京・公家町地子免許(1587)
天正15年、秀吉は京都公家町に地子免許を発令。応仁の乱で荒廃した公家町の復興を促し、内裏周辺に集住させ朝廷を統制下に置く戦略。近世京都の都市構造の礎となり、現代の京都御苑の原型を形成した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天下人の首都改造と朝廷掌握の布石 ― 天正十五年「京・公家町地子免許」の時系列的・多角的分析
序章:単なる税制優遇ではない「地子免許」
天正15年(1587年)、豊臣秀吉によって発令された「京・公家町地子免許」は、一般に「地子(宅地税)の免除によって、応仁の乱で荒廃した公家町の復興を促進した政策」として知られている。この理解は決して誤りではないが、事象の表層を捉えるに過ぎない。この一つの政策を歴史の深層に位置づけたとき、それは単発の経済政策という枠を遥かに超え、天下人・豊臣秀吉が描いた壮大な国家構想における、計算され尽くした戦略的な一手に他ならなかったことが明らかとなる。
天正15年という年は、秀吉の権力が軍事的、政治的に一つの頂点に達した画期的な年であった。春には九州を平定し、長年の戦乱に終止符を打つ天下統一事業を最終段階へと導いた 1 。その権勢を背景に、国内の秩序維持に対する断固たる意志を伴天連追放令という形で示し、秋には自身の政庁であり権威の象徴でもある聚楽第を京都に完成させた。
本報告書は、この「公家町地子免許」を、秀吉が強力に推進した「京都改造」という巨大な都市計画プロジェクトと、彼の朝廷政策という二つの大きな歴史的潮流が交差する一点として捉え直すものである。単に政策の概要を解説するのではなく、なぜ天正15年という激動の年であったのか、そのリアルタイムの時系列の中で政策が発令された背景、秀吉の真の意図、そしてそれが後の日本の歴史、とりわけ首都・京都の都市構造に与えた不可逆的な影響までを、多角的に分析・解明することを目的とする。
第一部:政策の前提 ― 荒廃からの再生を目指す首都・京都
「京・公家町地子免許」という政策がなぜ必要とされたのかを理解するためには、まずその舞台となった京都が、百年にわたる深刻な荒廃と社会構造の崩壊に喘いでいたという事実を直視しなければならない。応仁・文明の乱は、この都に癒やしがたい傷跡を残し、特に公家社会を存亡の危機に陥れていた。
第一章:応仁・文明の乱が残した爪痕
文明9年(1477年)に終結した応仁・文明の乱は、実に11年間にわたり日本の政治・経済の中心地であった京都を主たる戦場とした。その結果、市街地は物理的に壊滅的な打撃を受け、多くの寺社仏閣や公家・武家の邸宅が灰燼に帰した 4 。かつての華やかな都の景観は失われ、市街中心部でさえ焼け野原が広がる有様であった。
この物理的破壊は、都市構造そのものにも深刻な影響を及ぼした。戦乱を通じて、京都は事実上、北の上京と南の下京という二つの独立した都市に分裂した。それぞれの住民(町衆)は自衛のために市街地の周囲に土塁や堀からなる「惣構(そうがまえ)」を築き、京都は統一された首都としての性格を失い、武装した城塞都市の集合体へと変貌を遂げたのである 4 。
さらに深刻であったのは、公家社会の経済的基盤の完全な崩壊である。乱は全国に波及し、公家たちの収入源であった地方の荘園は、現地の守護大名や国人といった武士階級によってことごとく侵奪された。これにより、彼らは収入の道を絶たれ、その多くが名ばかりの貴族へと転落した。邸宅を失った公家は地方の縁故を頼って下向するか、あるいは京都の片隅で零落した生活を余儀なくされ、朝廷の権威は地に落ちた 7 。公家社会の困窮は、天皇の即位式や元号の改元といった国家の最重要儀式さえ、戦国大名の献金なしには執り行えないほど深刻な状況を呈していた。
第二章:織田信長による復興の端緒と限界
この百年にわたる混沌に終止符を打ち、京都の秩序回復に着手したのが織田信長であった。永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛した信長は、まず武力によって京都を平定し、町衆が享受していた高度な自治に終止符を打った 8 。そして、将軍・義昭のために二条城を築城するなど、荒廃した市街地の一部再編に着手し、武家権力による都市支配を再確立した 9 。
信長はまた、朝廷の伝統的権威の価値を鋭く見抜いていた。彼は内裏の修理や朝廷儀式の復興を経済的に支援し、困窮する公家社会に一定の保護を与えた。しかし、それはあくまで自身の「天下布武」事業を正当化し、円滑に進めるために朝廷の権威を利用するという、極めて政治的な計算に基づくものであった。信長の関心は日本全土の統一にあり、京都の全面的かつ計画的な都市改造は、彼の構想の主眼ではなかった。そのため、信長の支援は限定的であり、公家社会全体の経済的困窮を根本的に解決するには至らず、分裂した都市構造も手付かずのまま残された。信長の事業は、まさしく京都復興の「端緒」を開いたに過ぎず、その完成は後継者である豊臣秀吉の手に委ねられることとなる。
第二部:天下人・豊臣秀吉のグランドデザイン
織田信長の事業を継承した豊臣秀吉は、京都に対して単なる復興を遥かに超える壮大なビジョンを抱いていた。それは、荒廃した古都を修復するのではなく、自身の絶対的な権威を象徴し、新たな時代を統治するための「首都」として、京都を根本から造り替えるという野心的な計画であった。彼の政策は、物理的な空間の再編と社会秩序の再編を同時に、かつ相互に連携させて進める、極めて高度な国家建設プロジェクトとしての性格を帯びていた。
第一章:首都・京都の再定義 ― 「京都改造」計画の全貌
秀吉が断行した一連の都市改造事業は、個別の土木工事の集合体ではなく、明確な設計思想に基づき、相互に連携した一つの巨大なシステムであった。
- 政治の中心・聚楽第の建設: 天正13年(1585年)に関白に就任した秀吉は、その翌年から平安京の大内裏跡地という由緒ある場所に、新たな政庁兼邸宅として「聚楽第」の建設を開始した 10 。これは、大坂城という豊臣「家中」の拠点、すなわち「私」の城から、京都という「公儀」の首都へ政治の中心を移すという明確な意志の表明であった 9 。聚楽第は、天皇を迎え、諸大名を臣従させるための、新たな公的空間の中核として構想されたのである。
- 都市の境界線・「御土居」の築造: 秀吉は、京都の市街地(洛中)をぐるりと囲む、総延長22.5kmにも及ぶ巨大な土塁と堀、すなわち「御土居」を建設した 6 。この壮大な建造物は、第一に洛中と洛外の境界を物理的に画定し、支配の及ぶ都市の範囲を明確にする役割を果たした 6 。第二に、鴨川の氾濫から市街地を守る治水機能と、外敵の侵入を防ぐ防衛機能を兼ね備えていた 14 。御土居の建設は、曖昧模糊としていた中世都市の輪郭を確定させ、近世的な都市空間を創出する画期的な事業であった。
- 身分によるゾーニング(居住区再編): 秀吉は、御土居で画定した都市内部の空間を、身分に応じて計画的に再編成した。市中に散在していた寺院を新設した寺町通沿いに強制的に移転させて「寺町」を形成 15 。全国の諸大名には聚楽第周辺に屋敷を構えることを義務付け、「武家町」を創出した。そして、本報告書の主題である「公家町」を内裏周辺に集約させた 17 。これは、太閤検地や刀狩によって全国の土地と人間を「農・工・商・武」に分類・固定化しようとした彼の統治思想と軌を一にするものであり、都市空間において社会秩序を可視化・固定化する試みであった 1 。
- 効率化の追求・「天正の地割」: 天正18年(1590年)頃から、秀吉は京都の伝統的な正方形の街区(町)の中央に新たに南北の小路を通し、区画を二つの短冊形に再編する「天正の地割」を断行した 19 。これにより、従来は利用効率の低かった街区中央部の空閑地が開発され、人口増加に対応できる高密度の都市基盤が整備された。この短冊形の町割は、現在の京都の市街地にも色濃くその痕跡を残している。
第二章:権威の源泉 ― 秀吉の朝廷政策
秀吉の統治術の核心は、圧倒的な武力を背景としながらも、伝統的な権威の源泉である朝廷を巧みに利用し、そして自身の統制下に置いた点にある。
- 公家社会の頂点へ: 彼は、天正13年(1585年)に関白、翌14年(1586年)には天皇から豊臣の姓を賜り、太政大臣に就任するという手続きを踏むことで、武家でありながら公家社会の頂点に立つという前代未聞の地位を確立した 1 。これにより、彼は名実ともに日本の最高統治者としての正統性を手に入れた。
- 朝廷権威の政治利用: 秀吉は、この正統性を最大限に活用した。その典型が、全国の大名に対し、私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」の発布である 1 。これは、秀吉個人の命令ではなく、天皇の勅命という形式をとることで、抗うことのできない絶対的な権威を付与された。この命令に従わない大名は「朝敵」と見なされ、征伐の対象となったのである 1 。
- 保護と統制の二面性: 秀吉の朝廷政策は、単なる利用に留まらなかった。彼は、戦乱で失われた公家領の再編や経済的支援を行うことで、朝廷と公家社会の「保護者」として振る舞った 23 。しかし、その一方で、彼らを自身の構築する新たな政治秩序の中に厳格に組み込み、その政治的影響力を完全に管理下に置こうとした。この「保護」という名目(アメ)と「統制」という実利(ムチ)を両立させる巧みな二面性こそが、秀吉の朝廷政策の本質であり、「公家町地子免許」もまた、この基本戦略の延長線上に位置づけられるのである。
これらの都市改造と朝廷政策は、別個に進められたわけではない。物理的空間を再編し、その中に身分ごとに人間を配置するという手法は、社会全体を整理・固定化しようとする秀吉の統治思想そのものであった。この壮大な国家建設プロジェクトの中で、「公家町地子免許」は、「公家」という特定の社会階層を、指定された物理的空間(公家町)に配置し、統制するための、経済的インセンティブという名の極めて効果的な「道具」として機能したのである。
第三部:激動の天正十五年 ― 「地子免許」が発令されたリアルタイムの文脈
「京・公家町地子免許」の真の意図を理解するためには、それが発令された天正15年(1587年)という年が、豊臣秀吉の権力がいかに絶頂にあり、国内外でいかなる激動が起きていたかを、時系列に沿って追体験する必要がある。この政策は、静的な状況下で立案されたものではなく、天下統一事業のクライマックスと首都建設の槌音が響き渡る、ダイナミックな歴史の渦中で生まれたのである。
表1:天正15年(1587年)主要関連事項年表
時期 |
秀吉の動向(天下統一事業) |
京都での出来事(首都改造) |
国内統制・その他 |
1月~5月 |
九州平定 |
聚楽第の建設、最終段階へ |
|
3月1日 |
大坂城を出陣し、九州へ 24 |
|
|
5月8日 |
島津義久が降伏、九州平定完了 1 |
|
|
6月~7月 |
伴天連追放令 |
|
日本人奴隷貿易への言及 25 |
6月19日 |
九州・博多にて伴天連追放令を発令 26 |
|
|
9月~10月 |
聚楽第完成と京都への拠点移動 |
|
|
9月13日 |
秀吉、大坂から聚楽第へ移る 28 |
聚楽第が完成 10 |
|
(この時期) |
|
京・公家町地子免許の発令 |
北野大茶会の準備 |
10月1日 |
北野天満宮にて大茶会を開催 |
|
|
時系列解説:権力の頂点における政策決定
- (春)九州平定 ― 軍事的権力の絶頂: 天正15年の幕開けと共に、秀吉は自ら20万を超える大軍を率いて九州へ出陣した。長年、九州の覇権を争っていた薩摩の島津氏に対し、秀吉は圧倒的な物量と巧みな外交戦略でこれを包囲。5月8日、島津義久は降伏し、ここに九州は完全に豊臣政権の支配下に入った 1 。これにより、東国の北条氏と奥州の諸大名を残すのみとなり、秀吉の天下統一は事実上、最終段階を迎えた。この軍事的成功は、秀吉の権威を揺るぎないものとし、国内のあらゆる勢力に対して、彼に抗うことは不可能であるという現実を突きつけた。
- (夏)伴天連追放令 ― 国内統制への強い意志: 九州平定という軍事的成功の直後、秀吉は滞在先の博多において、突如として「伴天連追放令」を発令する 26 。この法令は、キリスト教宣教師の国外退去を命じるものであった。その背景には、ポルトガル商人らが日本人を奴隷として海外に売買していることへの強い嫌悪感があったとされる記録が残っている 25 。同時に、キリスト教の教えが日本の伝統的な社会秩序や神仏を否定するものであり、その勢力拡大が国内統治の不安定要因になりうることへの深い警戒心があった。この唐突にも見える政策は、秀吉が軍事力のみならず、国内の思想や文化に至るまで、自身の絶対的な統制下に置こうとする強い国家意志の表れであった。
-
(秋)聚楽第の完成と「公家町地子免許」― 首都整備の総仕上げ:
九州から凱旋した秀吉を待っていたのは、彼の新たな政庁、聚楽第の完成であった。9月、秀吉は本拠を大坂城からこの聚楽第へと正式に移し、京都は名実ともに豊臣政権の首都となった
28
。そして、この
聚楽第の完成とほぼ時を同じくして、「京・公家町地子免許」が発令された と見られている。
このタイミングは、決して偶然ではない。天下統一が目前に迫り(武)、国内統制の方針が定まり(政)、そして新たな首都の物理的中核(聚楽第)が完成した(都)。この、秀吉の権力が軍事的・政治的に最高潮に達した絶好の機会を捉え、彼は首都改造の最後のピース、すなわち朝廷権威の担い手である公家衆の居住区整備に、満を持して着手したのである。
地子免許という経済的なインセンティブ、すなわち「アメ」がこれほどまでに効果的であったのは、その背景に、九州平定で示された圧倒的な「武」の力と、伴天連追放令で示された国内統制への断固たる意志という、抗いがたい「ムチ」が存在したからに他ならない。公家衆にとって、秀吉の都市計画に従うことは、単に経済的な利益を得るという選択ではなく、この新しい時代の絶対権力者の下で生き残るための、唯一の道であった。政策の成功は、その内容以上に、それが発令された「時」の文脈に大きく依存していたのである。
第四部:政策の核心 ― 「公家町地子免許」の構造と意図
天正15年の秋、権力の絶頂期に発令された「公家町地子免許」は、その巧妙な制度設計の中に、秀吉の二重の意図が織り込まれた、極めて高度な政策であった。その構造を解剖することで、単なる経済支援策ではない、政治的統制策としての本質が浮かび上がってくる。
第一章:「地子」とは何か ― 都市住民の経済的負担
まず、政策の核心である「地子(じし)」について正確に理解する必要がある。地子とは、古代から近世にかけて存在した地代の一形態であるが、特に室町時代以降の都市部においては、町屋敷地、すなわち宅地に対して課される税を指す言葉として定着した 30 。これは、農村における田畑からの収穫物で納める「年貢」に相当するものであり、都市の領主(この場合は豊臣秀吉)にとって重要な財源であった 31 。
地子は、貨幣経済が浸透していた都市の性格を反映し、多くの場合、銭で納められたため「地子銭(じしせん)」とも呼ばれた 33 。その額は、屋敷が面する通りの間口の広さなどを基準に算定されたとされる。荘園という経済基盤を完全に失い、日々の生活にも困窮していた当時の公家たちにとって、たとえわずかな額であっても、この地子銭の支払いは決して軽視できない経済的負担となっていた。
第二章:公家町の形成と地子免許 ― 移転を促す経済的インセンティブ
秀吉の京都改造計画の柱の一つが、身分ごとの居住区の明確化、すなわちゾーニングであった。その中で、応仁の乱以降、上京や下京の市中にバラバラに居住していた公家たちを、天皇の住まいである内裏(禁裏御所)の周辺に集住させ、計画的な「公家町」を形成する構想が進められた 17 。この公家町建設は、天正13年(1585年)頃から始まり、天正19年(1591年)頃まで段階的に行われたとされている 35 。
「公家町地子免許」は、この集住計画を円滑かつ迅速に進めるための、極めて強力な推進力として機能した。すなわち、秀吉が指定した公家町の区域内に、新たに屋敷を建設、あるいは移転してくる公家に対して、その屋敷地の地子を永続的に免除するというのが、この政策の骨子である。これは、移転や新築に伴う経済的負担に喘ぐ公家たちにとって、まさに干天の慈雨であった。秀吉は、地子という直接的な経済負担を取り除くことで、彼らが自発的に自身の都市計画へ参加するよう巧みに誘導したのである。この政策は、強制移住という強権的な手法ではなく、経済的インセンティブという名の「アメ」を用いることで、公家たちの抵抗を和らげ、計画を円滑に進めるための見事な方策であった。
第三章:秀吉の二重の意図 ― 保護と統制
この一つの政策には、秀吉の老獪ともいえる二重の戦略的意図が込められていた。それは「保護」という公的な名目と、「統制」という政治的な実利である。
-
意図1(保護):経済的救済による恩顧の形成
地子を免除することは、困窮する公家衆に対する直接的な経済支援に他ならない。これにより、秀吉は自らが朝廷と公家社会の伝統を尊重し、その生活を保障する「保護者」であることを内外に示すことができた 23。応仁の乱以来、どの武家権力も成し得なかった公家社会の経済的安定に道筋をつけたことで、公家たちの秀吉に対する感謝と信頼を醸成し、今後の政権運営における彼らの協力を円滑に取り付ける狙いがあった。これは、伝統的権威に対する敬意を示すことで、自らの支配の正統性を補強するという、秀吉ならではの統治術であった。 -
意図2(統制):集住による監視と政治力の管理
しかし、この政策の真の狙いは、その裏側に隠された「統制」にあった。公家たちを内裏周辺の一区画に物理的に集めることで、彼らの日々の動向を容易に把握し、実質的な監視下に置くことが可能になる。これにより、公家が地方の大名など他の政治勢力と独自に結びつき、政権にとって不利益な策謀を巡らせることを未然に防ぐことができる。さらに重要なのは、天皇の住まう「内裏」、公家たちの居住区「公家町」、そして秀吉の政庁「聚楽第」を物理的に近接させる都市計画である 36。これにより、秀吉の権力中枢が、伝統的権威の中枢である朝廷を物理的にも掌握し、完全にコントロール下に置くという政治的構図が完成するのである。
このように、「公家町地子免許」は、経済政策という穏やかな衣をまとってはいるが、その本質は極めて高度な政治的統制策であった。秀吉は、地子という歳入を放棄するというわずかな経済的コストと引き換えに、日本の伝統的権威の源泉である朝廷と公家社会を物理的・政治的に掌握するという、計り知れないほど大きなリターンを得たのである。これは、彼の統治者としての合理性、先見性、そして時に見せる狡猾さを示す、象徴的な事例と言えるだろう。
第五部:政策の帰結と歴史的遺産
「京・公家町地子免許」がもたらした影響は、一過性のものに終わらなかった。それは、豊臣政権の権威を最大限に演出する短期的な効果を発揮すると同時に、その後の京都の都市構造を決定づける、永続的な歴史的遺産を残すことになった。
第一章:聚楽第行幸への布石 ― 権威の可視化
政策が発令された翌年の天正16年(1588年)4月、後陽成天皇が秀吉の聚楽第へ行幸するという、日本の歴史上、画期的な一大政治イベントが挙行された。「公家町地子免許」は、このイベントを成功裏に導くための、極めて重要な布石として機能した。
地子免許というインセンティブによって整備が進んだ公家町は、内裏から聚楽第へと向かう天皇の行列が通るルートを荘厳に飾る、壮大な舞台装置の一部となった 36 。応仁の乱の焼け跡が広がっていたかつての光景とは一変し、整然と立ち並ぶ公家たちの新しい屋敷群は、秀吉の徳政によって朝廷がかつての栄華を取り戻しつつあることを、天下の万民に視覚的に示す絶好のプロパガンダとなったのである。
この歴史的な行幸は、天皇が臣下である関白・秀吉の邸宅を公式に訪問するという前代未聞の出来事であり、天皇が持つ伝統的な権威と、秀吉が持つ現実的な権力が完全に一体化し、新たな治世が始まったことを内外に宣言するものであった 28 。この壮大な権威の可視化を成功させる上で、地子免許によって創出された新しい公家町の景観は、不可欠な地ならしだったのである。
第二章:近世京都の都市構造への影響
「公家町地子免許」がもたらした最も永続的な影響は、近世から近代、そして現代に至る京都の都市構造と景観の骨格を形成した点にある。
- 公家町の定着と京都御苑の原型: 秀吉によって内裏周辺に計画的に形成された公家町は、その後の徳川の世においても存続し、江戸時代を通じて公家たちの居住区として定着した。そして、明治維新を経て公家たちが東京へ移住した後、その広大な屋敷跡地群が一体的に整備され、現在の「京都御苑」となった 34 。我々が今日、京都の中心部で目にするあの広大な緑地空間の歴史的起源は、まさしく秀吉のこの都市計画に直接遡ることができるのである。
- 近世都市・京都の完成: この政策は、秀吉の京都改造計画全体を完成させるための重要なピースであった。内裏周辺の「公家町」、聚楽第周辺の「武家町」、寺町通沿いの「寺町」、そしてそれ以外の「町人地」という、身分に応じた居住区の明確なゾーニングは、秀吉の一連の政策によって初めて実現した 15 。「公家町地子免許」は、その中でも最も扱いの難しい、伝統的権威の担い手である公家たちを、見事に都市計画のパズルの中に組み込む役割を果たした。これにより、京都は応仁の乱以来の混沌とした中世都市から、身分秩序が空間的に明示された、整然たる近世都市へと決定的な変貌を遂げたのである。
この政策は、秀吉という一人の人物が抱いていた国家統治の哲学、すなわち、社会のあらゆる要素を分類・整理し、秩序あるピラミッド構造の中に配置して統制するという思想の、都市空間における壮大な実践例であった。その思想が物理的な都市計画として結晶化した結果、それは一過性の政策に終わることなく、400年以上の時を超えて現代の京都の景観にまで影響を及ぼす、極めて重い歴史的遺産となったのである。
結論:秀吉の都市政策における「公家町地子免許」の再評価
天正15年(1587年)に発令された「京・公家町地子免許」は、その歴史的文脈と多層的な意図を深く分析した結果、単に「地子免で公家町の復興を促進」した経済政策という一面的な評価では到底捉えきれない、極めて戦略的かつ画期的な事変であったと結論づけられる。
本報告書で明らかにした通り、この政策は以下の複合的な性格を有していた。
- 都市復興策として: 応仁・文明の乱以来、百年にわたり荒廃していた首都・京都、とりわけ公家社会の経済的基盤と居住環境を再建する、具体的な復興策であった。
- 都市計画として: 秀吉が推進した壮大な「京都改造」の一環であり、内裏周辺に公家を集住させることで、身分制に基づく計画的なゾーニングを完成させる、高度な都市計画であった。
- 政治的統制策として: 経済的支援という「保護」の名目の下に、公家たちを物理的に一箇所に集め、その動向を監視下に置き、政治的影響力を管理するという「統制」の実利を完璧に両立させた、巧妙な政治的統制策であった。
- 戦略的政策として: 九州平定を成し遂げ、聚楽第を完成させた天正15年という、自身の権力が軍事的・政治的に絶頂に達したタイミングを的確に捉えて発令された、計算され尽くした戦略的な一手であった。
総じて、「京・公家町地子免許」は、豊臣秀吉の合理的かつ徹底した統治思想を象徴する政策であり、その影響は聚楽第行幸という短期的な成功に留まらず、現代の京都御苑の原型を形成するという長期的な都市構造にまで及んでいる。それは、中世の混沌から近世の秩序へと日本社会が大きく移行する時代の転換点において、首都・京都の新たな姿を決定づけた画期的な事変として、日本史・都市史研究において再評価されるべきである。
引用文献
- 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
- 豊臣秀吉の合戦年表 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/84551/
- 日本史/安土桃山時代の年表 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama-chronological/
- 応仁の乱で京都は焼け野原に!戦場となったのは一部だけ? (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/11523/?pg=2
- 応仁の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 御土居 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%9C%9F%E5%B1%85
- 日野富子|ヒロインの視点|シリーズ記事 - 未来へのアクション - 日立ソリューションズ https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_heroine/03/
- 「応仁の乱」から京都が復興を遂げた意外な理由 ザビエルも驚いた!「堺の街」の圧倒的経済力 https://toyokeizai.net/articles/-/377179?display=b
- <紹介>日本史研究会編『豊臣秀吉と京都 : 聚楽第・御土居と伏見城』 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239745/1/shirin_086_2_287.pdf
- 都市史18 聚楽第と御土居 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi18.html
- 京都市上京区役所:秀吉の都市改造 https://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012443.html
- 第7号 - pauch.com http://www.pauch.com/kss/g007.html
- タモリさんもびっくりした「御土居」 - Kyoto Love. Kyoto 伝えたい京都 https://kyotolove.kyoto/I0000032/
- 京の都を守った御土居の遺跡を訪ねる https://kyototwo.jp/post/attractions/6896/
- 京都の景観・まちづくり史 - 京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000281/281300/03(dai2syou).pdf
- 豊臣秀吉と「都づくり」 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/400.pdf
- 史跡宇治川太閤堤跡 保存整備フォーラム2015 - 宇治市 https://www.city.uji.kyoto.jp/uploaded/attachment/1014.pdf
- 豊臣秀吉の事業承継・後継者対策/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/96456/
- 第1章 京都市の歴史的風致形成の背景 https://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/cmsfiles/contents/0000116/116792/1_3_1.pdf
- 豊臣秀吉の関白就任 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/hideyoshi-kanpaku/
- 豊臣秀吉の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64306/
- 豊臣秀吉〜一世一代で成り上がった日本一の出世人〜 | GOOD LUCK TRIP https://www.gltjp.com/ja/directory/item/13096/
- 朝廷と公家社会|その栄枯盛衰の歴史(第5回) | 歴史|悠久の時の https://www.toshichannelxyz.com/%E6%9C%9D%E5%BB%B7%E3%81%A8%E5%85%AC%E5%AE%B6%E7%A4%BE%E4%BC%9A%EF%BD%9C%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%A0%84%E6%9E%AF%E7%9B%9B%E8%A1%B0%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BC%88%E7%AC%AC5%E5%9B%9E%EF%BC%89/
- 完全戦国年表1582-1590 https://www.merkmark.com/sengoku/nenpyo/ksnx_14.html
- バテレン追放令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
- 「大量の日本人女性を、奴隷として本国に持ち帰る」豊臣秀吉がキリスト教追放を決意したワケ 手足を鎖につなぎ、船底に押し込む - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/52513?page=1
- キリシタンの受難のはじまり:豊臣秀吉から徳川幕府初期まで 豊臣秀吉と伴天連追放令 日本に https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001553813.pdf
- 深掘り! 聚楽第 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza333.pdf
- 学芸ノート 【第9回】 高岡御車山のルーツ!?『聚楽行幸記』 https://www.e-tmm.info/gakugei-9.htm
- 地子(ジシ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E5%AD%90-73184
- ja.wikipedia.org https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1#:~:text=%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1%EF%BC%88%E3%81%98%E3%81%97,%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E3%81%8C%E5%85%8D%E9%99%A4%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%80%82
- 地子免許 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E5%85%8D%E8%A8%B1
- 地子銭(ジシセン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%9C%B0%E5%AD%90%E9%8A%AD-73228
- 平安京左京一条四坊十町跡・ 公家町遺跡・京都新城跡 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/chousahoukoku/2019-11.pdf
- 公家町遺跡(安禅寺杉之坊)出土品 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/34/34662/63688_1_%E5%B9%B3%E6%88%9029%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%9F%8B%E8%94%B5%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%81%BA%E7%89%A9%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E6%8C%87%E5%AE%9A%E6%BA%96%E5%82%99%E6%A5%AD%E5%8B%99%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8.pdf
- 聚楽第行幸当時の聚楽第付近の大通り http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/odori.htm
- 歴史的要因その1 https://www1.doshisha.ac.jp/~prj-0908/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%EF%BC%91.html