最終更新日 2025-09-22

方広寺再建企図(1597)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

方広寺大仏と豊臣秀吉、最後の蹉跌 ― 1597年をめぐる権威再建の試みとその実相

第一章:序論 ― 天下人の威信を懸けた巨大プロジェクト「京の大仏」

戦国乱世を終焉させ、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉。その治世の後半において、彼の権勢を象徴する巨大プロジェクトが京都東山で進行していた。方広寺大仏、通称「京の大仏」の建立である。この事業は、単なる一寺院の建立に留まらず、秀吉の天下統治における多岐にわたる意図が凝縮された、極めて政治的な意味合いを持つものであった。

豊臣秀吉による大仏建立の多義的意図

秀吉が大仏建立を発願した背景には、複数の戦略的計算が存在した。第一に、それは自身の政治的権威を絶対的なものとして確立するための装置であった。秀吉は、8世紀に奈良の大仏(東大寺盧舎那仏像)を建立し、仏教の力をもって国家の統一と安寧を図った聖武天皇の偉業に自らをなぞらえようとした 1 。当時、戦乱で焼失していた奈良の大仏に代わる、いや、それを凌駕する巨大な仏像を京の都に建立することは、天皇や公家といった伝統的権威をも超越する、新たな支配者としての地位を天下に示威する行為に他ならなかった。天正14年(1586年)に発願され、高野山の僧・木食応其を創建の責任者としたこの事業は 2 、まさに秀吉による新たな国家秩序構築の象徴だったのである。

第二に、この事業は宗教的・社会的な意図をも内包していた。秀吉は、天下統一の総仕上げとして「刀狩り」を断行し、農民や寺社から武器を没収した。その際、集められた刀や槍を、大仏を鋳造するための釘や鎹(かすがい)に利用すると宣言したのである 1 。これは、殺戮の道具であった武具を、仏法による国家鎮護の礎へと転換させるという巧みなレトリックであり、民衆の武装解除を正当化し、社会の安定を図るための深慮遠謀であった。武力による支配から、仏の慈悲による泰平の世へ。大仏建立は、その理念を可視化するための壮大な演出でもあった。

初代大仏の構造とその潜在的脆弱性

計画は急ピッチで進められ、文禄4年(1595年)には、日本の建築史上最大級と謳われた大仏殿がほぼ完成した 1 。その内部に安置された大仏は、奈良の大仏(座高約14.7m)をはるかに上回る、高さ六丈(約18m)にも及ぶ木製の金漆塗座像であった 3 。しかし、この壮大さの裏には、後の悲劇を招くことになる構造的な脆弱性が潜んでいた。

初代の大仏は、銅による鋳造ではなく、木造乾漆造りという工法で造られていた 5 。これは、木材で骨格を組み、その上を漆喰で塗り固め、表面に漆を塗って金箔を貼るという手法である 7 。この選択の背景には、鋳造に比べて工期を大幅に短縮できるという利点があった 5 。当時すでに高齢であった秀吉は、自らの存命中に、この権威の象徴が完成する姿を見ることを強く望んでいたと推察される。天下人の「時間との戦い」という焦りが、結果として堅牢さよりも速成を優先させたのである。この判断が、自らの威信の象徴を、天災に対して極めて脆い存在にしてしまうという、皮肉な未来を準備することになった。開眼供養を目前に控え、豊臣政権が栄華の絶頂にあるかのように見えたその時、運命の日は刻一刻と近づいていた。

第二章:慶長伏見地震 ― 天災が揺るがした天下人の権威

慶長元年(1596年)閏7月13日未明:破局の瞬間

慶長元年(文禄5年)閏7月12日の深夜、翌13日の午前2時頃、京の都は未曾有の激震に襲われた 8 。後に「慶長伏見地震」と呼ばれるこの災害は、推定マグニチュード7.5前後に達する巨大地震であり、畿内広域が震度6相当の揺れに見舞われたと推計されている 9 。闇と静寂を切り裂く轟音と、大地が裂けるかのような激しい揺れは、眠りについていた人々を恐怖のどん底に突き落とした。

公家・山科言経の日記『言経卿記』には、その夜の凄惨な状況が生々しく記録されている。自身の邸宅が歪み、倒壊を恐れて庭に出て夜を明かしたこと、町内では家屋が倒壊し、多くの人々が圧死したことなどが記されている 7 。余震が断続的に続く中、人々は恐怖に怯え、地震が再び来るという流言飛語が飛び交い、市中は大混乱に陥った 10 。この天災は、豊臣政権の政治中枢を直撃し、天下人の権威を根底から揺るがすことになる。

一次史料に基づく被害状況の克明な記録

方広寺の被害

開眼供養を目前に控えていた方広寺も、この地震によって甚大な被害を受けた。複数の一次史料が、その詳細を伝えている。

大仏殿そのものは、奇跡的にも完全な倒壊は免れた 5 。しかし、その被害は決して軽微なものではなかった。『言経卿記』によれば、巨大な建築物を支える柱が二寸(約6cm)も地面にめり込んでいたという 7 。これは、建物の基礎構造に深刻なダメージが及んでいたことを示唆している。

最も悲劇的だったのは、本尊である大仏そのものであった。速成を期して木造乾漆造りで造られた巨体は、激しい揺れに耐えることができなかった。『義演准后日記』は「本尊大破、左御手崩落了、御胸崩」と記し、大仏の左手が崩れ落ち、胸部も崩壊した惨状を伝えている 7 。『文禄大地震記』も同様に、左手と胸部が摧(くだ)けて落ちたと記録している 7 。金箔に覆われた漆喰の表面が、内部の木組みから剥がれ落ち、見るも無残な姿を晒したのである 8 。一方で、大仏の背後にあった後光はほとんど損傷しなかったという記録もあり 7 、揺れの複雑さを物語っている。

周辺の建造物も大きな被害を受けた。楼門は北西の方角に傾き 7 、寺域を囲んでいた三方の築地塀はことごとく崩壊、あるいは転倒した 7


【表1:慶長伏見地震における方広寺の被害状況(各史料の記述比較)】

被害箇所

『言経卿記』の記述

『義演准后日記』の記述

『文禄大地震記』の記述

大仏殿

堂は苦しからず。但し柱を二寸程土へ入る 7

堂無為、奇妙々々 7

本堂無為、聊(いささ)かも損せず 7

大仏本体

御仏は御胸より下少々損了 7

本尊大破、左御手崩落了、御胸崩、其外所々響(ひびき)在之 7

本尊は大破也、左の御手摧て落る、御胸同前 7

後光

(記述なし)

後光聊モ不損 7

(記述なし)

楼門・中門

楼門は戌亥(北西)方へ柱ユガミ了 7

中門無為、但四方角柱少々サクル 7

中門無為、但四角柱少々裂バカリ也 7

築地塀

(記述なし)

三方の築地悉(ことごとく)崩、或は顛倒 7

三方の築地崩、或は顛倒 7


この表からもわかるように、史料によって被害の程度の表現に若干の差異はあるものの、大仏本体が修復困難なほどに大破したという点では一致している。

政治中枢の壊滅:伏見城の被害

地震の被害は、方広寺だけに留まらなかった。豊臣政権の政治的・軍事的拠点であった伏見城もまた、壊滅的な打撃を受けた。壮麗を誇った天守閣は倒壊し、城内の櫓や塀、石垣も各所で崩落 9 。城内で寝ていた女中や武士など、死者は数百人から1,000人を超えたと伝えられている 7 。秀吉自身も、寝所が倒壊する寸前に侍女たちによって救出され、九死に一生を得るという危機的状況であった 12

この出来事は、豊臣政権にとって二重の危機をもたらした。伏見城の倒壊は、秀吉の軍事的・政治的支配力、すなわち物理的な「権力」の脆弱性を白日の下に晒すものであった。天下人の居城といえども、天災の前にはかくも無力であるという事実は、諸大名に衝撃を与えた。同時に、方広寺大仏の損壊は、秀吉が築き上げようとしていた宗教的・文化的な「権威」が、天によって否定されたかのような強烈な印象を人々に与えた 12 。政権を支える「権力」と「権威」という両輪が、一夜にして砕け散ったのである。この精神的な衝撃は計り知れず、その後の秀吉の行動に大きな影響を及ぼすこととなる。

第三章:大仏大破と秀吉の絶望 ― 再建なき解体命令

威信失墜への怒り

地震の混乱が収まらぬ中、大破した方広寺大仏の姿を目の当たりにした秀吉の反応は、悲嘆や再建への意欲ではなく、烈火の如き怒りであった 4 。自らの権威の象徴であり、分身ともいえる大仏が無残に崩れ落ちた光景は、彼のプライドを深く傷つけ、天下人としての威信が地に落ちたことへの屈辱と憤りを掻き立てた。

醍醐寺座主・義演が記した『義演准后日記』には、この時の秀吉の様子が克明に記録されている。それによれば、秀吉は大仏を検分した後、「早々崩しかえしのよし仰すとうんぬん(早々に(跡形もなく)壊してしまえ、との仰せであったと聞く)」と、修復ではなく完全な解体を厳命したという 5 。この命令は、周囲の者たちを驚愕させたに違いない。国家的な大事業の成果が天災によって損なわれたのであれば、それを修復し、天災に屈しない為政者の姿を示すのが常道である。しかし、秀吉は真逆の選択をしたのである。

破壊を選択した心理的背景

秀吉が修復ではなく破壊を命じた背景には、彼の特異な心理状態があったと考えられる。無様に壊れた大仏の姿をそのまま天下に晒し続けることは、自身の権威の失墜を永続的に見せつけることに他ならなかった。中途半端に修復したとしても、一度壊れたという事実は消せない。完璧主義者であり、自らのイメージを極度に重視した秀吉にとって、それは耐え難い屈辱であった。傷ついた権威の象徴を人々の記憶から消し去るためには、一度完全に破壊し、無に帰すことこそが最善の策だと判断したのである。

この決断は、豊臣政権にとって重大な転換点となった。それまで政権の繁栄と永続性を象徴するはずだった方広寺大仏は、この瞬間、むしろ政権の脆さと未来の「滅亡を予感させる象徴」へと意味を反転させてしまった 12 。諸大名や民衆の心には、天さえも見放したかのような豊臣家の将来に対する、拭いがたい不安が植え付けられた。

秀吉の「解体命令」は、単なる感情的な反応に留まらず、より深い意味合いを持っていた。秀吉は、城郭や軍事力といった物理的な「ハードパワー」だけでなく、大仏建立、黄金の茶室、盛大な茶会といった文化事業、すなわち「ソフトパワー」を巧みに利用して人心を掌握し、自身の支配の正当性を演出しようとしてきた。方広寺大仏は、そのソフトパワー戦略の集大成であった。しかし、その象徴が天災によっていとも簡単に破壊された時、秀吉はそれを粘り強く修復し、困難に立ち向かう姿勢を示すという選択肢を取らなかった。代わりに「破壊」を選んだという事実は、このソフトパワー戦略が脆くも崩れ去ったことへの絶望と、もはやそのような虚構を維持する気力さえも失いかけていた、晩年の秀吉の精神的な衰弱を物語っている。この時点で、豊臣政権は理念的な輝きを失い、よりむき出しの「ハードパワー」に依存せざるを得ない状況へと追い込まれていった。そしてその矛先は、再び朝鮮半島へと向けられることになる。

第四章:1597年、政権の焦点 ― 「慶長の役」と方広寺の停滞

「再建企図」の実態

利用者様がご関心をお寄せの「方広寺再建企図(1597)」という事象について、史実を詳細に検証すると、一つの明確な結論に至る。それは、慶長2年(1597年)において、地震で大破した方広寺大仏の本格的な再建計画は、具体的に企図されることも、進展することもなかった、という事実である。秀吉の関心と政権のリソースは、国内の災害復旧ではなく、全く別の方向、すなわち対外戦争に向けられていた。

慶長の役の開始と政権の優先順位

慶長2年(1597年)正月、豊臣秀吉は、一度は講和交渉に入っていた朝鮮半島への再出兵を断行する 13 。これが「慶長の役」(第二次朝鮮出兵)である。加藤清正、小西行長らを先鋒とし、十数万にも及ぶ大軍が再び海を渡った 13 。この大規模な軍事行動には、政権の莫大な財源と人的資源、そして西国を中心とする諸大名の軍事力が総動員された 15

この国策の決定は、当時の豊臣政権の優先順位を如実に物語っている。地震で被災した京の都や伏見城の復興、そして権威の象徴であった大仏の再建よりも、対外的な武威の誇示が優先されたのである。この戦争は、豊臣政権、特に遠征の主力を担った西国大名に深刻な財政的負担を強いた 16 。一方で、徳川家康は「関東の統治に手一杯」との名目で大規模な派兵を免れ、着実にその勢力を温存していた 18 。この非対称な負担構造は、豊臣恩顧の大名の力を削ぎ、相対的に徳川の力を増大させる結果を招き、後の関ヶ原の戦いへと繋がる国内のパワーバランスの変化を加速させた。

方広寺周辺での異様な光景 ― 耳塚の築造

大仏の再建が完全に停滞する一方で、1597年の方広寺周辺では、全く別の、そして極めて異様な事業が進行していた。それは「耳塚(鼻塚)」の築造である。

慶長の役において、秀吉は諸将に対し、戦功の証として討ち取った朝鮮・明の兵士の鼻や耳を切り取り、塩漬けにして日本へ送るよう命じた 19 。おびただしい数の耳や鼻が樽に詰められて京都に送られてくると、秀吉はこれを方広寺大仏殿のすぐ西側に埋め、その上に塚を築かせたのである 14 。秀吉は、臨済宗の僧・西笑承兌を導師として大法要を執り行い、これを「大明・朝鮮の戦死者を慈悲の心で弔う供養」であると称した 19 。しかし、その実態は、自らの軍事行動の成果を誇示し、天下に武威を示すための、残虐極まりない戦勝記念碑(トロフィー)であった。

この事実は、1597年という年における「方広寺」をめぐる歴史的文脈を、根底から再定義するものである。この年、方広寺で起きていたのは「再建の企図」ではなかった。むしろ、それは「聖なるものの不在」と「俗なるもの(戦争の残虐性)の現出」という、強烈な対比によって特徴づけられる。国家鎮護と万民救済という慈悲の象徴であるはずの大仏が瓦礫と化したその傍らで、戦争の最も非人間的な側面を象徴する事業が、国家的な威信をかけて進められていたのである。このグロテスクな対比は、慶長伏見地震という天災を経て、秀吉政権の統治理念が「仏法による泰平」という建前から、むき出しの「武力による支配」へと、その本質を先鋭化させていった過程を象徴している。したがって、「1597年の再建企図」という問いに対する最も的確な回答は、「再建は企図されず、代わりに戦争の記念碑が建てられた」ということになる。これは、豊臣政権末期の暗い実像を浮き彫りにする、重要な歴史的局面なのである。

第五章:迷走する再興計画 ― 善光寺如来の遷座と秀吉の死

慶長3年(1598年):奇策の実行

慶長の役が泥沼化し、自身の健康状態にも著しい衰えが見え始めた慶長3年(1598年)、豊臣秀吉は突如として常軌を逸した行動に出る。大破した大仏の再建が一向に進まない中、その身代わりとして、信濃の名刹・善光寺の本尊である阿弥陀三尊像(善光寺如来)を京都へ運び、方広寺に安置するよう厳命したのである 3

善光寺如来は、古来より霊験あらたかな秘仏として、全国の民衆から篤い信仰を集めていた。秀吉は、その絶大な宗教的権威を利用することで、失墜した自らの権威を補おうと考えたのかもしれない。しかし、その結果として現出した光景は、異様というほかなかった。かつて高さ18mの巨大な大仏が鎮座するはずだった壮大な蓮華座の上に、わずか一尺五寸(約45cm)の小さな如来像がぽつんと祀られたのである 8 。この圧倒的なアンバランスさは、もはや壮大な国家プロジェクトを完遂する気力も体力も失い、場当たり的な奇策に頼らざるを得なくなった天下人の焦りと迷走を、誰の目にも明らかにした。

祟りの噂と死

ところが、この強引な遷座は、秀吉に救いをもたらすどころか、さらなる不幸を呼び込むことになる。善光寺如来が京都に到着した直後から、秀吉の病状は急速に悪化していった。すると、京の都では「これは如来の祟りに違いない」という噂が、まことしやかに囁かれ始めたのである 6

全盛期の秀吉であれば、そのような噂を力でねじ伏せることも可能だったかもしれない。しかし、死期が迫り、心身ともに衰弱しきっていた彼には、もはやその力は残されていなかった。超自然的な「祟り」や「噂」といった非合理的な言説にさえ、政権が翻弄されるほどに弱体化していたのである。この一連の騒動は、秀吉個人の迷信や衰弱を示すだけでなく、豊臣政権そのものが求心力を失い、人々の不安や不満をコントロールできなくなっていた末期的な状況を露呈していた。死を悟った秀吉は、ついに祟りを恐れ、死の前日になって善光寺如来を信濃に返還させたという 3

慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉は、再建されることのなかった大仏の完成を見ることなく、再建中の伏見城にてその波乱の生涯を閉じた。

本尊不在の開眼供養

秀吉の死からわずか4日後の8月22日、豊臣家は極めて異様な儀式を強行する。それは、方広寺大仏殿における「大仏開眼供養」であった 3 。しかし、そこに供養されるべき本尊の姿はなかった。大仏は破壊されたままであり、身代わりであった善光寺如来もすでに信濃へ返されている。人々は、空っぽの台座に向かって、さもそこに大仏が存在するかのように儀式を執り行ったのである。これは、秀吉の遺言を形だけでも果たそうとする、残された者たちの必死の体面作りに他ならなかった。しかし、その空虚な儀式は、壮大なプロジェクトが完全に破綻したことを天下に知らしめる結果となり、豊臣家の未来に暗い影を落とした。

第六章:結論 ― 残された課題と豊臣家の未来への暗雲

秀吉の死と頓挫した計画

豊臣秀吉の死によって、彼の権威の象徴となるはずだった方広寺大仏の再建計画は、完全に頓挫した。初代大仏は天災によって大破し、その後の再興計画は迷走の末に失敗に終わった。この壮大なプロジェクトは、結果として豊臣政権の栄光とその晩年の混乱、そして衰退の両方を象徴する巨大なモニュメントとして、歴史に刻まれることとなった。

秀吉の遺志は、幼い跡継ぎである豊臣秀頼とその母・淀殿に託された。彼らは、豊臣家の威信を回復すべく、慶長8年(1603年)から二代目となる大仏の再建事業に着手する。初代の失敗を教訓とし、今度は地震に強い銅製での鋳造が試みられた 4 。しかし、豊臣家の不運はまだ終わらなかった。慶長7年(1602年)とも慶長8年(1603年)ともいわれるが、大仏鋳造中の職人の不手際から失火。火は瞬く間に燃え広がり、再建途上の大仏はおろか、秀吉が心血を注いで造営した壮大な大仏殿までもが一夜にして炎上、焼失してしまったのである 4 。この悲報に接した醍醐寺の義演は、その日記に「太閤(秀吉)数年の御労功ほどなく滅しおわんぬ。(秀吉公の数年にわたるご苦労も、あっけなく水の泡となってしまった)」と記し、その無念さを伝えている 20

徳川家康の深謀

相次ぐ災厄に打ちひしがれる豊臣家に対し、意外な人物が救いの手を差し伸べる。関ヶ原の戦いを経て、天下の実権を掌握しつつあった徳川家康である。家康は、豊臣家に協力を申し出る形で、三代目となる大仏および大仏殿の再建を強く勧めた 4

しかし、これは決して善意からの申し出ではなかった。その裏には、豊臣家を財政的に追い詰めるための巧妙な政治的策略が隠されていた。関ヶ原の戦後処理により、豊臣家の所領(蔵入地)はかつての220万石から約65万石へと大幅に削減されていた 22 。そのような状況下で、再び巨大な寺社建立という国家規模の公共事業を行えば、豊臣家が蓄えてきた莫大な財力が枯渇することは火を見るより明らかであった。家康の真の狙いは、豊臣家から経済的な力を奪い、その勢力を完全に削ぐことにあったのである 4

方広寺鐘銘事件、そして滅亡へ

家康の深謀を見抜けなかったのか、あるいは断ることのできない政治的圧力があったのか、豊臣家はこの勧めを受け入れ、莫大な費用を投じて大仏と大仏殿の再建を成し遂げる。そして慶長19年(1614年)、事業の最終段階で奉納された梵鐘が、豊臣家滅亡の引き金を引くことになる。

その鐘に刻まれた銘文の中にあった「国家安康」「君臣豊楽」という二つの句が、家康によって問題視された。「国家安康」は「家康」の名を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を祈るもので、徳川への呪詛が込められている、という理不尽な嫌疑がかけられたのである。これが、大坂の陣の直接的な口実となった、世に言う「方広寺鐘銘事件」である 8

歴史の皮肉としか言いようがない。豊臣秀吉が、自らの権威を永遠のものとするために始めた方広寺の事業が、時を経て、結果的に豊臣家そのものを滅亡へと導く口実を与えることになったのである。

方広寺の創建から鐘銘事件に至る一連のプロセスは、まさに「豊臣家の栄華と没落の縮図」そのものである。権威の絶頂期に、その永続化を願って建立が開始され、天災によってその権威の象徴が脆くも崩れ去り、政権の翳りが見え始める。秀吉の死後、跡を継いだ秀頼による再建の試みも災厄によって頓挫し、最後には政敵である家康の策略によって進められた再建事業が、豊臣家の財力を枯渇させ、滅亡の口実として利用される。一つの寺院の歴史を追うことは、戦国という一つの時代の終焉と、徳川による新たな泰平の世の確立を象徴する、壮大な叙事詩を読み解くことに他ならない。

引用文献

  1. 方広寺の概要と歴史 方広寺は日本で建てられた建築物の中でも最も壮観な建物のひとつがあっ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554749.pdf
  2. 方広寺/豊臣秀吉が大仏建立のために創建した寺院 - カイケンの旅日記 https://kazahana.holy.jp/hideyoshi/hokoji.html
  3. 方広寺大仏殿跡 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/108houkouji.pdf
  4. 方広寺鐘銘事件/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97921/
  5. 方広寺大仏殿の復元 - 大林組 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/057_IDEA.pdf
  6. 京都:方広寺~豊臣秀吉の京の大仏~ https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/hokoji/hokoji.html
  7. 1596 年文禄伏見地震に関する地震像の検討 https://ritsumei.repo.nii.ac.jp/record/16055/files/hdsk_23_nishiyama.pdf
  8. 奈良より大きかった!幻の「京都大仏」の悲劇。豊臣秀吉の死は「仏像遷座の祟り」なのか? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/102274/
  9. 慶長伏見地震 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9C%B0%E9%9C%87
  10. 『言経卿記』に見る文禄五年伏見地震での震災対応 -特に「和歌を押す」行為について- http://www.histeq.jp/kaishi_21/P153-164.pdf
  11. 寛文 2 年 (1662) 近江・若狭地震における京都での被害と震災対応 https://r-dmuch.jp/jp/results/disaster/dl_files/5go/5_4.pdf
  12. 天正地震 http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC16%EF%BC%88%E7%AC%AC35%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E4%BB%8A%E3%81%93%E3%81%9D%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E7%81%BD%E5%AE%B3%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%80%8F%EF%BC%88%E4%B8%AD%EF%BC%89.pdf
  13. 朝鮮出兵|宇土市公式ウェブサイト https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/4/32.html
  14. 豊臣秀吉の朝鮮侵略/壬辰・丁酉の倭乱 - 世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0801-111.html
  15. 調査・研究えひめの歴史文化モノ語り - 愛媛県歴史文化博物館 https://www.i-rekihaku.jp/research/monogatari/article/008.html
  16. 文禄・慶長の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
  17. 「文禄の役」「慶長の役」とは? 朝鮮出兵の背景や結果について知ろう【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/603246
  18. 第38回 文禄・慶長の役と秀吉の政策 - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp38.html
  19. 文禄・慶長の役|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=495
  20. 方広寺(ホウコウジ)とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA
  21. 方広寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA
  22. 方広寺鐘銘事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6