最終更新日 2025-09-25

五條新町成立(1590)

1590年、豊臣秀長の治世で安定した五條。その土壌の上に1608年、新領主・松倉重政が近世的な商業都市『新町』を創設。諸役免許で商人を集め、南大和随一の商家町の礎を築いた。
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『五條新町成立』の虚実 ― 天正十八年(1590年)から慶長十三年(1608年)へ、戦国終焉が生んだ近世都市の胎動 ―

序章:天正十八年(1590年)という座標軸

「五條新町成立、天正十八年(1590年)」。この一見簡潔な歴史的事象には、戦国時代の終焉と近世の黎明という、日本の歴史における一大転換期のダイナミズムが凝縮されている。しかし、詳細な調査を進めると、この「1590年」という年号は、町の物理的な「成立」を直接指し示すものではないことが明らかになる。実際の計画的な町割り、すなわち「新町」の創設事業が開始されたのは、関ヶ原の戦いを経て徳川の世となった後の慶長十三年(1608年)、松倉豊後守重政(まつくら ぶんごのかみ しげまさ)の手によるものであった 1

では、なぜ1590年という年が意識されるのか。それは、この年が豊臣秀吉による天下統一が完成した画期的な年であり 3 、五條を含む大和国が、秀吉の弟である豊臣秀長の安定した統治下にあった時代を象徴するからに他ならない。本報告書は、この1590年を、五條新町という近世都市が「生まれうる社会的な土壌が完成した年」と再定義し、物語の起点とする。そして、1590年の豊臣政権による安定期という「連続性」と、1600年の関ヶ原の戦いを経て徳川政権下で新たな領主が登場する「断絶性」が、いかにして18年後の1608年に「五條新町」という一つの都市を生み出したのか、その歴史の連続性と断絶性のダイナミズムを、時系列に沿って解き明かすことを目的とする。

なお、本調査の過程で「五條為久」なる人物についての言及は見られなかった。これは現代の著名な創作物である漫画『呪術廻戦』の登場人物「五条悟」との混同の可能性が極めて高く、史実上の人物ではないと判断される 5 。したがって、本報告書では史実に基づき、豊臣秀長と松倉重政という二人のキーパーソンを主軸に論を進める。

本論に入る前に、1590年前後から新町成立に至るまでの複雑な権力移行と、全国レベル・地域レベルの出来事の連動性を俯瞰するため、以下の時系列表を提示する。

表1:五條新町成立に関わる主要人物と出来事の時系列表

西暦(和暦)

日本の動向

大和国・五條の動向

関連人物

1585年(天正13)

豊臣秀吉、関白に就任。紀州・四国を平定。

豊臣秀長、大和・和泉・紀伊などを領し、郡山城に入城。

豊臣秀吉、豊臣秀長

1590年(天正18)

秀吉、小田原征伐により北条氏を滅ぼし、天下統一を完成。

秀長の統治下で大和国は安定期を迎える。

豊臣秀吉、豊臣秀長

1591年(天正19)

秀長、郡山城にて病死。千利休が切腹。

秀長の養子・豊臣秀保が後を継ぐ。

豊臣秀長、豊臣秀保

1595年(文禄4)

秀保、17歳で死去。大和国は豊臣政権の直轄的な支配下に。

増田長盛が郡山城主となる。

豊臣秀保、増田長盛

1600年(慶長5)

関ヶ原の戦い。徳川家康率いる東軍が勝利。

松倉重政、東軍に属し功績を挙げる。

徳川家康、松倉重政

1607年(慶長12)

-

栗山家住宅が建設される(現存する棟札による)。

栗山家

1608年(慶長13)

-

松倉重政、大和国五條二見城主(一万石)として入封。「新町」の創設に着手し、「諸役免許」を発布。

松倉重政

1616年(元和2)

徳川家康死去。

松倉重政、肥前日之江(島原)へ転封。二見城は廃城となり、五條新町は天領となる。

松倉重政


第一部:天下統一の完成と大和大納言の治世 ― 1590年前後の五條 ―

第一章:豊臣秀長の支配体制と大和国

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた時、大和国はかつてないほどの安定を享受していた。その立役者が、秀吉の異父弟(一説には同父弟)であり、豊臣政権の第二人者であった豊臣秀長である 7 。秀長は兄・秀吉の良き理解者、そして補佐役として、その温和かつ堅実な人柄で政権内部の調整役を担い、諸大名からも厚い信頼を得ていた 9

天正十三年(1585年)、紀州征伐や四国平定での功績により、秀長は大和・紀伊・和泉三国にまたがる百万石を超える広大な領地を与えられ、大和郡山城を本拠地とした 11 。彼は「大和大納言」と尊称され、名実ともに関西随一の大大名となる。大和国は、中世を通じて興福寺などの寺社勢力や、筒井氏をはじめとする国人衆が割拠し、戦乱が絶えない土地であった。秀長はこの地に乗り込むと、まず領内の安定化に着手する。大規模な検地を実施して荘園的な支配構造を解体し、盗賊の追捕や掟の制定を通じて治安を回復させ、近世的な支配体制を確立していった 7

秀長は郡山城を大規模に改修・拡張し、大坂城に次ぐ壮麗な城郭と、それを中心とする計画的な城下町を整備した 10 。彼の統治は、単なる軍事支配に留まらず、領国の経済的発展にも目が向けられていた。こうした秀長の堅実な領国経営は、長らく続いた戦乱で疲弊した大和国に平和と秩序をもたらし、後の商業発展の礎を築いたのである。彼が意図して五條に新町を建設したわけではないが、彼の統治がなければ、後の松倉重政による都市計画は実現不可能であった。秀長の役割は、直接的な創設者ではなく、新たな時代のための「偉大な地ならし役」であったと言えよう。

第二章:交通の結節点としての旧五條

1590年当時、松倉重政による計画都市「新町」はまだ存在しなかった。しかし、その原型となる「五條」の町場は、すでに南大和の交通の要衝として重要な役割を担っていた 1

五條の地理的優位性は際立っている。畿内から伊勢神宮へ向かう伊勢街道(参宮街道)、大和と紀州を結ぶ紀州街道といった主要な陸路がこの地で交差していた 1 。さらに、町の北側を流れる吉野川(紀の川)は、舟運の動脈であった。特に、奥吉野で産出される良質な木材(吉野杉など)は、筏に組まれて吉野川を下り、五條に集積された後、紀州や大坂方面へと送られる一大集散地としての機能を果たしていたと考えられる 18 。陸路と水路が交わる結節点である五條は、人、モノ、情報が自然と集まるポテンシャルを秘めていたのである。

この時点での「五條」の町並みは、街道沿いに自然発生的に形成されたもので、道は緩やかに湾曲し、家々の敷地割りも不均一な、中世の面影を色濃く残すものであった 20 。旅籠屋や茶店、地域の産物を商う小規模な店が軒を連ね、旅人や商人、近隣の農民たちで賑わいを見せていたであろう 19 。しかし、それはまだ組織化され、計画された商業都市ではなかった。豊臣秀長の統治によってもたらされた平和と交通の安全は、この旧来の町場の経済活動を活性化させたが、そのポテンシャルを最大限に引き出すための、より大きな都市計画を待っている状態であった。


第二部:権力の真空と新たな秩序の萌芽 ― 秀長の死から関ヶ原へ ―

第一章:大和国の動揺と時代の転換

天下統一の翌年、天正十九年(1591年)、豊臣政権を内側から支えてきた大黒柱、豊臣秀長が病に倒れ、郡山城でその生涯を閉じた。享年52。彼の死は、豊臣政権にとって計り知れない損失であった 22 。秀吉の暴走を諫めることができる唯一の存在であり、政権の安定装置であった秀長の不在は、その後の豊臣政権の運命に暗い影を落とすことになる 11

秀長の後継者には、養子となっていた甥の豊臣秀保が就いたが、文禄四年(1595年)、わずか17歳で早世してしまう 11 。これにより、大和国における豊臣一族による直接支配は終わりを告げ、五奉行の一人である増田長盛が郡山城主となるも、秀長時代のような強力な求心力は失われた。秀吉の死後、豊臣政権内部の対立が先鋭化する中で、大和国は再び政治的な不安定期に突入する。旧来の国人衆や、豊臣恩顧の武将、そして次なる天下人として台頭しつつあった徳川家康に接近する者など、各勢力が生き残りをかけて蠢動する、まさに時代の転換期であった。

第二章:松倉重政の台頭

この混沌とした情勢の中から、新たな時代の潮流を読み、自らの運命を切り開いた人物がいた。松倉重政である。天正二年(1574年)生まれの重政は、元々は筒井順慶に仕えた大和の在地武将であった 1 。しかし、主家である筒井氏は豊臣政権下で伊賀へ転封され 25 、重政は新たな主君を模索する立場となる。彼は旧来の主従関係に縛られることなく、実力と時流を読んで行動する、戦国末期から近世初期にかけての典型的な武将であった。

運命の転機は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いである。重政は、徳川家康率いる東軍に与するという重大な決断を下す。この戦いでの彼の功績は家康に高く評価され、戦後の論功行賞において、大和国宇智郡、すなわち五條二見に一万石の大名として取り立てられることになった 24 。これは単なる個人的な出世物語ではない。家康にとって、豊臣家の影響力が色濃く残る畿内の要衝に、関ヶ原で忠誠を示した信頼できる人物を配置することは、天下平定のための重要な戦略であった。松倉重政の五條入封は、彼個人の野心と、徳川家康の天下統一戦略が交差した点に生まれた、歴史の必然であった。


第三部:近世都市の誕生 ― 慶長十三年(1608年)、松倉重政のグランドデザイン ―

第一章:二見城築城と城下町計画

関ヶ原の戦いから8年後の慶長十三年(1608年)、松倉重政は正式に五條二見城主としてこの地に着任した 1 。吉野川を望む丘陵に位置する二見城は、一万石の大名としては相応の規模であったが、重政の野心は単なる城の主で終わることではなかった 27 。彼は、自身の居城である二見城と、既存の商業地である旧五條との間に広がる未開発の土地に着目した 1 。そして、この二つの拠点を結びつけ、一体的な経済圏を創出するという壮大な都市計画を構想する。

この計画こそが「新町」の創設である。重政は、旧五條の中世的な湾曲した道とは対照的に、伊勢街道に沿って東西に貫く直線的な基幹道路を整備した 20 。そして、その道路の両側に、間口と奥行きが整然と揃った短冊状の敷地を均一に割り当てていった 21 。このような計画的な町割りは、税収の把握を容易にし、整然とした都市景観を生み出す、まさに近世城下町建設の典型的な手法であった 29 。それは、戦国の「武」の論理ではなく、近世の「商」の論理に基づいた、先進的なグランドデザインであった。

第二章:「諸役免許」― 商人を呼び込む経済特区政策

優れた都市計画も、そこに住む人間がいなければ意味をなさない。松倉重政が次に打った手は、彼の名を五條の歴史に不滅のものとして刻む、画期的な経済政策であった。彼は新町の住民に対し、「諸役免許(しょやくめんきょ)」の特権を与えたのである 24

これは、地子銭(土地税)や、伝馬役、その他の様々な公役を免除するというもので、現代の「税制優遇措置」や「経済特区」に相当する大胆な政策であった 31 。戦乱で疲弊した畿内において、新たなビジネスチャンスを求める商人や職人にとって、この優遇措置は抗いがたい魅力を持っていた。重政の狙いは明確であった。他の地域から意欲ある人材を積極的に誘致し、短期間で新町に人口と商業機能を集積させることである 33

この政策は絶大な効果を発揮した。噂を聞きつけた商人たちが各地から集まり、新町は急速に活気づいていく。重政の転封後の元和九年(1623年)には、すでに約95軒の家が立ち並ぶ規模にまで成長していたことが記録されており 1 、この政策がいかに成功したかを物語っている。松倉重政が蒔いた「諸役免許」という種は、五條新町がその後、南大和随一の商家町として二百年以上にわたって繁栄するための、確固たる根となったのである 2

第三章:誕生した町のリアルタイムな姿

新町の創設が公式に始まったのは慶長十三年(1608年)だが、その前年、慶長十二年(1607年)の棟札を持つ「栗山家住宅」が、まさに新町の中心地に建設されていたという事実は、この都市誕生のリアルタイムな過程を紐解く上で極めて重要である 1 。栗山家は後に代官所の公金出納を代行する「掛屋」も務めた南大和有数の豪商であった 19

この事実は、単なる偶然とは考えにくい。むしろ、重政の都市計画が公式に布告される以前から、彼と栗山家のような有力商人との間には緊密な連携があったことを示唆している。重政がビジョンを提示し、それに応えた商人が先行投資を行うという、一種の「官民連携」による都市開発が、当時すでに始まっていたのである。

1608年以降、新町の建設現場は槌音と人々の活気に満ち溢れていただろう。均一に区画された土地に、吉野の木材をふんだんに使った新しい町家が次々と建てられていく。街道沿いには、材木商や穀物商の店が構えられ、旅籠屋が旅人を迎え、様々な職人が工房を開いた。旧五條の伝統的な賑わいと、新町の計画的な活気が融合し、新たなエネルギーが生まれていく。創設期の町家は、栗山家や中家住宅に見られるように、本瓦葺きの重厚な屋根を持ち、度重なる火災を教訓に壁を漆喰で厚く塗り固めるなど、防火への強い意識が見られる 35 。それは、戦乱の世を生き抜いた人々が、恒久的な安住の地と商売の繁栄を願う、切実な思いの表れでもあった。


第四部:五條新町の構造と歴史的意義

第一章:旧「五條」と新「新町」の対比

五條市の歴史的町並みの最大の魅力は、中世以来の「五條」と、近世初頭に誕生した「新町」という、成り立ちの異なる二つの町が隣接し、一体となって現存している点にある 1

旧「五條」の町並みは、湾曲した道と、間口も奥行きも不均一な敷地割りを特徴とする 21 。これは、人々が自然と住み着き、長い年月をかけて形成された有機的な都市構造である。一方、松倉重政が創設した「新町」は、直線的に貫く街道と、それに沿って短冊状に均一に区画された敷地割りという、極めて幾何学的な都市構造を持つ 20

この対比は、単なる景観の違いに留まらない。「五條」が土地に根差した共同体という中世の思想を象徴するのに対し、「新町」は領主の権力と経済合理性によって計画的に生み出された近世の「システム」を象徴している。五條の町並みを歩くことは、この二つの時代の思想が物理的な形で共存する、生きた歴史博物館を体験することに他ならない。

第二章:戦国から近世へのパラダイムシフト

五條新町の成立と成功は、日本の歴史における大きなパラダイムシフトを象徴する出来事である。それは、武力による領土拡大を至上価値とした戦国の「武」の時代から、経済力による領国経営を重視する近世の「商」の時代への転換である。

この転換を体現したのが、松倉重政その人であった。彼は関ヶ原の戦場での武功によって大名としての地位を確立したが、その後の領国経営では、軍事力ではなく「諸役免許」という経済政策によって目覚ましい成功を収めた。武将としての顔と、都市経営者としての顔を併せ持つ彼は、まさに時代の過渡期を生き抜いた人物であった。

彼の人物像は、後に転封された島原での苛政とキリシタン弾圧によって「暴君」としての評価が定着している 31 。しかし、五條での彼は間違いなく「名君」として慕われていた 2 。この評価の落差は、彼が倫理的な君主というよりは、状況に応じて最適な手法を選択する冷徹なリアリスト、あるいは合理的な経営者であったことを示している 39 。五條においては、領地をゼロから開発する必要があったため、彼の経営手腕が領民の利益と幸福な形で一致したのである。領主がインフラを整備し、税制優遇で民間の活力を引き出し、交通の要衝という立地を活かして地域経済のハブを形成する、という五條新町の成功モデルは、その後の江戸時代の多くの商家町発展の先駆けとなった。


結論:1590年の問いへの回答

本報告書が探求してきた「五條新町成立(1590年)」という問いに対する最終的な回答は、以下の通りである。

天正十八年(1590年)は、五條新町が物理的に建設された年ではない。しかし、それは豊臣秀長の統治によって大和国に戦国時代以来の平和と秩序がもたらされ、近世的な商業都市が「生まれうる土壌が耕された年」として、極めて重要な意味を持つ。秀長がもたらした安定という基盤がなければ、その後の発展はあり得なかった。

そして、その土壌の上に、関ヶ原の戦いを経て登場した新時代の担い手、松倉重政が、慶長十三年(1608年)に「新町」という名の「種」を蒔いた。それは、彼の領主としての野心と、商人たちの経済合理性、そして平和な時代の到来を求める人々の願いが結実したものであった。

したがって、「五條新町成立」という事象は、特定の一点で完結した出来事ではない。それは、1590年の豊臣による天下統一から、1608年の徳川政権下での都市創設に至る18年間の、壮大な権力移行と社会変革のプロセスそのものを内包している。一つの町の誕生譚を通して、我々は日本の歴史が戦国の終焉から近世の黎明へと大きく転換した時代のダイナミズムを、リアルに感じ取ることができるのである。

引用文献

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  8. 出世街道をふたりで爆進した【豊臣兄弟】の出自の謎とその活躍とは⁉ 豊臣秀吉と豊臣秀長 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/44207
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  13. 豊臣秀長とは?兄・豊臣秀吉との関係やその活躍を紹介 - チャンバラ合戦 https://tyanbara.org/column/28751/
  14. 天下人を支えたナンバー2。大和大納言、豊臣秀長 https://www.yamatotsurezure.com/entry/hidenaga
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