小田原城下町整備(1590)
1590年、小田原は北条氏滅亡後、大久保忠世により戦国要塞都市から近世城下町へと変貌。総構を解体し、東海道を軸に再編され、現代小田原の都市骨格が形成された。
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天正十八年(1590年)小田原城下町整備:戦国から近世への都市再構築
序章:天正十八年、画期の刻
天正十八年(1590年)は、日本の歴史において戦国乱世の終焉と、それに続く近世社会の幕開けを象徴する画期的な年である。この年の7月、豊臣秀吉率いる20万を超える大軍の前に、関東に百年にわたり君臨した後北条氏が本拠地・小田原城を開城し、滅亡した 1 。この「小田原合戦」は、秀吉による天下統一事業の総仕上げであり、日本の統治構造が大きく転換する歴史的瞬間であった。
この政治的激変の直後から始まった「小田原城下町整備」は、単に戦乱からの「復興」という言葉では捉えきれない、より深く、意図的な意味を持つ事象である。それは、旧時代の統治思想を象徴する都市構造を解体し、新たな支配者である徳川氏の、ひいては豊臣政権が志向する近世的な秩序を都市空間に刻み込む「再構築」のプロセスであった。北条氏が築き上げた、城と城下、そして領民をも一体として守る巨大要塞都市の思想は、新たな支配体制の下で戦略的に否定され、統治と経済の効率性を重視する近世城下町へとその姿を根本から変貌させていく。
本報告書は、この1590年を境とする小田原城下町の変容について、時系列を追ってその動的なプロセスを詳細に解明することを目的とする。北条氏統治下の繁栄と、その集大成である「総構」の実態から説き起こし、小田原合戦が都市にもたらした影響、そして新城主・大久保忠世の下で断行された都市計画の具体的な内容とその思想的背景を、文献史料と近年の考古学的調査成果 3 を駆使して多角的に分析する。これにより、「なぜ、どのように小田原は変貌したのか」という問いに対し、それが戦国から近世への時代のパラダイムシフトを体現した象徴的出来事であったことを明らかにする。
第一章:北条氏百年の都 ― 難攻不落の巨大要塞都市の実像
1590年の変革を理解するためには、まずその前提となる北条氏統治下の小田原が、いかに先進的で独自の発展を遂げた都市であったかを知る必要がある。約一世紀にわたる北条氏の経営のもと、小田原は単なる軍事拠点に留まらず、東国随一の政治・経済・文化の中心地として繁栄の極みにあった。
第一節:東国随一の繁栄と都市構造
北条氏の領国経営は、検地や四公六民といった減税政策に代表されるように、民政に重点を置いたものであり、その安定した統治が城下町の発展の礎となった 6 。城下には、北条氏領内の職人を統括したとされる総職人頭・須藤惣左衛門が居住したことに由来する町名が残るなど、多種多様な職人が集住していた 8 。また、相模湾の豊かな漁業資源を背景に、漁業が奨励され、魚の流通を司る同業者組合「魚座」が形成されるなど、商業活動も活発であった 10 。
特筆すべきは、都市インフラの先進性である。三代当主・北条氏康の時代には、すでに箱根の早川を水源とする日本最古級の上水道「小田原用水(早川上水)」が城下町に張り巡らされていた 12 。この用水は、自然の勾配を巧みに利用して城下に清廉な水を供給し、飲料水として厳格に管理されていただけでなく 12 、防火用水としても機能した 15 。この高度な土木技術は、後に徳川家康が江戸に神田上水を整備する際に参考にされた可能性も指摘されており 12 、北条氏の統治能力の高さを物語っている。
都市の景観は、16世紀の段階で東西を貫く道と南北の道を軸とした町割りの原型ができており、計画的に整備されていた 16 。後年の記録ではあるが、その面影を伝えるエンゲルベルト・ケンペルの記述によれば、町筋は清潔で直線的に伸び、白壁の家々が整然と並んでいたという 17 。近年の発掘調査でも、戦国期の道路や溝といった遺構が正方位を向いていることが確認されており、計画都市であったことが考古学的にも裏付けられている 17 。ただし、その空間構成は、武家屋敷、町人地、寺社地が明確に分離されておらず、混在していた点に大きな特徴がある 19 。これは、身分による居住区の分離を徹底した近世城下町とは一線を画す、戦国期都市の姿であった。
第二節:天下統一への備え ― 総構の構築
北条氏の都市経営の集大成であり、その統治思想を最も雄弁に物語るのが、豊臣秀吉との決戦に備えて築かれた「総構(そうがまえ)」である。天正14年(1586年)頃、秀吉との対立が不可避となった北条氏政・氏直は、小田原城と城下町の防衛体制を抜本的に強化する決断を下した 1 。
その結果生まれた総構は、小田原城と広大な城下町全体を、総延長約9kmにも及ぶ巨大な堀と土塁で二重、三重に囲い込む、壮大な防御施設であった 21 。堀は深さ10m以上、斜面の角度は50度を超える場所もあり、関東ローム層の滑りやすい粘土質の土壌と相まって、敵兵の侵入を物理的に不可能にする「そそり立つ壁」として機能した 21 。発掘調査では、北条氏の築城術の特徴である、堀底に畝を残して敵の動きを阻害する「障子堀」も確認されている 5 。
しかし、総構の真に画期的な点は、その物理的な堅固さ以上に、その背後にある思想にあった。それは、城郭だけを守るのではなく、家臣の屋敷や商工業者の町家、さらには田畑までも防御ラインの内側に取り込むという、都市全体を一つの要塞と見なす思想である 22 。これにより、籠城中であっても食料の生産や経済活動を継続することが可能となり、兵士のみならず、領民の生活基盤そのものを守り抜こうとする北条氏の強い意志が体現されていた 23 。この包括的な防衛思想は、当時の日本の城郭の中でも特異なものであり、その後の城郭建築に大きな影響を与えたと評価されている 21 。北条氏の小田原は、単なる城ではなく、政治・経済・生活が一体となった独立「国家」の首都そのものであった。
第二章:小田原合戦 ― 百日の籠城と巨大都市の終焉
天正十八年(1590年)春、北条氏の築き上げた巨大要塞都市は、その真価が問われる時を迎えた。豊臣秀吉による天下統一の最終章、小田原合戦の火蓋が切られたのである。この戦いは、物理的な攻防以上に、情報と時間を支配する心理戦の様相を呈し、難攻不落を誇った都市の運命を決定づけた。
第一節:包囲下のリアルタイム
4月、豊臣軍は圧倒的な兵力で小田原を包囲した。その数、約21万 21 。対する北条軍は、関東各地の支城の兵力を合わせても約5万6千、小田原城内に籠もったのは約3万4千であった 20 。秀吉は力攻めを避け、長期戦の構えをとった。陸上からの包囲に加え、九鬼嘉隆や長宗我部元親らの水軍が海上を封鎖し、小田原を完全な孤島とした 23 。
秀吉の戦略は、軍事力による圧力と並行して、徹底した心理戦を展開することにあった。彼は小田原城を見下ろす笠懸山に、わずか80日で本格的な石垣の城(石垣山城)を築き上げ、その圧倒的な国力と動員力を見せつけた 27 。さらに、淀殿(茶々)ら妻女や千利休を陣中に呼び寄せ、連日茶会を催すなど、戦場とは思えぬほどの余裕を示すことで、籠城側の戦意を削いでいった 28 。
一方で、小田原を取り巻く北条氏の支城網は、豊臣方の猛攻の前に次々と崩壊していった。特に、西の守りの要であった山中城がわずか半日で陥落したという報は、小田原城内に大きな衝撃を与えた 27 。外部からの情報は遮断され、悪い報せだけが断片的に伝わる中、総構という物理的な壁の内側で、北条方の結束は揺らぎ始める。長期化する籠城生活は、やがて「小田原評定」と揶揄されるような、結論の出ない議論と内部対立を生み出し、将兵の士気を著しく低下させていった 29 。総構は物理的な攻撃は防いだが、情報の侵入と、それによってもたらされる心理的な疲弊を防ぐことはできなかった。難攻不落の要塞は、情報戦においては巨大な牢獄と化したのである。
第二節:開城と北条氏の滅亡
約100日間にわたる籠城の末、天正18年7月5日、ついに当主・北条氏直は降伏を決断し、小田原城は無血開城された 1 。合戦の責任を問われ、隠居していた前当主の氏政とその弟で八王子城主の氏照は切腹を命じられ、ここに五代百年にわたる後北条氏の関東支配は終焉を迎えた 23 。
城下町は、大規模な市街戦が行われなかったため、物理的な破壊は限定的であったと推測される 17 。秀吉や、彼の麾下にあった徳川家康は、占領地での兵士による略奪や放火といった非違行為を厳しく禁じる軍律を発しており、戦後の統治を円滑に進めるための秩序維持に細心の注意を払っていた 32 。これは、彼らの目的が単なる征服ではなく、新たな支配体制の構築にあったことを示している。
開城後、徳川家康が小田原城に入り、戦後処理の指揮を執った 13 。北条氏の旧領はすべて没収され、関東の政治地図は一変した 34 。小田原の町は、北条氏の首都としての役割を終え、新たな時代の、新たな支配者の下で、その運命を大きく変えることとなる。
第三章:新時代の幕開け ― 大久保忠世の入城と復興の始動
北条氏の滅亡は、小田原にとって一つの時代の終わりであると同時に、新たな時代の始まりを意味した。戦後処理の結果、関東一円は徳川家康の所領となり、小田原は徳川氏の関東支配における西の要衝として、新たな役割を担うことになった。この重要拠点の経営を託されたのが、家康譜代の重臣・大久保忠世であった。
第一節:徳川家康の関東移封と小田原の位置づけ
小田原合戦の論功行賞として、豊臣秀吉は徳川家康を従来の東海五カ国から、北条氏の旧領である関東六カ国へ移封した 35 。これは家康の勢力を中央から遠ざけるという秀吉の深謀があったとされるが、家康はこの広大で未開拓な地を、新たな国づくりの舞台と捉えた 37 。
家康は江戸を新たな本拠地と定めたが、箱根の関を背後に控え、江戸と上方(京都・大坂)を結ぶ東海道の結節点である小田原の戦略的重要性を深く認識していた。小田原は、徳川領国の西の玄関口であり、「東国の押さえ」として、絶対に敵の手に渡してはならない拠点であった 38 。
この最重要拠点に、家康は最も信頼する譜代の将の一人、大久保忠世を4万5千石で配した 38 。忠世は、家康の祖父の代から松平家に仕える名門の出であり、三河一向一揆や長篠の戦いなど、数多の合戦で武功を重ねた歴戦の猛将であった 42 。その武勇と実直な人柄は、織田信長や豊臣秀吉からも高く評価されていた 44 。特に、小田原包囲中に秀吉が忠世の陣を訪れ、その見事な陣構えを賞賛し、家康に加増を勧めたという逸話は、忠世が小田原城主にふさわしい器量の持ち主であると、天下人自身によって認められていたことを示している 44 。
第二節:戦後処理と統治基盤の確立
天正18年(1590年)後半、小田原城主として着任した忠世が直面した最初の課題は、膨大な数にのぼる北条氏旧臣の処遇であった。忠世は、彼らの多くを武装解除し、帰農させる政策をとった。これにより、旧臣たちは足柄平野などの村落に土着し、新たな時代の農民として再出発することになった 46 。一部の有能な者は徳川家に召し抱えられたが、忠世自身の家臣団は、三河や遠江出身の旧来の家臣で固められ、旧体制の影響力を払拭する姿勢が示された 45 。
同時に、戦乱で疲弊した城下町の民心を安定させ、治安を回復させることが急務であった。商人や職人たちの生活基盤を再建し、経済活動を正常化させることは、新たな支配の正当性を示す上で不可欠であった。
忠世の構想は、単なる戦災復興に留まらなかった。彼は、北条氏の旧都を、徳川家の拠点としてふさわしい、まったく新しい思想に基づいた都市へと「再編」することを目指した 40 。北条時代の優れた遺産、例えば小田原用水などは活かしつつも 39 、城郭の構造から城下町の区画、インフラに至るまで、包括的な都市改造計画に着手したのである 40 。大久保忠世の小田原統治は、家康が描く壮大な関東経営戦略の縮図であり、その成功は、後の江戸幕府の礎を築く上での重要な試金石となるものであった。
第四章:近世城下町への再編 ― 大久保忠世の都市計画
大久保忠世による小田原城下町の整備は、戦国時代の都市思想との決別であり、徳川政権が志向する近世的な社会秩序を空間的に具現化する壮大なプロジェクトであった。それは、防御思想、空間構成、インフラ、経済機能のすべてにわたる根本的な変革であり、その骨格は現代の小田原市にも受け継がれている。
項目 |
北条氏統治時代(~1590年) |
大久保氏統治時代(1590年~) |
都市概念 |
領国全体を防衛する巨大要塞都市 |
幕藩体制下の統治拠点・交通の要衝 |
防御施設 |
城下町全体を囲む「総構」(土塁・空堀主体) |
城郭中心部(三の丸以内)に限定、石垣を導入 |
町割り |
職能・地縁に基づき、武家・町人地が混在 |
身分に基づき武家地・町人地・寺社地を明確に区分 |
主要街道 |
鎌倉街道等の古道が基盤 |
江戸と上方(京都)を結ぶ東海道を都市の主軸に再整備 |
経済 |
北条氏の保護下にある職人・商人(座)が中心 |
宿場町機能と連動した商業活動、藩の御用商人が台頭 |
インフラ |
小田原用水(早川上水)の整備 |
小田原用水の維持に加え、酒匂川の治水事業に着手 |
第一節:新たな町割りの思想と実践
変革の最も象徴的な点は、北条氏の威光の象徴であった「総構」の扱いであった。徳川の平和(パックス・トクガワーナ)の時代において、領国全体で籠城する思想に基づいたこの巨大防御施設は不要と見なされ、その一部は戦略的に破却された 49 。城の防御機能は本丸・二の丸・三の丸といった中心部に集約され、都市の規模は意図的に縮小された 50 。これは、都市の性格が、閉鎖的な「要塞」から、開かれた「統治拠点」へと転換したことを意味する。
次に、都市の内部構造が再編された。北条時代には武家、町人、寺社が混在していた町割りは解体され、近世的な身分制社会を反映した、明確なゾーニングが導入された 19 。城郭を核として、その周辺に中・上級武士の屋敷が配置され、その外側に町人地が形成された。寺社はさらにその外縁部に集められ、有事の際の防御拠点としての役割も担わされた。
そして、都市の新たな背骨として、江戸と京を結ぶ大動脈「東海道」が明確に位置づけられた。街道沿いには町人地が集約され、本陣、脇本陣、数多くの旅籠が軒を連ねる宿場町としての機能が強化された 19 。町人たちの屋敷は、街道に面して商いをしやすいよう、間口が狭く奥行きが深い「短冊形」の区画に統一された 19 。これにより、小田原は関東防御の軍事拠点であると同時に、人・物・情報が絶えず行き交う、東海道最大の宿場町として新たな繁栄の道を歩み始めることになった 51 。
第二節:インフラ整備と経済振興
都市のハード面も大きく更新された。大久保時代には、土塁と空堀が主体であった城郭に、権威の象徴でもある石垣が本格的に導入され、銅門や馬出門といった堅固な門が整備された 23 。これにより、小田原城は戦国期の城から、近世城郭としての威容を備えるに至った。
城下町の外では、より広域的な視点からのインフラ整備が進められた。忠世が着手し、息子の忠隣が完成させた酒匂川の治水事業は、その代表例である 43 。暴れ川であった酒匂川に長大な堤防を築くことで、足柄平野を水害から守り、安定した穀倉地帯へと変貌させた。これは、藩の財政基盤である年貢収入を安定させるための、極めて重要な長期投資であった。
経済面では、忠世は積極的に他国から商人を誘致し、新たな市場を開設することで、城下の商業を再活性化させた 40 。これは、北条氏時代の「座」に代表されるような、特定の同業者組合に特権を与える保護主義的な経済から、より自由で広域的な競争を促す近世的な経済への転換を意図したものであった。
第三節:発掘調査が語る都市の変貌
こうした都市の変貌は、近年の発掘調査によって、地中から物理的な証拠として次々と明らかにされている。
小田原城下の遺跡では、17世紀中葉を境に、道路や溝といった遺構の向き(軸線)が、北条時代の正方位から約25〜30度傾く現象が確認されている 17 。これは、1633年の寛永小田原大地震後の復興を契機としながらも、大久保時代に始まった新たな都市計画が、街の骨格そのものを物理的に作り変えていったことを示す動かぬ証拠である。
また、出土する陶磁器の種類の変化は、経済圏の変容を雄弁に物語る。16世紀の地層からは、瀬戸・美濃(現在の愛知県・岐阜県)産の陶器や、希少な中国産磁器が出土する 17 。しかし、17世紀以降の地層になると、それらに加えて肥前(現在の佐賀県・長崎県)で生産された磁器、いわゆる伊万里焼が大量に出土するようになる 57 。これは、徳川政権下で全国的な海上交通網が整備され、小田原が西日本の産品も大量に消費する、広域経済ネットワークに完全に組み込まれたことを示している。北条時代の比較的閉じた経済圏からの脱却を、陶磁器片が証明しているのである。
これらの考古学的成果は、大久保忠世による都市再編が、徳川家康が駿府城下町などで実践した、機能性、支配の効率性、経済合理性を重視する近世的な都市計画思想を、小田原の地で忠実に実行したものであったことを示唆している。忠世は、家康の壮大な構想を理解し、それを具現化する優れた都市プロデューサーとしての役割を果たしたのである。
結論:1590年整備の歴史的意義
天正十八年(1590年)を画期とする小田原城下町の整備事業は、日本の都市史における一つの転換点を象徴する出来事であった。それは、単なる戦災からの復旧や、支配者の交代に伴う部分的な改修ではなく、都市の根源的な存在理由(レゾンデートル)そのものを書き換える、思想的な再構築であった。
この整備事業の歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、 都市思想のパラダイムシフト である。北条氏が百年の歳月をかけて築き上げた小田原は、「領国と民衆を一体として守り抜く」という、防御と自給自足を至上命題とする戦国期要塞都市の究極形であった。しかし、大久保忠世による整備は、その象徴であった総構を解体し、都市の機能を統治と流通へと転換させた。これは、もはや領国単位で閉じこもる時代ではなく、全国的な政治・経済ネットワークの中でいかに効率的に機能するかが都市の価値を決めるという、近世的な都市思想への明確な転換を示している。
第二に、 徳川支配の確立を可視化した象徴的事業 であったことである。旧支配者である北条氏の威光の象徴を物理的に解体し、身分制度に基づく厳格なゾーニングを導入し、江戸へと続く東海道を都市の主軸に据える一連の事業は、新たな支配者である徳川氏の権威と、その統治秩序が関東の隅々にまで及んだことを、誰の目にも明らかな形で示した。小田原の変貌は、徳川による関東経営、ひいては二百数十年続く江戸幕府の泰平の礎を築く上での、重要な一里塚であった。
第三に、 現代小田原市へと続く都市骨格の形成 である。大久保忠世によって再編された、東海道を軸とする町割りや主要な街路の配置は、その後の幾多の変遷を経ながらも、現代の小田原市中心市街地の基本的な骨格として、今なお色濃く受け継がれている 5 。我々が今日目にする小田原の街並みの下には、400年以上前に断行されたこの大事業の痕跡が、歴史の地層として深く刻み込まれているのである。
結論として、1590年の小田原城下町整備は、一つの都市が戦国の夢から覚め、近世という新しい現実へと生まれ変わった瞬間であった。それは、武力による攻防の時代が終わり、統治と経済による秩序の時代が始まったことを、都市空間そのものをもって告げる、歴史の大きな転換点であったと言えるだろう。
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- 特集 Vol.2 海と共に栄えた街・東海道「小田原宿」 https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/kankou/kankou/edokaidoportal/feature/vol_02/index.html
- 令和元年度第7回考古学講座 - 和2年(2020) 2月15日 (土) - 神奈川県民センター 2階ホール https://www.pref.kanagawa.jp/documents/8040/r01kouza7.pdf
- DEEPな小田原宿を歩く - 文化を感じ歴史学んでウォークしよう東海道 https://tokaido-wg.jimdoweb.com/%E5%AE%BF%E5%A0%B4%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F%E4%BE%8B%E4%BC%9A%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85/%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%EF%BD%BA%EF%BD%B0%EF%BD%BD-%E5%8F%82%E8%80%83/%EF%BC%99%E6%9C%88%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%AE%BF%E2%85%B0%E3%81%94%E6%A1%88%E5%86%85/
- 地中に埋もれた江戸時代の道具たち - 神奈川県 https://www.pref.kanagawa.jp/documents/95200/886969.pdf
- 御用米 曲輪 御用米 曲輪 三 の 丸 三 の 丸 二 の 丸 二 の 丸 本 丸 本 丸 https://www.kaf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2020/01/sannnomaru.pdf
- 近代移行期の陶磁器流通 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/230218072.pdf