小城藩政基盤整備(1608)
慶長十三年、佐賀藩祖鍋島直茂は関ヶ原の危機を乗り越え、佐賀藩の基盤を整備。嫡男廃嫡の元茂は、直茂の隠居領を継ぎ小城藩を立藩。二代直能の時代に藩庁を小城に移し、独自の藩政基盤を確立した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
肥前国における権力再編の深層:慶長13年(1608年)を基点とする小城藩成立過程の総合的考察
序章:慶長13年(1608年)の肥前国と「小城藩政基盤整備」の謎
利用者様より提示された「小城藩政基盤整備(1608年)」という事象は、肥前国における近世大名権力の確立過程を理解する上で、極めて示唆に富むキーワードである。しかし、史実を丹念に追うと、この年号と事象の間には一筋縄ではいかない複雑な関係性が見えてくる。小城藩が佐賀藩の支藩として正式に成立したのは、慶長13年(1608年)から9年後の元和3年(1617年)である 1 。では、1608年という年号は、歴史の文脈において何を意味するのであろうか。
本報告書は、この「1608年」という年号の謎を解明することを重要な起点とし、単一の事象としてではなく、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての数十年にわたる連続的な歴史プロセスの中に「小城藩政基盤整備」を位置づけることを目的とする。
調査によれば、慶長13年(1608年)は、小城藩ではなく、その本藩である佐賀藩の城下町づくりが大きく進展した象徴的な年であった 5 。佐賀藩祖・鍋島直茂がこの年に佐賀城下の神社に肥前鳥居を建立した記録も残っており 6 、佐賀藩の領国経営が本格化した時期であることを示している。利用者様の情報は、この佐賀本藩における「基盤整備」の事実が、後の小城藩創設という結果と結びつき、年号と事象が一体化したものとして伝わった可能性を示唆している。
したがって、本報告では、1608年を小城藩成立の直接的な起点としてではなく、その誕生を可能にした「前提条件」が整えられた重要な画期として捉える。関ヶ原の戦い後の政治的混乱を乗り越え、鍋島氏が名実ともに肥前の支配者として領国経営を本格化させたこの時期の動向こそが、後の支藩創設を可能にする政治的・経済的安定をもたらしたのである。この視座に立ち、戦国時代から続く権力構造の変遷、鍋島家内部の複雑な事情、そして江戸幕府との関係という三つの軸から、小城藩成立に至るまでのリアルタイムな歴史の力学を徹底的に解明していく。
表1:小城藩成立に至る主要年表(1584年~1654年)
西暦 |
和暦 |
主な出来事 |
1584年 |
天正12年 |
沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死。鍋島直茂が実権を掌握。 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い。鍋島勝茂は西軍に与するも、直茂の工作により所領安堵。 |
1602年 |
慶長7年 |
鍋島元茂(後の小城藩初代藩主)が勝茂の長男として誕生 1 。 |
1607年 |
慶長12年 |
龍造寺高房の死去に伴い、鍋島勝茂が佐賀藩初代藩主となり、名実共に鍋島佐賀藩が成立 7 。 |
1608年 |
慶長13年 |
佐賀城の普請と城下町の整備が本格化 5 。 |
1617年 |
元和3年 |
鍋島元茂が祖父・直茂の隠居領と父・勝茂からの分与地を合わせ、小城藩を立藩(7万3千石) 3 。 |
1628年 |
寛永5年 |
佐賀藩の着到帳に、元茂の知行高が57,452石と記録される 10 。 |
1640年 |
寛永17年 |
小城藩が幕府から佐賀藩の分家として正式に公認される 1 。 |
1642年 |
寛永19年 |
小城藩主の参勤交代が開始される 4 。 |
1654年 |
承応3年 |
初代藩主・鍋島元茂が死去。二代・直能が跡を継ぐ 1 。 |
第一部:戦国の遺風と鍋島家の権力構造 ―小城藩前史―
小城藩の成立を理解するためには、時計の針を江戸時代初期から戦国時代末期へと戻さなければならない。この支藩の誕生は、泰平の世における単なる分家設立ではなく、戦国時代から続く主家凌駕、権力闘争、そして家門存続戦略というダイナミズムの中から生まれた、必然の帰結であった。
主家凌駕の系譜:龍造寺体制下の鍋島氏
肥前国はもともと「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信によって統一されていた。しかし、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで隆信が島津・有馬連合軍に討たれると、龍造寺家は急速にその力を失う 11 。この危機的状況において、龍造寺家の領国を崩壊から救ったのが、隆信の義弟であり、家中で最も傑出した能力を持つ重臣・鍋島直茂であった。直茂はその卓越した政治力と軍事力で家臣団の信頼を一身に集め、龍造寺家の跡を継いだ政家を補佐する形で、事実上の国主として君臨する 11 。
この権力移行は、豊臣秀吉の中央政権からも追認された。秀吉は龍造寺氏ではなく、実力者である直茂に直接朱印状を与え、国政を委ねることで、肥前の安定を図ったのである 7 。これにより、龍造寺氏と鍋島氏の主従関係は名目上は維持されつつも、実質的には完全に逆転した。直茂は、急進的な権力奪取による家臣団の分裂を避けるため、最後まで龍造寺家当主を立てるという慎重な姿勢を崩さなかったが、この「主家凌駕」という戦国時代的な権力掌握のプロセスこそが、鍋島支配の原点であった。
関ヶ原の岐路と戦後処理
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、鍋島家は存亡の危機に立たされる。直茂の子である鍋島勝茂は、時勢を読み誤り、石田三成方の西軍に与して伏見城攻めに参加するという政治的失策を犯した 12 。西軍敗北の報に接した直茂は、迅速に判断を下し、勝茂に九州で東軍に寝返るよう指示。同じ西軍であった立花宗茂の柳川城を攻撃させることで、徳川家康への恭順の意を示した。この老練な父の危機管理能力により、鍋島家は改易を免れ、35万7千石の所領を安堵されるという、西軍加担大名としては異例の処遇を受けることになった 12 。
この九死に一生を得た経験は、鍋島家に二つの重要な教訓と喫緊の課題を突きつけた。第一に、徳川幕府への絶対的な忠誠を尽くすことの重要性である。第二に、藩内に未だ根強く残る龍造寺旧臣などの潜在的な反鍋島勢力を抑え込み、鍋島氏を頂点とする一枚岩の支配体制を早急に確立する必要性である。慶長12年(1607年)、龍造寺家の家督を継いでいた高房が江戸で死去し、龍造寺本家が断絶すると、幕府の公認のもと、勝茂が初代佐賀藩主となり、名実ともに「鍋島佐賀藩」が成立した 8 。これ以降の鍋島家の統治戦略は、すべてこの二つの課題を克服するために展開されていくことになる。
佐賀藩の確立と「御三家」構想
初代藩主となった勝茂は、父・直茂とともに藩政の基盤固めに着手する。その中核をなしたのが、徳川幕府の御三家体制を模倣した、支藩創設による一門支配の強化策であった 12 。勝茂は自身の息子たちを領内の要地に配置し、それぞれに独立した領地と家臣団を与えることで、鍋島宗家を守る藩屏としようと考えた。こうして計画されたのが、長男・元茂の小城藩、五男・直澄の蓮池藩、九男・直朝の鹿島藩からなる「三支藩(御三家)」体制である 12 。
この支藩創設は、単なる領地の分割や親族への恩賞という単純なものではない。そこには、戦国時代を生き抜いた鍋島家ならではの、極めて高度な統治技術と戦略的意図が込められていた。
第一に、それは鍋島一門による領内の軍事・政治的要衝の直接支配を意味した。佐賀藩内には、龍造寺四家(多久、諫早、武雄、須古)と呼ばれる、龍造寺一門に連なる有力家臣が依然として強い在地支配力を持っていた 15 。彼らを牽制し、藩主の権力を隅々まで浸透させるためには、藩主の直系一門を彼らの近隣に配置し、常に睨みを利かせる必要があった。
第二に、幕府への奉公における負担分散という財政的な狙いがあった。参勤交代や江戸城の普請手伝いなど、幕府からの要求は佐賀藩の財政を極度に圧迫した 12 。この莫大な経費を本藩だけで賄うことは困難であり、支藩に分担させることで、財政破綻のリスクを軽減することができたのである 12 。
そして第三に、後述する長男・元茂の処遇という、家中に燻る火種を消し去るための巧みな解決策であった。これらの複数の戦略的意図が複合的に絡み合い、小城藩を含む三支藩の創設へと繋がっていったのである。
第二部:嫡男・鍋島元茂の数奇な運命 ―小城藩成立の直接的要因―
藩政というマクロな視点から、初代藩主となる鍋島元茂個人のミクロな視点へと焦点を移すとき、小城藩の成立が、一人の武将の数奇な運命と分かちがたく結びついていたことが明らかになる。彼の人生の変転こそが、小城藩誕生の直接的な引き金となったのである。
慶長7年(1602年)の誕生と「廃嫡」
鍋島元茂は、慶長7年(1602年)、鍋島勝茂の長男として誕生した 1 。母は側室の岩(小西三右衛門の娘)であったが、当初は嫡男として扱われていた 19 。しかし、彼の運命は、父・勝茂の政略結婚によって大きく揺らぐことになる。
関ヶ原の戦いでの失策を挽回し、徳川幕府との関係を盤石なものにしたいと願う鍋島家は、勝茂の正室として徳川家康の養女・菊姫(岡部長盛の娘)を迎えることを決定した。この結婚に伴い、菊姫との間に生まれるであろう男子を跡継ぎとするため、元茂はわずか4歳で嫡子の座を追われたのである 19 。これは、鍋島家が徳川幕府という新たな権威への臣従を最優先した結果であり、元茂の母の家柄が低かったことも、この非情な決定を後押しした 12 。家督を継ぐ望みを絶たれた元茂は、その後、大坂の陣の際には人質として江戸へ送られるなど、不遇の少年時代を過ごすこととなった 21 。
人質から藩祖へ
しかし、祖父・直茂と父・勝茂は、廃嫡したとはいえ、聡明な長男である元茂を冷遇するつもりはなかった。元茂は武芸に秀で、後に柳生宗矩から柳生新陰流の免許皆伝を受け、三代将軍・家光の打太刀役を務めるほどの人物であった 1 。もし彼を不当に扱えば、その不満が家中の分裂を招きかねない。戦国の気風が色濃く残るこの時代、家督争いは家の存亡を揺るがす最大の火種であった。
そこで直茂と勝茂が元茂のために用意したのが、独立した一家を立てさせ、大名として諸侯に列するという壮大な計画であった。その具体策として、藩祖であり家臣団から絶大な信望を集める直茂の隠居領と、その直属家臣団を元茂に継承させることが決定された 2 。
この分知は、単なる元茂への温情措置や不満解消策に留まるものではなかった。そこには、二重の巧妙な仕掛けが施されていた。第一に、元茂を直茂の養子という形式をとらせることで、彼に「藩祖・直茂の正統な後継者の一人」という高い権威と格式を与えた 3 。これにより、元茂は単なる「勝茂の庶長子」ではなく、7万石を超える大身の領主として相応しい地位を確保することができた。
第二に、直茂が築き上げた功績と権威の象徴である直属家臣団を、そっくりそのまま孫の元茂に継承させることで、藩祖のレガシーを円滑に次世代へと移行させる狙いがあった。これにより、元茂は経験豊富な家臣団に支えられ、新たな藩の主として円滑なスタートを切ることが可能となったのである。こうして、廃嫡され人質となった一人の若者は、祖父と父の深謀遠慮によって、新たな藩の始祖となる道を歩み始めることになった。
第三部:元和3年(1617年)の分知と小城藩の誕生 ―「基盤整備」のリアルタイム分析―
元和3年(1617年)、鍋島元茂の運命、そして肥前国の政治地図は大きく動き出す。この年を起点として、小城藩という新たな政治体がどのように形成されていったのかを、行政、家臣団、財政、都市計画の各側面から時系列に沿って具体的に分析する。
分知のプロセス(元和3年 / 1617年)
小城藩の創設は、この年、二段階のプロセスを経て行われた。
- 4月5日: まず、元茂は祖父・鍋島直茂の養子という形式をとり、直茂の隠居領であった佐賀郡・小城郡・神埼郡にまたがる定米にして約1万石の土地と、直茂に仕えていた家臣団をそのまま引き継いだ 3 。
- 12月1日: 次に、父であり佐賀藩主である鍋島勝茂から、追加で定米約1万石の知行地と家臣団が分与された 3 。
これらを合計し、家臣の知行地なども含めた小城藩の初期の石高は、最終的に7万3252石となった 2 。しかし、創設当初の領地は小城郡一帯にまとまっていたわけではなく、複数の郡に分散する「飛び地」状態であった 3 。これは、本藩の知行割の都合が優先された結果であり、一円支配が確立されるまでには、元和7年(1621年)の領地替えなどを待たねばならなかった。
藩政の黎明期:初代藩主・元茂の時代
藩主となった元茂であったが、その統治の実態は、当初から完全に独立したものではなかった。
- 行政機構: 小城藩の藩庁(政務を執る場所)は、小城の地にすぐに設けられたわけではなく、当初は佐賀城の西ノ丸に置かれていた 20 。元茂自身も家臣団の多くも、佐賀城下に屋敷を構えて居住しており 5 、政治・生活の拠点は依然として佐賀にあった。また、小城藩主は佐賀藩の役職である「小城郡代」を兼任しており、佐賀藩の地方行政の一部を担うという立場でもあった 3 。この事実は、小城藩が創設当初、独立した「藩」というよりも、佐賀本藩の枠組みの中に組み込まれた広大な「自治領」としての性格が強かったことを物語っている 16 。
- 家臣団編成: 小城藩の家臣団は、その出自によって大きく二つに分かれていた。祖父・直茂から引き継いだ家臣団は「八三士」、父・勝茂から与えられた家臣団は「七七士」と呼ばれ、藩内で特別な地位を占めた 3 。藩の最高職である家老も置かれたが、当初は佐賀藩から派遣された付家老が後見役として藩政に関与し、本藩の意向が強く反映される仕組みとなっていた 3 。異なる由来を持つ混成部隊である家臣団を一つにまとめ上げ、藩主としての統率力を発揮することが、若き元茂に課せられた最初の課題であった。
- 財政基盤: 税制は、本藩と同様の「地米」と呼ばれる徴租体制がとられた 2 。石高は寛永5年(1628年)の佐賀藩の記録によれば57,452石とされている 3 。しかし、財政的には本藩に大きく依存しており、小物成(雑税)の多くは本藩に納められ、労役なども本藩から賦課されるなど、独立採算には程遠い状況であった 16 。
- 城下町構想: 元茂の時代、小城の町づくりも始まっている。戦国時代にこの地を支配した千葉氏の城下町を基礎として、町の建設が進められたとされる 3 。しかし、前述の通り、藩主や家臣団の多くが佐賀に住んでいたため、この時点での「基盤整備」は、本格的な都市計画というよりは、既存の町割を追認し、将来の支配拠点としての区画を確保する程度に留まっていたと考えられる。
幕府との関係と独立性の模索
佐賀藩の自治領的な性格が強かった小城藩であったが、その地位は徐々に変化していく。寛永17年(1640年)、小城藩は徳川幕府から佐賀藩の「部屋住の分家」として正式に公認された 1 。さらに寛永19年(1642年)には、他の大名と同様に参勤交代を開始する 4 。
これらは、小城藩が単なる佐賀藩内の一組織ではなく、幕府からも公認された「大名」としての地位を確立したことを意味する、極めて重要な画期であった。これにより、小城藩主は佐賀藩主の家臣であると同時に、将軍家と直接の主従関係を結ぶ存在となり、独立性を高める大きな一歩を踏み出したのである 24 。この「佐賀藩主の家臣」と「将軍の家臣(大名)」という二重の身分構造こそが、江戸時代を通じて続く本藩と支藩の間の緊張と協力の関係性の根源となっていく。
表2:佐賀本藩と小城藩の初期比較(元和年間)
項目 |
佐賀本藩 |
小城藩 |
石高(公称) |
35万7千石 |
約7万3千石 |
藩主の立場 |
大名(藩主) |
佐賀藩主の家臣 かつ 幕府が認知する大名 |
幕府との関係 |
直接の主従関係(参勤交代義務) |
間接的(後に直接的関係へ移行) |
家臣団の由来 |
龍造寺旧臣、鍋島譜代など |
鍋島直茂・勝茂からの分与家臣 |
藩庁の場所 |
佐賀城 |
佐賀城西ノ丸(当初) |
財政的独立性 |
独立 |
本藩に依存 |
第四部:基盤整備の実像 ―第二代藩主・直能の時代への継承―
初代藩主・元茂の時代に「創設」された小城藩であったが、利用者様のキーワードである「藩政基盤整備」が本格的に行われたのは、むしろその跡を継いだ第二代藩主・鍋島直能の時代であった。藩の創設と、その統治基盤の整備との間には、数十年単位のタイムラグが存在したのである。
藩庁機能の小城移転
承応3年(1654年)に元茂が死去し、直能が家督を相続すると、小城藩は大きな転換期を迎える。直能は、政治・生活の拠点を佐賀城下から自らの領地である小城へ移すことを決断し、藩主として小城に常住するようになった 22 。そして万治元年(1658年)頃から、小城の中心にある桜岡と呼ばれる丘陵地に、藩庁となる陣屋(屋敷)の建設を開始した 4 。これこそが、実質的な意味での「小城藩政基盤整備」の幕開けであった。藩主が領地に常住し、政治の中心が佐賀から小城へ移ることで、初めて小城藩は名実ともに独立した統治単位として機能し始めたのである。
城下町(岡町)の形成と家臣団の移住
藩庁の建設と並行して、本格的な城下町の形成が進められた。桜岡の陣屋を囲むように侍屋敷が次々と建設され、佐賀に住んでいた家臣団も、藩主に従って小城へと移住した 3 。17世紀後半になると、佐賀城下の絵図からも小城藩や蓮池藩の武家屋敷が姿を消し始め、支藩の武士が本藩の城下から退去していったことが確認できる 5 。
この家臣団の集団移住は、単なる物理的な移動以上の意味を持っていた。それは、彼らが「佐賀藩士」という立場から、「小城藩士」としての新たなアイデンティティを確立していく重要なプロセスであった。藩主を中心に家臣が一つの場所に集住することで、藩としての一体感が醸成され、独自の藩政運営が可能となったのである。この陣屋と侍屋敷からなる城下町は、総称して「岡町」と呼ばれ、小城の政治・経済・文化の中心地として発展していく 3 。
藩政機構の確立
統治のハードウェアである藩庁と城下町の整備に加え、ソフトウェアである行政機構の確立も直能の時代に進められた。藩の運営を担う家老の家格や職務内容の原型が定められ、郡代などの地方役人の職務規定も整備されるなど、藩の統治システムが体系的に確立されていった 3 。
初代・元茂の時代が、藩主個人のカリスマ性や本藩の後見に頼った、ある意味で属人的な統治であったとすれば、二代・直能の時代は、恒久的な制度に基づいた組織的な統治機構を整備した時代と言える。この直能による一連の改革をもって、「小城藩政基盤整備」は一つの完成形を迎え、小城藩は佐賀藩の支藩でありながらも、独自の政治・社会空間を持つ独立した存在として、幕末まで続く歴史を歩み始めるのである。
結論:再定義される「小城藩政基盤整備」
本報告は、利用者様より提示された「小城藩政基盤整備(1608年)」というキーワードを解き明かすことから始まった。詳細な調査と分析の結果、この事象は1608年という単一の時点に限定されるものではなく、戦国末期から江戸時代中期にかけての、数十年にわたる重層的かつ連続的な歴史プロセスであったことが明らかになった。結論として、「小城藩政基盤整備」は、以下の三つの distinct なフェーズに再定義することができる。
-
準備期(慶長年間、特に1608年頃):
この時期の主役は小城藩ではなく、佐賀本藩であった。関ヶ原の戦い後の政治的危機を乗り越えた鍋島氏は、慶長13年(1608年)頃から佐賀城の大規模な普請と城下町の整備を本格化させ、肥前国における支配者としての権威と統治基盤を確立した。この本藩の政治的・財政的安定こそが、後に7万石を超える大規模な支藩を創設するための不可欠な土台となった。 -
創設期(元和3年 / 1617年~):
初代藩主・鍋島元茂の下で、小城藩は「創設」された。これは、徳川幕府との関係を重視した結果生じた複雑な家督問題の解決策であり、同時に鍋島一門による領国支配を強化する戦略の一環であった。しかし、この段階では藩庁も藩主も佐賀にあり、財政的にも本藩に依存するなど、実態はまだ佐賀藩に従属する巨大な自治領に近い存在であった。 -
整備・確立期(承応・万治年間~):
真の意味での「藩政基盤整備」が実行されたのは、第二代藩主・鍋島直能の時代である。藩庁と家臣団が政治の中心地として小城へ移転し、桜岡に陣屋と城下町が形成された。同時に、家老職をはじめとする独自の行政機構が制度として確立され、小城藩は名実ともに独立した藩としての統治基盤を確立した。
以上の分析から、小城藩の成立と基盤整備は、戦国時代から続く権力闘争の論理と、江戸時代の安定を希求する幕藩体制の論理が交錯する中で生まれた、鍋島家の巧みな生存戦略の結晶であったと総括できる。それはまた、廃嫡された一人の武将の個人的な運命が、藩全体の政治的・経済的要請と分かちがたく結びついた、近世初期の藩政史における極めて興味深い一事例であると言えよう。1608年という一点の事象の背後には、このようにダイナミックで長期的な歴史の潮流が横たわっているのである。
引用文献
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