平戸オランダ商館開設(1609)
1609年、平戸にオランダ商館が開設。新興勢力オランダと海外貿易を重視する徳川家康の戦略が合致し、鎖国体制下で日本と西洋を結ぶ唯一の窓口となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長十四年 平戸オランダ商館開設の深層:世界史的文脈と徳川幕府の戦略
序章:1609年への道筋 - 世界と日本の邂逅
慶長十四年(1609年)、肥前国平戸にオランダ商館が開設された。この出来事は、単に日本の一港に新たな外国の拠点が設けられたという事実にとどまらず、17世紀初頭の世界史的な地殻変動と、戦国の世を終焉させ天下泰平の礎を築きつつあった日本の国内情勢という、二つの巨大な潮流が交差した必然的な帰結であった。それは、その後の約250年間にわたる日本の対外関係を規定し、「鎖国」という特殊な体制下で西洋世界への唯一の窓口となる日蘭関係の原点となった、画期的な事象である。
16世紀末、世界はスペインとポルトガルという二つのカトリック海洋帝国によって分割されていた。彼らは大航海時代の先駆者として莫大な富を築いたが、その栄光には陰りが見え始めていた 1 。これに対し、宗教改革の嵐の中から生まれ、スペインの圧政に対して八十年戦争という独立のための長い闘争を続けていたネーデルラント連邦共和国、すなわちオランダは、新興のプロテスタント国家として、旧来の秩序に果敢に挑戦していた 3 。彼らの武器は、カトリックの布教と一体化した領土的野心ではなく、徹底した商業的合理主義と、それを支える強力な海軍力であった。
一方、日本国内では、100年以上にわたる戦乱の時代が終わりを告げ、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が実質的な支配権を確立していた。1603年に江戸幕府を開府し、国内の安定化と中央集権体制の構築を急ぐ家康にとって、海外貿易がもたらす富は、政権の財政基盤を強化し、豊臣氏の残存勢力や潜在的な敵対大名を抑える上で不可欠な要素であった 5 。しかし、先行するポルトガル人やスペイン人がもたらすキリスト教は、幕府の統治理念と相容れない危険な思想であり、その浸透には強い警戒感を抱いていた。
この報告書は、「平戸オランダ商館開設」という一点の事象を、こうした重層的な文脈の中に位置づけ、その背景、詳細な経緯、そして歴史的意義を徹底的に解明するものである。なぜオランダだったのか。なぜ平戸だったのか。そして、この出来事がその後の日本の歴史をいかに規定したのか。これらの問いに答えるため、我々は時を遡り、世界と日本のダイナミックな相互作用の現場へと分け入っていく。
第一章:大航海時代の黄昏とオランダの勃興
1609年にオランダ船が平戸に到達した背景には、ヨーロッパにおける旧勢力の衰退と新興勢力の台頭という、世界史的なパワーバランスの変化が存在した。特に、オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie, VOC)の設立は、アジアにおける貿易と植民地経営のあり方を根本から変革するものであり、その戦略こそが日本との関係構築を必然たらしめたのである。
八十年戦争とオランダの独立
16世紀後半、ネーデルラント(低地地方)はスペイン・ハプスブルク家の支配下にあった。しかし、カルヴァン派プロテスタントの拡大と、スペインによる重税やカトリックの強制は、激しい抵抗運動を引き起こした。1568年に始まったこの独立闘争は「八十年戦争」と呼ばれ、オランダの国民性と国家の性格を鍛え上げた 1 。この長く過酷な戦争は、オランダに二つの重要な特質を植え付けた。第一に、国家の存亡をかけた闘いを通じて、自由と独立を何よりも尊ぶ気風が生まれたこと。第二に、陸の大国スペインに対抗するため、海上での活動、すなわち貿易と海軍力の強化に国家の活路を見出す、徹底した重商主義政策が国是となったことである。
当時、スペイン王はポルトガル王も兼ねており(1580年-1640年)、ポルトガルがアジアに築いた広大な交易網と植民地は、事実上スペインの国力を支える経済的生命線となっていた 3 。したがって、オランダがアジアに進出し、ポルトガルの権益を奪うことは、単なる商業活動ではなく、本国における独立戦争を有利に進めるための、極めて重要な軍事戦略の一環であった。彼らにとって、アジアの海はヨーロッパの戦場の延長線上にあったのである。
オランダ東インド会社(VOC)の設立と特異な性格
独立戦争のさなか、オランダはアジア貿易の重要性に着目し、いくつかの貿易会社が個別に航海を行っていた。しかし、これらの会社間の過当競争は利益を損なうため、オランダ政府の主導のもと、1602年に既存の会社をすべて統合した巨大な連合企業、オランダ東インド会社(VOC)が設立された 1 。
VOCは、単なる貿易会社ではなかった。それは、条約の締結、要塞の建設、軍隊の保有と交戦、そして植民地の統治といった、国家が有する主権の一部を委譲された「国家内国家」とも言うべき特異な存在であった 1 。その最大の目的は、アジア、特にモルッカ諸島周辺の香辛料貿易を独占すること、そして宿敵スペイン・ポルトガルのアジアにおける拠点を攻撃し、その経済基盤を破壊することにあった 3 。
さらに、VOCは世界初の株式会社として、多数の株主から広く資金を調達する仕組みを持っていた 7 。これは、国王の財政に大きく依存するポルトガルの国家事業とは根本的に異なっていた。一度の航海の失敗や損失が、事業全体の即時破綻に繋がりにくいリスク分散型のシステムであり、長期的かつ戦略的な視点に立った持続的な事業展開を可能にした。1600年に日本に漂着したリーフデ号の航海は大失敗であったが、それにもかかわらずVOCが9年後に再び公式な使節を派遣できたのは、この組織的・財政的体力がなせる業であった。この持続性こそが、最終的にポルトガルを凌駕する大きな要因となったのである。
アジア海域における蘭葡戦争と日本
VOCは設立当初から、ポルトガルが先行して築き上げたアジアの交易網に対し、極めて攻撃的な戦略をとった。インドのゴア、マレー半島のマラッカ、そして中国貿易の拠点であるマカオといったポルトガルの重要拠点を次々と攻撃し、その影響力を削いでいった 1 。
この世界規模で繰り広げられた紛争の中で、日本貿易は双方にとって極めて重要な戦略的意味を持っていた。当時のポルトガルは、マカオを拠点として、中国産の生糸を日本の銀で決済するという中継貿易で莫大な利益を上げていた 1 。16世紀から17世紀にかけて、日本の石見銀山や生野銀山は世界有数の銀産出量を誇り、この潤沢な銀は、銀を基軸通貨とする中国市場において絶大な購買力を持っていた。ポルトガルはこの「銀の道」を独占することで、アジア貿易全体の主導権を握っていたのである。
オランダが日本との直接貿易を熱望した最大の理由は、まさにこのポルトガルの生命線を断ち切ることにあった。日本から直接銀を調達し、それを元手に中国の生糸や絹織物を買い付け、日本や他のアジア地域、さらにはヨーロッパで販売する。この循環を確立できれば、ポルトガルに経済的な大打撃を与えると同時に、自らの戦争遂行能力を飛躍的に高めることができる。したがって、1609年のオランダの対日接近は、純粋な友好親善や商業的関心からというよりも、「商業」を手段とした「戦争」の一環であったと理解するのが、より実態に即していると言えよう。
第二章:天下泰平の礎を築く徳川幕府の対外認識
オランダがアジアにおける覇権戦略の一環として日本を目指していた頃、日本国内では徳川家康による新たな秩序構築が着々と進められていた。1609年当時の幕府、特に大御所として駿府から実権を握っていた家康の対外政策は、貿易がもたらす経済的利益の追求と、キリスト教が内包する政治的脅威の排除という、二律背反の課題にいかにして現実的に対処するかという点に集約される。
国内の安定と中央集権化
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利を収め、慶長八年(1603年)に征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開いた徳川家康は、日本の長期にわたる内乱状態に終止符を打った。慶長十年(1605年)には将軍職を息子の秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に隠居したが、政治、特に外交や貿易に関する最終決定権は依然としてその手に握られていた 10 。幕府の支配体制は日増しに盤石なものとなり、武断政治から文治政治への移行が進められるなど、国内の安定化が最優先課題とされていた 5 。
貿易政策:管理と実利の追求
家康は、海外貿易がもたらす富の重要性を深く認識していた。鉄砲や火薬といった軍需品はもちろん、中国産の生糸や薬品などは国内の需要が高く、これらを掌握することは幕府の財政基盤を強化する上で不可欠であった。そのため、当初は朱印船貿易を奨励するなど、積極的な貿易振興策をとっていた 12 。
しかし、家康は貿易の利益が特定の勢力、特にポルトガルと関係の深い九州の西国大名に集中することを強く警戒していた。貿易港を抱える大名が富を蓄え、強大化することは、確立しつつある幕府の中央集権体制にとって潜在的な脅威となりかねない。この懸念から、幕府は貿易を幕府の直接管理下に置こうとする政策を段階的に進めていった。
その象徴的な政策が、慶長九年(1604年)に導入された「糸割符制度」である 13 。これは、ポルトガル商人が独占していた輸入生糸の価格決定権を取り上げ、幕府が指定した堺、京都、長崎の特定商人(糸割符仲間)に一括購入させることで、価格を統制し、利益を国内に留めようとするものであった。さらに、豊臣秀吉の政策を継承し、ポルトガル貿易の中心地であった長崎を幕府の直轄領(天領)とし、長崎奉行を置くことで、貿易の監視と管理を直接行っていた 14 。これらの政策は、自由貿易から管理貿易へと移行しようとする幕府の強い意志の表れであった。
キリスト教への警戒心の高まり
家康の対外政策におけるもう一つの大きな柱は、キリスト教への対応であった。当初、貿易と布教が不可分である現実を前に、キリスト教を黙認していた時期もあった。しかし、その排他的な教義や、信者が日本の法や支配者よりもローマ教皇や神に絶対の忠誠を誓うという思想は、幕府が目指す身分制に基づいた封建的秩序とは根本的に相容れないものであった 16 。
さらに、スペインやポルトガルが、キリスト教の布教を海外領土獲得の尖兵として利用しているという情報は、後述するウィリアム・アダムスなどを通じて家康の耳にもたらされていたと考えられる 18 。信者の増加は、国内に外国勢力と通じる潜在的な第五列を形成することに繋がりかねず、これは天下人として最も警戒すべき事態であった。
1609年の時点では、まだ慶長十七年(1612年)の全国的な禁教令には至っていなかったが、幕府の直轄領であった駿府や京都、長崎などではキリシタン施設の破却が命じられるなど、禁教への動きはすでに始まっていた 10 。家康の頭の中では、貿易の利益は最大限享受しつつ、キリスト教という危険な「毒」はいかにして排除するか、という現実的な計算が常に働いていたのである。
このような状況下で、オランダという新たな選択肢が浮上した。彼らはキリスト教国ではあるが、カトリックとは敵対するプロテスタントであり、何よりも布教に熱心ではなく、純粋な交易のみを目的としているとされた 20 。家康にとって、オランダはまさに渡りに船であった。彼らを貿易相手として迎え入れることは、複数の目的を同時に達成する妙手となり得た。第一に、ポルトガルに対する強力な交渉カードとなり、競争原理を導入することで、生糸などの輸入価格を引き下げることができる。第二に、ポルトガルとの関係が悪化し、彼らを排除した場合でも、オランダがその貿易機能を代替できるため、交易ルートを維持できる。そして第三に、布教という最大の懸念材料を切り離した形で、貿易の利益のみを享受できる可能性が開ける。
家康のオランダへの接近は、単なる友好や好奇心からではなく、ポルトガル勢力を牽制し、貿易の主導権を完全に幕府の手に取り戻すための、冷徹な戦略的判断に基づいていた。オランダは、この壮大な外交ゲームにおける「代替可能」かつ「より安全」な駒として、家康の目に映っていたのである。
表1:17世紀初頭におけるポルトガルとオランダの対日戦略比較
比較軸 |
ポルトガル(イエズス会) |
オランダ(東インド会社) |
宗教活動 |
貿易とキリスト教(カトリック)布教が一体不可分。布教を領土的野心の手段と幕府に疑われた 12 。 |
宗教(プロテスタント)と貿易を明確に分離。布教には関心を示さず、商業的利益を最優先 20 。 |
貿易拠点 |
当初は平戸であったが、後に長崎に拠点を集中。大村氏など特定のキリシタン大名と強く結びついた 14 。 |
当初は特定の拠点を持たず、後に平戸に商館を設置。特定の宗教勢力との結びつきはなかった。 |
貿易姿勢 |
マカオを介した中国生糸と日本銀の中継貿易を独占し、価格決定権を握っていた 1 。 |
ポルトガルの独占打破を狙い、競争的な価格での取引を提示。アジア域内での多角的な貿易網を構築 1 。 |
本国との関係 |
スペインと同君連合下の国家事業であり、国王の意向とカトリック教会の世界戦略に強く影響された 3 。 |
独立した株式会社であり、株主の利益が最優先。本国の戦争遂行という大戦略に貢献しつつも、経営は独立的 7 。 |
幕府への情報提供 |
イエズス会宣教師が情報源。カトリック世界の視点に偏っており、プロテスタント諸国を「海賊」と中傷 18 。 |
ウィリアム・アダムスや商館員が情報源。ヨーロッパの勢力争いを客観的に伝え、幕府の多角的な情報収集に貢献 19 。 |
第三章:運命の漂着 - リーフデ号とウィリアム・アダムス
1609年の公式な日蘭交渉が実現する9年前、慶長五年(1600年)に起きた一つの遭難事件が、その後の両国の歴史を大きく左右する重要な布石となった。オランダ船リーフデ号の豊後国への漂着と、その乗組員であったイギリス人航海士ウィリアム・アダムスの存在である。アダムスは、徳川家康の知的好奇心と戦略的思考を刺激し、日本がヨーロッパを見るための新たな窓を開いた、まさにキーパーソンであった。
慶長五年(1600年)の漂着
1598年、オランダのロッテルダムから5隻の船団が、マゼラン海峡を越えてアジアの香辛料を求めるという壮大な航海に出発した。そのうちの一隻が、リーフデ(慈愛)号であった。しかし、その航海は過酷を極めた。嵐、壊血病、そして敵対勢力との戦闘により、船団は離散し、リーフデ号もまた壊滅的な打撃を受けた。2年近くにわたる漂流の末、慶長五年三月十六日(西暦1600年4月29日)、わずか24名の生存者を乗せたリーフデ号は、豊後国臼杵(現在の大分県臼杵市)の海岸に漂着した 23 。生き残った者たちも衰弱しきっており、自力で歩ける者は数名しかいなかったという。
この生存者の中に、イギリス人の水先案内人(航海士)ウィリアム・アダムスと、オランダ人のヤン・ヨーステン(後に耶楊子と名乗り、八重洲の地名の由来となる)がいた。彼らの運命は、当時の日本の最高権力者であった徳川家康の手に委ねられることになった。
家康とアダムスの邂逅
漂着の報を受けた家康は、当時大坂城にあって天下分け目の戦いを目前に控えていたが、この異邦人たちに強い関心を示し、アダムスらを大坂に召喚して自ら尋問を行った 24 。この時、長崎にいたポルトガルのイエズス会宣教師らは、彼らがオランダやイギリスの「海賊」であり、日本の秩序を乱す危険な存在であるとして、即刻処刑するよう家康に進言した 18 。
しかし、家康はこうした一方的な情報に惑わされることなく、アダムス自身の言葉に耳を傾けた。アダムスは、航海の目的、ヨーロッパ諸国の情勢、特にカトリック国(スペイン・ポルトガル)とプロテスタント国(オランダ・イギリス)が敵対関係にあること、そして自分たちの国では貿易は自由に行われることなどを冷静に説明した。家康は、アダムスが持つ地理学、数学、航海術、造船術といった高度な知識と、その誠実で公平な人柄を見抜き、彼らを処刑するどころか、むしろ保護することを決断した 18 。
この邂逅は、家康の世界観を大きく揺るがすものであった。それまで日本にもたらされるヨーロッパの情報は、すべてポルトガルやスペインの宣教師という、カトリック側のフィルターを通したものであった。アダムスは、家康に初めて「もう一つのヨーロッパ」の視点を提供したのである。彼は、イベリア勢力の布教活動が領土的野心と密接に結びついている可能性を示唆し、オランダやイギリスは純粋な商業的パートナーとなり得ることを説いたであろう。この情報非対称性の解消こそが、家康がアダムスを単なる漂流者としてではなく、国家にとって有益な人材として認識した瞬間であった。
外交顧問「三浦按針」の誕生
関ヶ原の戦いに勝利し、天下の覇権を確立した家康は、アダムスを江戸に招き、外交顧問として重用した。彼には「三浦按針(みうらあんじん)」という日本名と、相模国三浦郡に250石の領地が与えられ、旗本という武士の身分に取り立てられた 18 。これは外国人に対しては異例の厚遇であった。
按針(水先案内人の意)となったアダムスは、家康の期待に応えて多方面で活躍した。家康自身の求めに応じて数学や地理学を教え、幕臣たちには砲術や航海術を指南した 24 。特筆すべきは、家康の命令により、伊豆の伊東において日本で初めてとなる本格的な洋式帆船(ガレオン船)2隻を建造したことである 19 。この事業の成功は、日本の造船技術を飛躍的に向上させるとともに、家康の按針への信頼を絶対的なものにした。
按針の真の価値は、こうした技術顧問として以上に、家康の対欧州「情報戦略」の核として機能した点にある。彼は、ポルトガル人宣教師を介さずに、直接ヨーロッパの情報を得るための、信頼できる唯一の窓口となった 19 。家康は按針を通じて、ヨーロッパの複雑な勢力図を客観的に把握し、自らの外交政策を有利に進めるための情報を得ていた。
帰国と託された親書
慶長十年(1605年)、家康はリーフデ号の船長ヤコブ・クワケルナックとメルキオール・ファン・サントフォールトの帰国を許可した。その際、按針が建造した船の一つが彼らに与えられた。家康はこの機を逃さず、彼らにオランダ本国(当時はオラニエ公マウリッツが統治)宛ての親書を託した。その内容は、オランダとの正式な通商関係を望むという、明確な意思表示であった 25 。この親書こそが、4年後の1609年、オランダ東インド会社が公式な使節団を日本に派遣する直接的なきっかけとなったのである。リーフデ号の悲劇的な漂着は、ウィリアム・アダムスという類稀な仲介者を生み出し、日蘭関係の扉を開くための、運命的な序章となったのであった。
第四章:慶長十四年、オランダ使節の来航と駿府への旅路(時系列分析)
ウィリアム・アダムスという布石と、家康からの親書という招待状を受け、オランダ東インド会社は満を持して日本との公式な関係構築に乗り出した。慶長十四年(1609年)の一連の出来事は、その後の日蘭関係の法的・商業的基盤を築いた、極めて重要な交渉の記録である。幸いにも、オランダ側使節の一員であったニコラース・ポイクが遺した「駿府旅行記」などの史料により、我々はその行程をリアルタイムに近い形で追体験することができる 25 。
表2:慶長十四年(1609年)日蘭交渉 主要時系列表
西暦 / 和暦 |
場所 |
主要人物 |
出来事の概要 |
関連史料/根拠 |
1609年7月1日 (慶長14年5月30日) |
肥前国 平戸港 |
アブラハム・ファン・デン・ブルーク、ニコラース・ポイク、松浦鎮信 |
オランダ船2隻(赤獅子号、グリフィン号)が入港。オラニエ公マウリッツの国書を携えた使節団が到着し、平戸藩主・松浦鎮信の歓迎を受ける。 |
10 |
1609年7月27日 (慶長14年6月26日) |
平戸 |
ニコラース・ポイクら使節団 |
駿府の大御所・徳川家康に謁見するため、松浦氏が用意した船で平戸を出発。 |
26 |
1609年8月13日頃 (慶長14年7月14日頃) |
駿府 |
ニコラース・ポイクら使節団 |
海路と陸路を経て駿府に到着。 |
26 |
1609年8月14日頃 (慶長14年7月15日頃) |
駿府城 |
徳川家康、ニコラース・ポイク、ウィリアム・アダムス(同席か) |
使節団が大御所・徳川家康に謁見。オラニエ公の国書と献上品を奉呈する。 |
26 |
1609年8月24日 (慶長14年7月25日) |
駿府城 |
徳川家康 |
家康がオランダに対し、日本国内での自由な通商を許可する朱印状を発給する。 |
18 |
1609年8月25日頃 (慶長14年7月26日頃) |
駿府 |
ニコラース・ポイクら使節団 |
朱印状を受領した使節団は、江戸には向かわず、駿府から直接平戸への帰路につく。 |
26 |
1609年9月21日 (慶長14年8月24日) |
平戸 |
ニコラース・ポイク、ジャックス・スペックス |
使節団が平戸に帰着。朱印状に基づき、平戸にオランダ商館を開設。初代商館長にジャックス・スペックスを任命。 |
28 |
平戸入港と松浦氏の期待
慶長十四年五月三十日(西暦1609年7月1日)、艦隊司令官アブラハム・ファン・デン・ブルークに率いられたオランダ東インド会社の船2隻、「赤獅子号」と「グリフィン号」が、肥前国平戸の港にその姿を現した 10 。船には、家康の親書に対するオラニエ公マウリッツからの返書を携えた公式使節、ニコラース・ポイクと商業顧問のアブラハム・スヘーデが乗り込んでいた。そして、この重要な交渉の通訳として、かつてリーフデ号の乗組員であり、1605年に家康の親書を携えてオランダに帰国したメルキオール・ファン・サントフォールトが同乗していた 25 。
彼らを迎えたのは、平戸藩主の松浦鎮信(法印)であった。平戸は古くから大陸との交流拠点であったが、16世紀半ばに始まったポルトガルとの貿易は、領民との衝突などを経て、その中心が長崎へと移ってしまっていた 20 。松浦氏にとって、このオランダ使節団の来航は、ポルトガルに奪われた貿易の主導権を奪還し、平戸にかつての繁栄を取り戻すための千載一遇の好機であった 30 。彼は使節団を丁重にもてなし、幕府との交渉が円滑に進むよう全面的に協力することを約束した。
駿府への旅路と家康との謁見
使節団の第一の目的は、日本の最高実力者である大御所・徳川家康に謁見し、正式な通商許可を取り付けることであった。六月二十六日(7月27日)、ポイクらの一行は、松浦氏が用意した船に乗り、駿府を目指して平戸を出発した 26 。
「駿府旅行記」には、この旅の様子が克明に記されている。彼らは日本の沿岸の風景、整備された街道、そして活気に満ちた町々の様子に感嘆した。約半月後の七月十四日(8月13日)頃、一行は駿府に到着した 26 。
翌日、彼らは駿府城に招かれ、大御所・徳川家康との謁見に臨んだ 26 。この歴史的な会見には、江戸から呼び寄せられた三浦按針(ウィリアム・アダムス)も同席し、通訳や助言者として重要な役割を果たしたと考えられる。ポイクはオラニエ公マウリッツからの国書と、鉛、象牙、ビロード、そして数々の香辛料といった献上品を家康に奉呈した。家康はオランダ側の申し出を快く受け入れ、日本との交易を許可する意向を示した。
通商許可朱印状の下付
謁見から約10日後の七月二十五日(8月24日)、家康はオランダに対し、正式な通商許可証である朱印状を発給した 18 。ハーグの国立公文書館に現存するこの朱印状には、以下のような内容が記されていた。
「オランダ船、何れの浦へ入津仕る可く候事」
(オランダ船は、日本のいずれの港に入港してもよい)
この内容は、特定の港に限定されることなく、日本全国での自由な寄港と交易を認めるという、極めて寛大かつ自由度の高いものであった 29 。これは、この時点での家康が、特定の港に利益を集中させるのではなく、広く貿易を振興させることで国全体を富ませようと考えていたこと、そしてポルトガルに対抗する勢力としてのオランダに大きな期待を寄せていたことの証左である。
興味深いことに、使節団は朱印状を受け取ると、将軍秀忠のいる江戸へは向かわず、翌日には駿府を発って帰路についている 26 。これは、当時の日本の対外政策に関する最高意思決定機関が、江戸の幕府中枢ではなく、駿府にいる大御所・家康その人であったことを明確に物語っている。
平戸への帰還と商館開設
八月二十四日(9月21日)、使節団は無事平戸に帰着した。彼らが持ち帰った朱印状は、松浦鎮信を歓喜させ、平戸の将来に明るい光を灯した。この公式な許可に基づき、平戸にオランダ商館を開設することが正式に決定された 28 。
艦隊司令官ブルークは、若干の商館員と商品を平戸に残し、アジアの他の拠点へと出発した。そして、この日本の新たな拠点、平戸オランダ商館の初代商館長(カピタン)として、当時まだ24歳であったジャックス・スペックスが任命された 28 。こうして、日本とオランダの間に、長く、そして複雑な歴史を持つことになる公式な関係が、平戸の地でその第一歩を踏み出したのである。
第五章:平戸オランダ商館の開設とその初期活動
徳川家康から朱印状を得たオランダ東インド会社は、平戸に東アジアにおける新たな貿易拠点を確保した。初代商館長ジャックス・スペックスのもとで始まった商館の活動は、その後の33年間にわたり、日蘭双方に大きな影響を与えていく。その初期の活動を具体的に見ることで、当時の貿易の実態と、平戸が果たした役割の重要性が明らかになる。
商館の設立と拡張
平戸オランダ商館は、開設当初、平戸の町人から借り受けた土蔵付きの家屋一軒という、ささやかな規模で始まった 30 。しかし、貿易が軌道に乗り始めると、その規模は急速に拡大していった。「平戸オランダ商館長日記」などの記録によれば、1612年、1616年、1618年と、数年おきに施設の拡張整備が行われ、倉庫や埠頭、商館員の住居などが次々と建設されていった 30 。特に、台湾をめぐる紛争(タイオワン事件)で一時的に交易が中断した後、1637年と1639年には大規模な石造倉庫が建設され、平戸貿易の隆盛を象徴する建造物となった 30 。
初期の貿易実態
平戸時代のオランダ貿易は、日本の特産品を輸出し、アジア各地の産品を輸入するという構造を持っていた。
輸入品 の主力は、中国産の生糸や絹織物であった。これらは日本の支配階級である武士や富裕な町人にとって極めて需要の高い奢侈品であった。また、東南アジアからもたらされた鹿皮や鮫皮も重要な輸入品であった 34 。特に鹿皮は、武士の甲冑や武具の材料として大量に消費され、1635年から1641年の7年間だけで140万枚以上が輸入されたという記録も残っている 34 。
一方、 輸出品 として最も重要だったのは、圧倒的に「銀」であった 21 。17世紀の日本は世界有数の銀産出国であり、オランダ東インド会社はこの日本の銀をアジア域内貿易の決済手段として最大限に活用した。日本から輸出された銀は、台湾などを経由して中国に運ばれ、生糸の買い付け資金となった 21 。この循環によって、VOCはヨーロッパから大量の銀を運ぶリスクとコストを負うことなく、アジア貿易ネットワーク全体を効率的に動かし、莫大な利益を上げることができたのである。
この構造を考えると、平戸オランダ商館は、単に日本市場に商品を売るための拠点という以上に、VOCの世界戦略における「アジア銀調達センター」としての役割を担っていたことがわかる。日本の銀が、アジア全域、ひいては世界の経済を動かすグローバルなシステムに、この時点で深く組み込まれていたのである。
表3:平戸オランダ商館 初期主要貿易品目一覧(1610年代-1630年代)
分類 |
品目名 |
主な産地 / 仕向地 |
用途 / 意義 |
輸入品 |
生糸、絹織物 |
中国、トンキン |
武士・富裕層向けの高級衣料品。ポルトガル商人と競合する最重要商品。 |
|
鹿皮、鮫皮 |
台湾、シャム(タイ)、カンボジア |
甲冑、刀の柄など武具の材料。武家社会における高い需要に応えた 34 。 |
|
砂糖、香辛料、薬品 |
東南アジア、インド |
生活必需品、嗜好品、医療品として広く利用された。 |
|
羅紗(ラシャ)などの毛織物 |
ヨーロッパ |
防寒着などの高級衣料品として武士階級に珍重された。 |
輸出品 |
銀 |
アジア各地(特に中国市場) |
最重要輸出品 。VOCのアジア域内貿易における主要な決済手段 21 。 |
|
銅 |
アジア各地 |
銀に次ぐ重要輸出品。貨幣の鋳造原料などとして利用された。 |
|
樟脳、穀物、工芸品 |
日本国内 / アジア各地 |
日本の特産品として輸出され、貿易の多角化に貢献した。 |
平戸藩の利益と町の繁栄
オランダ商館の誘致に成功した平戸藩主・松浦氏は、この貿易から大きな経済的利益を得た。商館が建つ土地の賃料収入はもちろん、藩自身が交易に直接・間接的に関与することで、藩の財政は潤った 20 。平戸の町には、オランダ人商館員や日本人商人、通詞、職人などが集まり、活況を呈した。多くの異国船が出入りする国際貿易都市として、平戸はかつての繁栄を取り戻したのである 20 。
イギリス商館の開設と競合
オランダの成功に刺激され、慶長十八年(1613年)、三浦按針の仲介によってイギリスも平戸に商館を開設した 36 。一時期、平戸にはオランダとイギリスの二つの商館が並び立ち、互いに競争を繰り広げた。しかし、アジアにおける貿易網の規模や組織力で勝るオランダ東インド会社の前に、イギリス東インド会社の対日貿易は振るわなかった。結局、イギリス商館はわずか10年後の1623年に、採算が取れないことを理由に日本から撤退してしまう 37 。この事実は、17世紀初頭のアジア貿易におけるVOCの圧倒的な優位性を物語っている。
終章:平戸時代の意義と長崎出島への道
33年間にわたる平戸オランダ商館の時代は、徳川初期の比較的自由な対外政策を象徴するものであり、その後の日本の歴史に繋がる重要な礎を築いた。しかし、その繁栄は永続しなかった。幕府の中央集権体制の強化と、キリスト教に対する猜疑心の増大は、やがて「鎖国」という名の厳格な管理体制へと向かい、平戸の国際貿易港としての役割に終止符を打つことになる。
平戸時代の歴史的意義
平戸オランダ商館の最大の歴史的意義は、それが後の鎖国時代を通じて、日本が西洋世界と接点を持つ唯一の窓口となる日蘭関係の出発点となったことである 32 。もしこの時期にオランダとの関係が構築されていなければ、日本はポルトガル・スペインとの断絶後、西洋世界から完全に孤立していた可能性が高い。平戸時代に築かれた信頼と交易の実績が、長崎出島での関係継続を可能にしたのである。
鎖国体制への移行と圧力
徳川家康の死後、二代将軍秀忠、三代将軍家光の時代になると、幕府のキリスト教禁圧は苛烈を極めた 6 。寛永十四年(1637年)に勃発した島原の乱は、キリシタン農民による大規模な反乱であり、幕府に深刻な衝撃を与えた。これをキリスト教の脅威が現実化したものと捉えた幕府は、カトリック国であるポルトガルとの関係を断ち切ることを決意し、寛永十六年(1639年)にポルトガル船の来航を全面的に禁止した 13 。
1639年倉庫・西暦年号事件
ポルトガル人が追放され、西洋との貿易はオランダが独占することになった。平戸貿易は最盛期を迎え、その象徴として寛永十六年(1639年)、壮麗な石造倉庫が建設された 30 。しかし、この倉庫が悲劇の引き金となる。倉庫の破風(屋根の妻側の装飾)に刻まれた「ANNO 1639」という西暦年号が、幕府によって問題視されたのである 38 。これはキリスト生誕を紀元とする「キリスト紀元」であり、禁教下の日本では許されざるものである、というのが幕府の言い分であった 39 。
翌寛永十七年(1640年)、大目付・井上政重が平戸に派遣され、彼の命令により、完成したばかりの壮大な倉庫は無残にも取り壊された 30 。
長崎出島への移転(1641年)
倉庫の破壊に続き、幕府はオランダ商館に対し、平戸から長崎の出島へ移転することを厳命した 30 。寛永十八年(1641年)、オランダ商館は33年間活動した平戸の地を去り、扇形の人工島である出島へと移された。これにより、平戸の国際貿易港としての歴史は幕を閉じた。
この移転の真の狙いは何だったのか。西暦年号事件は、あくまで口実であった可能性が高い。幕府の真の目的は、貿易の利益と情報を完全に国家管理下に置くことにあった。平戸での貿易は、その利益の一部が外様大名である平戸藩(松浦氏)に落ちていた 20 。これは、幕府の中央集権体制にとって好ましいことではなかった。
一方、長崎は幕府の直轄領(天領)であり、出島は日本人との自由な接触が厳しく制限された隔離空間である。商館をここに移転させることで、人の出入りから貿易の品目、価格、そして利益に至るまで、すべてを長崎奉行の厳格な監視下に置くことができる 13 。ポルトガルを追放し、唯一の西洋との窓口となったオランダ貿易の莫大な利権を、一地方大名である松浦氏の手から取り上げ、幕府の財源として完全に独占する。これこそが、鎖国体制下における貿易管理の最終目的であった。
平戸時代の終焉は、地方の自由な国際交流の時代の終わりであり、中央集権体制による厳格な管理貿易時代の始まりを告げる、象徴的な出来事だったのである。1609年に始まった物語は、こうして新たな舞台、長崎出島へと引き継がれていくことになった。
引用文献
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- 【高校世界史B】「17世紀はオランダの世紀!?」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-11625/lessons-11632/point-2/
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