大和郡山城改修(1580)
天正八年、信長の命で筒井順慶は大和郡山城の改修に着手。旧来の城を破却し、権力を集約した。後に豊臣秀長が城主となると、百万石にふさわしい大城郭へ拡張され、城都として繁栄した。
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大和郡山城改修(1580年):戦国大和における支配構造の再編と近世城郭の誕生
序章:戦国大和の転換点
天正8年(1580年)、筒井順慶によって着手された大和郡山城の改修は、単なる一城郭の築城、あるいは改築という事象に留まるものではない。それは、長らく「社寺の国」として特異な政治体制を維持してきた大和国が、織田信長の天下布武という巨大な奔流の中で、「武家の国」へとその本質を不可逆的に変容させる過程を象徴する、画期的な出来事であった。本報告書は、この「大和郡山城改修」という事変を、軍事拠点としての側面のみならず、政治的象徴、経済的中心、そして支配者のイデオロギーが投影された媒体として多角的に分析し、その歴史的意義を時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。
ご提示いただいた「筒井・豊臣系により近世城郭化」という情報は、この複雑な歴史事象の核心を的確に捉えている。しかし、その背景には、宿敵・松永久秀との長年にわたる死闘、織田信長による周到な大和支配戦略、そして豊臣政権下での中央集権体制の確立という、重層的な歴史的文脈が存在する。本報告書では、これらの文脈を丹念に解きほぐし、天正8年という一点から、戦国末期の大和国で繰り広げられたダイナミックな権力構造の再編をリアルタイムで描き出すことを試みる。城郭の石垣に刻まれた歴史の痕跡を読み解き、その普請の過程に隠された政治的意図を明らかにすることで、大和郡山城が中世から近世への扉を開く鍵となった様を詳述する。
第一章:大和郡山城改修の黎明 ― 天正八年(1580年)に至る道程
第一節:興福寺支配の終焉と織田信長の影
戦国時代の大和国は、他の地域とは著しく異なる政治的風土を有していた。鎌倉時代以降、守護職は武家ではなく、大和最大の荘園領主であった興福寺が実質的にその権能を掌握していた 1 。国内の武士たちは、興福寺から僧侶の資格を与えられることで「衆徒」や「国民」といった身分を得て、興福寺を頂点とする統治システムに組み込まれていたのである 1 。この「社寺の国」とも言うべき体制は、強力な戦国大名の台頭を許さず、筒井氏、越智氏、十市氏といった国人衆が群雄割拠する状態を長く継続させていた 1 。
応仁の乱が勃発すると、大和の国人衆も東西両軍に分かれて激しく争い、国内は戦乱の時代に突入する 1 。中でも筒井氏と越智氏が二大勢力として台頭し、大和の覇権を巡って一進一退の攻防を繰り広げた。しかし、この均衡を大きく揺るがしたのが、畿内に進出してきた三好長慶の家臣、松永久秀であった。永禄2年(1559年)に大和へ侵攻した久秀は、多聞山城を築いて一大拠点を確立し、筒井順慶をはじめとする在地勢力を圧倒した 4 。
この混沌とした状況に決定的な影響を与えたのが、永禄11年(1568年)の織田信長の上洛である。信長は足利義昭を将軍に擁立し、畿内の秩序回復に着手する。当初、久秀はいち早く信長に臣従し、大和一国の支配を認められた 4 。これにより、筒井順慶は本拠地である筒井城を追われ、苦境に立たされる。しかし、順慶は諦めず、反信長勢力である三好三人衆と結ぶなどして抵抗を続け、辰市合戦での勝利を機に勢力を回復 4 。やがて明智光秀の仲介を経て信長に臣従し、大和国内における松永・筒井両氏の並立という不安定な時代が続くこととなる 6 。信長にとって、京と本国である尾張・美濃を結ぶ戦略的要衝である大和国の安定化は、天下布武を進める上での喫緊の課題であった。
第二節:宿敵松永久秀の滅亡と筒井順慶の大和統一
大和国における長年の混乱に終止符を打ったのは、天正5年(1577年)の信貴山城の戦いであった。織田信長に対して二度目の反旗を翻した松永久秀に対し、信長は嫡男・信忠を総大将とする大軍を派遣。この討伐軍の中核を担ったのが、他ならぬ筒井順慶であった 8 。順慶は積年の宿敵を信貴山城に追い詰め、同年10月10日、久秀は城に火を放ち自害した 9 。
この戦いにおける順慶の功績は絶大であり、信長の信頼を完全に勝ち取る決定的な契機となった。すでに天正4年(1576年)5月には、信長から「大和一国一円存知」として大和国の支配権を正式に認められ、大和守護に任じられていたが 6 、久秀の滅亡によって、その支配は名実ともに揺るぎないものとなった。信長政権下において、筒井順慶は大和国唯一の国主としての地位を確立し、ここに長きにわたる大和の戦乱は一つの終結を見たのである。
第三節:「一国一城令」と郡山城選定の戦略的判断
松永久秀という軍事的脅威が排除され、筒井順慶による大和支配が安定期に入ると、信長は次なる一手、すなわち大和国の支配構造を物理的に再構築する政策に着手する。天正8年(1580年)8月、信長は「大和一国破城令」(国中破城令)を発令した 6 。これは、順慶の居城となる城以外の、大和国内に存在する全ての城郭を破却せよという厳命であった。
この政策の狙いは、順慶以外の国人衆が持つ軍事的基盤を完全に解体し、彼らが再び独立した勢力として蜂起する可能性の芽を摘むことにあった。権力と軍事力を郡山の一点に強制的に集中させることで、信長の意向を体現する順慶を頂点とした、中央集権的な支配体制を大和国に確立しようとしたのである。
この新たな府城として選ばれたのが、郡山であった。郡山は奈良盆地の北西部に位置し、京都や大坂へと繋がる交通の要衝であった 14 。さらに、この地には古くから「郡山衆」と呼ばれる土豪たちが館を構え、「雁陣之城」と呼ばれる城砦が存在していた 16 。既存の拠点を接収し、それを拡張する形で新たな城を築くことは、効率的であると同時に、旧来の在地勢力の上に新しい支配体制を築き上げるという、強力な政治的メッセージを発信する効果も持っていた。
このように、大和郡山城の改修は、単なる築城計画の開始ではなかった。それは、信長による周到な「大和支配最終フェーズ」の一環として位置づけられる。軍事的平定(松永久秀の滅亡)、国内の潜在的抵抗拠点の物理的破壊(一国一城令)、そして自身の代理人(筒井順慶)を核とする新たな権力中枢の建設という、三位一体の国家改造プロジェクトの総仕上げが、この城の普請だったのである。
第二章:普請開始 ― 天正八年(1580年)の動態
天正8年(1580年)は、大和国の歴史が大きく動いた年であった。織田信長の厳命のもと、旧来の支配体制が解体され、新たな秩序が物理的な形を伴って構築されていく。その中心にあったのが、大和郡山城の普請であった。当時の記録、特に興福寺多聞院の僧侶・英俊が記した『多聞院日記』などを通して、この年の出来事を時系列で追うことで、歴史の転換点におけるリアルタイムな動態を浮き彫りにすることができる。
【表1】大和郡山城改修 年表(天正5年~天正13年)
年(西暦) |
月 |
出来事 |
天正5年 (1577) |
10月 |
信貴山城の戦い。松永久秀が滅亡し、筒井順慶が大和国を実質的に統一する 9 。 |
天正8年 (1580) |
3月 |
順慶、会ヶ峰村で鉄砲を鋳造させるなど、軍備増強を進める 13 。 |
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8月 |
織田信長が「大和一国破城令」を発令。郡山城以外の諸城の破却が開始される 6 。 |
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8月17日 |
順慶の旧本拠地である筒井城が破却される 6 。 |
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8月19日 |
明智光秀が普請見舞いの名目で大和国入りし、郡山城を視察する 18 。 |
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8月20日 |
大和国内の城の破却がほぼ完了する 18 。 |
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11月7日 |
信長が朱印状を発し、順慶に郡山城への入城と大和一国の支配を正式に命じる 18 。 |
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11月12日 |
筒井順慶が郡山城に正式に入城する 13 。 |
天正9年 (1581) |
- |
明智光秀が普請目付として本格的に築城に関与。大規模な近世城郭としての工事が開始される 15 。 |
天正10年 (1582) |
6月2日 |
本能寺の変が勃発。普請中の順慶は政治的に困難な立場に置かれる 7 。 |
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6月12日 |
順慶、郡山城にて国衆らと起請文を交わし、結束を固める 18 。 |
天正11年 (1583) |
- |
筒井氏時代の天守が完成する 12 。 |
天正12年 (1584) |
8月11日 |
筒井順慶が病死(享年36) 11 。 |
天正13年 (1585) |
閏8月 |
豊臣秀吉の命により、筒井定次が伊賀上野へ転封となる 3 。 |
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9月 |
豊臣秀長が100万石の太守として郡山城に入城。大規模な拡張工事を開始する 23 。 |
第一節:国中破城令の執行と資源の集中(天正8年 春~8月)
天正8年の春、順慶は来るべき新時代の拠点構築に向けて、すでに準備を進めていた。3月には会ヶ峰村で鉄砲を鋳造させており、軍事力の強化を怠っていなかったことが窺える 13 。そして夏、信長の「国中破城令」が下ると、大和の風景は一変する。
8月17日、長年にわたり筒井氏の本拠地であった筒井城が破却された 6 。これは、順慶自身も信長の絶対的な命令の前では例外ではあり得ないことを示す象徴的な出来事であり、過去の拠点との完全な決別を意味した。そして8月20日頃までには、大和国内に点在していた国人衆の城郭もそのほとんどが取り壊された 18 。この徹底した破城により、大和国内の軍事力は郡山の一点に集約されることになった。同時に、破却された城の石材や木材、そして城普請に従事していた人足といった資源もまた、郡山へと集中させることが可能な体制が整ったのである。
第二節:明智光秀の視察と普請計画の始動(天正8年 8月~10月)
破城が進行する中、信長の最も信頼する将の一人である明智光秀が、大和の地を訪れる。8月19日、光秀は「普請中の順慶を見舞う」という名目で大和国に入り、100名ほどの供を連れて郡山城の普請現場へと赴いた 18 。しかし、これは単なる儀礼的な見舞いではなかった。彼は信長の代理人、すなわち「普請目付」として、築城計画が信長の方針通りに進んでいるかを確認し、指導する役割を担っていたのである 12 。
光秀の滞在中、旧来の大和の支配者であった興福寺が礼として進物を贈るなど、丁重な対応を取っている 18 。これは、光秀個人の威光というよりも、彼の背後にある織田信長の絶大な権威を、大和の旧勢力が認めざるを得なかった状況を物語っている。この時期、光秀の指導のもとで、郡山城の具体的な縄張り(設計)や石垣の構築法、普請全体の工程などが最終決定されたと考えられる。そして、奈良中の大工が招集され、廃城となった松永久秀の多聞山城から大石が運び込まれるなど、国家事業としての大規模な工事が本格的に始動した 10 。
第三節:筒井順慶、郡山へ入る(天正8年 11月)
秋が深まる11月、大和国の新たな統治体制が公式に発足する。11月7日、信長は朱印状を発給し、筒井順慶に対して郡山城へ入城すること、そして大和国全てを順慶が支配すること(国中一円存知)を改めて正式に命じた 18 。
しかし、入城は平穏無事には進まなかった。郡山の在地勢力である「郡山衆」の筆頭、郡山辰巳父子が、新城主の入府に抵抗する動きを見せた可能性がある。順慶は、信長からの上使と共に郡山城を受け取ると、この辰巳父子を矢田の地で成敗した 12 。『多聞院日記』はこの一件を「永年の恨み」によるものと記しているが、それ以上に、新城主としての権威を確立し、いかなる抵抗も許さないという断固たる姿勢を内外に示すための、政治的な決断であったと分析できる 12 。
そして11月12日、全ての障害が取り除かれた後、筒井順慶は公式に大和郡山城へ入城した 13 。この日をもって、大和国の政治的中心は、長年の伝統を誇った奈良の諸寺院から、新興の城郭都市である郡山へと完全に移行したのである。
第四節:石の語る築城 ― 多聞山城の遺材と転用石の謎
郡山城の普請において、その初期段階から特徴的であったのが、資材の調達方法である。普請が開始されると、まず解体された宿敵・松永久秀の居城、多聞山城から大量の大石が運び出された 23 。これは、単に良質な石材を再利用するという合理的な判断に留まらない。敵の拠点を文字通り解体し、自らの城の礎として組み込むという行為は、勝利を誇示する極めて象徴的な意味合いを持っていた。
さらに、郡山城の石垣を特徴づけるのが、膨大な数の「転用石」の存在である。城の近隣では大規模な採石場が見つかっておらず、深刻な石材不足を補うため、領内の寺院から礎石や五輪塔、さらには石地蔵や墓石までもがかき集められ、石垣材として使用された 15 。特に、天守台の北面に逆さまに組み込まれた「逆さ地蔵」は、この城の成り立ちを物語る最も有名な遺構である 26 。
この転用石の多用は、単なる物理的な資源不足への対応策と見るだけでは、その本質を見誤る。そこには、より深い政治的、思想的な意図が介在していた。石仏や墓石といった神仏の権威や祖先崇拝の象徴を、何の躊躇もなく城の石垣という軍事施設の部材として組み込む行為は、旧来の宗教的権威を武家の権力の下に従属させるという、強いイデオロギーの表明であった。比叡山延暦寺の焼き討ちに見られるように、既存の宗教権威に挑戦し、それを自らの権力基盤の強化に利用してきた織田信長の合理主義と旧権威破壊の思想が、この大和の地で、郡山城の石垣という形で具現化したのである。「逆さ地蔵」は、信長が目指した新しい時代の秩序を、無言のうちに物語る歴史の証人と言えよう。
第三章:近世城郭への変貌 ― 筒井氏時代の完成と限界
筒井順慶の入城後、大和郡山城の普請は本格的な軌道に乗る。それは、単に防御施設を構築する作業ではなく、織田信長の天下布武を支える最新の城郭理念を大和国に導入するプロセスでもあった。しかし、その完成を目前にして、日本の歴史を揺るがす大事件が勃発する。
第一節:明智光秀の築城術と郡山城の縄張り
天正9年(1581年)、明智光秀は普請目付として、郡山城の築城に本格的に関与し始める 15 。彼の指導のもと、郡山城は中世的な城砦の姿から、石垣を多用し、計画的な曲輪配置を持つ「近世城郭」へと変貌を遂げていった。
この時期に築かれた郡山城の石垣の技術や縄張りには、光秀が同時期に築城した丹波福知山城との間に顕著な共通点が見られることが指摘されている 12 。これは、郡山城が順慶個人の裁量で設計されたのではなく、織田政権が保有する最新の築城ノウハウ、いわば「織田スタンダード」に基づいて計画されたことを示唆している。信長は、方面軍司令官に自らの拠点を築かせる際、統一された戦略思想に基づいた規格化を推し進めていた可能性があり、郡山城もそのネットワークの一部として構想されていたのである。
なお、この筒井順慶時代に築かれた城郭の中心部は、現在の城郭のやや南方に位置していたとする説もある 29 。後に豊臣秀長によって行われる大規模な拡張工事前の、いわば初期段階の近世城郭としての姿を推定する上で、重要な論点となっている。
第二節:本能寺の変と順慶の苦境
天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺にて織田信長が明智光秀に討たれるという、未曾有の政変が勃発した(本能寺の変) 30 。この時、筒井順慶は光秀の与力(配下武将)として、羽柴秀吉が遂行中の中国攻めへの増援部隊として出陣する準備を進めている最中であった 7 。
この一報は、順慶を絶体絶命の窮地に陥れた。光秀は、信長への臣従を仲介してくれた恩人であり、縁戚関係にもある主君であった 7 。当然、光秀からは新政権への協力を求める使者が送られてきた。一方で、信長の仇討ちを掲げ、驚異的な速度で中国地方から引き返してくる羽柴秀吉の軍勢の報も、まもなく順慶の耳に届く。
順慶は、どちらに味方すべきか、究極の選択を迫られた。彼は居城である郡山城に兵糧を運び込み、籠城の準備を固め、両陣営の動静を慎重に見極める道を選んだ 19 。後に、彼が日和見的な態度を取った場所として「洞ヶ峠」の名が挙げられ、「洞ヶ峠を決め込む」という故事成語が生まれるが、史実としては、彼は洞ヶ峠には赴かず、本拠地である郡山城で事態の推移を注視していたのが真相である 9 。この慎重すぎる、あるいは優柔不断と評される態度は、山崎の戦いで秀吉が勝利した後に、彼の立場を微妙なものにした。秀吉のもとへ参じた際、遅参を厳しく叱責されたものの、かろうじて大和一国の安堵は認められた 12 。
第三節:天守の落成と筒井時代の城郭構造
本能寺の変という政治的激震を乗り越え、大和郡山城の普請は続けられた。そして天正11年(1583年)、ついに筒井氏時代の天守が完成したことが記録されている 12 。これにより、大和国の新たな府城としての威容は一応の完成を見た。
しかし、この筒井時代の天守が、城内のどの場所に、どのような姿で建てられていたのかについては、残念ながら正確な史料は残されておらず、謎に包まれている 12 。近年の天守台の発掘調査では、豊臣時代に属すると考えられる礎石や金箔瓦が発見されており 14 、筒井時代の天守が後の豊臣期天守の基礎となったのか、あるいは全く別の場所に存在し、後に解体・移築されたのか、研究者の間でも議論が続いている。
いずれにせよ、筒井順慶が築き上げた大和郡山城は、大和一国を統治するための政治・軍事拠点として十分に機能する、当時最新鋭の城郭であった。しかし、その規模と機能は、あくまで「一国を治める地域支配の拠点」という枠組みの中に留まるものであった。この城が、畿内全体、ひいては天下の情勢を左右する戦略拠点へと飛躍を遂げるには、新たな城主の登場を待たねばならなかった。
第四章:筒井から豊臣へ ― 大和大納言秀長による飛躍
筒井順慶の死は、大和郡山城と大和国の運命を再び大きく動かすことになる。信長亡き後の天下人となった豊臣秀吉は、自らの政権基盤を盤石にするため、畿内における支配体制の再編に乗り出した。その中で、大和郡山城は新たな役割を担うべく、歴史的な変貌を遂げる。
第一節:城主交代の政治的背景
天正12年(1584年)、大和統一を成し遂げた筒井順慶は、胃癌のため36歳の若さでこの世を去った 11 。家督は養子の定次が継承したが、筒井氏による大和支配は長くは続かなかった。
翌天正13年(1585年)閏8月、豊臣秀吉は筒井定次に対し、伊賀上野20万石への転封を命じた 3 。これは、本能寺の変における順慶の態度を秀吉が完全に許してはいなかったという側面もあろうが、それ以上に、秀吉政権の国家戦略に基づく、より大きな構想の一環であった。秀吉は、本拠地である大坂城の周辺、すなわち摂津・河内・和泉、そして大和・紀伊といった畿内の枢要な地域を、譜代の国人領主ではなく、最も信頼のおける親族や側近で固める方針を採っていた 2 。大坂の東方を固める戦略的要地である大和国を、最も信頼する実弟・豊臣秀長に与えることは、この方針を象徴する人事であった。
第二節:「百万石の城」への大拡張と構造変化
筒井定次が伊賀へ去った後、大和郡山城には、豊臣秀吉の弟・秀長が、大和・和泉・紀伊の三国にまたがる100万石を超える太守として入城した 14 。官位も大納言に昇ったことから「大和大納言」と称された秀長は、この城を自らの石高と地位にふさわしい、天下に示すべき拠点へと大々的に改修する事業に着手する。
秀長の改修は、筒井時代の城郭を遥かに凌駕する規模で行われた。現在我々が見る郡山城の主要な曲輪、すなわち本丸、毘沙門郭、緑郭などは、この秀長時代にその骨格が形成されたものである 23 。普請にあたっては、春日大社の水谷川から巨石を切り出し、天守の用材は吉野の鬼取山から伐り出すなど、広範囲から大規模な資材調達が行われた 23 。石垣には、筒井時代と同様に多くの転用石が用いられたが、その規模と技術はさらに洗練されたものであった。
秀長の死後、文禄4年(1595年)に五奉行の一人である増田長盛が20万石で入城すると、城郭の最終的な仕上げが行われた。長盛は、城の防御力を完璧なものにするため、城下町全体を囲い込む壮大な総構え(外堀)の普請に着手した 14 。秋篠川の流路を東に付け替えて佐保川に合流させ、その旧河道や周囲の溜池、窪地などを巧みに利用して、周囲約5.5kmにも及ぶ外堀を完成させたのである 14 。これにより、大和郡山城の縄張りは最終的に確定し、西国でも屈指の堅固さを誇る巨大城郭が誕生した。
【表2】郡山城の構造変化比較(筒井順慶時代 vs 豊臣・増田時代)
構成要素 |
筒井順慶時代 (c.1580-1584) |
豊臣秀長・増田長盛時代 (c.1585-1600) |
位置づけ |
大和一国を治める「府城」 |
大和・和泉・紀伊を統べる「百万石の拠点」 |
縄張り |
近世城郭の初期形態。現在の城郭の南部に中心があった可能性 29 。 |
輪郭式。本丸を中心に主要曲輪を配置し、城下町全体を囲む総構えが完成 14 。 |
主要曲輪 |
不明な点が多いが、基本的な曲輪は存在したと推定される。 |
本丸、二ノ丸、毘沙門郭、緑郭などが大規模に整備・拡張される 23 。 |
石垣 |
多聞山城からの石材や転用石を使用し、近世的な石垣を導入 15 。 |
より大規模かつ高石垣化。春日大社などからも石材を調達し、技術的にも高度化 23 。 |
天守 |
天正11年(1583年)に完成。場所や規模は不明 12 。 |
秀長により新たに壮麗な天守が建造されたと推定。金箔瓦なども使用 14 。 |
堀 |
内堀を中心とした構造。 |
秋篠川の流路変更など大規模な土木工事により、内堀・中堀・外堀の三重の堀が完成 23 。 |
城下町 |
築城と並行して整備が開始されるが、規模は限定的。 |
計画的な都市開発。「箱本制度」導入により、経済的中心地として飛躍的に発展 14 。 |
第三節:城下町の創造 ― 「箱本制度」に見る都市計画
豊臣秀長の事業は、城という「点」の強化に留まらなかった。彼は、城郭の整備と並行して、城下町という「面」と一体化した、総合的な都市開発を推進した 14 。
秀長はまず、堺や奈良、今井町といった先進的な商業都市から、有力な商人や職人を積極的に誘致した 14 。そして彼らを、紺屋町(染物屋)、材木町、豆腐町といった職業別の町や、堺町、奈良町といった出身地別の町に集住させ、計画的な町割りを実施した 38 。
さらに、秀長の都市経営において特筆すべきは、「箱本制度」と呼ばれる画期的な自治制度の導入である 14 。これは、当初「箱本十三町」と呼ばれた特定の町に対し、地子(土地にかかる税)を免除するという特権を与える代わりに、町の治安維持(自警)、消火活動、そして公用交通のための伝馬の提供といった、公共的な役割を町衆自身に委ねるものであった 14 。これは、領主の財政負担を軽減しつつ、商工業者の活力を最大限に引き出すための、官民パートナーシップの先駆けとも言える先進的な制度であった。
この巧みな都市経営により、大和郡山は単なる政治・軍事の中心地であるだけでなく、大和国における新たな経済の中心地として急速に繁栄を遂げた。秀長が進めたのは、単なる「城の改修」ではなく、強固な城郭(軍事・政治力)と繁栄する城下町(経済力)を両輪とする、近世的な「城都」の建設だったのである。
結論:大和郡山城改修が残した歴史的遺産
天正8年(1580年)に筒井順慶の手によって開始され、豊臣秀長によって飛躍的な発展を遂げた大和郡山城の改修事業は、大和国の歴史における一大転換点であった。それは、二つの明確な段階を経て、この地を中世的な支配構造から近世的なそれへと移行させる上で、決定的な役割を果たした。
第一段階は、筒井順慶による「大和国の新たな中心地の創出」である。織田信長の「一国一城令」という強権的な政策のもと、国内の諸城を破却し、権力を郡山の一点に集中させることで、長らく続いた興福寺を中心とする社寺勢力と国人衆による分散的支配に終止符を打った。宿敵・松永久秀の多聞山城や、領内の寺社から石仏・墓石に至るまでを転用して築かれた石垣は、旧権威を解体し、新たな武家支配の礎とするという、信長の苛烈なイデオロギーを物理的に体現するものであった。
第二段階は、豊臣秀長による「豊臣政権の畿内中核拠点の構築」である。大和・和泉・紀伊三国を領する100万石の太守の居城として、城郭は飛躍的に拡張され、城下町全体を囲む壮大な総構えを持つ、西国屈指の巨大城郭へと変貌した。さらに、城郭の強化と並行して進められた「箱本制度」という先進的な都市計画は、郡山を大和国の経済的中心地へと押し上げた。これは、城と城下町を一体のシステムとして経営する、豊臣政権の高度な統治思想の表れであり、近世城郭都市の優れたモデルケースとなった。
かくして、大和郡山城は、単なる軍事施設に留まらず、戦国末期の激動の時代における政治・社会変革を体現する、類まれな歴史的モニュメントとして完成した。その石垣の一つ一つが、権力の移行と時代の変革を物語り、その城下の町割りには、近世都市の黎明を告げた為政者の卓抜したビジョンが刻まれている。近年の発掘調査による金箔瓦の出土や、極楽橋などの復元整備事業は 14 、この城が持つ歴史的価値を現代に改めて問いかけるものであり、大和郡山城が戦国史、城郭史、そして都市史において放つ光が、今後も色褪せることはないだろう。
引用文献
- 大和の戦国時代 | 深掘り!歴史文化資源 - 奈良県 https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/fukabori/detail05/
- 大和国|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1997
- 戦国大和の覇者・筒井氏~大和武士の一族(1) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatonobuke01_tsutsui
- 大和国を巡って18年攻防。松永久秀と筒井順慶、ライバル関係の真相【麒麟がくる 満喫リポート】 https://serai.jp/hobby/1011657
- 筒井順慶の大和制覇~大和武士の興亡(17) https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatobushi17_junkei3
- 筒井順慶なる人物|【note版】戦国未来の戦国紀行 https://note.com/senmi/n/n5a9ee2b948da
- 筒井順慶 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E9%A0%86%E6%85%B6
- 秀吉を不快にさせた筒井順慶の「慎重」さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/36586
- 筒井順慶 - 大和郡山市 https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/section/rekisi/src/history_data/h_028.html
- 大和郡山の歴史 https://prp.co.jp/koriyama/his/first.htm
- 洞ケ峠で有名な筒井順慶とは、どんな人物だったのか - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4184
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- 歴史年表 - 大和郡山市 https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/section/rekisi/src/nenpyo.html
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