兵衛も含まれていた 11

この出兵命令は、豊前の情勢に決定的な影響を与えた。官兵衛が主力軍を率いて領地を離れたことで、豊前国内に深刻な権力の空白が生じた。これは、かねてより黒田氏の支配に不満を抱いていた国人衆にとって、蜂起のまたとない好機となった 12

さらに注目すべきは、この肥後への出兵に、宇都宮鎮房の子である宇都宮朝房も同行を命じられていた点である 11 。出発に際し、朝房は父・鎮房に宛てた手紙の中で「これは秀吉と孝高の姦計である」と書き残している 11 。この言葉は、この同行命令が単なる軍役ではなく、宇都宮氏の兵力を豊前から引き離し、その嫡子を事実上の人質として確保しようとする、官兵衛側の政治的・軍事的意図を鋭く見抜いていたことを示している。官兵衛は、豊前国人衆の不穏な空気を察知しており、先手を打ってその力を削ごうとしたのであろう。しかし、このあからさまな挑発ともとれる動きは、結果的に宇都宮氏らを追い詰め、一揆の引き金を引くことになった。官兵衛の肥後出兵は、国人衆にとっては「好機」であり、同時に黒田方にとっては「仕掛け」でもあった。両者の緊張関係は、この出兵を機に、もはや後戻りできない臨界点へと達したのである。

3. 国人衆の蜂起 ― 豊前国人一揆の勃発(10月1日)

天正15年10月1日、ついにその時は来た。官兵衛が肥後で戦っている隙を突き、豊前各地で国人衆が一斉に蜂起したのである 12 。その報は、馬ヶ岳城で留守を預かる官兵衛の嫡子・黒田長政のもとにもたらされた 12

この一揆は、城井谷の宇都宮鎮房を盟主としながらも、単独の勢力による反乱ではなかった。上毛郡(こうげぐん)の鬼木掃部(おにきかもん)や円藤源兵衛(えんどうげんべえ)をはじめ、伊藤田、中尾、山田、八屋といった各地の国人衆が連携して兵を挙げた、広域的かつ組織的なものであった 11 。これは、黒田氏という新たな支配者に対する不満と抵抗の意志が、豊前全域の旧来勢力に広く共有されていたことの何よりの証左であった。彼らは野戦部隊と籠城部隊に分かれ、黒田方の拠点を脅かし始めた 11

4. 黒田長政、初陣の苦闘

父の留守を預かる若き長政は、直ちに久留米にいる父・官兵衛に急報を送るとともに、自ら兵を率いて鎮圧に向かった 12 。彼は家臣に対し、「この一揆に負けるならば、父が粉骨を以て拝領した国を治められず、家の面目を失うものである。自分も家臣も、身の浮沈はただこの一戦にあるのだ」と檄を飛ばし、悲壮な決意で戦いに臨んだ 10

長政は上毛郡観音原(かんのんばる)で鬼木掃部を討ち取るなど、緒戦でいくつかの戦果を挙げた 12 。しかし、一揆の中核である宇都宮鎮房が籠る城井谷の攻略は困難を極めた。城井谷は四方を険しい山々に囲まれた天然の要害であり、長年この地を支配してきた宇都宮勢は地の利を完全に掌握していた。官兵衛の制止を振り切って城井谷に攻め込んだ長政軍は、宇都宮勢の巧みな戦術の前に大敗を喫してしまう 10

この敗戦は、黒田家にとってまさに存亡の危機であった 10 。それは、単なる軍事力による正攻法だけでは、長年にわたりその土地に根を張り、民心を掌握してきた国人衆を屈服させることは不可能であるという厳しい現実を、若き長政と黒田家臣団に痛感させた。この苦い経験こそが、後に父・官兵衛が「謀略」という非情にして確実な手段を選択する、大きな伏線となったのである。

第二章:築城と動乱の交錯(天正16年 / 1588年)

豊前国人一揆が激化する中、肥後から帰還した黒田官兵衛は、戦局の主導権を握ると同時に、驚くべき行動に出る。一揆の鎮圧が完了していないにもかかわらず、新たな城の築城を開始したのである。天正16年(1588年)初頭から春にかけての数ヶ月間は、一揆鎮圧の戦闘と中津城の普請が同時並行で、かつ相互に深く影響を及ぼしながら進行した、極めて動的な期間であった。この章では、その緊迫した状況を時系列で詳細に追う。


表1 豊前国人一揆と中津城築城の時系列対照表(天正15年10月~16年4月)

年月

黒田方の動向

国人一揆側の動向

中津城築城の進捗

天正15年 (1587年) 10月

黒田長政、馬ヶ岳城で蜂起の報を受ける。直ちに出陣し、上毛郡観音原などで戦闘を開始 12 。しかし城井谷攻略に失敗し、大敗を喫する 10

宇都宮鎮房を盟主に、鬼木氏、円藤氏ら豊前各地の国人衆が一斉に蜂起。鎮房は本拠地の城井谷に籠城し、徹底抗戦の構えを見せる 11

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天正15年 (1587年) 11月

長政、如法寺庄川底で円藤源兵衛を討ち取るなど、各地で戦闘を継続 12 。しかし、一揆の中核である宇都宮氏の勢力は依然として健在。

各地の籠城組は黒田・吉川軍の連携作戦により個別に撃破され始めるが、宇都宮氏本体は城井谷の堅固な守りを背景に抵抗を続ける 11

-

天正16年 (1588年) 1月

官兵衛、肥後より豊前に帰還し、戦局の全権を掌握。馬ヶ岳城が山城で不便なため、水陸交通の要衝である中津の地に新たな拠点城郭を築くことを決断 1

宇都宮鎮房、官兵衛の帰還後も城井谷に籠城し、抵抗を継続。戦況は膠着状態に陥る。

1月11日 、築城を開始。中津江太郎の居城であった丸山城を修補・拡張する形で普請に着手する 12

天正16年 (1588年) 4月

官兵衛、武力による鎮圧の困難さを悟り、謀略に切り替える。和議を装い、宇都宮鎮房を普請中の中津城に招聘する 9

鎮房、官兵衛の和議の申し出を受け入れ、油断して中津城へ赴く。家臣団は城下の合元寺で待機する 2

普請は継続中。本丸の一部が完成し、酒宴を開ける状態にまで整備されていたと考えられる。

天正16年 (1588年) 4月20日

【宇都宮鎮房謀殺】 酒宴の席で、長政らが鎮房を謀殺。同時に、別動隊が合元寺を襲撃し、待機していた鎮房の家臣団を殲滅する 2

鎮房、殺害される。合元寺の家臣団も奮戦するが全員討ち死にする。指導者と主力を同時に失い、組織的抵抗能力を喪失する 2

築城そのものが、謀略を成功させるための「舞台装置」および「処刑場」として機能した。


1. 新たな拠点への渇望 ― 馬ヶ岳城から中津へ

肥後から帰還し、長政の苦戦と一揆の根深さを目の当たりにした官兵衛は、まず戦略の根本的な見直しに着手した。その核心が、本拠地の移転であった。馬ヶ岳城は堅固な山城ではあるが、一揆勢に包囲されれば孤立する危険性があり、また領国経営の拠点としては平地に比べて著しく不便であった 1 。官兵衛が必要としたのは、守りやすく、かつ攻めやすい、そして何よりも豊臣政権の中枢と直結できる新たな戦略拠点であった。

そこで彼が着目したのが、山国川の河口に位置する中津の地であった 1 。中津は、いくつかの点で理想的な場所であった。

第一に、軍事的な利点である。豊前のほぼ中央に位置し、一揆勢の中心である城井谷にも睨みを効かせやすい。何よりも、周防灘から瀬戸内海へと抜ける水運の結節点であり、大坂からの兵員や兵糧、鉄砲・弾薬といった物資の補給を迅速かつ大量に受けることが可能であった 6。これは、長期化する可能性のある一揆鎮圧戦において、決定的な優位性を黒田方にもたらす。

第二に、政治的・経済的な利点である。広大な平野は九州でも有数の米どころであり、経済的基盤を安定させる 1。また、旧来の国人たちが山城に籠るのとは対照的に、平地に開かれた壮大な近世城郭と城下町を建設することは、在地勢力に対して黒田氏の支配が恒久的かつ揺るぎないものであることを示す、強力な示威行為(デモンストレーション)となる。それは、旧時代の終焉と新時代の到来を告げる、象徴的な意味合いを持っていた。

2. 築城の開始(1月11日) ― 丸山城の修補と縄張り

天正16年1月11日、官兵衛は中津の地で新たな城の築城を開始した 12 。一揆が未だ鎮圧されていない、まさに戦火の最中での決断であった。これは、この築城が単なる将来の居城建設ではなく、一揆鎮圧そのものを目的とした軍事行動の一環であったことを示している。

築城にあたり、官兵衛は全くの更地に一から城を築くのではなく、その地にあった中津江太郎の居城「丸山城」という既存の砦を修補・拡張する形をとった 13 。これは、一刻も早く拠点を確保し、前線基地として機能させるための、極めて合理的な判断であった。戦時下において、スピードは何よりも優先されるべき要素だったのである 15 。築城に先立ち、求菩提山(くぼてさん)の修験者であった玄海法印が地鎮祭を執り行ったと伝えられている 2 。この時から、官兵衛の頭の中には、後に「扇城(せんじょう)」と呼ばれることになる、川と海を巧みに利用した壮大な縄張りの構想が描かれていたと考えられる 16

3. 謀略の刻 ― 宇都宮鎮房、中津城へ(4月20日)

築城を進める一方で、官兵衛は宇都宮鎮房との戦いを続けていたが、城井谷の堅い守りを前に戦況は膠着していた。このままでは、豊前統治の失敗と見なされ、秀吉からの評価を失い、自らの立場が危うくなるという焦りが官兵衛にはあった 9 。ここで彼は、軍師としての冷徹な合理主義に基づき、正攻法から謀略へと戦術を切り替える。

官兵衛は鎮房に対し、これまでの戦いを水に流し和議を結びたいと申し入れた。長引く戦いに疲弊していた鎮房は、この申し出を受け入れた。そして天正16年4月20日、官兵衛は鎮房を、普請の進捗を見せるという名目で、建設中の中津城へと招き入れた 12

この招待において、普請中の中津城は完璧な舞台装置となった。未完成の城は、相手の警戒心を解き、油断させる効果があった。鎮房は、まさか饗応の席が処刑場になるとは夢にも思わず、わずかな供回りのみで城内に入った。そして酒宴が酣(たけなわ)となった頃、黒田長政をはじめとする黒田家の武将たちが一斉に鎮房に襲いかかり、その場で謀殺した 12 。この事件において、中津城は単なる建築物ではなく、敵将を確実に仕留めるための計算され尽くした「罠」として機能したのである。

4. 合元寺の殲滅戦 ― 「赤壁」伝説の誕生

官兵衛の計画は、鎮房一人の殺害では終わらなかった。宇都宮氏の武力を根絶やしにするため、周到な二段構えの作戦が用意されていた。鎮房が中津城で謀殺されたのと時を同じくして、黒田の手勢が、鎮房の家臣団が主君の帰りを待っていた城下の合元寺(ごうがんじ)を急襲した 2

不意を突かれた宇都宮家の家臣たちは、奮戦するも多勢に無勢、ことごとく斬り伏せられ、寺は凄惨な殺戮の場と化した 2 。この時、寺の白壁は返り血で真っ赤に染まったという。そして、その後何度壁を白く塗り替えても、血の跡が滲み出てくるため、ついに壁全体を赤く塗るようになったと伝えられている 2 。これが、合元寺が「赤壁寺(あかかべでら)」と呼ばれるようになった所以である。この伝説は、この殲滅戦がいかに凄惨であり、地域の記憶に深く刻み込まれたかを雄弁に物語っている。

5. 一揆の終焉と豊前平定

盟主である宇都宮鎮房と、その中核をなす家臣団を同時に失ったことで、豊前国人一揆は指導者と武力の中枢を失い、急速に瓦解していった。黒田方は城井谷に残った鎮房の家臣らを追討し、鎌倉以来の名族・宇都宮氏の拠点を灰燼に帰せしめた 12 。こうして、官兵衛の入国以来、黒田家を苦しめ続けた国人一揆はようやく鎮圧され、官兵衛は名実ともに豊前国の支配者となったのである。

この一連の出来事は、中津城の築城と宇都宮鎮房の謀殺が、豊前平定という一大事業における不可分の両輪であったことを示している。築城という物理的な支配拠点(ハードパワー)の構築と、謀略という非情な策略(ソフトパワー)の行使が一体となって初めて、黒田氏の支配は盤石なものとなった。中津城は、その血塗られた誕生の瞬間から、単なる居城ではなく、新たな権力が旧来の秩序を打ち破るための強力な装置として運命づけられていたのである。

第三章:城郭の解剖 ― 軍師官兵衛の思想と技術

豊前国人一揆という動乱の渦中で産声を上げた中津城は、黒田官兵衛の戦略思想と、当時の最先端の築城技術が凝縮された城郭であった。その立地、縄張り、そして石垣の細部に至るまで、すべてが軍師官兵衛の合理主義と実用主義を反映している。ここでは、完成後の(あるいは計画上の)中津城の構造を解剖し、その設計に込められた意図を明らかにする。

1. なぜ「水城」であったのか ― 地政学的・戦略的分析

中津城の最大の特徴は、中津川の河口に位置し、堀に海水を直接引き込む「水城(みずじろ)」、あるいは「海城(うみじろ)」であった点にある 6 。讃岐の高松城、伊予の今治城と並び、「日本三大水城」の一つに数えられるこの構造は、官兵衛の深慮遠謀の現れであった 16

まず、防御面において、西は中津川、北は周防灘に面し、天然の要害を形成していた 17 。さらに東と南には幾重にも堀を巡らせ、そこに海水を引き込むことで、難攻不落の防御網を構築した 17 。堀の水位は潮の干満によって常に変動するため、敵は攻城のタイミングを計ることが極めて困難であった 17

しかし、官兵衛が水城という形態を採った最大の理由は、防御以上に、兵站と情報伝達の利便性にあったと考えられる。官兵衛の築城術は、キャリアを通じて常に水陸交通の要衝を重視する点に特徴があった 22 。中津城もその例外ではなく、河口の港を利用することで、瀬戸内海を経由して大坂とをわずか3日で結ぶ「早舟」の仕組みを整備したと伝えられている 6 。これは、豊臣政権の中枢と常に緊密な連携を保ち、最新の政治・軍事情報をいち早く入手し、有事の際には大坂から迅速な支援を受けるための生命線であった 8 。豊臣政権の一翼を担う大名として、中央との連携を最重要視する官兵衛の戦略思想が、この立地選定に明確に反映されている。

さらに、経済的な側面も見逃せない。河口の港は、領内の米や物資の集散地となり、城下町の経済的発展の基盤となる 1 。官兵衛は、中津城を単なる軍事拠点としてだけでなく、豊前国の政治・経済の中心地として機能させることを当初から意図していたのである。

2. 縄張りに見る官兵衛の意図 ― 「扇城」と惣構え

中津城の縄張り(城の設計図)は、その独特の形状から「扇城(せんじょう)」の異名を持つ 6 。本丸を中心に、北に二の丸、南に三の丸を配置した全体の形状が、川に面した西側を要として扇を開いたようなほぼ直角三角形をなしていたためである 16 。これは梯郭式(ていかくしき)縄張りの一種であり、川を背にした防御ラインを強固にしつつ、陸続きの方面からの敵を効率的に迎え撃つことを可能にする、極めて合理的な設計であった。

さらに官兵衛の構想は、城郭本体に留まらなかった。彼は、城下町全体を堀と土塁で囲い込む「惣構え(そうがまえ)」の構造を計画した 24 。城の外周には「おかこい山」と呼ばれる長大な土塁が築かれ、城と城下町が一体となった巨大な要塞都市を形成していた 17 。この惣構えの思想は、戦争が城単体の攻防から、領国全体を巻き込んだ総力戦へと移行しつつあった豊臣期の大規模城郭に共通する特徴である 26 。官兵衛は、城下町の外縁部に寺社を戦略的に配置し、有事の際にはこれらを防御拠点として活用することも想定していた 24 。このように、中津城の縄張りは、一点の防御拠点ではなく、領国経営と防衛を一体化したシステムとして構想されていたのである。

3. 石垣が語る天正期の技術 ― 転用石と「輪取り」の謎

中津城の石垣は、築城当時の姿を今に伝える貴重な遺構であり、そこには官兵衛の築城術の真髄と天正期の最高技術が刻み込まれている。

特筆すべきは、本丸北側などの石垣に、7世紀に築かれたとされる古代山城「唐原(とうばる)山城」から運ばれた「神籠石(こうごいし)」と呼ばれる加工石が多数使用されている点である 16 。これらの石は直方体に加工され、一辺の断面がL字に切り落とされている特徴的なものである 16 。この「転用石」の使用は、官兵衛の築城術が効率性とスピードをいかに重視していたかを示している 15 。一揆の真っ只中という緊急時において、一から石を切り出して加工するよりも、既存の良質な加工石を水運を利用して運んでくる方が遥かに合理的であった。また、古代の神聖な建造物の石材を自らの城に取り込むことは、その土地の古くからの力を支配下に置くという、新たな支配者としての権威を誇示する政治的・呪術的な意味合いがあった可能性も指摘されている 27

石垣の積み方にも、天正期特有の高度な技術が見られる。中津城の石垣は、後の時代に見られるような優美な「反り」がなく、直線的な勾配を持つ 13 。しかし、その断面を見ると、両端よりも中央部の方がより傾斜が強くなるように積まれており、力学的な安定性が追求されている 13 。さらに、石垣全体を真上から見ると、完全な直線ではなく、緩やかなカーブを描いているのがわかる。これは「輪取り(わどり)」と呼ばれる技法で、地震や敵の攻撃による圧力を石垣の内側へ集中させて力を分散させ、崩壊を防ぐための工夫である 13 。華美な装飾を排し、構造力学的な合理性を徹底的に追求するこれらの技術は、軍師官兵衛の実用主義的な思想をまさに体現していると言えよう。

4. 豊臣期城郭における中津城の位置づけ

豊臣秀吉の時代は、日本の城郭建築史における一つの頂点であった。大坂城に代表されるように、高くそびえる天守、権威の象徴である金箔瓦、そして堅固な高石垣がその特徴とされる 32 。また、城の出入り口である虎口(こぐち)は、敵を誘い込んで殲滅するために四角い空間を設けた「枡形(ますがた)」へと進化し、防御機能は飛躍的に向上した 34

中津城は、こうした豊臣期城郭の最先端の要素を色濃く反映している。水城という立地選定、城下町まで防衛線に組み込む惣構えの思想、そして輪取りなどの高度な石垣技術は、まさに当時の最新鋭のものであった。一方で、官兵衛が計画した段階では、大坂城のような壮麗さや華美な装飾性よりも、実戦における防御機能と、領国経営の拠点としての合理性が最優先されていたと考えられる。彼の築城思想は、加藤清正が追求した「難攻不落」の堅固さ 15 や、藤堂高虎が重視した「城下町の発展」 15 といった同時代の築城名人の思想とも比較されるが、特に「地形と水利を最大限に活用し、兵站と情報を重視する実戦的合理性」において、際立った特徴を持っている 26 。中津城は、豊臣政権の地方支配拠点として、また稀代の軍師の戦略思想の結晶として、日本の城郭史上に確固たる位置を占めているのである。

第四章:その後の経緯と歴史的意義

黒田官兵衛による築城と豊前平定は、中津の地に新たな時代の幕開けを告げた。しかし、官兵衛自身がこの城の主であった期間は驚くほど短い。彼の隠居、そして黒田家の転封を経て、中津城は新たな城主たちのもとで完成され、近世を通じて豊前の中心としての役割を果たしていくことになる。

1. 官兵衛の隠居と黒田氏の統治

豊前国人一揆を鎮圧し、領国支配の礎を築いた官兵衛であったが、そのわずか2年後の天正17年(1589年)、44歳の若さで家督を嫡子・長政に譲り、剃髪して「如水(じょすい)」と号し、隠居の身となった 2 。この早すぎる隠居の背景には、依然として官兵衛の才能を警戒し続ける豊臣秀吉の存在があったとされる 4 。自ら一線から退くことで秀吉の猜疑心を和らげ、黒田家の安泰を図ろうとしたのである。フロイスの『日本史』によれば、「如水」という号は、「権力、武勲、領地、功績、それらすべては今や水泡のように消え去った」という意味を込めて自ら名乗ったと記されており、彼の複雑な心境が窺える 5

しかし、隠居後も彼の戦略家としての役割が終わったわけではなかった。慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発すると、長政をはじめとする黒田家の主力は徳川家康率いる東軍として上方にあり、中津城は手薄な状態であった 1 。この機に乗じ、如水は蓄えていた私財をはたいて9,000人もの浪人を雇い入れ、中津城を拠点に挙兵する 1 。そして、九州各地にいた石田三成方の西軍勢力を次々と撃破し、石垣原の戦いでは大友義統(よしむね)の軍を破り、九州の大半を平定する勢いを見せた 1 。この時の中津城は、まさに如水にとって「最後の天下取り」の夢を懸けた軍事拠点であった。彼の野望は関ヶ原の戦いがわずか一日で終結したことにより潰えるが、中津城が彼の戦略においていかに重要な拠点であったかを物語るエピソードである。

2. 未完の城 ― 細川忠興による完成と改修

関ヶ原の戦いにおける長政の功績により、黒田家は筑前国(現在の福岡県西部)52万石へと大幅な加増転封となった 8 。黒田氏が去った後、豊前国には細川忠興(ただおき)が入封し、中津城は新たな主を迎えることになった 6

忠興は、黒田官兵衛が計画した壮大な縄張りと町割りを基本的に引き継ぎつつ、城の大規模な改修に着手し、元和7年(1621年)頃にほぼ現在の形とされる城郭を完成させた 16 。この意味で、中津城は黒田官兵衛の「構想」と、当代一流の文化人でもあった細川忠興の「完成」という、二人の名将の手による合作と言うことができる。

その歴史の痕跡は、今も本丸北側の石垣に明確に残されている。そこには、黒田時代に築かれた部分と、細川時代に継ぎ足された部分の境界が、Y字状の目地となって見て取れる 16 。黒田時代の石垣が、効率を重視して古代山城から運ばれた加工石を多用しているのに対し、細川時代の石垣は丸みを帯びた自然石を巧みに組み合わせて構築されている 16 。この違いは、築城された時期の状況、すなわち一揆の最中という緊急時であった黒田時代と、比較的平穏な時期に時間をかけて普請を行った細川時代の違いを如実に示しており、非常に興味深い物証となっている。

3. 中津城築城が残したもの

細川氏が小倉城を築いて本拠を移した後は支城となったが 29 、その後、譜代大名の小笠原氏、そして奥平氏が城主となり、中津城は明治維新で廃城となるまで、中津藩の藩庁として存続した 16

中津城の築城が歴史に残したものは、単に一つの城郭だけではない。それは、豊前国における中世的な国人領主による分権的支配体制の完全な終焉と、城下町を核とする近世的な大名領国制の確立を決定づけた、画期的な出来事であった。官兵衛が計画した城下町の町割りは、京町や博多町といった現在の町名にもその名残を留めており 16 、彼が築いた都市計画の骨格が現代にまで受け継がれている。その誕生の経緯は血塗られた謀略を伴うものであったが、中津城の築城は、その後約280年にわたって続く中津藩の政治、経済、そして文化の中心地としての礎を築いたのである。

総括:権力装置としての中津城

天正16年(1588年)の中津城築城は、平和な領国経営の一環として計画された牧歌的な事業では断じてない。それは、豊臣政権という新たな中央権力が、在地勢力の根強い抵抗を武力と謀略によって排除し、その地に新たな支配秩序を物理的に刻み込むための、極めて暴力的かつ政治的な行為であった。

分析を通じて明らかになったのは、中津城が単なる居住空間や防御施設に留まらない、多機能的な「権力装置」として構想されていたという事実である。それは、一揆勢を制圧するための「軍事拠点」であり、領国経済を掌握するための「経済の中心」であり、そして何よりも、敵将・宇都宮鎮房を誘い込み、確実に殲滅するための周到に仕組まれた「罠」であった。この多機能性こそが、戦国末期から安土桃山時代にかけての城郭の本質であり、中津城はその最も鮮烈な実例の一つと言える。

黒田官兵衛の築城術に見られる、水運を重視した立地選定、城と城下町を一体化した惣構えの思想、そして転用石や輪取り技法に象徴される徹底した合理性と実用性は、彼の軍師としての性格そのものを映し出す鏡である。中津城は、石と土で築かれた、彼の戦略思想そのものであった。この築城プロセスを、豊前国人一揆という動乱と連動した動態的な事象として理解することなくして、黒田官兵衛という稀代の戦略家の人物像、そして豊臣政権による地方支配の冷徹な実態を真に理解することはできないであろう。

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