最終更新日 2025-09-22

平戸英国商館開設(1613)

1613年、平戸に英国商館が開設。家康の国際戦略と英国東インド会社の挑戦だったが、商品不振、オランダとの競争、幕府政策転換、アンボイナ事件で10年で撤退。
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平戸英国商館始末記 ― 徳川初期日本における英国東インド会社の挑戦と挫折(1613-1623)

序章:黎明期の邂逅 ― 17世紀初頭の世界と日本

慶長18年(1613年)、肥前国平戸にイギリス(当時はイングランド)の商館が開設されたという事実は、日本の歴史においてしばしば、オランダとの競争に敗れてわずか10年で撤退した、束の間の出来事として語られる。しかし、この一連の事象を、関ヶ原の戦いを経て徳川幕府が国内統治を盤石なものとし、新たな国際秩序を模索していた「戦国時代の延長線上にある江戸初期」というダイナミックな文脈の中に置き直すことで、その歴史的意義は大きく変容する。平戸英国商館の開設と閉鎖は、単なる一企業の商業活動の成否に留まらない。それは、大航海時代の新たな主役としてアジアへ進出するイングランドと、天下統一を成し遂げ、富国強兵のために海外との秩序ある関係構築を志向した徳川家康の、それぞれの国家戦略が交差した必然の邂逅であった。本報告書は、この歴史的邂逅の背景から、交渉の過程、商館運営の苦闘、そして挫折に至るまでの10年間を、一次史料に基づき時系列で克明に描き出すことで、その多層的な要因と歴史的遺産を徹底的に分析するものである。

1. 大航海時代の新たな主役:イングランドとネーデルラント

17世紀初頭のアジアの海は、大きな転換期を迎えていた。16世紀を通じて香辛料貿易を独占してきたカトリック勢力、ポルトガルとスペインの勢いに陰りが見え始め、それに代わってプロテスタント国家であるイングランドとネーデルラント(オランダ)が新たな主役として躍り出ていた 1 。この両国の国策を担う先兵となったのが、それぞれ1600年に設立されたイギリス東インド会社と、1602年設立のオランダ東インド会社であった 2 。これらは単なる民間企業ではなく、国王や政府から特許状(チャーター)を与えられ、貿易独占権のみならず、条約締結権、貨幣鋳造権、さらには交戦権といった、国家に準ずる強大な権限を付与された組織であった 2

両社はアジアにおける貿易覇権をめぐり、先行するポルトガル・スペイン勢力を駆逐すると同時に、互いに熾烈な競争を繰り広げた。特に、アジア貿易の拠点網を精力的に拡大し、恒久的な資本基盤を持っていたオランダ東インド会社は、その勢いにおいてイギリスを凌駕していた 1 。対するイギリス東インド会社は、当初、航海のたびに出資者を募り、航海が終了すると利益と元本を出資者に分配するという「個別航海」方式を採用していた 3 。この経営方式は、継続的かつ大規模な投資を困難にし、組織的な戦略展開を重視するオランダとの競争において、構造的な不利を抱え込む原因となった 3 。平戸におけるイギリス商館の苦闘と最終的な挫折は、単に現地の商才の優劣の問題ではなく、アジア全域で繰り広げられていたこの国家規模の覇権争いの力学が、日本という一舞台で顕在化したものと捉えることができる。

2. 「銀の世紀」と徳川家康の国際戦略

一方、その頃の日本は、長く続いた戦乱の時代を終え、徳川家康による新たな支配体制が確立されつつあった。16世紀から17世紀にかけての世界経済は、ポトシ銀山に代表されるアメリカ大陸と、石見銀山などを擁する日本から産出される膨大な量の銀によって、地球規模で一体化が進む「銀の世紀」であった 4 。日本は世界有数の銀産出国であり、その銀は、当時世界経済の最終的な銀の吸収地(終着点)であった中国産の高品質な生糸や絹織物を手に入れるための、最も重要な決済手段となっていた 6

天下統一を果たした徳川家康は、幕府の財政基盤を強化し、富国強兵を実現するために、海外貿易の利益を極めて重視した。彼は豊臣秀吉の政策を継承・発展させ、幕府が発行する海外渡航許可証「朱印状」を持つ船にのみ公式な貿易を認める「朱印船貿易」を制度化した 7 。これは、それまで東アジアの海で問題となっていた倭寇のような無秩序な私的交易や海賊行為と明確に一線を画し、すべての対外交易を幕府の管理・統制下に置こうとする強い意志の表れであった 14 。家康の狙いは、第一に伽羅(奇楠香)のような貴重な香木をはじめとする海外の物産を確保することによる経済的利益の獲得であり 7 、第二に、貿易を通じて得られる富が特定の西国大名などに集中し、幕府への脅威となることを防ぐ政治的安定の確保にあった。

家康の対外政策の根幹をなすのは、貿易の利益は最大限に享受しつつも、国内の統治を不安定化させる要素は断固として排除するという、現実的な「政教分離」の原則であった 16 。特に、布教活動と貿易が一体不可分であったポルトガルやスペインといったカトリック勢力に対しては、強い警戒感を抱いていた。このような状況下で、カトリック勢力と敵対し、かつ貿易に特化する姿勢を見せていたプロテスタント国家のオランダ、そしてそれに続くイギリスの来航は、家康の国際戦略にとってまさに「渡りに船」であった。貿易相手を多角化し、特定の国への依存を避けることは、幕府の交渉力を高め、対外関係における主導権を維持するための極めて有効な手段となる。家康にとってイギリスの来航は、ポルトガル、スペイン、そして先行するオランダを牽制し、幕府が構築する国際貿易秩序の中に組み込むべき、新たな駒の登場を意味していたのである。

第一章:クローブ号の来航と日英公式交渉の軌跡(1613年)

イギリス東インド会社による日本との公式な関係は、司令官ジョン・セーリスが率いるクローブ号の来航によって始まった。彼の航海日誌は、当時の日本の姿や幕府との交渉過程を鮮明に記録しており、日英関係の原点を知る上で第一級の史料である。本章では、この記録に基づき、イギリス使節団が日本に到着し、徳川家康から破格ともいえる貿易許可を得るまでの軌跡を時系列に沿って再現する。

1. ジョン・セーリスの長い旅路と平戸入港

イギリス東インド会社の第8次航海の司令官に任命されたジョン・セーリスは、1611年4月18日、クローブ号を含む3隻の船団を率いてイングランドを出航した 19 。その航海は2年以上に及ぶ過酷なものであり、マダガスカル、イエメン、ジャワ島のバンテンなどを経て、他の2隻は帰国させ、セーリスはクローブ号単独で日本を目指した 19

長い航海の末、1613年6月10日(慶長18年4月23日)、クローブ号は肥後国天草沖で日本の漁船4隻と遭遇し、水先案内を依頼する。この時、2人の漁師がクローブ号に乗り込み、一行を平戸まで導いた 19 。そして翌

1613年6月11日(慶長18年4月24日) 、クローブ号はついに肥前国平戸の港に錨を下ろした。平戸は、1550年にポルトガル船が来航して以来、国際貿易港としての歴史を重ねており、領主である松浦氏は貿易がもたらす利益を確保することに極めて積極的であった 20 。セーリス一行は、時の平戸藩主・松浦隆信(当時は幼少のため、祖父で後見役の松浦鎮信、法印が実権を握っていた)から手厚い歓迎を受けた。セーリスはクローブ号の船上で饗宴を催し、鎮信らに鉄砲を贈呈、返礼として肉や魚、果物などの食料を豊富に提供されたという 19 。この友好的な最初の接触が、平戸をイギリス商館の設置場所として決定づける重要な一歩となった。

2. 大御所・将軍への謁見:セーリスが見た徳川日本の実像

平戸での歓迎は、あくまで地方領主レベルのものであった。日本との正式な通商関係を樹立するためには、日本の最高権力者である徳川家康と、江戸にいる将軍・秀忠の許可を得る必要があった。この困難な交渉の案内役として白羽の矢が立ったのが、当時すでに家康の外交顧問として仕え、「三浦按針」の名を与えられていたイギリス人、ウィリアム・アダムズであった 22

1613年8月7日(慶長18年6月22日) 、セーリス一行はアダムズの先導のもと、平戸藩が用意した船で、駿府と江戸を目指して平戸を出発した 19 。彼らは下関、堺、大坂を経て、8月29日(同7月14日)に京都に到着する 19 。そして

9月6日(同7月22日) 、ついに駿府城にて大御所・徳川家康との謁見を果たした。セーリスはイングランド国王ジェームズ1世からの親書を奉呈し、献上品として望遠鏡、イギリス特産の毛織物などを贈った 19 。セーリスの日記によれば、この時、彼は家康の前で花火を披露し、家康はそれに大いに興じたと記されている 19

その後、一行は江戸へ向かい、鎌倉の大仏を見学(セーリスは内部の壁にサインをしたと記しているが、現存は確認されていない 19 )。**9月14日(同7月30日)**に江戸城に到着し、二代将軍・徳川秀忠に謁見した 19 。駿府と江戸での二元的な謁見は、当時の徳川政権が家康を最高意思決定者とする「大御所政治」体制下にあったことを、セーリスに明確に印象付けた。一連の旅を通じて、セーリスは日本の統治体制、交通網、そして都市の繁栄を目の当たりにし、その詳細を航海日誌に記録している。

3. 徳川家康の朱印状:破格の通商権とその背景

江戸での謁見を終えたセーリスは、再び駿府へと戻り、家康から通商許可に関する最終的な回答を待った。そして、家康はジェームズ1世への丁重な返書とともに、イギリスに対し、極めて広範な権利を認める朱印状(貿易許可証)を授与した 19 。この返書は現在、イギリスのオックスフォード大学ボドリアン図書館に現存している 21

家康が与えた朱印状の内容は、先にオランダに与えたものと同様 25 、以下の点で破格のものであった。

  1. 日本のいずれの港にも自由に入港し、商取引を行う権利。
  2. 商館を建設し、商品を保管する権利。
  3. 日本国内のどこへでも自由に旅行し、商売を行う権利。
  4. イギリス人が日本で罪を犯した場合、日本の法ではなくイギリス商館長の裁量で処罰する権利(治外法権に類する特権)。
  5. 乗員の生命と財産の安全保障。

1613年11月6日(慶長18年9月25日) 、この朱印状を携えて平戸に帰着したセーリスは、早速、当時平戸で最も影響力のあった中国人海商・李旦(通称キャプテン・チャイナ)の家を借り受け、イギリス商館を開設した 19 。そして

12月5日(同10月24日) 、セーリスは初代商館長となるリチャード・コックス以下7名の商館員を平戸に残留させ、家康からの返礼品である豪華な金屏風や甲冑などをクローブ号に満載して、帰国の途についた 19

家康が、初対面のイギリスに対してこれほどまでに寛大な条件を与えた背景には、彼の老練な外交戦略があった。これは単なる友好の証ではない。イギリスを幕府が管理する貿易システムに深く、そして積極的に組み込むための戦略的投資であった。広範な自由を認めることで、イギリスがもたらす富、情報、技術を最大限に引き出し、同時にオランダとの競争を煽る。それによって、特定の外国勢力が突出することを防ぎ、幕府が常に貿易の主導権を握るという構図を作り出すことが、家康の真の狙いであった。この「自由と統制」を両立させようとする家康の構想は、朱印状という形で結実したが、その後の歴史は、この構想が彼の死とともに大きく変質していくことを示している。

第二章:平戸英国商館の経営実態と国際競争(1613年~1623年)

徳川家康から破格の朱印状を得て開設された平戸英国商館であったが、その経営は初めから多難を極めた。初代商館長リチャード・コックスが残した詳細な日記は、商館の日常業務から経営上の苦悩、そして宿敵オランダとの熾烈な競争の実態までを生々しく伝えている。本章では、この貴重な史料を中心に、商館が直面した厳しい現実を浮き彫りにする。

1. 初代館長リチャード・コックスと商館の組織

商館の運営を託されたのは、初代商館長(ケープ・マーチャント)のリチャード・コックスであった 27 。彼のもとには、ウィリアム・イートンやリチャード・ウィッカムといった数名のイギリス人商館員が配属され、さらに日本在住の経験が長いウィリアム・アダムズが顧問格として雇用された 28 。商館の正確な所在地は確定していないが、諸記録から、平戸の鏡川下流にあったオランダ商館の近隣であったと推定されている 29

コックスが1615年から1622年にかけて記した『イギリス商館長日記』は、商館の会計、商品の売買、船の出入りといった貿易活動の詳細だけでなく、当時の日本の政治・社会情勢を知る上でも極めて価値の高い一級史料である 30 。日記には、大坂の陣をめぐる戦況や、豊臣秀頼や真田信繁が薩摩へ逃れたという生存説の噂話までが克明に記録されており 33 、当時の日本社会に流布していた様々な情報に、彼らが敏感に耳を傾けていた様子がうかがえる。

2. 苦戦する貿易:主力商品の不振と資金難

イギリス商館が日本市場に持ち込んだ主力商品は、本国特産の厚手の毛織物(ラシャ)であった 28 。しかし、これは高温多湿な日本の気候や、当時の日本の服装文化には適合せず、武士の陣羽織など一部の限定的な需要しか見込めなかった。結果として、毛織物の売れ行きは極めて不振であり、商館の経営を圧迫する大きな要因となった 28

一方で、日本市場が最も渇望していた商品は、中国産の高品質な生糸であった。しかし、イギリスはアジアにおける貿易ネットワークが未熟であり、この生糸を安定的に仕入れて日本へ供給するルートを確立することができなかった。当時、明は倭寇対策から日本船の直接来航を禁じていたため、生糸貿易は、ポルトガルがマカオを、オランダが台湾や東南アジアの拠点を介して行う中継貿易が主流であった 7 。イギリスはこの競争の輪に入ることができず、日本で売るべき魅力的な商品を欠いていたのである 28

主力商品の販売不振と、売れ筋商品の調達失敗は、商館を慢性的な赤字経営へと陥れた。本国からの船の来航が遅れたり、期待した積荷が届かなかったりすると、商館はたちまち資金繰りに窮する有様であった。商館の財政は常に不安定であり、その経営基盤は極めて脆弱であったと言わざるを得ない 35

3. 宿命のライバル:平戸オランダ商館との熾烈な競争

イギリス商館の経営をさらに困難にしたのが、同じ平戸に拠点を構えるオランダ商館との宿命的な競争であった 3 。1609年に開設されたオランダ商館は、イギリスよりも4年早く日本での活動を開始しており、すでに一定の基盤を築いていた。

両者の競争は、あらゆる面で熾烈を極めた。コックスの日記には、オランダ側がイギリスの商取引を組織的に妨害したり、幕府の役人に対して「イギリス人は海賊であり、カトリックのスペイン人と変わらない危険な存在だ」といった讒言をしたりする様子が、憎悪を込めて頻繁に記録されている。また、数少ない共通の商品であった鉛などの価格をめぐっても、厳しいダンピング競争が繰り広げられた 38 。情報戦においても、日本の政情や商慣習に精通し、幕府上層部とのパイプも太かったオランダは、常にイギリスに対して優位に立っていた。

4. 幕府の政策転換という逆風:1616年「二港制限令」

商館の経営不振は、内的要因(商品戦略の失敗、アジア貿易網の未熟さ)と外的要因(オランダの妨害)が複合的に絡み合った結果であったが、それに決定的な追い打ちをかけたのが、徳川幕府の対外政策の転換であった。

1616年(元和2年)、イギリスの来航を許可した徳川家康が死去すると、二代将軍・秀忠を中心とする幕府は、キリスト教への警戒感を一層強め、対外交易に対する統制を強化する方向へと舵を切った。同年、幕府は中国(明)の船を除くすべての外国船の寄港地を、平戸と長崎の二港に限定する法令を発布した 20

この「二港制限令」は、家康が与えた「日本のいずれの港でも自由に商売してよい」という朱印状の特権を事実上無効化するものであった。これにより、イギリス商館が販路拡大を目指して江戸、大坂、堺などに設置していた支店(出店)での販売活動が全面的に禁止され、商圏は平戸・長崎周辺に著しく限定されることになった 28 。これは、自由な商業活動を前提としていたイギリスのビジネスモデルそのものを根底から覆すものであり、商館の経営に致命的な打撃を与えた。家康の死は、イギリス商館にとって最大の庇護者を失ったことを意味し、日本の貿易環境がもはや彼らにとって有利なものではなくなったことを明確に示す出来事であった。

第三章:貿易不振から撤退へ ― 商館閉鎖の多角的要因分析(1623年)

経営不振と幕府の政策転換という逆風にさらされ続けた平戸英国商館は、開設から10年という節目を前に、その歴史に幕を閉じることになる。本章では、商館閉鎖に至る直接的な引き金と、その背景にあったイギリス東インド会社本社の世界戦略の転換を分析し、日本における最初の挑戦が挫折するまでの過程を明らかにする。

1. アンボイナ事件の衝撃

1623年(元和9年)、東南アジアの香辛料貿易の中心地であったモルッカ諸島のアンボイナ島(現在のインドネシア・アンボン島)で、現地のオランダ商館員がイギリス商館員ら10名および日本人傭兵9名らを拷問の末に虐殺するという衝撃的な事件が発生した 41 。この「アンボイナ事件」は、香辛料貿易の覇権をめぐる英蘭両国の対立が、もはや単なる商業上の競争ではなく、武力を用いた殲滅戦の様相を呈するまでに激化していたことを象徴する出来事であった 42

この事件は、イギリスの東南アジアにおける香辛料貿易からの撤退を決定づけるものとなった 42 。平戸英国商館の閉鎖とアンボイナ事件は同年のできごとであるが、両者の間に直接的な因果関係はないとする見方が有力である 35 。平戸商館は、事件が起こる以前からすでに財政的に破綻状態にあり、閉鎖は時間の問題であったからだ 35 。しかし、この事件が、イギリス東インド会社本社に対して、オランダとの共存がいかに困難であるかを痛感させ、採算の取れない東アジア地域からの戦略的撤退を最終的に決断させる、心理的な引き金となったことは想像に難くない。アンボイナ事件は、平戸商館閉鎖の直接の「原因」ではなかったかもしれないが、イギリスが東アジア全体に見切りをつけ、より有望なインド経営に資源を集中させるという、大きな戦略転換を象徴する出来事であった。

2. 東インド会社本社の決定と平戸からの退去

累積する一方の赤字と、将来的な収益改善の見込みのなさから、イギリス東インド会社本社はついに日本からの完全撤退を決定した。この決定は、幕府による追放や圧迫によるものではなく、あくまでイギリス側の純粋な経営判断であった。

1623年(元和9年) 、本国からの指令を受け取ったリチャード・コックスは、商館の残存資産を整理し、借金を清算した後、すべての商館員とともに平戸を離れた 3 。こうして、10年間にわたる日英間の公式な貿易関係は、幕を閉じた。イギリスの撤退は、翌1624年(元和10年)のスペイン船来航禁止、そしてその後のいわゆる「鎖国」体制へと向かう幕府の対外政策硬化の流れの中で、一つの画期をなす出来事となった 44

10年間、異国の地で商館の維持に奔走したリチャード・コックスは、失意のうちに帰国の途についたが、その志が故国に届くことはなかった。彼は日本を離れた翌年の1624年、インド洋上にて病死し、その波乱に満ちた生涯を終えた 27

終章:平戸英国商館が残した歴史的遺産

わずか10年という短期間で幕を閉じた平戸英国商館の挑戦は、商業的には完全な失敗であった。しかし、その歴史が日本と世界の双方に残した影響は決して小さくない。この邂逅と挫折の物語は、17世紀初頭の国際関係と日本の動向を理解する上で、重要な示唆を与えてくれる。

1. 10年間の挑戦が残したもの

第一に、イギリス人が残した記録の価値である。ジョン・セーリスの『日本渡航記』 19 やリチャード・コックスの『イギリス商館長日記』は、当時のヨーロッパ人が見た日本の政治、経済、社会、文化を詳細に伝える貴重な一次史料となった。特に、徳川政権移行期の国内情勢や、国際貿易港平戸の活況、諸外国との関係性など、日本側の史料だけでは窺い知ることのできない情報が豊富に含まれており、その歴史的価値は計り知れない。

第二に、オランダの対日貿易における地位の確立である。最大のライバルであったイギリスが自ら撤退したことにより、オランダは西欧諸国として唯一、幕府公認の貿易パートナーとしての地位を不動のものとした 7 。このイギリスの「失敗」は、結果的にオランダに「漁夫の利」をもたらし、後の長崎出島における貿易独占へと至る道を切り拓いたのである 43

第三に、徳川幕府の対外政策への影響である。幕府の視点から見れば、一国(イギリス)との関係が、幕府の武力行使や強硬な追放令によるものではなく、相手側の商業的な理由によって自然消滅したという経験は、その後の対外政策を決定する上で重要な前例となった可能性がある。つまり、ヨーロッパ諸国との関係は、幕府の意思で管理・統制が可能であるという自信を深めさせ、より強権的な管理体制、すなわち「鎖国」へと舵を切る上での心理的なハードルを下げる一因となったかもしれない。

平戸英国商館の物語は、本質的に「グローバル化の初期段階におけるミスマッチの悲劇」であったと総括できる。17世紀初頭、日本とイギリスは互いに強い関心を持ち、関係を構築しようと試みた。家康はイギリスの持つ地政学的・商業的な潜在価値を高く評価し、イギリスは日本の銀と市場に大きな期待を寄せた。しかし、両者の期待と現実は、 fatally(致命的に)噛み合わなかった。イギリスは日本の市場ニーズと文化的背景を理解できず、日本の幕府は、広大なアジアにおけるイギリスの世界戦略の中で、日本市場が占める優先順位の低さを認識していなかった。この相互理解の欠如、すなわち「ミスマッチ」こそが、わずか10年での撤退という結末を招いた根本的な原因である。この最初の邂逅の失敗は、2世紀半後の幕末にイギリスが再び日本の歴史の主要な担い手として登場するまで、日英関係が長い断絶期間に入ることを運命づけたのである。


表1:平戸英国商館関連年表(1600年~1624年)

西暦 / 和暦

世界の動向(主にイギリス・オランダ)

日本の動向(主に幕府の政策)

平戸での出来事(英国商館関連)

1600年 / 慶長5年

イギリス東インド会社設立 2

関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。

オランダ船リーフデ号が豊後国に漂着。ウィリアム・アダムズらが来日。

1602年 / 慶長7年

オランダ東インド会社設立 2

-

-

1603年 / 慶長8年

-

徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。

-

1604年 / 慶長9年

-

糸割符制度を開始。朱印船貿易を本格化させる 14

-

1605年 / 慶長10年

-

家康、将軍職を秀忠に譲り大御所となる。

-

1609年 / 慶長14年

-

-

オランダ、平戸に商館を開設 20

1612年 / 慶長17年

-

幕府直轄領に禁教令を発布 39

-

1613年 / 慶長18年

ジョン・セーリス率いるクローブ号がイングランドを出航(1611年)。

全国に禁教令を拡大 18

6月、クローブ号が平戸に入港 47 。セーリスが家康・秀忠に謁見し朱印状を得る。11月、

平戸英国商館が開設 される 19

1614年 / 慶長19年

-

大坂冬の陣。

-

1615年 / 元和元年

-

大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。

リチャード・コックスが商館長日記を書き始める。

1616年 / 元和2年

-

徳川家康死去。中国船を除く外国船の寄港地を平戸・長崎に限定(二港制限令) 20

江戸や大坂などでの販売活動が禁止され、経営に大打撃を受ける 28

1619年 / 元和5年

オランダ、ジャワ島にバタヴィアを建設し、アジア経営の拠点とする 20

-

-

1623年 / 元和9年

アンボイナ事件。オランダがイギリス商館員らを虐殺 41

徳川家光が三代将軍に就任。

経営不振を理由に、イギリス東インド会社が日本からの撤退を決定。 平戸英国商館が閉鎖 される 3

1624年 / 元和10年

-

スペイン船の来航を禁止 44

前商館長リチャード・コックスが帰国途上の洋上で病死 27

引用文献

  1. 植民地になるとどうなる?定義や歴史は?デメリットや日本の関わりを解説!植民地だった国を一覧で紹介 - Spaceship Earth(スペースシップ・アース)|SDGs・ESGの取り組み事例から私たちにできる情報をすべての人に提供するメディア https://spaceshipearth.jp/colony/
  2. 世界史|ヨーロッパの海外進出 https://chitonitose.com/wh/wh_lessons59.html/1000
  3. 株式会社東インド会社の歴史的意義|空間時間人間を探す旅 10 ... https://club.informatix.co.jp/?p=16913
  4. 銀を中心とする世界経済の一体化(東大世界史2004年) - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=PvLTSpDjhp8
  5. 16-19世紀の世界銀交易:Global silver trade from the 16th to 19th centuries https://navymule9.sakura.ne.jp/Global_silver_trade.html
  6. お金とお金の材料の輸出 - 銀と朱印船貿易 17世紀初頭一 https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/zuroku/mod/2010k_20_25.pdf
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