山形城三の丸整備(1592)
最上義光、天正二十年に山形城三の丸を大改修。肥前名護屋の経験を活かし、城下町を囲む惣構えを築く。軍事・経済両面で領国を支え、慶長出羽合戦で最上家存続の要となる。駒姫の悲劇を経て、徳川家康に接近した。
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山形城三の丸整備(1592年)の総合的考察:戦国末期における最上義光の戦略と巨大城郭の誕生
序章:出羽の驍将、天下普請の時代に立つ
天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐は、日本の戦国時代における一つの大きな分水嶺となった。この歴史的転換点において、出羽国(現在の山形県および秋田県)の戦国大名、最上義光は、秀吉の軍門に下るという重大な決断を下す 1 。父・義守との対立や周辺の有力国人衆との熾烈な抗争を乗り越え、出羽国の統一を目前にしていた義光にとって、天下人の巨大な権力構造に組み込まれることは、独立した領主としての時代の終わりを意味した。しかし同時に、それは最上家の存続と、出羽における支配権を中央政権から公的に追認されるための唯一の道でもあった。
この臣従により、義光は南の米沢を本拠とする上杉景勝や、南奥州に覇を唱える伊達政宗といった、長年の宿敵と豊臣政権という新たな秩序の中で対峙することになる 3 。彼の立場は、天下人への恭順を示しつつ、領国を虎視眈々と狙う周辺大名への警戒を怠れないという、二重の緊張感に満ちたものとなった。このような政治的・軍事的環境の変化は、彼の領国経営、とりわけ本拠地である山形城のあり方に根本的な見直しを迫るものであった。
義光が1592年に一大事業として着手する「三の丸整備」以前の山形城は、その祖先である斯波兼頼が延文2年(1357年)に築いた中世的な居館を、歴代の当主が逐次拡張したものであった 5 。防御施設は主に土塁と堀からなり、その規模や構造は、織田信長や豊臣秀吉が推し進めた近世城郭の技術革新、すなわち高石垣、複雑な虎口(城門)、そして天守の建築といった潮流からは大きく隔たっていた。全国で最新技術を駆使した巨大城郭が次々と築かれ、城の規模そのものが大名の「格」を示す指標となる「天下普請」の時代において、山形城は軍事的な防御力、そして50万石を超える大大名としての威光を示すという両面で、もはや時代遅れの存在となりつつあった。
したがって、1592年に始まる山形城の大規模な拡張整備は、義光個人の単なる思いつきや趣味によるものではない。それは、豊臣政権という新たな政治秩序の中で、彼が「中央基準」の大名として認知され、生き残るための必然的な一手であった。城郭の近代化と巨大化は、単なる軍事施設の強化に留まらず、豊臣体制下における自らの地位を確保し、ライバルである伊達・上杉に対抗するための、極めて高度な政治的投資だったのである。本報告書は、この「山形城三の丸整備」という事象を、1592年という激動の時代を軸に、その背景、過程、構造、そして歴史的意義を多角的に解明するものである。
第一部:激動の1592年 ― 巨大城郭構想の胎動
第一章:西国への道 ― 文禄の役と肥前名護屋での経験
天正20年、すなわち文禄元年(1592年)、日本全土を揺るがす大事件が勃発する。豊臣秀吉による朝鮮出兵、世に言う「文禄の役」である。この未曾有の対外戦争において、最上義光もまた、他の多くの大名と同様に動員命令を受け、兵を率いて九州の肥前名護屋(現在の佐賀県唐津市)へ出陣した 1 。これは、長年出羽国という一地方で覇を競ってきた義光にとって、初めて体験する全国規模の軍事動員であり、彼の築城観に決定的な影響を与える経験となった。
義光が名護屋で目の当たりにした光景は、まさに圧巻の一言であった。秀吉がこの出兵の拠点として短期間で築き上げた名護屋城は、巨大な天守こそなかったものの、広大な縄張りと堅固な石垣群を備えた一大要塞であった。さらにその周囲には、全国から参集した160を超える諸大名の陣屋が、あたかも衛星都市のように築かれ、全体として一つの巨大な軍事都市を形成していた。そこで用いられていた最新の築城技術、特に大規模な石垣普請、敵の侵入を阻むために複雑に設計された虎口、そして城と陣屋群が一体となって構成する広大な防御線の構築は、土塁を主体とする東北の城郭とは一線を画すものであった 8 。
義光は、この名護屋の陣中に滞在する間、同じく参陣していた蒲生氏郷ら他国の有力大名と交流し、戦況に関する情報だけでなく、築城や都市計画に関する最新の知見を貪欲に吸収したと考えられる 8 。朝鮮半島での戦況は早くも泥沼化の様相を呈し、義光は書状の中で「いのちのうちニ、いま一ともかミのつちをふミ申度候、ミつを一はいのミたく候(命あるうちに今一度、最上の土を踏みたい。水を一杯飲みたい)」と望郷の念を吐露するほどであったが、彼はこの苦しい従軍経験を単なる義務の遂行で終わらせなかった 8 。西国で実見した近世城郭の威容と、それを支える高度な土木技術は、彼の脳裏に深く刻み込まれた。この経験こそが、帰国後の山形城大改修における直接的な技術的触媒となり、その構想を飛躍的に壮大なものへと昇華させたのである 8 。
第二章:帰国と決断 ― 山形城大改修の着手
文禄の役において朝鮮への渡海を免れ、出羽への帰国を果たした最上義光は、すぐさま新たな行動を開始した。肥前名護屋で得た衝撃的な知見と、天下の情勢に対する深い洞察を基に、本拠地・山形城の新たなグランドデザインを策定したのである。その構想は、単に本丸や二の丸を補強するといった次元に留まるものではなかった。それは、城郭の中心部だけでなく、家臣の屋敷や商人・職人が住む城下町全体を、巨大な堀と土塁で三重に囲い込むという、壮大な「惣構え(そうがまえ)」の計画であった 9 。
この構想の核心は、なぜ「三の丸」という広大な外郭を必要としたかに集約される。従来の城郭概念では、本丸や二の丸といった内郭が領主と直属家臣団の居住・防衛空間であったのに対し、城下町は城外に広がる経済空間と見なされていた。しかし義光は、籠城戦という最悪の事態を想定した際、兵糧や武具を供給する商人や職人たちの活動、すなわち兵站と経済の心臓部を守り抜くことこそが、戦争の帰趨を決する鍵であると見抜いていた。三の丸によって城下町そのものを防御線に取り込むという思想は、極めて実践的かつ先進的な軍事思想の表れであった 5 。
普請の開始時期は、義光が名護屋から帰国した後の文禄元年(1592年)末から文禄2年(1593年)頃と推定されている 8 。この前代未聞の巨大事業には、領内から膨大な数の人夫が動員され、莫大な量の土砂や石材、木材が必要とされた。このような大規模普請を可能にした経済的背景には、義光が精力的に進めてきた領国経営の成功があった。特に、領内を貫流する最上川の舟運を整備し、日本海交易の拠点である酒田港と内陸部を結びつけたことは、商業を飛躍的に発展させ、大きな富をもたらした 12 。さらに、領内にあった延沢銀山からの豊富な鉱物資源も、重要な財源であったと考えられている 14 。興味深いことに、この延沢銀山は、かつて義光と敵対していた有力国人・延沢満延の所領であったが、義光が自身の長女・松尾姫を満延の嫡子に嫁がせるという政略結婚を通じて同盟関係を結び、実質的な支配下に置いた拠点であった 15 。軍略、政略、そして経済政策の全てが、この巨大城郭建設の礎となったのである。
義光の城づくりは、西国で学んだ最新技術の単なる「模倣」ではなかった。それは、出羽国が置かれた地政学的リスクと、彼自身の領国経営思想を色濃く反映させた「創造」との、見事なハイブリッド戦略であった。例えば、名護屋の陣城群では石垣が多用されていたが、山形城の普請において石垣が用いられたのは、主に防御の要となる城門周辺に限られた 16 。城郭の主体をなしたのは、あくまでも巨大な土塁と水堀であった 17 。これは、領内を流れる馬見ヶ崎川で豊富に採取できる玉石や、掘削で生じる土を最大限に活用し、莫大なコストと工期を現実的な範囲に収めるための、極めて合理的な選択であった。さらに、城下町全体を囲い込む「惣構え」という最新の築城トレンドを採り入れつつも、それを自身の商業重視政策と結びつけ、経済中枢を防衛するという思想を徹底させた点に、義光の独創性が見て取れる 6 。彼は最新の様式を学びながらも、それを自領の地理的・経済的条件に合わせて最適化するという、極めて優れた応用力と戦略眼を発揮したのである。
第二部:山形城三の丸 ― その構造と意図
第一章:城郭としての三の丸 ― 鉄壁の防衛線
最上義光による大改修、とりわけ三の丸の整備によって、山形城はその姿を劇的に変貌させた。中世的な居館から、本丸、二の丸、三の丸が同心円状に広がる「輪郭式」の縄張りを持つ、巨大な近世平城として完成したのである 5 。この輪郭式の縄張りは、特定の方面に防御が偏ることなく、全方位からの攻撃に対して均等に対応しやすいという優れた防御思想に基づいていた。
この鉄壁の防衛線の要となったのが、見る者を圧倒するスケールの土塁と水堀であった。現在、山形市十日町にわずかに残る三の丸土塁跡は、往時の姿を偲ばせる貴重な遺構であり、その規模は高さが最大で8メートル、底面の幅は約20メートルにも達する 17 。この巨大な土の壁が、三の丸の外周約6キロメートルにわたって続いていたのである。さらに土塁の外側には、蔵王連峰からの豊富な湧水を利用した幅広の水堀が巡らされており、敵兵の容易な接近を物理的に阻んでいた 20 。
三の丸には、城下と外部とを結ぶ出入り口として11の門が設けられていた 5 。これは、「十一」と「口」の字を合わせると「吉」の字になることから、城の繁栄を願う縁起を担いだものと伝えられている 16 。ただし、現存する初期の城絵図には10の門しか描かれていないものもあり、城下町の発展に伴って後に増設された可能性も指摘されている 21 。これらの門は単なる通路ではなく、それぞれが高度な防御機構を備えていた。敵が門を突破しようとしても直進できないように進路を屈曲させた「枡形(ますがた)」構造や、土塁を突出させて側面から矢や鉄砲を射かける「横矢掛り(よこやがかり)」といった設備が巧みに配置され、侵入しようとする敵を幾重にも食い止める工夫が凝らされていた 20 。
そして何よりも特筆すべきは、その圧倒的な規模である。三の丸の内側の面積は、約234.86ヘクタール(約235万平方メートル)にも及んだ 5 。この広さは、現存する日本最大の天守閣を持つことで知られる姫路城の外郭(約233ヘクタール)に匹敵、あるいはそれをわずかに凌ぐものであり、東北地方においては比類なき最大級の城郭であった 2 。天守という権威の象徴こそ持たなかったものの、城下町全体を内包する防御空間の広大さにおいて、山形城は全国でも屈指の規模を誇っていたのである。義光が構想した城は、単に領主が籠るための砦ではなく、領国の政治・経済・軍事の全てを守りきるための、巨大な城塞都市であった。
主要城郭との規模比較
山形城の「約235ヘクタール」という規模が、戦国末期から江戸初期にかけての城郭の中でどれほど異例のものであったかを理解するために、他の著名な城郭と比較することは極めて有効である。
城郭名 |
城のタイプ |
総面積(三の丸・総構え等) |
構造的特徴 |
山形城 |
輪郭式平城 |
約235 ha 5 |
城下町を内包する巨大な惣構え。天守はなし 5 。 |
江戸城 |
輪郭式平城 |
約260 ha (外郭内) |
日本最大の城郭。巨大な天守(焼失)と多重の惣構えを持つ。 |
姫路城 |
梯郭式平山城 |
約233 ha (外郭内) 16 |
連立式の壮麗な大天守が象徴。城下町の一部を囲む惣構え。 |
仙台城 |
平山城 |
面積比較困難 |
本丸は天然の断崖を利用した山城形式 25 。広大な二の丸・三の丸を持つが、惣構えはない。 |
会津若松城 |
梯郭式平山城 |
約21 ha (郭内) |
惣構えを持つが、山形城よりは小規模 27 。赤瓦の五層天守が特徴 27 。 |
この比較から明らかなように、山形城は天守を持たない一方で、防御されるべき領域(惣構えの内側)の面積においては、天下の名城である姫路城や、後の天下の府である江戸城にさえ比肩する、全国でも屈指の規模を誇っていた。これは、伊達政宗が天然の要害を最大限に活用した仙台城や、堅固な天守を誇る会津若松城とは全く異なる思想、すなわち「都市そのものを要塞化する」という義光の明確な戦略的意図を物語っている。
第二章:城下町としての三の丸 ― 経済と生活の中心
最上義光が築いた三の丸は、単なる軍事的な外郭ではなかった。その内部は、彼の明確な都市計画思想に基づいて「町割り」が行われた、活気あふれる経済と生活の中心地であった 12 。
三の丸の内部空間は、機能に応じて計画的に区画整理されていた。まず、城の中枢である二の丸に近いエリアには、一族や譜代の重臣たちの広大な屋敷が戦略的に配置された 30 。これは、有事の際に彼らが即座に城の中核部の防衛に駆けつけられる体制を整えるとともに、それぞれの持ち場である城門や土塁の守備責任を分担させるという、極めて合理的な配置であった。
一方で義光は、領国の繁栄の礎は商業にあると深く認識しており、城下町の経済的活性化に最大限の注意を払った。彼は、江戸と出羽を結ぶ大動脈であった羽州街道を、意図的に城下の中心部(現在の七日町、十日町、横町など)を貫通するように引き込んだ 16 。これにより、人の往来と物資の流通が城下に集中し、自然と商業活動が活発になるよう仕向けたのである。さらに、定期的な市(十日市など)の開催を奨励し、領内外から商人を呼び寄せ、城下に賑わいを創出した 13 。
商業の振興と並行して、領国の産業基盤を城下に集約させることも義光の重要な政策であった。彼は、材木町、鍛冶町、銀町、蝋燭町、塗師町といった多種多様な職人町を計画的に配置した 6 。これにより、武具の生産から日用品の製造まで、領国が必要とする様々な工業生産が城下で一貫して行われる体制を築き、経済の自給自足と発展を促した。
このような都市機能を支えるインフラの整備も怠らなかった。山形市が位置する馬見ヶ崎川の扇状地という地形を巧みに利用し、「山形五堰」と呼ばれる精緻な用水路網を整備した 31 。この用水路は、城下の各所に清冽な水を供給し、人々の生活用水や防火用水、さらには周辺の田畑を潤す農業用水として、都市の生命線を支えたのである 6 。
三の丸という物理的な境界線の構築は、単に城の防御力を高めるだけに留まらなかった。それは、その内部に住む武士、商人、職人といった異なる身分の人々に、「山形城」という一つの共同体の一員であるという意識を醸成する、強力な社会的装置としても機能した。中世までの城は、領主と一部の家臣が籠るための閉鎖的な空間であり、町人は城外の存在であった。しかし、惣構えによって城下町が城郭の内側に取り込まれると、城が攻撃されることは、すなわち町人自身の生活と財産が直接的な脅威に晒されることを意味する 9 。これにより、城の防衛はもはや武士だけの責務ではなく、町人も含めた「城内」住民全体の共通課題へと変質した。事実、後の慶長出羽合戦においては、日本海側の港町・酒田の豪商であった永田勘十郎が、私財を投じて町兵を組織し、上杉軍に対して果敢に奮戦したという記録が残っている 3 。この「運命共同体」意識は、領国の一体感を飛躍的に高め、ひいては最上氏の支配体制を盤石にする上で、目に見えないながらも極めて重要な効果をもたらした。三の丸の整備は、物理的な防御壁の構築であると同時に、領民の心理的な統合を図る、高度な統治技術の結晶だったのである。
第三部:普請の遺産 ― その後の最上義光と山形
第一章:悲劇と憎悪 ― 駒姫事件と対豊臣感情の悪化
山形城で三の丸の普請が着々と進められていた頃、中央の政治情勢は、豊臣政権の後継者問題を巡って不穏な空気に包まれていた。天下人・秀吉に長く実子がいなかったため、甥の豊臣秀次が養子として関白の位を継ぎ、後継者と目されていた。中央政権内での地位を盤石にしたいと願う義光は、この青年関白・秀次との関係を深める。そして、東国一の美少女と噂された最愛の娘、駒姫を秀次の側室として差し出すことを決断した 3 。当時まだ10代前半であった駒姫を京に送ることは、父として断腸の思いであっただろうが、これは最上家が天下の中枢と直接的な姻戚関係を結び、その地位を飛躍的に向上させるまたとない好機のはずであった。
しかし、運命は残酷な形で義光に牙を剥く。文禄2年(1593年)に秀吉に実子・秀頼が誕生すると、秀次との関係は急速に悪化。そして文禄4年(1595年)7月、秀次は秀吉への謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹を命じられるという悲劇的な最期を遂げる。この政変の余波は、何の罪もない駒姫にも及んだ。彼女は秀次の他の側室や子女たちと共に罪人として捕らえられ、同年8月2日、京都の三条河原で無残にも処刑されてしまったのである 1 。
最愛の娘が、理不尽な政治抗争の犠牲となって命を落としたという報せは、義光に計り知れない衝撃と悲嘆をもたらした。その嘆きは凄まじく、数日間は食事も喉を通らなかったと伝えられている 1 。さらに義光を打ちのめしたのは、秀吉から送られた言葉であった。『永慶軍記』によれば、秀吉は「娘を死罪にしたことを不快に思うだろうが、秀次が反逆した以上はやむを得ない。こうなったからには、汝(義光)の罪も許してやろう」といった趣旨の、恩着せがましい言葉を伝えてきたという 34 。この非情な仕打ちにより、義光の豊臣政権、とりわけ秀吉とその側近たちに対する怒りと不信感は、もはや修復不可能なほど決定的なものとなった 36 。この駒姫事件を境として、義光は豊臣政権と距離を置き、水面下で同じく秀吉と微妙な関係にあった徳川家康へと急速に接近していくことになる 3 。
第二章:真価の発揮 ― 慶長出羽合戦と山形城
駒姫の悲劇から5年後の慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に顕在化した徳川家康と石田三成の対立は、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いへと発展する。この国家的動乱において、最上義光は迷うことなく家康率いる東軍に与した。これに対し、会津の上杉景勝は三成の西軍に付き、家康が西へ向かった隙を突いて、長年の宿敵である最上領へと侵攻を開始した。世に言う「慶長出羽合戦」の勃発である 3 。
直江兼続を総大将とする上杉軍の兵力は約2万5千。対する最上軍の総兵力は、わずか7千程度であった 37 。兵力で圧倒的に劣る義光は、領内各地の支城に兵力を分散させて敵の進軍を遅らせつつ、自身は4千ほどの兵と共に本拠地・山形城に籠城し、全軍の指揮を執るという絶体絶命の防衛戦を強いられた 37 。上杉軍の猛攻により、畑谷城などいくつかの支城は玉砕・落城したが、志村光安が守る長谷堂城は寡兵ながらも驚異的な粘りを見せ、上杉軍主力を釘付けにした 6 。
この絶望的な状況下で、最上軍の士気と戦略の支柱となったのが、他ならぬ山形城そのものであった。8年前に義光が心血を注いで築き上げた巨大な惣構えは、この最大の国難において、その真価を遺憾なく発揮した。上杉軍は、この広大な城塞都市を正面から攻略することの困難さを熟知しており、力攻めを躊躇せざるを得なかった。城下町までをも取り込んだ三重の堀と長大な土塁は、敵に計り知れない心理的圧迫感を与えた。この戦いの最中、山形城が深い霞に包まれて敵からその姿が見えなかったことから、「霞ヶ城(かすみがじょう)」の異名が生まれたという逸話は、単なる気象現象を語るものではない 6 。それは、巨大な城郭が敵兵に与えた、底知れぬ威圧感と恐怖心の象徴であった。
結果として、義光は関ヶ原の本戦で東軍がわずか一日で勝利を収めるまでの crucial な時間を稼ぎきり、上杉軍の撤退を待って反撃に転じ、領国を守り抜いた。1592年に始まった三の丸の普請は、8年後のこの日、最上家の滅亡の危機を救い、ひいては家康の天下統一に貢献するという、計り知れない戦略的価値を証明したのである。
第三章:後世への継承と変容
慶長出羽合戦における多大な功績を徳川家康に認められた最上義光は、戦後に大幅な加増を受け、出羽57万石を領する大大名へと登り詰めた 6 。しかし、義光という傑出した当主を失った後、最上家では家督を巡る内紛が勃発し、その混乱を幕府に咎められる形で、元和8年(1622年)に突如改易の憂き目に遭う 5 。
最上氏に代わって山形城主となったのは、譜代大名の鳥居忠政であった。忠政は、義光が築いた城の基本構造を継承しつつ、さらなる改修を加えた。特に、二の丸の防御力を強化するため、土塁だけでなく堅固な石垣を多用し、現存する二の丸東大手門のような壮麗かつ実戦的な門を築いた 2 。現在、霞城公園で復元されている門や櫓の多くは、この鳥居氏時代の姿を基にしている 20 。
しかし、鳥居氏以降、山形藩の藩主は頻繁に交代し、その石高も次第に削減され続けた。幕末には水野氏の5万石となり、かつて57万石の大大名の威容を誇った巨大城郭を維持することは、財政的に到底不可能となっていた 2 。城の維持管理は放棄され、二の丸や三の丸の広大な敷地の一部は畑として利用されるなど、城は次第にその姿を寂しいものへと変えていった 5 。
明治維新を迎えると、城郭の運命はさらに大きく変わる。廃城令の後、城跡には陸軍の歩兵第三十二連隊が駐屯することになり、軍事施設建設の過程で、本丸の堀は埋め立てられ、多くの建物が取り壊された 39 。さらに明治34年(1901年)の山形駅開業と、それに伴う市街地整備の波は、三の丸の土塁と堀に決定的な打撃を与えた。市街地開発の妨げと見なされた土塁は次々と切り崩され、その土砂で堀は埋め立てられていったのである 17 。
今日、かつての巨大な三の丸の姿を直接的に偲ばせるのは、十日町口付近に奇跡的に残されたL字型の土塁跡のみとなっている 17 。しかし、近年の継続的な発掘調査によって、歴史の地層の下から新たな事実が明らかになりつつある。鳥居氏時代に改修された遺構の下層から、最上義光の時代に葺かれたと見られる金箔押しの鯱瓦や鬼瓦が発見されており、義光が築いた華やかで壮大な城の姿が、断片的ながらも再び我々の前に現れ始めている 41 。
山形城の歴史的価値は、駒姫事件という一個人の悲劇と、慶長出羽合戦という国家的動乱が、この城郭の存在を介して劇的に交差した点に集約される。もし駒姫事件がなければ、義光は豊臣政権内で巧みに立ち回り続け、関ヶ原の戦いにおいても、より日和見的な態度を取った可能性は否定できない。しかし、最愛の娘の非業の死がもたらした豊臣への「憎悪」 1 こそが、彼を徳川家康との連携へと強く動機づけ、東北における反上杉の最前線という、極めて危険な役割を敢えて引き受けさせた。そして、その国家的使命を全うできたのは、まさに彼自身が築き上げた巨大な山形城という物理的な存在があったからに他ならない。1592年に、豊臣政権への忠誠と自らの野心を示すために始まった普請が、1595年の悲劇を経て、反豊臣・親徳川の砦としてその意味合いを変え、そして1600年の合戦において、徳川の天下統一に貢献する形でその真価を発揮した。このように、山形城三の丸は、単なる建築物ではなく、最上義光の激動の生涯と、戦国末期の政治力学を体現する「生きた遺産」として捉えるべきなのである。
結論:1592年の普請が持つ歴史的意義の再評価
1592年に開始された「山形城三の丸整備」は、単なる一地方大名による城郭の拡張工事という枠を遥かに超える、複合的かつ深遠な歴史的意義を持つ事業であった。
第一に、それは最上義光という戦国武将の戦略の集大成であった。肥前名護屋での経験を通じて中央の最新築城技術を学び、それを自らの領国で実現するという決断は、豊臣政権下で生き残るための高度な政治的デモンストレーションであった。同時に、上杉・伊達という強敵の脅威に備えるための徹底した軍事的要塞化であり、城下町そのものを保護・育成することで領国の経済を発展させるための壮大な都市計画でもあった。そして、これら全てを可能にする財源を、最上川舟運や銀山開発といった領国経営によって確保した点も含め、義光の持つ政治、軍事、経済、経営の全ての手腕が一体となって結実したのが、この三の丸整備であった。
第二に、この巨大城郭の出現は、東北地方の勢力図、すなわちパワーバランスに決定的な影響を与えた。三の丸を含む惣構えの完成は、出羽国における最上氏の支配権を物理的にも心理的にも不動のものとした。そして、慶長出羽合戦という国家的危機をこの城によって防衛しきったことが、徳川家康からの絶大な評価につながり、最上家を57万石という東北有数の大大名へと飛躍させる直接的な原因となった。1592年の義光の決断が、その後の東北の歴史の潮流を大きく動かしたのである。
第三に、山形城は、日本の城郭史において、近世城郭思想の地方的展開を示す卓越した事例として再評価されるべきである。中央で生まれた「惣構え」という最新の築城思想を、東北という地方の地理的・経済的条件(豊富な土砂と水、限定的な石材)に合わせて、土塁と水堀を主体とする形へと巧みに最適化し、実現した。それは、戦国時代の終焉と、大名が領国全体を統治する近世という新たな時代の幕開けを、城郭という形で体現した記念碑的な事業であったと言える。
最上義光が夢見た城塞都市は、その後の歴史の変転の中で多くが失われた。しかし、1592年という一点に凝縮された彼の戦略、思想、そして決断は、今なお山形の街の骨格に、そして歴史の中に、確かに生き続けている。
引用文献
- 石田三成と戦っていないのに関ヶ原合戦後に大出世…徳川家康が厚い信頼を置いた「戦国最大の悪人」 NHK大河で描かれた「伊達政宗毒殺未遂」は史実なのか (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/86904?page=3
- 東北随一の広さを持つ最上義光の【山形城の歴史】をまるっと解説 - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/yamagatacastle/
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- 【お城の基礎知識】惣構え(そうがまえ) | 犬山城を楽しむためのウェブサイト https://www.takamaruoffice.com/shiro-shiro/sougamae/
- 縄張りの三形式 輪郭式・梯郭式・渦郭式 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=N-uGBVfylhI
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