大坂城下川筋再編(1597)
豊臣秀吉は1597年、大坂城下川筋を再編。これは惣構の防衛強化と舟運効率化を目的とした。大坂冬の陣で軍事的価値を発揮するも、豊臣家滅亡後は経済インフラとして「天下の台所」繁栄の礎となった。
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豊臣期大坂における都市改造の頂点:慶長二年「川筋再編」の全貌
序章:天下人・秀吉の大坂都市構想 ― なぜ大坂だったのか
豊臣秀吉による「大坂城下川筋再編」を理解するためには、まず彼がなぜ本拠地として大坂を選んだのか、その地政学的・歴史的必然性を解明する必要がある。秀吉の選択は、単なる城地の選定に留まらず、日本の経済と物流の結節点を掌握し、新たな国家体制を構築するという壮大な構想の第一歩であった。
地理的優位性:水陸の要衝
大坂の地は、古代より軍事・経済の両面で比類なきポテンシャルを秘めていた。その中心に位置するのが、大阪平野を南北に貫く上町台地である 1 。この台地は大阪湾に向かって突き出した半島状の地形で、三方を河川や低湿地に囲まれた天然の要害を成していた 3 。この地形は、防御拠点として極めて優れていた。
さらに重要なのは、水運における圧倒的な優位性である。大坂は、京都・琵琶湖へと繋がる淀川水系と、西国・海外へと開かれた瀬戸内海水運が交わる結節点に位置していた 4 。古代にはヤマト政権の国際港「難波津」が置かれ、古墳時代には法円坂遺跡に巨大な高床倉庫群が築かれるなど、古くから日本の物流を支える中枢としての歴史が刻まれている 2 。陸上交通を重視した織田信長に対し、秀吉は水運の価値をより深く認識しており、全国の富と情報を大坂に集積させることで、国家を経済的に支配する構想を描いていた。大坂の選択は、この国家経営の根幹を成す戦略的決断であった。
歴史的背景:信長の構想の継承と発展
この地の戦略的重要性を天下に知らしめたのが、石山合戦である。浄土真宗本願寺教団は、上町台地の北端に石山本願寺を築き、広大な寺内町を形成した。織田信長がこの拠点を制圧するために10年もの歳月を要した事実そのものが、大坂の難攻不落ぶりを証明している 3 。信長自身、石山本願寺跡地に天下統一の拠点となる壮大な城を築く計画を持っていたが、本能寺の変によってその夢は潰えた 3 。秀吉の大坂築城は、まさに信長の構想を継承し、それを遥かに凌駕する規模で実現する事業であった 7 。
秀吉の都市計画が卓抜していたのは、大坂の古地理を巧みに読み解き、それを最大限に活用した点にある。上町台地の西側には、古代から中世にかけて形成された砂州とラグーン(潟湖)が存在した 5 。秀吉の土木事業は、この自然の窪地や水路を、後の惣構堀(そうがまえぼり)や運河の「雛形」として利用した。これは、無から有を生み出すのではなく、既存の地形に最小限の労力で手を加え、最大の効果を得るという、極めて合理的かつ効率的な思想に基づいていた。この視点は、後の「川筋再編」という巨大プロジェクトを理解する上で不可欠な前提となる。
第一章:大坂城築城と初期城下町の形成(天正十一年~)
慶長二年(1597年)の「川筋再編」は、突如として始まった事業ではない。それは、天正十一年(1583年)の大坂城築城開始から十数年にわたる、連続的かつ計画的な都市開発の一つの到達点であった。この初期段階において、後の大坂の骨格となる基本的な設計思想が既に明確に示されている。
迅速な着工と「竪町プラン」
天正十一年(1583年)四月の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、名実ともに信長の後継者となった秀吉は、そのわずか一、二ヶ月後には大坂に入り、同年九月一日には本格的な築城工事に着手している 4 。この驚異的なスピードは、彼が信長の構想を熟知し、かつ自身の中に明確な都市計画の青写真を持っていたことを物語っている。
築城と並行して進められた初期の城下町建設には、秀吉の都市支配の思想が色濃く反映されている。最初の町人地は、大坂城から南の四天王寺へと向かう上町筋・谷町筋、そして西の古渡航路の拠点であった渡辺津(現在の高麗橋周辺)へと伸びる島町通りに沿って形成された 4 。これらの町は、主要な街路がすべて大坂城に向かって伸びる「竪町(たてまち)プラン」で設計されていた 4 。これは、城下町全体の求心力を大坂城に集中させ、住民の日常生活において常に天下人の権威を意識させるという、巧みな政治的・視覚的装置であった。城と城下町は、物理的にも心理的にも一体として計画されていたのである。
東横堀川の開削:多機能インフラの誕生
初期都市開発における画期的な事業が、天正十三年(1585年)頃に行われた東横堀川の開削である。これは大坂市内で現存する最古の堀川であり、単なる堀の建設を遥かに超える多面的な意図を持って計画された 9 。
第一に、軍事機能である。東横堀川は、大坂城の西側を守る「惣構堀」、すなわち最も外側の防御ラインとして掘削された 9 。上町台地という天然の要害に守られた東側に対し、平坦で脆弱な西側を固めるための人工的な防衛線であった。
第二に、都市区画機能である。この堀は、上町台地に広がる武家屋敷地と、その西側に新たに開発される町人地(後の船場)とを明確に分離する境界線の役割を果たした 12 。
第三に、経済機能である。東横堀川は、北の大川(旧淀川)と南の木津川方面を結ぶことで、全国からの物資を積んだ船が城下町の中心部まで直接乗り入れることを可能にする一大物流動脈として設計された 13 。
このように、東横堀川の開削は、「軍事」「経済」「都市区画」という三つの重要な機能を、一つの土木事業によって同時に実現するものであった。この三位一体の発想こそ、秀吉の都市計画の先進性を示す最初の具体例であり、後の「天下の台所」大坂の発展を決定づける礎となったのである。なお、開削にあたっては既存の浄国寺という寺院を避けて流路をS字に湾曲させるなど、現実的な状況に柔軟に対応した痕跡も見られる 9 。
第二章:国家プロジェクトとしての惣構の建設(文禄三年~)
東横堀川の開削によって西側の防御が固められると、秀吉の都市改造計画は次なる段階へと移行する。それは、大坂を単なる一個人の居城と城下町から、豊臣政権の首都として、国土防衛レベルの機能を備えた巨大要塞都市へと変貌させる壮大なプロジェクト、すなわち「惣構(そうがまえ)」の建設であった。
惣構普請の発令とその戦略的意図
文禄三年(1594年)、秀吉は諸大名に対し「大坂での惣構普請」を正式に命じた 4 。惣構とは、城郭本体だけでなく、城下町の市街地全体を巨大な堀や土塁で囲い込んでしまう防御施設のことであり、都市そのものを城塞化する思想である 16 。秀吉はこれに先立ち、京都においても市街を土塁で囲む「御土居」を築いており、その経験とノウハウが大坂で遺憾なく発揮された 17 。
この普請が命じられた時期は、極めて重要である。文禄の役(第一次朝鮮出兵)が講和交渉によって一時休戦となり、秀吉が国内の体制固めに注力し始めた時期と完全に一致する。彼は、対外的な脅威(明・朝鮮)のみならず、国内における潜在的な敵対勢力、とりわけ関東に巨大な勢力を持つ徳川家康の存在を強く意識していた。惣構の建設は、万が一の有事に際し、幼い秀頼を中心とする豊臣政権が長期間籠城し、全国の豊臣系大名の援軍結集を待つための最終防衛拠点(ラストリゾート)を構築するという、国家レベルの軍事戦略に基づいて推進された国家プロジェクトであった。
自然地形を最大限に利用した合理的設計
大坂惣構の規模は、方2km(一辺約2キロメートル)にも及んだとされ、その範囲は北を大川(旧淀川)、西を先に開削した東横堀川、南を現在の空堀通付近、東を現在のJR環状線付近と推定されている 6 。
この巨大な防御網の構築において特筆すべきは、その設計思想が「自然地形の軍事利用」という、戦国時代の土木技術の集大成ともいえる合理性に貫かれている点である。ゼロから全ての堀を掘削するのではなく、既存の地形を巧みに連結・改良することで、最小限の労力と時間で最大の防御効果を得ることを目指した。具体的には、西辺は完成済みの東横堀川をそのまま惣構の一部として組み込み、東辺は既存の河川であった猫間川を改修して利用、そして南辺は上町台地の谷地形である清水谷などを活用した 5 。特に南惣構堀は、水を張らない「空堀」として構築され、その高低差自体を障害物とする設計であった 19 。
この手法は、武田信玄の信玄堤に代表されるような、自然の力を制御し、治水や防御に利用する日本の伝統的な土木技術の系譜に連なるものである 21 。蜂須賀小六に代表される川筋衆など、秀吉配下の優れた土木技術者集団が、その知識と経験を総動員したことで、この短期間での効率的な巨大防御網の構築が可能となったのである 23 。
第三章:慶長二年(1597年)―「川筋再編」のリアルタイム・ドキュメント
文禄三年に始まった惣構建設は、数年の歳月を経て、慶長二年(1597年)に一つの頂点を迎える。この年に行われたとされる「川筋再編」こそ、本報告書の主題である。この事業の実態を解明するためには、当時の緊迫した政治・軍事情勢と、大坂で進行していた普請の状況を、可能な限りリアルタイムに近い形で再構成する必要がある。
緊迫の時代背景
慶長二年という年は、豊臣政権にとってまさに激動の年であった。
第一に、 慶長の役の再開 である。文禄五年(1596年)に明との和平交渉は決裂し 24 、秀吉は朝鮮半島への再出兵を断行。慶長二年正月、加藤清正らが朝鮮へ渡海し、第二次侵攻が本格化した。これにより、大坂は肥前名護屋城と並ぶ兵站・指令の最重要拠点としての機能が極限まで高まり、膨大な兵員、武具、兵糧の効率的な輸送が国家的な至上命題となっていた 25 。
第二に、 慶長伏見地震の影響 である。前年の文禄五年七月、畿内を巨大な地震が襲い、秀吉が晩年の居城としていた伏見城が倒壊した 4 。これにより、秀吉の政治拠点は一時的に大坂城へと移らざるを得なくなり、首都としての大坂の重要性が改めて認識されることとなった。同時に、この大災害は既存のインフラの脆弱性を露呈させ、都市の防災・防御機能の全面的な再点検と強化を促した可能性が高い。発掘調査では、この時期の地震によるとみられる液状化の痕跡なども確認されている 8 。
第三に、 秀吉の衰えと後継者問題 である。この頃、秀吉の健康状態は明らかに悪化しており、天下統一事業の総仕上げと、幼い嫡子・秀頼への権力継承を盤石にすることが、彼の最大の関心事となっていた。大坂城の最終的な要塞化は、自らの死後、豊臣家が存続するための最後の切り札として、鬼気迫る執念で進められていたのである 26 。
「川筋再編」の具体的内容
このような緊迫した状況下で進められた慶長二年の「川筋再編」とは、具体的にどのような事業だったのか。これは、大規模な新規掘削というよりも、既存インフラの「システム・インテグレーション(機能統合)」の段階であったと推察される。文禄三年から建設が進められてきた惣構という巨大なハードウェアの性能を、実戦(慶長の役)と将来の脅威(国内の政情不安)に備えて最大限に引き出すための、ソフトウェア的な最終調整工事であった。
その内容は、主に以下の三点に集約される。
- 惣構堀の機能統合と最適化 :成り立ちの異なる各部分、すなわち(1)西の東横堀川、(2)南の南惣構堀(空堀)、(3)東の猫間川を利用した東惣構堀、(4)北の大川(天然の堀)を、一つの連携した防御システムとして完璧に機能させるための調整が行われた。具体的には、水路の浚渫(しゅんせつ)による水深の確保、水門や堰の設置による水位の精密な制御、各堀の連結部分の強化などが含まれたと考えられる。これにより、大坂城は文字通り水の要塞としての完成度を高めた。
- 兵站輸送路の効率化 :慶長の役の再開に伴い、膨大な軍需物資を迅速かつ大量に輸送する必要があった。城の内部水路網と、東横堀川などの外部水路との接続を円滑にし、荷駄船の航行効率を高めるための改修が行われた可能性が高い。これは、利用者から提示されたキーワードである「舟運機能の向上」に直結する。
- 次期大規模開発への布石 :秀吉の都市計画は、この時点で終わりではなかった。翌慶長三年(1598年)には、惣構の内側に新たに「三の丸」が増築され、惣構の外側(西側)には巨大な町人地「船場」の開発が着手される 4 。慶長二年の川筋再編は、これらの次期プロジェクトを見越した地盤整備や水路計画を内包していた。特に、将来船場に張り巡らされる新たな堀割(長堀川など)と、既存の東横堀川との接続計画が、この時点で既に策定されていたと考えるのが自然である。
この複雑な事業を戦時下に遂行するためには、高度な実務能力を持つ官僚組織が不可欠であった。豊臣政権の五奉行、特に土木担当の増田長盛や財政担当の長束正家らが普請奉行として計画立案から現場指揮までを担い、その卓越した行政手腕を発揮したことは想像に難くない 27 。
和暦 (西暦) |
大坂での主要普請・出来事 |
国内外の主要動向 |
関連人物(普請奉行など) |
天正11年 (1583) |
大坂城築城開始、初期城下町(竪町)形成 |
賤ヶ岳の戦い |
豊臣秀吉 |
天正13年 (1585) |
東横堀川開削 |
秀吉、関白に就任 |
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文禄3年 (1594) |
惣構普請令発布 |
文禄の役、講和交渉期 |
増田長盛、長束正家 |
文禄5年/慶長元年 (1596) |
慶長伏見地震、伏見城倒壊 |
明との和平交渉決裂 |
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慶長2年 (1597) |
大坂城下川筋再編 |
慶長の役 再開 |
増田長盛、長束正家 |
慶長3年 (1598) |
三の丸普請開始、船場開発開始 |
豊臣秀吉 死去 |
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慶長5年 (1600) |
西横堀川開削 |
関ヶ原の戦い |
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慶長19年 (1614) |
大坂冬の陣(惣構が防衛機能を発揮) |
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慶長20年 (1615) |
大坂夏の陣(惣構埋め立て後)、豊臣氏滅亡 |
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表1:豊臣期大坂城下町 主要普請年表
この年表は、慶長二年の「川筋再編」が、地震からの復旧、戦争への対応、そして次なる都市拡大への準備という、複数の文脈が交差する決定的な転換点であったことを明確に示している。
第四章:「再編」がもたらした二つの機能 ― 鉄壁の防衛と経済の大動脈
慶長二年の「川筋再編」によってシステムとして完成された大坂の都市インフラは、その後、歴史の舞台で「防衛」と「経済」という二つの側面で絶大な効果を発揮した。しかし、その結末は、建設者である秀吉の意図を超えた、皮肉なものであった。
軍事都市としての成功と悲劇
完成した惣構の軍事的価値は、慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣で遺憾なく証明された。豊臣方は、この鉄壁の防御ラインを最大限に活用し、20万ともいわれる徳川方の大軍を城下に寄せ付けず、一ヶ月以上にわたる籠城戦を有利に進めた 19 。特に、南惣構堀の弱点を補うために真田信繁(幸村)が築いたとされる出城「真田丸」は、惣構という基本防衛ラインがあって初めてその戦術的価値を発揮できたものである 3 。
力攻めによる落城は不可能と判断した徳川家康は、和議へと舵を切る。そして、その和議の最大の条件として要求したのが、この惣構堀の埋め立てであった 6 。この事実こそ、惣構の軍事的価値を何よりも雄弁に物語っている。しかし、この軍事的な成功は、豊臣家にとって悲劇の序章となった。和議によって堀を埋められ、文字通り裸城にされた豊臣方は、翌年の大坂夏の陣で野戦を余儀なくされ、衆寡敵せず滅亡に至る。つまり、「川筋再編」によって完成された鉄壁の防衛機能は、皮肉にも敵にその危険性を悟らせ、物理的に無力化されるという結果を招いたのであった。
経済都市としての繁栄の礎
秀吉が第一義として意図した軍事インフラは、豊臣家の滅亡後、その意図とは離れた形で「経済インフラ」として開花し、徳川の世の繁栄を支えることになる。
「川筋再編」で整備された水路網は、大坂が「天下の台所」へと飛躍するための物理的な基盤そのものであった。東横堀川を始めとする堀川は、全国からの物産を積んだ船が直接市中の市場や蔵まで到達することを可能にした 7 。この圧倒的な水運の利便性に着目した全国の諸大名は、自藩の年貢米や特産品を大坂に集積し、販売・換金するための拠点として「蔵屋敷」を設置し始めた 31 。その萌芽は豊臣政権期に見られ 33 、江戸時代を通じて大坂経済の中核を担うシステムへと発展していく。
また、水運は米や特産品だけでなく、材木や石材といった重量物の輸送にも不可欠であり、都市の持続的な発展を支える生命線となった 13 。秀吉が築いた軍事用の堀川は、平和な時代においてその物流機能の価値を増大させ、日本最大の経済都市の礎となったのである。これは、一人の支配者が築いた軍事遺産が、次代の政権下で国家の経済基盤へと転化した、歴史のダイナミズムを象徴する事例と言える。
第五章:事業の完成と継承 ― 船場の誕生と徳川の世へ
慶長二年の「川筋再編」は、秀吉の大坂都市計画の最終段階への序曲であった。この事業を経て、彼の構想は惣構の内側と外側で同時に展開され、その都市構造は豊臣家の滅亡を超えて徳川の世へと継承されていく。
船場の開発:経済主導型都市への転換
慶長三年(1598年)、秀吉は生涯最後の巨大プロジェクトとして、惣構の外側(西側)に新たな町人地「船場(せんば)」の開発に着手した 4 。これは、惣構の内側に大名の屋敷地などを含む「三の丸」を増設するにあたり、元々その地で暮らしていた町人や寺社を計画的に移転させるための代替地造成事業であった 26 。
船場は、東を東横堀川、西を後に開削される西横堀川、南を長堀川、北を土佐堀川に囲まれた、東西約1km、南北約2kmの広大な区域であり、碁盤の目状に整然と区画された完全な計画都市であった 35 。秀吉は、この新たな経済特区を活性化させるため、当時日本で最も商業的に先進していた堺、京都・伏見、さらには近江などから、有力な商人や職人を半ば強制的に移住させた 38 。これにより、大坂の経済的求心力は人為的に、かつ急速に創出されたのである。
船場の開発は、秀吉の都市計画における重大なパラダイムシフトを意味する。初期の城下町が城に従属する「求心型都市」であったのに対し、船場は惣構の外側に、独立した経済ブロックとして計画された「拡張型都市」であった。これは、もはや城の権威だけに依存するのではなく、商業のエネルギーそのものを都市発展の駆動力とする、より近代的で持続可能な都市モデルへの転換を示唆している。秀吉は最晩年にして、軍事国家の首都から経済国家の首都への脱皮を構想していたのかもしれない。
徳川時代への継承
大坂の陣で豊臣家は滅びるが、秀吉が築いた都市の骨格と経済的ポテンシャルは、勝者である徳川幕府に引き継がれた。幕府は大坂の経済的重要性を深く認識しており、その迅速な復興を企図した 4 。家康の外孫である松平忠明が大坂城主となり、豊臣時代に形成された町割りを基本的に維持しながら、戦災からの復興を進めた 41 。
豊臣期に形成された天満組、北組、南組といった市街地は、江戸時代には「大坂三郷」という行政区画として再編され、高度な町人自治のもとで「天下の台所」として未曾有の繁栄を遂げることになる 43 。徳川幕府による大坂統治は、秀吉の都市計画の「脱軍事化」と「経済機能への特化」と要約できる。幕府は大坂城を西国支配の軍事拠点として再建する一方、城下町については商業活動を最大限に奨励し、その経済力を幕府の財政基盤として利用した。それは、秀吉が都市に埋め込んだ「軍事」と「経済」という二重螺旋のうち、豊臣氏と共に「軍事」のDNAを封印し、「経済」のDNAだけを選択的に培養・増殖させる政策であったと言えるだろう。
結論:大坂城下川筋再編が持つ歴史的意義
慶長二年(1597年)の「大坂城下川筋再編」は、単発の土木工事ではなく、天正十一年の築城開始から慶長三年の船場開発へと至る、豊臣秀吉の一大都市創造プロジェクトにおける決定的転換点であった。
それは、文禄期に建設された惣構という防衛インフラを、慶長の役という現実の戦争に対応すべく最適化する軍事行動であると同時に、来るべき巨大商都・船場の誕生を準備する経済行動でもあった。この事業に体現された、軍事と経済、防衛と物流、土地造成と水運整備を分かち難く一体のものとして捉える秀吉の総合的な都市計画思想は、戦国時代の土木技術と国家経営論の集大成であり、同時代において比類なき先進性を持っていた。
この「再編」によって完成された大坂の都市骨格は、極めて強靭であった。それは、建設主である豊臣政権の滅亡という政治的激変を乗り越えて次代へと継承され、江戸時代を通じて「天下の台所」と称される日本最大の経済都市の物理的基盤となった。そして、その遺産は近代以降の商都大阪の発展にまで、脈々と受け継がれている。
「大坂城下川筋再編」は、一人の天下人が描いた壮大な都市構想が、時代の変遷を超えて国家の経済的形態さえも規定し得た、日本史上稀有な事例として、高く評価されるべきである。それは、水と土を操り、都市を創るという行為が、歴史を動かす強大な力を持つことを我々に示している。
引用文献
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- 船場の歴史 - 株式会社花びし https://hanabishi-wasian.co.jp/post/1470
- 大阪・船場界隈 https://www.asahi.co.jp/rekishi/04-05-14/01.htm
- 船場商家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%A0%B4%E5%95%86%E5%AE%B6
- 【船場の歴史】秀吉が築き徳川が育んだ商都 船場の歴史を深堀り! 村瀬先生のぶらり歴史歩き大阪・船場前編 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=zu5diVAIjMw
- 大阪市:大阪市における事業の歴史と実績 (…>土地区画整理・市街地再開発>土地区画整理事業) https://www.city.osaka.lg.jp/toshiseibi/page/0000022089.html
- 大坂三郷・天満組の栄光はいまも https://www.osaka-asobo.jp/course/pdf/m/open/i/150
- 大坂三郷(オオサカサンゴウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E4%B8%89%E9%83%B7-449907